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松穂

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第2部

一石二鳥計画、始動

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 クリスマスが終われば世間は一転、迎春ムード一色に様変わりする。師の走りもラストスパートといったところだろう。
 しかし、慧徳学園前という小さな学園町においてはその土地柄か、駅周辺から人の気配が減少し、静謐でどこか薄ら寂しい風が枯れ落葉を舞い上げていた。

 『アーコレード』慧徳学園前店は年末三十日まで営業し、年始は四日からの営業となっている。
 クリスマスが終わると、店の来客数はぐっと減るのが通例なのだが、幸いにして、年末から年始にかけては洋風御膳の特注が相次ぐため、売り上げ的にはそう大きく落ちることがない。
 何しろ十二月二十六日から(今年は曜日の関係で二十七日から)期間限定で販売する “櫻寿おうじゅ御膳” ――洋風御膳の豪華版は、いわば洋風の御節おせち料理なのだ。
 通常の値段より少し割高となり、サイズとしては一人前のお重ではあるが、人が集まる機会の多いこの時期、大変美味で見栄えのある “仕出し御弁当” と重宝されて、近隣の顧客中心に毎年大好評をいただいているのである。

 ――ということも踏まえ、定休明けの二十七日木曜日の朝、葵は気合いを入れてかなり早めに出勤してきた。特注予約の準備もさることながら、年末年始は事務処理の仕事も立て込むのである。
 業者や取引先は大抵正月休みに入ってしまうので、発注やメンテナンスの手続きなどは早めに済ませなければならない。大掃除を兼ねたパントリーの整理に棚卸、年末の帳票はいつもより早く出さねばならず、脳内のやることリストはすでに複数ページである。
 しかしながら現在、葵の意識を何より大きく占めているのは、実行できるかどうか定かではない、とある企画、、、、、――
 一昨日のクリスマスの夜、大げさに言うならば、葵は “天啓” を授かったのだと思う。
 店に訪れた奇跡の時間――長く戦ってきた勇士たちが語る過去の戦歴と抱いた憧憬、そして未来への期待は、葵の心を大きく震わせ、くっきりとした波紋を残した。
 葵はずっと考えたのだ。……自分は何をすべきか、自分に何ができるのか。
 そして定休であった昨日、思い立った葵はクロカワフーズ本社に電話を入れて統括部長にアポを取り、さっそくその午後、単身本社へ向かった。――四周年記念イベント企画申請書の改訂版をたずさえて。
 およそ三十分の短い謁見だったが、統括部長は葵の話を黙って聞き、書類を受け取ってくれた。――今は、許可待ちの身である。
 それでも、葵の心は意気揚々と力がみなぎっていた。
 やれるだけのことはやってみよう――腹をくくれば、そこに思い悩む暇などなかった。


 そして、その日の業務は無事終了――
 特注予約分も店内営業も滞りなく完了し、事務仕事は当初の段取り以上にサクサク進んだこともあり、葵は至極満足な気分で最後、店のセキュリティをかけて外に出た。
 一気に体温を奪うような冷気に身震いし、マフラーに顔を埋め直して店裏の自転車置き場へ向かう。
 その時、停めた自転車の奥で黒い人影が動き、葵はドクッと心臓を跳ねあがらせたが、すぐに正体がわかって白い息を吐き出した。
「――遼平……ビックリした。こんなに寒い中、待ってたの?」
 そう言えば前にもこんなことあったなー、と苦笑しつつ、葵は彼の元へ駆け寄る。
「……そんなに待ってない」
 抑揚のないくぐもった声が返ってきた。
 原付に腰掛ける遼平は、フリース生地のネックウォーマーに鼻先を埋め、ダウンジャケットのボア付きフードまでしっかり被っている。そのシルエットは巨大なコビトのようだ。
 葵は「バカだねもう」と呆れつつ、自転車のワイヤーロックを外す。遼平もゆっくり立ち上がって原付のスタンドを外した。

 遼平とともに、原付と自転車をそれぞれ引きながら夜の道を歩くのは何回目だろうか。
 葵の横で、どことなくトボトボと歩く遼平がぽつりと言った。
「……あのさ、葵……伯父さんがさ……」
 言いづらそうな様子に、葵はゆっくりと口を開く。
「……濱野さん、一昨日、お店に来たよ」
「……え……?」
 驚いた遼平を見て、やっぱり知らなかったんだな、と思う。
 葵は努めて淡々と、一昨日の夜更けのことを説明した。濱野氏が社長や茂木顧問と一緒に店へやって来たこと、佐々木チーフと偶然店に来ていた黒河マネージャーも交えて、コーヒーを飲みつつしばらく皆で雑談したこと。
 すると遼平は困惑を隠しきれない顔で、そうだったんだ……と白い息を吐いた。
「……伯父さん……ずっと『アーコレード』を見てみたい、って言ってたから」
「……うん……昔の本店に雰囲気が似てるって、懐かしそうに言ってた」
 静かに返せば、遼平はすっと視線を前方へ向けた。

「……あの夜……みんなで『絆生里』に行く途中、母さんから電話があったんだ。……伯父さんがいなくなったって。美津子小母おばさんが探してる、俺のところに連絡はなかったか、って……俺、伯父さんに何かあったんじゃないかって心配になって、急いで帰ったんだけど……」
 ぽつぽつと語る遼平の話によると、実は濱野氏、自宅を出る前にきちんと書置きを残していたらしいのだが、外出先から帰ってきた美津子夫人はそれに気づかなかったという。携帯にかけても繋がらず、ひとしきり待っても帰ってこないので不安になり、方々に連絡を入れたうちの一件が矢沢家であった。
 しかし、母親から連絡を受けた遼平が、急いで帰り家に着いたちょうどその時、美津子夫人から『今さっき書置きに気づいて、あの人の居場所がわかったの。心配かけてごめんね』という連絡が入ったようで、矢沢家の母子二人はホッと胸を撫で下ろした、というわけだ。
 ただ、濱野氏がその夜、どこで何をしていたのかは、遼平も聞かされていなかったらしい。

「……驚いただろ? 伯父さん、すごく痩せて……」
 遼平が目元を歪めて葵を見た。
「……伯父さん、夏の終わり頃から体調が良くなくて……また入院してたんだ。……俺もずっと知らなくて……知ったのは十月も終わる頃で……」
 少し掠れた遼平の声が、夜の冷気に白く舞う。
 今現在も入院中の濱野氏は、年末年始のこの時期だけ自宅に帰ることが許可されているのだという。
 濱野夫妻のマンションはこの慧徳学園前の隣の街にあり、矢沢母子が住む団地からそう遠く離れていないらしい。濱野哲矢の妹であり看護師でもある遼平の母は、時折空いた時間に濱野宅を訪れ、自宅療養の手助けをしているのだそうだ。

 ――俺さ、と、遼平は冷たく澄んだ夜空を見上げた。
「……ちょうどその頃、自分のことばかり考えてたんだ。伯父さんの入院こと、母さんは知ってたんだけど、ずっと黙ってた。……たぶん、俺がどこか上の空だったから、話せなかったんだと思う。……仕事にも集中していなかったし……だから、異物混入があった時も、自分の仕事に自信が持てなくなって……」
「あれは、遼平のせいじゃないよ。……私こそ、何も知らなくてごめんね。聞いたよ……遼平、本店に呼ばれているんでしょう?」
 自転車を押しながら隣を見れば、遼平は再び驚いた顔で足を止める。
「……知ってたんだ」
「うん……私も知ったのは先月……十一月の月会議の日だったけど。……あのね、現役学生を本店に引き抜くなんて、クロカワフーズじゃ滅多にないことだって、それだけ遼平の実力とこれからの伸びしろは期待されているんだって、佐々木チーフも得意気だったよ?」
 励ますように笑顔を向けると、遼平はキュッと眉根を寄せて、再び原付を押して歩き出した。
「……ごめん、黙ってて」
「いいってば。チーフにね、『遼平に決めさせろよ?』って言われたの。確かに、少し前の私だったら、絶対行け!って、遼平のお尻を叩いていたかもしれない。……でも今は、遼平の気持ちを優先して欲しいなって、思ってる」
 母親のこと、学校のこと、そして伯父の濱野氏のこと……遼平が抱えるものは決して軽くない。
 彼の素質や将来性だけを見れば、このチャンスは絶対に逃すべきではないのだろうが、肝心の気持ちが伴わなければ意味がない、と思う。……そう、思えるようになった。

「……葵は、大丈夫なのか?」
 不意に、遼平が心配そうな目を向けた。葵は声に出して笑って見せる。
「やだなー、遼平まで。私は大丈夫だよ。みんな心配し過ぎだって」
 歩く目の前を、枯葉がカサカサッと逃げるように走っていった。葵は努めて明るい声で、遼平に向き直る。
「実はね、四周年記念のイベントで、どうしてもやってみたい企画があるんだ。……あ、許可が下りるかどうかは、まだわからないんだけどね。……初めての試みだし、難しい部分がたくさんあるかもしれないんだけど……、でもね、私、どうしてもやってみたいの」 
 クリスマスの夜に考え抜いた葵は、やはりどうしても、あの “大人のお子様ランチ” を是非やりたい、やるべきだ、と強く思った。
 一時は詰めが甘いとダメ出しされ、盛り上がった気持ちも萎えかけていたのだが、気持ちを改め、指摘された部分を何度も練り直し考え直し、ほとんど眠らず改訂版を仕上げた。
 そして、改案した書類を直接本社へ持っていくことに決めた。
 柏木に託しても良かったのだが、葵はどうしても、統括部長へ直接届けたかった。社長と茂木顧問の話から、彼女の眼の前でプレゼンテーションすることが必要だと思った。彼女の眼にかなうことこそが重要だと思ったのだ。
『――私個人の意見としては、こんなこと、、、、、を認めたくはないのよ』
 統括部長は賛同しかねる言葉を溜息交じりに漏らし、その場で許可は出さなかったけれど、それでも彼女は書類を預かり、善処すると言ってくれた。

「……今は本社の許可待ち中なんだけど、OKが出たら、みんなの協力がたくさん必要になると思う。遼平の力もね。……だからその時は、よろしくお願いします」
 改まってぺこりと頭を小さく下げると、遼平は葵をじっと見返した。
「……俺は、葵のためならなんだってするよ」
 濱野氏によく似た綺麗な目だった。
 昔はもっと、伏し目がちでなかなか本心を表さない少年の瞳だったように思う。それがいつの間にか、奥に熱を宿す青年の眼差しに変わっている気がした。それがこそばゆくもあり、嬉しくもある。
「うっふふ、遼平ってばクッサいなー。そこはお店のため、、、、、、でしょー? うちはさ、郊外の小さな店だけど、まだまだ色んな可能性を秘めていると思うんだ。もしこれが上手くいったら、お店はまた一つ、ステップアップできると思う。それとね……」
 目を閉じて、瞼の裏に濱野氏の笑顔を想い浮かべる。
「……私は少しでもいいから、濱野さんに、恩返しがしたい」
 ――仕事はね、楽しんだもの勝ちなんだよ、葵ちゃん。
 そう言ってキラキラする瞳で笑った、葵の大恩人。
 父を亡くした葵にとって、彼の存在はとても大きかった。彼の恩に報いるほど、自分はまだ成長できていないが、この時を逃してはならない気がする。
  “願掛け” ――なのだ。
 濱野さんは、まだ諦めていない。
 彼との貴重な思い出からヒントを得たこの企画、これを成功させることができたなら――……

「……とりあえず、最初の難関はね」
 葵は白い息を咲かせながら、遼平に向いて笑った。
「――柏木さんを説得すること、なのだ」
 手袋の拳をグッと握って見せれば、遼平は何か眩しいものを見るように、目を細めた。


* * * * *


 それから三日後、事態は急展開となった。
 年内最後の営業日となる三十日、葵は再び本社へ向かうことになった。今度は呼び出されたのだ。
『店には代わりに柏木が入るから、悪いけど明日こちらに来てもらえるかしら』――何と葵の携帯に、統括部長ご本人からの着信だ。
 期待と怖れ半々で本社の社長執務室に向かえば、沙紀絵部長が冷然と葵を迎えた。そして前置きもそこそこに、例のイベント企画遂行に関して差し当たっての「OK」を出したのである。――その後に「ただし」と続いたが。
 次々と挙げられていく条件、裏の目的、考えられるリスク、守らなければならない約束事……等々に、葵は驚き慄き、不安も恐れも芽生えたが、それでもすべてを聞き終わった後には、喜びと興奮が身体中を満たしていた。
 とにかく、一歩進めたのだ。―― “願掛け” の成就に向けて。

 本社から店に戻った時、ちょうど賄いに入る時間帯であった。
「おかえりなさーい。てんちょーも賄い、食べますよねー?」
 元気な声で迎えてくれた亜美に「いただきまーす」と返事して、葵はこれ幸いと、鞄の中から書類を取り出した。
 冬休みに入ってからというもの、慧徳の賄い時間はいつも賑やかだ。ランチだけでもディナーだけでも、その日のシフトに入っている限り、賄い食は自由に取っていい決まりなので、学校がないせいか、この時間になるとスタッフ全員が揃うことも珍しくない。
 しかも今日は、葵の代わりにランチへ入った柏木もいる。
 つまり、皆への報告と柏木の説得、同時にできそうな今を逃す手はないのである。

 年内最後の賄いは何と “石狩鍋もどき” だそうだ。さすがに土鍋は洋食屋に常備していないので、ルーを仕込む大鍋で作ったらしい。
 鮭の切り身の他、頭やアラもしっかり使って、野菜もごっそり入る石狩風鍋のスープはもちろん白味噌。本場もの同様に少量のバターを溶かし、おろしニンニクもちょっぴり効かせてあるので、寒い季節にはもってこいの料理である。
「……ったく、大家族のお父ちゃんにでもなった気分だな」
 そうこぼす佐々木が、誰よりも嬉しそうなのはご愛嬌だ。笹本や吉田に、魚を上手く捌くコツなるものを得意げに教授している。それを目にした亜美が「あれ “お母ちゃん” ですよね」と葵にコッソリ耳打ちするのも、ご愛嬌だ。
 新聞紙を重ねて敷いたテーブルの上に大鍋をドンと置いて、さあ食え!と佐々木が号令をかければ、飢えた男子たちがワラワラと鍋の周りに群がった。
「……なんとも、豪気溢れる食事風景ですね」
 呆れたように言うのは柏木マネージャー。なんだかんだ言いつつ、彼が賄いに同伴することも珍しい光景ではなくなった。
「だろうともさ。大人数の時はこれが一番楽でいいんだよ。食材費も節約できるしなぁ?」
 ドヤ顔ニヤリの佐々木チーフに、柏木は是非もなし、といった顔で溜息を吐く。
「……ここは社員が少ない分、雑費支出に余裕があります。どうぞ、賄いくらい存分に食べさせてあげて下さい」
「――はい、佐々木チーフと、柏木マネージャーの分です。お代りはセルフサービスでお願いしまーす」
 佐々木と柏木の前に、亜美がテキパキと配膳していく。味噌風味の鮭の切り身が白い洋食器に盛られているのを眺めた柏木は、複雑そうな顔のまま箸を取った。

 あらかた食事も済んだ頃、葵は用意してあった書類を手に改まってその場に立ち、何だ何だ?と顔を上げる皆に向かった。
「……えーと、ちょっとみんなに伝達事項が。……実は、来年三月に迎える四周年記念のイベントで “大人のお子様ランチフェア” というのを考えています」
 一同の様々な反応が見える中で、葵は簡単にその概要を説明する。
 コンセプトは言うまでもなく “大人が楽しめるお子様ランチ” ではあるが、もちろん、年齢制限なく誰でもオーダーできるということ。
 プレートに乗せるアイテムはお客様自身に選んでもらうこと。ワンドリンク付きで、それも決められた品の中でなら好きなものを選べること。
 こういうセレクトオーダー方式は、慧徳店のみならず、クロカワフーズ全体としても初めての試みで、来店してくれたお客様に快く楽しんでもらうためにも、スタッフ全員がイベントの趣旨と詳細をしっかり把握しておかなければならないこと。――等々。

「――本社に企画申請を出して許可待ちだったんですけれど、実は今日、許可をもらうことができました……ただし、条件付きでね。その条件を満たすことができたら、来年の三月、四周年記念のイベントでこの企画を実施してもいい、ということです。……まぁ、とりあえずの仮許可、って感じかな。……あの、柏木さん、ご相談もせず勝手に本社へ持ち込んでしまって申し訳ありません。でも――、」
 言いかけた葵に、柏木は光るツーポイントフレームのブリッジを軽く上げた。
「全部、聞いております。さらに言えば、くれぐれも水奈瀬店長が暴走しないように助力してお上げなさい、と仰せつかっております。……ですので、やるからには成功させて下さい」
「……ありがとうございます!」
 つんと澄ました顔の柏木に、葵は勢いよく頭を下げた。てっきり難色を示されると思っていたのでこれは有り難い。
 すんなり難関突破の歓びで勢いづいた葵は、引き続き皆に向く。
「……で、その条件というのはですね…… “模擬販売” を実施して、規定以上の利益を取ることです」
「……模擬、販売……?」
 誰からともなく声が上がり、葵は一度、手元の書類に目を落とす。
「簡単にいうと、イベントの事前シミュレーションってことかな。さっきも言ったように、セレクトオーダーは初めての試みなので、実際やってみないと見えてこない部分もたくさんあると思うんです。だから、実験的に一日だけ、この “大人のお子様ランチ” を販売してみて、どれだけ売り上げが取れるものなのか、厨房の仕込みや給仕の流れが上手くいくのかどうか……あたりを検証する、ということです」
 するとテーブルに頬杖をついて、気怠そうに聞いていた池谷がおもむろに口を開いた。
「いつするとか、決まってんの?」
 葵は大きく頷いた。
「――詳しい日時はまだ決まっていないんですけど、予定としては年明けて一月の……たぶん第二か第三水曜定休の日になると思います。店を開けるのはディナータイムだけで、その時間は店を貸切にします」
「……定休日に、貸切……? 対象は特定の客だけ、ってことですか?」
 篠崎が困惑するクマさん顔で尋ねる。
 あ、そっか、まだ言ってなかったな、と、葵は特に勿体ぶることもなくさらっと告げた。
「その模擬販売に協力してくれるお客様は、橘ちひろさんです」
 ゼロコンマ何秒、パカッと皆の口が開いたと思ったら、一斉に叫び声が上がった。
「――えぇぇっ!」
「――マジっすかっ!」
 驚いていないのは柏木だけだ。佐々木でさえ「ほぅ」と目を見開いている。
「正確なところは、彼女の所属事務所ってことですね。以前から、ドラマ撮影の関係者を集めてうちのお店で食事をしたい、というお話を受けていたんですけど……、……まぁその、色々とご希望に添えられなくて……。でも、本社の上の方がうちのイベント企画のことを相談したら、是非協力させて欲しい、という申し出があったそうです。――ただし」
 浮足立つアルバイトたちは、葵の声に静まった。
「芸能関係のお客様ということもあって、他のお客様の混乱を避けるため、定休日にお店を開けます。よって、みんなも他所よそでこの模擬販売のことを広めたりはしないで下さい。もちろん、撮影は一切なしです。みんなも知っての通り、クロカワフーズは取材とか撮影は原則的に受けていません。だから、当然今回も完全にプライベートとして来店していただきますし、お客様側にもそれは了承してもらっています。みんなもそのつもりでいてくれるかな?」
 皆が一様に頷く中、柏木が一人、当然ですといった顔で肩をそびやかしている。隣の佐々木は、苦笑いしつつお茶をすすった。

「……そこで、みんなの協力が必要になってくるんですが……、ここで言っておきたいのは、その日の出勤は強制じゃありません。定休日だしイレギュラーな営業だから、もしみんなが出られなくてもその辺はこちらで何とかするので――、」
「――出ます」
 真っ先に手を上げたのは、遼平だった。
 葵が口を開きかけた時、次いで吉田が元気よく手を上げた。
「……オ、オレも出たいっす! ナ、ナマちひろ、見たいっす!」
 ……ナマ、って。葵がちょっぴり引きつりかけると、亜美がすかさず突っ込んだ。
「ざーんねん、ヨッシー。コックさんはお客様の前に出られませーん。あたし、サインもらっちゃおっかなー」
「あ、亜美さん! オレの分も……!」
 悲壮とも言える顔で吉田が手を伸ばせば、亜美は「一枚千円で手を打とう」と顎を上げて、皆を笑わせた。
 そんな中、篠崎、池谷、笹本の三人も、学校の都合さえつけばもちろん協力する、と申し出てくれた。
 スタッフ全員の賛同と協力が得られることは、それだけで百人力である。
 また一歩、前進だ――葵は沸々と湧き上がる熱い情動を感じながら、大きく破顔した。

 詳しいことは年明けに、と締めた後、ディナータイムの準備時間が迫ったこともあり、一同は手早く賄い休憩から撤収した。
 バタバタと準備に動き回るスタッフを横目に葵もレジ準備を急いでいると、ふと隣に柏木が立った。
 カウンター裏でお冷やおしぼりのチェックをしている篠崎の方をちらと気にしながら、柏木は小さな声で言う。
「……今回の、その計画に関する “リスク” の部分についても、統括からお話があったと思います。……そこは、理解していますね?」
 キラリンと光るレンズを向けられ、葵は彼を静かに見返した。
「――はい、聞いています。私は、大丈夫です」
 黙ったまま葵を見つめていた柏木は、わずかの後、小さく息を吐き出して表情を緩めた。
「……まったく、うちの会社は “ギャンブラー” が多くて敵いません……」
 呆れた口調で首を振ると、「今月の帳票を見せていただきますよ。裏にいますので何かあったら呼んで下さい」そう告げて、柏木はレジ裏のドアから事務室に戻っていった。
 葵はそんな彼の背を見送り、少し笑った。


* * * * *


 その日の夜、葵の携帯に着信があった。
 誰だろうと首を傾げつつ開いた画面に “黒河侑司” の名。葵は携帯を取り落としそうになりながら、慌てて通話ボタンを押した。
「お疲れ」と低い声が耳に届いた途端、彼がすぐ隣にいるような錯覚。図らずも、つい先日の温かい手の感触がじわりと蘇ってしまい、葵は密かに頬を染めた。
 侑司の用件は、やはり “模擬実験的販売” についてだった。彼も、柏木同様にすべてを知っており、俺は反対だ、と葵を諭すように告げた。その口調は、昼間の統括部長を思い出させるものだった。
 今なら、侑司があの夜、社長と茂木顧問に向けた憤りのオーラの所以が理解できる。
 ――侑司は、葵の身を案じてくれたのだ。
 染み入るような嬉しさを噛みしめ、葵は懸命に濱野氏への想いを語った。彼へ恩を返したい、今、自分にできることは、これしかないんです――と。
 息詰まるしばしの沈黙後、わかった、と言った彼は、もしかしたらまだ納得できないままだったかもしれない。
 彼に心配ばかりかけているような気がして申し訳なかったが、それがやっぱり嬉しくて、そんな自分の不謹慎さを恥じたりもした。
 それから葵はやや強引に話題を変えて、年始の特注予約状況や来月の予算など、当たり障りのない報告を続けた。
 聞けば、侑司は元日もみっちり仕事だという。ホテル店舗は正月も休まず営業だ。大晦日と三が日は営業時間が短縮されるとはいえ、スタッフの休みは回さねばならない。担当マネージャーの侑司が各店舗に入るのは当然であった。
 正月休みはいつですか?と聞けば、たぶん昨日と今日がそれだ、と笑っていた。
 結局、仕事の話が大半ではあったが、電話越しの会話は穏やかで優しくて温かかった。

 最後に侑司は、油断はするな、無茶もするな、とにかく慎重にいけ、と、葵が吹き出しそうになるほど警告の言葉をいくつも連ねた。
 何かあったら必ず俺に、、連絡しろ、と言うので、葵は返事をする代わりに、統括からも同じ言葉をいただきましたよ、と冗談めかした。
 詰まったように黙り込んでしまう彼の、憮然とした顔が目に見えるようで、葵はクスクスと忍び笑ってしまう。
 笑いながら心の奥では、何があっても彼だけには、、、、、連絡しない、、、、、だろう、と思っていた。
 彼には十分すぎるほど迷惑をかけてきたのだ。もうこれ以上巻き込むことはできない。危険があるのなら、なおさら。

『――成功させれば、、、、、、危険を呼ぶ、、、、、のよ』
 統括部長は、濁すことなくリスクを明言し説明してくれた。

 ――望むところだ。絶対に成功させて見せる。危険リスクは、私だけに及べばいい。
 葵の目指すところは、あくまでも濱野氏への恩返しである。三月のイベント企画実施に漕ぎつけ、それを成功させることが最大の目標だ。もちろんそこに、彼の再起を願う “願掛け” の意も多分に含まれている。
 それに加えて、店のために、会社のために、そして侑司のためになるとなれば、こんなに嬉しいことはない。やっと自分が役に立てるのだ。
 これは立派な、一石二鳥計画だと思った。

 名残惜しくも、侑司にお休みなさいと告げて通話を終えると、葵は静かに目を閉じた。
 彼の言葉が、彼の声が、胸を締め付けるようなその余韻が、すべて光る小さな粒子となって、身体の奥深くに取りこまれていくようだ。
 きっと上手くいく――この時の葵は、希望と願いを源に湧き上がる大きな熱情に満たされていた。




 
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