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アルファクラスとの合同実践。授業を受ける朝永を盗み見ることができて好きな授業だ。出来れば体育も盗み見たい。願望が妄想に発展しそうになったところで思考を一旦停止した。授業中だった。
時々食堂では顔を合わせていたが、こうやって椋地とニ人になるのはこの授業くらいだった。
前回の合同実践ではちょっとした言い合いになって気まずくなって終わった。でも椋地がGOサインをくれたお蔭で朝永とももっと深くなれた、気がする。だから椋地にはありがとうだ。でもあのときの椋地の言い方が気に入らないから言わないけど。
PCを開いて椋地酒造(会社名を勝手に変えられていた)にログインしていると「体は大丈夫なの?」と声をかけられた。
「体って、発情期?」
「そう」
「不思議と今は何もないよ。すごいね、アレ。さすがに発情と言われるだけあると思う」
椋地が俺に興味がないことを知っているため、いつもなら言わないことまで言ってしまう。
やはり椋地は相槌を打つだけでそれについては特に反応はなかった。
「キミ、北原に何かした?」
「な、なにか?」
どっかで聞いたセリフに「何も」とだけ返した。
「そう」
「なんで?」
「北原の機嫌がとてもいいから」
そこまで言って、椋地は俺に体ごと向けてきた。
「それに、キミの纏う空気がとても柔らかなものになってる」
まとう、くうき、とは。
頭の上にハテナを置いて椋地を見るが、椋地は体の向きを直して銀行に行く準備をしていた。
すでに主従関係であるのか、朝永の機嫌を見すぎでは。同室だと色々あるのかもしれないし、椋地みたいに感情無さそうな人が色んな感情を向けられて面倒くさい、というのもあったりするのか。よく分からないが朝永は俺が思っている以上に分かりやすいんだろう。俺にはまったく分からないけど。
PCに取引したものの金額を表にうめいていく。
ふと視界の端に入ったのはキャッキャする2番の姿。
朝永と楽しそうに身を寄せ合って話をしていた。
羨ましい。
数日前に朝永に抱きしめてもらってキスしたいとも言われ、さらにはお持ち帰りしたくなるなど、嬉しい言葉のオンパレードで浮かれていたというのに。あのニ人の姿を見るともしかして幻だったのでは、妄想だったのではと錯覚する。
朝永が好きで、さらに朝永にもはっきりとした言葉はなくても少なからず好かれていると思っていたけど自信過剰だったのだろうか。
「じゃあ銀行に行くけど、キミはあからさま過ぎるからもう少し押さえてもいいかもね。羨ましいのは分かるけど授業中だし」
隣の椋地が席を立ち、ハッと我に返った。確かに見すぎだった。授業そっちのけで朝永のことを考えていた。さっき授業に集中しなければと思ったばかりなのに。
恋愛脳とは恐ろしいなと口元を歪め、また入力作業を再開した。
二時間あるうちの一時間が終わり、休憩の時間となりトイレに行った。特別棟ニ棟四階は合同実践の教室と華道室しかないため、合同実践をしている生徒にしか会わない。はずだが、どういうわけか用を足し終えて手を洗っていると個室から古渓が出てきた。ニ年生は今この棟の、この階には用事がないはずなのに。
俺を見つけた古渓は嬉しそうに、足取り軽やかに近寄ってくる。それと反対に俺はテンションだだ下がりだ。一人でいるときに古渓に会いたくなかった。いつも継直が適当にあしらってくれたが、俺はこの人が苦手だ。
「久しぶりー。元気だった? 14番」
「あ、はあ」
「ふふ。ここで会えるなんて。サボっててよかったー」
ニコニコと笑顔だが、俺にはなにか企んでいるような顔にしか見えない。近寄られると二の腕にプツプツと鳥肌が立ち始めた。もう生理的なものなんだろう。この苦手意識。まず出会いが悪すぎた。そしてあの出会い方は古渓のせいだ。
ずいっと体を寄せられ、寄せられただけ体を離れるように上半身を仰け反らせた。俺を窺うようにしていたが、目と口に弧を描き、胡散臭い笑顔を張り付かせた古渓は「おめでとう」と祝いの言葉を口にした。
何にたいしておめでとうなのか。誕生日はまだ先の話だ。誕生日を知られていても気持ち悪いだけだけど。
一歩後ずさり、古渓から距離を取る。が、腕を取られて離れた分以上に距離をつめられた。
「初めての発情おめでとう。これで一人前のオメガになれたんだね」
何故それを知っているのだと、全身に力が入る。
捕まえられている手も力いっぱい引くが力で叶うわけもなく、古渓は涼しい顔で俺を拘束する。
「誰がいつ発情したなんて、そんなものどこもかしこも情報漏れまくりだよ。一週間丸っといないんだから。でもいいじゃない。知られたって。ますます14番に近づいてくる奴も増えるだろうし。アルファなんてオメガと言う花に群がるだけの虫だしね。モテモテになれるよ」
「べ、別にそんなこと、どうでもいい。……です」
「そうだね、お前の周りには北原がちょろちょろしていたんだったねえ」
ちょろちょろしているのはどちらかというと自分なんだけどな、と思いつつも反論はしなかった。古渓とこの空間にニ人きりでいることが怖くて仕方ない。
知らずに震え始めた手に、古渓は笑みを深くする。
どうしたらこの人から逃れられるのか分からない。そして笑っている古渓からは、表情とは裏腹に怒りのようなものを感じるのはなぜだろう。俺が怒らせたのか。でも何もしていない。
どうしよう。
授業も再開する、どうしよう。
目の前も薄暗くなった。物理的になんの明るさも変わりなかったが、古渓といるこの空間が暗い。そう感じた瞬間、キィと古びた音を立ててトイレのドアが開いた。動かなかった体なのに、咄嗟に振り返ることが出来た。
助けて! 声にはでなくてもすがる思いで来た人を見た。
「遅いと思ったら。授業始まるから行くよ」
……むくろじ。全身の力がすうっと抜けていくのが分かった。知っている顔。そして安心できる人物の登場に体中の血がめぐり始めた。
この人は俺に何かをしない。俺に対して何もしない人だ。
ニヤつく古渓に腕を取られて青ざめているだろう俺。そんな状況でも椋地はいつも通りだった。「おはよう」と言った挨拶のときとなんら変わりない。
舌打ちをしたのは古渓で。
「北原の下僕か」
「早く。そろそろ鐘もなるよ」
椋地はトイレに侵入し、空いている方の俺の腕を取った。と同時に古渓が俺の腕を離した。
その隙にさっと椋地の後ろに隠れ、古渓から距離を取った。鳥肌はすごいものになっているし、古渓に近づかれると俺の精神がやばい。
怖くて萎縮してしまう。
「じゃあね、14番。またおしゃべりしようね」
アレだけ構ってきたくせに去るときはあっさりとしたものだった。
古渓が出て行ったが、俺は安心しすぎて動けず、大きく息を吸っては吐いてを繰り返した。鳥肌を早く治めたい。
「何を遊んでいると思ったら」
「遊んでたわけなじゃないよ。一年しかいないはずなのに、個室から古渓さんが出てきてビックリしたんだ。そんで捕まっちゃって。はあー。……ありがとう、助かった」
「助けたわけでもないけど、まぁ、よかったんだろうね」
呼吸も落ち着き、さあ行こうかとなったとき、奥の個室から「クシュン」とかわいいくしゃみが聞こえた。かわいいと言っても男のものだったけど。
椋地と顔を見合わせる。そしてしばし目で会話をし(勝手に思っているだけかも知れないが)、椋地は音を立てずに奥の個室に歩き出した。俺もそれに続く。
この特別棟ニ棟四階のトイレの個室はひとつ。
古渓が出てきたところだ。
もちろんドアは古渓が出てきたときから開けっぱなし。
ニ人で恐る恐る中を覗いて見れば、そこには下半身丸出しで便座に座る男子生徒がいた。生徒は涙で濡れた瞳を大きく見開き、自分の口を両手で塞いで震えていた。そしてすぐに前のめりになって下半身も隠した。
少ししか見えなかったが、白く汚れた液体が顔や制服、さらに下半身を汚していた。
あまりの光景に唖然としていると俺の前にいた椋地の手が伸び、俺の両目を隠した。
あ、と思う間もなかった。だがはずそうとも思えず、口をポカンと開けたままでいた。不安な音を鳴らす心臓が、椋地に従えと言っているようだった。
「……先輩、制服かなり汚れていますか?」
「……っ、……ぅ」
「そうですか、俺のブレザーかします。幸い、ズボンは脱いでて綺麗なようですし」
「……うぅ」
「ちょっと待っていてください」
声しか届かない俺には会話をしているようには思えなかったが、先輩とやらはフリだけで返事をしているのだろう。
会話が途切れ、椋地は俺の両目を押さえている手に力をこめてきて、その力に少しだけ俺は後ずさった。個室の中が見えなくなったところで目元を覆っていた手が外された。その手は今度は俺の手首を掴み、早足にトイレから脱出した。
俺の心臓はまだ煩い。さっきの光景が目に焼きついて離れない。オメガの人だろうか。椋地は先輩と言った。知っている人なんだろうか。自分の知っている人があんなことをされていて椋地はどう思ったのだろう。あんなこと……。あんなことがいつでも起きてしまうのか。アレが普通のことなのか。
気持ち悪い。
立ち止まった椋地の制服に、正面からすがりつくように握り締めていた。服越しではあるが、体が触れあう。ただ俺は怖くて仕方なかった。それだけの行動であるが椋地は違ったらしい。
「そんなに擦り寄られると勘違いされるからやめなね」
「え」
「襲われてもこれはキミが悪いと思うよ」
椋地が相手だからとった行動だけど、そうだ。これは俺から誘っていると思われても仕方ない。
素直にゴメンと謝れば別に、と返ってきた。
「……あの人」
「うん、三年のアルファだね。まあアルファだし妊娠の心配も無さそうだけど一応保健室つれていくよ」
「アルファ!?」
「アルファだね」
しかも三年……。
想像もしなかった答えに、目をまん丸にして椋地を見た。だがそこにはいつも通りの無表情。
「そろそろ本当に鐘が鳴る。キミから先生に保健室に行くと言っておいて。じゃあ」
「あ、」
椋地。
と小さく呼んだ。聞こえたはずだが椋地はトイレの中に消えていった。そして鐘がなり、俺も迷いながらもダッシュで合同実践の教室へと戻っていった。
先生に椋地のことを伝え、席に座ってほっと息を吐いていると強い視線を感じた。
顔を上げると朝永が真っ直ぐに俺を見ていた。何かあるはずのその視線はゆっくりと逸らされて。
ああ、もう、色々ありすぎて心がまったく落ち着かない。
授業が始まって三十分後に椋地は戻ってきた。
あんなことがあったというのに、やっぱり涼しい顔をしている。なんてことない日常の一部だったりするんだろうか。恐ろしい。三年のアルファが、ニ年のアルファに襲われているなんて。
さらに古渓が怖くなったし、気持ち悪くなった。もう話しかけないでほしい。とりあえず祈っておこう。二度と会いませんように、と。多分無理だろうけど。
「さっきのアレ」
なんとなく、話してはイケナイことのように思えて、俺からは話しかけなかったが意外にも椋地から話しをふって来た。表情は相変わらずだけど。
「アルファ同士では時々あるんだ。でもオメガ相手に無理やりはほとんどないから。安心したらいいと思う」
「そっか、罰則……」
「あるからね。オメガ相手だとさすがに。申請したら同じ部屋にもいれることもあるけど、それでも無理矢理の場合はオメガから告発したらまた別の罰が待ってる」
「罰だらけ……」
「出来の悪いアルファは初めから自分はあぶれものと思っている。でも曲がりなりにもアルファ。体力と性欲をもて余してるらしいしね。ああいう奴らは特に。まぁ、英雄、色を好むというし? 古渓は英雄でもなんでもないけど」
珍しく饒舌な椋地。もしかして結構イライラしているのだろうか。俺には口数以外の違いは分からないけど。
この授業に限っては同じ会社同士話しをすることが多くて周りもざわついているから、遠慮なく私語をすることにした。
「出来の悪いアルファって、古渓さんはそうなの?」
「出来悪すぎでしょ」
「でも、前にオメガのニ年生をはべらせていたけど」
「はべ……。どこでそんな言葉を知ったの。あんなもの、同じもの同士くっついているだけでしょ」
「……椋地は、今、機嫌が悪いの?」
首をかしげてそっと窺えば、椋地は黒い睫毛に縁取られた切れ長の目でこちらを一瞥し、「悪いよ」と投げやりに言ってPC画面に視線を移した。
わりとまともな感覚をもっている気がするような、しないような。未だに椋地のことは分からないけど、やっぱり椋地とはもっと仲良くなりたい。
「椋地さ、俺と友達になってよ」
今度は何言ってんだお前、みたいな冷ややかな視線を寄越された。
でも朝永は友達になりたいって言ってくれたんだけどな。
「アルファとオメガで友達なんてありえないから」
「えー。……そうなの?」
「当たり前でしょ。抑制剤を飲んでないときの俺の前でヒートなんて起こしてみなよ。襲う自信あるね。秒で犯しているわ」
そんなことを言われたら閉口してしまう。俺も自分のPC画面に視線を戻した。
確かにオメガとして自覚が出てきたと思ったのに、どこか甘いのか。そこが古渓につつかれたりするのか。
でも椋地ってあまり性的な何かを感じないんだよな。他のアルファよりも中性的な外見がそうさせるのだろうか。体格はいいんだけど。
「ごめん。なんとなく椋地から性的な匂いを感じなくてさ。まぁ、本能は別物だもんな」
「それなんだか俺に失礼じゃない」
そんなつもりもないんだけどな。笑って誤魔化すと椋地も口の端を少しだけあげた。
衝撃的な一日を終え、部屋に戻ると父親からメッセージが届いていた。
『こんな半端な時期だが昇進した(TQT)本社栄転の上、部長になります。不安で一杯です!!!』
嬉しい内容だと言うのになんと情けない絵文字か。しかし大丈夫だろうか。いや、もう大丈夫ではなさそうだ。本人にもその自覚があるようだし。だからって息子相手に弱音はやめて欲しい。それは夫婦でどうにかして欲しかった。実際仕事できなさ過ぎて入院案件とかやめてもらいたい。ほどほどでいいのに。とは本人も思っていることだろうけど。
そう思いつつ、おめでとうとだけ返した。
そのまま継直にもメッセージを送る。今日は部屋で食べるから食堂には行かない、と。
そして床に寝転がり、眼を閉じた。今日はなんだか疲れた。
時々食堂では顔を合わせていたが、こうやって椋地とニ人になるのはこの授業くらいだった。
前回の合同実践ではちょっとした言い合いになって気まずくなって終わった。でも椋地がGOサインをくれたお蔭で朝永とももっと深くなれた、気がする。だから椋地にはありがとうだ。でもあのときの椋地の言い方が気に入らないから言わないけど。
PCを開いて椋地酒造(会社名を勝手に変えられていた)にログインしていると「体は大丈夫なの?」と声をかけられた。
「体って、発情期?」
「そう」
「不思議と今は何もないよ。すごいね、アレ。さすがに発情と言われるだけあると思う」
椋地が俺に興味がないことを知っているため、いつもなら言わないことまで言ってしまう。
やはり椋地は相槌を打つだけでそれについては特に反応はなかった。
「キミ、北原に何かした?」
「な、なにか?」
どっかで聞いたセリフに「何も」とだけ返した。
「そう」
「なんで?」
「北原の機嫌がとてもいいから」
そこまで言って、椋地は俺に体ごと向けてきた。
「それに、キミの纏う空気がとても柔らかなものになってる」
まとう、くうき、とは。
頭の上にハテナを置いて椋地を見るが、椋地は体の向きを直して銀行に行く準備をしていた。
すでに主従関係であるのか、朝永の機嫌を見すぎでは。同室だと色々あるのかもしれないし、椋地みたいに感情無さそうな人が色んな感情を向けられて面倒くさい、というのもあったりするのか。よく分からないが朝永は俺が思っている以上に分かりやすいんだろう。俺にはまったく分からないけど。
PCに取引したものの金額を表にうめいていく。
ふと視界の端に入ったのはキャッキャする2番の姿。
朝永と楽しそうに身を寄せ合って話をしていた。
羨ましい。
数日前に朝永に抱きしめてもらってキスしたいとも言われ、さらにはお持ち帰りしたくなるなど、嬉しい言葉のオンパレードで浮かれていたというのに。あのニ人の姿を見るともしかして幻だったのでは、妄想だったのではと錯覚する。
朝永が好きで、さらに朝永にもはっきりとした言葉はなくても少なからず好かれていると思っていたけど自信過剰だったのだろうか。
「じゃあ銀行に行くけど、キミはあからさま過ぎるからもう少し押さえてもいいかもね。羨ましいのは分かるけど授業中だし」
隣の椋地が席を立ち、ハッと我に返った。確かに見すぎだった。授業そっちのけで朝永のことを考えていた。さっき授業に集中しなければと思ったばかりなのに。
恋愛脳とは恐ろしいなと口元を歪め、また入力作業を再開した。
二時間あるうちの一時間が終わり、休憩の時間となりトイレに行った。特別棟ニ棟四階は合同実践の教室と華道室しかないため、合同実践をしている生徒にしか会わない。はずだが、どういうわけか用を足し終えて手を洗っていると個室から古渓が出てきた。ニ年生は今この棟の、この階には用事がないはずなのに。
俺を見つけた古渓は嬉しそうに、足取り軽やかに近寄ってくる。それと反対に俺はテンションだだ下がりだ。一人でいるときに古渓に会いたくなかった。いつも継直が適当にあしらってくれたが、俺はこの人が苦手だ。
「久しぶりー。元気だった? 14番」
「あ、はあ」
「ふふ。ここで会えるなんて。サボっててよかったー」
ニコニコと笑顔だが、俺にはなにか企んでいるような顔にしか見えない。近寄られると二の腕にプツプツと鳥肌が立ち始めた。もう生理的なものなんだろう。この苦手意識。まず出会いが悪すぎた。そしてあの出会い方は古渓のせいだ。
ずいっと体を寄せられ、寄せられただけ体を離れるように上半身を仰け反らせた。俺を窺うようにしていたが、目と口に弧を描き、胡散臭い笑顔を張り付かせた古渓は「おめでとう」と祝いの言葉を口にした。
何にたいしておめでとうなのか。誕生日はまだ先の話だ。誕生日を知られていても気持ち悪いだけだけど。
一歩後ずさり、古渓から距離を取る。が、腕を取られて離れた分以上に距離をつめられた。
「初めての発情おめでとう。これで一人前のオメガになれたんだね」
何故それを知っているのだと、全身に力が入る。
捕まえられている手も力いっぱい引くが力で叶うわけもなく、古渓は涼しい顔で俺を拘束する。
「誰がいつ発情したなんて、そんなものどこもかしこも情報漏れまくりだよ。一週間丸っといないんだから。でもいいじゃない。知られたって。ますます14番に近づいてくる奴も増えるだろうし。アルファなんてオメガと言う花に群がるだけの虫だしね。モテモテになれるよ」
「べ、別にそんなこと、どうでもいい。……です」
「そうだね、お前の周りには北原がちょろちょろしていたんだったねえ」
ちょろちょろしているのはどちらかというと自分なんだけどな、と思いつつも反論はしなかった。古渓とこの空間にニ人きりでいることが怖くて仕方ない。
知らずに震え始めた手に、古渓は笑みを深くする。
どうしたらこの人から逃れられるのか分からない。そして笑っている古渓からは、表情とは裏腹に怒りのようなものを感じるのはなぜだろう。俺が怒らせたのか。でも何もしていない。
どうしよう。
授業も再開する、どうしよう。
目の前も薄暗くなった。物理的になんの明るさも変わりなかったが、古渓といるこの空間が暗い。そう感じた瞬間、キィと古びた音を立ててトイレのドアが開いた。動かなかった体なのに、咄嗟に振り返ることが出来た。
助けて! 声にはでなくてもすがる思いで来た人を見た。
「遅いと思ったら。授業始まるから行くよ」
……むくろじ。全身の力がすうっと抜けていくのが分かった。知っている顔。そして安心できる人物の登場に体中の血がめぐり始めた。
この人は俺に何かをしない。俺に対して何もしない人だ。
ニヤつく古渓に腕を取られて青ざめているだろう俺。そんな状況でも椋地はいつも通りだった。「おはよう」と言った挨拶のときとなんら変わりない。
舌打ちをしたのは古渓で。
「北原の下僕か」
「早く。そろそろ鐘もなるよ」
椋地はトイレに侵入し、空いている方の俺の腕を取った。と同時に古渓が俺の腕を離した。
その隙にさっと椋地の後ろに隠れ、古渓から距離を取った。鳥肌はすごいものになっているし、古渓に近づかれると俺の精神がやばい。
怖くて萎縮してしまう。
「じゃあね、14番。またおしゃべりしようね」
アレだけ構ってきたくせに去るときはあっさりとしたものだった。
古渓が出て行ったが、俺は安心しすぎて動けず、大きく息を吸っては吐いてを繰り返した。鳥肌を早く治めたい。
「何を遊んでいると思ったら」
「遊んでたわけなじゃないよ。一年しかいないはずなのに、個室から古渓さんが出てきてビックリしたんだ。そんで捕まっちゃって。はあー。……ありがとう、助かった」
「助けたわけでもないけど、まぁ、よかったんだろうね」
呼吸も落ち着き、さあ行こうかとなったとき、奥の個室から「クシュン」とかわいいくしゃみが聞こえた。かわいいと言っても男のものだったけど。
椋地と顔を見合わせる。そしてしばし目で会話をし(勝手に思っているだけかも知れないが)、椋地は音を立てずに奥の個室に歩き出した。俺もそれに続く。
この特別棟ニ棟四階のトイレの個室はひとつ。
古渓が出てきたところだ。
もちろんドアは古渓が出てきたときから開けっぱなし。
ニ人で恐る恐る中を覗いて見れば、そこには下半身丸出しで便座に座る男子生徒がいた。生徒は涙で濡れた瞳を大きく見開き、自分の口を両手で塞いで震えていた。そしてすぐに前のめりになって下半身も隠した。
少ししか見えなかったが、白く汚れた液体が顔や制服、さらに下半身を汚していた。
あまりの光景に唖然としていると俺の前にいた椋地の手が伸び、俺の両目を隠した。
あ、と思う間もなかった。だがはずそうとも思えず、口をポカンと開けたままでいた。不安な音を鳴らす心臓が、椋地に従えと言っているようだった。
「……先輩、制服かなり汚れていますか?」
「……っ、……ぅ」
「そうですか、俺のブレザーかします。幸い、ズボンは脱いでて綺麗なようですし」
「……うぅ」
「ちょっと待っていてください」
声しか届かない俺には会話をしているようには思えなかったが、先輩とやらはフリだけで返事をしているのだろう。
会話が途切れ、椋地は俺の両目を押さえている手に力をこめてきて、その力に少しだけ俺は後ずさった。個室の中が見えなくなったところで目元を覆っていた手が外された。その手は今度は俺の手首を掴み、早足にトイレから脱出した。
俺の心臓はまだ煩い。さっきの光景が目に焼きついて離れない。オメガの人だろうか。椋地は先輩と言った。知っている人なんだろうか。自分の知っている人があんなことをされていて椋地はどう思ったのだろう。あんなこと……。あんなことがいつでも起きてしまうのか。アレが普通のことなのか。
気持ち悪い。
立ち止まった椋地の制服に、正面からすがりつくように握り締めていた。服越しではあるが、体が触れあう。ただ俺は怖くて仕方なかった。それだけの行動であるが椋地は違ったらしい。
「そんなに擦り寄られると勘違いされるからやめなね」
「え」
「襲われてもこれはキミが悪いと思うよ」
椋地が相手だからとった行動だけど、そうだ。これは俺から誘っていると思われても仕方ない。
素直にゴメンと謝れば別に、と返ってきた。
「……あの人」
「うん、三年のアルファだね。まあアルファだし妊娠の心配も無さそうだけど一応保健室つれていくよ」
「アルファ!?」
「アルファだね」
しかも三年……。
想像もしなかった答えに、目をまん丸にして椋地を見た。だがそこにはいつも通りの無表情。
「そろそろ本当に鐘が鳴る。キミから先生に保健室に行くと言っておいて。じゃあ」
「あ、」
椋地。
と小さく呼んだ。聞こえたはずだが椋地はトイレの中に消えていった。そして鐘がなり、俺も迷いながらもダッシュで合同実践の教室へと戻っていった。
先生に椋地のことを伝え、席に座ってほっと息を吐いていると強い視線を感じた。
顔を上げると朝永が真っ直ぐに俺を見ていた。何かあるはずのその視線はゆっくりと逸らされて。
ああ、もう、色々ありすぎて心がまったく落ち着かない。
授業が始まって三十分後に椋地は戻ってきた。
あんなことがあったというのに、やっぱり涼しい顔をしている。なんてことない日常の一部だったりするんだろうか。恐ろしい。三年のアルファが、ニ年のアルファに襲われているなんて。
さらに古渓が怖くなったし、気持ち悪くなった。もう話しかけないでほしい。とりあえず祈っておこう。二度と会いませんように、と。多分無理だろうけど。
「さっきのアレ」
なんとなく、話してはイケナイことのように思えて、俺からは話しかけなかったが意外にも椋地から話しをふって来た。表情は相変わらずだけど。
「アルファ同士では時々あるんだ。でもオメガ相手に無理やりはほとんどないから。安心したらいいと思う」
「そっか、罰則……」
「あるからね。オメガ相手だとさすがに。申請したら同じ部屋にもいれることもあるけど、それでも無理矢理の場合はオメガから告発したらまた別の罰が待ってる」
「罰だらけ……」
「出来の悪いアルファは初めから自分はあぶれものと思っている。でも曲がりなりにもアルファ。体力と性欲をもて余してるらしいしね。ああいう奴らは特に。まぁ、英雄、色を好むというし? 古渓は英雄でもなんでもないけど」
珍しく饒舌な椋地。もしかして結構イライラしているのだろうか。俺には口数以外の違いは分からないけど。
この授業に限っては同じ会社同士話しをすることが多くて周りもざわついているから、遠慮なく私語をすることにした。
「出来の悪いアルファって、古渓さんはそうなの?」
「出来悪すぎでしょ」
「でも、前にオメガのニ年生をはべらせていたけど」
「はべ……。どこでそんな言葉を知ったの。あんなもの、同じもの同士くっついているだけでしょ」
「……椋地は、今、機嫌が悪いの?」
首をかしげてそっと窺えば、椋地は黒い睫毛に縁取られた切れ長の目でこちらを一瞥し、「悪いよ」と投げやりに言ってPC画面に視線を移した。
わりとまともな感覚をもっている気がするような、しないような。未だに椋地のことは分からないけど、やっぱり椋地とはもっと仲良くなりたい。
「椋地さ、俺と友達になってよ」
今度は何言ってんだお前、みたいな冷ややかな視線を寄越された。
でも朝永は友達になりたいって言ってくれたんだけどな。
「アルファとオメガで友達なんてありえないから」
「えー。……そうなの?」
「当たり前でしょ。抑制剤を飲んでないときの俺の前でヒートなんて起こしてみなよ。襲う自信あるね。秒で犯しているわ」
そんなことを言われたら閉口してしまう。俺も自分のPC画面に視線を戻した。
確かにオメガとして自覚が出てきたと思ったのに、どこか甘いのか。そこが古渓につつかれたりするのか。
でも椋地ってあまり性的な何かを感じないんだよな。他のアルファよりも中性的な外見がそうさせるのだろうか。体格はいいんだけど。
「ごめん。なんとなく椋地から性的な匂いを感じなくてさ。まぁ、本能は別物だもんな」
「それなんだか俺に失礼じゃない」
そんなつもりもないんだけどな。笑って誤魔化すと椋地も口の端を少しだけあげた。
衝撃的な一日を終え、部屋に戻ると父親からメッセージが届いていた。
『こんな半端な時期だが昇進した(TQT)本社栄転の上、部長になります。不安で一杯です!!!』
嬉しい内容だと言うのになんと情けない絵文字か。しかし大丈夫だろうか。いや、もう大丈夫ではなさそうだ。本人にもその自覚があるようだし。だからって息子相手に弱音はやめて欲しい。それは夫婦でどうにかして欲しかった。実際仕事できなさ過ぎて入院案件とかやめてもらいたい。ほどほどでいいのに。とは本人も思っていることだろうけど。
そう思いつつ、おめでとうとだけ返した。
そのまま継直にもメッセージを送る。今日は部屋で食べるから食堂には行かない、と。
そして床に寝転がり、眼を閉じた。今日はなんだか疲れた。
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