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第2部 第1章
0 贄か番か
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人生の転機の選択はよく考えた方がいいと言うけれど、突きつけられた選択に悩む間も無く答えたのは素直にそう思ったからだった。水の中にいるのに呼吸ができるとか、目の前に現れた大蛇に圧倒されたとか、恐怖でおののいたとかではない。ひとりぼっちで自分が何者かもわからず途方に暮れていた私にとっては、彼はかなり頼もしい存在だと感じたからだった。
「…どちらも」
今にも噛みつかれそうな位置にある顔に向かって呟いた。
唇の上に乗せた言葉は脆くこぼれ落ちた。聞こえているのかどうか。聞き返したくても、次に出す言葉は何を選んでいいかわからなかった。食べてもいいかと聞かれて、はいと答えたようなものだった。聞こえているかどうかなんてことより、私の人生はここで終わりなのだ。もっと狼狽えるべきだ。なのに体は動かなかった。
彼は何も言わずに私の顔をじっと見つめてきた。大きな体に反して、つぶらな黒目。魚の鱗に似たひび割れた皮膚が、長い肢体を覆い尽くしていた。
青みががった湖の中で、真っ白な体がとてもきれいだった。見つめられて見つめ返した。見れば見るほど美しい大蛇だ。
私の視線と答えに、しばらく沈黙が続いた。
「俺が恐ろしくないのか」
大蛇は口を開いた。口の中は皮膚の色とは違い、真っ黒だった。白く光るのは牙だ。
やや緊張が走った。外見の美しさに呆気を取られている場合ではなかったのだ。美しさの中にも闇がある。口の中の闇だ。私を迎え入れようとしているのか。
「…私を食べるの?」
闇の中に光る白い牙が、明かりのようにも見えた。絶望と希望。相反するもの。今になって体が震えてきた。最初の問いを思い出した。
贄とは、生贄のことではないだろうか。私を食べる気でいるのだ。では番とは?
「どちらもと答えたやつは初めてだ。食らってしまったら番にはできない」
「…番とは何をすればいいの?」
聞きなれない言葉だ。そもそも自分が何者かもわからない私にとっては何もかもが聞きなれない。
贄とは?番とは?
「…俺を見て引き下がらない人間を初めて見た」
おもしろい。興味が沸いたと言い、大蛇は私の体を湖の外に放り出した。髪と服から滴り落ちる水滴を大蛇は長い舌を伸ばして舐めてきた。細く長く、口の中と同じく真っ黒い舌の先は割れていた。
「俺の名はキハラ。お前は何という?」
森の中の静寂な空気が私を包んだ。
名前はまだ、ない。
(思い出せない)
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