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第1部 第1章
1 おわりのはじまり
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「泉原くん。君はもう来なくていいよ」
「は?」
始業前の朝のミーティングはいつもの日課だ。開きかけのファイルが手から滑り落ちた。中村部長は雪の顔をじっと見つめて来た。
「先日の嶋谷産業の発注メール、担当者が受け取ってないと言うんだよ。君の担当だよね」
「嶋谷は私の担当ですが」
その日は別のメーカーとの打ち合わせが入っていたので後輩の金原美紅にお願いしておいた件だ。
「別件で外せなかったので金原さんに」
ちらりと後ろを見やり、美紅に目配せをした。
「私は聞いてません」
目が合ったが一瞬にして明後日の方向にそらされた。片手でメモをぐしゃりと握りしめた鈍い音が微かに耳に届いた。間違いがないように口頭での指示と供に付箋でも注意書きをしておいたのだ。はい、わかりました。ときちんと返事はしていたから安心していた。
「君は自分のミスを後輩になすりつけるのか。恥ずかしいと思わないのか」
「そんな」
正論が突き刺さる。後輩に託しても、その後の処理まで確認しておくべきだった。でもそれでは、いつになったって自分の仕事が終わらない。
「…申し訳ございません」
確認を怠ったのは事実。謝罪は当然だ。雪は深く頭を下げた。スカートの裾をぎゅっと握った。
「これから嶋谷に行って謝罪してくる」
「では私も!」
「何言ってんだ。君は来なくていいよ。むしろ終わりだからデスク片付けて」
「そんな困ります!」
「困ってるのはこっちだよ!お得意先を怒らせて契約切られたりしたらどうするんだ!!そうなったらお前のクビだけじゃ済まないんだよ」
中村部長の怒号が空気をビリビリと揺るがす。空間の亀裂が見えるようだ。荒々しい裂け目が。
「これ以上俺を怒らすな!とっとと出て行け!!」
「!!」
鋭い一閃が雪の体をバラバラに切り裂いた。雪は声を発することも出来ずにその場に崩れ落ちた。涙より先に喉からゼエゼエと異音が昇ってきた。力が入らない。
震えてきた体が硬くて冷たくて、自分自身を抱えていないと消えてしまいそうな感覚に落ちた。部長が出て行った後に周囲から囁かれる言葉は私の耳に入り、すぐに体の奥に、浸みた。
「かわいそう」
「部長を怒らすなんて」
「怖いわ」
「一度のミスでクビ切り」
「実は仕事出来なかったのか」
「後輩になすりつけるなんて最低」
「早くでてけよ」
涙が堰を切ったように溢れた。
*
夕闇が陰る頃、ようやく涙が乾いてきた。 会社用のバッグと私物が入った紙袋を下げて家までの道をゆっくりと歩いていた。今の自分がどんな悲惨な顔をしているかわからないが、すれ違う人は皆口元が緩んでいた。きっと両目は腫れ上がり、アイメイクは崩れ、試合に敗れた覆面レスラーみたいな顔をしてるんだ。あら覆面なら顔は見えないか。違うな、デスマスク?そう、きっとそんな感じ。
雪はひと目を避けるように公共交通手段を選ばずに徒歩で帰路に着くことを選んだのだが、裏目に出てしまった。ちょうど帰宅ラッシュ時だ。デスマスク姿を見せびらかしていると思われても仕方がない。
芝居のメイク?と揶揄された方がマシだったかな。
会社のロッカーを片付けている時に金谷美紅が現れた。憔悴な面持ちが演技派女優を思い浮かべさせる。
「雪先輩、すみませんでした」
ふわふわとカールした毛先を揺らしながら頭を下げた。ものの2秒。いやもっと短いか。さっきの目が合った時と同じくらいの長さ。単位など測れない。0コンマの世界。
動く度に香る空気が雪の神経を逆撫でしていた。元はと言えばこの子のせいでもある。
「…美紅ちゃんに嶋谷の発注をするようにお願いしたよね?忘れるといけないからメモもした。美紅ちゃんのデスクトップに貼っておいたのを確認しているはずよ」
「…付箋紙のノリは剥がれやすいんで、他の資料と一緒に紛れちゃったのかも」
それらしい理由を付けて美紅は身振り手振りで焦るような仕草を見せた。
「ポケットに入ってるんじゃない?さっき丸めていたよね」
中村部長に怒られている最中でもコソコソと動いていた右手を見逃しはしなかった。
「…えぇ、なぁ~んだバレちゃったのか」
「あなたねえ!」
「だって、その日合コンだったんですよー。嶋谷の担当者の、えっと、岩井さんでしたっけ?あの人話長いじゃないですか。前も発注メールした後に確認電話したら30分も長話されたんですよ。若い女にはスイーツと犬猫の話しておけばいいとか思ってるんですかね。次から次へと話題を振って来るんですよ。この間なんか原宿のパンケーキを食べに2時間待ったとか!あんなおじさんがパンケーキって!笑えません?仕事しろよって思いませんか?」
金谷美紅はケラケラと高笑いを始めた。自分のミスを取引先の担当者への罵詈雑言にすり替えようとしていた。さっきまでの意気消沈した顔はどこ見る風か。
「あー、おかしい。雪先輩災難でしたね~。これからどうするんですか?転職先探さなきゃでしょう」
「そんなのすぐに考えられないわよ」
そんなことより私に対して言うことはないのか。雪は金谷美紅を睨み付けた。
「…いきなりクビは酷いと思いますけど、嶋谷の担当者を変えたいという要望はあったんですよ」
「え」
「雪先輩は硬いって」
「は?」
「ガードが硬すぎて笑い話も出来ない。飲みの席に来てもお酌のひとつもしない。足を崩すこともなく、いつもきちんと身だしなみをして襟を正してボタンのひとつも外しやしない」
「そんなの当たり前じゃない」
上司を前に酒の席だとはいえ、むやみに肌を見せるなんてあり得ない。
「裸になれと言ってるんじゃないんですよ。ただ、ちょ~っと頬を赤く染めて、酔ったフリでもすればまだ可愛げがある風に見えるじゃないですか」
雪は酒に強い。相手に媚びるような酌をしたり、頬を染めたりも滅多に無い。
「色仕掛けで仕事を取れと?」
「だーかーらー、そうじゃなくてー」
美紅の手振りが大きくなる。
「ま、簡単に言うと。隙を見せないところが硬すぎてつまらない、ということですって。仕事ばっか出来ても面白みに欠けてはダメなんですよ。柔軟さが時には必要なんですよ」
知ったような口振りで美紅は雪の肩に手を置いた。顔を寄せて耳元で囁く。
「ここだけの話ですけど、今回の騒動はもう片付いてるんですよ。部長が発注されてないことに気が付いて、すぐにメールを送って事無きを得たんです」
だったら私が辞めなければならないことはないのでは?
声にしたつもりが出ていなかった。
代わりに美紅が微笑む。
「ついでに雪先輩も片付けようってことになりました。雪先輩の仕事は私が引き継ぎますから安心してください」
「ね」
美紅の甘い香水が唇から浸み出して来て、最後の一言に呪いをかけた。雪がもう二度と立ち上がれないように何重にも念を込めた。
**
「私はただ自分の役割が欲しかっただけだよ」
クビになった会社は高卒の雪がようやく入れた職場だった。就職難真っ只中で何十社に履歴書を書いては送り面接を受けまくった。落胆しては再挑戦を誓い、明くる日も明くる日もさまよい続けた。そんな絶望の中でやっと御幸が差した。小さいけれど大手の取引先も扱う部品メーカーだった。私は営業補佐でデスクワークだった。パソコンの打ち込みや書類作成、電話番やコピー取り等雑用も一手に任されていた。細々としていて大変だったが、自分に任された事が嬉しかった。
自分にしか出来ない使命のように大事に、真面目に取り組んだ。仕事が丁寧で早いと認められて入社二年目に営業に抜擢され、初めて担当を持った。それが嶋谷だった。
スマートフォンの中の半導体の小さな部品を作っている業界最大手の会社だ。初めは右も左もわからずに失敗も多かったが、一年一年と時を重ねては確実に成長していった私に絶大な期待をかけてくれていた。
「…期待してくれてたんじゃないの」
行き先を照らしていた照明がバツンと呆気なく消えた。一寸先は闇。まさに今ここ。
雪は何とか家路に着き、靴をひっくり返したまま部屋に上がった。涙と汗とメイクで紅潮した顔を見て、情けなくなってまた泣き出した。鏡に映る自分は誰よりも何よりも醜くかった。誰を恨んでいいのか、何を憎んでいいのか。わからないまま涙は流れ続けた。
帰宅してから何分、何時間経ったのか定かではない頃、雪のスマートフォンが鳴った。恋人の真木渉だ。雪はスーツのポケットを探り、スマートフォンの画面をタップした。通話ではなくてメールだった。簡素にひとこと。
「別れよう」だ。
真っ暗な部屋でスマートフォンの画面の明かりだけがぼんやりと光る。その光に包まれて雪の顔は更におどろおどろしさを増した。
「…どいつもこいつも」
高校からの恋人だったけれど、反論する気力はなかった。
画面を床に伏せて光を消した。床と画面の隙間から漏れる光に雪の指先だけが映った。
「…私が何をしたっていうのよ。もう…何なのよ。…もうこんなの嫌だ、消えたい」
暗闇に嗚咽だけが響き、スマートフォンの点灯時間が過ぎたと同時に雪の姿も消えた。
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