殺意の扉が開くまで

夕凪ヨウ

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64 惑い

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 目を覚ますと、春海が不安げな表情で見つめていた。
「・・・・そんな顔して、どうした」
「どうしたじゃないわ。心配したのよ。蒼一、あなた、昨日のこと覚えてる?」
 突然の質問に、蒼一は眉を顰めた。ベッドに横たわっていると分かったが、着替えておらず、一晩このまま眠っていたことを理解する。混乱しながら記憶を手繰り寄せるが、なぜか朧げだった。
 春海は不安げな表情のまま、口を開く。
「家に帰った瞬間倒れたのよ。私1人じゃ運べないから、一路に連絡して手伝ってもらったの。熱はないけど頭痛がする、気分が悪いって言ったから、取り敢えず水を飲ませて、頭は冷やしたんだけど」
 その時、蒼一はようやくサイドテーブルに水の入ったグラスが置かれていること、氷枕に頭を乗せていたことを知った。上体を起こし、頭痛も吐き気もないことを確認して、酷く汗を掻いたことに気がつく。彼は再び記憶を手繰り寄せ、やっとのことで朧げな記憶を思い出した。
「蒼一? まだ気分が悪いの?」
 額に触れようと伸ばされた手を掴み、蒼一は早口で告げた。
「一人にしてくれ」
「え? でも・・・・」
「頼む。一人にしてくれ。体調は問題ないから、心配するな。何より・・・・」
 途端に蒼一は言い淀んだ。彼は気まずそうに春海から視線を背け、続ける。
「お前に八つ当たりしたくない。だから一人にしてくれ。落ち着いたらリビングに行くから」
 春海は、普段の蒼一であればあり得ない発言に目を丸くした。だが、自分の腕を掴む彼の手がわずかに震えていること、彼の心に負の感情が蓄積されていることが分かり、静かに頷いた。


 蒼一は春海を見ずに、彼女が退出する音だけを聞いた。そして、足音がリビングまで遠ざかるのを確認した後、壁に上体を押し付ける。長い息を吐き、シャツの胸倉を掴み、目を瞑り、余計なものを振り払い始めた。事件の真相を見つけ、真相を見つけるための指示を出す立場にいる自分を、確立させるために。
 しかし、余計なものを振り払うと同時に、昨日の姉の言葉が蘇り、過去が巡った。思い出したくもない、心の奥底に封印した過去だった。蒼一は思わず舌打ちをする。
「うるさい、黙れ」
 媚びへつらう親戚が浮かんだ。次期当主と騒ぐ声がこだまする。
「勝手なことばっかり言いやがって」
 優しさの仮面をつけた人物の顔が浮かび上がった。その人物は、どこまでも自分勝手だったことを思い出す。見抜けなかった自分の愚かさも。
「意思なんて聞く気もないくせに」
 己を敵視し続けた両親と姉が浮かんだ。汚物でも見るような視線、猛毒のような言葉と言動。それら全てを大人気ないと冷ややかに見ていた自分と、今更それに苦しむ自分が、心底馬鹿馬鹿しかった。
「違う」
 昨日の姉の言葉が、また蘇った。短いが、心の奥を覗く言葉。本心かもしれぬ心を、抉り出す言葉。
「違う」
 否定が肯定に思えた。肯定してはならないからこそ、否定が嘘臭くなる。蒼一は空いている左手で頭を押さえ、歯軋りをした。動かす必要のなかった感情が、なぜ今動くのか。自分の心の不安定さに、心底腹が立った。そして心底馬鹿馬鹿しかった。
 何も失っていないのに、馬鹿みたいに苦しんでいる自分が、馬鹿馬鹿しかった。
 しかし、そう思うことで、ようやく落ち着きが戻って来た。再び長い息を吐き、左手を頭から離し、胸倉を掴んだ右手を下げ、目を開ける。

 深呼吸をすると、蒼一はいつも通り、感情が読み取れない表情になっていた。

            ※

「蒼のやつ、またか」
「また?」
 春海は反問した。一路は「お前は知らなかったな」と続け、軽い溜息をつく。
「自分の心に蓋をするってことだよ。過去を思い出すたび、傷を思い出すたび、悩み惑う自分を馬鹿馬鹿しいと思うことで、悩み惑う自分に価値がないとすることで、心に蓋をし続けた。感情に蓋をし続けた、と言ってもいい。いずれにしろ、蒼は感情を封じ込めることで生きて来たんだ。子供の頃から、ずっと」
 あの後、落ち着いた蒼一は春海に心配をかけた謝罪をして、一度離れていたいと要望を告げ、家に帰していた。しかし、一連のことが腑に落ちなかった彼女は一路に連絡をし、昨日から今日までの、分かる限りの経緯を話したのだ。
「感情がないってわけじゃねえ。喜怒哀楽は間違いなく持っている。ただ、それは他者に対してだけで、自分に対する感情は、とことん無視だ。負の感情は特にな」
「事件の真相を突き止めるのに、邪魔だから?」
「それもある。だが、それ以前に、蒼は自分の感情への向き合い方を知らない。踏み込んで言うなら、思い悩んだり悲しんだりする自分自身を否定している。蒼自身にとって、思い悩んだり悲しんだりする自分は邪魔な存在なんだ。そんなことをする意味はない、と考えている」
「どうして?」
 一路は口を噤んだ。彼は少し迷った後、簡潔な答えを口にする。
「そうせざるを得なかったからさ。
 子供の頃から、味方も頼れる人間もいなかった。どちらも自分自身だけだった。だからこそ、自分の感情と向き合うのをやめた。自分が崩れたら、何もできなくなるからだ。
 その結果、今の蒼が出来上がった。俺は、あれを成長とは呼べない。機械と同じだと思っている」
 あなたがいたじゃない、という言葉を、春海は口にしなかった。もし一路が本当に救いになっていたのであれば、蒼一は今のようにはなっていない。手遅れだったのだと、嫌でも理解できた。
「・・・・私は負担?」
 長い沈黙の後、春海が尋ねた。語尾は震えている。
「負担なら蒼は受け入れない」
 一路は否定したが、春海もまた、否定した。
「負担じゃないと言い切れない。私は自分のことばかり・・・。蒼一に比べたら、私の傷なんて・・・・」
 そこまで口にして、春海は身震いした。悪寒が止まらず、すぐさま吐き気が訪れる。一路はできる限り優しく彼女の両肩を掴んで言った。
「比べるな。そんなことはしなくていいし、するべきじゃない。蒼の傷は蒼にしか分からないように、春海の傷は春海にしか分からない。後ろめたいなんて思うな。救いを求めることが悪だなんて、そんな馬鹿な話はない。蒼は、受け入れることがお前への救いだと考えて受け入れた。分かってるだろ」
「分かっているわ。歪な関係でも、私は救われている。春江も、拓司も、悠も同じ。
 でも、蒼一は誰が救うの? 感情に蓋をし続けたら、いつか限界が来る。壊れてしまう。そうなる前に、救わないと」


 その役目を果たす者の正体が、分からずじまいであったとしても。
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