腹の上の奴隷紋

梅鉢

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 木枯らしも去り、屋敷から少し離れた場所にある井戸へ水を汲みに行くのが本格的に辛い季節になってきた。
 手はあかぎれていて指を曲げると切れた場所から痛みを発する。ヨリはかじかむ手を寄せハーッと息を吹き掛けるが、息はすぐに白く変わって消えてしまい手が暖かくなることはなかった。








 両親共々、代々奴隷の家系に生まれ、もちろん自分も生まれながらの奴隷。先祖から受け継ぐ借金はいくら働いても返せないほどに膨らんでいる。奴隷一家を丸ごと抱えている家主も返し終わらせるつもりもない、未来永劫この関係は続いていく。生まれもってしまった境遇には疑問などもてない。
 増えてしまった子供奴隷は家主から奴隷商人に売られ、最終的にこのハーブ侯爵家に買われた。ヨリの一日は水汲みをメインに巻き割りや除草、ゴミの解体や破棄など様々だ。もう2人の少年奴隷と共に3人、ここでの生活を11歳のころから5年も続けていた。
 同じ事を繰り返すだけの日々は遅いようであっという間に過ぎていた。冬の水汲みは辛いが毎日腹が膨れるだけのパンと日に1度は温かいスープが食べられるし、料理人の機嫌がいいときは割れて客に出せなくなった甘いクッキーが食べられる。それが何より幸せだった。それに目立って意地悪をされるわけでもなく寝床もある。以前の食べられない時期を知るヨリにはここで過ごすことはきっと幸せなことなんだと思っていた。

 週に一度ある休みの日。特別することもないので寝所である納屋を出て、井戸で桶に水を汲んでから厩舎へ向かった。馬達が熱心に食べている後ろでは年老いた馬丁が馬糞を掃除し、新しい藁を敷いていた。

「おはようございます。お水どうぞ、端においておきます」
「ははー、ありがとーう」
「はい。今日は休みだから見ていてもいいですか?」
「好きにせえ」

 西南の離島から来たという馬丁は独特の口調で、ヨリが来たことも気にせずに仕事を続けた。この馬丁は奴隷だからと言ってヨリを差別するでもなく“普通”に接してくれる貴重な人間だった。人がいる空間で穏やかな心になれるのはこの屋敷の中では貴重なことであった。

 馬の食べっぷりを見ているのは気持ちがいい。フンフンと鼻を鳴らしながら一心不乱だ。邪魔をしてはいけないなと壁に寄りかかり、濁った灰色の瞳で馬を眺めた。
 どれくらいぼんやりと眺めていただろう。遠くで自分の名前を呼ぶ声がしてハッとした。首を伸ばし、小屋の外を覗く。馬丁はもう耳が遠いのか気づく様子はない。

 何度も呼んでいるその声はもう1人の水汲み、ゴゴだった。
 休みの日は呼ばれたことがないためどうしたのだろうと声のする方へ向かった。

「ああ、ヨリ。ここに、いたのか。よかったー……」
「どうしたんだ、ゴゴ」

 走って探したのか息がきれぎれだ。

「はぁ。つかれた。……王宮から偉い人たちが来るから、使用人も奴隷も全員仕事につけってお達しだ」
「そうか」

 急いで6つの桶に水汲みをし、台車に乗せてまずは台所に向かった。そこではすでに使用人たちがバタバタと忙しなく動いていた。
 ポンプ部屋へと移動し、タンクに水を入れた。それを何度か繰り返し、最後に床をキレイに拭いて屋敷の中心部のポンプ部屋へと向かう。外付けされているそこは4段ほどの階段を上ると部屋に入られる仕組みだが、丁度玄関ホールの裏側にあるため、ガラス越しに屋敷の中の様子が見えた。
 水色や青色、茶色や緑など様々な色のローブを着た人たちがぞろぞろと客室へ向かっているところであった。6・7人くらいいただろうか。侯爵や夫人が焦ったようにぺこぺことしている、とても珍しい光景だった。
 しかしここでサボっていることがばれたらあとで折檻部屋行きだ。
 急いで自分の仕事へと意識を切り替えた

 慌ただしく一日の仕事もようやく終わりが見え、最後にまた桶に一杯水を汲んで厩舎へ向かった。
 質問をすれば、知っていることだったら何でも答えてくれる馬丁に会って、今日の話をしたかったのだ。日常には見られない色とりどりのローブを来た人たちのことを。

 すると屋敷の反対にある森へ続く道をゆらゆらと泳ぐように歩く水色の物体がこちらに近づいてきた。
 どれくらい離れているだろうか、数十メートルくらいだろうがヨリは目が悪くて姿がぼんやりとしか映らない。
 はっきり見えるところまできたときにはもう驚きで動けずにいた。そうしている間に手の届くところまで近づいたその物体。裾に銀色で刺繍を施された水色のローブを纏った魔術師だった。

「侯爵家の人間?」

 思っていた以上に声が高く、まだ少年といったものだった。16歳とはいえ、栄養のまったく足りていないヨリと同じくらい、もしくは少しだけ高いくらいの背丈だ。2・3歳年下くらいというところか。
 夜が明けたといっても冬だ。常に曇りがちな天気に薄暗さが残っている。フードをかぶったその魔術師は目元が暗くて見えないが、口元や顎はまだ幼さがのこっているように線が細かった。

「キミは誰?」
「あ、あの、はい、そうです、奴隷です」
「そう」

 興味なさそうに呟き、大口を開けてあくびをする魔術師をまじまじと眺めてしまった。奴隷である自分とのん気にこんなところで話をしていていのだろうか。

「眠い」と口を押さえるその手の綺麗さに、自分の汚れた傷だらけの手が恥ずかしくなって咄嗟に隠してしまった。
 それに気が付いた魔術師はふと動きを止め、逆にまじまじと見られてしまう。

「何を隠したの?」
「な、なんでもありません」
「見せて」

 ずい、と近づかれ、フードを被った顔が迫る。後ろ手に思わず仰け反るとまず左腕をとられた。あ、と思う間もなく右腕もとられてしまって。

「何もないじゃないか」
「き、汚いのでっ」

 手を捕まれたところで魔術師の手を払った。奴隷である自分から魔術師の手を触ったわけではないが、このやり取りは不敬罪に問われないか、折檻部屋行きにならないかと頭をよぎったからだ。



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