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第3章

4 微睡み

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 ザザザザッ

 上空の風が木々を揺らした。枝が大きくしなる。
 木のシルエットが道の上に写った。ゆらゆらと陽炎のような動きは、湖面の波とはちがうゆらめきだ。どこかへいざなうかのような不穏さがある。
 「…風が気持ちいいね」
 ただ、キアは気がついていなかった。耳から入る風の音と、肌に触れる感触の心地良さに気持ちが持ってかれていた。
 疲れた体を和ませて、眠りをも誘う。寄りかかっていた岩肌も冷たくて心音を吸い込んでいく。水の流れが優しくて誰の妨げもない。
 「戻らなくていいのか」
 うとうとと舟を漕ぎ出したキアを見て、キハラも大きなあくびをした。眠気が移ってきた。真っ黒な口の中をめいいっぱい広げた。
 「…うん。…うん」
 「…少しだけ」
 ほんの少し。あと少し。
 キアは岩肌に寄りかかりながら目を閉じた。
 キハラも同じく。つられるように仕方がないなと諦めた表情を見せた。
 ほんの少し付き合うか。
 眠気だけはどうにも抗えない時がある。
 キハラは、キアの瞼が閉じるのを確認して膝の上に頭を乗せた。


 ザザザザッ ザザザザッ


 今となれば、周りの木々のざわめきは警告音とも取れた。早く気がつけば良かった。
 キアは耳の端の方で風の音を拾っていた。完全に寝落ちてしまうまでの一歩手前。寝入り端。いちばん気持ちが良くて、いちばん警戒を解いている時間だ。

 スー、スー、スー…。
 誰かの寝息がすぐ側で聞こえた。
 (私の?それともキハラ?)
 パシャン
 真横で水音がした。魚が跳ねたのだろう。それと同時に獣の声が聞こえてきた。
 
 ヴヴヴ…  ヴヴヴ…
 (この声は)
 ああ、いつもの声だ。
 寂しくて哀しくて崩れ落ちそうな悲痛な声。
 ここのところ毎日だ。こんな日中にまで聞かせてくるなんて、どんな事情があるの?どれだけ切羽詰まってるの?
 そんなに泣かないで。涙で湖が溢れてしまうよ。
 瞳が溶けて無くなってしまうよ。
 あなたが哀しいと、なんだか私も哀しくなる。
 「…私に何を求めているの」
 私に何が出来るかなんてたかが知れてるだろうけど、哀しみが続くよりいくらかマシでしょう。
 「教えてよ」
 あなたが抱えてるものを。
 キアは、姿なき「声」を探した。瞼の裏にぼうっと獣の姿が浮かんだ。狼のような。犬のような。中型で毛並みが長くて白っぽい。
 ざわめきをまた強く感じた。
 キアは薄く目を開けた。まだぼんやりとしていて、うっすらと目の中に膜ができていた。視界がぼやける。
 寝覚めが悪い。こんな言い方しかできないのは悪いと思うけど、そう言わざるを得ないのが現状だ。うたた寝さえ容易にできない。瞼の裏に写った獣の姿は今はもうない。
 「キハラ…」
 膝の上に頭を乗せているキハラの肌に指先を当てた。
 こんなにもリラックスしているのに、起こしてしまうのはなんだか勿体ない。でも、今見たことは相談した方がいい。
 もう、寝ぼけていたのだとは言わせない状況にまで来てるような気がした。

 「あっ!大きなヘビ!!」
 突如、少年の声がキアとキハラをめがけて割って入ってきた。
 「ええっ!?」
 キアが声の方向に体を向けると、キハラも顔を上げた。
 そこには好奇心いっぱいに瞳を輝かせた十歳前後の少年がいた。
 「すげえー!でけえー!」
 早く早くと後続にいるであろう連れに向かって高速で手招いていた。
 「み、見られた!ど、どうしよう!!」
 キアは不測の事態だと、パニックになって慌てふためいた。
 「阿呆。騒ぐな」
 キハラはいたって冷静だ。余所者には大抵キハラの姿は見えない。ただ、少年期くらいまでの子どもには稀に見られることもある。さっきの少年はちょうどその頃だ。
 そんな時でも大袈裟に事構えるのではなく、知らぬ存ぜぬで貫いた方が後々が楽だ。
 「余計なことは言うなよ」 
 「えっ」
 キハラはキアの袖口を咥えて、湖の中に引き摺り込んだ。
 「ほら早く来いって!ほらあそこ!」
 少年は嬉々として家族を連れてきた。
 少年が指を差した方向には何の姿もなかった。白蛇も。そこに付随した女性も。
 「なんだ。何もいないじゃないか」
 「気のせいじゃない?あら、イミュキュの花がきれいねぇ」
 「ちがうって!本当にいたんだって!」
 「兄ちゃん嘘つき~」
 「嘘じゃねえって!」
 「たくさん歩いて疲れたのよ。お祭りでおいしいもの食べようね」
 「信じてよ!」
 少年はがなる。
 気のせい気のせいと笑う母は、弟を連れて先を歩いた。
 「ほら。置いていかれるぞ。行くぞ」
 「嘘じゃねえもん」
 父親は少年を先に進もうと促がすが、少年は俯いたまま動こうとしない。
 「…もしかしたら、お前ぐらいの年なら見えたのかもしれないな」
 「父ちゃんは何か知ってるの?」
 「母さん達に言ったら怖がると思って黙っていたんだけど、この森には蛇の神様がいるんだよ」
 「えっ!神様?」
 「そう。しかも大蛇だ」
 「ど、どのくらい」
 「この森のもっともっ~と深いところまで全部を見渡せるくらい大きいと聞くよ」
 「オレが見たのは頭だけだったけど…」
 「この森ぐらい大きかったら、体を全部見る事はできないさ。土地が足りなさ過ぎる」
 「えーっ!!」
 「神様はどんな風にしていた?」
 「女の人と一緒にいた。寝てるみたいだった」
 「ふうん」
 「オレが大きな声出したから、女の人が起きちゃってびっくりしていた」
 「お前声でかいからなぁ」
 「か、神様もびっくりして消えちゃったのかな。お、オレ悪いことしたかなぁ」
 「…うん。それもあるかもな」
 「うわあ!どうしよう父ちゃん!オレ神様に怒られちゃう!!た、食べられちゃうかなぁ」
 「ハハハ。神様はお前を食べたりはしないよ。でもね。神様はこんな大きくて広い森をお守りしているのだから、大変疲れているだろう。だから、お休みになられているんだよ。それは誰も邪魔をしてはならない」
 「うん」
 「お前の声で驚かしてしまったと反省しているなら、ちゃんと謝ろうな」
 「うん。神様起こしちゃってごめんなさい!」
 父親と少年はキア達がいた辺りに向かって頭を下げた。
 「じゃあ。先を行こう。母さん達待ってるよ」
 「うん!」
 少年は、神様バイバイと元気よく叫び、大きく手を振って走り出した。

 ザザザ ザザザッ

 湖面が風で揺らめいた。イミュキュの花が湖面の上でゆらゆらと踊る。
 「一緒にいた女性ってのは蛇神の…つがいかな」
 少年の父親は、上着のポケットから情報誌を取り出した。
 『神秘なる森』『新月の秘密の儀式』『美しすぎる蛇神』など、キハラについて、こと細やかに記述されていた。
 キハラのことは特に秘密というわけではない。
 姿が見えるのは限られた年齢だから、観光客誘致策の目玉とかではない。見られたらラッキーぐらいだ。
 「…新月までこの辺りに潜んでいたら儀式が見られるかもな」
 父親は、辺りを見回しながらほくそ笑んだ。隠れられそうな岩場や大木の影などを入念に見て回った。
 父親が去って行くのを見計らってから、二人はゆっくりと顔を出した。
 「今の人…何…」
 キアは不安そうにくぐもった声を上げた。
 「厄介者めが」
 キハラはよくある事だと辟易顔だ。慣れてはいても平気だというわけではない。
 「隠れて見てやろうなんて、子どもの考えだよね」
 「面倒なのは子どもより大人の方だ。子どもの好奇心を盾に図々しくなる。…気をつけろよ」
 「気をつけろって言っても。どうしたら…」
 「客だからといって気を抜くなって話だ。お前はボケ~っとしてることが多いからな。うっかりボロを出すなよ!私が蛇神のつがいですなんて絶対に言うなよ」
 「そ、そんなこと言わないよ!みんなの前ではちゃんとしてるよ!」
 「…何かあってからでは遅い。お前は次の新月までここには来るな」
 「な!何で?」
 「面倒なことは最小限に抑えたいからな。村でおとなしくしてろ」
 「私の安息地が…。朝は?朝もダメ?」
 「水汲みはロイだけにやらせろ。お前はなるべく村にいろ。一人にはなるな」
 一瞬見られただけの子どもの記憶がいつまで保つかわからないが、用心にこしたことはない。
 キアはしょぼんと肩を落とした。唯一の安息地が封じられてしまった。
 毎日、緊張感の中で生きている。慣れない客商売に気を張っているのだ。てんやわんやのナユタ達に迷惑をかけないよう、一つ一つ丁寧に心掛けていた。張り詰めた緊張の糸を切ってくれるのはキハラだけだ。あそこは私にとってはまだまだ緊張感がある場所だから、ナユタやナノハ。アンジェやアーシャ。ロイ。気を許し合ってる仲の前でしか、うまく笑えないのだ。
 でも、私だけの問題ではないのだ。切り替えなきゃ。
 キアは頭を振って、きゅっと口を結んだ。
 「ナユタとモジャ髭に伝えろ。良からぬことを考えている輩がいるってな」
 (面倒なのは、こいつにも被害が出るかもしれないってことだ)
 キハラはキアの後ろ姿を見つめた。
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