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第1部 第1章
6 試練の森-3
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次の森の中は静かだった。鳥や虫の声は一切なくしんと静まり返っていた。
己れの息遣いや足音がやけに大きく耳に届く。ざわざわしてくる気持ちに焦るばかりだ。
(落ち着け落ち着け。深呼吸深呼吸。)
雪は胸に手を当てて何度も深呼吸をした。何度しても落ち着かない心臓の音に余計に気持ちが空回る。目を閉じて、開けてを何度も繰り返す。手のひらに書いた人の文字も何十人と飲み込んだ。
雪はチラリと隣にいるシャドウを見た。まだ正体不明な人だけど、私よりも今の状況を把握しているから信用はできると思う。だから、さっきまでとは気持ちにほんの少しだけ余裕があると思ったけど、やっぱり落ち着けない。今に心臓が皮と肉を剥いで飛び出して来そうだ。
「心を安らかに。みだりに騒ぐなよ」
シャドウは雪の早すぎる心拍音を聞いてそっと忠告をした。今からそんなんでは最後まで保たないぞ、と。
そんなこと言われても無理!
雪は首をこれでもかと横に振った。リアルおばけ屋敷で冷静でいられるわけない!
私、お化けや幽霊は嫌いなのよ。いつもは避けてるけれど、うっかり見ちゃうといつまでも忘れられなくて後ろに着いて来てるんじゃないかと思うのだ。
あの目玉達、私の未練だと言った?
あれは田舎に残してきた家族に見えた。両親と祖母と兄夫婦と弟妹達。芳と景と晴。未練と言えばそうなるかな。芳は小四、双子の景と晴はまだ幼稚園。母は祖母と折り合いが悪くて出て行ってしまった。父は無口な人で母と祖母の関係に口は出さなかった。それが原因だ。
祖母は兄夫婦と仲良くやってるかな?田畑を継いだ兄夫婦。奥さんは義理の弟妹にあたる三人を自分の子どものように育ててくれた。仲良くやっていると思っていたけど、奥さんが赤ちゃんを産んでから生活は一変したと兄が教えてくれた。
「帰って来れないか?」と何度も打診されたけれど、どうしても首を縦にふれなかった。
あの頃の私は仕事が一番だった。仕事が軌道に乗って同僚とも取引先とも信頼関係が築けていた。難しい仕事を任されても怯むことなく、邁進していた。苦しい時期もあったけれど、乗り越えた時の達成感がたまらなかった。渉君とのお付き合いも順調だったから尚更、田舎に帰る気は無かった。
私の幸せがみんなに不幸をもたらしていたのかと思うといたたまれなくなる。これが私が残して来た未練のひとつだ。
美紅ちゃんとも仲良くしていたと思っていた。昼休みのランチや週末のカラオケ。休日の映画鑑賞、雑貨屋、カフェ巡り。タイプは違えど、仕事以外でも付き合いはあったのだ。
「…楽しかったのになぁ」
不意に出した言葉に笑みも溢れた。こんな状態なのに思い出が蘇る。そうだ、あの子普段はもっとずっといい子だった。私を貶めた態度も行動もきっと理由があったんだ。そう思いたいのは私があの子を嫌いになれないからかな?とっつきにくいイメージだったけど、話をすると楽しかった。憎むとか考えられない。こんな考えは甘いかな?
雪は美紅を想った。ボタンのかけ間違えを直さずに来てしまったことを。これが多分ふたつめの未練。
ディルは雪とシャドウの後ろからついていた。雪がこぼした言葉に苛立ちを覚えた。
(…笑ってやんの。この後どうなるかも知らないで。シャドウがいて安心してるのか?笑ってられるのも今だけだ)
ディルは一歩引いたところで雪を見上げた。人間はどうしてこんなに愚かな生き物なんだろうか?
自分に都合のいいことしか考えないご都合主義。きついことや辛いことからは目を逸らし、逃げ道を模索しては、楽観的なことばかり考えて助け船を待つ。
自分も相手も無傷でいられるわけがない。誰も傷つかない人生などないのだ。
パキッ
「ひゃっ!」
自分で小枝を踏みしめて出した音に反応して飛び上がった。声を出すなとシャドウに散々言われていたのを忘れていたわけではないのだが、勝手に出てしまった。雪は咄嗟に手で口を覆った。
シャドウは雪を一瞥する。呆れ顔にも見えるが、すぐ緊張感が走った。それと同時にディルが低い唸り声を出した。地面に爪を立てて、口元も歯茎が剥き出しになっている。体毛が逆立ち、獣の本性が垣間見えた。
雪もシャドウの表情の変化やディルの変化に反応した。
眼前の森の奥から白っぽいものが動いていた。こちらに向かって歩いて来ているように見えた。先ほどの人魂とは違い人の形をしていた。
「来るぞ!」
シャドウは雪の肩を強く引き寄せた。
「いいか?決して奴らと目を合わせたり会話をしたりするなよ」
雪は口元を抑えたまま頷く。口を聞いたら影を抜かれて漂うことになると脅されたばかりだ。
もう、あんな怖い目にあってたまるか!
雪はぎゅっと口を結び、シャドウの手を握りしめた。シャドウの手にも力が入って来るのを感じた。
ユラユラと左右に体を揺らしながら、白いモノがこちらに向かって来た。目玉より恐ろしさは感じない。でも異質な物には変わりはなかった。
全身はゼラチンみたいにプルプルしていた。輪郭や手足、体のラインにかたどられており、近づくにつれて顔つきまで見えるようになった。
「!!」
約二メートル前まで来て、はっきりとその顔が誰なのかがわかった。
雪が口を開くのを気付いたシャドウは口を塞ごうと反対側の手を伸ばしたが、
「美紅ちゃん!?どうしてここにいるの?」
シャドウの手が雪に届く前に彼の人の名前を叫んでしまった。あっ!と開いてしまった己れの口を雪は慌てて塞ぐがもう遅すぎる。
白いモノが三人の横を通り過ぎた。
ワンテンポ、ツーテンポ遅れで白いモノはこちらを振り返った。
「…ユ、キ、セン、パイ?」
そう聞こえた気がした。
*
「ちょっと金原さん。これは何!」
チームの一人、ベテランの吉永は金原美紅のデスクに立った。
「何がですか?」
美紅は何のことかわからずに小首を傾げた。
見せられたのは取引先の嶋谷に出した発注書だ。未だアナログでFAXで送信するのだ。宛名の欄に片仮名でシマタニと書かれていたのだ。
嶋谷と書いてシギタニと読むのは周知の事実だ。間違いやすいから漢字表記を徹底しろと新入社員研修で口酸っぱく担当者から言われていた。
「あ~、すみません。岩井さんには連絡しておきますね」
「連絡すればいいって話じゃないわよ。きちんとお詫びして。大問題よ!」
「大丈夫ですよ。前にも同じことしても怒られなかったし」
「前にもってどういうこと!何回も取引先の名前を間違えてるの?どういう神経してるのよ!部長に報告するわよ」
「あ~、もううるさい~」
吉永の説教から逃げるように受話器を上げた。
「あ、もしもし岩井さん?藤和の金原ですが。さっきの発注書見ました?すみません、会社名間違えちゃってー。アハッ」
仕事のやり方も電話の掛け方も受け答えもまともに出来ていない社員に、吉永は日々イライラを募らせていた。
美紅がやらかす度に必ず口にするのがこの一言。
「何で泉原さんを辞めさせたのかしら。こんな子じゃ絶対務まらない」
**
「金原さんまだですか?」
決算期の伝票整理にチームは追われていた。かといっても美紅以外のメンバーの処理は済んでいた。
「もうちょっとです~」
そのセリフ何十回と聞いたよな。メンバーは顔を見合わせては溜息をついた。終わるまで帰れない。
「あーあー。泉原さんなら伝票溜めたりしないからパパッと終わるのにな」
「だよな。早く終わらせて帰りたいよ」
***
「え?本当に辞めさせちゃったの?泉原さんを?」
嶋谷産業の担当者の岩井はがくりと肩を落とした。
「何を今更。岩井さんが言ったんじゃないですか。担当変えて欲しいって」
藤和の中村は居酒屋のカウンターで岩井と飲んでいた。
「いやいやいや。そんな酒の席で出た話なんて鵜呑みにしないでくださいよ。なんだぁ。最近、発注書も違う人から来るからどうしたかと思えば…そっか辞めたのかぁ。残念だなぁ。頑張り屋で面白い子だったのに」
岩井は残念そうに肩を落として手酌で酒を注いだ。
「引き継ぎは金原にさせてますからご安心を。あの子も頑張り屋ですよ」
中村は自慢の部下だとご満悦だ。職場でもプライベートでも。
「金原さんねぇ。頑張りのベクトルがうちとは違うみたいだけどなぁ。吉永さんは嫌いなタイプじゃないかな。聞いてませんか?」
岩井は和かに微笑み、中村のグラスにビールを注いだ。
「は?」
中村は何のことか全くわからないようだった。
「泉原さんを無職にさせてしまった原因を作ったのが僕なら、責任取って嶋谷に貰おうかな」
岩井はお疲れ様でしたと自分の分の勘定を済ませて、店から出た。
****
「もう~、ムカつく!何なのよ、あのオバサン!」
美紅はベッドの上のクッションを壁に投げつけた。キーキー叫びながらベッドの脇にあるミネラルウォーターをぐいっと飲んだ。バスローブから伸びた指先にはピンク色の花を咲かせていた。
「吉永さんも辞めさせちゃってよ」
美紅は隣にいる中村の腕にしがみついた。プヨプヨとした締まりのない腕だ。体も同様。
「バカ言うな。あの人がいなかったらチームのまとめ役を誰がするんだ」
「今日怒られたんだよー。しつこいのよあのオバサン」
美紅は胸元を寄せて谷間を中村の腕に押し当てた。
「お前がバカなことするからだろ。取引先の名前を間違えるなんて問題外だ。恥を知れ!」
中村は美紅の腕を払いのけて脱ぎ散らかした服を集めた。
「な、何よ。そんなのちょっと間違えただけじゃない!それなのにみんな寄って集って雪先輩の方が良いとか言うのよ。ひどくない?先輩だって失敗すること多かったわよ!先輩の空いた穴を必死に埋めようと頑張っているのに、私の気も知らないで腹立つことばかりよ。ねぇ、どうにかしてよ」
美紅は後ろから中村に抱きつく。はらりとバスローブが肩から落ちて、剥き出しになった裸体が背中に吸着した。
「…ねぇえ、もう一度してあげるから、私のこと悪く言う奴らをどこか飛ばしちゃってよ。部長ならできるでしょう?」
一言一言に色気を含ませて美紅は中村に囁いた。中村は体にしがみついている美紅を引き剥がして振り払い、荷物を鷲掴みにして玄関へと急いだ。美紅は反動でベッドに尻餅をついた。ボフンとベッドのスプリングが大きく揺れた。
「ちょっとなによぉ!」
美紅は口を尖らせて喚いた。
「…泉原くんは、失敗してもめげずに次は挽回できるよう頑張っていたよ。お前みたいに与えられた地位にどっかり座りこむだけじゃなく、自分の足で信頼を勝ち取ってきた」
ああ失敗した!、と中村は頭を抱えた。後悔と苛立ちが頭の中を駆け巡る。
「お前とは終わりだ」とだけ残して部屋から出た。
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