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第1部
葵の傷と罪(傷編)
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――葵、短大二年、六月。
梅雨真っ只中の、じめじめとした雨の夜であった。
その日はバイトに入っておらず、大学から帰宅後、家で実習レポートをまとめていた。
葵が通うのは家政科食物栄養専攻で、決められたカリキュラムを習得すれば栄養士の資格も取れる学科だ。
もうすでに就職活動は本格化し、狙った就職先も内定が取れそうな好感触、と同時に資格や単位取得のために校外実習は欠かせず、その合間を縫って『敦房』でのアルバイト。
忙しい毎日であったが、目指す目的が明確であればその苦も充実したものになる。紙面に走らせるペンも快調であった。
不意に携帯が鳴り、画面を見れば伊沢尚樹の名。付き合ってもうすぐ一年になろうとする恋人からだ。
お互い忙しくてなかなか会えない時期だった。彼は社会人なのでこちらからしょっちゅう連絡するのもはばかれる。久しぶりの彼からのコンタクトに、葵は驚きつつ嬉々として携帯に出た。
「――もしもし、尚樹さん?」
ところが返事が帰ってこない。沈黙する相手に葵は首を傾げる。
そして、一呼吸後。
『……葵ちゃん、別れてほしいんだ……』
一瞬、言われたことの意味が飲み込めなかった。
「え……?」と発した葵に、伊沢は『ごめん、もう会えない……ごめん……』と繰り返し、一方的に通話は切れてしまった。
咄嗟に折り返し電話をかけるが、電源が切られているようなアナウンス。
何で、どうして、と混乱し、呆然とした。
会う機会は少なく電話やメールも減っていたが、それでもそこに別れの前兆などまったく感じられなかった。葵の就職が決まったら、二人で旅行しようと約束もしている。
自分は何か彼の気に障るようなことをしたのだろうか。
それとも、彼に何か大変なことが起きたのだろうか。
突然切り出された別れの言葉に、悲しみや憤りを感じるよりも、困惑や混乱の方が強かった。何より、電話越しに感じた彼の異変が気になって仕方ない。
居てもたってもいられず、葵は携帯をバックに投げ込み、雨が降りしきる中、マンションを飛び出す。
時刻は午後二十時過ぎ――
兄の蓮は仕事が忙しくいつも帰宅は夜二十三時近くになる。
弟の萩は最近始めたばかりのアルバイトで、あと一時間は帰って来ない。
――誰も、葵が家を飛び出していったことは知らなかった。
伊沢尚樹は、葵の人生初の恋人だ。
中学、高校時代は部活に明け暮れて男っ気一つなかった葵が、初めて告白されてつき合ったのが、彼だった。
元々彼は、葵がアルバイトをする『敦房』に、時々やって来る客だった。
都内の有名百貨店の外商という部署に勤める彼は、慧徳学園周辺の高級住宅街に担当顧客がいて、週に何度か近隣を回っており、時間がある時は、食事休憩がてら『敦房』に寄っていた。
親しく話すようになったのは葵が短大一年の八月、夏休み。
学校がないので、毎日のようにランチタイムから働いていた葵に、ある日、遠慮がちに気恥ずかしそうに、彼は話しかけて来た。
『――アルバイトさん……ですか?』
いつも一人で来るスーツを着た若い青年は、それから少しずつ少しずつ、葵と会話を交わすようになった。
『――短大生? 一年生か。……レポート大変でしょう?』
『――葵ちゃん、ていうの? 可愛らしい名前だね』
『――こんなに可愛いアルバイトさんがいるなら、毎日通いたくなるな』
ガタイが良く我の強い兄弟や幼なじみに囲まれて育った葵には、この細身のスーツ姿や優しく爽やかな笑顔、穏やかな口調が、とても新鮮だった。
葵より四つ年上で学生時代にテニスをしていたこと、実家は石川県にあって大学進学をきっかけに上京してきたこと、外商の仕事は難しいけれど早く一人前になるよう頑張っていること……彼が店に来る度、少しずつ彼に関する知識が増えて、いつしか葵自身も、彼の来店を心待ちにするようになった。
つき合ってほしいと言われたのは、その夏の終わり頃だ。
彼は九月から慧徳学園周辺の顧客担当を外れることになり、もう足繁く『敦房』に通うことができなくなるという。
真摯に「これからも会いたいんだ……恋人として」と言われて、葵は半ば呆然としたまま頷いた。
ただ単純に、異性に想われたことが嬉しかった。
そうして、葵と伊沢尚樹は恋人となった。
雨傘と人混みをよけながら駅に駆け込み、葵は上り電車に乗った。
伊沢尚樹の住んでいる単身者用マンションは、葵の自宅マンションの最寄り駅から四つ離れた、同じ沿線にある。
一年弱の付き合いの間、訪れたのは数回……片手で足りるほどだったが、駅から五分ほどの場所は記憶している。
先ほどの電話がどこから掛けられたのかもわからず、今自宅にいるかどうか定かではないが、いなくても帰ってくるまで待とうと思った。
電車の窓面に打ちつける雨滴を見つめながら、葵の嫌な動悸は増していく。
彼の様子がいつもと違った。
掠れて聞き取りにくい彼の声は呂律が回ってないようだった。通話が切れる直前、ガタガタンと変な音もした。
何か悪いことが起きたんじゃないか、と不安ばかりが押し寄せる。
喧嘩など一度もしたことがなく、穏やかで和やかな関係の間に何も問題などなかったはずだ。しかし、別れようと思った原因が自分にあるなら、まずは謝らなければ――
恋愛における経験値が極度に低い葵は、そこに一分の邪推も差し挟むことなく、ただ純粋に彼の真意が知りたいという思いだけで、彼の元へと向かった。
マンションに着いて、葵はタイミングよくそこの住人と共にオートロックのエントランスフロアに滑り込み、そのままエレベーターで伊沢の部屋がある五階へ上がった。
廊下を進み玄関前まで来てインターフォンを押すが、返答はない。
試しにそっとドアノブに手をかけると、玄関ドアは簡単に開いた。鍵がかかっていなかったのだ。
「尚樹さん……?」
傘を玄関外に置いて恐る恐るドアから中に入れば、ワンルームへと続く廊下は真っ暗だ。
微かに鼻を衝くアルコールの匂いに、葵は一瞬たじろぐ。
その時、部屋の奥から小さな音が聞こえた。繰り返すコール音。携帯……ではない気がする。固定電話、だろうか。
「尚樹さん……いるの……?」
音に誘われるように、手探りで進んだ葵が部屋への扉を開けると、さっきよりも濃厚なアルコール臭がムッと押し寄せた。
その時、不意に単調な音声が流れてきて葵の心臓は縮みあがりそうになった。鳴り続けていた固定電話が留守電に切り替わったらしい。ホッとする間もなく、電子音の後に続いた女性の声に、葵はさらに大きく肩を揺らした。
『――尚樹さん、カオリです。引越しの準備はどうですか? 私にもお手伝いできることがあったら言ってね。――それから、父との食事は明後日の夜になりそうなんだけれど――』
……カオリ……? 引っ越し……?
機械を通して流れてくる高めの声は、葵のまったく知らない人物。
その場で立ちつくす葵の眼の端で、黒い影がもぞりと動いた気配がして、ハッと目を凝らすと小さな唸り声がする。
ようやく暗闇に慣れてきた視界で、それが床の上に横臥した恋人の尚樹だとわかり、葵は慌てて近寄った。
「尚樹さんっ……尚樹さん、しっかりして」
部屋に充満するアルコール臭と、彼から漂うウイスキーの濃厚な臭いで、酔っ払っているのはわかった。
とにかく明かりを点けようと立ち上がりかけた時、葵の腕は思い切り引かれた。
「……葵、ちゃ……? ……葵ちゃん……」
ずるずると葵の身体に縋りつくように、伊沢はその腕を絡ませてくる。
「ちょ……っと待って……尚樹さん……っ」
「……葵ちゃん! ……葵……あ、葵っ……!」
一体どこまで酩酊しているのか、伊沢はうわ言のように葵の名を繰り返し呼んで、葵の身体を抱き締めようと縋りついてくる。
酒臭い荒い吐息が首筋をかすめ、葵は反射的に身をすくめた。
「な、尚樹さんっ……、しっかりして……今、お、お水を……」
「い、嫌だ……っ、行かないでくれ……っ、葵……葵……っ!」
「……ちょ……っ……い、いや……っ!」
伊沢の手が、葵の胸元や腹部、さらには臀部から太ももまでをも這い回り始めた。
いつもとはまるで違う恋人の様子に恐怖を覚え必死に逃れようとするが、伊沢はその身体ごと葵に圧し掛かり、酔っているにしては強靭な力で葵を抑えつけてくる。
しかも容赦なく顔や首筋に吸いついてくるので、それを避けようともがき叫ぶに叫べない。
「……葵っ……! ……は、離れたくないんだ……っ! ……葵……っ!」
「や、やめてっ! ……尚樹さんっ! ……いやぁ……っ!」
「……好きなんだ……好きなんだよ……葵……っ!」
肌蹴た服の合間から荒々しく入り込んでくる手、切羽詰まったように吐き出される言葉、押しつけられる唇、アルコールの匂い、熱く絡みつく男の身体――
それでも、葵は死に物狂いで身体をよじり、一度は伊沢の拘束から逃れた。
身体を起こし、肌蹴た胸元をかきあわせた時、伊沢は葵に再び飛びついたのだ。
「……あおいぃっっ!」
「……っ……!」
伊沢とともに床上に倒れ込んだ瞬間、葵の背中に激痛が走る。床上にあった何か――おそらくガムテープか何か――の上に、葵は思い切り倒れ込んでしまった。
固い何かに打ちつけられた衝撃に、一瞬息が止まるほどの痛み。それが、葵の抵抗する力を奪った。
「……好きだ……好きだよ……愛しているんだ……葵……葵ぃ……」
はぁはぁと荒い吐息に交じって紡がれる、擦りつけるような愛の言葉。それも葵の突っぱねる力を奪っていく。
押さえつけられた腕はもがくのをやめ、顔はそむけたまま濡れた唇を受け入れる。
――葵は、ギュッと目をきつく瞑った。
その晩、雨は降り続けた。
葵が自宅マンションに帰宅した時、まだ蓮も萩も帰っていなかったのは、不幸中の幸いであった。
そのまま風呂場へ行き、着衣したまま熱いシャワーに打たれれば、麻痺したような皮膚感覚がようやく戻ってきたように思える。
この痛みは一体、どこから来るのだろうか……
一度に色々なことが起こって、何をどう処理していいのか、この事態をどう受け止めればいいのか、まったくわからない。
ただ一つ……兄と弟には、絶対に見つかってはいけない、知られてはいけない……それだけがはっきりとした輪郭を持って頭の中に浮かんでいた。
痛みに悲鳴を上げる身体を、葵はどこかぼんやりとしたまま、長い時間をかけて洗った。
その次の日から葵は、極力普段通り過ごすことに全神経を使った。
何事もなかったように、普段通り学校へ通い、アルバイトにも行った。
あれ以来、伊沢尚樹からの連絡は一度もなかったし、葵からすることもなかった。
別れ話のことも女性からの留守電も、擦りつけられた身体も言葉も、一切考えないように心の奥深くに押し込めた。思い返すこと自体、怖かった。
蓮と萩には、何も訝しまれることはなかった。元々、三人それぞれが自分の生活に忙しく、顔を合わせる時間が少なかったせいもある。
一度だけ、萩に背中の打ち痣を見られてドキッとしたこともあったが、たいして気にした様子もなかった。遅ればせながらの反抗期を迎えていた弟は、姉のことなど構ってられなかったのだろう。この時はそれが大いに助かった。
――そんなわけで、最初に葵の異変に気づいたのは身内ではなかった。
「……葵ちゃん……具合、悪いのかい?」
そう言って心配そうに葵を覗き込んできたのは『敦房』の濱野哲矢――バイト先のオーナーシェフだ。
気遣う濱野に、葵は慌てて首を振って大丈夫だと返したが、正直体調はあまり良くなかった。
あれから二か月が経とうとしており、夏休み真っ只中であった。
葵は夏休み前に、一つの就職先から内定をもらっている。あとは卒業に向けて単位を取るべく邁進するのみ、夏休みは少しでも兄の負担を軽くするため、できるだけバイトに入ろうと決めて猛暑の中を日々『敦房』に通っていた。
だが、意気込む気持ちに反して身体が思うように動かない。
付きまとう倦怠感と、食欲不振。
梅雨が明けた途端夏空が広がり、日ごとに最高気温を更新していく猛暑の夏だった。だから、珍しく夏バテになったのだと、葵は思っていた。
最初は「ただの夏バテですよ」と言う葵の言葉に納得していた濱野夫妻だったが、なかなか治らない不調に二人は揃って首を傾げていた。いつもは嬉々として平らげる賄いも残しがちで顔色が悪い。
ある日どうしても我慢できず、葵が裏のトイレで吐いてしまったのを、濱野氏に見られた。彼が美津子に相談し、女性である美津子は瞬時に、とある疑念を持ったらしい。
「……ねぇ葵ちゃん……変なこと聞くけど……ちゃんと生理、来てる……?」
「え……?」
呆れることに、この時美津子に問われて初めて、葵は自分の身に起きているいくつかの予兆が、重大な意味を持っているかもしれないことに気づいた。
治らない胸やけ感、抜けないダルさ、そしてここ最近全くない月経……それが、あの夜の出来事と関係があるだなんて、今の今まで夢にも思っていなかった。
それほどに、あれ以来何かから逃れるように自らをさらに忙しく駆り立てて、考えないように思い出さないように極力努めてきたのだ。もしかしたら、そんな葵の不自然さも、美津子は前々から気づいていたのかもしれない。
真っ青な顔で狼狽する葵に、美津子は心配そうに訊ねた。
「……相手は……お付き合いしている彼、なのよね……?」
濱野氏も美津子も、葵に恋人がいることは知っている。今度紹介してくれよと、からかい交じりに言ってくることも何度かあった。だがその恋人が、以前ここに通っていた客であることを、葵は話していない。
「二人のことに口を出すつもりはないの。でも、葵ちゃんの身体のこととなれば話は別よ。何かあってからじゃ遅いわ。……病院へ行って診てもらいましょう?」
美津子は、葵の父が既に他界していることも、母が遠く離れた地にいることも知っていて、こういったデリケートな問題を身近に相談できる人がいないこともわかっていたようだ。
とにかく、まずは病院で診断してもらって、それからまた一緒に考えましょう、と何度も繰り返し言い諭し、どこの病院がいいかまで手早く調べてくれて、ようやく葵は頷いたのだった。
それでも、初めての経験に足はすくむ。
紹介してもらった町中の産婦人科医院へ葵が足を踏み入れたのは、それから一週間も経ってからだ。あらかじめ、市販の妊娠検査薬を使う勇気さえも持てなかった。
不安と緊張で押しつぶされそうになりながら、初めて内診なるものを受け、淡々とした口調で言い渡された妊娠の事実。渡された薄っぺらい画像に白い米粒のような命を見たが、喜びや実感はまるで湧くはずもない。
はっきりと確定された新しい命の存在に、葵の頭の中は真っ白になった。
どうしよう……妊娠だなんて。
これから、どうやって生きていけばいいのだろう。
ようやく成人したばかりの、まだ社会にも出ていない学生の自分……その身に新しい命が宿ったと知らされても、不安や恐れだけが膨らむばかりで、葵は途方に暮れた。
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