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第1部
水奈瀬蓮、雷雲垂れ込む空の下で
しおりを挟む遡ること数日――七月最初の月曜日。
週明けの打ち合わせや商品企画部との合同会議、海外送品の段取りなど、忙しく動き回っていた水奈瀬蓮のプライベート用端末に、一件のメールが届いた。
タップして文面を見るなり舌打ちが出る。同僚からの訝し気な眼差しを誤魔化しつつ、何とかキリのいい所で一旦仕事を切り上げ、蓮は各階に設けてある休憩所に滑り込んだ。
その場に誰もいないことを確認し、すぐさま電話をかけたのは、メールの送り主である青柳伸悟。
ツーコールで出た彼との、決して短くはない通話は、蓮が人知れず頭を抱えるに十分な内容であった。
――あの馬鹿め……何かやらかしそうだとは思っていたが。
とりあえず、伸悟に礼を言って通話を終えると、そこにある自販機には目もくれず、蓮は入ってきた時と同様、足早に休憩所を出る。
今日は何が何でも早く帰って、弟と話をつけなければならない。
【From】青柳伸悟
【Sub】緊急
===================
萩、確保です。
うちの6階、お得意様サロン付近にて。
説得後帰宅させました。
タイミング悪く、I氏とニアミス。
詳細は後ほど電話します。
========END========
* * * * *
「……萩。俺が言いたいことはわかっているな」
帰宅するなり非難の視線を浴びせれば、リビングのソファで不貞腐れたように缶ビールを煽る弟。きっと叱られることはわかっていたのだろう、いつもより多いビールの空き缶が、ローテーブルの上に転がっていた。
「動くな、って言っただろう? お前が出て行ったって事態は変わらないんだよ。逆に刺激することにもなりかねない。実際にお前、あそこの百貨店内で要注意人物になっているんだぞ?」
「ああ、伸悟さんに聞いたよ。でも別に構わねーし。あんな百貨店、この先行くことはない」
「お前な……ヘタしたら警察沙汰なの、わかってんのか……?」
仏頂面でビールを飲み干していく萩を見やり、蓮は深い溜息を吐いた。
話はこうだ。
その日メールをくれた青柳伸悟は現在、『御蔵屋百貨店』内にテナントで入る『SIGMA SPORTS』銀座店の店長を担っているのだが、彼は先日行われた百貨店内テナント会議にて、一件の注意喚起事項を知らされた。
――最近特選フロアをうろつく不審人物がいる。
服飾担当の部長の話によれば、歳の頃は二十歳前後の若い男性で、背が高く茶髪で全身黒づくめ、ごついローブーツを履き、ワンレンズ型のブラックサングラスまでかけているらしい。
そんな胡散臭い男が、二週間ほど前から時々特選フロア辺りで、何を買うわけでもなく見るわけでもなく、ウロウロと不審な動きを見せている。
今のところ、それ以上の目立った異常行為はないが、警戒するに越したことはなく、各テナント責任者に対し、不審人物または不審行為を見かけたらすぐさま担当部長及び警備室に連絡するように……そんな通達だった。
それを聞いた青柳伸悟の脳裏に、電光石火のごとく閃いた、とある顔馴染みの人物。
「わかりました。気をつけておきます」
にこやかに了承の意を伝えた伸悟だが、内心は冷や汗で水浸しになった心地だったらしい。
『御蔵屋百貨店』銀座支店の特選フロアと呼ばれる六階売り場は、美術品、宝飾品、ブランド時計などを置いてある高級感で塗り固められたような売り場であり、また、お得意様サロンといって、所謂VIPと呼ばれる顧客専用の別室も設置されているフロアだ。
はっきり言って、若い世代の男が足を踏み入れる売り場ではなく、もしそういった人物がうろついていたなら相当目立つうえに、不審な動きを見せれば瞬時に目をつけられる。
今のところ顔写真は出回っていないが、これ以上続くようなら防犯カメラも解析され、警備員も頻繁に上がってくるだろう。
伸悟は、まさかな、とは思いつつも、その不審人物に嫌でも思い当たる節があったので、一応注意しておくに越したことはない、と気を引き締めた……のだが。
その日伸悟は、昼食休憩から戻る途中、妙な胸騒ぎに誘われるまま、六階フロアのお得意様サロン付近をふと覗いてみた。そしてすぐにギョッと目を剥く。
――怖れていた通りの人物がそこにいるではないか。
お達し通りの風体の男――背が高く茶髪で黒づくめでごついローブーツにブラックサングラスをかけた、水奈瀬萩。
伸悟は、むしろ警備員に突きだしてやるか!と内心罵りながら忍者のごとく駆け寄り、その不審人物を有無も言わさず引っ掴んだ。そして人気のないF階段を転がるように駆け下りて、三階にある『SIGMA SPORTS』の<Staff Only>に押し込んだのだった。
その後、電話越しに聞いた伸悟の苦笑交じりな説明には、さすがに兄として陳謝の念に駆られた。
『――誰かに見られたかもしれないですけど、まぁ、追及されても適当に誤魔化しておくからこっちは心配ないですよ。……それよりメールでも伝えましたけど、タイミング悪く、ちょうどすれ違っちゃったんですよ、あの人と。……すみません、あのフロアって外商の庭みたいなもんなんです……それで、引き返すのも不自然で。……ええ、萩は、はっきり見たようです。うちの従業員、全員ネームプレートしてますしね。……あ、いえ、何も言ってませんし何もしませんでしたよ。安心して下さい。……で、向こうもこっちに気づいたようでしたけど、とにかく速攻逃げました。だから……その、余計な情報を与えたことはないと、思います……葵ちゃんと結び付くようなことは、何も。……ああ、一応それとなく探り入れときますから。……蓮さんはもう一度萩と話をして、突っ走った行動はやめるように釘を差しておいた方がいいと思いますよ……』
弟の猪突猛進な性質は今に始まったことじゃないが、それ相応の危機管理が徹底していなかったなと反省する。
……まったく、伸悟には世話になりっぱなしだ。
「もう二度とあそこには近づくな」
怒りを滲ませた低い声で言い渡せば、萩はテレビに目を向けたまま、苛々と声を荒げた。
「だから、もう行かねーよ! もともとヤツの顔を拝みに行くのが目的だったんだ。敵を知らなきゃ守るもんも守れねーだろ? 二週間通ってやっと面が割れたんだよ。もうあそこに用はない」
吐き捨てるように言い放ち、萩はリビング入り口に立ったままの蓮を振り返る。こちらを睨みつける双眸には燃え立つような怒気がある。
「ネーム見た時、信じられなかったぜ? パッと見、いかにもイイ人ですって顔してんだもんな。――ああ、蓮兄はあいつの顔、知ってるか。わざわざ名古屋まで会いに行ったんだもんなぁ? お優しい兄様があのロクデナシに一発も食らわせず逃してやったおかげで、奴はのうのうと東京に戻ってきた。何食わぬ顔で、笑いながらな!」
萩の挑発的な物言いも、蓮は冷静に受け止める。
「あの男と会った時のことは、全部説明したはずだ。当時の葵の状態も見て、葵とは会わせず事を公にもせず、このまま終わらせようと決めたんだろう? お前もそれに同意した」
「ああ、つくづくバカだったなと後悔してるさ! あん時、オレもついて行ってボッコボコにシメときゃよかったってな!」
「あの頃、お前は高校生だった。そして、お前はまだ学生だ」
「そうやって蓮兄がオレをガキ扱いして蚊帳の外に置くから悪いんだろ! いつだってオレは話を聞くだけだ! すでに終わったことをなっ! もうイヤなんだよ、何にもしないまま待つだけっつーのは!」
「だからって、短絡的な行動をしていいわけじゃない」
「じゃあ! 蓮兄は、葵に接触するかもしれないアイツをこのまま放っておけって言うのかっ? 何か嫌な予感がするんだよ! そのうち絶対葵に近づく、そんな感じがするんだって! 何で蓮兄は何もしないっ? 何でそんなに平気な顔してられるんだよっ! 葵がまたあんな状態になるかもしれないんだぞっ!」
――ボフッ!とソファの背に拳をめり込ませ、萩は怒りに満ちた眸で蓮を射抜く。
数秒間お互い睨みあった末、萩はソファを蹴るようにして立ち上がり、肩をいからせ蓮を押しのけ、リビングを出ていった。
蓮はその背を見送り深く息を吐き出すと、今まで萩が座っていたソファにドサッと身を沈めた。
ネクタイを緩めながら、まだ自分が着替えもしてないことに気づき、更なる倦怠感を覚える。
「……俺が、平気な顔……? んなわけ、ないだろうが……」
小さく吐き出した言葉は、点けっぱなしのテレビから流れる場違いな笑い声にかき消された。
* * * * *
それから十日。
仕事は相変わらず忙しく、家に帰っても弟とほとんど顔を合わせないまま、再び話をする暇も見つけられないまま、時間は無情に過ぎていく。連日うんざりするような梅雨空の天気だが、続く悪天候にげんなりする余裕もないほど、蓮はあちこち飛び回っていた。
そんな中で行われた『SIGMA SPORTS』主催の野外興行イベントが、午後になって間もなく、雨天続行不可能のため中止となる珍事が発生した。
会場となったのは都内の某スタジアム脇にある特設ブースだ。場内にはテントも張ってあり、例年ならこれくらいの雨でも続行したのだが、つい数日前にゲリラ豪雨のためJR線の一か所が停電を起こし、都内の交通機関が混乱したという騒動もあったため、イベント運営チームは大事を取って急遽中止を決定したらしい。
直接イベント運営に携わっていない蓮は、帰社した後の予定を早々に組み立てていたのだが、その時同じ部署の上司がやってきて、今日はこのまま帰宅しろ、と苦笑まじりに指示された。
先月から、休みらしい休みを一日も取っていない蓮を見かねて、のことだったのだろう。
チームリーダーであり、また各チームのまとめ役としても動く蓮は、現在部署内最大の振り幅で動いている。
「お前が休まなきゃ他のメンバーが休みづらいんだとさ」という上司の言葉に、蓮は気負った肩肘がふっと緩まる気がした。
仕事に忙殺され、プライベートでも気を抜けず、さすがに疲れていたのかもしれない。
強まる雨足の中、渋滞する街道を自宅マンションに向けてぼんやりと運転している途中、不意に妹の顔が見たくなった。
折しも今日は水曜日、妹が勤める店は水曜定休だ。天気も天気なのでアパートにいる可能性は大きい。元々、先日発覚した弟のフライング行動のあと、一度妹の様子を見に行かねばとは思っていたのだ。
あの後萩は、学校のテストやレポートなどで忙しいらしく、目立った動きはしていないようだが、あの直情型猛進傾向の強い弟のことだ、この先何を企てるかわかったものではない。
そのうち葵のアパートに泊まり込み、SPよろしく警護に当たるとも言い出しかねないのだ。
妹は不必要に他者を勘繰ったり裏を読んだりする性格ではないが、鈍感というわけでもなく、弟の突発的行動が引き金となって、水面下で動くこちらの気配に不審を抱く可能性もある……ということは、かの男の存在に気づいてしまう可能性も、否定できない。
――それとなく、予防線を張っておいた方が良さそうだ。
そう決断した蓮は、信号待ちの合間を使って妹の携帯へ電話をかけるが、留守電サービスに繋がるばかりで応答なし。
あまり携帯電話というものに依存性がなく、年中マナーモードか電源を切っている妹なので、繋がらなくてもあまり気にしない。簡潔に今からアパートに行く旨のメールを送信すると、携帯端末をホルダーに差し込み、車を発進させた。
――そうだ、久しぶりに『香苑』の点心でも買って行ってやろう。
そして、図らずもその日、蓮は十数年ぶりとも言える再会を果たす。
その名だけは妹から聞いており、懐かしさと奇縁に目を見張ったのがつい数か月前……だが、まさかここで会えるとは思わなかった。
最後にその姿を見たのは高校二年、インハイ出場予選となる高等学校水泳競技関東支部大会。
あれからずいぶん経つのに、雰囲気もだいぶ変わったのに、一目見てすぐにわかる。逸らすことなく真っ直ぐこちらを見据える、強い双眸。
先に妹を部屋の中へ帰らせて、蓮は男と対峙する。
パッと走った閃光が、辺りを一瞬青白く染めた。
激しさを増した土砂降りの雨音と空が唸るような雷鳴。
「黒河侑司……久しぶりだな。……っていっても俺のことは覚えていないか」
雨音に負けぬよう声を張って問えば、目の前の男の口元が静かに開く。
「……定埠高校の、水奈瀬蓮。……覚えている」
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