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第2部 第1章

5 役目

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 「何か用か?」
 手洗い場の水溜め桶にぽつんと波紋が広がった。
 「はっ、」
 畑から抜いたばかりの野菜の泥を落としている最中だった。水面を眺めているうちにぼーっとしてしまっていた。
 「手が止まっているぞ」
 水の中から手厳しい声がした。キハラだ。湖の近くの湧き水と同じ水源から引いているのでキハラの気配を感じやすいのだ。
 ナユタははっとして、持っていた野菜を桶の中に落としてしまった。大人の二の腕ほどはある太さの根菜だ。
 今時期は瑞々しく甘みがあり、水分がたくさん詰まっている。バシャンと大きな波紋が三重、四重に広がり、大きな飛沫が跳ね上がった。上衣とズボンの境目の腹部と腰のあたりだ。薄手の布地がぴたっと肌にへばりついた。
 クククと笑い声がした。
 「何か言いたいことがあるのか」
 キハラの問いかけにナユタは、はぁ~と大きなため息をつき、肩を落とした。濡れた服の重みで気分をさらに深く落とした。
 「…わかってるくせに」
 ナユタは口を開くのも重苦しかった。濡れた服に体を縛り付けられているようだった。
 「きみらはいつも唐突だよな」
 「きみ、?」
 「キアラのことだよ。何も言わずに番を交代させられて別れの言葉もかけられなかった」
 また明日と声をかけたはずだった。
 なのに、その日は永遠に来ない。
 「人間は感傷に浸りやすいな。別れの言葉など何の意味があるというのだ」
 キハラはやや呆れ口調だ。きっと何度もこんなやり取りをしてきたのだろう。
 「普通。世話になったなら礼の一つでも言うものだ」
 「世話か。迷惑の間違いじゃないのか?キアラはお前をしょっちゅう呼び出しては遊んでいただろう」
 カッカッカッと今にも水面から顔を出してきそうな愉快な笑い声が聞こえてきた。
 キハラは人間の年に換算すると五十代か六十代の初老だが、キアラはまだ十代くらいの少女だった。
 天真爛漫な性格でナユタにくっついては飛び回り、ナノハを困らせていた。
 朝の挨拶、昼の休憩、夜の散歩。隙あらば誘い出し、ナユタに執着していた。
 ナユタも仕事ができないからほどほどにしてくれと懇願していたが、呼び出されれば嬉しそうに飛び出していた。
 誰が見てもナノハのヤキモキする気持ちがわかりそうなものだった。
 「同じ体で、性別も性格も、ましてや年齢までも違うとなるとどうなの?もはや別人だよね」
 キハラとキアラ。姿は同じでも中身は違う。
 「あれはあれで望みを叶えてもらって感謝していたよ」
 「キアラと会ったのかい?」
 「同じ体だから記憶も共有しているだけだ。良い遊び相手が出来たと喜んでいた」
 幼い子を持つ父親のような発言をしたかと思えば、
 「長く生きていると色々なことがある。お前らにはわかるまい」
 人間には到底理解できないだろうとバッサリと切り捨てる。人間に寄り添うのか突き放すのか。気持ちがブレブレだ。
 それでも、番が男ならキアラ。女ならキハラ。これは変わらない。
 出現する性別は決まっていても年齢や性格はその都度変わることもある。番に合わせて姿を変える。個の性格が一定しないため、同じキアラに出会うのは限りなくゼロに近い。それに反してキハラはいつも同じだ。人格形成が出来上がっている。こんな風に、人間を嘲笑ったり揶揄したりと性格は少々難ありだが、自分はさほど嫌いではない。キアは十分に心を開いている。
 キハラはぐにゃりと体を丸めて頭を下げた。寝る態勢だ。
 「キアをどうする気だ。本当に贄にする気か?」
 これが一番聞きたかったことだ。ここ何日のモヤモヤを晴らしてくれ!
 ナユタは水面を覗き込んだ。振動で波紋が揺れた。二重、三重に弧を描く。
 「代わりができてお前もよかったんじゃないか?番から解放されて元の宿屋の仕事に戻れただろう」
 やりっぱなしで放置していた仕事が今も山のようにある。雨樋と屋根の雨漏りの修繕。客足を伸ばす為に、宿屋から森までのも道沿いに植樹をしようとナノハと計画を立てていた。テーブルや椅子も色を塗り替えて一新したかった。
 「…結果的にはそうなったけど、決してそれを望んでいたわけではない」
 キアにすべてを押し付ける気は到底なかった。
 キアラの番を煩わしく思っていた時期もあったが、突然の別れにひどく動揺したのも事実だ。もっと親身に、もっと真面目に向き合っていればキアラはいなくならなかったかもしれない。そう思えば思うほど後悔の念は尽きない。
 「…所在無くメソメソ泣いてるから泣き止ましただけだ」
 お前も泣きそうな顔をしてるなとキハラはナユタを揶揄した。
 「あれは赤子と一緒だ。泣いてる赤子に心音を聞かせると泣き止むだろう。それと同じだ」
 キハラはナユタを一瞥し、面倒くさそうに軽くあしらった。
 肌に触れたことなど何の意味もない。
 詮索されて痛くもない腹を探られるのは御免だった。
 あれは赤子だ。自分が何者かもわからずに泣いてる。自分がやるべきこと、進むべき道がまだ見つからないただの赤子だ。記憶などなくても生きていける。いくらでも上書きできる。そう伝えてやりたかっただけだ。
 他には何の意味もない。
 贄を望ませたのは、俺の誘導に合わせただけだろう。本心ではない。
 キハラはゆっくりと目を閉じた。たゆたう水の中で気持ちも揺れた。本心を隠しているのはどちらだろう。
 「…信じていいんだな」
 ナユタは桶の縁を強く握りしめた。爪の間に木片が入り込んだ。
 答えはまだ、というか永遠に来ない。
 キハラはまばたきをしてナユタを見上げた。
 望んでも叶わないのであれば迷う意味がない。
 「好きにしろ。それより、そろそろ月が消えるぞ。支度は整っているんだろうな?」
 「いや。キアにはまだ荷が重いだろう。まだ何の説明もしてない」
 「なら、お前が先導しろ。体が痒くてたまらん」

 森の道は一本道。延々と続く長い道を行くと森の外に出る。そこが国境だ。守衛がいる関所だ。
 国境を越えてくる旅人が日に何度も訪れる。森に入るには規則がある。宿屋の人間の招きを受けなければならない。破れば罰則。罰金刑ならかわいいものだが、主の怒りを買えば森の奥深くに追放される。
 新月の夜は何人たりともこの規則を破ってはならない。
 生きて森を出たければ絶対だ。
 数十、時には数百と行き交う旅人の踏みならした足跡は森中にへばりついている。森はキハラの体の一部だ。
 踏みならされた道を真っさらな状態に戻すのが番の役目である。
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