64 / 86
64 惑い
しおりを挟む
目を覚ますと、春海が不安げな表情で見つめていた。
「・・・・そんな顔して、どうした」
「どうしたじゃないわ。心配したのよ。蒼一、あなた、昨日のこと覚えてる?」
突然の質問に、蒼一は眉を顰めた。ベッドに横たわっていると分かったが、着替えておらず、一晩このまま眠っていたことを理解する。混乱しながら記憶を手繰り寄せるが、なぜか朧げだった。
春海は不安げな表情のまま、口を開く。
「家に帰った瞬間倒れたのよ。私1人じゃ運べないから、一路に連絡して手伝ってもらったの。熱はないけど頭痛がする、気分が悪いって言ったから、取り敢えず水を飲ませて、頭は冷やしたんだけど」
その時、蒼一はようやくサイドテーブルに水の入ったグラスが置かれていること、氷枕に頭を乗せていたことを知った。上体を起こし、頭痛も吐き気もないことを確認して、酷く汗を掻いたことに気がつく。彼は再び記憶を手繰り寄せ、やっとのことで朧げな記憶を思い出した。
「蒼一? まだ気分が悪いの?」
額に触れようと伸ばされた手を掴み、蒼一は早口で告げた。
「一人にしてくれ」
「え? でも・・・・」
「頼む。一人にしてくれ。体調は問題ないから、心配するな。何より・・・・」
途端に蒼一は言い淀んだ。彼は気まずそうに春海から視線を背け、続ける。
「お前に八つ当たりしたくない。だから一人にしてくれ。落ち着いたらリビングに行くから」
春海は、普段の蒼一であればあり得ない発言に目を丸くした。だが、自分の腕を掴む彼の手がわずかに震えていること、彼の心に負の感情が蓄積されていることが分かり、静かに頷いた。
蒼一は春海を見ずに、彼女が退出する音だけを聞いた。そして、足音がリビングまで遠ざかるのを確認した後、壁に上体を押し付ける。長い息を吐き、シャツの胸倉を掴み、目を瞑り、余計なものを振り払い始めた。事件の真相を見つけ、真相を見つけるための指示を出す立場にいる自分を、確立させるために。
しかし、余計なものを振り払うと同時に、昨日の姉の言葉が蘇り、過去が巡った。思い出したくもない、心の奥底に封印した過去だった。蒼一は思わず舌打ちをする。
「うるさい、黙れ」
媚びへつらう親戚が浮かんだ。次期当主と騒ぐ声がこだまする。
「勝手なことばっかり言いやがって」
優しさの仮面をつけた人物の顔が浮かび上がった。その人物は、どこまでも自分勝手だったことを思い出す。見抜けなかった自分の愚かさも。
「意思なんて聞く気もないくせに」
己を敵視し続けた両親と姉が浮かんだ。汚物でも見るような視線、猛毒のような言葉と言動。それら全てを大人気ないと冷ややかに見ていた自分と、今更それに苦しむ自分が、心底馬鹿馬鹿しかった。
「違う」
昨日の姉の言葉が、また蘇った。短いが、心の奥を覗く言葉。本心かもしれぬ心を、抉り出す言葉。
「違う」
否定が肯定に思えた。肯定してはならないからこそ、否定が嘘臭くなる。蒼一は空いている左手で頭を押さえ、歯軋りをした。動かす必要のなかった感情が、なぜ今動くのか。自分の心の不安定さに、心底腹が立った。そして心底馬鹿馬鹿しかった。
何も失っていないのに、馬鹿みたいに苦しんでいる自分が、馬鹿馬鹿しかった。
しかし、そう思うことで、ようやく落ち着きが戻って来た。再び長い息を吐き、左手を頭から離し、胸倉を掴んだ右手を下げ、目を開ける。
深呼吸をすると、蒼一はいつも通り、感情が読み取れない表情になっていた。
※
「蒼のやつ、またか」
「また?」
春海は反問した。一路は「お前は知らなかったな」と続け、軽い溜息をつく。
「自分の心に蓋をするってことだよ。過去を思い出すたび、傷を思い出すたび、悩み惑う自分を馬鹿馬鹿しいと思うことで、悩み惑う自分に価値がないとすることで、心に蓋をし続けた。感情に蓋をし続けた、と言ってもいい。いずれにしろ、蒼は感情を封じ込めることで生きて来たんだ。子供の頃から、ずっと」
あの後、落ち着いた蒼一は春海に心配をかけた謝罪をして、一度離れていたいと要望を告げ、家に帰していた。しかし、一連のことが腑に落ちなかった彼女は一路に連絡をし、昨日から今日までの、分かる限りの経緯を話したのだ。
「感情がないってわけじゃねえ。喜怒哀楽は間違いなく持っている。ただ、それは他者に対してだけで、自分に対する感情は、とことん無視だ。負の感情は特にな」
「事件の真相を突き止めるのに、邪魔だから?」
「それもある。だが、それ以前に、蒼は自分の感情への向き合い方を知らない。踏み込んで言うなら、思い悩んだり悲しんだりする自分自身を否定している。蒼自身にとって、思い悩んだり悲しんだりする自分は邪魔な存在なんだ。そんなことをする意味はない、と考えている」
「どうして?」
一路は口を噤んだ。彼は少し迷った後、簡潔な答えを口にする。
「そうせざるを得なかったからさ。
子供の頃から、味方も頼れる人間もいなかった。どちらも自分自身だけだった。だからこそ、自分の感情と向き合うのをやめた。自分が崩れたら、何もできなくなるからだ。
その結果、今の蒼が出来上がった。俺は、あれを成長とは呼べない。機械と同じだと思っている」
あなたがいたじゃない、という言葉を、春海は口にしなかった。もし一路が本当に救いになっていたのであれば、蒼一は今のようにはなっていない。手遅れだったのだと、嫌でも理解できた。
「・・・・私は負担?」
長い沈黙の後、春海が尋ねた。語尾は震えている。
「負担なら蒼は受け入れない」
一路は否定したが、春海もまた、否定した。
「負担じゃないと言い切れない。私は自分のことばかり・・・。蒼一に比べたら、私の傷なんて・・・・」
そこまで口にして、春海は身震いした。悪寒が止まらず、すぐさま吐き気が訪れる。一路はできる限り優しく彼女の両肩を掴んで言った。
「比べるな。そんなことはしなくていいし、するべきじゃない。蒼の傷は蒼にしか分からないように、春海の傷は春海にしか分からない。後ろめたいなんて思うな。救いを求めることが悪だなんて、そんな馬鹿な話はない。蒼は、受け入れることがお前への救いだと考えて受け入れた。分かってるだろ」
「分かっているわ。歪な関係でも、私は救われている。春江も、拓司も、悠も同じ。
でも、蒼一は誰が救うの? 感情に蓋をし続けたら、いつか限界が来る。壊れてしまう。そうなる前に、救わないと」
その役目を果たす者の正体が、分からずじまいであったとしても。
「・・・・そんな顔して、どうした」
「どうしたじゃないわ。心配したのよ。蒼一、あなた、昨日のこと覚えてる?」
突然の質問に、蒼一は眉を顰めた。ベッドに横たわっていると分かったが、着替えておらず、一晩このまま眠っていたことを理解する。混乱しながら記憶を手繰り寄せるが、なぜか朧げだった。
春海は不安げな表情のまま、口を開く。
「家に帰った瞬間倒れたのよ。私1人じゃ運べないから、一路に連絡して手伝ってもらったの。熱はないけど頭痛がする、気分が悪いって言ったから、取り敢えず水を飲ませて、頭は冷やしたんだけど」
その時、蒼一はようやくサイドテーブルに水の入ったグラスが置かれていること、氷枕に頭を乗せていたことを知った。上体を起こし、頭痛も吐き気もないことを確認して、酷く汗を掻いたことに気がつく。彼は再び記憶を手繰り寄せ、やっとのことで朧げな記憶を思い出した。
「蒼一? まだ気分が悪いの?」
額に触れようと伸ばされた手を掴み、蒼一は早口で告げた。
「一人にしてくれ」
「え? でも・・・・」
「頼む。一人にしてくれ。体調は問題ないから、心配するな。何より・・・・」
途端に蒼一は言い淀んだ。彼は気まずそうに春海から視線を背け、続ける。
「お前に八つ当たりしたくない。だから一人にしてくれ。落ち着いたらリビングに行くから」
春海は、普段の蒼一であればあり得ない発言に目を丸くした。だが、自分の腕を掴む彼の手がわずかに震えていること、彼の心に負の感情が蓄積されていることが分かり、静かに頷いた。
蒼一は春海を見ずに、彼女が退出する音だけを聞いた。そして、足音がリビングまで遠ざかるのを確認した後、壁に上体を押し付ける。長い息を吐き、シャツの胸倉を掴み、目を瞑り、余計なものを振り払い始めた。事件の真相を見つけ、真相を見つけるための指示を出す立場にいる自分を、確立させるために。
しかし、余計なものを振り払うと同時に、昨日の姉の言葉が蘇り、過去が巡った。思い出したくもない、心の奥底に封印した過去だった。蒼一は思わず舌打ちをする。
「うるさい、黙れ」
媚びへつらう親戚が浮かんだ。次期当主と騒ぐ声がこだまする。
「勝手なことばっかり言いやがって」
優しさの仮面をつけた人物の顔が浮かび上がった。その人物は、どこまでも自分勝手だったことを思い出す。見抜けなかった自分の愚かさも。
「意思なんて聞く気もないくせに」
己を敵視し続けた両親と姉が浮かんだ。汚物でも見るような視線、猛毒のような言葉と言動。それら全てを大人気ないと冷ややかに見ていた自分と、今更それに苦しむ自分が、心底馬鹿馬鹿しかった。
「違う」
昨日の姉の言葉が、また蘇った。短いが、心の奥を覗く言葉。本心かもしれぬ心を、抉り出す言葉。
「違う」
否定が肯定に思えた。肯定してはならないからこそ、否定が嘘臭くなる。蒼一は空いている左手で頭を押さえ、歯軋りをした。動かす必要のなかった感情が、なぜ今動くのか。自分の心の不安定さに、心底腹が立った。そして心底馬鹿馬鹿しかった。
何も失っていないのに、馬鹿みたいに苦しんでいる自分が、馬鹿馬鹿しかった。
しかし、そう思うことで、ようやく落ち着きが戻って来た。再び長い息を吐き、左手を頭から離し、胸倉を掴んだ右手を下げ、目を開ける。
深呼吸をすると、蒼一はいつも通り、感情が読み取れない表情になっていた。
※
「蒼のやつ、またか」
「また?」
春海は反問した。一路は「お前は知らなかったな」と続け、軽い溜息をつく。
「自分の心に蓋をするってことだよ。過去を思い出すたび、傷を思い出すたび、悩み惑う自分を馬鹿馬鹿しいと思うことで、悩み惑う自分に価値がないとすることで、心に蓋をし続けた。感情に蓋をし続けた、と言ってもいい。いずれにしろ、蒼は感情を封じ込めることで生きて来たんだ。子供の頃から、ずっと」
あの後、落ち着いた蒼一は春海に心配をかけた謝罪をして、一度離れていたいと要望を告げ、家に帰していた。しかし、一連のことが腑に落ちなかった彼女は一路に連絡をし、昨日から今日までの、分かる限りの経緯を話したのだ。
「感情がないってわけじゃねえ。喜怒哀楽は間違いなく持っている。ただ、それは他者に対してだけで、自分に対する感情は、とことん無視だ。負の感情は特にな」
「事件の真相を突き止めるのに、邪魔だから?」
「それもある。だが、それ以前に、蒼は自分の感情への向き合い方を知らない。踏み込んで言うなら、思い悩んだり悲しんだりする自分自身を否定している。蒼自身にとって、思い悩んだり悲しんだりする自分は邪魔な存在なんだ。そんなことをする意味はない、と考えている」
「どうして?」
一路は口を噤んだ。彼は少し迷った後、簡潔な答えを口にする。
「そうせざるを得なかったからさ。
子供の頃から、味方も頼れる人間もいなかった。どちらも自分自身だけだった。だからこそ、自分の感情と向き合うのをやめた。自分が崩れたら、何もできなくなるからだ。
その結果、今の蒼が出来上がった。俺は、あれを成長とは呼べない。機械と同じだと思っている」
あなたがいたじゃない、という言葉を、春海は口にしなかった。もし一路が本当に救いになっていたのであれば、蒼一は今のようにはなっていない。手遅れだったのだと、嫌でも理解できた。
「・・・・私は負担?」
長い沈黙の後、春海が尋ねた。語尾は震えている。
「負担なら蒼は受け入れない」
一路は否定したが、春海もまた、否定した。
「負担じゃないと言い切れない。私は自分のことばかり・・・。蒼一に比べたら、私の傷なんて・・・・」
そこまで口にして、春海は身震いした。悪寒が止まらず、すぐさま吐き気が訪れる。一路はできる限り優しく彼女の両肩を掴んで言った。
「比べるな。そんなことはしなくていいし、するべきじゃない。蒼の傷は蒼にしか分からないように、春海の傷は春海にしか分からない。後ろめたいなんて思うな。救いを求めることが悪だなんて、そんな馬鹿な話はない。蒼は、受け入れることがお前への救いだと考えて受け入れた。分かってるだろ」
「分かっているわ。歪な関係でも、私は救われている。春江も、拓司も、悠も同じ。
でも、蒼一は誰が救うの? 感情に蓋をし続けたら、いつか限界が来る。壊れてしまう。そうなる前に、救わないと」
その役目を果たす者の正体が、分からずじまいであったとしても。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
九竜家の秘密
しまおか
ミステリー
【第6回ホラー・ミステリー小説大賞・奨励賞受賞作品】資産家の九竜久宗六十歳が何者かに滅多刺しで殺された。現場はある会社の旧事務所。入室する為に必要なカードキーを持つ三人が容疑者として浮上。その内アリバイが曖昧な女性も三郷を、障害者で特殊能力を持つ強面な県警刑事課の松ヶ根とチャラキャラを演じる所轄刑事の吉良が事情聴取を行う。三郷は五十一歳だがアラサーに見紛う異形の主。さらに訳ありの才女で言葉巧みに何かを隠す彼女に吉良達は翻弄される。密室とも呼ぶべき場所で殺されたこと等から捜査は難航。多額の遺産を相続する人物達やカードキーを持つ人物による共犯が疑われる。やがて次期社長に就任した五十八歳の敏子夫人が海外から戻らないまま、久宗の葬儀が行われた。そうして徐々に九竜家における秘密が明らかになり、松ヶ根達は真実に辿り着く。だがその結末は意外なものだった。
引きこもり名探偵、倫子さんの10分推理シリーズ
針ノ木みのる
ミステリー
不労所得の末、引きこもり生活を実現した倫子さん。だが、元上司である警察官に恩がある為仕方なく捜査協力をする。持ち合わせの資料と情報だけで事件を読み解き、事件を解決へと導く、一事件10分で読み切れる短編推理小説。
『新宿の刑事』
篠崎俊樹
ミステリー
短編のミステリー小説を、第6回ホラー・ミステリー大賞にエントリーします。新宿歌舞伎町がメイン舞台です。大賞を狙いたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
眼異探偵
知人さん
ミステリー
両目で色が違うオッドアイの名探偵が
眼に備わっている特殊な能力を使って
親友を救うために難事件を
解決していく物語。
だが、1番の難事件である助手の謎を
解決しようとするが、助手の運命は...
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる