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第5章
23 最後の王
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ひとつ、ふたつと水面に映る波紋を数えてはナイトメアは吐き捨てるように呟いた。
「…莫迦なやつめ」
嘆くような寂しげな声だった。ふぅと息を吐いて数秒間目を閉じた。瞼の裏に映る人影を無言で見つめた。目を開けるとその人影は消えていた。
眼前に立ちはだかる鉄錆のついた重い扉に手をかけた。
字の如く、錆びついた扉はなかなか開かなかった。肉を持たない体では開けることは叶わない。ナイトメアは両手を扉にくっつけて息を吸い込んだ。一歩踏み出して扉の中に体を押し込めた。靄の体は容易に扉を擦り抜けた。
「…全く。ここは変わらなんな」
ナイトメアは室内に入った途端に顔をしかめた。むせ返るような異常なほどの臭気に、体が拒否反応を起こした。
常人であれば、込み上げて来る胃液を押しとどめるのに苦労しそうだ。床、天井、壁、調度品の数々からも血が滴り落ちていた。その下には大きな血溜まりがいくつもあり、獣人達の無残な遺骸がいくつも転がっていた。さらにもうあと数メートル先を行けば、逃げ場もなく、ただ震えているばかりの獣人達がお互いに体を寄せ合っていた。仲間達の無残な姿を前にして正気でいられるはずもなく、皆、無表情で目の焦点がずれていた。
「相変わらず残虐な男だな。こんな血生臭い場所に、嗅覚が敏感な獣人達を閉じ込めておくなんて人にあるまじき行為だ。体のない儂とて鼻が曲がる」
ナイトメアは顔をしかめては鼻をつまんだ。
「何者だ?誰の断りでこの部屋に入った」
ヴァリウスは声が聞こえてきた方向に振り返った。右手には幅の広い刃物を、左手には鉄錆のついた棒をしっかりと握りしめていた。
そのどちらも本来の色から一転していた。どす黒い血の色をしていた。棒の錆がさらに加算されていった。
「ふん。忘れられてしまったか。誠に残念なことだ」
ナイトメアは笑った。発した言葉とは裏腹に悲しさなどは微塵もなかった。
「もう一度聞く。誰の許しを得てここに入って来た?ここは神聖な場所だ。体を持たぬ輩が踏み入れて良い場所ではないぞ」
ヴァリウスはナイトメアを睨みつけた。聖域を踏みにじられたことを憤慨しているようにも聞こえるが、そうでもないようにも取れる。獣人達の死体損壊に相当体力を奪われていて、得体の知れない侵入者に構っていられなくなっていた。気にはなるけどどうでもいい。邪魔さえしなければどうでもいい。そんな程度だ。
「それはおかしいな。少なくとも儂はここに何度も来たことがあるぞ。もちろんお前の許しを得てだ」
「…お前とは何だ。口が過ぎるぞ!誰にものを言っている。俺がお前を招いただと?笑わせるな。お前など知らんわ!話しかけるな。気が散る」
ヴァリウスがナイトメアから視線を逸らし、残っていた獣人達に照準を合わせた。ヒイィと先ほどよりもっと大きく体を震わした。足音が近づくにつれ、獣人達は無表情から一転、涙をポロポロと流し、頬を紅潮させたり青ざめたりとせわしなく動いた。
「いい表情だ。お前、綺麗な赤い目をしてるな。お前は兎か。体中、赤く染めてやろうぞ。核と共にその目もいただくとしよう」
ヴァリウスは前列にいた赤い目をした獣人の胸ぐらをがっしりと掴み上げた。
「おゆ、おゆ、お許しを!ヴァリウス様!」
足元をばたつかせては、体を大きく揺らした。頭に被っていたフードが取れ、ぴょんっと長く飛び出した耳は、白毛に覆われていて、この場にそぐわない可愛らしさがあった。
「暴れると手元が狂う。自慢の長耳も切り落としてしまうぞ。のう?」
「ひ、ひい…。お許しを!」
「これでも優しくしているつもりだぞ?ここにいる誰一人として逃がす気はないからな。皆一緒だ。気に病むことはない」
ヴァリウスは兎の胸ぐらから手を離し、長耳をむんずと鷲掴みにした。兎は、血の気が一気に引き、青ざめた顔をして硬直していた。
「支離滅裂だな。何を言ってるかわからん。かつては神の使い魔だった獣人を皆殺しにするなどと考えられんわ。それに獣人はお前の嗜好だったろうに」
「俺を認めなかった神など知らんわ。獣人が神の使いであるならちょうどいい。切り刻んで送り返してやるわ」
「やれやれ。天冠を得られなかったのがそんなにショックだったのか?」
「第一にお前を選ぶ神がいると思っていたのか」
あるわけがない。己れを知らな過ぎだ。
「なんだと?」
「王などと呼ばれているだけで、自分が偉くなったつもりか?国の事など何もしていないだろう。政治も国益も人任せだ。高い税金を徴収するだけで砂漠化した地域をどう対策をとることもしなかった。自分好みの獣人だけを手元に残して遊んでいただけだったろう」
「口の利き方に気をつけろ!行き場のない獣人達に職を与えたのは俺だぞ」
ヴァリウスの所作に合わせて刃物から血が滴り落ちた。
とめどなく流れ続ける。
「休みも給金もゼロ。こき使われて挙句には、核も取られて投げ棄てられる。これが王のすることか?」
「役に立たない獣人には用はない。そもそも獣人化を望んでない者もいたのだから、核を取り出して別の個体に変わっても文句を言う権利などない」
「どんな理屈だ」
ナイトメアはげんなりしていた。話がまるで通らない。
「いい加減にしろよ。呼び名などただの飾りに過ぎない。お前は王でもなんでもない!ただの殺人者だ!!」
「黙れ!お前に何がわかる?」
「何もわからんし、わかる気もないわ!儂は儂の物を返しにもらいに来ただけじゃ!」
ナイトメアは今にも成形しそうな靄の体でヴァリウスに飛びかかった。肉体は無くとも、骨格や筋肉のこぶが見える腕は、力強くヴァリウスを柱に叩きつけた。
「ぐおっ!」
柱に亀裂が走った。ミシッと骨が軋む音がした。
ヴァリウスは持っていた刃物で、ナイトメアの左腕を振り払った。肘の下あたりに刃先が食い込み、散り散りになって飛散した。しかし、すぐに元の腕の形に戻った。
「便利なものだな」
相手の攻撃を無効にできる。
靄だからこそできる戦略法。
「しかしこの腕では、あれを抱けない」
ナイトメアは靄のままの両腕を眺めた。物体を通り抜けてしまうのなら、触れ合うのはまだまだ先の話だ。
触れたくても触れられない。眺めるだけの日々はもうたくさんだ。あの毛並みに指を通したいのだ。日なたの匂いがする体を撫でくりまわしたいのだ。しつこいと怒鳴られて爪を立てられたいのだ。せわしなく怒鳴られ、嫌味のオンパレード。日なたで昼寝をしたり、夕焼けを見たり。酒の肴を取り合いたい。そんな些細な事が日常で幸せだった。
もう少し。あと少しで願いが叶う。
「貴様…誰だ!」
「まだわからんか。お前に使い魔を殺された夢占だよ」
「夢占だと?そんなものがいたか?悪夢ばかり見せては金をせびりに来た三流占い師のことか」
ヴァリウスは体を仰け反り、ナイトメアを見て見下すように笑った。
「使い魔などに心を奪われているのか?つくづく哀れな男よのう。獣人などいくらでもいるだろうが!まったく笑かせてくれる。生き方も三流だな。そうだ。そんなお前に褒美をやろう。昔のよしみだ。お前の使い魔はどれだか知らんが、共に逝かせてやろうぞ」
ヴァリウスは獣人達から抜き取った核の箱を床に蹴散らした。
数百、数千個の核が床に転がった。宝石にも劣らない美しい輝きだが、早くも血溜まりに沈み赤く変色していった。
「我が世を生きるには図々しいにもほどがあるわ!たかだか獣人風情が!何が神の使いだ。人間に勝てぬと思ったら、自ら平伏し尻尾を振る負け犬どもめ!」
終いだ終いだと荒れ狂うヴァリウスは回りの調度品に向かい刃物を振り回した。
「どいつもこいつも何もわかっていない!力なくては国は成立しないのだ!税金を納めるのは民の使命、獣人が働くのは必然。何が悪い?王の為に頭を下げて身を差し出すことの何が悪いと言うのか?他国からの侵略を防ぐために国家の為には犠牲はつきものだろうが!」
「影付きもか?」
「ああ?ハッ!影付きの娘か。久しぶりに現れたかと思えば抵抗ばかりして面倒な娘だったわ。上手いこと神殿にやったはいいが連絡がない。見た目ほど大した情報は持ってなさそうだから、あの役に立たぬ神官もろとも葬ってしまえばよかった」
ガンガンガンと鈍い音が部屋中をこだまする。ヴァリウスは数歩歩いた先で血溜まりに落ちた獣人の核に足をとられ転倒した。
「忌々しい奴らめ…こんな姿になってもまだ私に楯突こうと言うのか!!」
ヴァリウスは足元に転がる核を踏みつけた。ブチブチと踏み躙られていく核の中から、断末魔とも言える叫びが耳の奥にこびりついた。ヴァリウスの怒り狂う様は、人でも獣でもない異形の姿だった。目玉はひん剥き、口元は裂け、歯を剥いた。とても王と呼べる姿ではない。
「影付きの娘は、お前が手懐けていた神官に死に追いやられた」
「…ほう。見かけに寄らず頼もしい奴だったのか。惜しいことをしたな」
「手元に呼んで可愛がる気か?獣人のように」
自分に従順なペットのように。
「馬鹿言うな。罪人には興味がない」
チドリに全ての罪を被ってもらおう。ヴァリウスは頭の中に計画書を打ち出した。国の崩壊も獣人殺しも。全ては神官の暴走だと。幸い、すでに神殿から見放された神官だ。自棄になった末の犯行だと言えば誰も疑いはしない。
「去れ。三流占い師。今すぐ俺の目の前から消えれば、お前1人見逃してやらんことはないぞ」
ヴァリウスは、にいぃっと不敵な笑みを浮かべた。策はある。この場をやり遂げる策が。
「…馬鹿言うな。儂がお前を見逃すと思うか?何年この日を待ったと言うんだ」
ナイトメアは乾いた笑いを浮かべた。ヴァリウスとは正反対の笑みだ。スッと片手を上げ、血溜まりを見つめた。
潰された核の中に、赤く渦巻く核がこちらを見ていた。
血の赤色とは違い、夕焼け色に赤味がかった核だ。
「ククル。来い!」
名を呼べば何度でも繰り返される。記憶も。思い出も。
核から飛び出して来た獣を受け止めた。これはお前の為の止まり木だ。ククルが触れた箇所から肉のついた体に変化した。
赤毛の長毛種の猫。ククルはナイトメアの肩に登り、しっかりと土台を踏みしめた。
「待たせたな」
「…待ってなどおりませんが何か」
肩に手をかけようと伸ばしたが、ククルはシャッと前足で払いのけた。
「浮気者には触られたくありません」
「何の話だ?」
「ふん」
ククルは多くは語らずにそっぽを向いた。
「…核から元の体に復活だと?しかもお前も…ふざけおって…」
ヴァリウスはわなわなと震えだした。怒りの矛先は明らかにククルとナイトメアだ。己れが踏み潰した核に、今度は己れの沽券を踏み潰されたのだ。
「許さん。許さんぞ!!」
ヴァリウスは獣の咆哮のように叫んだ。喉の血管が切れ血飛沫が上がっても、その叫びはやまなかった。
「おおおおおおおおおおおおおお!!」
叫び声は血飛沫と比例した。
「許さん、許さんぞ!貴様ぁ!!」
ヴァリウスの腕はナイトメアとククルに向けられた。
血飛沫はそれを追うようにヴァリウスに浴びせられた。
叫びは絶えず続いた。ナイトメアを睨みつけるも目の焦点は合っていない。
ククルの鼻先をかすめるかどうかの距離で声は突如として切れた。無理矢理コンセントを引っこ抜いたように。ブツっと。
ナイトメアの足元にはひときわ大きな血溜まりができていた。
視線をそこからずらしていくと、肩で息をしている獣人がいた。目は窪み、満身創痍だ。大きく変形した指先は血だらけで、今にも意識が飛びそうだった。
ククルはナイトメアの肩からぴょんと飛び降り、レアシスの鼻先に顔を近づけた。レアシスはククルの匂いを感じ取り、弱々しく微笑んだ。ナイトメアはその人物と目を合わせ、膝を折り静かに口を開いた。
「…お前は転身だろう。獣人になって日も浅いのに、その役回りは損だ。まだ見ぬ未来を棒に振っては惜しかろう。その役目は儂がと思っていたのになぁ」
「…誰にどうしろと言われたわけではない。私が仕留めておきたかったのだ。雪様のために…今度こそ」
レアシスは、命令とはいえ神殿に行かせてしまったことをずっと後悔していた。
「雪?…ああ、あの娘のことか。知り合いか」
「…神官に手を下されたというのは本当か」
「その場を見たわけではないが、国花は咲き、天冠が現れた。それだけで十分だろう」
「…うっ…く…うう…」
レアシスは嗚咽を混じらせて泣いた。静まり返った室内にか細く響いた。
ひとつ、ふたつと水面に映る波紋を数えてはナイトメアは吐き捨てるように呟いた。
「…莫迦なやつめ」
嘆くような寂しげな声だった。ふぅと息を吐いて数秒間目を閉じた。瞼の裏に映る人影を無言で見つめた。目を開けるとその人影は消えていた。
眼前に立ちはだかる鉄錆のついた重い扉に手をかけた。
字の如く、錆びついた扉はなかなか開かなかった。肉を持たない体では開けることは叶わない。ナイトメアは両手を扉にくっつけて息を吸い込んだ。一歩踏み出して扉の中に体を押し込めた。靄の体は容易に扉を擦り抜けた。
「…全く。ここは変わらなんな」
ナイトメアは室内に入った途端に顔をしかめた。むせ返るような異常なほどの臭気に、体が拒否反応を起こした。
常人であれば、込み上げて来る胃液を押しとどめるのに苦労しそうだ。床、天井、壁、調度品の数々からも血が滴り落ちていた。その下には大きな血溜まりがいくつもあり、獣人達の無残な遺骸がいくつも転がっていた。さらにもうあと数メートル先を行けば、逃げ場もなく、ただ震えているばかりの獣人達がお互いに体を寄せ合っていた。仲間達の無残な姿を前にして正気でいられるはずもなく、皆、無表情で目の焦点がずれていた。
「相変わらず残虐な男だな。こんな血生臭い場所に、嗅覚が敏感な獣人達を閉じ込めておくなんて人にあるまじき行為だ。体のない儂とて鼻が曲がる」
ナイトメアは顔をしかめては鼻をつまんだ。
「何者だ?誰の断りでこの部屋に入った」
ヴァリウスは声が聞こえてきた方向に振り返った。右手には幅の広い刃物を、左手には鉄錆のついた棒をしっかりと握りしめていた。
そのどちらも本来の色から一転していた。どす黒い血の色をしていた。棒の錆がさらに加算されていった。
「ふん。忘れられてしまったか。誠に残念なことだ」
ナイトメアは笑った。発した言葉とは裏腹に悲しさなどは微塵もなかった。
「もう一度聞く。誰の許しを得てここに入って来た?ここは神聖な場所だ。体を持たぬ輩が踏み入れて良い場所ではないぞ」
ヴァリウスはナイトメアを睨みつけた。聖域を踏みにじられたことを憤慨しているようにも聞こえるが、そうでもないようにも取れる。獣人達の死体損壊に相当体力を奪われていて、得体の知れない侵入者に構っていられなくなっていた。気にはなるけどどうでもいい。邪魔さえしなければどうでもいい。そんな程度だ。
「それはおかしいな。少なくとも儂はここに何度も来たことがあるぞ。もちろんお前の許しを得てだ」
「…お前とは何だ。口が過ぎるぞ!誰にものを言っている。俺がお前を招いただと?笑わせるな。お前など知らんわ!話しかけるな。気が散る」
ヴァリウスがナイトメアから視線を逸らし、残っていた獣人達に照準を合わせた。ヒイィと先ほどよりもっと大きく体を震わした。足音が近づくにつれ、獣人達は無表情から一転、涙をポロポロと流し、頬を紅潮させたり青ざめたりとせわしなく動いた。
「いい表情だ。お前、綺麗な赤い目をしてるな。お前は兎か。体中、赤く染めてやろうぞ。核と共にその目もいただくとしよう」
ヴァリウスは前列にいた赤い目をした獣人の胸ぐらをがっしりと掴み上げた。
「おゆ、おゆ、お許しを!ヴァリウス様!」
足元をばたつかせては、体を大きく揺らした。頭に被っていたフードが取れ、ぴょんっと長く飛び出した耳は、白毛に覆われていて、この場にそぐわない可愛らしさがあった。
「暴れると手元が狂う。自慢の長耳も切り落としてしまうぞ。のう?」
「ひ、ひい…。お許しを!」
「これでも優しくしているつもりだぞ?ここにいる誰一人として逃がす気はないからな。皆一緒だ。気に病むことはない」
ヴァリウスは兎の胸ぐらから手を離し、長耳をむんずと鷲掴みにした。兎は、血の気が一気に引き、青ざめた顔をして硬直していた。
「支離滅裂だな。何を言ってるかわからん。かつては神の使い魔だった獣人を皆殺しにするなどと考えられんわ。それに獣人はお前の嗜好だったろうに」
「俺を認めなかった神など知らんわ。獣人が神の使いであるならちょうどいい。切り刻んで送り返してやるわ」
「やれやれ。天冠を得られなかったのがそんなにショックだったのか?」
「第一にお前を選ぶ神がいると思っていたのか」
あるわけがない。己れを知らな過ぎだ。
「なんだと?」
「王などと呼ばれているだけで、自分が偉くなったつもりか?国の事など何もしていないだろう。政治も国益も人任せだ。高い税金を徴収するだけで砂漠化した地域をどう対策をとることもしなかった。自分好みの獣人だけを手元に残して遊んでいただけだったろう」
「口の利き方に気をつけろ!行き場のない獣人達に職を与えたのは俺だぞ」
ヴァリウスの所作に合わせて刃物から血が滴り落ちた。
とめどなく流れ続ける。
「休みも給金もゼロ。こき使われて挙句には、核も取られて投げ棄てられる。これが王のすることか?」
「役に立たない獣人には用はない。そもそも獣人化を望んでない者もいたのだから、核を取り出して別の個体に変わっても文句を言う権利などない」
「どんな理屈だ」
ナイトメアはげんなりしていた。話がまるで通らない。
「いい加減にしろよ。呼び名などただの飾りに過ぎない。お前は王でもなんでもない!ただの殺人者だ!!」
「黙れ!お前に何がわかる?」
「何もわからんし、わかる気もないわ!儂は儂の物を返しにもらいに来ただけじゃ!」
ナイトメアは今にも成形しそうな靄の体でヴァリウスに飛びかかった。肉体は無くとも、骨格や筋肉のこぶが見える腕は、力強くヴァリウスを柱に叩きつけた。
「ぐおっ!」
柱に亀裂が走った。ミシッと骨が軋む音がした。
ヴァリウスは持っていた刃物で、ナイトメアの左腕を振り払った。肘の下あたりに刃先が食い込み、散り散りになって飛散した。しかし、すぐに元の腕の形に戻った。
「便利なものだな」
相手の攻撃を無効にできる。
靄だからこそできる戦略法。
「しかしこの腕では、あれを抱けない」
ナイトメアは靄のままの両腕を眺めた。物体を通り抜けてしまうのなら、触れ合うのはまだまだ先の話だ。
触れたくても触れられない。眺めるだけの日々はもうたくさんだ。あの毛並みに指を通したいのだ。日なたの匂いがする体を撫でくりまわしたいのだ。しつこいと怒鳴られて爪を立てられたいのだ。せわしなく怒鳴られ、嫌味のオンパレード。日なたで昼寝をしたり、夕焼けを見たり。酒の肴を取り合いたい。そんな些細な事が日常で幸せだった。
もう少し。あと少しで願いが叶う。
「貴様…誰だ!」
「まだわからんか。お前に使い魔を殺された夢占だよ」
「夢占だと?そんなものがいたか?悪夢ばかり見せては金をせびりに来た三流占い師のことか」
ヴァリウスは体を仰け反り、ナイトメアを見て見下すように笑った。
「使い魔などに心を奪われているのか?つくづく哀れな男よのう。獣人などいくらでもいるだろうが!まったく笑かせてくれる。生き方も三流だな。そうだ。そんなお前に褒美をやろう。昔のよしみだ。お前の使い魔はどれだか知らんが、共に逝かせてやろうぞ」
ヴァリウスは獣人達から抜き取った核の箱を床に蹴散らした。
数百、数千個の核が床に転がった。宝石にも劣らない美しい輝きだが、早くも血溜まりに沈み赤く変色していった。
「我が世を生きるには図々しいにもほどがあるわ!たかだか獣人風情が!何が神の使いだ。人間に勝てぬと思ったら、自ら平伏し尻尾を振る負け犬どもめ!」
終いだ終いだと荒れ狂うヴァリウスは回りの調度品に向かい刃物を振り回した。
「どいつもこいつも何もわかっていない!力なくては国は成立しないのだ!税金を納めるのは民の使命、獣人が働くのは必然。何が悪い?王の為に頭を下げて身を差し出すことの何が悪いと言うのか?他国からの侵略を防ぐために国家の為には犠牲はつきものだろうが!」
「影付きもか?」
「ああ?ハッ!影付きの娘か。久しぶりに現れたかと思えば抵抗ばかりして面倒な娘だったわ。上手いこと神殿にやったはいいが連絡がない。見た目ほど大した情報は持ってなさそうだから、あの役に立たぬ神官もろとも葬ってしまえばよかった」
ガンガンガンと鈍い音が部屋中をこだまする。ヴァリウスは数歩歩いた先で血溜まりに落ちた獣人の核に足をとられ転倒した。
「忌々しい奴らめ…こんな姿になってもまだ私に楯突こうと言うのか!!」
ヴァリウスは足元に転がる核を踏みつけた。ブチブチと踏み躙られていく核の中から、断末魔とも言える叫びが耳の奥にこびりついた。ヴァリウスの怒り狂う様は、人でも獣でもない異形の姿だった。目玉はひん剥き、口元は裂け、歯を剥いた。とても王と呼べる姿ではない。
「影付きの娘は、お前が手懐けていた神官に死に追いやられた」
「…ほう。見かけに寄らず頼もしい奴だったのか。惜しいことをしたな」
「手元に呼んで可愛がる気か?獣人のように」
自分に従順なペットのように。
「馬鹿言うな。罪人には興味がない」
チドリに全ての罪を被ってもらおう。ヴァリウスは頭の中に計画書を打ち出した。国の崩壊も獣人殺しも。全ては神官の暴走だと。幸い、すでに神殿から見放された神官だ。自棄になった末の犯行だと言えば誰も疑いはしない。
「去れ。三流占い師。今すぐ俺の目の前から消えれば、お前1人見逃してやらんことはないぞ」
ヴァリウスは、にいぃっと不敵な笑みを浮かべた。策はある。この場をやり遂げる策が。
「…馬鹿言うな。儂がお前を見逃すと思うか?何年この日を待ったと言うんだ」
ナイトメアは乾いた笑いを浮かべた。ヴァリウスとは正反対の笑みだ。スッと片手を上げ、血溜まりを見つめた。
潰された核の中に、赤く渦巻く核がこちらを見ていた。
血の赤色とは違い、夕焼け色に赤味がかった核だ。
「ククル。来い!」
名を呼べば何度でも繰り返される。記憶も。思い出も。
核から飛び出して来た獣を受け止めた。これはお前の為の止まり木だ。ククルが触れた箇所から肉のついた体に変化した。
赤毛の長毛種の猫。ククルはナイトメアの肩に登り、しっかりと土台を踏みしめた。
「待たせたな」
「…待ってなどおりませんが何か」
肩に手をかけようと伸ばしたが、ククルはシャッと前足で払いのけた。
「浮気者には触られたくありません」
「何の話だ?」
「ふん」
ククルは多くは語らずにそっぽを向いた。
「…核から元の体に復活だと?しかもお前も…ふざけおって…」
ヴァリウスはわなわなと震えだした。怒りの矛先は明らかにククルとナイトメアだ。己れが踏み潰した核に、今度は己れの沽券を踏み潰されたのだ。
「許さん。許さんぞ!!」
ヴァリウスは獣の咆哮のように叫んだ。喉の血管が切れ血飛沫が上がっても、その叫びはやまなかった。
「おおおおおおおおおおおおおお!!」
叫び声は血飛沫と比例した。
「許さん、許さんぞ!貴様ぁ!!」
ヴァリウスの腕はナイトメアとククルに向けられた。
血飛沫はそれを追うようにヴァリウスに浴びせられた。
叫びは絶えず続いた。ナイトメアを睨みつけるも目の焦点は合っていない。
ククルの鼻先をかすめるかどうかの距離で声は突如として切れた。無理矢理コンセントを引っこ抜いたように。ブツっと。
ナイトメアの足元にはひときわ大きな血溜まりができていた。
視線をそこからずらしていくと、肩で息をしている獣人がいた。目は窪み、満身創痍だ。大きく変形した指先は血だらけで、今にも意識が飛びそうだった。
ククルはナイトメアの肩からぴょんと飛び降り、レアシスの鼻先に顔を近づけた。レアシスはククルの匂いを感じ取り、弱々しく微笑んだ。ナイトメアはその人物と目を合わせ、膝を折り静かに口を開いた。
「…お前は転身だろう。獣人になって日も浅いのに、その役回りは損だ。まだ見ぬ未来を棒に振っては惜しかろう。その役目は儂がと思っていたのになぁ」
「…誰にどうしろと言われたわけではない。私が仕留めておきたかったのだ。雪様のために…今度こそ」
レアシスは、命令とはいえ神殿に行かせてしまったことをずっと後悔していた。
「雪?…ああ、あの娘のことか。知り合いか」
「…神官に手を下されたというのは本当か」
「その場を見たわけではないが、国花は咲き、天冠が現れた。それだけで十分だろう」
「…うっ…く…うう…」
レアシスは嗚咽を混じらせて泣いた。静まり返った室内にか細く響いた。
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