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松穂

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第1部

水奈瀬蓮、潜り抜けた闇の先へ

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「……ったく……何だよあれ……ふざけんなっつーの……はじき玉ワントラップでゴール隅にネジこまれるよーなもんじゃねーか……しかも泣いてるし、泣いてるし……泣いちゃってるし……」
「萩ー、ブツブツうっさいぞー」
「……あんなに泣くとか、オレ見たことねーし。……つーか、マジでオレらおジャマさんな感じだし。何だよ、なんでだよ……オレ聞いてねーよ……」
「まあ、お前の気持ちはわかるけどなー」
「伸悟さんだって見ただろ? あれ何? ――なぁ、あの二人って、つき合ってんの?」
 最後の質問は自分に向けられたとわかったが、蓮は何も言わず振り返りもせず、視線を窓の外に向けたまま動かなかった。
 んだよ無視かよ、くっそ……とか何とか、萩からは小さな悪態がダダ漏れだ。

 ――外は黄昏。
 八月も終わりとなれば、日中は残暑が厳しくとも、日が落ちるのは格段に早くなっているようだ。
 慧徳学園前から妙光台へ向かう街道を軽快に走るのはスポーティタイプのミニバン。青柳伸悟が運転し、助手席には蓮が収まり、リアシートには萩が一人、仏頂面だ。
 蓮は元々、伸悟の車でやって来たので乗って帰るのは当然なのだが、萩はバイクを『アーコレード』の店裏に置きっぱなしにしてまでこの車に便乗している。一人バイクで帰ればいいものの、すっきりしないモヤモヤをぶつける相手が欲しかったのか、タダで夕飯にありつこうという算段なのか。どちらにせよ、萩のぼやきにつき合う気分じゃない。

 蓮は今日、半ば無理矢理に休みをねじ込んで、妹とその元彼の対面の場に、所謂いわゆる、出張ってきた。事前にそのことを連絡しておいた伸悟も、休みを工面して蓮の足となったのだから “乗り掛かった船” とやらの乗り心地は、意外とイケるのかもしれない。
 一方で、萩と矢沢遼平も、互いに連絡を取り合い店に集まったようだ。
 蓮は所用のため、先に駅周辺で降ろしてもらい、その後一足遅れて『アーコレード』の店に着いたのだが、店裏から入ると、伸悟に加えて萩、遼平の二人もシレっとした顔をして事務室内いた。三人が三人ともあの狭い事務室の中で身を寄せ合い、息を潜めつつチラチラとフロア方面に視線を泳がす様子は……思い出しても滑稽に尽きる。
 そんな中で、一人デスクに向かって書類を広げていたのが黒河侑司だ。
 上司としての単なる義務感か、はたまた別の意図からか……萩と遼平が来た時には既に事務室内にいたらしい。集まった四人の男どもに対し、何も言わず何も訊かず、今まさにフロアで対面しているだろう二人の男女を、気にする素振りなどまったく見せず。
 だから蓮も侑司に対して、何をしに来たんだ、とは問わなかった。
 かくして、あの窮屈な小部屋の中で、五人の男が二時間以上も待機することとなる――そのうち三名は、途中我慢ならず抜け出したようだが。 

「――蓮さん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど?」
 運転中の伸悟が、やけに楽しそうな声音で尋ねてきた。
 顔だけ向ければ、伸悟はにやりと笑って「もしかして、聞いてました、、、、、、?」と言う。だから蓮も隠すことなく「ああ」と答えると、後部座席の萩が耳聡く乗り出してきた。
「――あ? 何を聞いてたって?」
「お前には百年早い話だなー」
「なんだよそれ……感じわっりーな」
 口を尖らせる萩に、クックと忍び笑いをする伸悟。
どんなやつ、、、、、なんですか?」と再び訊いてきた伸悟に、蓮はちょっと考えた後、まぁいいかと、胸ポケットから “それ” を取り出した。
「何それ? ボールペン?」
 腕を伸ばし、ひょいと取り上げた萩は、一見何の変哲もないシルバーのボールペンを不思議そうに見る。
 運転しながら横目でちらりとそれを見た伸悟が、感心したように「へぇー、それが」と言った。
「萩、それ “盗聴器” だよ」
「と……っ、ウソっ、マジでっ? これがっ?」
 伸悟の言葉に、危うく取り落としそうになったそのボールペン型盗聴発信機を、萩はまるで熱を発する危険物のように指でつまんでまじまじと眺める。
「リアルタイムで聞いてたってことなら、受信機もあるんですか?」
「ああ。思った以上に音質が良かったな」
「最近のものは犯罪級ですもんね。――で? 葵ちゃんに?」
「いや、伊沢に、、、
「マジっすか! ……いったいどうやって……」
「なぁ……全然意味わかんねー。どういうこと?」
 絶句する伸悟と、チンプンカンな萩。
 蓮は仄かに笑みを浮かべて、再び窓の外に目を向けた。

 ――別に俺は、 “盗聴” したわけじゃない。


* * * * *


 萩のICレコーダーを見つけた蓮がその心意気をからかいつつも、伊沢との対面時に使えそうだなと言ったのは、あながち冗談ではない。
 葵が元恋人と会うことについて、反対はしないと言ったが、もちろん快く承諾したわけではないのだ。二人の会話をしっかり記録しておくという思いつきは、決して無駄でも酔狂でも悪ふざけでもなく、蓮にとっては大真面目な安全対策(バックアップ)のつもりであった。
 試しに “盗聴器” なるものはどんなものがあるか、と調べるうちに、つい手を出してしまったボールペン型の盗聴発信機。受信機とチャンネルを合わせれば、リアルタイムで音声を聞くことができる上、受信機は専用機器に繋げば録音することも可能だ。それなりに値段は張ったが無駄な買い物とは思わなかった。

 ――そして、蓮は策を巡らす。
 どこに仕掛けるか、どう仕掛けるか。
 厳密に言えば、盗聴器を仕掛ける行為や、盗聴して入手した個人(法人)情報を漏洩・盗用・悪用する行為は法に抵触するのだが、 “盗聴” する行為そのものを取り締まる法律が今の日本においてはないらしい。つまり、蓮が二人の会話を無断で傍受しそれを個人で楽しむだけならば、犯罪として立証するのは極めて困難であると言える。
 だがしかし、モラルの問題はある。
 “盗聴” が、褒められる行為ではないことぐらい、当然知っている。
 ならば “盗み聴き” しなければいい、という結論を出すのにほとんど時間はかからなかった。「了承を得ればいいんじゃないか」と、葵に冗談半分で言った自分の言葉は、よくよく考えれば理にかなっていると思われた。

 迎えた今日の午後、蓮は首尾よく実行した。
 事前に葵から、二人が会う時間を聞き出しており、また、伊沢が電車で慧徳学園前に来ることも聞いていた。そこで蓮は、駅から少し離れた木立の陰で待ち伏せし、何も知らず『アーコレード』へ向かう伊沢の姿を見つけて呼び止め、そして、驚く彼の目の前に一本のボールペンを見せて、これは盗聴器だと説明したうえで、提案した、、、、のだ。
「――葵には許可をもらっていない。言うつもりもない。会う前にスイッチを入れれば、気づかれずにすむだろう」
 我ながら、理不尽で酷なことを突きつけていると思った。
 案の定、伊沢尚樹は顔を強張らせて「どういう意味ですか」と問うてきたが、蓮は薄く笑ってそれを彼のポロシャツの胸ポケットに差し込んだ。
「無理強いはしない。俺だって今更貴様の懺悔話など聞きたくもないからな。例えスイッチが入らなくても、二人の会話に立ち入ることは遠慮してやる。だが……」
 蓮は笑みを消した双眸で、伊沢を真っ直ぐに見据えた。
「これだけは言っておく。葵のこれから、、、、を絶対に邪魔するな。貴様が葵と会えるのはこれが最後だ、次はない。……余計なことを言って葵を惑わすことは、許さない」
 いわゆる “釘差し” 、そして “牽制” だ。
 断固として拒絶されることも想定してはいたが、伊沢はぐっと憤りを呑み込んだ様子で、勝手に差し込まれたボールペン型盗聴器を胸ポケットから抜くことなく、店への道を真っ直ぐ歩いて行った。
 その背を見送りながら蓮は、彼と再会した時からどうしても拭えない、奇妙な相違感に眉をひそめた。


 ――四年前、葵の元恋人の正体が判明し、その男と接触するため、蓮は自ら名古屋まで足を運んだ。
 そこに向かう道中、蓮は伊沢尚樹という男から如何にして真実を吐かせるか、言い逃れや責任転換をどのようにして阻止するかだけをひたすら考えていた。
 出世をもくろみ妹を捨てた男だ、狡猾で計算高く人を騙すことなど平気でやってのける輩なのだと、信じて疑わなかった。
 しかし、実際その男を目の当たりにした瞬間、蓮の先入観は大きく裏切られた。
 そこにいたのは、すでに何かに打ちのめされたような、すでに人生を諦めてしまったかのような、まるで覇気のない男だった。事前に伸悟から回された携帯画像で、その顔だけは見知っていたけれど、抱いていた人物像と目の前の人物はまるで重ならない。
 遠まわしに追い詰め締め上げ、一分の隙もないほど完璧な証拠の壁で囲い込んでやろうと画策していた蓮は、彼の姿を見た瞬間、反射的にその追及方法を変更した。
 ダイレクトに真っ向攻撃――妹が見舞われた一連の惨状を、言葉も選ばず突きつけた。
 するとその男は、もともと生気のなかった顔をさらに蒼褪めさせ、顔面蒼白のまま愕然と崩れ落ちたのだ。
 何だこれは――? と思った。
 明らかに思い当たる節があり、奇妙なことに、たった今それに、、、、、、、気づいた、、、、、という素振り。
 これも演技なのかといぶかしむ蓮の前で、伊沢尚樹は額をカーペット敷きの床にこすりつけ、すみません、すみません、と繰り返し慟哭する。
 支離滅裂なその言葉の羅列をどうにか繋ぎ合わせたその内容は、実家の借金や意に染まぬ相手との婚約、名古屋への異動、酒の力を借りて別れを告げた妹への苦渋の想い。そして、散らばっていた小さな欠片に気づいていながら、今の今まで繋げてみようともしなかった己の失態。泥酔していたためその記憶は曖昧だが、彼女をそんな目に合わせたのはおそらく自分で間違いない――と、蓮が呆気にとられるほど伊沢はその罪をあっさり認めた。
 その時の自分は、どんな顔をしていただろう。ひれ伏したまま震え泣く伊沢を見下ろすうちに、言い様のない脱力感と虚無感が広がっていったことを覚えている。
 どんな言い訳を聞かされようとも、妹に対して行った仕打ちは許せることではない。法的手段の遂行、社会的抹殺……場合によっては激情に身を任せ直接的暴力を行使する覚悟もあった。
 ――にもかかわらず、結果、何もなし得なかった。
 脆弱で無様な男に、蓮はそれ以上の鉄槌を下すことはできなかったのだ。
 這いつくばったままの伊沢尚樹に精一杯の嘲りを露わにし、今後一切妹と関わってくれるな、という旨を捨て台詞にして、蓮は、その場を去った。

 ――ほだされたわけじゃない、同情や憐憫じゃない……ここで手を引くのは全て葵のためだ……あの男を抹殺したいがために事を公にすれば、他でもない妹がさらに傷つく……それにこの男はすでに打ちのめされてボロボロじゃないか……これ以上不快な思いをしてまで、彼に制裁を加える価値などないはずだ……所詮、弱い男だ、弱すぎる男だった……今日容赦なく突きつけた事実は、あの男を絶望のどん底まで突き落としただろう……もう二度とこちらにコンタクトを取って来ることなどあり得ないはずだ……自身の犯した罪の重さを、この先一生をかけて味わうがいい―― 

 胸の内で繰り返される呪詛は、行き場のない遣り切れなさの表れだったのであろうか。
 そうして、来る時よりもさらに苦い思いを胸に抱きつつ、蓮は東京に戻ったのであった。


 あれから四年近くたった。
 蓮の目には、伊沢尚樹の姿が別人のように映っている。
 容姿はあまり代り映えしないのかもしれない、が、その瞳はまるで違った。
 そこに感じられるある種の意志の力は、蓮の胸の内を騒がせ、ちりちりとした警戒心を抱かせる。
 伊沢本人に託した盗聴器のスイッチが入るか否かは五分五分、といったところだが、会話を聞けずとも対面後の葵の様子如何いかんによっては、今度こそ本当に、あの男の社会的立場から未来に及ぶまでことごとく粉砕してやるつもりであった。
 ところがその数分後、鞄に隠した受信機の小さな受信ランプは点灯した。
 蓮は正直、拍子抜けした気分だった。


* * * * *


「――ま、簡単に言うとな、蓮さんは伊沢にその盗聴器を仕掛けたんだ。それで、俺らがあのカウンターの陰でコソコソと必死こいて聞き耳を立てている間、ずっと事務室の隅で二人の会話を楽しんでいたってわけさ。――蓮さん、イヤホン、ワイヤレスだったんでしょう? 俺もまったく気づかなかったな」
 蓮の代わりに伸悟が、アホづら丸出しの萩に説明している。弟はそのアホ面を蓮に向けた。
「え、どうやってあいつに仕掛けたの? んなの無理じゃね?」
「……仕掛けたわけじゃない。直接手渡してスイッチの入れ方を教えただけだ」
 静かに答えた蓮の言葉に、伸悟も萩も一瞬絶句して目を見張る。
「……参りました」
「蓮兄……こっえーよ……」
「じゃあ、あの時、店の表から入ってきたのは、それを回収したため?」
 伸悟の問いに、蓮は笑って「ああ」と答える。この幼馴染は、本当に細かいことによく気がつきよく見ている。すると、後部座席から身を乗り出していた萩が、さらにそのデカい身体を運転席と助手席の間にねじ入れてきた。
「ずっりーぞっ、蓮兄! オレだってあいつがどんなことほざくか聞きたかったのに……ああっ、そーだ、録音したんだろ? だったら全部ここに入ってるよな?」
「いや、全部消した」
「はぁあっ? なんで? 何で消しちゃうわけぇっ?」
 車内で出す声量じゃないだろ……蓮は耳元を抑えながら溜息をついた。
「そう騒ぐなって……別に大した内容じゃなかった。伊沢は正直に喋ってたよ。……ま、若干感情が入り過ぎた感じはあったようだが……葵に嘘を吹き込むような真似はしていない。伸悟が調べ上げた情報や、俺が伊沢本人から聞いた話はすでにお前に話しただろう? それとおおむね違いのない話だ」
「……ホントかよ……なんか、ウソくせー」
「萩、諦めなー」
 半眼で口を突きだす萩に、カラカラと伸悟は笑う。蓮も小さく笑んで、その視線を再び窓の外に向けた。
 結局、受信機の受信ランプは一度も切れなかった。なのに何故、録音した会話を早々に消してしまったのか――蓮自身にもよくわからない。


 ――妹と伊沢尚樹の対面、終了後。
 タイミングを見計らって事務室から店の外に出て、表玄関から死角になる植え込みの陰で蓮は伊沢を待ち伏せしていた。
 店から出てきた伊沢尚樹は、蓮がふらりと姿を現しても別段驚いた様子もなく、胸ポケットからボールペン型盗聴器を取り出し、静かに差し出した。
「――今日はありがとうございました。おかげで、悔いなく金沢に戻ることができます」
 寂しげな笑みを浮かべるその言い様に、どうしてか苛立ちが湧き上がる。それを抑えながら細長い機器を受け取り、手に持っていたもう一つの小型機器を彼の目の前で操作した。それは、萩のICレコーダー……受信機と繋げて傍受音声を録音していたものだ。
 蓮は伊沢の目の前で、録音した音声を全て完全に消して見せた。
「これで終わりだ。もう二度と妹の前に姿を見せないで欲しい。葵のことは忘れてくれ。こちらももう、全部忘れたい」
 伊沢の返事はなかった。
 凪いだ眼で蓮を見つめ、ゆっくりと一礼した伊沢は、駅に向かって歩いて行く。その背中は、二度と振り返らなかった。
 ざらりとした後味を噛みしめつつ、しばらくその場に立ちつくす蓮の背後で小さな靴音がした。黒河侑司だった。
 全てを見透かすような、それでいて何も滲ませない無機質な視線。何故か後ろめたさを感じて、蓮は不覚にも目を逸らしてしまう。
「ちょっとした危機管理対策だよ」
 ひょいと肩をすくめて見せて、蓮は店の表玄関に向かった。
 別に、どう思われても構わない。兄として、水奈瀬家の家長として、当然のことをしたまでだ。
 ――そう、思っていたのだけれど。


「……人って、変われるんだな」
 窓の外の流れていく景色を見たまま、ふと漏れる言葉。運転席の伸悟がちらりと蓮を見る。
「そうですね。でも、無理に変える必要もないんじゃないですか? 俺は、許せない、、、、という気持ちを変えるつもりはありません。……意固地に持ち続けるつもりも、ありませんけどね」
 そう言って笑う伸悟は、蓮より遥かに柔軟で順応力が高いのかもしれない。
 蓮も僅かに口元を緩めて、にわかに濃さが増していく宵闇を目に映した。

 彷徨い続けた長くて暗い地下通路から、突然地上へ出てしまったような心地だ。
 戸惑いと眩しさで、今自分がどの位置にいるか正確に判断できない。
 過去に抱いた禍々しいまでの負の感情は、いまだ胸の奥底に根を張っており、この先もそう簡単には消えてくれないのだろう。しかし、その根にしがみつくあまり、己をも腐らせるのは愚かなことだということもわかっている。

 ――無理に、変える必要も、ない……か。
 少なくとも、傷つき苦しんだはずの妹の方が、蓮に先駆けて今、変わろうとしている。
 その変化を待ち望んでいたはずなのに、いざそうなってみればどこか面白くない心地になるのだから、人間の心情というものはどこまでもエゴイスティックだ。萩のぼやきも当然と言えば当然か。
 もとより妹は、伊沢に対して憎しみも恨みも持ち合わせていなかった。蓮や萩からしてみれば、人の好すぎるその性質に歯痒くも苛立たしくもあったのだが、結果的にはそれが、最も効果的な “報復” となったようだ。

『――私……います。……好きな人、いるみたいです』

 告げた本人が驚いているような声だった。問われて初めてそれに気づいた、というような。
 未練のある男として、さすがにこれはキツイだろう。憎しみの対象にすらならず、愛した女の関心はすでに、他者へと向いていたのだから。
 当の葵に仕返しの自覚はまったくないのだが、ひとまずこれで溜飲を下げる以外なさそうだ。

 ともあれ、妹の心にようやく “幸せになろうとする本能” が復活した。兄としては喜ばねばなるまい。その相手が、よりによって “あの男” だとしても。
 ポロポロと涙をこぼす妹へ、誰よりも素早く当然のように寄りそった男。
 決して面白いとは思えない情景なのに、思い起こすたびつい口元が緩むのは、あの隙の見せないメカ二カル人間が見せた “不格好さ” のせいだ。
 しゃくりあげる妹に肩を貸しながら、壊れものを慎重に腕の中へ囲うような仕草、不器用にぎこちなく背を撫でる手付き――あれじゃ、まるで油の切れかかったブリキの兵隊だ。
 ――黒河侑司に、あんな一面があったなんてな。

「伸悟さん、腹減った。どっか寄ってよ」
「そうだな、何が食いたい?」
「ラーメンか、焼き肉か……あー、葵んトコのハヤシライス、食いたかったなー」
「俺も葵ちゃんと約束したんだよなー、今度友達連れてお店に行くって」
「マジ? んじゃ、オレと行こーぜ! 一度でいいからあの店の “サーロインステーキ” とか食ってみたかったんだよな」
「おごらねーよ?」
「ケチぃな! 社会人だろ! そこはババーンと出しちゃったりするんじゃねーの?」
「カシコイ社会人はムダ遣いをしないんだよ。猫に小判、豚に真珠、萩に高級ステーキ、ってなー」
「どーいう意味だよっ!」

 二人のやり取りが少々騒がしいBGMのように蓮の耳を通り過ぎていく。口元がほんのり緩んでしまうのは、全く別のことを考えているからだ。
 無機質で硬質なアンドロイドのような外見を持ち、実は義理堅くて不器用な優しさを持つ誤解されやすい男。
 あの後、泣き止んだ途端に恥ずかし気な様子で狼狽うろたえる葵を、ご丁寧にアパートまで送って行ったようだ。蓮が分析する限り、あの男も妹のことを単なる部下だとは思っていない。
 だがしかし、難易度は高い男だ。傷持ちで病み上がりの妹には向いていないだろう。本来ならここで「やめておけ」と厳重に釘を刺しておくところなのだが。
 ――断固反対しきれない。それが驚きだ。

 宵闇の街道は光に溢れている。
 長く暗い地下通路は思う以上に蓮の精神を摩耗させてきたようだ。今は、目に映るあらゆる光が眩しいと感じる。
 蓮は仄かな笑みを浮かべたまま、静かにそっと瞼を閉じた。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ ご注意下さい ※
 本話において、水奈瀬蓮は伊沢尚樹の承諾は得ても、水奈瀬葵の承諾は得ていません。この場合、葵が例えば、プライバシーの侵害等で損害賠償を請求しようと民事訴訟を起こすことも可能だそうです。また、蓮は伊沢に “脅迫” 及び “強要” ともとれる台詞も吐いており、場合によっては刑法の脅迫罪もしくは強要罪に問われる可能性も、ないわけではありません。蓮はやり過ぎです。作者はこういった盗聴行為を推奨する意図は微塵もございません。ご了承ください。
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