機械虫の地平

登美川ステファニイ

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碧眼の魔性

序 幼き慟哭

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 この森で最も恐るべき刃が、狂奔の波濤となって押し寄せていた。
 サーベルスタッグ。その目は赤く、最早鎮めることも出来ないほどに怒りをたぎらせていた。
 コンプレッサーの排気が鈍い咆哮のように森に響く。両顎から生えたタングステンブレードは鮮血を滴らせながら、次の餌食へと死神の鎌のように迫る。
「ああっ! 来るな! 来るなあっ!」
 トビーは這うようにして逃げる。地面に蔓延る植物に何度も足を取られ、もつれ、また転ぶ。
 その目には恐怖しかなかった。二ターフ3.6m級のサーベルスタッグでも五人程度では手に負えない。最低八人の人員と、適切な武装が必要だ。だがここにいるのは四人。いや、既に二人は事切れており、残るは二人だ。トビーと、ザリアレオス。虫狩りの二人は、死地に立たされていた。
 対するサーベルスタッグは、刃先から尾部までで四ターフ7.2mはある。超大型と言っていい個体であった。
「ひぃ、やめ――」
 トビーの声は体ごと真っ二つにされた。胸の高さで閉じられたサーベルが両腕と胴を輪切りにしたのだ。断末魔の声も上げられぬまま、その顔に恐怖を張り付けてトビーは絶命した。
 サーベルスタッグは狂っていた。かつて頭部に受けた矢が回路の一部を損傷させ、絶え間なく送られる無為の信号が人工知能を狂わせていた。そして人に傷つけられたという記憶と結びつき、抑えようのない凶悪な怒りとなって発現しているのだ。
 人を憎む。人を踏みにじる。人を殺す。人という存在を根絶やしにすることが、彼の存在理由となっていた。
「くそ……弦が……」
 トビーの最期を横目に見ながら、ザリアレオスは自分の弓の弦を張りなおしていた。小型機械虫用の弦ではサーベルスタッグの装甲を抜くことができないからだ。だが普通、機械虫を目前にして弦の張替えなどはしない。そんな余裕もない。
 それが出来たのは三人の犠牲のおかげだった。アイゼル、ナッシュ、そしてトビー。
 三人は進んで時間稼ぎの為に死んだわけではない。サーベルスタッグとこちらの位置を計算し、ザリアレオスがそうなるように仕向けたのだ。殺したも同じことだが、そうでもしなければ全員が死ぬだけだ。
 虫狩りは誰もが死の危険と共に生きている。そう割り切り、ザリアレオスは三人を犠牲にし、弦を張り替える時間を手に入れたのだ。
 弦を張り終えた。
 サーベルスタッグはトビーの体を前足で踏みつけ、刃で切り付け、原形を留めぬほどの有様にしていた。鮮血が彼の刃と銀色の装甲を染め、赤い目の光は一層強くなっていた。
「この化け物め!」
 ザリアレオスもまた右脚に傷を負っていたが、痛みに耐えて弓を引き絞る。徹甲矢じり。比較的装甲の薄い首の付け根に向かって、放つ。
 だがサーベルスタッグは刃を横なぎに払い矢を叩き落とした。大型の機械虫は知性が高く人間の攻撃を予測し回避することがある。このサーベルスタッグは狂気にその頭脳を冒されながらも、怜悧なる知性を持ち合わせたままだったのだ。
「何だとっ! くそ、なんて奴だ」
 徹甲矢じりの矢を番える。残りはこの一本と、矢筒にもう一本だけだ。二本を皆中させたとしても、このサーベルスタッグを仕留められるかは疑わしい。
「その頭にぶち込んでやる!」
 サーベルスタッグの左目の右上に、過去に受けた傷跡があった。傷の穴はふさがっているが、基部は露出したままになっている。狙うならそこしかない。
 言うは易し、だ。ザリアレオスは呼吸を止めて神経を研ぎ澄ませる。修練と経験のみが精神統一を可能にし、死の淵にあっても迷うことなく狙いをつけることができる。
 放つ。矢羽根が風を切る。そして、命中。
 サーベルスタッグが身をよじり咆哮する。頭部周辺から火花が散り、サーベルスタッグの足ががくがくと震える。効いている。
 矢はもう一本。仕留められるか? いや、やるしかない。全てはウルクスのため。
 ザリアレオスは後ろを振り向いた。
 そこには一人の少年がいた。ウルクス。十歳の少年。孤児だった彼をザリアレオスが拾い育てたのだ。四人の虫狩りの他に、この場にはもう一人この少年がいた。
 今回の狩りは、このウルクスの狩り初めの儀式のためのものだった。せいぜいが小型のオサムシでも狩って終わるはずだったものを、運悪く、この狂ったサーベルスタッグに遭遇してしまった。逃げる暇もなくアイゼルが切り裂かれ、ナッシュもまた同じ運命をたどった。そしてトビーも。残ったのは、ザリアレオスと、幼きウルクスだけとなった。
 ザリアレオスが右脚に負った傷は浅くはなかった。骨の辺りまで深く切り裂かれ、とてもウルクスを連れて逃げることはできない。
 是が非でも、あと一本の徹甲矢じりで仕留めなければならないのだ。
「来い鉄くず! 俺を見ろ! おい……やめ、やめろぉ!」
 サーベルスタッグは震える足で前に進んだ。しかしそれはザリアレオスの方ではなく、後方のウルクスへ向けてだった。
「ウルクス! 逃げろ! そいつから離れろ!」
 声を張り上げても、ウルクスは動けない。とうに腰を抜かして、その場に根が生えたように動けなくなっていた。ウルクスは呆けた顔をして、座り込むばかりだ。
「俺を殺しに来い! 死ねぇ! 虫野郎!」
 首の右側面が覗く。関節がむき出しの部位だ。ザリアレオスは起死回生の矢を射る。
 しかし――。
 矢は無情にもサーベルスタッグの装甲に当たって弾かれた。残る矢は通常の矢じりのみ。ザリアレオスは残る力を振り絞り、全ての矢を射かける。関節部に当たるものもあったが、軽い矢じりでは通らない。そして矢が尽きた。
「うおおぉぉ!」
 右脚の激痛に耐え、ザリアレオスはサーベルスタッグに殴りかかる。弓を振りかぶり、胴体に思い切り叩きつける。サーベルスタッグはこゆるぎもせず、足でザリアレオスを吹き飛ばす。
「うぅ……ウルクス」
 すぐそばにウルクスがいた。ウルクスは夢でも見ているような顔で、ザリアレオスを見つめていた。
 もう駄目だ。万策が尽きた。ザリアレオスは全てを諦めた。
「すまない、こんな事に――」
 言い終わる前に、サーベルが閉じられた。ザリアレオスの体は宙に舞い、二つになった。
「父ちゃん……」
 ウルクスの前にザリアレオスの弓が残された。血に塗れ、ぶつけた衝撃で上端が折れていた。強くたくましいザリアレオス。優しい父ちゃん。その象徴である弓が、無残な姿で転がっている。
 虫は強く、人は弱い。
 虫狩りが一番最初に教わることだ。どれほど鍛えても、武器がなければ人は虫に勝てない。武器があっても、強力な個体には勝つことは難しい。
 四人の屍と引き換えに、ウルクスはそれを学んだのだ。
 サーベルスタッグがウルクスに向かって咆哮を上げる。それは狂気を孕んだ哄笑に似た響きを持っていた。天に向けてサーベルを立て、刃先をガツガツと打ち合わせる。そして眼前のウルクスに向かい、サーベルを大きく開いた。
「撃てぇ!」
 ウルクスの背後で爆音が響く。そして、何本もの太い矢がサーベルスタッグの頭部を射貫いた。弩のものだった。
「二番、撃てぇ!」
 再度爆音が響き、さらに矢がサーベルスタッグを貫いていく。目と口を潰され、サーベルスタッグがよろめく。
「左に引き倒せ! 三番、用意! 腹を狙え!」
 大勢の人間がウルクスの周りを走る。虫狩りだった。サーベルスタッグに刺さった矢から続くロープを引き、十人ほどで引き始めた。
 弱ったサーベルスタッグは耐えきれずに倒れこむ。
「三番、撃てぇ!」
 そして横倒しになった腹部に矢が叩き込まれる。至近からの弩の威力は、サーベルスタッグの腹から背中までを貫き、その動力を完全に停止させた。
 サーベルスタッグの赤い目が光を失う。手足からも力が失われ、荒ぶる機械虫はただの鉄の塊へと成り果てた。ようやく、苦痛と狂気から解放されたのだ。
「大丈夫かお前! 怪我は?」
 虫狩りの一人がウルクスの前に座り込み問いかけた。
「みんな……死んじゃった」
「ああ……ひでえもんだ。だがお前は生きてる。みんながお前を守ってくれたんだ」
 僕だけが生き残った。
 そのことを再確認し、ようやくウルクスは泣くことができた。
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