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第七話 素直になりたい
Act.2-01
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この日は何事もなく無事に一日が終わった。いつものように更衣室に入り、職場用のスーツから通勤着に着替える。
更衣室の中は、女達の黄色い声が飛び交っていた。涼香も話しかけられれば適当に合わせるものの、彼女達と一緒になって上司の悪口は言いたくなかったから、雲行きが怪しくなると、曖昧に笑って取り繕った。
そこへ、彼女達が忌み嫌う〈お局様〉が入って来た。とたんに、煩かった室内が一気に静まり返るものだから、どうしてこうも態度があからさまなのだろうと心底呆れた。
お局様――夕純は、彼女達のことなど眼中にない。陰口を言われていたことは察しただろうに、そんなことは全く気にする様子もなく、自分のロッカーの前までスタスタと進み、黙々と着替える。
その間、煩かった彼女達はそそくさと着替え、蜘蛛の子を散らすようにゾロゾロと出て行った。
更衣室の中には、涼香と夕純だけが残された。初めて夕純と飲みに行った日と全く同じ状況だ。
ただ、あの頃と違い、今は夕純とふたりきりになったことに安心感を覚えている。煩い連中がいては、夕純とゆっくり話が出来ない。それに、うっかり彼女達の前で男の話をしようものなら、興味本位で喰らい付いてくる。考えただけで鬱陶しいし、イライラも増す。
「私のウチに来る?」
着替え終わった夕純が、涼香の前に立っていた。
涼香はロッカーの鍵を閉め、バッグを肩にかけた。
「夕純さんのウチに、ですか?」
「そ」
「別に外でも構いませんけど……」
「どうして? 私のトコに来るのは嫌なの?」
「いえ、そうじゃなくて、迷惑じゃないですか? ご家族とか……」
「同居人なんていないわよ」
夕純はケラケラと笑った。
「私は就職してからずっと、アパートで一人暮らししてるもの。今もこの通りのひとり身だし、全然気にすることなんてないわよ」
「はあ……」
この様子だと、何としても涼香を夕純のアパートに連れて行きたいらしい。
結局、涼香は夕純の提案通り、アパートにお邪魔することにした。そう告げると、夕純は満面の笑みを浮かべた。
「それじゃ、行きましょ。ついでにちょっと、途中でお酒でも買っちゃう?」
〈お酒〉というキーワードに、涼香はつい反応してしまう。夕純も分かっているだろうし、夕純自身、飲みたいと思っているのだろう。
「適当に」
涼香は短く答えた。
夕純はやはり、相変わらずニコニコしていた。
◆◇◆◇
夕純の住まいは会社から徒歩十五分ほどの場所にあった。涼香のアパートもほぼ同じ距離だが、方向が全く違う。だから、夕純と一緒に帰ることは一度もなかった。
「ちょっと散らかってるけど、勘弁してね」
そう前置きしてから、涼香を招き入れてくれる。夕純が先に立ち、キッチンを経由してリビングに入ると、電気が灯される。暗闇に包まれていた室内が、いっぺんに明るくなった。
改めて、部屋の中をグルリと見回す。一人暮らしにしては広い。というより、2LDKと言っていたから、むしろひとりよりもふたりで暮らすのにちょうどいい。
「無駄に広いでしょ?」
涼香の心中を察したのか、夕純は肩を竦めて苦笑いする。
涼香は、「そんなことはないです」と内心慌てて取り繕ったものの、心の中を覗かれて気まずい気分だった。
だが、そんな涼香に対し、夕純は気分を害した様子はない。むしろ、楽しそうにケラケラと笑っている。
「別に気を遣わなくていいのよ。だって、当の本人が無駄だって思ってるんだから」
「誰かと住む予定とかあるんですか?」
つい、よけいなことを訊いてしまった。しまった、と思ったが、夕純はやはり、「ないない!」と、笑いながら両手と首を同時に振った。
「ちょうどいい物件がここしかなかったってだけよ。ま、誰かが一緒に住んでくれたらいいんだけどねえ。例えば涼香とか?」
「――いや、私は他人と住むのは苦手ですから……」
また、馬鹿正直に答えてしまう涼香。何故、夕純が相手だとこうもボロが出てしまうのか。
そして、墓穴を掘り続ける涼香が夕純には楽しくて仕方ないらしい。「涼香ってば面白い子ねえ!」なんて言いながら、今度は腹を抱えて笑い出した。
「だから好きなのよ。私にも全然遠慮なしなんだもの」
「――すいません……」
「謝らなくっていいってば」
「はあ……」
「って、立ち話も何だったわね。ほら座って! 私は料理がらかっきしだから、なーんもおもてなしは出来ないけど、お酒とつまめるものはたくさん買ったんだから、これで存分に飲みましょ?」
そう言って、夕純は自分より背の高い涼香の後ろに回り、肩を掴んでその場に座らせる。それから、夕純も涼香の左斜めに移動して腰を下ろした。
「まずは飲んでリラックスよ、リラックス」
夕純はビニール袋からビール缶を一本取り出し、それを涼香に渡してきた。
涼香は無言で会釈して受け取り、プルタブを上げた。
夕純も涼香に続いて自分用にビールを取り、同じように開ける。
「それじゃ、かんぱーい!」
ふたりきりの空間に、夕純の高い声が無駄に響き渡る。涼香は曖昧に微笑を浮かべながら、夕純の缶に自分の持っているそれをぶつけた。
「ああ、染みるわあ……」
ビール缶から唇を離した夕純が、至福の表情を見せる。よほど喉が渇いていたんだな、などと思いながら、涼香はちびちびとビールを飲み続けた。
更衣室の中は、女達の黄色い声が飛び交っていた。涼香も話しかけられれば適当に合わせるものの、彼女達と一緒になって上司の悪口は言いたくなかったから、雲行きが怪しくなると、曖昧に笑って取り繕った。
そこへ、彼女達が忌み嫌う〈お局様〉が入って来た。とたんに、煩かった室内が一気に静まり返るものだから、どうしてこうも態度があからさまなのだろうと心底呆れた。
お局様――夕純は、彼女達のことなど眼中にない。陰口を言われていたことは察しただろうに、そんなことは全く気にする様子もなく、自分のロッカーの前までスタスタと進み、黙々と着替える。
その間、煩かった彼女達はそそくさと着替え、蜘蛛の子を散らすようにゾロゾロと出て行った。
更衣室の中には、涼香と夕純だけが残された。初めて夕純と飲みに行った日と全く同じ状況だ。
ただ、あの頃と違い、今は夕純とふたりきりになったことに安心感を覚えている。煩い連中がいては、夕純とゆっくり話が出来ない。それに、うっかり彼女達の前で男の話をしようものなら、興味本位で喰らい付いてくる。考えただけで鬱陶しいし、イライラも増す。
「私のウチに来る?」
着替え終わった夕純が、涼香の前に立っていた。
涼香はロッカーの鍵を閉め、バッグを肩にかけた。
「夕純さんのウチに、ですか?」
「そ」
「別に外でも構いませんけど……」
「どうして? 私のトコに来るのは嫌なの?」
「いえ、そうじゃなくて、迷惑じゃないですか? ご家族とか……」
「同居人なんていないわよ」
夕純はケラケラと笑った。
「私は就職してからずっと、アパートで一人暮らししてるもの。今もこの通りのひとり身だし、全然気にすることなんてないわよ」
「はあ……」
この様子だと、何としても涼香を夕純のアパートに連れて行きたいらしい。
結局、涼香は夕純の提案通り、アパートにお邪魔することにした。そう告げると、夕純は満面の笑みを浮かべた。
「それじゃ、行きましょ。ついでにちょっと、途中でお酒でも買っちゃう?」
〈お酒〉というキーワードに、涼香はつい反応してしまう。夕純も分かっているだろうし、夕純自身、飲みたいと思っているのだろう。
「適当に」
涼香は短く答えた。
夕純はやはり、相変わらずニコニコしていた。
◆◇◆◇
夕純の住まいは会社から徒歩十五分ほどの場所にあった。涼香のアパートもほぼ同じ距離だが、方向が全く違う。だから、夕純と一緒に帰ることは一度もなかった。
「ちょっと散らかってるけど、勘弁してね」
そう前置きしてから、涼香を招き入れてくれる。夕純が先に立ち、キッチンを経由してリビングに入ると、電気が灯される。暗闇に包まれていた室内が、いっぺんに明るくなった。
改めて、部屋の中をグルリと見回す。一人暮らしにしては広い。というより、2LDKと言っていたから、むしろひとりよりもふたりで暮らすのにちょうどいい。
「無駄に広いでしょ?」
涼香の心中を察したのか、夕純は肩を竦めて苦笑いする。
涼香は、「そんなことはないです」と内心慌てて取り繕ったものの、心の中を覗かれて気まずい気分だった。
だが、そんな涼香に対し、夕純は気分を害した様子はない。むしろ、楽しそうにケラケラと笑っている。
「別に気を遣わなくていいのよ。だって、当の本人が無駄だって思ってるんだから」
「誰かと住む予定とかあるんですか?」
つい、よけいなことを訊いてしまった。しまった、と思ったが、夕純はやはり、「ないない!」と、笑いながら両手と首を同時に振った。
「ちょうどいい物件がここしかなかったってだけよ。ま、誰かが一緒に住んでくれたらいいんだけどねえ。例えば涼香とか?」
「――いや、私は他人と住むのは苦手ですから……」
また、馬鹿正直に答えてしまう涼香。何故、夕純が相手だとこうもボロが出てしまうのか。
そして、墓穴を掘り続ける涼香が夕純には楽しくて仕方ないらしい。「涼香ってば面白い子ねえ!」なんて言いながら、今度は腹を抱えて笑い出した。
「だから好きなのよ。私にも全然遠慮なしなんだもの」
「――すいません……」
「謝らなくっていいってば」
「はあ……」
「って、立ち話も何だったわね。ほら座って! 私は料理がらかっきしだから、なーんもおもてなしは出来ないけど、お酒とつまめるものはたくさん買ったんだから、これで存分に飲みましょ?」
そう言って、夕純は自分より背の高い涼香の後ろに回り、肩を掴んでその場に座らせる。それから、夕純も涼香の左斜めに移動して腰を下ろした。
「まずは飲んでリラックスよ、リラックス」
夕純はビニール袋からビール缶を一本取り出し、それを涼香に渡してきた。
涼香は無言で会釈して受け取り、プルタブを上げた。
夕純も涼香に続いて自分用にビールを取り、同じように開ける。
「それじゃ、かんぱーい!」
ふたりきりの空間に、夕純の高い声が無駄に響き渡る。涼香は曖昧に微笑を浮かべながら、夕純の缶に自分の持っているそれをぶつけた。
「ああ、染みるわあ……」
ビール缶から唇を離した夕純が、至福の表情を見せる。よほど喉が渇いていたんだな、などと思いながら、涼香はちびちびとビールを飲み続けた。
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