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第1部
美味なり!月会議(六月度)
しおりを挟む繊細な姿形で彩り鮮やかな料理の数々が、大きく武骨な指先によって次々と漆の重箱に詰められていく。今まで葵が見たこともないような珍しい品もいくつか並べられ、多彩な色形のそれらの美しさに、思わず感嘆のため息が漏れてしまう。
「綺麗……」
白いコック着姿の男たちが忙しく立ち回る、広い厨房内。
しかし、葵が今いるのは、『アーコレード』慧徳学園前店の厨房ではない。
ここは『櫻華亭』本店の神聖なる大厨房――いつも見慣れている自店のそれより数倍広いディシャップ台の前で、仕上げられ詰められていくいくつもの料理を、葵は今、生唾を飲み込みながら見惚れている。
いやいや、仕事をさぼっているわけではない。
仕上げられ詰められた料理を裏の本社ビル内の本会議室まで運ぶため、ここでスタンバっているのである。
「水奈瀬よぉ、オメェんとこの料理長はどーしたよ」
ガラガラとした濁声で唸るように問うてきたのは、『櫻華亭』本店料理長、国武。
大きな身体でディシャップ台一面を陣取り、広げられた重箱に向かって驚くべき素早さで、しかも配列完璧に盛り付けていく手腕は、さすがの本店料理長を担うだけある。彼は不在がちな総料理長黒河紀生に代わり、この『櫻華亭』総本山をまとめ上げている御仁なのである。
「佐々木チーフは……あ、さっき本会議室で見た時は、徳永GMとお話されてました」
「あンのやろぉめ、たまさか出てきやがったと思いきやぁ、油売ってんなぁ? ちぃっとは手伝えって言っとけぇ」
ガラ悪、口悪、目付き悪、の三悪要素が揃った、一見どこぞの悪役俳優か、と思うようなう風貌だが、意外にも義理人情に厚く面倒見は良い。葵から見れば会話することもおこがましいほどの大御所の一人なのだが、何故か研修期間当時より気に入られて、その後も会えばこうして気さくに話しかけてくれる。
ちなみに『アーコレード』慧徳学園前店の佐々木とは同期なのだそうだ。
「それは……サーモン、ですか?」
「おうよ。砧巻きってぇやつだ。奉書巻きとも言うがな。祝い肴として昔っからある伝統料理だ。今日は、ちーっと洋風に仕上げてある。クニタケすぺしゃるってぇとこだな。おぅ、こっちのローストは牛じゃねぇぞ? 鴨だ。それも極上の鴨肉だ。こんなの使ってんだから『紫櫻庵』もなかなか豪勢じゃねぇか、なぁ? これにクニタケすぺっしゃるソースがありゃあ、鴨嫌いでも食えねぇ奴はいねっだろーよ」
いつにもまして饒舌な国武の、 “すぺしゃる” の独特な巻き舌が可笑しくて、葵は思わず笑ってしまう。
「ふふ、美味しそう……早く食べたいです」
「おぉぅ。しこたま食え。前に比べりゃだーいぶ肉づきがよくなってきたようだが、オメェはまだまだほっせぇぞ? ヒョロっこいと馬力が出ねっだろが、馬力がよぉ」
「……ウマのチカラほどはイラナイです……それにしても、こんなにたくさん食材が余ったんですか?」
「全部が全部じゃねぇな。あっちから来たのは大方精肉と魚介類がほとんどだ。先週まではあと二週間はかかるなんてぇ言ってたが……まぁ、和坊が頑張ったんだろうさ。あいつもどうやら腹、くくったみてぇだしなぁ。しっかし、夢中んなると昔っから、こう、だもんなぁ」
菜箸を持ったまま、両手でズイーっと視野を狭くする仕草をして見せて、国武はにやりと笑った。
「よっしゃ、これで終わりだ。持ってけぃ」
詰め終わった重箱に蓋をして、それを数個の番重に収めていく。その番重をキャリーに重ね乗せて会議室まで運ぶのだ。
葵がかなり重量のある番重を、うんとこせとキャリーに乗せている時、「手伝うよ」と声がかかった。振り向けば、『アーコレード』恵比寿店の店長、ニコニコ顔の諸岡だ。
「会議室のセッティングは大丈夫なんですか?」
「うん、もうほぼ終わった。牧野さんがさ、若手を顎で使って凄かったよ。みんな怯えちゃって」
ブル、と震える仕草でおどけて諸岡は笑う。葵にもその場面が容易に想像できて一緒に笑った。
「おぉ? 諸岡ぁ! 久しぶりじゃねぇか。相っ変わらずヒョロヒョロしやがって。ちゃんとメシ食ってんのかぁ?」
突然割り込んできた濁声に、諸岡のニコ顔が引きつる。
「お、お久しぶりです、国武チーフ……」
「オメェんとこの料理長はどーしたよ! ったく、どいつもこいつも、ちっとは手伝えって――」
「自分、ここにいまっす!」
国武の背後から、慌てて挙手したのは『アーコレード』恵比寿店のチーフだ。
「お、そっか、いたか。よぉしっ、とっとと片付けろやぁ! 食いっぱぐれるぞ!」
大将のかけ声に、厨房内で作業していた十数人のコックが「ェーイ!」と各々声を上げて応える。
葵と諸岡は顔を見合わせて、お互い吹き出すのを堪えつつ、番重を丁重にキャリーへと乗せていった。
* * * * *
今日は六月度月定例会議の日である。
いよいよ洋風割烹『紫櫻庵』のオープンが間近に迫り、主としてプレオープンのレセプションに関する詳細が午前の総会議で話し合われた。いつもなら、午前の部が終わり次第、昼食含む休憩時間となって一旦解散するのだが、今日は少々違っている。総会議の最後に徳永GMから皆へ通達されたのだ――今日の昼食は本部から出る、と。
何でも、連日行われていた『紫櫻庵』の料理試作において、予定よりもかなり早めに目処がついたらしく、そのために発注していた食材が余ったらしい。
賞味期限や消費期限があるものは無駄になるので、それならば、と『櫻華亭』本店の国武チーフを中心に各店舗のチーフやサブたちが朝早くから本店に集まり、余ったその食材で即席料理を作ってくれたということだ。
このような月会議での昼食提供は新メニューの試食などで何度かあったが、葵にとって、料理人たちによるメニューに載らない “即席料理” は初めてである。
「即席だそうだから期待はしないように」という徳永GMの言葉で、笑いと期待に満ちた視線が交わされる中、葵も心中「やったー」と万歳したのであった。
本店の裏口から本社ビルへの連絡通路をとおり、裏の通用口にある第二エレベーターを待つ間、諸岡はふぅ、と一息ついて抱えていた番重を下ろす。
彼が手ずから持つその番重には、料理の詰まった重箱ではなく、ドミソースや “クニタケすぺしゃるソース” のソースポット、レードルなどが入っている。キャリーに積むと中身がこぼれそうなため、諸岡が手で持って運ぶことになったのだ。
「重いですか? 代わりましょうか?」
キャリーを押していた葵が申し出ると、諸岡は「大丈夫だよ」と笑って首を振る。
「重くはないんだけどね、ソースポットが中で倒れないか心配。こぼしたりしたら国武チーフに何されるか……考えるだけでも恐ろしい」
葵は先ほどの会話を思い出して、ふふと笑った。
「また言われてましたね、諸岡さん。ヒョロヒョロしてるって」
「会うたんびに言われるんだもんなー。これでもそこそこ体重あるんだけど。はい、お先どーぞ」
二人はやってきたエレベーターに乗り込んで、本会議室がある三階のボタンを押す。
「諸岡さんは肩が張ってないから細く見えるんですよ。水泳、どうですか? 肩使うからいい筋肉つきますよー」
先週実家に帰ったついでに、葵はアオヤギ・スイミングにお邪魔してひと泳ぎしてきた。あの爽快な水の感触を思い出しつつ、葵がぐるぐると肩を回してみせると、諸岡は笑い顔をしかめて「遠慮しとくよ」と言う。
「俺は根っからの文化系人間なんです。水泳なんて高校生以来一度もやってないからね、二十五メートル泳いだだけでゼーハー言うはず」
「すぐ慣れますよ? 水泳は足腰に負担が少ないから、少々無理しても仕事に支障は出ませんし……あ、すみません。ありがとうございます」
開いた扉に、諸岡が先に出て番重を下におろし、キャリーを軽く引っ張ってくれる。
カラカラカラ……とキャリーの音を小さく響かせながら、二人は会議室への廊下をゆっくり進んだ。
「仕事に支障……って、どれだけ泳がせようとするわけ? キミの体力と一緒にしないでね」
「最初はそんなにたくさん泳がなくてもいいんです。続ければ千とか千五百くらいならすぐ泳げるようになります。私も先週久々だったけど二千泳ぎましたし」
「バケモノだね」
「……ニコニコしながらひどいこと言わないでください……あのですね、今時、高校生だってインハイ出場校なら一日五千メートルは下らない練習をしているんですよ? オリンピック選手の中には、一日三十キロ泳ぐ選手だっているんですから」
「はぁ? 三十キロって……二十五メートルプール何往復だよ……」
呆れたように首を振る諸岡に、確かに三十キロは度を越してますけどね、と笑いつつも一方で、それほど泳げたらどんなに気持ちいいだろう、と思う。
水泳にだって、ランナーズ・ハイならぬ、スイマーズ・ハイ、というのがあるのだ。
葵はあまりはっきりと感じたことはないが、兄の蓮は調子のいい時、よくそんな状態になっていたらしい。
……と、そこで何故か、脳裏に映った兄の姿がするりと現上司の姿に映り変わる。
いかにも泳ぎ込んでいそうな、あの体躯。
――……どれくらい泳げるんだろ……三千くらいは余裕かな……でも……最近はきっと、泳いでないよね……あの忙しさじゃ……
葵はぼんやりと思いを巡らす。……が、突然バチッと、鋭い痛みが額ではじけた。
「――っぅ……イッタイ、ですっ! 何でデコピンなんですかっ!」
おでこをさすり諸岡へ抗議すれば、「デコ出してるのが悪い」と、目を細めてうそぶく。
「いいね、その髪型。チョンマゲ?」
「チョンマゲじゃありません! ちょっとピンで止めてるだけじゃないですか! 変ですかっ? おかしいんですかっ?」
「いや、変とは言ってな――」
「――おーふたーりさーん。廊下の真ん中で、何じゃれ合ってんのー?」
不意に背後から聞き覚えのある間延びした声。
振り返るとそこには久しぶりに会う杉浦崇宏……だけじゃない。背後に連なる他三名のマネージャーたち……もちろん黒河侑司の姿も。
「……ぅっ」
何故か諸岡が小さな声で呻き、杉浦がにんまり笑って言った。
「あららー? アオーイちゃーん? おでこが赤ーくなってるよ? どーしたのかなー?」
「え? あ?」
葵が痛みの余韻を手で探れば、「お、俺、先行きまーす」と、諸岡がその場から逃げるようにそそくさと立ち去っていく。
鶴岡と西條が仕事の話を続けながら会議室に向かい、その後に侑司が続く。杉浦と葵がその場に残された。
「自業自得だねー」という杉浦の面白げな声。
「……え?」
「いやいやこっちの話。さ、行こっかー。みんなお腹空かせて待ってるよー?」
杉浦に促されて、慌てて葵はキャリーを押し直した。
無表情のまま、葵と目を合わせることなく追い越していった、黒河侑司の後姿をちょっぴり気にしながら。
* * * * *
――そろそろと伸ばした菜箸の先が、鴨のローストに届く。
「……で、その後始末をぜ~んぶ、私に押しつけるわけ。忙しいのはわかるけど、自分の尻ぐらい自分で拭け!って感じでしょ?」
段々と語調が鋭くなっていく、目の前の先輩。
それをわかっているのかいないのか、背後からの軽~い謝罪。
「だーからゴメンってー。ハルミちゃーん、そんなに怒るとシワ増えるよー?」
――ピキンッ、と空気にヒビが入る。
菜箸で掴んだ鴨のローストが重箱の上にポトリと落ちた。
「……だぁれが怒らせてんですかねぇー、杉浦くん?」
「あ、俺かなー……あはは、は……」
杉浦をもビビらせる地を這うような声音。
再び菜箸で掴み直した鴨のローストが、小さく震える。
「大体、何で恵比寿とうちの分を間違えるの? 数も日付も発注額もまったく違うのにPC入力した時点で気づかないって、どんだけって話よ。黒河マネージャーが気づいてくれたからいいものの、あのままもし誰も気づかなかったらうちの企画は丸つぶれじゃない。元凶の誰かさんは詫びの電話一本で全部丸投げ、以後まったくの音信不通……おかげでこっちは三日三晩ラッピング三昧……」
嘆く牧野昭美女史に同情の眼差しをちらりと向ければ、彼女は手にした炭火手炒り最高級ほうじ茶を、惜しげもなくぐびぐびと飲み干していく。
「……お茶に酒入れたの誰」
「……私じゃないし」
葵の隣では、諸岡と『櫻華亭』麻布店の大久保恵梨が、顔を寄せ合いコソコソ呟いている。葵は居たたまれない心地ながらも、ようやく鴨のローストを自分の小皿に取り分けることに成功し、いよいよもってパクリと口に入れた。
――おお! 美味しーい柔らかーい! 何だろうこのソース……玉ネギ……エシャロットかな……合う! ものすごーく、肉に、合う! 国武さん、さすが!
“クニタケすぺしゃるソース” は、さすが “すぺしゃる” なだけあって、しっかりしたコクとさっぱりした酸味が絶妙な匙加減で、鴨肉との相性も文句なしの美味しさだった。
しかし、感動したのも束の間に、葵の背後からまたもや火に油を注ぐ男、杉浦崇宏。
「悪かったってー。あ、そー言えばさー、大事な奥様を三日間もハリツケにしちゃったんだからさっきマッキーにも謝ったんだけどさー、マッキー、すっげーやつれてんのー。和史が『紫櫻庵』行っちゃっていないから、最近麻布店は大変なんだってさー、ね、エリちゃーん?」
振られた大久保恵梨は、何で私に振るんだ!とばかりに、頬をヒクつかせる。
杉浦は、牧野女史の夫がいる若手コック連中が固まる一角をちらりと見やって、ニヤニヤと笑いながら手にしたフォークを牧野女史に向けた。
「ハルミちゃーん、ちゃんと労わってあげなよー? 年上女房の醍醐味じゃーん?」
周りの冷や汗も、牧野のこめかみに浮き出る青筋さえもどこ吹く風、杉浦はケラケラ笑いながら牧野に向けたフォークを意味ありげにくるくる回している。
ダンッッ!と勢いよくテーブルに置かれた湯呑。葵を含めた周囲の人間は、ビクッと肩を揺らす。
「私の帰宅権利を奪うアンタに言われたくないわよっ! ――ぇえい! そのフォークで人を指し示すのは止めなさい! 行儀が悪い!」
「えー、そーなのー?」
白々しい態度で、まるでわざと牧野の怒りを煽っているような杉浦は、全く反省の色がない。
この二人の歯に衣着せぬ応酬は、今まで何度も見てきて珍しいことではないが、何故か今日はいつも以上にヒートアップしている気がする。
牧野女史にとって杉浦は年下であるが、立場上上司にあたるので、丁々発止のやり取りはあってもここまで暴言を吐くことは滅多にない。だが、例の発注ミスの件のこともあり、さらにここ最近の、『紫櫻庵』オープンにまつわる人員不足の煽りを喰らっていることもあって、彼女の溜まりに溜まった鬱憤がとうとう破裂したのであろう。
しかし、何故にこの位置でやり合うのか……葵は非常に居心地が悪く身体を縮こませる。
――私、席移った方がいいかな……
葵たち『アーコレード』メンバーがいる連卓の向かいには『プルナス』の店長二人がいるのだが、そこへ何故か、杉浦と侑司が当然のように入り込み、同席しているのだ。
そして、葵とちょうど背中合わせに侑司が座り、侑司の向かいに杉浦が座っているので、葵の目の前に座る牧野と杉浦がやり合うと、自然、葵と侑司を挟むこととなる。
自分の前と後ろでやり合う牧野と杉浦に挟まれて、葵はせっかくの美味しい料理を真剣に味わいたいのに、なかなか集中できない。
ちらりと背後を窺えば、こちらに広い背中を向ける黒河侑司。
我関せずで食事を続ける侑司の後ろ姿に、葵は諦めて前へ向き直るしかない。ハフと小さく息を吐いてそれとなく周囲に視線を巡らせた。
会議室内は、加熱する杉浦VS牧野女史の攻防をさほど気にかける様子もなく、それぞれのグループで食事を進めながら会話が弾んでいるようだ。会議用フラップテーブルを数台ずつくっつけて大きな連卓をいくつか作ってあり、席が決められたわけでもないのに何となくグループ分けされているのが興味深い。
国武や佐々木たちがいる大御所チームに、徳永GMと鶴岡、西條マネージャーの三人が加わり会話が盛り上がっている。……若手なら近寄りたくない一角だ。
中央に固まっているのが『櫻華亭』の若手アテンドやコックたち。店舗関係なく入り混じりあちらもずいぶん賑やかである。
ただ、『櫻華亭』のホテル店舗――赤坂、日比谷、汐留のメンバーだけが、孤立するように離れた場所で連卓を囲んでいるのが少々不自然か。
「あ」
巡らせた目線がふと合ったのは、そのホテル店舗メンバーの中の若い女性――葵が小さく会釈すれば、その相手も同じように返してくれた。
彼女は『グランド・シングラー赤坂』の木戸穂菜美、今月からアテンドに昇格し会議初出席となる新顔だ。葵よりも二つ年上らしい。
葵としては、会議出席メンバーの中に数少ない女性が増えたとなれば、こんなに心強いことはなく、しかも年も近いとあれば、ぜひ交流を深めたいところなのだが……
「……ったくもうっ! 葵ちゃん! 慧徳はとばっちり被ってない? 外注とか企画申請あたりが怪しいわよ。もちろん、杉浦くんが、やったやつね。何か不備があったら、すぐに黒河マネージャーに報告しなさい。私でもいいわ、私から徳永さんに……いぃや、統括に、洗いざらいぶちまけてやるからっ!」
「ちょっと、ハルミちゃん! 余計なことアオイちゃんに吹き込まないでくれる?」
「余計なことではございません。絶対不可欠最重要必須事項です」
「ハルミちゃん、アオイちゃんは優し~いから、俺の些細なミスぐらい黙ってカバーしてくれるんだよ?」
「悪かったですね! 優しくなくてっ」
「あははー、優しいハルミちゃんがいたら、絶滅危惧種珍獣指定だねー」
「はいその口縫い合わせる決定っ!」
なかなか終わりそうもないバトルに、周りはもう “触らぬ神に祟りなし” 状態だ。葵だって祟られたくはない。
「――水奈瀬、そっちにこれ、揚げ物あるか?」
不意に背後から低い声で呼びかけられて振り向くと、侑司が重箱を一つ指している。料理が詰められた重箱は適当に配ったので、テーブルによって中身が違うものもある。
「えーと、それはないです」
「じゃあ、あれ……海老入ったやつと交換して」
「あ、はい。これソースも付いてます。……白飯、足りてますか?」
「ああ、こっちはいい。あっちのテーブルに味噌汁もあるらしいぞ」
「ホントですか? あ、取ってきましょうか?」
「俺は――」
「ふ~ん、なぁ~んか、いい感じ、だねぇ?」
突然割り込んだ声に、葵と侑司の会話が止まった。
ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべた杉浦が、葵と侑司交互に視線を送る。
「いやー、俺は嬉しいよー。俺がいなくなってアオイちゃんが寂しがってるんじゃないかなーって毎日毎日心配していたんだけどさー、こうしてユージと仲睦まじくコミュニケーションを取り合うようになっていて、こう、肩の荷が下りたって言うのー? 心おきなく二人に任せておけるって言うかさー、いやまー、できればもうちょっ……と……、あ、いや……怖いよユージくん……あ! そうそう葵ちゃん! 慧徳にイタズラ電話が来てるんだって? やだね~どこのヒマ人かね~? その後どうなのー? 被害ないー?」
途中、ボソボソと聞き取りにくい呟きが入り、杉浦の言いたいことがイマイチよくわからない葵だったが、とりあえず頷いた。
「イタズラ……と言うか、無言電話なんですけれど。番号非通知で、出てすぐに切れちゃうので対処のしようもなくて。でも今のところ、その無言電話以外には特に何もないですし……」
「とりあえず、今は平均週三、四回、土日は必ずで、時間帯は夕方から夜にかけてが多いようです。自分も何回か出ましたが、声を発した途端切れる感じですね。今月は様子を見ますが、続くようなら着信拒否しようかと」
侑司の補足に、葵が「え! 固定電話で着信拒否って出来るんですか?」と、驚きの声を上げると、話を聞いていたらしい諸岡が説明してくれた。
「電話会社にそのサービスを申し込んで、自分で所定の操作が必要なんだけどね。電話機によっては出来ない場合もあるけど、慧徳で使ってるやつなら出来るんじゃないかな」
ほぉー、と感心する葵の後ろで、侑司も頷いた。
「本当はあまりそういうことをしたくないんだけどな、これ以上回数が増えるようならそうせざるを得ないだろ」
するとそこに、牧野女史も加わる。
「葵ちゃん、気をつけてね。世の中まともな人間ばっかりじゃないし、犯人の嫌がらせ対象が店自体ならまだしも、従業員狙いならやっぱり怖いから」
さっきまでの怒りはどこへやら、ずいぶん神妙な顔をしている。
「はい。でも、今のところはその無言電話だけなので。バイトの子たちにも、何かあったらすぐ報告するように言ってあります」
「そーいえば、渋谷でも何年か前、イタズラ電話騒動、ありませんでしたっけ?」
「あ? あぁー、あれねー……思い出すだけで脱力感が……」
大久保の問いかけに、牧野はげんなりした顔をし、諸岡がニコニコと説明しだした。
「俺、それ知ってる。どっかのお爺ちゃんの間違い電話だったんですよね?」
先ほどの殺伐とした雰囲気が嘘のように、『アーコレード』メンバーは和気あいあいと賑やかだ。こういうさばけた仲間意識が、大好きだと葵はいつも思う。
皆が経験の浅い葵のために、さりげなく助言しフォローしてくれる。決して押しつけがましくなく、恩を着せることもなく。そんな時心底、いい先輩たちに恵まれたなーと思うのだ。
「水奈瀬、海老」
「あ、はい!」
慌てて侑司の指さす重箱を取って手渡せば、テーブルに片肘をついた杉浦がポソリと呟いた。
「……俺が担当の時はそんなことなかったのになー。ただのイタズラだったらいいんだけど」
「……もしかしたら……」
「んー? なにさ、ユージくん」
「……いや、何でもないです」
何か言いかけながらも口を噤み、再び黙々と食べ始めた侑司に、葵は首を傾げる。
ふと、こちらを向いた杉浦と目があった。
「葵ちゃん、何かあったらさ、必ず侑司に言うんだよー?」
珍しく、杉浦の声も眼もふざけているそれじゃない。こういう時は “何か” あるのだ。
葵も至極真面目に、「はい」と頷いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 砧巻き……カツラ剥きした大根やキュウリなどで、エビやカニ、鶏肉などを巻き切り分けた料理。奉書巻きもほぼ同様。
※ 番重……蓋なしの運搬用器。パン箱、とも言われていて、一般的なのは大手パン工場が小売店へ運搬する時に、商品を詰めているプラスチック製の物。他にステンレス製、木製のものもあり、『櫻華亭』で使われているのは、何と漆塗りの物。
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