小説探偵

夕凪ヨウ

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Case28.怪しい男

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 3年間もここにいたはずなのに、いざ去るとなると、そんな年月がなかったように思う。現に、自分に与えられていたデスクが、もう自分の物とは思えない。
 でも、確かにいた。だからこそ、出て行く足取りが重くなる。


 会いたくない。会わせる顔もない。
 でも会わなければならない。自分なりの決着を、つけるために。

            ※

 天宮家の事件から約2週間。海里は茹だるような暑さから、外に出るのを拒んで家に篭りがちになっていた。


 探偵業が落ち着くのは、活発に活動しなくて済むため正直助かっていた。しかし、室内が涼しくとも外の暑さが伝わって来て、小説に対するやる気も起きず、天宮家の事件の執筆スピードは、普段よりも遅くなっていた。
 改めて原稿用紙を見ると、遅いにしても7割ほどは仕上がっていた。海里は久々に読書をしようと、ペンを置いて本棚に手を伸ばす。しかしその時、彼は妹の病院に行く日だと気がついた。すぐに伸ばした手を引っ込め、最低限の荷物を持って家を出る。駆け足で階段を降り、近所の花屋へ足を運んだ。
「こんにちは」
「こんにちは、江本さん。今日も妹ちゃんのお見舞い?」
「はい。いつもの花をお願いします」
「はい、はい。ちょっと待ってね」
 店員が花をまとめるのを待っている時、海里は店の中を歩き回った。もう何度も見た光景だが、花を見ると落ち着くので、一向に飽きなかった。今日は誰もいないが、稀に出会う他のお客との世間話も、彼の楽しみの1つである。
 そんな穏やかさを抱えながら外を見ると、男2人の言い争いが目に留まった。海里は目を凝らして様子を伺う。
「放してくれ! これは・・・・大切なお金なんだ‼︎」
「うるさい、寄越せ!」
 ひったくりだった。犯人の男は縋り付く男を殴り飛ばし、走り去った。海里は店員にすぐに戻ると言い残し、店を飛び出した。殴られた男に駆け寄り尋ねる。
「大丈夫ですか? 何を取られました?」
「お、お金だ! 取られた鞄には、息子の誕生日プレゼントを買うためのお金が入ってるんだ! ようやく全額揃ったから、買いに行くところで・・・!」
 男の手は土汚れがついていた。作業着なので、恐らく土木工事に従事しているのだろう。海里は頷き、口を開く。
「分かりました。取り返してきます。ここで待っていてください。傷は大事に至らないでしょうが、一先ず、これで」
 海里はそう言って、ハンカチを取り出した。水筒を開けて濡らし、殴られた男に差し出す。男は礼を言って受け取り、頬にハンカチを当てた。
 直後、海里は颯爽と立ち上がって逃げた男の方へ向かった。男は気がついていないらしい。好都合だと思い、彼は走るスピードを上げた。
「止まってください! 乱暴なことはしたくありませんよ!」
 男は止まらなかった。海里は苦い顔をし、脇道を通って先回りをし、男の前に立ちはだかった。男は急に現れた海里を見て止まる。
「退け!」
「鞄を返してくださるなら、お退きしますよ。さあ、それをこちらへ」
 海里は右手を差し出したが、男は聞かなかった。
「誰が・・・・渡すか‼︎」
 男はポケットからナイフを取り出し、海里に突進した。海里は軽く溜息をつき、体を捻り、右足で勢いよくナイフを蹴り上げた。
「なっ・・・⁉︎」
 男は細身の海里から繰り出されたとは思えない動きに目を丸くした。
「大人しくしてくださいね」
 海里は立ち尽くす男の腕を掴み、そのまま投げ飛ばした。鞄が転がり、心配になって駆けつけて来た持ち主の男の方へ行く。中を確認して頷いたので、まだ何も盗られてはいないようだった。
 持ち主の男は安堵の息を吐き、海里に頭を下げる。
「ありがとうございます。怪我はされていませんか?」
「ご心配なく。交番に連れて行くので、少し手伝って頂けませんか?」
「ええ、もちろんです」
 持ち主の男が頷いた時だった。


「大したものだね。江本海里君」
 頭上から響いた聞き覚えのない声に、海里は目を丸くした。男を締め上げたまま顔を上げると、真夏の太陽に照らされて、1人の男が立っていた。
「初めまして」
 緩く括られ、左肩に垂らされた黒髪、髪と同じ色をした穏やかな切長の瞳、高い鼻、長身。炎天下の中でスーツを着こなす姿が目立つ。
 男は優しげな、しかしどこか怪しげな笑みを浮かべたまま、海里と共に男を起こした。
「おじさん、交番行こっか」
 交番に男を届けて事情を説明した後、海里は自分の前に現れた男を見た。怪しげな笑みを浮かべた男もまた、海里を見ている。
「俺は玲央。ずっと君に会いたかったんだ、江本君」
「・・・・私をご存知なのですか?」
「君は自分で思っているより有名人だよ。小説家としても、探偵としてもね。
 人づてに話を聞いて、君の大まかな住所を特定した。失礼だとは思ったけど、妹さんのこともね。だから花屋の近くを歩いていたんだ。お見舞いは不定期みたいだったから、どうなるかと思ったけど、会えて良かった」
 どう考えても只者ではありませんね。人づてに聞いたからと言って、住所を特定するなど難しいはず。私は素顔も個人情報も公開していませんし、妹のことだって東堂さんにしか話していない。
 この人、何か目的があるのでは?
「そんなに怖い顔しないで。大まかな住所を特定して、もしかしたら会えるかもって、ぶらついていただけさ。ああ、妹さんの話をした後だと、説得力がないかな? 信じてくれると嬉しいんだけど。
 それにしても、推理だけじゃなく体術もできるんだね。小説探偵って名前しか聞いていなかったから驚いたよ」
 男ーーーー玲央は、話題を二転三転させながら話した。そのため、海里は中々自分の言葉を挟めず、彼が計算しながら会話していると理解した。
 しかし、驚いた、と口にすると同時に言葉が止んだので、海里は答える。
「大したことではありませんよ。幼い頃に齧った程度なので、警察の方には及びません。何より暴力は好きではないので、仕方なくです」
「警察と比べると、そう思っちゃうのかな? 齧っただけにしては見事なものだったよ?」
「どうも。ところであなたーーーー」
「ん?」
「警察ですか?」
 玲央の顔色が変わった。どうやら当たりらしい。少し驚いた玲央だったが、彼はすぐに表情を戻して尋ねる。
「何で分かったの? 警察手帳は見せてないけど」
 海里は「少し長ったらしい説明になりますが」と前置きして続けた。
「先ほど交番に行った時、親しげに警察官と話されていましたよね。盗み聞きするつもりはなかったのですが、“ようやくお戻りになるんですね”という相手の方の発言が聞こえたんです。
 つまり、あなたは元々警察署など大きい所にいて、一定以上の期間、何かしらの理由があって交番にいた。相手の方は見たところあなたより年上なのに、敬語だったことを踏まえると、ある程度の階級にいらっしゃったのではありませんか? それも、顔を見て分かるほど。
 いずれにせよ、警察官であることは間違いないでしょう。体術の話を振られた時、私が警察官を比較対象にしたら簡単に受け入れられましたし、普通の方は住所や個人情報の特定の話をされません。私に、お話しされたのかもしれませんけど」
 海里は笑みを浮かべた。玲央は満足そうに笑う。
「なるほど。確かに、探偵としての腕は申し分ないらしい。出会って数分間の言動で、ここまで分かるなんて驚きだ。君に口を開かせないよう意地悪して話していたのに、逆に嵌められるなんてさ」
 玲央は軽く首を振りながら苦笑した。警察手帳を見せ、海里も頷く。
 同時に、海里は不思議に思ったことを口にした。
「わざわざ私に会いに来たということは警視庁の方ですか? そうだとしても、刑事部以外でしょうか。
 私は2年半ほど前に知り合った捜査一課の方と協力しているので、その関係で刑事部の方の顔は多少ですが存じ上げています」
「刑事部で捜査一課だよ。ただ、昔事件でやらかしちゃって。異動処分を受けていたんだ。今日から復帰で、君に会うついでにパトロールしていたってとこかな」
「なる・・ほど・・・・?」
 納得しきれていない海里を気にする様子なく、玲央は腕時計を見た。
「あ、そろそろ行かないと。じゃあ江本君」
「はい。ご協力ありがとうございました」
 玲央の背中を見送った海里だが、妹のお見舞いに向かう途中だったと思い出し、急いで来た道を戻った。

            ※
                   
 病院へ行くと、看護師からいつもより遅いですね、と言われた。海里は苦笑いで誤魔化して妹の病室へ入る。妹は呼吸器をつけたままベッドで眠っており、シャンプーをしてくれたのか、髪から良い香りがした。
 海里は窓際に置かれている花瓶に手を伸ばし、枯れかけの花と買って来た花を入れ替えた。その後は眠っている妹に話しかけ、自分の近況を伝えた。何度か妹の方を見たが、動きはない。一抹の不安を抱えつつも、海里は笑って立ち上がった。
「また来ますね。今度は・・・・昔のように話をしましょう」

            ※

 その夜、下書きを済ませて休んでいた海里の元に、龍から電話がかかって来た。事件以外で彼が電話をかけてくることなどなかったので、海里は驚いて電話に出る。
『こんな時間に悪いな。お前、今日玲央と名乗る男に会ったのか?』
「はい。あ、お知り合いですか? 捜査一課にいらっしゃったと聞きましたよ」
 龍はしばらく黙っていた。そして、声を潜めて続ける。
『あんまりその男に気を許すなよ。警察官でも、そいつは人殺しだ。深く関わって何かあってからじゃ遅いからな』
「え?」
『話は以上だ。切るぞ』
 強引に話を終わらせようとする龍に、海里は必死に叫んだ。
「待ってください! どうして、そんな決めつけをされるんですか? 人殺しは悪かもしれませんが、今日私が会った玲央さんは普通の男性でした。何より、警察官でしょう?」
『決めつけているんじゃない。俺は真実を言っている』
「東堂さん!」
 再び沈黙が流れた。電話の向こうで、深い溜息が聞こえる。やがて、龍は短く告げた。
『その男の本名は、東堂玲央』
「・・・・東堂?」
 海里は息を呑んだ。龍は冷静な声で続ける。
『俺の実の兄だ』



 人殺しと呼ばれる龍の兄・玲央。果たしてこれは真実なのかーーーー。
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