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第2章
2 忘れられないぬくもり
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「お前の犬はどうした?」
レンガは、普段とは一段と増して怪訝な声でマリーを詰った。
「ひぃっ、ひぃっ、ぐしゅ。ひぃっ、ひぃっ、ぐしゅ」
涙と鼻水をすする鼻濁音が、静まり返った祭壇の前で響いた。曇天を突き破って降り注ぐ雨音にも負けない声量だった。
マリーは祭壇の前でうずくまっていた。金糸のようだと褒めたてられた蜂蜜色の美しい髪の毛は、顔に張り付いてぐしゃぐしゃだ。
天井の隅に張り付く蜘蛛の巣のようだ。美しさのウの字もない。高価な絹で仕上げた服もシワシワのヨレヨレ。華やかに咲き誇る花の刺繍も萎れてしまっていた。血色の悪い肌。ひび割れた唇。泣き腫らした瞳。どこをとっても天冠の巫女だとは言い難い。
「…最初の勢いはどうした。そんな状態では我との約束はいつになっても叶わんぞ」
慰めには程遠い。レンガの言葉にマリーはしゃくりを上げて泣き喚いた。
涙と重ねて、轟音と言わんばかりに雨は降り続く。時折、窓辺にぶつかり飛沫をあげていた。
レンガは窓辺に腰を下ろし、跳ね返る飛沫を睨みつけ、体につかないよう弾き返した。
レンガの眼力だけで、巫女の嘆きなど構わずに曇天をこじ開けて太陽を引きずり出すことも可能だが、それはしなかった。腹が立っていても自らの手を煩わせる気はなかった。めんどくさそうに外を眺めてから、へっと鼻で笑い、マリーに向き直った。
「…わんわんのこと、い、ぬって言っちゃだめなんだよ。わんわん怒るよ?」
ようやくマリーは顔を上げた。馴染みのあるワードに反応したからだった。顔を上げたマリーはレンガに気づき、髪の毛を直し、顔を拭いた。
「犬だと認めているのはお前の方だろう」
「犬じゃないもん!で、ディルだもん」
揶揄られて口元が膨らんだ。言葉尻にはまだ幼さが残る。涙を溜めた瞳を引き締め、レンガを見つめた。
「それにディルは、お城のお仕事をしてるの。忙しいんだから、邪魔はできない」
「はっ。獣人の世界を作るだの大口を叩いておいて何の知らせもないとはな。所詮、獣の言葉。信じる方が時間の無駄だということだ」
レンガは呆れたような脱力した声で笑い飛ばした。
「違うもん!ディルは嘘なんてつかないもん!」
忙しいから、大変だから、と自分に言い聞かせるようにマリーは叫んだ。
だが、別れてから半年も経つのに何の連絡もないのは気がかりでしょうがなかった。引き締めた瞳の中の涙がボロボロとこぼれ落ちた。レンガに揶揄され、的確な答えが出せない己れの情報の無さに、無力さに、悔しさも重なる。
「…どうでもいい。だいたい何を恋しがる。天冠の巫女ともあろう者が」
「巫女だからとか関係ないもん」
ディルを馬鹿にされたまま、話題が自分に逸れてきたことにも腹が立ってきた。
「神から認められて今の地位にいるのだぞ。民衆の注目を一身に浴びて何が気にくわない」
「…巫女になんて」
「マリー!」
なりたくてなったわけじゃないとでも言わんばかりのマリーの言葉を塞いだのはサリエだった。
「失礼ながら」
サリエは入り口の側に控えていた。レンガとマリーの間に体ごと入り込んだ。普段の冷静なサリエとは違い、息を切らし、焦りの表情を見せていた。
「我は巫女と話をしている。退がれ!」
レンガは、床に頭を落としているサリエに低く唸った。
「…申し訳ありません。ですが巫女はこのような状態ですので、十分な話ができるとは思えません」
「構うものか!こんな無様な姿を見せる為に天冠を授けたわけではないぞ!」
レンガはサリエの体を突っぱねた。サリエの体は後ろによろめいた。
その隙にレンガは身を屈ませていたマリーに詰め寄る。
「…申し訳ありません。巫女はまだ幼く、このような大役をお受けして、心身共に気が休まらないのです」
サリエはレンガに向き直り、深々と頭を下げた。
昼間とは違い、冗談交じりの談笑を交わしていられる状態ではないことを、体の端々から感じ取っていた。警告音が鳴り響く。
「何を巫山戯たことを言ってる!お前達巫女は、神に祈りを捧げることが仕事だろうが!体が休まらなかろうが構うものか!歌え!奏でろ!花を散らすな!!」
レンガは怒りのまま、サリエの頭ごと髪飾りを掴み上げ、壁に叩きつけた。小さなガラス玉が四方に飛び散った。レンガの指の間にはサリエの髪の毛が何本も絡みついていた。後ろに控えていた神官や巫女達がひぃっと高い声を上げ、すぐさま息を殺すように口を両手で覆った。
「やめてよ!マリーは毎日歌っているもん!お水だって、お花だって生き返ったもん!」
マリーはサリエの体に抱きついて叫んだ。サリエは引きちぎられた髪のあたりを押さえていた。
「ならばこの状況を説明しろ!この雨は何日降り続いている!?生き返った花が水浸しだ!このままだと根が腐り、砂漠を覆った草花が一気に壊滅する。お前は我との約束を忘れたのか?この地の砂漠を消し、草花を蘇らすと誓いを立てたのを忘れたのか!」
レンガの叫びに空が応えた。バリバリバリと空を切り裂き、雷鳴が轟いた。
「忘れてないもん!!」
レンガの怒号と雷鳴にマリーは反論し噛み付いた。
「砂漠をなくして、前と同じようにきれいで輝いる世界を作る!たくさん歌を歌って花を咲かせる!風を呼んで、種を飛ばして、人も獣人も一緒に幸せに暮らしていける国を作るんだもん!その為にマリーは巫女になったんだよ!」
嘘などではない。微力ながらも毎日心を込めて歌い上げている。その証拠に植物は、花の色艶も良く、成長も順調だ。花係のソインも認めるほどの秀逸さだ。
「一部どうでもいい箇所があるが、まあ、いい。約束は、実行して成功を納めることに意義があるからな。口だけでは誰でもどうとでも言える」
「口だけじゃないもん!」
マリーは腫れぼったいまぶたをこすり、窓辺に立った。眼前には、雨の海が広がっていた。両手を胸の前で組み、花糸の歌を口ずさんだ。
《たぐれたぐれ 花の糸をたぐれ
とおくはなれた土地から こちらにおいで
風よ運んで みなで愛でよう
天と地を 結ぶ糸よ》
轟音をかいくぐり、マリーの歌声は砂漠の海の中を泳いだ。雨風で荒れていた海原もやがて凪いできた。
両手を広げて空を見上げた。厚い雲に覆われた空を見つめ、心の中で祈った。
《つなげ
雲よ退け 光の階をおろして
大地を照らせ
幸運の花を広げて》
マリーの瞳の涙が渇く前に、分厚い雲間から一筋の光が差し込まれた。
《つなげ つなげ》
マリーの手に力がこもった。
じきに雨は止み、水面は穏やかに凪いだ。サーッと光の階が何筋と降りて来た。光は水を吸い上げた。空中に水溜りができた。
「まあ…」
巫女達は不思議な現象に思わず声を上げたが、神官達は怪訝な顔をした。
水溜りは光に包み込まれると蒸発し、四方に飛び散った。キラキラとした水の粒が空中に舞った。
「気象まで操りおって…お前の気まぐれに付き合っていたらいつまでも育つものも育たん!」
レンガはマリーに悪態をついた。
「だって」
「巫女の感情に歌声は左右される。歌声に同調した精霊達が困惑している。いい加減にしろ!何が不服だ!?」
レンガは澄み渡る景色に舌打ちをし続けた。
「だって、だって、だって、」
渇いた涙が再びマリーの瞳を濡らしていく。スカートの裾をぎゅっと握りしめて地団駄を踏んだ。やることなす事、幼女に戻っていた。
「だって、ここにはおねえちゃんがいないんだもん!!」
ぶわっと涙がこぼれ落ちた。
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