96 / 203
第2部 第1章
5 役目
しおりを挟む-----------------------------------------------------
「何か用か?」
手洗い場の水溜め桶にぽつんと波紋が広がった。
「はっ、」
畑から抜いたばかりの野菜の泥を落としている最中だった。水面を眺めているうちにぼーっとしてしまっていた。
「手が止まっているぞ」
水の中から手厳しい声がした。キハラだ。湖の近くの湧き水と同じ水源から引いているのでキハラの気配を感じやすいのだ。
ナユタははっとして、持っていた野菜を桶の中に落としてしまった。大人の二の腕ほどはある太さの根菜だ。
今時期は瑞々しく甘みがあり、水分がたくさん詰まっている。バシャンと大きな波紋が三重、四重に広がり、大きな飛沫が跳ね上がった。上衣とズボンの境目の腹部と腰のあたりだ。薄手の布地がぴたっと肌にへばりついた。
クククと笑い声がした。
「何か言いたいことがあるのか」
キハラの問いかけにナユタは、はぁ~と大きなため息をつき、肩を落とした。濡れた服の重みで気分をさらに深く落とした。
「…わかってるくせに」
ナユタは口を開くのも重苦しかった。濡れた服に体を縛り付けられているようだった。
「きみらはいつも唐突だよな」
「きみ、ら?」
「キアラのことだよ。何も言わずに番を交代させられて別れの言葉もかけられなかった」
また明日と声をかけたはずだった。
なのに、その日は永遠に来ない。
「人間は感傷に浸りやすいな。別れの言葉など何の意味があるというのだ」
キハラはやや呆れ口調だ。きっと何度もこんなやり取りをしてきたのだろう。
「普通。世話になったなら礼の一つでも言うものだ」
「世話か。迷惑の間違いじゃないのか?キアラはお前をしょっちゅう呼び出しては遊んでいただろう」
カッカッカッと今にも水面から顔を出してきそうな愉快な笑い声が聞こえてきた。
キハラは人間の年に換算すると五十代か六十代の初老だが、キアラはまだ十代くらいの少女だった。
天真爛漫な性格でナユタにくっついては飛び回り、ナノハを困らせていた。
朝の挨拶、昼の休憩、夜の散歩。隙あらば誘い出し、ナユタに執着していた。
ナユタも仕事ができないからほどほどにしてくれと懇願していたが、呼び出されれば嬉しそうに飛び出していた。
誰が見てもナノハのヤキモキする気持ちがわかりそうなものだった。
「同じ体で、性別も性格も、ましてや年齢までも違うとなるとどうなの?もはや別人だよね」
キハラとキアラ。姿は同じでも中身は違う。
「あれはあれで望みを叶えてもらって感謝していたよ」
「キアラと会ったのかい?」
「同じ体だから記憶も共有しているだけだ。良い遊び相手が出来たと喜んでいた」
幼い子を持つ父親のような発言をしたかと思えば、
「長く生きていると色々なことがある。お前らにはわかるまい」
人間には到底理解できないだろうとバッサリと切り捨てる。人間に寄り添うのか突き放すのか。気持ちがブレブレだ。
それでも、番が男ならキアラ。女ならキハラ。これは変わらない。
出現する性別は決まっていても年齢や性格はその都度変わることもある。番に合わせて姿を変える。個の性格が一定しないため、同じキアラに出会うのは限りなくゼロに近い。それに反してキハラはいつも同じだ。人格形成が出来上がっている。こんな風に、人間を嘲笑ったり揶揄したりと性格は少々難ありだが、自分はさほど嫌いではない。キアは十分に心を開いている。
キハラはぐにゃりと体を丸めて頭を下げた。寝る態勢だ。
「キアをどうする気だ。本当に贄にする気か?」
これが一番聞きたかったことだ。ここ何日のモヤモヤを晴らしてくれ!
ナユタは水面を覗き込んだ。振動で波紋が揺れた。二重、三重に弧を描く。
「代わりができてお前もよかったんじゃないか?番から解放されて元の宿屋の仕事に戻れただろう」
やりっぱなしで放置していた仕事が今も山のようにある。雨樋と屋根の雨漏りの修繕。客足を伸ばす為に、宿屋から森までのも道沿いに植樹をしようとナノハと計画を立てていた。テーブルや椅子も色を塗り替えて一新したかった。
「…結果的にはそうなったけど、決してそれを望んでいたわけではない」
キアにすべてを押し付ける気は到底なかった。
キアラの番を煩わしく思っていた時期もあったが、突然の別れにひどく動揺したのも事実だ。もっと親身に、もっと真面目に向き合っていればキアラはいなくならなかったかもしれない。そう思えば思うほど後悔の念は尽きない。
「…所在無くメソメソ泣いてるから泣き止ましただけだ」
お前も泣きそうな顔をしてるなとキハラはナユタを揶揄した。
「あれは赤子と一緒だ。泣いてる赤子に心音を聞かせると泣き止むだろう。それと同じだ」
キハラはナユタを一瞥し、面倒くさそうに軽くあしらった。
肌に触れたことなど何の意味もない。
詮索されて痛くもない腹を探られるのは御免だった。
あれは赤子だ。自分が何者かもわからずに泣いてる。自分がやるべきこと、進むべき道がまだ見つからないただの赤子だ。記憶などなくても生きていける。いくらでも上書きできる。そう伝えてやりたかっただけだ。
他には何の意味もない。
贄を望ませたのは、俺の誘導に合わせただけだろう。本心ではない。
キハラはゆっくりと目を閉じた。たゆたう水の中で気持ちも揺れた。本心を隠しているのはどちらだろう。
「…信じていいんだな」
ナユタは桶の縁を強く握りしめた。爪の間に木片が入り込んだ。
答えはまだ、というか永遠に来ない。
キハラはまばたきをしてナユタを見上げた。
望んでも叶わないのであれば迷う意味がない。
「好きにしろ。それより、そろそろ月が消えるぞ。支度は整っているんだろうな?」
「いや。キアにはまだ荷が重いだろう。まだ何の説明もしてない」
「なら、お前が先導しろ。体が痒くてたまらん」
森の道は一本道。延々と続く長い道を行くと森の外に出る。そこが国境だ。守衛がいる関所だ。
国境を越えてくる旅人が日に何度も訪れる。森に入るには規則がある。宿屋の人間の招きを受けなければならない。破れば罰則。罰金刑ならかわいいものだが、主の怒りを買えば森の奥深くに追放される。
新月の夜は何人たりともこの規則を破ってはならない。
生きて森を出たければ絶対だ。
数十、時には数百と行き交う旅人の踏みならした足跡は森中にへばりついている。森はキハラの体の一部だ。
踏みならされた道を真っさらな状態に戻すのが番の役目である。
0
お気に入りに追加
49
あなたにおすすめの小説
幼い公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~
朱色の谷
ファンタジー
公爵家の末娘として生まれた6歳のティアナ
お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。
お父様やお兄様は私に関心がないみたい。愛されたいと願い、愛想よく振る舞っていたが一向に興味を示してくれない…
そんな中、夢の中の本を読むと、、、
Sランク冒険者の受付嬢
おすし
ファンタジー
王都の中心街にある冒険者ギルド《ラウト・ハーヴ》は、王国最大のギルドで登録冒険者数も依頼数もNo.1と実績のあるギルドだ。
だがそんなギルドには1つの噂があった。それは、『あのギルドにはとてつもなく強い受付嬢』がいる、と。
そんな噂を耳にしてギルドに行けば、受付には1人の綺麗な銀髪をもつ受付嬢がいてー。
「こんにちは、ご用件は何でしょうか?」
その受付嬢は、今日もギルドで静かに仕事をこなしているようです。
これは、最強冒険者でもあるギルドの受付嬢の物語。
※ほのぼので、日常:バトル=2:1くらいにするつもりです。
※前のやつの改訂版です
※一章あたり約10話です。文字数は1話につき1500〜2500くらい。
世界一の怪力男 彼は最強を名乗る種族に果たし状を出しました
EAD
ファンタジー
世界一の怪力モンスターと言われた格闘家ラングストン、彼は無敗のまま格闘人生を終え老衰で亡くなった。
気がつき目を覚ますとそこは異世界、ラングストンは1人の成人したばかりの少年となり転生した。
ラングストンの前の世界での怪力スキルは何故か最初から使えるので、ラングストンはとある学園に希望して入学する。
そこは色々な種族がいて、戦いに自信のある戦士達がいる学園であり、ラングストンは自らの力がこの世界にも通用するのかを確かめたくなり、果たし状を出したのであった。
ラングストンが果たし状を出したのは、生徒会長、副会長、書記などといった実力のある美女達である、果たしてラングストンの運命はいかに…
どうせみんな死ぬ。
桜愛乃際(さくらのあ)
ファンタジー
魔法と科学、双方が発達した世界。
空飛ぶ車は科学。空飛ぶ絨毯は魔法。
ただし、魔法技術の方が発達しており、インフラ設備は、そのほとんどが魔法に依存していた。
そんな世界で、大きな大陸を丸々一つ貸しきった大国──ルスファ。南に人間が国を築く一方、北には魔族たちが集う。そして、魔王の支配下に置かれた一部の土地を、魔王の国と呼んでいた。
十年単位で陣取り合戦が行われるようになってから、実に、千年。人間の国王が崩御するか、魔王が勇者に倒される度に内戦は中断し、新たな王が即位する度に再開する。そんな時代が続いた。
しかし、ここ三十年、戦いは起きておらず、偽りの平和の時代が到来していた。魔族と人間も、互いの歩み寄りによって、双方に対する偏見の目も、薄れつつあった。
──その国には、一生に一度だけ、どんな願いも叶えられる『願いの魔法』が存在した。それは、八歳になると使えるようになるものであり、その願いのほとんどが魔法に使われる。
それゆえ、多くの者は、こう認識していた。
『八歳になれば、魔法が使えるようになる』
と。
当作品は、カクヨム、小説家になろう、ノベルアップ+にも掲載しております。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
漆黒の復讐者 ―Dark Avenger―
PN.平綾真理
ファンタジー
主人公クロの元に、母マリアの仇である双子の兄ヴァイスからの招待状を持ってきたという道化師オーギュスト。オーギュストが現れたのを切っ掛けに、アーズガルド島でクロの復讐の戦いの幕が上がる!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる