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第2部
その客、ツンデレ?
しおりを挟む……コロコロコロ……ポィ。
『――俺は……『アーコレード』の担当を外れる』
……コロコロコロ……ポィ。
……コロコロ、……コロ……、ポィ。
『――お前には、余計なことを考える暇などないはずだ』
……コロ……コロ……、
『――これ以上、俺を、煩わせるな――』
「――テンチョーっ!」
「――わぁ……っ!?」
耳元でいきなり叫ばれて、葵の肩が三センチほど飛び上がった。振り向けば、すぐそばに美々しい御顔が。
「……ビックリさせないでよ、池谷くん……どうしたの?」
「バター、潰れてんだけど」
「……あ」
手元を指差されて、あららと我に返る。
賄い休憩後、カウンター裏でバターの仕込み作業をしていたのだが、どうやら途中から意識がどこかへ飛んでしまっていたらしい。手に持った卓球ラケットくらいの木の板に、一、五センチ角のバターが無残にもひしゃげてくっついてしまっている。きちんと丸めれば、それは可愛い金平糖のようなバターボールができるはずなのだけれど。
「あははは、私としたことが。……ちょっと、氷を足そっかな」
角切りバターがプカプカ浮かぶステンレスの大きなボウルを覗き込めば、池谷は胡散臭そうな半眼で葵をじとーっと見据えた。
「お疲れのようですけど?」
「じ、時差ボケかな……あはは」
「……宮崎県って、時差ボケするほど遠いんですかね?」
厭味交じりの突っ込みをわざと聞き流し、葵はステンレスボウルの中にザン、と氷をひとすくい入れる。バター丸めは冷水がポイントなのである。
侑司と出かけた日から、十日余りが過ぎた。
あの日、彼から完全なる “拒絶” をされた後、アパートまで送ってもらった葵だが、その道中、閉ざされた扉を叩く術も見つけられないまま、二人きりの時間は終わった。
それから今日に至るまで、特に何も変わったことはない。
一つ挙げるとすれば、一昨日の定休日に、朝一番の飛行機で宮崎に飛んだことくらいか。
亡き父の七回忌法要のため、萩と二人で訪れたのだが、伯父宅に泊まるという萩を残し、葵は法要後まもなく、一人東京へ戻ってきた。
東京~宮崎間を日帰り往復したのは初めてだ。休みが取れなくて……と弟や母にした言い訳は半分嘘になる。休みは敢えて取らなかった。
それ以外、変わったことは何一つ、ない。
朝起きて、身支度をして軽く朝食を取った後、自転車で店へ。店に入って事務仕事を処理しながら、ランチの準備。慌ただしいランチタイムが終われば、賄い休憩後、ディナーの準備。ディナーでラストオーダー後、閉店作業、片付け、事務仕事……そして、帰宅。
ここ数日は、十一月に控えるボジョレーヌーボー解禁に合わせたイベントメニューの準備もあって、ずいぶん残業してしまった。
それ以外、何も変わったことはない。
――あれから、黒河侑司が慧徳に来ることも、ない。
とはいえ、喜ぶべきことは、あった。
例えば、たまにランチをしに来てくれる駅前の不動産に勤めるOLさんが、初めて恋人らしい男の人とディナーに来てくれた。頬を赤らめて「ようやくゲットした彼氏なんです!」と、こっそり耳打ちしてくれた彼女に、葵は「おめでとうございます!」と、同じく耳打ちでエールを送った。
またつい先日には、篠崎の姉が旦那さんと一緒に、生後三か月ほどの赤ちゃんを連れて店に来てくれた。あの破水騒動の末、無事に生まれた赤ん坊だ。
早くここのお料理が食べられるといいねー、そう言いながら、哺乳瓶のミルクを飲ませていた新米ママは、しっかりオムライスを食べて幸せそうだった。
彼女の夫は、数か月前お騒がせしてしまったお詫びと手早く対処してくれたことのお礼に、と菓子折りまで持ってきてくれた。聞けば、あの古坂夫人率いる四人の奥様方にもきちんとお礼回りをしたらしい(これをきっかけに、篠崎の母と姦し四人衆の交流も芽生えたらしい)。
あの騒動の時、何一つ手助けできなかった葵は恐縮するほかなかったが、それでも若夫婦のご厚意は嬉しかった。
そして葵は、かなり間近で小さな赤ん坊を見ることに成功した……さすがに抱っこは遠慮したけれど。
納涼会の時の、あの愛花ちゃんよりも、さらに小さく頼りない命。
内心戦々恐々としながら近づいた葵だったが、手は震えなかったし幻聴も聞こえなかった。
小さく無垢な存在を前にして、膿を出したばかりの古傷が決して疼かなかったわけじゃないけれど、自分の古傷をあるがままに受け入れられるようになっただけでも上出来だと思った。
そんな、ささやかだけれど心温まるゲストとの交流……それだけが、灰色がかった重く暗い心中の一点に、ほんのり色を付けた。
それだけが、一時的に痛みを麻痺させる対症薬でもあった。
気を取り直し、葵は猛然と角切りバターを丸めるマシーンと化す。その脇で、手早くグラスや氷を準備していた池谷が、さらりと告げた。
「テンチョー、俺、卒業したら渡米するんだわ。だからここ、二月いっぱいが目処ってことで」
「……とべい? とべい、って……うそ、池谷くん、渡米っ?」
「……意味わかってんの? 日本を離れるんだけど」
「そ、そんなことわかってるよっ! っていうか、就職するんじゃなかったんだ?」
「俺が就活してねーの、知ってんだろ?」
そりゃあ、まぁ……ねぇ……。葵はモゴモゴと口ごもる。
この慧徳学園前店のアルバイトで一番古株の池谷と篠崎は、現在慧徳大学四年生だ。二人とも慧徳店新規オープンとほぼ同時に雇い入れたので、葵と彼らのつき合いも四年目となる。
工学部に通う篠崎は、夏明け頃に専攻科、いわゆる院生に上がる旨を教えてくれたので心配はしていない。忙しくてシフトに入れない時期は増えるかもしれないが、あともう二年はここでアルバイトさせて下さい、とお願いされて、葵も佐々木チーフも諸手を上げて喜んだ次第だ。
しかし、一方の池谷は……謎だった。
芸術学部のメディアアーツ科、とかなんとか……葵にはよくわからない分野を勉強しているらしい彼は、去年も今年も就職活動の気配すらなく、焦る様子もなければ逆に諦めた感じでもなかった。かといって、プライドの高い彼に向かい「就職どうなってるの? 大丈夫なの?」とは、なかなか聞きづらい。葵をはじめ、店のみんなが密かに心配していたのだ。
「えっと、じゃあ、就職じゃなくて……留学、みたいな感じ?」
「まぁ、そんなもん。たまたまあっちに行ってる先輩から声かけられてさ、いいタイミングだったし、どーせ家から出るつもりだったし」
淡々と語る池谷。こうまであっさりだと、かえって少々気にかかる。
池谷の家庭は若干複雑で、彼が中学の時に、母親が今の父親と再婚したらしい。本人に直接聞いたわけではないが、今の父親はかなりの高額所得者で、池谷も本当はアルバイトをする必要などない、と聞いたこともある。それでも、大学に入ってからずっとここで働いているのは、そこに幾許かの屈託があるからなのだろうか。
口は悪いし異性関係における素行もあまり褒められたものではないようだが、葵から見る限り、池谷夏輝という青年は周りの機微に敏く、無関心や突っぱねる風を見せても、さりげない心配りができる思慮深い人間だ。葵自身も、乱暴な物言いながらフォローされ、励まされたことが何度もある。
そんな彼が辞めてしまうのは心痛むが、卒業という門出ならば快く送り出してあげたい。
「そっか……寂しくなるけど、仕方ないね。でも安心したよ、進路がちゃんと決まって。卒業後はここでフリーターする、なんて言われたらどうしようかって心配してたから」
「店にとっちゃあ、フリーター大歓迎じゃねーの? 朝から晩まで使えんじゃん」
「そりゃあ、シフト的に助かるのは確かだけどね、でもやっぱり、みんなには自分の目指す道を進んでほしいから。……よしっ! 終わった!」
葵は丸め終わった最後のバターボールを、勢いよくステンレスポットの中へ投げ入れた。1ポンド(約四百五十グラム)分の角切りバターを全部丸め終えるのは、結構しんどいものがあるのだ。
そんな葵を横目で見やり、一瞬、複雑そうに顔を曇らせた池谷だったが、それ以上何も言わず黙々と手を動かす。
葵は強張った首をぐるぐると回して、バター丸め板(正式名称はよく知らない)やボウルを手早く片づけ、池谷と共にディナー開店準備に取り掛かった。
そろそろ、新しいアルバイトの募集をかけた方がいいのかもしれない。池谷だけの話ではなく、亜美もそろそろ本腰を入れて就活に入るだろう。厨房の笹本と吉田はまだ二年なので今すぐではないだろうが、遼平は調理師学校の三年生だ。彼も今までのようなシフト入りはできなくなるかもしれない。
黒河さんに相談してみようか……と思い至ったところで、また彼の低い拒絶の声が脳裏に響き、葵の胸がズキンと疼いた。
あの日の、彼の冷たい声が蘇る度に、ズキズキとした偏頭痛ならぬ偏心痛のような痛みが胸に走り、葵はそれを懸命に逃す毎日であった。
あろうことかあの場で告白しようとした自分自身に愕然とし、そして、その恋情が届くことなく撥ねつけられた現実にショックを受けた。だがそれより何より、最後に彼から放たれた言葉が、葵を取り返しのつかない深い後悔に引きずり込んでいた。
『――これ以上、俺を、煩わせるな』
春から数か月、葵の周囲で色々なことが重なり、何度も彼を巻き込み迷惑をかけてしまった。その自覚は十分にあったけれど、葵が思う以上に彼はうんざりしていたのだ。その事実を、改めて突き付けられた瞬間でもあった。
申し訳なさで身が切られるような心地だった。不可抗力な部分がなかったとは言えないが、自分がもっとしっかりしていれば、未然に防げたこともあったはずなのだ。
自分は知らぬうちに、彼の優しさにつけ込むような姑息な真似をしていたのかもしれない。それは恐ろしいほど、罪深く思えた。
――彼はあの時、どう思っただろう。葵が思わず口走りそうになった想いを、彼は最後まで言わせなかった。聞きたくなかったからだ。臆面もないヤツだと、思っただろうか。
上司と部下、しかも傷持ちの自分。色々な意味で差異がありすぎることはわかっている。想いを打ち明けるつもりなど微塵もなかった。彼とどうこうなることなど考えたこともなかった。芽生えたばかりの新芽のような恋心を、そっと静かに育てていければいいと、そう思っていたのだ。
けれど、所詮それも綺麗事でしかなかった。葵の心のどこかに、受け入れてもらいたいという邪な想いがあったことは明白だ。恋しさ故の浅ましさや身勝手さといったものが、隙を窺うようにとぐろを巻いて鎌首をもたげている。
――彼は、それを見抜いた。
いずれにせよ、木っ端微塵に玉砕した。
彼が慧徳に現れない日々にどこかホッとしながら、どこかで猛烈に寂しく思う。
恋心を捨てきれない自分が、未練がましくて情けなかった。
* * * * *
――カランコロン、と。
ディナータイムが始まって間もない時間、最初の客がドアベルの音とともに、おもむろに姿を現す。「いらっしゃいませ」と出迎えた葵は、目を見開き驚いた。
「……立花さん! あ、足……!」
慌てて駆け寄った葵に、その客、杖をついた老婦人は、ふふふと恥ずかしげに笑う。
「こんにちは、葵ちゃん。久しぶりねぇ。……ああそうそう、今日はもう一人連れが後から来るのよ……いいかしら?」
「は、はい、もちろんです。どうぞ、こちらへ……」
杖をつき足を引きずりながら歩く立花婦人を、葵はゆっくり席まで誘導した。
奥の方がいいですか?と聞いた葵に、いえいえ、いつものここでいいのよ、と彼女は入口から一番近いテーブル席に座る。
入り口に近く他のテーブルよりスペースに余裕のある1番テーブルは、立花婦人の指定席のようなものだ。
――彼女はここに来るときいつも、車椅子だったから。
立花婦人は、二年ほど前からこの店に来るようになった常連客である。
月に二、三度来ることもあれば、二月ほど顔を見せないこともあるが、この店も料理も大層気に入ってくれていて、来れば葵とも親しく世間話を交わしてくれる。
そんな立花婦人は、初めて来たときから車椅子であった。老齢であっても朗らかでユーモアがあって、そして何より気品にあふれた人なのだが、足が悪いこともあり、なかなか外出する機会も気力もなく、どうしても家に籠りがちだと話してくれたこともある。
――ここのお店に来る時だけは、身綺麗な服を着てお化粧をして髪も整えて。それだけで気分が浮き立つのよ、と。
葵は彼女にDMを送っているのでその住所も知っている。東京都と神奈川県の境にある自宅からこの店まで、いつもハイヤーでやってくるのだ。
迎えに来た車の運転手(真っ白い手袋着用)が慣れた手つきで彼女を後部座席に抱え入れたり、車椅子を折り畳んだりするのを見ては、ずいぶんお金持ちなんだろうなぁ、と下世話なことを思ったりもしたものだ。
「ビックリしました。……もしかして、前に仰っていた足の手術……されたんですか?」
「ええ、実はそうなの。そういえば葵ちゃんにも『手術なんて無駄よ、絶対いや』って、よくぼやいたわよねぇ。でも、ちょっと心境の変化があってね、手術したのよ八月に。それから入院してリハビリもして……どうなることかと不安だったけれど、こうして自分の足で歩けるようになったわ。意地張って駄々こねてないで、さっさと手術すればよかったのよねぇ」
皺の寄った口元を嬉しげに綻ばせて、老婦人は穏やかに笑う。
こうして今見たところ、シミの少ない色白の頬は血色もよく元気そうだ。まだ杖に頼っているとはいえ自分の足で立って歩けるというのは、心情的にも前向きになれるのだろう。
「お元気そうでよかったです。リハビリは若い人でもすごく大変だって聞きます。立花さん、ずいぶん頑張られたんですね」
「ふふふ、そうなのかしら。今もまだリハビリ中なのよ? 確かにきつくて嫌になっちゃうのだけれど、頑張ったらご褒美をくれるって孫が言うもんだから。年甲斐もなく張り切っちゃって……孫にも呆れられたわ」
楽しそうに肩をすくめる彼女と一緒に、葵も声を上げて笑った。
「今日は、いかがしますか? いつものメニューにされますか?」
「ええ、私はそうなんだけれど……―――」
――と、ちょうどその時、もう一度カラコロンというドアベルが鳴って、もう一人の客が姿を現した。
いらっしゃいませ、と葵が声をかけると同時に、あら来たわ、と立花婦人が言う。
「ちょうど今話していたところなのよ。もっと遅れるかと思ったわ」
カツ、カツ、とブーツの踵を鳴らして、その客は足を進める。
案内しようとした池谷が、珍しく戸惑ったように二の足を踏んだのが、葵の目の端に映った。
葵よりもやや背は低いが、すっと伸びた体躯の女性。
キャメルブラウンの短い髪、大きなオーバル型のサングラス、色の濃い口紅がいやに目立つ。リバレース仕立ての黒いトレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、カツ、カツ、と気怠げなリズムで靴音を鳴らし、店内をあからさまに見回しながら、その女性は立花婦人と葵がいる1番テーブルまでゆっくりとやってくる。
「いらっしゃいませ」と、再び一礼して、葵は婦人の向かいの椅子を少し引いた。
カツ、と踵を鳴らしたその女性は、じっとサングラスの顔を葵に向けて「小さい店ね」と顎を上げた。
「まぁ、ちーちゃんったら、失礼よ。来るなりそんなこと」
立花婦人が咄嗟にたしなめたが、 “ちーちゃん” と呼ばれたその女性は悪びれることもなく、さっさと椅子に座る。
「――なんでこんな入口に近いテーブルなの?」
椅子に背を預けて、彼女はボルドー色のタイツに包まれた細く真っ直ぐな足を鷹揚に組んだ。
「奥のテーブルに変わられますか?」
すぐさま反応した葵に、立花婦人が「いいのよ、ここで。いつもここなの」と首を振れば、「そ」と短く返したお連れ様は、葵の顔を見もしなかった。
「もうオーダーしたの、お祖母ちゃん」
――お祖母ちゃん。……ってことは、この人が、お孫さん?
「いいえ、今来たところだもの。私はもう決まっているのよ。貴女、好きなもの頼みなさいな」
「……メニューはこちらです。どうぞ」
内心のビックリを隠しながら、葵はテーブルにグランドメニューを開いて差し出した。コートのポケットに手を突っ込んだままの彼女は、ちらりとメニューを一瞥して(サングラスなのでよくわからないがたぶん)ふん、と鼻で笑う。
「あんまりお腹空いてないし。……ねぇ、ここって、何が美味しいの?」
――ホントに、美味しいの? ……そんな言い方だ。
サングラスの女性は葵を見もしないが、立花婦人は困ったように葵を見る。葵は婦人の目線を受けて、小さく頷いた。
「……もし、軽くお召し上がりたいのでしたら、オードヴルやサンドイッチもご用意できます。デザートとお飲み物だけでも構いません。アルコールは飲まれますか?」
「お酒は飲まないの。前菜だけ食べるのってマヌケじゃない? 甘いものも好きじゃない。サンドイッチって気分でもない」
そっぽを向いたまま、その女性は紅い唇を尖らせる。
葵の中で、ブォンッ、とエンジンがかかったような気がした。……こういうお客様は、久しぶりだ。
「では……さしあたってスープはいかがですか? それからお料理をご追加されても。今は季節の限定メニューで、キノコのチャウダースープもお薦めしております」
「キノコも嫌い」
「……そうですか。では、スパゲッティやグラタンなどの一品料理にされますか? 量が召し上がられないのでしたら、少なめの盛り付けでお出しすることもできます」
「……それで料金は変わらないんでしょ?」
「いえ、お召し上がり分に見合った金額で、お会計させていただきます」
にっこりと微笑んだ葵を、サングラス越しの目が鋭く射抜いた。
「……へぇ、ご親切ね。何が何でもここの料理を食べさせたいわけ」
「そ、そういうつもりでは……」
慌てて否定しようとする葵を、立花婦人の呆れた声が遮った。
「いい加減になさいな。葵ちゃんは、私たちに食事を楽しんでほしいだけなのよ。もういいでしょう? 貴女も洋風御膳にしなさい。食べきれなかったら包んでくれるわ。私はいつもそうするの。……ごめんなさいね、葵ちゃん。洋風御膳二つでいいわ」
「ちょっと待ってよ! ……わかったわよ、食べるわよっ! ……ハンバーグ! 私、ハンバーグにするわ! ライスでオニグラもつけて、食後はアイスティ!」
畳み掛けるように早口でまくし立てて、その女性は再び、つんとそっぽを向いてしまった。
まったくもう……と、立花婦人は小さく溜息を吐く。
葵は一瞬呆気にとられたものの、すぐに頬を緩めて、テーブルの上のメニューをそっと閉じた。
「かしこまりました。……当店のハンバーグはたくさんのお客様に愛される看板メニューなんです。きっと気に入っていただけると思います。もし食べきれない場合はお包みいたしますね。……立花さんの御膳は先にお持ちしますか? それともスープの後、ご一緒がいいですか?」
「そうねぇ、それなら私もスープをいただこうかしら。葵ちゃんお薦めのキノコチャウダーにするわ。……うふふ、私、歩くようになって食欲が増したのよ? ああ、私のスープ、ちーちゃんには味見させませんからね」
婦人がからかうように釘を刺せば、若き連れはますますムッと紅い唇を突き出し「オニグラは時間がかかるんだから、先に食べていればいいのに」とブツブツ言った。
そんな横顔を目に映しながら、葵はふと気づく……この人、もしかしたら……
「ありがとうございます。では、スープを先にお持ちしますね」
何はともあれ、オーダーはいただけた。葵は丁寧に一礼してテーブルを離れた。
こんな小さな店にも色々な客が来店する。ああいう好意的でない態度の客も、ごく稀にいるのだ。
だが幸いなことに、葵は今まで苦手な客、という存在にあまり出くわしたことがない。逆に、一癖二癖ありそうな客ならば、なおさら自ら進んで接したくなるという性分らしい。
何故なら、そういう癖のある客の方が甚く店を気に入り、かなり懇意な常連客となることが多いのだ。
不躾だったり横柄だったりする客でも、ここの料理を一口でも味わえば、その顔はふわっと綻ぶ――その瞬間を見られるならば、葵はどんな客でも接することに苦は感じなかった。
――うちのハンバーグを食べたら、あの “ちーちゃん” さんもきっと。
内心くふふ、と笑いながら、伝票を持ってバックヤードに入ると、池谷が何か言いたげな顔をして、葵の顔をじっと見ている。
「?」と首を傾げた葵に、彼はフロアの方を見て、また葵を見て、結局何も言わずバックヤードからカウンターへと出て行った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ バター丸めの木の板……パンを召し上がるお客様に添えるバターを、ちょっとオシャレに変身させる道具なのですが、正式名称は不明です。卓球ラケットのような木の板の片面が溝でギザギザ波状になっており、二枚の板で角切りバターを挟んで上手く転がし丸めると、金平糖のようなバターボールが出来上がります。
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