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第2部
商売繁盛、日々是好日
しおりを挟む「4番のメンチと1番のコロッケ上がる。笹本、1番バーグいける?」
「はい、OKです! カウンタC番のエビピラ上げてもいいですか?」
「いいよ。吉田、白飯盛って。サイサラも」
「了解! サイサラできてまっす!」
「――オーダー入ります。2番三名、バーグランチ、ワン、ナポリタン、ワン、エビドリランチ、ワンです。全部出来出しでお願いします」
「ぇーい!」
若々しい返事が厨房内に響き、新規伝票をデシャップ台に並べた葵は、思わずふふ、と微笑んだ。
――残暑はまだまだ厳しい九月初旬。けれど、朝晩を通り過ぎる小さな涼風に、季節の変化を感じることも多くなった。
そんな郊外の私鉄沿線、閑静な住宅街にある『アーコレード』慧徳学園前店。只今ランチタイム営業中、である。
店内はいつものように、常連客や近隣の会社に勤めるOL、外回りのサラリーマンなどで賑わい、憩いのひと時がリズムに乗って流れていくようだ。
今日の厨房は、チーフの佐々木辰雄が前半休――すなわちディナーからの出勤となっており、調理師学校がまだ夏休み中の矢沢遼平が朝から陣頭を取っている。あとは同じく大学が夏休み中の笹本昌幸と吉田峻介の三名、平均年齢がぐっと下がったメンバーだ。とはいえ、今日は余裕さえ感じられる雰囲気の中、危なげなく回っている。
みんな、ずいぶん腕を上げたな、と葵は最近、切に思う。
遼平は淡々としながらも、着々とフライヤー(揚げ場)の腕を上げており、笹本もフライパンを振るのが板についてきた。さらに、この店で一番下っ端の吉田はかなり機敏に動けるようになってきて、一つ一つの作業にも速さと丁寧さ、確実さが伴うようになった。
ランチタイムはあまり複雑なオーダーがない代わりに、次々と目まぐるしく入ってくる。それでもこうして、若手だけで滞りなく捌いていけるのは感心ものだ。
とりも直さず、学生アルバイトに対しここまで根気よく育ててきた料理長の佐々木に対しても、頭が下がる思いであった。
そういえば……葵はふと思い出す。
四か月ほど前のゴールデンウィーク中、図らずも今日のようなシフト組みになってしまったことがあった。
あの日は、朝からてんやわんやの大騒ぎであった。佐々木はおらず若手だけの厨房で、特注も大量にあり、店自体も稀にみる忙しさ……そんな無茶振り御免の状況下、どうにかこうにか店が回ったのは……
――黒河マネージャー。彼が絶妙な加減でフォローに回ってくれたからだ。
あれから四か月――
思えば、春の人事異動で彼が『アーコレード』担当になって、まだ四か月ほどしか経っていない。なんと濃密な数か月であっただろう。
葵にとって、この四か月は色々なことがありすぎた。その凝縮された一つ一つの出来事すべてに、彼の存在が必ずどこかにあった。
ほんの四か月前まで、ろくに会話もしたことがなかった人なのに。
――こんな気持ちを、抱くことになるなんて。
「――オーダー入ります! 3番四名、フヨウランチ、四つです。うちライス二つは少なめでお願いします。――店長、これ古坂さんたちです。『今日はマネージャーさん、いないのかしら?』って……黒河マネージャー、すっかり気に入られてますね」
厨房内にオーダーを通した後、こっそり告げる篠崎の言葉に葵は苦笑する。
“古坂さんたち” とは、慧徳店お馴染の常連グループ客、古坂律子夫人率いる四人の御夫人方である。相変わらず足繁く通っていただき、毎度店内に賑やかな声を響かせてくれている。最近では、季節の洋風御膳である “芙蓉御膳” が御夫人方のお気に入りとなっているようだ。加えて、当店の担当マネージャーのことも。
「こないだも、黒河さんに給仕してもらって “今日はラッキーデーね” って仰ってましたし」
「あはは。黒河さん、占いアイテムみたいだね。――篠崎くん、このE番アフター持っていける?」
「了解です。今A番が新規でメニュー出してます」
「はーい、了解」
「――4番、メンチ二つ、ツーライスで上がりです! その次1番、バーグとコロッケ、ワンライスワンブレ、上がります!」
分散しそうな思考を引き集め、葵は意識をぐっと集中させる。
デシャップ台に出てくる出来立てホヤホヤ、『アーコレード』自慢の料理たち。
これを届けた時の客の反応が見たくて、これらを頬張る瞬間の客の表情がたまらなく好きで、葵は今日も店に立つ。そして、その笑顔ひとつひとつが、葵の活力へと変わるのだ。
「――お待たせいたしました。こちら、ハンバーグステーキでございます。こちらが、カニコロッケでございます」
芳香放つ極上の料理の皿がテーブルに置かれれば、待ちわびた客たちは一様に、わぁ、と目を見開き、そして頬を緩める。
美味しそう、と瞳を輝かせ、ワクワクとした表情でナイフとフォークを手に取り、最初の一口を頬張れば……この上なく幸せそうな笑顔が花咲くのだ。
葵が大好きな、『美味しいー!』という満面の笑顔。
そこに個人差は多々あるものの、こうした一連の反応が見られない客など、今まで一人たりともいない。初めての客も、数えきれないほど訪れている客もみんな、ここから帰るときは満ちたりた顔をしている。
だから、嬉しい。だから、楽しい。
『アーコレード』慧徳学園前店……未だかつてないほどの好調ぶりに、店が息づくその拍動さえ聞こえてきそうであった。
* * * * *
「篠崎くんと、池谷くん……はい、これ。それから……はい、遼平、はい、笹本くん……、と、吉田くんも、はい、どーぞ。……亜美ちゃんの分は、明日渡すとして……あ、みんな、中身確認したらここにサインお願いね」
「何? これ」
ランチタイムが終わり、賄いも食べ終わって、そろそろディナーへ向けての準備が始まる時間。ディナーからの池谷や佐々木チーフも出勤してきたので、事務室内は一気に賑やかになる。
そこで葵は、今いるアルバイト全員に、縦型の白封筒を手渡した。
何も書かれていない真っ白な封筒を受け取ったアルバイトたちは、皆揃って首を傾げて、訝しげに封筒の中をのぞき込む。
「……え、何で?」
真っ先に中身を確認した池谷が、驚いた顔で葵を見やる。そんな様子にくすりと笑みを零して、葵は一同へと向いた。
「えー、では説明します。四月の年度明けからここ数か月、おかげさまでうちのお店はとても売り上げが好調でした。特に、七月の営業利益前年比率……えっと、簡単に言えば、前年月と比べたうちの利益の伸び率……ね。それが社内トップだったのです! それで先月の月会議で表彰されて、何と、お店に対してボーナス金が支給されました!」
「おぉ……」
芝居がかった口上に、誰ともなく感嘆の声が上がり、更衣室の方から佐々木の忍び笑いが聞こえてくる。ちょっぴり仰々しすぎるのはご愛嬌だ。
「――で、佐々木チーフと黒河マネージャーにも相談して、色々考えた結果、日頃頑張ってくれているアルバイトみんなに受け取ってもらうのが一番いい使い道かな、と判断しました。本当は、みんな一緒に飲みにでも行って、パァーッと使うことも考えたんだけどね、最近、それぞれみんな忙しいでしょ? なかなか全員揃って飲みに行くことができなさそうなので、今回は “分配” という形を取らせていただくことにしました。……みんな、それで良かったかな?」
確認するようにそれぞれの顔を見渡せば、「いやぁー、いいんすかねー」「やった、臨時収入!」などの声が上がる中、篠崎が少し気遣うように葵を見た。
「でも……これアルバイト六人分って、結構、高額ですよ? いいんですか? お店のメンテナンスなんかに使った方が……」
「あはは、篠崎くんは心配性だね。でも大丈夫。それはね、みんなが頑張った成果に対するボーナスだもん。みんなが受け取るべきお金、なんです」
「篠ぉー、ありがたくもらっとけぃ。この店が社内で正当に評価された証だ。ま、俺にご馳走してくれるって言うんなら、ありがたくいただいてやってもいいぞ?」
着替え終えて出てきた佐々木の言葉に、葵はピシッと釘を刺す。
「チーフ、ダメですよ。全部焼酎代に消えちゃうでしょ?」
みんなが一斉に笑って、篠崎もようやく「じゃあ遠慮なく、いただきます」と表情を緩めた。
その横で白封筒を眺めていた池谷が、ふと真面目な顔つきで言う。
「……クロカワフーズって、結構太っ腹なんだな。こないだの納涼会といい、こういったボーナス金といい……しかもここって時給も割といい方だろ? もしかして……優良企業?」
そこにすかさず佐々木が食いついた。
「おお? 池ぇー、うちに就職希望か? なんなら上に話を通しておいてやるぞ? お前なら面接一発こなせばすぐに採用決定だ」
「うわぁー、池谷くん、大歓迎だよ! お待ちしてマース」
葵もそれに乗っかれば、池谷はあからさまに頬を引きつらせて後ずさった。
「な……っ、冗談やめろよ……杉さんや黒河さんみたいなのがいっぱいいるんだろ? それ、マジ勘弁」
「よし、水奈瀬。今の言葉、しっかりメモしとけぃ」
「了解です。えーと、杉浦さんと黒河さんが上司になるのは恐怖しか感じられない、と」
「――ぁあっ? そんなこと言ってねーよ! 捏造すんな!」
慌てふためく池谷の叫びに、再びみんなが笑う。
ふと、事務室の端の方で一人離れていた遼平と目が合った。綺麗な二重の瞳が、一瞬「何?」と言うように瞬いたので、葵は小さく頭を振って何でもない、と示す。
あの日――葵が伊沢尚樹と話をした日――から数日経った後、葵は遼平と再び、仕事終わりの夜の道中で話をしている。いつかの夜と同じように、それぞれバイクと自転車を引きつつ並んで歩きながら、遼平は葵の妊娠と流産を知ってしまった経緯を、バツが悪そうに、けれど正直に語ってくれた。
四年前の夏休み、『敦房』でのアルバイトに足繁く通うも、どこか具合が悪そうな葵に、遼平は気づいていたという。
しかし、葵にそれとなく聞いても、「大丈夫、ただの夏バテだよ」と言い張り、濱野夫妻も言葉を濁し詳しく教えてくれない。そうこうするうち、葵が『敦房』に来なくなった。伯父の哲矢は「ちょっと体調を崩したらしくてね、しばらく葵ちゃんはお休みだ」と言うが、そこに言葉以上の深刻さが感じられて、このまま辞めてしまうんじゃないかと思ったらしい。
夏が終わり季節が変わっても、葵は『敦房』に出てこず、いよいよバイトを辞めてしまったのかと思い始めたある日のこと、店の玄関前に向かう一人の若い男性を見かけた。開店前にもかかわらず店中に入っていく男性を訝しく思い、遼平は胸騒ぎに誘われるがまま裏から忍び込んで、濱野夫妻と若い男性の話を立ち聞きしたのだそうだ。
そこから、その男性が葵の兄であることがわかった。さらに、葵が望まぬ妊娠をした挙句に流産し、そのショックで今現在精神的に不安定なこと、兄である彼は葵の恋人だった男を探していることなどがわかったという。そこで遼平は、店を辞して帰りかけるその男性を追い、自ら協力を申し出た。――葵の恋人らしい男を、遼平は何度か見たことがあったから。
なるほどそんな経緯が……と納得する葵に、遼平は、盗み聞きしたうえ黙って勝手なことして、ごめん、と謝ってきた。
葵としては、そんな遼平に対し怒りなど感じるわけもなく、ただひたすら申し訳なかった。兄や弟と同じように、遼平も四年前からずっと今まで葵を心配してくれていた。なのに自分は、彼の心配りに気づきもしなかった。
以前、送る送らないで揉めた後に遼平が不機嫌になった理由も、こういった葵の無神経さが原因だったのだろう。散々心配させておきながら、葵は彼の優しさや厚意を無下にも突き返すような真似をしてしまったのだ。しかも、そのすげない態度に苛立ちさえ覚えていたのだから、我ながら大人げないと思う。
葵も、遼平に頭を下げて謝った。本当に自分は何も知らず、皆の優しさに守られ甘やかされていたのだ、と改めて思い知った気がした。
反省する葵に、遼平はちょっと変な顔――驚いたような?呆れたような?――をしたのだが、小さく葵の頭を小突いただけだった。
そして二人は「もう、大丈夫なのか?」「うん、もう大丈夫」とだけ交わして、それ以上昔の話を蒸し返すこともなかった。
それも、ありがたかった。
「――おいおい、杉や侑坊なんざ、うちの中では可愛いもんだぞ? あの二人で恐怖を感じてちゃあ、この世界ではやってけねーな。だろ? 水奈瀬」
佐々木からのフリに、葵はもっともらしく頷いてみせる。
「もちろん、そのとーりですね」
「だから、やってくつもりなんかねーっすよ!」
「んなことわかんねーじゃねーか。このご時世、就職浪人っつーもんが雨後のタケノコ並みにぼこぼこ出てるってぇ話だぞ。使えるコネは使っとけ? ……お、ほら、ちょうどいい。ご本人様のお出ましだ」
「は……何がごほんに……げ」
佐々木の視線の先で、事務室の裏口ドアが開いてスーツの長身が姿を現す。まさに今、話題に上った人物の登場に、池谷は顔を引きつらせ、葵の鼓動は密やかに跳ねた。
ミディアムグレーのスーツにタイなしで、相も変わらず凛々しく颯爽とした出で立ち。
彼に対する自分の気持ちを自覚してからというもの、葵はその姿を目にするたび、高鳴る心臓を抑えつけるのに苦労する。
……以前はこんなに意識していなかったはずなのに。
「お疲れ様です。黒河さ……」
いつものように平常心を装って挨拶しようとする葵の目に、いつもとは違う光景が入ってきた。
侑司の背後からもう一人の人物……思ってもみない人物の登場に、葵の瞳は丸くなる。
「どうも、お邪魔しますよ、水奈瀬さん」
「いえ……お疲れ様です、柏木さん」
「お? 珍しい顔が来たもんだ。どうした、何かあったのか?」
――なぜ、柏木さんがここへ?
葵だけではなく、佐々木でさえも訝しげな顔で柏木を見ている。他のアルバイトたちは、この人誰?状態だ。
そんな場の雰囲気を感じたのかどうか、『櫻華亭』本店支配人の柏木は無表情のままにツーポイントフレームのブリッジをクイと上げて、佐々木に向けて品良く頭を下げた。
「佐々木チーフ、ご無沙汰しております。突然お邪魔して申し訳ありません。十一月のボジョレーヌーボー解禁フェアの限定オードヴル、うちでの仮案レシピができましたのでお届けに参りました。国武チーフが自ら足を運ぶと駄々をこねたのですが、今、うちのサブチーフが腰を痛めておりまして、何とかお店に残るよう説得した次第です」
「――ああ、田辺のやつ、ギックリだってな。しかし……仮案なら会議の時でいいんじゃねぇか? わざわざお前さんが来なくても、侑坊に渡しときゃ……」
佐々木の至極尤もな言葉にも動じず、柏木はその眼鏡のレンズをピカリと反射させる。
「仰る通りです。それは口実で、実は伸び率ナンバーワンの店というものがどんなものなのか、見学させていただきたかったのですよ。ここは今や、社内でも期待度トップの店舗ですからね。黒河マネージャーに無理を申し上げ同行を願いました。過去のデータや日報など、見せていただいても構いませんか? 後で、フロアの方も」
最後は葵の方へそのレンズを向けたので、思わず一瞬、すでにパソコンへ向かっている侑司に視線を送ってしまった。が、すぐに「はい、もちろん、どうぞ」と答えれば、事務的な声音で「ありがとうございます」と返ってくる。
佐々木はとりあえず、納得したように鼻からフンと息を吐き出した。
「わざわざ本店から、ご苦労なこったな……んじゃまぁ、ゆっくりしていってくんな。遼平ー、フライヤーのスイッチだけ入れといてくれー」
ひらりと手を振って、煙草片手に裏口から出ていった佐々木を見送り、それを合図にその場に固まっていたアルバイトたちもディナータイムの準備へ、または帰宅準備へと、ぞろぞろ動き始める。
葵も、まずはディナーの準備をするべく、身支度を整えた。
……こちらに背を向ける侑司を、背中にピリピリ意識しながら。
* * * * *
その日のラストオーダー後、いち早く帰り支度を済ませた佐々木が、事務室で発注確認をしている葵を呼び止めた。
「ほれ、お前の分だ」
そう言って、佐々木は一通の白い封筒を葵に差し出す。
昼間のこともあって、一瞬、お金?と思ってしまったが、よく見ると皆に配った封筒とは違う、はがきサイズの洋形封筒だった。厚みのある封筒の表書きには立派な楷書で “水奈瀬葵様” と書かれてあり、葵は首を傾げる。
「侑坊からお前にも渡しといてくれって頼まれたんだよ。和史が結婚する話は聞いてんだろう? その披露パーティーへの招待状だと」
「……え、私に、ですか……?」
「ああ、うちの社員はもれなくご招待だそうだ。式は親族だけでやる代わり、披露パーティーは友人や仕事仲間を招待して盛大にやるらしいぞ? 二次会ってのをせず、このパーティー一回ポッキリで済ませたいんだと。社長の息子ってぇのも大変なもんだな」
火のついてない煙草でトトントトンとリズムを刻みながら、佐々木はくわぁっと欠伸する。
「そうなんですね。でも全員出席だなんて……大丈夫なんでしょうか」
「その日は九月の最終水曜だ。ホテル店舗以外は休みだろ? 助っ人回してホテルの連中も時間差で参加できるようにするらしいぞ。抜かりはねぇな」
「……そうですか。じゃあ、チーフも出席ですね」
「俺ぁ、そういうのは強制的に出席って決まってんだよ……」
うんざりと溜息交じりに言う佐々木に、葵は少し笑った。
おそらくまた、本店の国武チーフあたりがそんなことを言っているのだろう。うちの大御所チームはどれだけ仲がいいのか、そこに酒肴が絡むとなれば、その結束力がますます強靭となるらしいことは、ようやく最近の葵にもわかってきたことだ。
「出欠を取りたいから来週中に返信してほしいんだとよ。郵送でもいいみてぇだが……直接侑坊に渡した方が早ぇよなぁ?」
「……そう、ですね。……じゃあなるべく早く、返信しますね」
ぎこちなく笑う葵に気づいたのかどうか、佐々木は「じゃあな、俺ぁ帰るわ」ともう一度大きな欠伸をかましながら、事務室を出て行った。
「テンチョー、ノーゲスー」というフロアからの池谷の声に、「りょーかーい」と返しつつ、葵は少し厚みのある白い上質な封筒に目を落とす。
侑司の兄、黒河和史とその婚約者、宇佐美奈々は、当然社内では有名なカップルらしく、葵の耳にもよく入ってくる。結婚間近という話も。
現在『紫櫻庵』の料理長を務める黒河和史とはほとんど接点がないのだが、宇佐美奈々の方は、彼女がクロカワフーズの経理部に所属していることもあって、よくお世話になっている人だ。
だから、決して他人事ではない、おめでたいことである。
結婚、と聞いても葵にとってはまるで現実味のない話だが、身近な誰かが幸せになるということは、とても喜ばしいことのはず。
なのに、妙に何かがチクチクと引っ掛かる気がするのは。
――黒河さんは、どうして直接、手渡してくれなかったんだろう……
やるせない気持ちを溜息とともに吐き出し、葵は更衣室にある自分のバッグに白い洋封筒を差し込んだ。
チクチク、微かな痛みはそれだけじゃない……今日葵は、侑司と一言も言葉を交わさなかった。
柏木とは売上や帳票のことなどに関して少し話をしたが、侑司はそれに加わることもなくずっとパソコンに向かっていた。そして、葵が店に出て接客している間に、侑司と柏木はいつの間にか帰ってしまっていた。
――たまたま、そういう日だったのかもしれない。特に急いで報告伝達しなければならないこともなかった。だから、気にするほどのことじゃない。
心の中で繰り返し呟いても、薄らと立ち込めた不安色の霞は、日に日に濃くなっていく気がする。
ここ最近、葵は時々、感じてしまうのだ。
侑司が奇妙な壁を立てて、葵をそれとなく、阻んでいるような感覚を。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 略語いろいろ
バーグ……ハンバーグ
エビピラ……エビピラフ
サイサラ……サイドサラダ(ランチにつくミニサラダ)
エビドリ……エビドリア
ワンブレ……パン(ブレッド)が一皿
ノーゲス……ノー・ゲスト
(お客様ゼロ、全員帰りましたよ、という意味)
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