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第5章
3 名前のない感情
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「…獣人達の復讐と言っているけれど、あんたがそんな殊勝なことするタイプ?」
雪は訝しげながらナイトメアを見上げた。人道的な支援など、こいつからはまるで感じられない。
「ずいぶんな物言いだな」
「自分の使い魔以外には興味なさそうじゃない」
「否定はせん」
「(…否定しないんだ)それで私にどうしろと言うの?」
「話が早くて助かるわ。諦めがついたか」
「…諦めたわけじゃない。でも、」
内側からじくじくと啄まれているような痛みが増し、ちくちくと小さな針を一本ずつ打ち付けられているような気分だ。
細かく咀嚼されているように細胞が破壊されていく。
めまいがする。腰を下ろしているだけでも辛い。寝そべりたい。
この男の言うことを聞くわけじゃないけれど、身体の自由がきかない。このままだといいようにされてしまう。
雪は意識を失わないよう、自分の腕に爪を立てた。皮膚に爪の跡が残り、食い込んだ場所に血が滲んで来た。こんな痛みでは足りない。もっと強くて、目が醒めるような痛みでなければ耐えられない。
雪は目を閉じないように必死に歯を食いしばった。
「お前の記憶を消す為に、膨大なエネルギーが使用される」
「…またその話」
うんざりだ。奪われる為のレクチャーなんて受けたくない。
「お前は余計なことを知りすぎたんだ。この国の足しになる記憶以外はすべて無になる」
「足し、ね。大したことないのに」
「それでも。影付きはそうなるように出来ている。すべてを消して生まれ変われるのだ。お前にとっても悪い話ではあるまい」
「救済だなんて笑わせるわね。救いの手だと本気で縋りたい人だっていただろうに。それを踏み躙って、今までの影付き全員の記憶を奪った。最低な行為よ。
私は生まれ変わりたいなんて思ってない。私は私でありたい。何も求めてないのに私だけ大損じゃない」
「儂の望みは自分の体を取り戻すことじゃ。そしてククルを復活させる」
「ククル?」
「使い魔の名前だ。繰り返すという意味だ」
「繰り返す…人生を?」
「死しても同じ主人の元に戻る。核があれば何度でもやり直せる」
「…望みが増えてるじゃない」
「自分の体を取り戻せたらヴァリウスを引き裂く。それでいいだろう」
「そもそも何であんたは体がないの?占い師だったんでしょう?」
体のラインは浮き上がってきても、輪郭だけで中身がない。灰色の靄がゆらゆらと人型に揺れていた。
「ククルの核と引き換えに自分の体を切らせた。人語を話すだけの獣人には興味がなかったんだな。プラスαがないなら奴にとっては家畜と大差ない」
「…家畜」
チドリに刻まれた家畜用の捕獲印。今も足首に残っている。柊の葉に似て刺々しい。
黒々と鮮明に。こびりついていて消えやしない。
私は家畜同様だと嘲笑ってるようだった。
「沈むな沈むな。陰気な気は悪鬼を呼び寄せやすいぞ。また飲まれたら、次はどうなるかわからんぞ」
気力と体力は傾きつつある。むしろ無いと言った方が早い。ナイトメアが話す度に消耗されていく。あの口を黙らせたいけれど、飛びかかる余裕もない。
ナイトメアは俯いた雪の顎を持ち上げた。手つきは人間と変わりなかった。
「気に病むなら役目を果たしてからにしろ」
雪は手を払い、顔を背けた。人間らしく。そう考えてゾッとした。これはまだ人ではないのだ。人型をした夢魔に過ぎないのだ。
「だいたい、儂を恨んでも無意味だぞ。影付きの行き道は決まっているのだからな。遅かれ早かれ記憶は消される」
「あんたは、自分が体を取り戻して、使い魔を復活させるとか聞こえが良い話をしているけれど、やってる事は、王様と同じじゃない。私の了承も得ずに、無理矢理奪おうとしている。最低よ!」
「ヴァリウスと一緒にするな!あいつらはお前の記憶を消すのが目的だ。儂はそのエネルギーが必要なだけだ」
「同じよ。記憶を消さなければエネルギーは発しない。
私を捕らえて消させることが狙いでしょう?」
「お前とて、生まれ変われるのだ。悪い話ではあるまい」
「私はこのままでいい」
「なぜお前はそこまで己れに固執するんだ?どうせ良い人生ではなかっただろうに」
「勝手に決めないで」
私は私でいたい。
進歩がなくても、要領が悪くても、22年共にしてきた。
仕事も家族もプライベートも、色々とうまくいかなかったけれど、楽して生きていくだけなんてあり得ない。だから、簡単に捨てるなんてしたくない。
「頭の固いやつだ。ヴァリウスが手を焼くのもわかる気がするわ」
やれやれと、ナイトメアは両手を上げるそぶりをした。
「それにまだやるべきことがある」
「あのチビのことか?それなら心配いらん」
「どういう意味?」
「あれは神殿の巫女だろう?禁呪を解くだの言っているが、塔から解放されて自然と力が戻ってきている。わからんか?大気が弾んでいるだろう。霧が晴れて太陽が出てきたのはあのチビのおかげだろうな。周りを見てわかるだろ?木々や植物が生き生きとしている。見ろ、ホルキリンの花まで咲こうとしている」
ナイトメアが顎を癪って合図をした方向に、背の高い木が見えた。茶色の枝に黄色い花弁がいくつも見えた。
「本来は夏の花だ。季節関係なく植物の成長も早まっている」
「じゃあ体の成長も進んでいるということ?」
「成長?」
「実年齢はわからないけれど、チドリさんは、マリーを6歳に戻したと言っていた」
無垢な少女のまま、いさせたいと願った。
「ほう、それはだいぶえげつないことをしたな。倫理に反した行為だ。神官のくせにようやるわい」
ナイトメアに倫理を問う資格があるのか。
雪は小さくため息をついた。
ナイトメアはイヒヒと満足げに笑った。恐喝のネタにでもする気か。人相の悪い顔が、より一層悪人に見えた。
「どちらにせよ、あのチビの禁呪は放っておいても解けるレベルだ。お前が命をかけてまで解く必要は無い。だから、その余力を儂に貸せというのだ」
「…自分勝手ね」
「どうせ消えていく力だ。人生の最後に人助けができるなら本望だろう。お前はそうやって他人のことばかり考えているのだから、ちょうどいいだろう」
(それがこいつの良いところでもあるのだが、他者ばかり気を取られて自分を蔑ろにするのはいただけない)
「それとも自分にメリットがないから気が引くか」
(それを逆手に取っている儂も結構な悪人か。ヴァリウスを引き合いに出されても文句は言えんな…)
「…無茶苦茶ね」
雪は呆れているようだが、言い返す気もなさそうに見える。
(こいつを追い詰めて責め立てて、手に入れられたら一生、儂から離れなくさせようと思った。共に生きてみたかった。
しかし、そううまくはいかんな。今はこいつよりククルを優先したい。それにこの感情を何と呼ぶかがまだ、わからん)
ナイトメアは雪を見下ろした。名前のない感情の扱いに戸惑っていた。支配か愛情か。執着か羨望か。それとも他にあるのか。わからないままだった。
「さっきも言ったけど、メリットのあるなしで行動しているわけじゃない。助けを求めている人がいたら手を差し伸べるのが人としての道理よ。でもそれは強制じゃない。力及ばないこともある。助けの手が足りなかったら他を呼ぶわ」
「儂の為に動いてはくれんか?」
「…私を滅そうとしている人の言うことを聞くと思っているの?」
それは随分と虫が良すぎる。人の為とはいえ、そう簡単に首は振れない。
「頭を下げればよかったのか?」
「軽い頭ね。する気もないのに口に出さないで」
「誰でもいいわけではないのだな。助ける相手を選ぶということか。偽善だな」
「…あんたのはお願いじゃなくて強制じゃない。偽善とか言われたって、私は聖人君子じゃない。出来ることと出来ないことがある。それをメリットがどうのと言われたら言い返せないけど、買い被りすぎるのも困る。私が出来ることは限りがある…」
格好つけても、結果がついて来なければ意味がない。出来ないことを出来るとは言えない。虚勢を張ってもひっくり返されたら元も子もない。これが会議ならやる気も出るけど、張り合う相手がいなければ頑張れない。
今は、私、ひとりだ。
区切られた空間にただひとり。話の通じない相手と一緒にいたって、活路が見えない。だけど、
ただ奪われていくのは嫌だ!
雪は、閉じかけている両目をしきりに擦った。眠るわけにはいかない。なのに瞼が重い。諦めるわけにはいかないのに、助けを求める声も出ない。でも、呼びたい。
私を待つと言ってくれた人の名を。
「…獣人達の復讐と言っているけれど、あんたがそんな殊勝なことするタイプ?」
雪は訝しげながらナイトメアを見上げた。人道的な支援など、こいつからはまるで感じられない。
「ずいぶんな物言いだな」
「自分の使い魔以外には興味なさそうじゃない」
「否定はせん」
「(…否定しないんだ)それで私にどうしろと言うの?」
「話が早くて助かるわ。諦めがついたか」
「…諦めたわけじゃない。でも、」
内側からじくじくと啄まれているような痛みが増し、ちくちくと小さな針を一本ずつ打ち付けられているような気分だ。
細かく咀嚼されているように細胞が破壊されていく。
めまいがする。腰を下ろしているだけでも辛い。寝そべりたい。
この男の言うことを聞くわけじゃないけれど、身体の自由がきかない。このままだといいようにされてしまう。
雪は意識を失わないよう、自分の腕に爪を立てた。皮膚に爪の跡が残り、食い込んだ場所に血が滲んで来た。こんな痛みでは足りない。もっと強くて、目が醒めるような痛みでなければ耐えられない。
雪は目を閉じないように必死に歯を食いしばった。
「お前の記憶を消す為に、膨大なエネルギーが使用される」
「…またその話」
うんざりだ。奪われる為のレクチャーなんて受けたくない。
「お前は余計なことを知りすぎたんだ。この国の足しになる記憶以外はすべて無になる」
「足し、ね。大したことないのに」
「それでも。影付きはそうなるように出来ている。すべてを消して生まれ変われるのだ。お前にとっても悪い話ではあるまい」
「救済だなんて笑わせるわね。救いの手だと本気で縋りたい人だっていただろうに。それを踏み躙って、今までの影付き全員の記憶を奪った。最低な行為よ。
私は生まれ変わりたいなんて思ってない。私は私でありたい。何も求めてないのに私だけ大損じゃない」
「儂の望みは自分の体を取り戻すことじゃ。そしてククルを復活させる」
「ククル?」
「使い魔の名前だ。繰り返すという意味だ」
「繰り返す…人生を?」
「死しても同じ主人の元に戻る。核があれば何度でもやり直せる」
「…望みが増えてるじゃない」
「自分の体を取り戻せたらヴァリウスを引き裂く。それでいいだろう」
「そもそも何であんたは体がないの?占い師だったんでしょう?」
体のラインは浮き上がってきても、輪郭だけで中身がない。灰色の靄がゆらゆらと人型に揺れていた。
「ククルの核と引き換えに自分の体を切らせた。人語を話すだけの獣人には興味がなかったんだな。プラスαがないなら奴にとっては家畜と大差ない」
「…家畜」
チドリに刻まれた家畜用の捕獲印。今も足首に残っている。柊の葉に似て刺々しい。
黒々と鮮明に。こびりついていて消えやしない。
私は家畜同様だと嘲笑ってるようだった。
「沈むな沈むな。陰気な気は悪鬼を呼び寄せやすいぞ。また飲まれたら、次はどうなるかわからんぞ」
気力と体力は傾きつつある。むしろ無いと言った方が早い。ナイトメアが話す度に消耗されていく。あの口を黙らせたいけれど、飛びかかる余裕もない。
ナイトメアは俯いた雪の顎を持ち上げた。手つきは人間と変わりなかった。
「気に病むなら役目を果たしてからにしろ」
雪は手を払い、顔を背けた。人間らしく。そう考えてゾッとした。これはまだ人ではないのだ。人型をした夢魔に過ぎないのだ。
「だいたい、儂を恨んでも無意味だぞ。影付きの行き道は決まっているのだからな。遅かれ早かれ記憶は消される」
「あんたは、自分が体を取り戻して、使い魔を復活させるとか聞こえが良い話をしているけれど、やってる事は、王様と同じじゃない。私の了承も得ずに、無理矢理奪おうとしている。最低よ!」
「ヴァリウスと一緒にするな!あいつらはお前の記憶を消すのが目的だ。儂はそのエネルギーが必要なだけだ」
「同じよ。記憶を消さなければエネルギーは発しない。
私を捕らえて消させることが狙いでしょう?」
「お前とて、生まれ変われるのだ。悪い話ではあるまい」
「私はこのままでいい」
「なぜお前はそこまで己れに固執するんだ?どうせ良い人生ではなかっただろうに」
「勝手に決めないで」
私は私でいたい。
進歩がなくても、要領が悪くても、22年共にしてきた。
仕事も家族もプライベートも、色々とうまくいかなかったけれど、楽して生きていくだけなんてあり得ない。だから、簡単に捨てるなんてしたくない。
「頭の固いやつだ。ヴァリウスが手を焼くのもわかる気がするわ」
やれやれと、ナイトメアは両手を上げるそぶりをした。
「それにまだやるべきことがある」
「あのチビのことか?それなら心配いらん」
「どういう意味?」
「あれは神殿の巫女だろう?禁呪を解くだの言っているが、塔から解放されて自然と力が戻ってきている。わからんか?大気が弾んでいるだろう。霧が晴れて太陽が出てきたのはあのチビのおかげだろうな。周りを見てわかるだろ?木々や植物が生き生きとしている。見ろ、ホルキリンの花まで咲こうとしている」
ナイトメアが顎を癪って合図をした方向に、背の高い木が見えた。茶色の枝に黄色い花弁がいくつも見えた。
「本来は夏の花だ。季節関係なく植物の成長も早まっている」
「じゃあ体の成長も進んでいるということ?」
「成長?」
「実年齢はわからないけれど、チドリさんは、マリーを6歳に戻したと言っていた」
無垢な少女のまま、いさせたいと願った。
「ほう、それはだいぶえげつないことをしたな。倫理に反した行為だ。神官のくせにようやるわい」
ナイトメアに倫理を問う資格があるのか。
雪は小さくため息をついた。
ナイトメアはイヒヒと満足げに笑った。恐喝のネタにでもする気か。人相の悪い顔が、より一層悪人に見えた。
「どちらにせよ、あのチビの禁呪は放っておいても解けるレベルだ。お前が命をかけてまで解く必要は無い。だから、その余力を儂に貸せというのだ」
「…自分勝手ね」
「どうせ消えていく力だ。人生の最後に人助けができるなら本望だろう。お前はそうやって他人のことばかり考えているのだから、ちょうどいいだろう」
(それがこいつの良いところでもあるのだが、他者ばかり気を取られて自分を蔑ろにするのはいただけない)
「それとも自分にメリットがないから気が引くか」
(それを逆手に取っている儂も結構な悪人か。ヴァリウスを引き合いに出されても文句は言えんな…)
「…無茶苦茶ね」
雪は呆れているようだが、言い返す気もなさそうに見える。
(こいつを追い詰めて責め立てて、手に入れられたら一生、儂から離れなくさせようと思った。共に生きてみたかった。
しかし、そううまくはいかんな。今はこいつよりククルを優先したい。それにこの感情を何と呼ぶかがまだ、わからん)
ナイトメアは雪を見下ろした。名前のない感情の扱いに戸惑っていた。支配か愛情か。執着か羨望か。それとも他にあるのか。わからないままだった。
「さっきも言ったけど、メリットのあるなしで行動しているわけじゃない。助けを求めている人がいたら手を差し伸べるのが人としての道理よ。でもそれは強制じゃない。力及ばないこともある。助けの手が足りなかったら他を呼ぶわ」
「儂の為に動いてはくれんか?」
「…私を滅そうとしている人の言うことを聞くと思っているの?」
それは随分と虫が良すぎる。人の為とはいえ、そう簡単に首は振れない。
「頭を下げればよかったのか?」
「軽い頭ね。する気もないのに口に出さないで」
「誰でもいいわけではないのだな。助ける相手を選ぶということか。偽善だな」
「…あんたのはお願いじゃなくて強制じゃない。偽善とか言われたって、私は聖人君子じゃない。出来ることと出来ないことがある。それをメリットがどうのと言われたら言い返せないけど、買い被りすぎるのも困る。私が出来ることは限りがある…」
格好つけても、結果がついて来なければ意味がない。出来ないことを出来るとは言えない。虚勢を張ってもひっくり返されたら元も子もない。これが会議ならやる気も出るけど、張り合う相手がいなければ頑張れない。
今は、私、ひとりだ。
区切られた空間にただひとり。話の通じない相手と一緒にいたって、活路が見えない。だけど、
ただ奪われていくのは嫌だ!
雪は、閉じかけている両目をしきりに擦った。眠るわけにはいかない。なのに瞼が重い。諦めるわけにはいかないのに、助けを求める声も出ない。でも、呼びたい。
私を待つと言ってくれた人の名を。
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