大人のためのファンタジア

深水 酉

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第5章

21 響応

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 丸く線を引いて世界が崩れて行く。輪郭を縁取る線がまばゆい光の中でくるくると踊っていた。眩し過ぎて直視はできないのだけれど、頭の中に入ってくる光景にまばたきさえできなかった。
 回る。
 世界が回る。
 渦を巻く光が頭の中で争っている。蹴飛ばされそうな、頭を鈍器で殴打されたような、目の奥がチカチカして重苦しくて痛い。急に症状が襲いかかって来た。吐き気と頭痛。ついでに悪寒。手足の震えが止まらない。
 「これが私の…最期?」
 あってほしくない現実が、今まさに自分に降りかかって来ていた。体の変調がすべてを物語っていた。
 雪は冷静ではいられなくなった。チドリの腕を払いのけ、後ろにひっくり返った。どすんと大きな音がした。尾骶骨に痺れるようなリアルな痛みが走った。
 「ああああ!!」
 自分でも引くぐらいの、どこから声を出しているのかわからないほど、荒れ狂う声を上げた。
 髪を振り乱し、体も仰け反った。
 「嫌だ!嫌!!」
 このまま記憶を消されるのは嫌だ!記憶どころか私自身でさえ無事でいられるか保障はないのだ。命は取らないとチドリは言うけれど、天冠を奪われたヴァリウスが冷静でいるはずがない。怒り任せに私を消すのなんて造作も無いはずだ。
 雪は無我夢中で室内を走り回った。以前に閉じ込められていた部屋とは異なり、柱ばかりで隠れられそうな場所などはなかった。ただ長い廊下をひたすらに走った。等間隔で開いている窓からは、今の状況には不釣り合いな真っ青な空が見えた。床に敷き詰められているのは、塔の中の重厚な雰囲気を醸し出すような厚地の白い絨毯。踏みしめる度に足を取られ転びそうになった。
 「苦しまずにしてあげるから逃げるなよ」
 口調が変わったチドリの発言は、余計に雪を苦しめた。
 やんわりとした物腰から一転、粗野だ。自分には関係ないからと投げやりにも聞こえた。
 「天冠を得たマリーの初仕事だ。初仕事なんだから成功させてあげたいだろ?あんたにもよく懐いていたあの子のためだよ。可愛がっていたあの子のために、大人しくその身を捧げた方がいいんじゃないか?」
 語尾がいやらしく上がる。ねっとりとした言い回しに耳の中でさえ、ぞくぞくと悪寒が走った。
 「…あの子が、マリーが、私の記憶を抜いたなんて知ったら、あの子はどう思うかしら?きっと気が気でいられなくなるわ」
 優しい子よ?
 「それはどうかなぁ?あんたとあの子じゃもう立場が違うんだ。あの子は天冠を手にしたんだ。その辺のただの巫女と一緒にするなよ。もう俺とて気軽に話をできる立場にない」
 「幼馴染だって言ってたじゃない」
 「昔の話だ」
 「…あなたが大神官の息子でも気兼ねなく付き合っていたんでしょ?だったらあの子だって同じよ。天冠の巫女になったからって、性格が変わるわけじゃない。手のひらを返す真似なんかしないわ」
 「わかってないな。あの子になくても、周りは黙ってないさ。いいかい?現王を差し置いて巫女が天冠を手に入れたんだんだぞ。それだけで一大事だ。それも神の手、自らマリーにくだされたんだ。本来は国や神殿に降るものだ」
 「…そもそも天冠って何?」
 「神と人との代償により得られる神の加護だ。神との契約に基づいて交わされるものだ。契約は一生」
 「代償…」
 「マリーが何を差し出したのかはわからないけど、神はマリーを気に入られたんだ」
 俺にはなかった何かを、マリーは持っていた。
 チドリはマリーを誇らしげに思う反面、悔しさも隠しきれずにいた。
 「国や神殿に降るもならヴァリウスは…」
 「個人に降ることなど滅多にない。ヴァリウスは阿保だからその点わかっていないんだ。だが、その価値を神官供が黙って見過ごすわけがない。神殿の再興の為にここぞとばかりにマリーを使うはずだ」
 「…ヴァリウスが黙っているとは思えない」
 「だろうな。潰れかけていた神殿の力を我が物顔で利用していたのに、さっきまで子どもの姿でいた小娘にあっという間に劣勢にひっくり返されては面白くないからな」
 チドリは雪を正面から見つめた。
 「だからこそ」
 指先がぬっと伸び、雪の首を掴んだ。
 「あんたの始末はちゃんとしなきゃ」
 顎の下に親指の腹がグッと押し込まれた。 
 「ぐぅッ!」
 「ここまで来たら俺はマリーの味方をするよ。神殿の再興は俺にとっても悲願だからね。いつまでもヴァリウスのご機嫌取りなどしてられない」
 チドリはマリーの思いを振り払い、目の前の標的に的を絞った。
 雪は無我夢中に腕と足を振り回した。何発かチドリの体に当たりはしたものの、拘束から逃げ出せるものにはならなかった。
 「いずれ俺も消される身だけど、神殿の再興だけは見届けたいからね。俺が蒔いた種だから後始末ぐらいはちゃんとしなくちゃ」
 チドリは雪の腕を払いのけながら、両手で首を締め上げた。
 「ゔ、あああ!あゔあっ!」
 言葉にならない声だけしか出すことができずにいた。もう脅しでも何でもなかった。腕も足も声も力が入らなかった。
 「…もう抵抗するな。力を抜きな。気を失っている合間に済ませるから、痛みも不安も感じさせないようにするから」
 チドリは優しい口調に変わり、雪を宥めようと何度も促すが、雪には届かなかった。
 「…く」
 目を閉じたら終わる。
 目を閉じたら終わる。
 雪は何度も自分に言い聞かせた。唇を噛み締め、自分の腕に自ら爪を立てた。皮膚には白い線が蛇行しながら手首の辺りまでのびた。力が入らない。傷をつけて意識を保とうとするには力が足りない。もうダメなのか。もっと違う衝撃的なものではない限り、我慢の限界に来てしまう。もう一刻の猶予もないのだ。チドリの目にも焦りが見えた。早くコトを済ませてしまいたい気持ちが表情に出ていた。
 自分にも起こるべく状況だと自負しているのだろうか。
 雪は視線を窓に移した。すぐ側の窓から風が入って来た。
 そよそよと毛先を揺らして風が入って来た。こんな時なのに、いい風だとか思ってしまった。
 木々を揺らす風。ざわざわと葉を鳴らして、ここだよと教えてくれる。畑の柿の木が実をつけたよと。一年ごとに実をつけるから、今年はいっぱいつけたよと誇らしげだ。
収穫まで待つのが楽しみだ。
 田んぼの稲も青々と悠然に泳いでいる。一面の稲田は圧巻だ。夏は青。秋は金と季節によって色を変える。膨らんだ穂を揺らすのも風だ。山の桜も藤の花も香りを運んでくれる。小鳥のさえずり、犬の鳴き声、トラクターのエンジン音。早朝から畑の草むしり。庭木の枝の剪定。おばあちゃんとお母さんの小言。弟妹たちの諍い。毎日うるさいなと煩わしさを覚えていても、今は懐かしくもある。
 (戻りたい)
 デスクに座ってパソコン業務。嫌いではないけれど、苦手だ。手足は痺れるし空調もきつい。座りっぱなしで肩も腰も凝る。みんなに迷惑がかからないように伝票の整理はしっかりしないとね!クセあり上司だけど、仕事は楽しい。コピーもお茶汲みも電話対応もプレゼンだって何でもやるよ!苦手な営業マンとも理解を深めて仲良くやっているよ!後輩は喧嘩別れしたからもういないけど、新しい職場でやり直してみせる。彼氏は…今はいいや。新しい生活が整ったら考えよう!
 (戻りたい)
 ここが私がいるべき場所かはわからないけれど、この世界にいる私も好きだった。良い子でいる必要もなく、人からどう思われているとか考えなくて済むから楽だった。解放された。でも、そう簡単に自分は変わらない。どこにいたって私は私なんだと再認識もさせられた。嫌なことも煩わしいことも、真面目なフリも。未練も後悔もあるのが当然で背負うものであること。それらを放り出しても、逃げ出してもいずれか自分には帰ってくるのだ。苦しみから逃げてもいずれ捕まる。私は私でいることをやめたくない。
 (それが答えだ)
 私が出した答え。
 それを救済だと恩着せがましく言い張っている人には決してわからないよ。
 今だけの至福は長くは保たない。その日暮らしで何が残るというのか。記憶も教養もあげやしないよ。
 それでも起きてしまった事案は覆せない。人との別れに修復は難しい。一度壊れた関係の再構築は無いに等しい。
 なら最初からやり直せばいい。泉原雪わたしのままで。家族も友人も恋人も。
 「そういうことだよ」
 チドリは雪の思案を読み取った。
 「やり直せるなんて素晴らしいじゃないか」
 「ち、が…」
 「違わない。きみは新たな人生を始めるんだ。名もないゼロからのはじまりだ」
 「…そ…じゃない」
 「いい加減にしろ!頑なだな。いつまでも正論ばかり並べてるんじゃないよ!正論そんなもので何が変わると言うんだ!…いつまでも夢みたいなことを言っても無駄なだけだ!理想と現実の違いぐらい分かるだろうが!できる奴ができない者の気持ちがわかるか!!」
 チドリは凶相を表した。目玉をひん剥き、口を大きく開けた。雪の首を一気に締め上げた。首に十指の痕が赤くめり込まれた。
 窓の外に雪の体が仰け反って飛び出した。
 「きみにはがっかりした。こんな聞き分けのないとは思わなかった。もういい。きみの記憶などいらない。こっちにはもう天冠があるんだ。たかだか影付き一人の記憶などなくてもこの国は安泰だ」
 窓のふちから飛び出した雪の体は力なくだらりと腕が下がった。雪の意識はあるともないとも言えない状態だった。血の気の引いた体は鈍色に変わっていた。生気を感じられない色だ。
 「さよなら。影付きさん」
 チドリの腕が雪から離れようとしていた。痕がつくほどの強く力を入れた十指は硬直していた。中々剥がせない自分の腕に、チドリは鼻で笑った。
 「きみが悪いんだからね。いつまでも理想ばかり追いかけているから、ぼくがわからせてやったんだ。ぼくは悪くないよ」
 ぼくは悪くないよと何度も繰り返した。肩を上下に動かしながら呼吸をした。ゼエハアと肩を揺らす度に、雪の体も左右に揺れた。
 「は、ははっ、ま、また死なせちゃった、ははは」
 誰に聞かせているのか、チドリの声は大きく響いた。それこそ、地上に集まっていた神官達は雪を見てざわめき出した。
 「だって仕方ないじゃないか。誰もぼくの話を聞かないんだもの」
 「おれが悪いんじゃない」
 ぼくだのおれだのと口調が混ざる。早口になって語尾が濁り聞き取りにくくなった。チドリはひぃひぃと引き笑いをしては体を大きく揺らした。
 あはははあはははと体を仰け反り、大声を張り上げた。
 音もなく現れた獣化したディルには気がつかなかったようだ。
 肩口にディルの牙が食い込んだ。肉にめり込み、爪は両肩を裂き、血飛沫がディルの体を赤く染めた。
 「雪!!」
 ディルと共に駆け込んで来たシャドウは、窓の外に大きく出ていた雪の体を中に引き戻した。
 どさりと力なく倒れ込む体に、間髪なく声をかけ続けた。
 「雪!雪!しっかりしろ!!駄目だ!逝くな!!」
 パチパチと頬を叩き生存を何度も確認した。
 「雪!!」
 胸に耳を当てては心音を確認した。
 「雪!!!」
 微動だにしない体に、音の出ない体に、シャドウは獣の咆哮のような、がなるような叫び声を上げ続けた。
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