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第5章
19 天冠の巫女
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風の強い夜は、雲で月が隠れてしまい真っ暗だ。
暗闇に灯るランプの火がやけにおどろおどろしく見えて、いつものランプとは大違いだ。闇夜に紛れては子ども達を攫う魔物のように見えてしまう。
“ふうふうあちち あちちなすうぷ
みんなでつくった あちちなすうぷ
いちにのさんで ふうふうふう
さめないと のめないすうぷ
つめたすぎると おばけのすうぷに
はやがわり!”
中学年の男の子達が楽しげに歌っていた。年下の子ども達をからかっている。こんな日に怪談は特別なのだろう。
家族みんなで囲む食卓は、暖かくて幸せだ。みんなで作った特製スープ。野菜もお肉もゴロゴロ入っている。赤い野菜をベースにした赤いスープ。グツグツ煮たら出来上がり!
“あつくてのめない あちちなすうぷ
ふうふうふいて ぱくっとひとくち
あちち! まだのめないすうぷ
ふうふうふうふう
まだのめない おなかがすいたよ
ふうふうふう”
だんだん日が暮れてきた。夜も深く、月が隠れた。明かりのない夜はおばけの活動日だ。ユラユラ揺らめき、風に紛れて部屋の中に入ってくる。熱々スープもおばけの吐息でカチコチだ。
そんな歌を聞いた日には、絶対に眠れない。
わたしは枕を持ってシャーオとチドリの間に潜り込んだ。布団に潜り込んで2人と手を繋いで眠った。
シャーオは、怖いことは何もないと頭を撫でてくれた。
チドリは、マリーは赤ちゃんだなぁって笑っていた。良く眠れるようにとシャーオがおはなしをしてくれた。でも、神殿の成り立ちや神官の心得とか難しい話ばかり。余計に目が覚めちゃう。そんな時はチドリが間に入って、今日あったことを教えてくれた。ムルアの花が咲いたからもうすぐ実がなるよとか、ロージークードの芽が出たとか、嵐が去れば明日は晴天だから真っ青な空が見られるよとか。寝る時間だというのに興奮してしまった。おしゃべりに夢中になって就寝時間が過ぎてしまうと、サリエが怒鳴りこんで来る。早く寝ないとおばけが来るわよっておどかしに。カチコチスープ飲ませるわよっておばけの真似をするサリエの指の動きや表情に怯えて、何度もシャーオとチドリの名前を呼んだ。
「どっかいっちゃダメだからね!ぜったいだよ!!」
でも、わたしの手は小さすぎて2人の指先しか握れなかった。ぎゅうぎゅうに握っていても眠っている間に手は離れてしまう。しかも何度も寝返りをしてもみくちゃになってしまっていても、わたしの両隣には必ずシャーオとチドリがいた。
「おはよう」
必ず挨拶をして、1日が始まる。宣言通りの青い空。眩しい陽の光を浴びて、すくすくと成長していく美しい草花に囲まれて。友達と家族と。美しく健やかに生きていく。
そんな日々が毎日続いていくと思っていた。
だが、目が覚めてもわたしはひとりだ。仲間も家族も見る影もない。ここがどこなのかもわからない。
美しさのかけらもない無色の植物に囲まれていた。孵化したての虫のような色味のない茎。触れれば脆く、すぐに折れてしまった。匂いもひどい。本来のムルアの花はバニラビーンズのような甘い香りがする。花びらもクリームがかった色で茎にも張りがある。果実は初めは透明だが、熟すと赤くなり、食べ頃にはぷっくりと丸くなる。ロージークードは地面からピンとまっすぐ上に伸びる花だ。枝は四方に分かれ、形状は百合に似ていた。淡い水色で小ぶりだが華やかさがあり、多くの人に好まれていた。どちらも芳しい香りがする花だが、今はどちらも正気のない淀んだ匂いがした。
「どうして」
体だけ成長しても力はついてこない。あの頃見た美しい森が忘れられないというのに、あの頃の力が呼び起こせなかった。歌っても祈っても誰も迎えに来ない。花嫁衣装を着ても隣に立つ相手がいないのだ。あの頃の森の美しさをそのまま映した緑のドレスも、今はもうくすんでいた。
「ごめんなさい」
わたしが悪いんだ。お花を大事にしなかったから、神さまが怒ったんだ。
あの頃は、毎日、花詞典を開いては読み耽っていた。覚えたての歌にも草花は受け入れてくれた。
歌は風に乗り、種子を運び神殿の周囲一帯を花畑にした。水は花に、花は光に。それぞれを担う神々に感謝と喜びを捧げることが巫女の役目だった。マリーは巫女になる前からその素質があったのを神々も周知し、神々からの愛を一身に受けていた。
なのに、
一時の浮かれた気分に神さまはそっぽ向いた。いや違う。先に他所を向いたのはわたしの方だ。だけど、神さまを裏切るつもりなどなかった!
神殿とは違った世界があると知り、見てみたくなっただけなのだ。こことは違う景色を眺めて、色彩を浴びて、とびきりの楽しい時間を過ごしてみたかっただけなのだ。下界人に神殿の素晴らしさを、花も歌も、良き風も伝えてみせたかった。
それだけなのに…。
もうわたしには力は宿らない。あの頃夢見た生活は戻らない。花も水も美しさを失い、瑞々しさがない。心の中に咲いた真っ青な空も新緑も感じられない。
大人になってもわたしはちっぽけで何もない。誰もいない。シャーオもチドリもサリエもわたしを置いていった。
いい子にして待ってたのに!
マリーは顔を押さえて泣き崩れた。花を咲かせられない、歌も歌えないではここにいる理由がない。存在意義がまるでない。
眼前に広がるのは、今にも朽ち果てる寸前の草木だ。これが今のわたしだ。大人になったわたしの持てる全ての力がこれだ。こんな結果に誰が納得をしているのだろう?誰も望んでなんかいないのに。
「ごめんなさい」
謝っても響かない。
輝きは戻せない。
「この彩が戻るなら、わたしはなんでもするよ。何度だって祈るし、何度だって歌うよ!神さまおねがい!もう一度、わたしに歌う力をください!」
あの頃見てい美しい森をもう一度見たいんだ。あの頃に戻れるなら、なんだってわたしはできるはずだ。
マリーはしゃくりを上げて泣き出した。崩壊した涙腺からは涙が溢れていた。
「神さまのためにうたうよ。ずっとずっとずーっと!!だから、おねがいします!」
ひとりにしないでください。
わたしはまた、みんなとくらしたい。みんなと花に囲まれて暮らしたい。
マリーは朽ちかけの木々に体を寄せた。ツンと鼻をつく匂いを感じたが、気にする素振りもなく抱きついた。葉の表面に出ている産毛がチクチクと肌を刺した。
「マリーはいいこだよ」
頬に擦り寄って来た風が涙の跡を優しく撫でた。
「ふぇ?」
擦り抜ける風の方向を見ると女性の姿があったが、すぐに見えなくなった。
「…えっ、おねえち…ゃ…?」
サリエとは違う大人の女性だ。つい先日まで一緒にいた人のはずだが、今はどこにもいない。わんわんもサリエも。シャーオも。
「…おねえちゃ」
待ってと手を伸ばしても、手は空を切るばかりで何も掴めはしなかった。
「その願いは誠か」
また別の方向から声がした。直に鼓膜を震わせてきた声だった。若者のような高い声だが、じっくりと聞かせる深みもある。
「ふへっ?…だあれ」
姿はない。声だけがマリーの前に降りてきた。触れずに一定の距離を取る。スポットライトのような明かりの中がキラリと光った。
「神の名も知らんのか。大した娘だ」
「かみさま?」
マリーはきょとんと間の抜けた顔を見せた。ぽかんと口を開けたままだ。
「間抜けな面だな。しっかりせんか。おまえがもう二度と余所見をすることがないのであれば、今一度、巫女として神殿に遣わすことを許してやってもいいぞ」
「ほんとに?」
マリーは間抜け面から一転、パッと顔を明るくさせた。
「おまえの歌は心地よい。風に乗ってよく響く。ただし、一度きりだぞ?再びこの地を砂に変えたときは、おまえ諸共人間ども全てを消し去ってしまうからな。よく覚えておけ」
「…うん」
「逃げることはゆるさんぞ」
「…はい」
「ならば跪き、受け取れ。神との契りは絶対だ。何人足りともこの契約を破棄することは出来ぬ」
「…マリーはかみさまのおよめさんになるの?」
花嫁衣装の裾をぎゅっと掴んだ。ところどころほつれや破れがある。
「そうだ。異論はあるまい。巫女とは神に仕えるものだ。おまえの信心が消えぬ限りは神のものだ」
「もし…消えたら?」
「滅びるだけだ」
「ほ、滅びないよ!マリーはちゃんといい子になるから!ちゃんと神さまに仕えて、たくさん歌を歌って緑を取り戻すから、、マリーの大事な人達を滅ぼさないでください!!」
マリーは小さな体で力一杯に吠えた。握りしめた拳も爪の跡がきっちりと残った。
その声に応えたように、上は髪の毛の先から、下はつま先から光の線が引かれた。輪郭を縁取るように金色のラインがマリーを包んだ。天井からミストシャワーのような光の粒子が降り注いだ。髪の毛を撫でるように、体を労わるように光を身に纏った。
くしゃくしゃに絡み合った髪の毛は本来の蜂蜜色に戻り、緩やかに巻き毛を作った。
天井を見上げるとキラキラと輝き空が大きな輪を広げていた。
洗礼の輪。天環。神のしるし。神の冠。呼び名はいくつかあるが、この場にふさわしいのはひとつだろう。
「巫女よ。我が元に」
マリーは膝を床についたまま頭を上げた。光の粒子が天井から降って来る、長く見上げてはいけないとされていた天井をマリーはじっと見つめた。
「我が冠を授ける。天冠の巫女よ。しっかり励めよ」
マリーの頭の上に冠が置かれた。金色に輝く光の輪だ。
そっと手に触れると、花詞典に書かれていた全ての呪文が天井から降り注いだ。愛を込めた祝福の言葉だ。
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