宵月桜舞

雪原歌乃

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第二章 恋情と真実

第三節

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 午後六時過ぎ、南條は約束通り、美咲を迎えに行くために車を走らせる。彼女の家までは、アパートから車で十分ほど。歩いてでも充分に行ける距離にある。
 藍田家の前は何度か通ったことがある。しかし、中に入ったのは、先日、貴雄に招かれた時が初めてで、足を踏み入れたとたん、南條のアパートはもちろん、実家とも比較してしまった。
 ちなみに実家は、築三十年は優に越している木造の平屋建てで、周りに新しい家が建てられたり、古くなった家をリフォームされている中で非常に浮いている。たまに実家に戻った時などは、母親に、そろそろ建て替えるべきではと勧めるのだが、母親はいっこうに聴く耳を持たない。
(親父との想い出を壊したくないんだろうな、きっと……)
 ハンドルを握りながら、十五歳の時に急逝した父親を思い浮かべる。
 厳しさと優しさを兼ね備え、心から尊敬していた父親。家を出た三日後、物言わぬ姿で家に帰って来た時は、呆然とその場に立ち尽くしていたのを憶えている。母親に至っては、冷たくなった父親の亡骸に縋り付き、幼子のように声を上げて泣いていた。
(貴雄さんと、誰かもう一人が遺体を運んできた……)
 藍田貴雄のことははっきりと記憶しているのに、一緒にいた〈もう一人の存在〉が何故か想い出せない。ただ、申し訳ない、と声を震わせて嗚咽を漏らしていた貴雄に対し、〈もう一人の存在〉は、冷ややかに彼らを傍観していたのは確かだ。
(あれは、誰だったんだ……?)
 想い出そうにも、まるで、そこだけに靄がかかったかのように全く見えない。とはいえ、あまり深く考えることもなかったので、今までずっと忘れていたのだが。それが、どうして今頃になって気になり始めたのかが不思議だ。
 気になる。しかし、忘れたままの方がいい。ふたつの感情が南條の中で交錯し合う。
 そのうち、美咲の家が見えてきた。南條は徐々にスピードを落とし、ハザードランプを点滅させて路肩に車を停めた。そして、周りを確認してからドアを開ける。
 改めて、いい場所に家が建っていると思う。しかも、その中でも藍田家は際立っている。藍田本家に何度か行ったことがあった父親に、本家は武家屋敷と言っても過言ではないと聴いていたから、それに比べたら、とてもささやかな家なのかもしれないが。
(そんなことを羨んでも仕方ないが……)
 南條は苦笑いして、インターホンのボタンを押す。ピンポーン、と鳴ると、ほどなくして、『はーい!』と、くぐもった女性の声がスピーカー越しに聴こえてきた。
「南條です。美咲さん、いらっしゃいますか?」
 声の感じから、母親の理美だろうと察し、訊ねてみる。
『はいはい、ちょっと待っててちょうだいなー』
 やはり、理美だったらしい。底抜けに明るい声音に口元を綻ばせていると、ドアの向こうからパタパタと音がし、ゆっくりとドアが開かれた。
「和海君、いらっしゃい! ごめんなさい、まだあの子ったら……」
 そう言うなり、理美は今度は階段に向かって、「美咲ー!」と声を張り上げる。
 すると、慌ただしく階段を降りる足音が耳に飛び込んできた。
「ごめんなさい! お待たせしました!」
 別に、待たされたという気持ちは南條にはなかったのだが、理美は、「全くよ!」と美咲を窘める。
「あんたはいつも、ギリギリになってからバタバタするんだから! もうちょっと余裕を持って行動出来ないの?」
「分かってるってば! てか、お母さんが説教してる間に時間が過ぎちゃう! もう行くからねっ!」
 美咲も負けじと理美を撥ね付けると、そそくさと靴に足を通した。
「すみません。なるべく遅くならないようにしますから」
「いいのよ気にしないで」
 遠慮がちにする南條に対し、理美は呑気にケラケラと笑っている。さっきまで、美咲を叱っていたのが嘘のような変貌ぶりだ。
「ウチは和海君を全面的に信頼してるんだから。でも、和海君だったら、ねえ」
 うふふ、と含み笑いする理美に、南條は怪訝に思いながら首を傾げる。
 美咲に至っては、「お母さん、大丈夫?」と冷ややかな突っ込みを入れている。
「ま、とにかく行ってらっしゃい。せめて事故だけは充分に気を付けて!」
「分かりました。行って来ます」
「行ってきまーす」
 南條と美咲はほぼ同時に挨拶すると、ドアを開けて車へと向かった。
「わあ、車運転出来たんですねえ」
 ロックを解除して助手席に乗せるなり、美咲は興味深げに車内を見回している。
「運転出来ないと何かと不便だからな」
 美咲の行動に口元を歪めながら、南條はキーを差し込んでエンジンをかけた。
「さて、行くぞ? 順調にいけば二十分ちょっとで着くと思うが」
「――なんか……、ドキドキしますね……」
「そうか?」
「――だって……」
 美咲は少しばかり口籠もり、囁くような小声で、「初めて、だから」と口にした。
「初めて……?」
「――その……、お父さん以外の男の人と二人っきりで車に乗るのが、です……」
 あまりにモジモジされるから、さすがの南條も、年甲斐もなく照れ臭くなった。異性を助手席に乗せたことが全くないわけではないが、ここまで新鮮な反応をされたことは一度もなかったから、どうしたものかと戸惑ってしまう。
「暑いな」
 暑いどころか、少し肌寒いぐらいなのに、思わず口走ってしまった。車内には、何とも気まずい空気が漂い続ける。
「ちょっと我慢すれば緊張から解放される。これから行く家の人達は、俺なんかと違って賑やかで楽しいから」
 自分を貶めることでしか、この空気を払拭出来ないのが非常に情けない。南條は小さく溜め息を吐くと、ゆっくりと車を発進させた。

 ◆◇◆◇

 樋口家に着いたのは午後六時五十分。約束の七時よりも十分早い到着だった。
 南條は駐車スペースにバックで車を入れ、停めてから、美咲に、「着いたぞ」と声をかけた。
 美咲は黙って頷き、ドアを開けて車から降りる。
 それを見届けてから、南條はロックをかけて、美咲と並んで玄関へと足を運んだ。
 美咲の家ほどではないが、樋口の家もなかなかのものだと思う。どちらの家にも言えるが、三人で暮らすには広過ぎるのでは、とよけいなこともついつい考えてしまう。
 チャイムを鳴らすと、待たずしてドアが勢いよく開かれた。
「おう、待ってたぞ!」
 出迎えてくれたのは、朝に電話をかけてきた張本人の樋口だった。
「こんばんは。彼女、連れて来ましたよ」
 南條が促すと、美咲は遠慮がちにひょっこり顔を出し、頭を下げる。怯えているように見えるのは気のせいだろうか。
「なんと! ほんとに連れて来たかーっ! でかしたぞ南條!」
 至近距離で声を張り上げられ、南條は顔をしかめてわずかに仰け反る。何気なく美咲に視線を向けると、南條が心配になるほどに顔を硬直させている。
「――樋口さん、彼女が怯えてます……」
 南條は眉間に皺を寄せたまま、静かに樋口を窘める。だが、当の樋口は、「すまんすまん!」と軽く受け流してしまった。
「それにしてもよく来た! しっかしかなりの別嬪だあ! うん、これなら江梨子も気に入る! 合格!」
 何が合格ですか? という突っ込みは、心の中に留めた。口に出そうと思えば出せるが、どうせまた、笑って誤魔化されるのがオチだ。
「ま、とにかく入れ。瀧村は先に来てチビの相手をしてくれてる。だいぶ振り回されてたようだから、そろそろヘロヘロになってる頃だな」
 愉快そうに話している様子を見る限り、瀧村のことは全く心配していない。むしろ、疲れ果てた姿を眺めて楽しんでいるとしか思えない。確かに、瀧村が相手だとサドに変貌するのが樋口だから仕方ないのかもしれない。
「少しは労わってやって下さい」
 やんわりと注意して、南條と美咲はそれぞれ靴を脱ぎ、家の中へと足を踏み入れた。
 樋口の先導でリビングに入ると、樋口は真っ先に、「ママ!」と呼ぶ。
 『ママ』と呼ばれた張本人――江梨子はキッチンに立っていたが、声を聴くなり、足早にこちらに近付いてきた。そして、大袈裟なまでに目を爛々と輝かせる。
「キャアーッ! もしかしてもしかしてこの子が美咲ちゃん? ねえねえっ?」
 夫も夫なら妻も妻だ、と呆れつつ、南條は頷いた。
「そうですよ。貴重な時間を割いて来てくれたんですから、彼女には感謝して下さい」
「そんなの当然じゃない!」
 淡々とした口調の南條とは対照的に、江梨子は異様なまでにテンションを上げている。夫の樋口同様、いや、樋口以上に始末が悪そうだ。
 再び、美咲が気になってチラリと一瞥する。やはり、どう対処していいのかといった感じで、呆然と江梨子を見つめていた。
 一方、江梨子はそんな美咲にお構いなしに、「いらっしゃーい!」と強引に両手を取った。
「私、樋口江梨子っていいます。こっちは旦那の泰明。何のお構いも出来ないけどゆっくりしてってねえ」
 江梨子は自分と樋口の紹介をするなり、リビングの片隅で玩具遊びに没頭している自分の息子――玲太れいたと、付き合わされている瀧村雅通まさみちに声をかけた。
「ほら、あなた達もこっち来て挨拶なさいな!」
 江梨子に呼ばれ、玲太は即座に立ち上がって駆け寄って来たが、雅通は面倒臭そうに腰を上げる。表情を見ると明らかにグッタリしているから、樋口の言っていた通り、散々玲太に振り回されたのだろう。玲太は元々、雅通のことを同等、もしくは下に見ているところがあるから、仕方ないとしか言いようがない。この光景を目の当たりにするたび、南條は、この親にしてこの子あり、と思わずにはいられなくなる。
 そして、その玲太は、南條にはとても礼儀正しい。今日で満六歳になったのだが、南條の前に立つなり、「こんばんは、おにいちゃん」と深々と頭を下げる。
 子供は得意とは言い難い南條でも、可愛らしく挨拶されると自然と顔が綻ぶ。
「こんばんは」
 彼特有のバリトンボイスで挨拶し、頭にそっと手を載せると、玲太は二カッと白い歯を見せる。そして、今度はそのままの表情で美咲に視線を移した。
「こんばんは」
 玲太に挨拶された美咲は、少し面食らった様子だった。しかし、すぐに小さく笑みを浮かべ、「こんばんは」とはにかんだように返す。
「はい、次はあんた!」
 玲太の挨拶が済むと、江梨子は雅通の背中を強く叩いて促す。
 当の雅通は戸惑っていたようだったが、言われるがまま、「どうも」と頭を下げる。
「瀧村雅通です。よろしく」
「あ、藍田美咲です」
 互いに頭を下げる様が、まるで見合いのようだ。考えてみたら、雅通は二十歳になったばかりで、美咲との年齢差はそれほどない。と言っても、雅通は年増好きだから何も心配する要素はないはずなのに、それでも、心中穏やかでいられない。
(ガキじゃあるまいし……)
 雅通相手に軽く嫉妬しているのに気付いたとたん、南條は思わず微苦笑を浮かべてしまった。
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