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第七話 強くなるために
Act.1
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涼香の気紛れに付き合って授業をサボってしまった日、紫織は再び熱を出してしまった。病み上がりで、しかも、上着なしで外に出ていたので無理もない。
放課後は涼香と一緒に帰りたいと思って待っていようとしたのだが、その涼香に先に帰るように促され、先に失礼したのはかえって正解だった。
家に着いたとたん、軽い目眩に襲われた。だが、母親に、授業を一時間分サボって外に出っ放しだったとはさすがに言えなかった。
結局、その日は、着替えてからすぐに布団に潜り、額に冷たいタオルを載せながら大人しくしていた。
母親は何も言わず、その代わり、眉根を寄せながら小さく溜め息を吐いた。心配と呆れ、その両方の気持ちの表れとして出た溜め息だったのだろう。
紫織もそれは重々承知していたので、いたたまれない思いだった。
(もうちょっと、丈夫にならないと……)
薄暗くなっている部屋の中で天井を見上げながら、紫織は思った。
不思議なもので、普段ならば全く気にしないようなことでも、いざ病気になると、本当につまらないことで悩んで落ち込み、さらによけいなことまで考えてしまう。
今、紫織の中では、授業をサボっていた時の涼香との会話を思い返していた。
表面的には明るく振る舞っていた涼香。しかし、紫織の話に耳を傾けていた間の心境は、紫織にも想像が付かないほど複雑なものではなかっただろうか。
涼香は口は悪いが、人一倍優しくて気を遣う。
高校に入学してからの付き合いだから、決して長いとは言えないが、それでも、涼香の本質は分かっている。分かっているからこそ、胸が酷く痛んだ。
(幸せって、いったい何なんだろ……?)
そんなことをふと考える。
幸せになりたい。しかし、たったひとりの幸せも、結局は誰かの犠牲の下で成り立つ。どんなに綺麗ごとを言ってみても、みんなが平等に、なんて決してあり得ないのだ。
自分の気持ちで正直でありたい。半面で、誰かを傷付けることを非常に恐れている。
「どうしたらいい……?」
紫織はポツリと訊ねた。
誰もいないこの部屋の中では、自分の問いかけに誰も答えてくれないと分かっていても、口に出さずにはいられなかった。それほど、紫織は孤独を感じていた。
不安で、怖くて、胸が押し潰されそうだった。
「――宏樹君……」
紫織は無意識に、宏樹の名を口にしていた。
朋也も涼香も、同じくらい好きだし大切に思っている。だが、それ以上に、紫織には宏樹の存在が大きい。
「顔……、見たいよ……」
紫織は呟くと、寝返りを打ってうつ伏せた。
額に載せられていたタオルは支えを失い、そのまま、敷布団の上にスルリと落ちていった。
◆◇◆◇
しっかりと睡眠を取ったお陰で、翌日の目覚めは快調だった。ぶり返した熱も、深夜のうちに引いたようだ。
紫織はベッドから這い出ると、パジャマの上からカーディガンを羽織り、辺りに漂う冷たい空気に身震いしながら部屋を出た。
階段を降り、洗面所に行くまでも、そのあまりの寒さに両手で自らの身体を抱き締める。
家の中なのだから、決して距離があるわけではないのに、それでも長く感じてしまう。
洗面所に着くと、真っ先に湯の出る蛇口を捻る。最初は冷水が出ていたが、時間が経つにつれ、そこから湯気が立ち昇る。
紫織はそれを確認すると、流れ出る湯に手を翳した。冷えかけていた手に、温かさがじんわりと染み渡ってゆく。
ある程度手を温めてから、今度は湯から手を離し、洗顔と歯磨きに取りかかった。湯は相変わらず出しっ放し。母親に見咎められたら、確実に叱られるであろうと思ったが、やはり、寒さにはどうしても勝てない。
紫織は見付からないことをひっそりと願いつつ、手早く作業を進めた。
◆◇◆◇
洗顔を済ませ、制服に着替えた紫織は、ゆったりとした足取りでリビングへと姿を現した。
「おはよう」
中へ入るなり、廊下の冷気とは対照的な暖かさと、母親の挨拶に迎えられた。
「おはよ」
紫織も母親に挨拶を返すと、定位置にちょこんと正座した。
「あんた、大丈夫なの?」
心配そうに訊ねてくる母親に、紫織は「うん」と頷く。
「熱は下がったし、だるくもないから」
「ふうん……。また帰って来たとたんに寝込む、なんてやめてちょうだいよ?」
「大丈夫です!」
紫織がきっぱりと言うと、母親は呆れ気味に苦笑しながら、一度キッチンへと引っ込んだ。
朝食を持って来てくれるのだろう。そう思っていたら、母親は本当に食事を運んできた。
ただ、そのメニューに、紫織は思わず顔をしかめてしまう。
「――またおかゆ……?」
うんざりとばかりにぼやく紫織に、母親は「当たり前でしょ」と答えた。
「まだ胃が本調子じゃないんだから、もう少しは我慢しなさい。どうしてもおかゆが嫌だって言うんなら、一日も早く治すことね」
母親の言うことはもっともである。
紫織は反論する言葉も見付からず、渋々とスプーンを手に取り、「いただきます」と挨拶してから、おかゆを掬って口に運んだ。分かってはいたが、どうにも味気ない。
別に梅干しも用意されていたので、それを入れて食べてみたが、あまり変わり映えはなかった。
(お母さんの言う通り、とっとと治さないとな……)
紫織は心底そう思い、口元を歪めながら美味しくないおかゆを黙々と片付けていった。
◆◇◆◇◆◇
昨日、無理をさせてしまったから、紫織はまた、学校を休んでしまうのではないかと思ったが、ちゃんと登校して来た。ただ、何となく顔色があまり良くないように感じる。
「大丈夫?」
紫織を見るなり、涼香は挨拶代わりに訊ねた。
紫織は「平気だよ」と苦笑した。
「もう、涼香もお母さんと同じことを言うんだね? ほんとに大丈夫だから心配しないで」
涼香の目には、どうにも強がっているようにしか映らない。いや、本当に本人は大丈夫だと思い込んでいるのかもしれないが。
(いきなり倒れたりしなきゃいいけどねえ)
そんなことを考えながら紫織を見つめていたら、彼女は怪訝そうに首を傾げながら、「どうしたの?」と訊いてきた。
「え? ああ、別に何でもない」
紫織が気がかりだから、と言いたかったが、言ったら言ったで今度は『しつこいよ!』と怒られそうな予感がしたので、涼香はそのまま言葉を飲み込んだ。
そんな涼香に、紫織は「変なの」と呟く。
涼香は返事をする代わりに肩を竦めた。
そのうち、始業五分前を知らせるチャイムが学校中に鳴り響いた。
さすがに今日は、昨日のようなサボりをする気は全くない。
「じゃあ、またあとでね」
涼香は小さく手を挙げながら言うと、ゆったりとした足取りで自分の席へと戻って行った。
放課後は涼香と一緒に帰りたいと思って待っていようとしたのだが、その涼香に先に帰るように促され、先に失礼したのはかえって正解だった。
家に着いたとたん、軽い目眩に襲われた。だが、母親に、授業を一時間分サボって外に出っ放しだったとはさすがに言えなかった。
結局、その日は、着替えてからすぐに布団に潜り、額に冷たいタオルを載せながら大人しくしていた。
母親は何も言わず、その代わり、眉根を寄せながら小さく溜め息を吐いた。心配と呆れ、その両方の気持ちの表れとして出た溜め息だったのだろう。
紫織もそれは重々承知していたので、いたたまれない思いだった。
(もうちょっと、丈夫にならないと……)
薄暗くなっている部屋の中で天井を見上げながら、紫織は思った。
不思議なもので、普段ならば全く気にしないようなことでも、いざ病気になると、本当につまらないことで悩んで落ち込み、さらによけいなことまで考えてしまう。
今、紫織の中では、授業をサボっていた時の涼香との会話を思い返していた。
表面的には明るく振る舞っていた涼香。しかし、紫織の話に耳を傾けていた間の心境は、紫織にも想像が付かないほど複雑なものではなかっただろうか。
涼香は口は悪いが、人一倍優しくて気を遣う。
高校に入学してからの付き合いだから、決して長いとは言えないが、それでも、涼香の本質は分かっている。分かっているからこそ、胸が酷く痛んだ。
(幸せって、いったい何なんだろ……?)
そんなことをふと考える。
幸せになりたい。しかし、たったひとりの幸せも、結局は誰かの犠牲の下で成り立つ。どんなに綺麗ごとを言ってみても、みんなが平等に、なんて決してあり得ないのだ。
自分の気持ちで正直でありたい。半面で、誰かを傷付けることを非常に恐れている。
「どうしたらいい……?」
紫織はポツリと訊ねた。
誰もいないこの部屋の中では、自分の問いかけに誰も答えてくれないと分かっていても、口に出さずにはいられなかった。それほど、紫織は孤独を感じていた。
不安で、怖くて、胸が押し潰されそうだった。
「――宏樹君……」
紫織は無意識に、宏樹の名を口にしていた。
朋也も涼香も、同じくらい好きだし大切に思っている。だが、それ以上に、紫織には宏樹の存在が大きい。
「顔……、見たいよ……」
紫織は呟くと、寝返りを打ってうつ伏せた。
額に載せられていたタオルは支えを失い、そのまま、敷布団の上にスルリと落ちていった。
◆◇◆◇
しっかりと睡眠を取ったお陰で、翌日の目覚めは快調だった。ぶり返した熱も、深夜のうちに引いたようだ。
紫織はベッドから這い出ると、パジャマの上からカーディガンを羽織り、辺りに漂う冷たい空気に身震いしながら部屋を出た。
階段を降り、洗面所に行くまでも、そのあまりの寒さに両手で自らの身体を抱き締める。
家の中なのだから、決して距離があるわけではないのに、それでも長く感じてしまう。
洗面所に着くと、真っ先に湯の出る蛇口を捻る。最初は冷水が出ていたが、時間が経つにつれ、そこから湯気が立ち昇る。
紫織はそれを確認すると、流れ出る湯に手を翳した。冷えかけていた手に、温かさがじんわりと染み渡ってゆく。
ある程度手を温めてから、今度は湯から手を離し、洗顔と歯磨きに取りかかった。湯は相変わらず出しっ放し。母親に見咎められたら、確実に叱られるであろうと思ったが、やはり、寒さにはどうしても勝てない。
紫織は見付からないことをひっそりと願いつつ、手早く作業を進めた。
◆◇◆◇
洗顔を済ませ、制服に着替えた紫織は、ゆったりとした足取りでリビングへと姿を現した。
「おはよう」
中へ入るなり、廊下の冷気とは対照的な暖かさと、母親の挨拶に迎えられた。
「おはよ」
紫織も母親に挨拶を返すと、定位置にちょこんと正座した。
「あんた、大丈夫なの?」
心配そうに訊ねてくる母親に、紫織は「うん」と頷く。
「熱は下がったし、だるくもないから」
「ふうん……。また帰って来たとたんに寝込む、なんてやめてちょうだいよ?」
「大丈夫です!」
紫織がきっぱりと言うと、母親は呆れ気味に苦笑しながら、一度キッチンへと引っ込んだ。
朝食を持って来てくれるのだろう。そう思っていたら、母親は本当に食事を運んできた。
ただ、そのメニューに、紫織は思わず顔をしかめてしまう。
「――またおかゆ……?」
うんざりとばかりにぼやく紫織に、母親は「当たり前でしょ」と答えた。
「まだ胃が本調子じゃないんだから、もう少しは我慢しなさい。どうしてもおかゆが嫌だって言うんなら、一日も早く治すことね」
母親の言うことはもっともである。
紫織は反論する言葉も見付からず、渋々とスプーンを手に取り、「いただきます」と挨拶してから、おかゆを掬って口に運んだ。分かってはいたが、どうにも味気ない。
別に梅干しも用意されていたので、それを入れて食べてみたが、あまり変わり映えはなかった。
(お母さんの言う通り、とっとと治さないとな……)
紫織は心底そう思い、口元を歪めながら美味しくないおかゆを黙々と片付けていった。
◆◇◆◇◆◇
昨日、無理をさせてしまったから、紫織はまた、学校を休んでしまうのではないかと思ったが、ちゃんと登校して来た。ただ、何となく顔色があまり良くないように感じる。
「大丈夫?」
紫織を見るなり、涼香は挨拶代わりに訊ねた。
紫織は「平気だよ」と苦笑した。
「もう、涼香もお母さんと同じことを言うんだね? ほんとに大丈夫だから心配しないで」
涼香の目には、どうにも強がっているようにしか映らない。いや、本当に本人は大丈夫だと思い込んでいるのかもしれないが。
(いきなり倒れたりしなきゃいいけどねえ)
そんなことを考えながら紫織を見つめていたら、彼女は怪訝そうに首を傾げながら、「どうしたの?」と訊いてきた。
「え? ああ、別に何でもない」
紫織が気がかりだから、と言いたかったが、言ったら言ったで今度は『しつこいよ!』と怒られそうな予感がしたので、涼香はそのまま言葉を飲み込んだ。
そんな涼香に、紫織は「変なの」と呟く。
涼香は返事をする代わりに肩を竦めた。
そのうち、始業五分前を知らせるチャイムが学校中に鳴り響いた。
さすがに今日は、昨日のようなサボりをする気は全くない。
「じゃあ、またあとでね」
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