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第2部
魚心、無くとも水心
しおりを挟む黒光りするミニバンで待っていた女性は、橘ちひろのマネージャーだった。
葵の親くらいの年代だろうか、柔道家のようながっしりとした体格ながら、品の良いパンツスーツをびしっと着こなし、艶々している血色のいい肌が印象的である。
突然入った仕事にブーブーと文句を垂れる売れっ子女優を、事もなげにあしらう様子はまるで肝っ玉母さんのようだ。いきなり連れてこられた葵に対しても気持ちよく丁寧に詫びてくれたので、むしろ過分に恐縮してしまった。
“マネージャー” と一口に言っても、その仕事は多種多様であるらしい。
橘ちひろ――芸能人に疎い葵が、店のアルバイトたちから仕入れた情報によると、彼女は芸能一家に生まれた、所謂サラブレット、なのだそうだ。
彼女の祖父は有名な映画監督で、今も現役で活躍中。亡くなった祖母は稀代のキネマ女優、そして父は某有名映画会社の重役。母はモデルから何と写真家に転向し、現在は海外を中心に活動している、とのこと。
橘ちひろ自身は、幼少の頃からモデルとして世に出たことは出たのだが、十代も終わりさあこれからという頃、突然その敷かれたレールを外れるかのごとく、とある小さな劇団に入り直し、つい最近まで演劇一本でやってきたという。葵はあまり詳しく知らないのだが、テレビの中の彼女より、舞台に立つ彼女の方を高く評価する業界人も多いそうだ。
そんなピッカピカの毛色を持つ有名女優は、広い車中でわざわざ葵の隣にくっついて座り、「うちのマネージャーは鈴子と書いてリンコっていうの。独身だけど息子ありでバツはなし。うふふ、複雑でしょ」など、コメントに困る紹介を施してくれる。
彼女の細くて華奢な身体が動くたび、何かキラキラ光る魔法の粉がふわっと舞い立つようで、葵は目が離せずつい魅入ってしまう。
これが芸能人オーラというものか……眩しすぎる。
ポケッと見つめていると、彼女はふと「そーだ葵ちゃん」と実に可愛らしく小首を傾げた。
「誤解しないでね? 私と侑……あの石頭とは何でもないから。っていうか、ただの “はとこ” だから」
“はとこ” という言葉の響きに、葵の脳でピン、と何かが跳ねた。
――えーと、黒河さんの “はとこ” って人……もう一人、いたよね……?
そんな葵の表情に気づいたのか、彼女は「もう全部バラしちゃってもいいかなー」と悪戯っぽく笑う。
そして説明してもらった何ともビックリな、黒河家&立花家家系図。
驚くことに、あの杉浦圭乃――杉浦崇宏の奥様は、橘ちひろの実姉だというではないか。
……と、いうことは……確か、佳乃さんのお祖父様と、黒河さんのお祖母様が兄妹だと言っていたから……
頭の中で忙しく線を引っ張ったり結んだりする葵に、さらなるビックリが追加された。
圭乃・ちひろ姉妹から見ると大叔母にあたる侑司の祖母は、何とあの立花婦人だというのだ。これには、葵も口をパカリと空けたまま固まってしまった。(そういえば彼女は “お祖母ちゃん” と呼んでいた……)
つまり、店の常連客である立花婦人は、 “先代” と呼ばれるクロカワフーズの創業者黒河正治の奥様だということになる。
彼女がずいぶん前に旦那様を亡くしたことは、直接彼女の口から聞いて知っていたが、まさかそれが先代だと誰が推測できるだろう。
狭すぎるだろう、世間よ……とばかり、パッカリ口のまま唖然とする葵に、目の前の麗人――本名は立花千尋だそうだ――はクスクスと笑う。
「さっき言ってた小母さん、っていうのは沙紀絵さんのこと。面と向かって小母さんって呼ぶと怒られるんだけどね。うちの母と沙紀絵さんは従妹同士なんだけど、お互い一人っ娘でしょ? 年も近いし家も近いしで姉妹みたいに育ったの。それで、その子供たち……私と圭ちゃん、和くんと侑も、自然と近しく育ったってわけ。こう見えても仲は悪くないんだよー?」
「あの……さっきの『 “身内” に尻拭いしてもらった』っていう話は……」
「ああ、あれ? 赤坂の『櫻華亭』でクレームが出たんでしょう? ダブルブッキングしたとか……葵ちゃん、知らなかった?」
「いえ、しっかり知っています……本店の常連さんに予約時間をずらしてもらったと聞きました」
「うっふふ、その常連さんっていうのがうちのお祖父ちゃん。小母さんも苦しいところだっただろうな。貸し借りが嫌いな人だから。まぁ、仕事に関して変にプライドが高すぎるのは、黒河も立花も血筋なんだけどね? 今回みたいに身内に甘えるみたいな結果は、小母さんとしては不本意なの。うちのお祖父ちゃんなんていくらでも利用すればいいのに、頭固いんだから。ああ見えて小母さん、すっごく生真面目なのよ? うちの母はその場の気分で生きるタイプだから、正反対なのよねー」
橘ちひろ――もとい立花千尋は、まるでとっておきのお菓子を見せるかのようにキラキラと瞳を輝かせている。
そんな千尋の話を聞きながら葵は、本店に芸能関係者の顧客が多いのは、立花家の伝手が大きく影響しているのかもしれないな、と片隅で思った。
「ああ、それから、お祖母ちゃんのことは黙っていてごめんね? お祖母ちゃん……えっと、私の祖母は父方母方の両方とも早くに亡くなっているから、お祖母ちゃんっていったら小さい頃から黒河の祖母のことなんだけど。……お祖母ちゃんは、本当に慧徳のお店が気に入ったんだって。でも、先代の奥方だなんてお店の人に知れたら、普通の客として扱ってくれないんじゃないかって心配したのね……だから旧姓の立花を使ってお店に通ったんだと思う。私がお願いするのも変なんだけど……もしよかったら、これからも “立花婦人” のまま、迎えてあげてほしいなぁって……」
そう言って葵の顔を覗き込む瞳が、つい先ほどの無邪気なキラキラから一変、妙に憂を滲ませ麗しげに見える。
葵は何だかドキドキしながら「も、もちろんです」と答えた。
……女優さんって、なんか、スゴイな……
それから千尋は、宝物の小箱を開けてみせるがごとく、次々と身内話を咲かせていった。
黒河和史・侑司兄弟と立花圭乃・千尋姉妹、ついでに杉浦崇宏も慧徳学園出身で、和史と杉浦が同級生だったこと。圭乃がその一つ下で、さらにその四つ下の侑司と千尋が同級生だったという。
ちなみに、杉浦と圭乃が出会って付き合い、結婚に至ったのは全くの偶然なのだそうだ。
中等部半ばにして海外留学した圭乃は、社会人になってから杉浦と再会したのだが、お互い同じ慧徳学園出身だとは気づかぬまま付き合いだし、圭乃が和史の “はとこ” だと、そして和史と杉浦が “親友” であると二人の間に判明したのは、結婚直前の両家顔合わせの時だったらしい。
「あの時の崇さんの顔、面白かったなー。世の中ってホントに狭いよね」と千尋は目を細めた。
侑司の兄、黒河和史の結婚式の話も出た。千尋は仕事が入っていたため、結婚披露パーティーには出席できなかったが、その前の親族だけで執り行った結婚式には参列していたらしい。
その後、侑司や杉浦夫妻をパーティー会場まで送ったというので、小野寺双子が橘ちひろを見かけた、と言っていた理由も明らかとなった。
この有名な女優とクロカワフーズ経営者が親戚関係にあるだなんて、もっと社内で噂になってもよさそうな気がしたが、千尋が言うには、特に口止めをしているわけではない、とのこと。
ただ、クロカワフーズでは顧客に関する守秘義務が当たり前となっているそうだし、『櫻華亭』の顧客には自分よりもっと話題性のあるVIPがいくらでもいるので、たかだか芸能人一人の噂に執着することもないのでは? ……というのが、千尋の持論であった。
その他にも、姪っ子――杉浦と圭乃の一人娘、愛花ちゃんになかなか会えなくて顔を覚えてもらえない、だとか、千尋の母も侑司の母も性格はまったく違うがその強靭さだけはそっくりだ、とか、お祖母ちゃんが一番可愛がっているのは実は侑司で、侑司もああ見えて実はお祖母ちゃんっ子なのだ、とか……黒河・立花両家にまつわるプチトリビアが葵の頭に積み重なっていく。
その話し振りから、千尋が自分の身内をことのほか大切にし、心の拠り所にしていることがよくわかった。それはとても、微笑ましかった。
一方、葵も問われるままに自身のことを話した。
兄と弟がいること、父は亡くなり母が生まれ故郷の宮崎に住んでいること、短大時代にアルバイトをしていた洋食レストランのオーナーの伝手で、今のクロカワフーズに就職することができたことなど。さすがに元彼に関するあれこれは話さなかったが、『敦房』の名は千尋も知っていたので思いの外、話は弾んだ。
「えー、知ってるよ! だってそこ、侑がバイトしていたレストランだもん。うっそー、葵ちゃんもバイトしてたなんて……これはもう運命じゃなーい?」
宝石のような瞳を輝かせる千尋は、今度は完全な乙女顔になっている。
「そんなことちっとも知らなかった! やだー、圭ちゃんに教えなきゃ! っていうか、これで一本書けそうじゃない! ナニこのドラマチックな展開~っ!」
きゃっきゃとはしゃぐ千尋の姿に、運転席のマネージャーさんがくつくつと肩で笑っている。
葵としては、確かに知った当時は驚いたけれど、今となってはただの偶然でしかない思っている。何故ここまで彼女のテンションが上がるのか、正直面食らうばかりだ。
けれど、様々な輝きを見せる千尋の仕草や声や笑顔は、不思議と重い心を浮上させた。
つい魅入ってしまう美麗さの中から発散される、溢れんばかりのバイタリティ。それは、朝からダルマ落としのごとくズンズンと落下していった葵の心を、強くて明るい光とともにぐいと引っ張り上げてくれるようであった。
しかし、陰鬱に塗りこめられた今日という日は、やはりすっきりと晴れることなく終わる定めだったのだ。
ミニバンが街道から住宅街への県道に曲がり入った頃、どういう流れからか、葵の兄の蓮が競泳部にいた話になった。
「うそ……葵ちゃんのお兄さんも、水泳をやってたの……?」
度重なる奇遇な話に再びテンションが上がると思いきや、この時千尋は、面を取り換えるようにすっと表情をなくした。
「侑もやってた――水泳」
その声音から、葵の鼓動がにわかに速度を増す。
彼女は知っている――そう感じた。ずっと前から自分の心の奥に引っ掛かっていた、彼の “トラウマ” ――
頭の端っこで、ダメ、という制止の声が聞こえたけれど、従えなかった。
「……あの、黒河さんは……どうして、辞めてしまったんですか?」
千尋はその大きな瞳を一度見開き、すぐに眇めてわずかに頭を傾げた。まるで「何故、それを知っているの?」と訝しむように。
葵はこくりと小さく喉を鳴らした。
「……私の兄は黒河さんと同い年なんです。黒河さんとは、大会で何度か会ったことがある、と言ってました。兄と同じバタフライの選手で、とてもいいタイムを持っていた、と。でも、黒河さんは……高校の引退前に突然辞めてしまったらしい、と聞いて……どうしてなのか、何かあったんじゃないかって、気になっていたんです」
言いながら、ヤだなと思った。
こうして彼の過去を、本人のいないところで探るような真似は、とても卑しい行為だ。
無意識に唇を噛めば、大きな瞳で葵をじっと見つめていた千尋は、ふっと呆れたように「もう、葵ちゃんたら」と笑う。
「そんなに罪悪感の塊みたいな顔して。……そうね、知りたいと思うのは当然よ。葵ちゃんになら教えても構わないの」
スミマセン……と俯いた葵の肩を、千尋は宥めるように叩いた。
「……でもその前に、黒河家ならではの “しがらみ” を説明させてくれる? その方が、侑のショックをわかってもらえると思うから」
千尋の言葉に葵が頷けば、にっこりと微笑み返される。
「――侑はね、昔っからあーんな感じ。無口だし無表情だし、愛想もないし。何でもそつなくこなす厭味な男だったけど、本当は……小父さんや和くんに強烈なコンプレックスを持っていたと思うの」
まずは、黒河家の系譜からね、と言って、彼女は物語を読むように語った。
黒河家は近年、男児に恵まれなかったそうだ。『櫻華亭』の創始者である、黒河龍太郎は卓越した料理人であったが、入り婿の立場で店を始めた経緯があり、その上子宝には恵まれなかった。
つまり、その次代――先代と呼ばれる黒河正治は、実は龍太郎の弟子であり、養子であった。
その正治は『櫻華亭』を継いだ後、節子と一緒になり子は設けたが、沙紀絵一人のみに終わった。彼の後を継いだ黒河紀生もまた、入り婿である。
だからこそ、娘と婿の間に初孫の和史が生まれた時、正治は飛び上がらんばかりに喜んだという。
彼は決して男尊女卑の考えを持っていたわけではないが、古き時代の料理人というものは、厨房に女人が入ることを良しとしない考えを持っている。無論、実娘の沙紀絵に料理人の道を進ませる意思はなかった。
しかし、孫の和史は正真正銘、己の血を引く後継者になり得る。正治はそれこそ、和史を目に入れても痛くないほどに可愛がったそうだ。
「だって、和くんが生まれた時のお祝いに、名入り包丁一式をプレゼントしたらしいのよ? その後も、誕生日だクリスマスだ、の度に、プロ仕様の最高級フライパンやら鍋やらまな板やらを送ったっていうんだもの、呆れるわよね」
千尋は肩をすくめてみせる。
病のせいで入退院を繰り返していた黒河正治は、それでも体調がよければ真っ先に幼い孫を呼び寄せ、一緒に料理を作りたがったらしい。
そして幸いというべきか否か、和史はそれを嫌がることがなかった。むしろ、ゲーム攻略に夢中になる周りの子と同じように、祖父が与えてくれる料理の知識や技術を、次々と攻略していったそうだ。
「私が物心ついた頃、先代はもう病院から出られないほど悪くなっていたけれど、やっぱり和くんを一番可愛がっていたな、って印象があるの。私の目から見てもそう思うんだから、侑の目には、もっと大きくあからさまに映ったと思うのよ」
でも、侑を可愛がらなかったわけじゃないと思うの、と千尋は言う。侑にも目をかけたかったけれど、その時間がなかっただけなの――と。
「先代が亡くなったのは、私と侑が……五歳の時、だったかな。和くんはまだ小学生。……なのに、周りは和くんに期待してもて囃したの。まだ小学生なのによ? 和くんが身に背負ったプレッシャーもすごかったと思うけど……それをずっと目にしてきた侑の疎外感や孤独感は誰にもわからないと思う。だってあの頃、侑がどんなに頑張ったって、和くんには追いつけないもの。和くんと侑は五つも歳が離れているから。……子供の頃の五歳差って、大きいでしょ?」
葵は大きく頷いた。それはよくわかる話だ。
葵と兄の蓮は六つ離れている。物心ついた時から常に兄は “何でもできる兄” であった。葵の場合をいえば、現在に至るまで、追いついたと感じたことは一度もない。
「でもね、そんな侑にも、一つだけ和くんに勝てるものがあったの。それが水泳」
葵と目を合わせ、千尋はとても綺麗な笑顔を向けた。
「たぶん、泳ぐことが侑の性に合っていたのね。先にスイミングを始めた和くんは、ふた月もしないうちに辞めてしまったようだけど、侑はどんどん上手く泳げるようになって、中等部の頃は色んな大会で記録を残すようになって。高等部でも競泳部に入ったから、目指すところはかなり高かったんじゃないかと思う。……私ね、侑がようやく自分に自信が持てる、唯一のものを見つけられたんだって思ったの。親と同じ道に進まなきゃならないなんて決まりはどこにもないわ。私もその頃は色んな葛藤でモヤモヤしていた時だったから、水泳にのめり込む侑を見るのは小気味よかったし、うらやましかった。でも――、」
と千尋は一息ついて、不快そうに眉を顰めた。……その道は阻まれたの、と。
「私たちが高校二年の年、慧徳学園はインハイ予選の支部大会に進むことができたの。慧徳って昔からあまりスポーツは名門じゃないんだけど、当時は運よく優秀な選手が集まっていたのね。侑はその筆頭。……だけど、侑はその大会で泳ぐことができなかった。……侑は何も悪くないのに、勝手に逆恨みされて悪質な悪戯をされて――」
「逆、恨み……」
思いもよらない言葉に、葵は息を呑む。
「単なる悪戯のつもりでも、やっていいことと悪いことがあるわ……侑はその後、水泳を続けることができなくなったんだもの」
千尋の瞳の奥に、小さく揺れる黒い炎が見えた気がした。
「相手にされない馬鹿な女が “水” に嫉妬したのよ。……それで侑は…… “水” に入ることができなくなったの」
* * * * *
――ほんの小さな悪戯心が、一人の少年の希望を打ち砕き、踏み躙った――
葵は慧徳学園前駅の駅前で降ろしてもらった。駅近くの駐輪場に自転車を停めてあったからだ。
すっかり夜の色に変じた駅前を、のろのろと自転車で漕ぎ出しつつ進む。
――訊いたのは自分だ……知りたがったのは自分。
だがそれは、安易に踏み込んでいい過去ではなく、知りたがった自分を途轍もなく恥じた。
想像以上に痛ましい話であった。ヒリヒリとした余韻が重い心を苛む。
『――やだ、葵ちゃん、そんな顔しないで! もう十年以上前の話よ? あ! ほら、今は何の支障もなく泳いでるみたいじゃない? 大丈夫よ、あの石頭はトラウマごときじゃヒビ一つ入らないんだから、ね?』
当時の詳しい話を聞いて、よほど葵は顔色を失ってしまったのだろう。千尋は慌ててフォローの言葉を並べたが、気休めにはならなかった。
少年だった彼が受けたショックは……、――考えるほどに、痛くて、悲しい。
駅から直接アパートに帰る道筋ではなく、何となく店のある方へ向かった。
寂し気な街灯の灯りをほんのり帯びて、ほとんど葉のなくなった桜の並木が風を透かしている。この並木を行けば、『アーコレード』がある。
葵は薄ら寒いスーツ姿で、力なく自転車を漕いだ。
しんと暗く鎮まった住宅街の一角。煉瓦の外壁がおぼろげに見える。今日は定休なので店に灯りはない。
着いた店の前で自転車を止めた。店は眠っているかのようにひっそり静かだ。
『――ねぇ、葵ちゃん。侑を助けてあげて? あの石頭はたぶん、怖いんだと思うの。本音を曝け出して、欲しいものに手を伸ばすことができないの。臆病になってしまったのよ。……侑が本当に欲しくて手を伸ばしたものは全部、侑の手をすり抜けていったから』
ミニバンが停まる直前、千尋はそんなことを言った。何とも答えようがなく困惑する葵に、彼女は優しく囁いたのだ。
『――葵ちゃん……侑のこと、好きでしょう?』
ピクンと肩が揺れてしまったのは不覚だった。とはいえ、あの美麗な相貌で真っ直ぐ見据えられて、平静を装えるはずもないのだが。
『――いいね、その眼。私ね、今度映画やるの。妻子持ちの男に惚れて罪を犯す悪女の役。葵ちゃんのその眼……ちょっと使えるかも。……でも――、』
……彼女は一体、何が言いたかったのだろう。
『――葵ちゃんは、もう少し……悪女になった方がいいかも、ね?』
沈黙を守る我が店を、葵はぼんやりする頭で見上げた。
……長い長い苦行の一日だった気がする。
自分の不甲斐なさに落ち込み、己の存在意義を見失い、果ては、卑しい詮索をして知った後引く悲しい痛み。
不甲斐なくても、頼りにされなくても、クビや降格にならない限り自分は店長だ。そして、疎ましく思われても、冷たい態度を取られても、自分は尚、彼を思い続けてしまう。
…… “悪女” かどうかはわからないが、 “イタい女” であるのは間違いない……
一際冷たい風がビュィと吹きつけた。葵は自転車に跨ったまま肩を縮める。
溜息一つ、枯れ葉と一緒に風に煽られ散っていった。振り切るようにして、自転車のペダルを思い切り踏み込む。
冷たい夜風に巻かれて、『アーコレード』は遠ざかっていった。
すぐそこまで来ている冬の足音は、不穏な不協和音を奏でている――
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