上 下
30 / 32
第七話 素直になりたい

Act.2-01

しおりを挟む
 この日は何事もなく無事に一日が終わった。いつものように更衣室に入り、職場用のスーツから通勤着に着替える。
 更衣室の中は、女達の黄色い声が飛び交っていた。涼香も話しかけられれば適当に合わせるものの、彼女達と一緒になって上司の悪口は言いたくなかったから、雲行きが怪しくなると、曖昧に笑って取り繕った。
 そこへ、彼女達が忌み嫌う〈お局様〉が入って来た。とたんに、煩かった室内が一気に静まり返るものだから、どうしてこうも態度があからさまなのだろうと心底呆れた。
 お局様――夕純は、彼女達のことなど眼中にない。陰口を言われていたことは察しただろうに、そんなことは全く気にする様子もなく、自分のロッカーの前までスタスタと進み、黙々と着替える。
 その間、煩かった彼女達はそそくさと着替え、蜘蛛の子を散らすようにゾロゾロと出て行った。
 更衣室の中には、涼香と夕純だけが残された。初めて夕純と飲みに行った日と全く同じ状況だ。
 ただ、あの頃と違い、今は夕純とふたりきりになったことに安心感を覚えている。煩い連中がいては、夕純とゆっくり話が出来ない。それに、うっかり彼女達の前で男の話をしようものなら、興味本位で喰らい付いてくる。考えただけで鬱陶しいし、イライラも増す。
「私のウチに来る?」
 着替え終わった夕純が、涼香の前に立っていた。
 涼香はロッカーの鍵を閉め、バッグを肩にかけた。
「夕純さんのウチに、ですか?」
「そ」
「別に外でも構いませんけど……」
「どうして? 私のトコに来るのは嫌なの?」
「いえ、そうじゃなくて、迷惑じゃないですか? ご家族とか……」
「同居人なんていないわよ」
 夕純はケラケラと笑った。
「私は就職してからずっと、アパートで一人暮らししてるもの。今もこの通りのひとり身だし、全然気にすることなんてないわよ」
「はあ……」
 この様子だと、何としても涼香を夕純のアパートに連れて行きたいらしい。
 結局、涼香は夕純の提案通り、アパートにお邪魔することにした。そう告げると、夕純は満面の笑みを浮かべた。
「それじゃ、行きましょ。ついでにちょっと、途中でお酒でも買っちゃう?」
 〈お酒〉というキーワードに、涼香はつい反応してしまう。夕純も分かっているだろうし、夕純自身、飲みたいと思っているのだろう。
「適当に」
 涼香は短く答えた。
 夕純はやはり、相変わらずニコニコしていた。

 ◆◇◆◇

 夕純の住まいは会社から徒歩十五分ほどの場所にあった。涼香のアパートもほぼ同じ距離だが、方向が全く違う。だから、夕純と一緒に帰ることは一度もなかった。
「ちょっと散らかってるけど、勘弁してね」
 そう前置きしてから、涼香を招き入れてくれる。夕純が先に立ち、キッチンを経由してリビングに入ると、電気が灯される。暗闇に包まれていた室内が、いっぺんに明るくなった。
 改めて、部屋の中をグルリと見回す。一人暮らしにしては広い。というより、2LDKと言っていたから、むしろひとりよりもふたりで暮らすのにちょうどいい。
「無駄に広いでしょ?」
 涼香の心中を察したのか、夕純は肩を竦めて苦笑いする。
 涼香は、「そんなことはないです」と内心慌てて取り繕ったものの、心の中を覗かれて気まずい気分だった。
 だが、そんな涼香に対し、夕純は気分を害した様子はない。むしろ、楽しそうにケラケラと笑っている。
「別に気を遣わなくていいのよ。だって、当の本人が無駄だって思ってるんだから」
「誰かと住む予定とかあるんですか?」
 つい、よけいなことを訊いてしまった。しまった、と思ったが、夕純はやはり、「ないない!」と、笑いながら両手と首を同時に振った。
「ちょうどいい物件がここしかなかったってだけよ。ま、誰かが一緒に住んでくれたらいいんだけどねえ。例えば涼香とか?」
「――いや、私は他人と住むのは苦手ですから……」
 また、馬鹿正直に答えてしまう涼香。何故、夕純が相手だとこうもボロが出てしまうのか。
 そして、墓穴を掘り続ける涼香が夕純には楽しくて仕方ないらしい。「涼香ってば面白い子ねえ!」なんて言いながら、今度は腹を抱えて笑い出した。
「だから好きなのよ。私にも全然遠慮なしなんだもの」
「――すいません……」
「謝らなくっていいってば」
「はあ……」
「って、立ち話も何だったわね。ほら座って! 私は料理がらかっきしだから、なーんもおもてなしは出来ないけど、お酒とつまめるものはたくさん買ったんだから、これで存分に飲みましょ?」
 そう言って、夕純は自分より背の高い涼香の後ろに回り、肩を掴んでその場に座らせる。それから、夕純も涼香の左斜めに移動して腰を下ろした。
「まずは飲んでリラックスよ、リラックス」
 夕純はビニール袋からビール缶を一本取り出し、それを涼香に渡してきた。
 涼香は無言で会釈して受け取り、プルタブを上げた。
 夕純も涼香に続いて自分用にビールを取り、同じように開ける。
「それじゃ、かんぱーい!」
 ふたりきりの空間に、夕純の高い声が無駄に響き渡る。涼香は曖昧に微笑を浮かべながら、夕純の缶に自分の持っているそれをぶつけた。
「ああ、染みるわあ……」
 ビール缶から唇を離した夕純が、至福の表情を見せる。よほど喉が渇いていたんだな、などと思いながら、涼香はちびちびとビールを飲み続けた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

雪花 ~四季の想い・第一幕~

雪原歌乃
青春
紫織はずっと、十歳も離れた幼なじみの宏樹に好意を寄せている。 だが、彼の弟・朋也が自分に恋愛感情を抱いていることに気付き、親友の涼香もまた……。 交錯する想いと想いが重なり合う日は? ※※※ 時代設定は1990年代となっております。そのため、現在と比べると違和感を覚えられる点が多々あるかと思います。ご了承下さいませ。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

秘密のキス

廣瀬純一
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

僕と俺だけの特権 〜僕たち3〜

知人さん
青春
想介が翔と空太と別れてから 数十年が経ち、幸せの家庭を築いて 子宝にも恵まれていたが、 子供の人格が同じ運命を辿る。

処理中です...