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第4章
3 歌え 集え③
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歩く度に胸の音が響いて聞こえる。走ると余計だ。内から外へと突き上げてくる爆音。全速力で走った後のような動悸がする。息切れ。冷や汗。内側から溶け出して来ているような臓器の痛み。
時限式のカプセルの中に仕込まれた毒薬が溶け出すみたいに、じわじわと体に蔓延していく。
体が熱い。体の痛みが時間の無さを強調していく。
私はあと、どれだけ生きていられるのか?
リュリュトゥルテが咲くまで。それはいつ?
大まかなことしか聞かされてない。いつまでこの痛みを抱えてなければならないのか。一秒一秒蝕まられていく体はどれだけ保つのだろうか。
だが、楽になるときは私が終わるときだ。終わりの日を迎える事になる。何もせずにその日を迎えるだけは嫌だと望んだのは私だ。あの子を助けたいと願ったのは私だ。そのために無条件で優しさを与えてくれる人の手を払ったのだ。
だから諦めるわけにはいかない。
雪は深呼吸をした。
空を仰ぐように顔を上げた。深く、深く。体内に酸素を吸入した。爽やかに晴れ渡った青空に雪は憎しみさえ覚えた。
死に近い者にも容赦ない美しさを見せつけてくる。眩しい。
胸の痛みも、雪に課せられた運命もあざ笑うような輝き。天上から見下ろしている。
「神様は性格悪いな」
きっと。
雪は額から滴る汗を拭い、また歩き出した。
踏みしめる地面は固く整地されていた。土を均し固めた場所と、芝生に似たグラウンドカバーが広がる場所とあった。彩りの良い花もちらほら。果実の付いた樹木もある。建物に沿うように植えられた木は青々しく立派に立っていた。小川までも流れていて、ちょっとした森の中のようだ。例えるなら未練の塊に襲われたあの森。あそこにも川が流れていて、森の木々も美しかった。
今までは、砂漠と錆びた色の室内しか確認できてなかった。霧が晴れて外に出れたかと思えば、目の前には新緑が溢れていた。白磁に若葉の色が映える。
「…ここだけ別世界みたい」
憎たらしいくらい渾々と湧き出る小川を雪は睨み付けた。
「水の値を上げてるのは商人じゃなくて、神殿の人なんじゃないの?」
雪は両手を小川に入れた。あの森の川の水と同じくらい澄んでいた。水を掬って顔を洗った。指から滴る水滴が喉を通り過ぎていく。
すっとした冷たさが火照った体に冷静さを取り戻してくれた。
「まだ、行ける。…大丈夫」
雪は胸を撫で下ろし、胸の音に耳を峙たたせた。
「大丈夫」
音を確認し、また一歩を踏み出した。
波立つ心象風景を思い浮かべては、田舎でよく口ずさんだ歌を唇に乗せた。
”さあ 目を閉じて 祈ろうか想いを込めて
手を合わせるの 心も閉じて
感じるのよ 草の息吹を 花の呼吸を
さあ 祈るのよ 願いを込めて”
五穀豊穣を祈る歌だ。歌詞もメロディも毎回違うけれど、耳に馴染んでいるせいかよく口ずさんでしまう。弟妹達の子守唄でもあった。
雪は胸をさすりながら歩いた。その歩幅はゆっくりだ。踏みしめた足に力が入らなくなっていた。塔から落ち、体に受けたダメージが蓄積されていたのだ。
「…こんなに痛かったっけ?」
目が覚めた時は気怠さはあったものの、ここまでの痛みはなかった。内側から皮膚を突き刺してくるような痛みが止まらない。
雪は自分の体を抱きしめながら膝を地面に着け、体を横たえた。グラウンドカバーが体を優しく支えてくれた。冷や汗や体の震えが止まらなかった。痛み止めの効果が消えたのだ。シャドウの手当ては的確だったが、呪文はシャドウ自身が痛みを負う。呪いの返しを受け過ぎて効力が薄れてきていた。
外套のボタンを外し、自分の体がどうなっているか確認してみた。破れた服の下に無数に巻かれた包帯を見て、雪はギョッとした。
これは実体のないナイトメアができることではないのは一目瞭然だった。
「…シャド…ウさん」
これだけの処置をしてくれたのに一言も礼を言ってなかった。あろうことか、傷の軽さはナイトメアのおかげだとか、勘違いも甚だしい。最悪な態度を取ってしまっていた。しかも、悪鬼を呼んで攻撃をするなど以ての外だ。傷つけた。謝ろうにも礼を言おうにも、もう戻れないくらい距離が出来てしまった。
雪はぶかぶかの外套の袖に顔を近づけた。土煙の匂いの中に、シャドウの匂いも見つけた。薬草の匂い、包帯の匂い、膝枕をしてくれた感触、抱きしめてくれた感触、キスを…
「キスはしてないや」
雪は残念そうにため息をつき、唇に手を置いた。あの時、咄嗟に拒んでしまったのだ。嫌だったわけではないのに。
手のひらに触れたシャドウの唇の跡に雪は自分の唇を乗せた。
こんなことになるのなら、
「…キス、してもらえばよかったかなぁ」
こんな風に離れ離れになるかなど考えもしなかった。
初めて会った時から、あまり口数は多くなかったけれど、どんな時でも親身になってくれた。未練の森を抜け出す手伝いや、行き場のない私に道を探してくれると言ってくれたり、敵から守ってくれたりした。
口の中に放り込まれた発泡するラムネは今やお気に入りの駄菓子。酸っぱい果実のシャンシュールは苦手で、お酒は一切飲めない。酔い覚ましに口ずさんだ歌を褒めてくれたりもした。膝枕は私の方が先だったね。
マリーの結婚を祝おうと、かつての故郷にも出向いた。決して足を踏み入れたいとは思ってないいわくつきの場所。王の命令で行かざるを得なくなった。
きっと、シャドウさんの方がこの地に居たくないはずだ。
私はいつだって自分に都合のいい解釈しかしないんだ。
雪は辺りを見渡した。建物はいくつもあるが人の姿はなかった。生い茂る草花の上を風が通り過ぎていった。
塔の下からそれほど歩いたわけではないのに、もう見る影もない。
シャドウの姿はどこにもない。
必ず戻るなんて軽口をどうして叩けたのだろう。戻れるかどうかなんてわからないのに。私が私でいられる時間は限られているのに。
だいたい、マリーの時間を取り戻すなんてどうやるの?
私に禁呪を解くことなどできるの?その為にはまたチドリさんと会うことになる。チドリさんを前にして、私は私自身を抑え込めるのだろうか?
雪は胸騒ぎが起こらないように、胸元をギュッと押さえた。想像するだけでも危ない。いつでも悪鬼のスタンバイはオーケーだ。何度も繰り返すと悪鬼に取り込まれるとシャドウさんとナイトメアが言っていた。コントロールが必要だ。ダメだ。考えるな。
雪は高まる鼓動を押さえながら、目を閉じた。おさまれ、おさまれ、
波立つ水面を思い浮かべた。精神集中だ。波を鎮めるイメージトレーニングを心の中で思い浮かべた。
「さあ 目を閉じて 祈ろうか想いを込めて…」
口ずさむ歌もトレーニングの一環だ。
歌は祈りだ。人や物に対して捧げるものだ。この歌は元は五穀豊穣を願う歌だ。田畑や山々に、花に野菜に植物にと捧げる歌だ。
誰かの為に歌を届けることが祈りだ。
雪は早くなる呼吸を感じた。
胸が痛いのは、チドリへの復讐心と死への恐怖と、
あとは、
「…シャドウさん、…会いたい、会いたいよう…」
手を離したことの後悔。
自らの決断を揺るがす弱さ。
自分ならマリーを助け出せると思った驕り。
何もかもが!
間違いを肯定できなかった弱さだ。
本当は怖くて怖くて仕方がない。誰かに縋って、誰かの背の後ろに隠れていたいのだけど、シャドウにこれ以上の迷惑をかけたくないから、自ら手を離したのだ。
死への恐怖で頭の中が錯乱し、否定的なことしか考えられ無くなっていた。痛みと気怠さから意識が朦朧としていた。
「シャドウさ…ん」
地面が冷たいのが救いだ。雪の熱を吸い取り続けてくれた。
「…今、シャドウと言ったか?随分懐かしい名を聞いたものだな」
顔にかかる長い髪の毛を掻き分けながらサリエは雪に近づいていった。
歩く度に胸の音が響いて聞こえる。走ると余計だ。内から外へと突き上げてくる爆音。全速力で走った後のような動悸がする。息切れ。冷や汗。内側から溶け出して来ているような臓器の痛み。
時限式のカプセルの中に仕込まれた毒薬が溶け出すみたいに、じわじわと体に蔓延していく。
体が熱い。体の痛みが時間の無さを強調していく。
私はあと、どれだけ生きていられるのか?
リュリュトゥルテが咲くまで。それはいつ?
大まかなことしか聞かされてない。いつまでこの痛みを抱えてなければならないのか。一秒一秒蝕まられていく体はどれだけ保つのだろうか。
だが、楽になるときは私が終わるときだ。終わりの日を迎える事になる。何もせずにその日を迎えるだけは嫌だと望んだのは私だ。あの子を助けたいと願ったのは私だ。そのために無条件で優しさを与えてくれる人の手を払ったのだ。
だから諦めるわけにはいかない。
雪は深呼吸をした。
空を仰ぐように顔を上げた。深く、深く。体内に酸素を吸入した。爽やかに晴れ渡った青空に雪は憎しみさえ覚えた。
死に近い者にも容赦ない美しさを見せつけてくる。眩しい。
胸の痛みも、雪に課せられた運命もあざ笑うような輝き。天上から見下ろしている。
「神様は性格悪いな」
きっと。
雪は額から滴る汗を拭い、また歩き出した。
踏みしめる地面は固く整地されていた。土を均し固めた場所と、芝生に似たグラウンドカバーが広がる場所とあった。彩りの良い花もちらほら。果実の付いた樹木もある。建物に沿うように植えられた木は青々しく立派に立っていた。小川までも流れていて、ちょっとした森の中のようだ。例えるなら未練の塊に襲われたあの森。あそこにも川が流れていて、森の木々も美しかった。
今までは、砂漠と錆びた色の室内しか確認できてなかった。霧が晴れて外に出れたかと思えば、目の前には新緑が溢れていた。白磁に若葉の色が映える。
「…ここだけ別世界みたい」
憎たらしいくらい渾々と湧き出る小川を雪は睨み付けた。
「水の値を上げてるのは商人じゃなくて、神殿の人なんじゃないの?」
雪は両手を小川に入れた。あの森の川の水と同じくらい澄んでいた。水を掬って顔を洗った。指から滴る水滴が喉を通り過ぎていく。
すっとした冷たさが火照った体に冷静さを取り戻してくれた。
「まだ、行ける。…大丈夫」
雪は胸を撫で下ろし、胸の音に耳を峙たたせた。
「大丈夫」
音を確認し、また一歩を踏み出した。
波立つ心象風景を思い浮かべては、田舎でよく口ずさんだ歌を唇に乗せた。
”さあ 目を閉じて 祈ろうか想いを込めて
手を合わせるの 心も閉じて
感じるのよ 草の息吹を 花の呼吸を
さあ 祈るのよ 願いを込めて”
五穀豊穣を祈る歌だ。歌詞もメロディも毎回違うけれど、耳に馴染んでいるせいかよく口ずさんでしまう。弟妹達の子守唄でもあった。
雪は胸をさすりながら歩いた。その歩幅はゆっくりだ。踏みしめた足に力が入らなくなっていた。塔から落ち、体に受けたダメージが蓄積されていたのだ。
「…こんなに痛かったっけ?」
目が覚めた時は気怠さはあったものの、ここまでの痛みはなかった。内側から皮膚を突き刺してくるような痛みが止まらない。
雪は自分の体を抱きしめながら膝を地面に着け、体を横たえた。グラウンドカバーが体を優しく支えてくれた。冷や汗や体の震えが止まらなかった。痛み止めの効果が消えたのだ。シャドウの手当ては的確だったが、呪文はシャドウ自身が痛みを負う。呪いの返しを受け過ぎて効力が薄れてきていた。
外套のボタンを外し、自分の体がどうなっているか確認してみた。破れた服の下に無数に巻かれた包帯を見て、雪はギョッとした。
これは実体のないナイトメアができることではないのは一目瞭然だった。
「…シャド…ウさん」
これだけの処置をしてくれたのに一言も礼を言ってなかった。あろうことか、傷の軽さはナイトメアのおかげだとか、勘違いも甚だしい。最悪な態度を取ってしまっていた。しかも、悪鬼を呼んで攻撃をするなど以ての外だ。傷つけた。謝ろうにも礼を言おうにも、もう戻れないくらい距離が出来てしまった。
雪はぶかぶかの外套の袖に顔を近づけた。土煙の匂いの中に、シャドウの匂いも見つけた。薬草の匂い、包帯の匂い、膝枕をしてくれた感触、抱きしめてくれた感触、キスを…
「キスはしてないや」
雪は残念そうにため息をつき、唇に手を置いた。あの時、咄嗟に拒んでしまったのだ。嫌だったわけではないのに。
手のひらに触れたシャドウの唇の跡に雪は自分の唇を乗せた。
こんなことになるのなら、
「…キス、してもらえばよかったかなぁ」
こんな風に離れ離れになるかなど考えもしなかった。
初めて会った時から、あまり口数は多くなかったけれど、どんな時でも親身になってくれた。未練の森を抜け出す手伝いや、行き場のない私に道を探してくれると言ってくれたり、敵から守ってくれたりした。
口の中に放り込まれた発泡するラムネは今やお気に入りの駄菓子。酸っぱい果実のシャンシュールは苦手で、お酒は一切飲めない。酔い覚ましに口ずさんだ歌を褒めてくれたりもした。膝枕は私の方が先だったね。
マリーの結婚を祝おうと、かつての故郷にも出向いた。決して足を踏み入れたいとは思ってないいわくつきの場所。王の命令で行かざるを得なくなった。
きっと、シャドウさんの方がこの地に居たくないはずだ。
私はいつだって自分に都合のいい解釈しかしないんだ。
雪は辺りを見渡した。建物はいくつもあるが人の姿はなかった。生い茂る草花の上を風が通り過ぎていった。
塔の下からそれほど歩いたわけではないのに、もう見る影もない。
シャドウの姿はどこにもない。
必ず戻るなんて軽口をどうして叩けたのだろう。戻れるかどうかなんてわからないのに。私が私でいられる時間は限られているのに。
だいたい、マリーの時間を取り戻すなんてどうやるの?
私に禁呪を解くことなどできるの?その為にはまたチドリさんと会うことになる。チドリさんを前にして、私は私自身を抑え込めるのだろうか?
雪は胸騒ぎが起こらないように、胸元をギュッと押さえた。想像するだけでも危ない。いつでも悪鬼のスタンバイはオーケーだ。何度も繰り返すと悪鬼に取り込まれるとシャドウさんとナイトメアが言っていた。コントロールが必要だ。ダメだ。考えるな。
雪は高まる鼓動を押さえながら、目を閉じた。おさまれ、おさまれ、
波立つ水面を思い浮かべた。精神集中だ。波を鎮めるイメージトレーニングを心の中で思い浮かべた。
「さあ 目を閉じて 祈ろうか想いを込めて…」
口ずさむ歌もトレーニングの一環だ。
歌は祈りだ。人や物に対して捧げるものだ。この歌は元は五穀豊穣を願う歌だ。田畑や山々に、花に野菜に植物にと捧げる歌だ。
誰かの為に歌を届けることが祈りだ。
雪は早くなる呼吸を感じた。
胸が痛いのは、チドリへの復讐心と死への恐怖と、
あとは、
「…シャドウさん、…会いたい、会いたいよう…」
手を離したことの後悔。
自らの決断を揺るがす弱さ。
自分ならマリーを助け出せると思った驕り。
何もかもが!
間違いを肯定できなかった弱さだ。
本当は怖くて怖くて仕方がない。誰かに縋って、誰かの背の後ろに隠れていたいのだけど、シャドウにこれ以上の迷惑をかけたくないから、自ら手を離したのだ。
死への恐怖で頭の中が錯乱し、否定的なことしか考えられ無くなっていた。痛みと気怠さから意識が朦朧としていた。
「シャドウさ…ん」
地面が冷たいのが救いだ。雪の熱を吸い取り続けてくれた。
「…今、シャドウと言ったか?随分懐かしい名を聞いたものだな」
顔にかかる長い髪の毛を掻き分けながらサリエは雪に近づいていった。
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