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第五話 泣きたいほどに
Act.2
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◆◇◆◇◆◇
夢と現実の境界線を彷徨っていた紫織は、すぐ近くで物音を聴いた。
(お母さん、かな……?)
紫織は目を閉じながら思っていると――
「紫織」
耳元で名前を呼ばれた。だが、その声は母親のものにしては低過ぎる。
(――誰……?)
紫織はゆっくりと目を開き、声の主に顔を向けた。
「よ」
声の主は、小さく笑みながら軽く手を挙げている。
「――朋也……?」
紫織は風邪で掠れた声で、相手の名を呼んだ。
それに満足したのか、朋也はさらに嬉しそうに口元を綻ばせると、「どうだ?」と訊ねてきた。
「さっき、小母さんにばったり逢って、紫織が風邪引いて休んだって聴いたんだけど。――今の具合は?」
「……うん、水分もたっぷり摂ったし、薬を飲んでからはぐっすり眠れたから、だいぶ楽になったみたい……」
横になった状態のままで答えると、朋也は安心したように「そっか」と言った。
「大したことないなら良かったよ。たかが風邪、と思ってても、こじらせたら大変だっつうしな。とにかく、今はしっかり休んどけよ」
「――ありがと……」
普段は何かと突っかかってくるのに、風邪を引いているからか、朋也がいつになく優しい。
紫織もまた、熱で心細さを感じていたために、朋也の温かい気遣いを素直に受け止めている。
(熱があったままの方が、朋也としても嬉しいかもしれない)
つい、そんなことまで考えてしまう。
「あ、あのさ紫織」
ふと、朋也が口を開いた。
「なに?」
紫織は朋也を見つめる。
「えっとさ、ちょっと、変なこと訊くけど……」
朋也はふいと紫織から視線を逸らすと、それこそ言いにくそうに、だが、はっきりと訊ねてきた。
「――紫織、昨日、兄貴と海に行ったって?」
この言葉に、紫織の鼓動が跳ね上がった。宏樹と海へ行ったのは決して悪いことではない。ましてや、朋也に内緒にするほど大袈裟なものでもない。しかし、心のどこかで、昨日のことを朋也に知られてはならなかったと思っている。だからと言って、嘘を吐くのもまたおかしな話だ。
紫織は少々躊躇いつつ、「うん」と頷くと、恐る恐る朋也の反応を覗った。
「――そう……」
朋也の返答は素っ気なかったが、わずかに眉が痙攣したのを紫織は決して見逃さなかった。
「――ごめん……」
つい、謝罪を口にした。
だが、それがかえって朋也の気に障ったのか、今度はあからさまに表情を険しくさせた。
「なんで謝るんだよ?」
「え? 私もよく分かんないけど……。ただ、謝んなきゃなんないような気がして……」
「もしかして、俺に同情でもしてんの?」
「――は? 何言ってんの……?」
紫織はゆっくりと身体を起こした。しかし、まだ、体調は不安定なままだから、一瞬、フラリとしてしまった。
「私、別に朋也に同情なんてしてない。確かに、急に謝ってしまったのは自分でもおかしいって思ってるけど。でも、おかしいのは朋也も一緒でしょ? ねえ、何でそんなに怒るの?」
「別に怒ってない!」
「怒ってるでしょ!」
精いっぱいの力を籠めて、紫織は朋也に声を荒らげた。
「何なのよいったい? お見舞いに来てくれて優しい言葉をかけてくれたかと思ったら、突拍子もないことを口走って……。
ねえ朋也、朋也は私にどうしてほしいの? 言ってみなさいよ!」
そこまで言いきった時、一瞬、目の前の朋也の姿がぼやけて見えた。
「おいっ!」
紫織は危うくベッドから床に落ちそうになったが、すんでのところで朋也に抱き止められた。
「ったく、病人なら病人らしく大人しくしてろっての!」
予想外のハプニングに紫織は絶句したまま、朋也の腕の中で固まっている。同時に、胸の鼓動が速くなってゆくのを感じた。
宏樹と違い、朋也とは手を繋いだ記憶しか残っていないから、紫織を抱き締めている腕の強さに改めて驚いていた。
(そっか、朋也も男の子、なんだよね……)
紫織は漠然とそんなことを思った。
「大丈夫かよ?」
ぼんやりとしていた紫織に、朋也が訊ねてくる。
そこでハッと我に返った。
「うん、大丈夫」
紫織は答えると、朋也から離れようとする。ところが、朋也は先ほどよりも強く紫織を抱き締めた。
「朋也、離してよ……」
「やだね」
紫織が訴えるも、朋也はきっぱりと拒絶する。
身動きの全く取れなくなった紫織は、朋也の腕の中で呆然としていた。
朋也、どうして離してくれないの?
どうしてこんなことするの?
どうして私を困らせようとするの?
朋也、どうして……?
様々な疑問が、紫織の中でグルグルと渦巻く。
「紫織」
紫織を抱き締めたまま、朋也が耳元で囁いた。
「俺じゃ、ダメか?」
朋也の思わぬ言葉に、紫織は口を小さく開いたまま瞠目した。また、声が出なくなった。
朋也はそれをどう捉えたのであろう。しばらく黙ったまま、紫織を変わらず包み込んでいた。
「俺は……」
絞り出すように朋也が口を開いた。
「紫織のこと、ずっと好きだった。けど、どんなにお前が好きでも、俺の気持ちなんて分かってもらえるわけないって気付いてた。――だって紫織の目には、兄貴しか映っていないんだからな。
悔しかったよ……。俺は、どうあがいたって兄貴になんて敵いやしないんだから。あいつは大人だし、しっかりしてるし、親だって兄貴を一番信頼してる。
紫織だってそうだろ? いつもいつも、俺をガキ扱いしやがって……。
確かに俺は、兄貴に勝てるもんなんてひとっつもない。けどな、これだけは自信を持って言える。俺は、兄貴なんかよりもずっと、紫織を幸せにしてやれる」
朋也はそこまで言うと、紫織の髪に顔を埋めてきた。まるで、紫織の存在を確かめるように。
紫織は夢見心地で、朋也の言葉を聴き続けていた。
冗談でしょ、と笑い飛ばせたらどんなに楽かと思ったが、今の言葉に嘘偽りがないことは、紫織も痛いほど理解していた。だからこそ、困惑した。朋也を傷付けたくない。だが、自分の気持ちに嘘は吐けない。
(私は、どうしたらいいの……?)
心の中で自分に問うも、答えは出ない。
「――朋也のこと、嫌いじゃないよ……」
やっとの思いで、紫織は口にした。
「でも、朋也は私にとって〈家族〉だから、〈男の子〉としては見られないの……。
ごめんね……。私はずっと、宏樹君だけが好きだから……」
「――兄貴は、紫織を〈妹〉だとしか思ってないぜ?」
朋也は遠慮がちに、だが、はっきりと告げてきた。
「あいつは、他に好きな人がいるからな。そうゆうことは兄貴はあんまり言わないけど。けど俺も、何となく気付いてたから……」
「――そう……」
紫織は短く答えた。
宏樹が自分に恋愛感情を抱いていないのは、朋也に言われるまでもなく分かっていたつもりだった。どんなに想い続けても、無駄たというのも。それでも、心のどこかで、もしかしたら、と期待を寄せていたのも事実であった。
朋也は別に、紫織に意地悪をするつもりで宏樹の本心を代弁したのではないとも分かった。ただ、紫織をこれ以上傷付けたくないという強い想いが、そのまま朋也の口から出たのだ。
「――それでもいい」
紫織は囁くように言った。
「私にとって一番辛いのは、自分に嘘を吐くことだもん。朋也には酷いことを言ってるって、私も分かってる。けど、どんなことがあっても、私が好きなのは、宏樹君だけだから……」
「どうしても?」
「どうしても」
最後の台詞は、はっきりと強調させた。
すると、紫織を抱き締めていた朋也の腕の力が、少しずつ緩んでいった。
紫織は朋也から身体を離し、朋也を見つめた。
怖くないと言えば嘘になる。しかし、ちゃんと朋也の目を見なくては、と紫織は思ったのだ。
朋也は紫織と視線がぶつかると、小さく笑みを浮かべた。無理に笑っている。それは、紫織にも痛いほど伝わってきた。
「そろそろ帰るわ」
朋也は紫織から視線を外すと、ゆっくりと立ち上がった。
「色々悪かったな。それじゃあ、一日も早く元気になれよ」
チラリと紫織を一瞥したあと、朋也はドアを開けて部屋から出て行った。
ドアが閉められ、朋也の気配がなくなると、一気に静寂が訪れた。
とたんに、紫織の中に言いようのない孤独が襲ってきた。瞳から透明な雫が溢れ出し、それは頬を伝い、布団をじわじわと濡らしてゆく。
「……な、んで……」
紫織はひとり、嗚咽を漏らす。
それが、宏樹へ想いが届かないことへの絶望なのか、朋也の真摯な想いを踏みにじったことに対する罪悪感からなのか、紫織自身も分からなかった。
夢と現実の境界線を彷徨っていた紫織は、すぐ近くで物音を聴いた。
(お母さん、かな……?)
紫織は目を閉じながら思っていると――
「紫織」
耳元で名前を呼ばれた。だが、その声は母親のものにしては低過ぎる。
(――誰……?)
紫織はゆっくりと目を開き、声の主に顔を向けた。
「よ」
声の主は、小さく笑みながら軽く手を挙げている。
「――朋也……?」
紫織は風邪で掠れた声で、相手の名を呼んだ。
それに満足したのか、朋也はさらに嬉しそうに口元を綻ばせると、「どうだ?」と訊ねてきた。
「さっき、小母さんにばったり逢って、紫織が風邪引いて休んだって聴いたんだけど。――今の具合は?」
「……うん、水分もたっぷり摂ったし、薬を飲んでからはぐっすり眠れたから、だいぶ楽になったみたい……」
横になった状態のままで答えると、朋也は安心したように「そっか」と言った。
「大したことないなら良かったよ。たかが風邪、と思ってても、こじらせたら大変だっつうしな。とにかく、今はしっかり休んどけよ」
「――ありがと……」
普段は何かと突っかかってくるのに、風邪を引いているからか、朋也がいつになく優しい。
紫織もまた、熱で心細さを感じていたために、朋也の温かい気遣いを素直に受け止めている。
(熱があったままの方が、朋也としても嬉しいかもしれない)
つい、そんなことまで考えてしまう。
「あ、あのさ紫織」
ふと、朋也が口を開いた。
「なに?」
紫織は朋也を見つめる。
「えっとさ、ちょっと、変なこと訊くけど……」
朋也はふいと紫織から視線を逸らすと、それこそ言いにくそうに、だが、はっきりと訊ねてきた。
「――紫織、昨日、兄貴と海に行ったって?」
この言葉に、紫織の鼓動が跳ね上がった。宏樹と海へ行ったのは決して悪いことではない。ましてや、朋也に内緒にするほど大袈裟なものでもない。しかし、心のどこかで、昨日のことを朋也に知られてはならなかったと思っている。だからと言って、嘘を吐くのもまたおかしな話だ。
紫織は少々躊躇いつつ、「うん」と頷くと、恐る恐る朋也の反応を覗った。
「――そう……」
朋也の返答は素っ気なかったが、わずかに眉が痙攣したのを紫織は決して見逃さなかった。
「――ごめん……」
つい、謝罪を口にした。
だが、それがかえって朋也の気に障ったのか、今度はあからさまに表情を険しくさせた。
「なんで謝るんだよ?」
「え? 私もよく分かんないけど……。ただ、謝んなきゃなんないような気がして……」
「もしかして、俺に同情でもしてんの?」
「――は? 何言ってんの……?」
紫織はゆっくりと身体を起こした。しかし、まだ、体調は不安定なままだから、一瞬、フラリとしてしまった。
「私、別に朋也に同情なんてしてない。確かに、急に謝ってしまったのは自分でもおかしいって思ってるけど。でも、おかしいのは朋也も一緒でしょ? ねえ、何でそんなに怒るの?」
「別に怒ってない!」
「怒ってるでしょ!」
精いっぱいの力を籠めて、紫織は朋也に声を荒らげた。
「何なのよいったい? お見舞いに来てくれて優しい言葉をかけてくれたかと思ったら、突拍子もないことを口走って……。
ねえ朋也、朋也は私にどうしてほしいの? 言ってみなさいよ!」
そこまで言いきった時、一瞬、目の前の朋也の姿がぼやけて見えた。
「おいっ!」
紫織は危うくベッドから床に落ちそうになったが、すんでのところで朋也に抱き止められた。
「ったく、病人なら病人らしく大人しくしてろっての!」
予想外のハプニングに紫織は絶句したまま、朋也の腕の中で固まっている。同時に、胸の鼓動が速くなってゆくのを感じた。
宏樹と違い、朋也とは手を繋いだ記憶しか残っていないから、紫織を抱き締めている腕の強さに改めて驚いていた。
(そっか、朋也も男の子、なんだよね……)
紫織は漠然とそんなことを思った。
「大丈夫かよ?」
ぼんやりとしていた紫織に、朋也が訊ねてくる。
そこでハッと我に返った。
「うん、大丈夫」
紫織は答えると、朋也から離れようとする。ところが、朋也は先ほどよりも強く紫織を抱き締めた。
「朋也、離してよ……」
「やだね」
紫織が訴えるも、朋也はきっぱりと拒絶する。
身動きの全く取れなくなった紫織は、朋也の腕の中で呆然としていた。
朋也、どうして離してくれないの?
どうしてこんなことするの?
どうして私を困らせようとするの?
朋也、どうして……?
様々な疑問が、紫織の中でグルグルと渦巻く。
「紫織」
紫織を抱き締めたまま、朋也が耳元で囁いた。
「俺じゃ、ダメか?」
朋也の思わぬ言葉に、紫織は口を小さく開いたまま瞠目した。また、声が出なくなった。
朋也はそれをどう捉えたのであろう。しばらく黙ったまま、紫織を変わらず包み込んでいた。
「俺は……」
絞り出すように朋也が口を開いた。
「紫織のこと、ずっと好きだった。けど、どんなにお前が好きでも、俺の気持ちなんて分かってもらえるわけないって気付いてた。――だって紫織の目には、兄貴しか映っていないんだからな。
悔しかったよ……。俺は、どうあがいたって兄貴になんて敵いやしないんだから。あいつは大人だし、しっかりしてるし、親だって兄貴を一番信頼してる。
紫織だってそうだろ? いつもいつも、俺をガキ扱いしやがって……。
確かに俺は、兄貴に勝てるもんなんてひとっつもない。けどな、これだけは自信を持って言える。俺は、兄貴なんかよりもずっと、紫織を幸せにしてやれる」
朋也はそこまで言うと、紫織の髪に顔を埋めてきた。まるで、紫織の存在を確かめるように。
紫織は夢見心地で、朋也の言葉を聴き続けていた。
冗談でしょ、と笑い飛ばせたらどんなに楽かと思ったが、今の言葉に嘘偽りがないことは、紫織も痛いほど理解していた。だからこそ、困惑した。朋也を傷付けたくない。だが、自分の気持ちに嘘は吐けない。
(私は、どうしたらいいの……?)
心の中で自分に問うも、答えは出ない。
「――朋也のこと、嫌いじゃないよ……」
やっとの思いで、紫織は口にした。
「でも、朋也は私にとって〈家族〉だから、〈男の子〉としては見られないの……。
ごめんね……。私はずっと、宏樹君だけが好きだから……」
「――兄貴は、紫織を〈妹〉だとしか思ってないぜ?」
朋也は遠慮がちに、だが、はっきりと告げてきた。
「あいつは、他に好きな人がいるからな。そうゆうことは兄貴はあんまり言わないけど。けど俺も、何となく気付いてたから……」
「――そう……」
紫織は短く答えた。
宏樹が自分に恋愛感情を抱いていないのは、朋也に言われるまでもなく分かっていたつもりだった。どんなに想い続けても、無駄たというのも。それでも、心のどこかで、もしかしたら、と期待を寄せていたのも事実であった。
朋也は別に、紫織に意地悪をするつもりで宏樹の本心を代弁したのではないとも分かった。ただ、紫織をこれ以上傷付けたくないという強い想いが、そのまま朋也の口から出たのだ。
「――それでもいい」
紫織は囁くように言った。
「私にとって一番辛いのは、自分に嘘を吐くことだもん。朋也には酷いことを言ってるって、私も分かってる。けど、どんなことがあっても、私が好きなのは、宏樹君だけだから……」
「どうしても?」
「どうしても」
最後の台詞は、はっきりと強調させた。
すると、紫織を抱き締めていた朋也の腕の力が、少しずつ緩んでいった。
紫織は朋也から身体を離し、朋也を見つめた。
怖くないと言えば嘘になる。しかし、ちゃんと朋也の目を見なくては、と紫織は思ったのだ。
朋也は紫織と視線がぶつかると、小さく笑みを浮かべた。無理に笑っている。それは、紫織にも痛いほど伝わってきた。
「そろそろ帰るわ」
朋也は紫織から視線を外すと、ゆっくりと立ち上がった。
「色々悪かったな。それじゃあ、一日も早く元気になれよ」
チラリと紫織を一瞥したあと、朋也はドアを開けて部屋から出て行った。
ドアが閉められ、朋也の気配がなくなると、一気に静寂が訪れた。
とたんに、紫織の中に言いようのない孤独が襲ってきた。瞳から透明な雫が溢れ出し、それは頬を伝い、布団をじわじわと濡らしてゆく。
「……な、んで……」
紫織はひとり、嗚咽を漏らす。
それが、宏樹へ想いが届かないことへの絶望なのか、朋也の真摯な想いを踏みにじったことに対する罪悪感からなのか、紫織自身も分からなかった。
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