ふたつ名の令嬢と龍の託宣【第二部公爵夫人編開始】

古堂 素央

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第5章 森の魔女と託宣の誓い

番外編 次会うときは

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「エーミール様、今日から長期休暇っすか?」
「ああ、ジークヴァルト様が旅から戻られた。祝いの言葉は直接お伝えしたくてな」
「妖精姫も人妻かぁ……公爵様、うらやましいなぁ。オレもあんな可愛い奥さん欲しい……。あっ、エーミール様、そこまで送りますって」

 だらしがない顔のニコラウスを置いて、さっさと歩き出す。近くにいた平民出の騎士たちが、すれ違いざまに薄ら笑いを浮かべてきた。

「グレーデン殿はお母様が恋しくて、おいえに里帰りですかぁ?」
「そのまま帰ってこないなんてこと、ないですよねぇ?」

 下卑げびた笑いの横を素通りする。他人をこき下ろすことでしか自分の価値を保てない、無能な奴らの戯言ざれごとだ。いちいち相手にするのも馬鹿らしい。
 大公バルバナスが率いる砦の騎士団は、平民が大多数を占めていた。貴族だからといって優遇されることはない。

(実力主義だというのなら、力を示し屈服させるまでのこと)

 リーゼロッテを神殿から奪還した時点で、すぐに抜けるつもりだった。だが尻尾を巻いて逃げ出したと言われるのもしゃくに思えて、ずるずると騎士団に在籍し続けているエーミールだ。
 粗野な騎士たちに囲まれる生活は、不快に思うことの方が正直多い。だがそんな屈強な男たちを、無様に打ち負かしたときの爽快感は悪くはなかった。任務をそつなくこなせば、周囲の評価も上がる。この任務が終わるまではと、それを幾度も繰り返し今に至っていた。

(ジークヴァルト様にはもうしばらく時間をいただけるよう願い出よう)

 足早に厩舎きゅうしゃへ向かう。まずはフーゲンベルク家に寄って、それからグレーデン家にも顔を出さないとならなかった。あの冷酷な家に帰るのは気が重い。しかし侯爵家当主である父親の招集とあっては、無視することもできはしない。

(だが公爵家に戻れば、久しぶりにエラの顔も見られる……)

 ポケットに忍ばせた包みをそっと確かめる。エラに似合いそうなネックレスを手に入れた。わざわざ買い求めた訳ではない。行商が来ていたときに、たまたま目にとまっただけだ。

「そういや、エデラー家が男爵位を王に返上したらしいっすね」
「なんだと? それは確かな話か?」
「あれ、エーミール様、知らなかったんすか? 今、貴族の間ではその噂でもちきりですよ」

 しばし呆然となった。いずれそうなるだろうと言われていたが、もっと先の話のように思っていた。無意識に服の上から包みを握りしめる。平民となった彼女に、これを渡す理由が見あたらない。

「エラが……貴族籍を抜けた……」
「ああ、そうか。それでフーゲンベルク家の家令の息子……ええと、マテアスでしたっけ? その彼と結婚したってわけっすね」

 何が「それで」なのかが分からなくて、エーミールは回らない頭でニコラウスの顔を見た。

「誰が誰と、何をしたって?」
「ですから貴族籍を抜けたエラ嬢が家令の息子と結婚を……」
「なんだと……! 貴様、ふざけるな!」
「べ、別にふざけては……」

 掴んだ胸倉を乱暴に離す。何も考えられないまま、エーミールはフーゲンベルク家へと馬を走らせた。

     ◇
「エラ様、結婚してからますます綺麗になったなぁ」
「マテアスもうまいことやったよな。くそ、なんてうらやましい」
「でもエラ様のあんなしあわせそうな姿を見ると、マテアスのこと恨めないなぁ」
「オレは賭けは一点張りだったから、マテアス様様だよ」
「ちぇ、オレもマテアスに賭けとくんだった。グレーデン様、意外と情けなかったしな」
「だから言ったんだ。グレーデン様は何より家を重んじる方だって。下位貴族のエラ様を妻に迎えるはずもないさ」
「それにしたってもっとこう、あるだろう? 次期家令とはいえ、使用人のマテアスに負けるなんて、不甲斐ないと思わないか?」
「ばっ、しぃっ! おまえたち不敬だぞっ」
「なんだよ、今グレーデン様は騎士団に行っててここにはいない……って、えええっ!?」

 振り向くとすぐそこで、鬼の形相のエーミールが立っている。負のオーラをまとわせる姿に、誰もが口を閉ざして固まった。
 そんな使用人たちをぎりと睨みつけると、エーミールは舌打ちをしてきびすを返した。その背が見えなくなると、安堵の息が一斉に漏れて出る。

「あーあ、お可哀そうに」
「あれ、相当傷ついてるぞ」
「お、オレのせいじゃないだろ」
「でもお前がとどめを刺したんじゃないか?」
「ええっそんなっ」

 それからしばらくの間、主に使用人の男たちから、哀れみの視線がエーミールへと送られるのだった。

      ◇
 苛立ちながら進む廊下で、それでもエラの姿を探す自分がいた。屋敷を巡回するときの癖のようなものだった。だが今会ったとして、一体何を言えばいいというのか。

(エラの口から結婚の真偽を確かめるか……?)

 だが一度それで失敗している上に、プライドの高いエーミールに、そんなことができるはずもない。

 山積みのリネンを乗せたワゴンを押す少女が三人、向かいからにぎやかにやってくる。耳をそばだてるまでもなく、かしましい会話が耳に届いた。

「ねぇねぇ、聞いた? エラ様、ご懐妊って話」
「え、もう? マテアス仕事が早い!」
「正式には誰も聞いてないんだけど、最近お腹に手を当てて、頻繁に気にするそぶりをしてるって話」
「ああそれ、赤ちゃんいるっぽい!」
「でしょー。侍女長になったばかりでエラ様大丈夫かな? うちらもしっかりフォローしたげないと」
「うんうん。少しでも負担減らしたげないと!」
「エラ様似の子だといいなぁ」
「ねー! マテアスに似てたら糸目になっちゃう!」
「あ、しっ! グレーデン様よ!」
「ほんとだ! 戻られてたのね」
「いいから黙って黙って……」

 少女たちは慌てて廊下の脇にけた。エーミールが通り過ぎるまで、頭を下げて礼を取る。

 平静を装って歩くので精いっぱいだった。エラが懐妊した。しかもマテアスの子をだ。誰もいなくなった場所で足を止める。動揺でおかしくなっていることを自覚しながらも、エーミールはここに来た本来の目的をどうにかこうにか思い出した。

 しかしこの精神状態のままでは、到底ジークヴァルトの前に出られそうもない。執務室に行けば、当然マテアスもそこにいる。そんな状況で、自分は平然と挨拶などできるだろうか。

 じりじりと後退し、エーミールは来た廊下を速足で戻りはじめた。

(まずはグレーデン家に顔を出すのが先だ)

 ジークヴァルトへの婚姻の祝いの品も、部屋に置いたままだった。あとで家の者に届けさせよう。そう思っていたにもかかわらず、エーミールは言い訳のように侯爵家へと向かった。

      ◇
「エーミール、聞いたぞ。アーベントロートのせがれに、いつぞやお前が連れてきた令嬢を取られたそうじゃないか。情けない奴だな。せっかく気立てのよさそうな娘だったのに」
「そうよ、あの娘と繋がりが持てれば、エデラー商会の化粧品がいつでも手に入ったのに。なんて使えない息子なのかしら」

 侯爵家に戻るなり父親と母親にそう言われ、エーミールは言葉を失った。女帝として君臨していた祖母ウルリーケがまだ存命だった時に、エラと共に家に戻ったことがある。その時のふたりの言いようは、エラを下賤げせんの者とおとしめるものだった。

「父上……母上も……なぜ今になってそんなことを……」

 さすがのエーミールも非難の声を上げずにはいられなかった。侯爵家のために自己を犠牲にするのは当然のことだ。この家で、ずっとそう育てられてきた。

「だってなぁ、カミラ」
「だってねぇ、エメリヒ」

 ふたりは仲良く目を見合わせる。

「母上は使用人を使って、オレたちの言動を逐一ちくいち報告させていたんだぞ。ちゃんとおもねる姿勢をとっておかないと、後が怖いじゃないか」
「従順なふりをして、ウルリーケお義母様にさりげなく嫌味をお見舞いするのも、なかなか大変だったのよ?」

 冷たいはずの両親は、エーミールの目の前で、ねー、と子どものように首を傾けあった。

「お義母様にもっとうまいこと取り入って、お前も好きにすればよかったのに」
「母上は昔からエーミールには甘かったからなぁ。先にひ孫の顔でも見せてしまえば、あっさり陥落かんらくしたと思うぞ? なにしろお前が生まれたとき、母上のデレっぷりといったら目も当てられないくらいだったからな」
「そんな……だからと言って、わたしはグレーデン家のためにこれからも生きなければ……」

 今さらそんなことを言われてどうしろというのか。エーミールは必死に食い下がった。

「不甲斐ない奴だな。母上が死んで支配が無くなったんだ。自分の妻になる女くらい、自分で探さないか。そんなことだからアーベントロートのせがれなどに負けるんだ」
「そうよ、エーミール。どうしてお前はこんなにも融通の利かない真面目な子に育ってしまったのかしら」
「仕方ないですよ、母上。真っすぐで嘘のつけない馬鹿正直なところが、エーミールの愛すべき美点なのですから」

 いつの間にいたのか、兄エルヴィンが壁にもたれかかっていた。ワイングラスを片手に、赤い液体をくるくるとたのしげに揺らしている。

「兄上、横になっていなくて大丈夫なのですか? それに酒など召されては、お体にさわるのでは……」

 病弱なエルヴィンは子どものころから車椅子で移動していた。それが今は、使用人の支えもなしに立っている。

「呆れた。エルヴィンの演技にも気づいていないだなんて。ほんと馬鹿な子ね」
「そこがまた可愛いではないですか。エーミール、お前はずっとそのままでいていいんだよ?」
「あ、兄上……本当にお体はどこも悪くないのですか……?」
「ああ、ずっと騙してて悪かったね。でもお婆様の目をかいくぐるのは、なかなかスリリングで楽しかったよ。さぁ、これからは思う存分自由を満喫しなくちゃ」

 いたずらなウィンクを飛ばされて、エーミールはますます呆然自失となった。

「いつまでも遊んでいないで、侯爵家を早く継いだらどうだ」
「嫌ですよ。我がいえの不正を片付けるのに、随分と協力したでしょう? 面倒くさがらず、もうしばらくは父上が矢面に立ってグレーデン家を仕切ってください」
「エルヴィンはエーミールと違って手厳しいなぁ」
「今まで社交界に出られなかった分、可愛いお嫁さん探しもしたいですから。それにしてもエーミール、エデラー嬢を逃したのは痛かったね。とても勇敢なお嬢さんだったじゃないか。エーミールが要らなかったのなら、わたしが妻に欲しかったくらいだよ」

 もはや言葉もなかった。いきなり足場を失って、ここに立てているのが不思議なくらいだ。

「今、婚約者のいない令嬢は若い子ばっかりだから、どの子を狙おうか迷ってしまうね。へリング子爵家のクラーラ嬢はあのおどおどした感じが可愛いし、カーク子爵家のブランシュ嬢はぽっちゃり加減がたまらないんだよねぇ。あとはブラル伯爵家のイザベラ嬢だな。あの気の強そうな態度は実にしつけ甲斐がありそうだ。噂のブルーメ子爵家の赤毛の令嬢にも早く会ってみたいし。正直、見た目だけだと、カロリーネ嬢がドストライクなんだけどね。さすがに男を妻に迎えるわけにもいかないしなぁ。あれ、エーミール、もう行くのかい? またいつでも可愛い顔を見せにおいでね」

 ふらふらと出ていくエーミールに、エルヴィンは悪びれない笑顔を向けた。何も返事を返さないまま、エーミールは再びフーゲンベルク家へと向かったのだった。

     ◇
「あら、グレーデン様、ご無沙汰しておりますわ」
「キュプカー嬢、なぜあなたがここに……?」

 公爵家につくなり、侯爵令嬢のヤスミン・キュプカーと出くわした。しかも子爵家跡取りであるヨハン・カークと、仲睦ましげに寄り添いながら連れ立っている。

「あ、あ、あの、エーミール様、その、わたしとヤスミン様はその……」
「ふふ、わたくしたち婚約しましたの。それを公爵様にお知らせに行ってまいりましたのよ」
「ヨハンとあなたが婚約を……?」

 思わず眉をひそめた。ヤスミンはキュプカー家のひとり娘のはずだ。婿養子を取るという話が、以前から社交界には出回っていた。しかしヨハンは子爵家を継ぐ身だ。婿養子に入れるはずもないだろう。

従弟いとこをキュプカー家の養子として迎えて、家を継いでもらうことになりましたの。その上で、縁故のご令嬢にお嫁に来ていただくことに。その方も優秀な方と聞いておりますし、ふたりで家を切り盛りしてもらえれば、キュプカー領も安泰ですわ」
「いや、だがあなたはキュプカー侯爵の唯一の子供だ。家を継ぐ義務があるのでは……」
「あら、グレーデン様は随分と古い考えをお持ちですのね。従弟だってキュプカー家の血筋の人間ですわ。わたくしが継がなくたって、何も問題ございませんでしょう? ね、ヨハン」
「あ、いや、その、オレもヤスミン嬢をつ、妻に迎えられるなど、まだ夢のようで……」
「もう、ヨハンったら。わたくしのことはヤスミンと呼んでと言ったでしょう?」
「そ、そうか、ヤスミン……それでだな、その、さっきから君の胸がお、オレの腕に当たっているんだが……」

 真っ赤になってわちゃわちゃとしているヨハンの腕に、ヤスミンがさらに胸を押し当てるようにしがみついた。

「ふふ、そんなの、わざとに決まっていてよ?」
「わっわざと!?」
「ええ、わざと」
「そ、そうか、わざとなら仕方ないなっ」
「そうね、仕方ありませんわ」

 巨体をもじもじさせるヨハンに向けて、ヤスミンはうっとりとした表情を向けている。今日何度目の絶句だろうか。エーミールはこの世のすべてを呪いたい気分になった。

「ではグレーデン様、ご機嫌よう」

 仲良く乳くり合いながらふたりが遠ざかっていく。廊下の何もないところで立ち尽くす。そんなエーミールに、使用人たちが哀れみの視線を向けては通り過ぎていった。

 よろよろとした足取りで、ジークヴァルトの執務室へと向かう。
 今までしてきた自分の葛藤はなんだったのだろうか。もしかしたら、エラを手に入れる未来があったのだろうか。その答えに行きつくと、雷に打たれたかのごとくエーミールは身を震わせた。

 かっと目を見開いて、エーミールはいきなり廊下を駆け出した。非常事態でもない全力疾走に、周囲にいた者たちがひとりまたひとりと、驚き顔で道を開けていくのだった。

     ◇
「ジークヴァルト様、ご無沙汰しております」
「ああ」
「この度はリーゼロッテ様とのご婚姻、誠におめでとうございます。祝いの品は後日改めて贈らせていただきます。本日は他にやらねばならないことがあるため、手短な挨拶となることお詫び申し上げます」
「いや、構わない」
「有難きお言葉」

 ジークヴァルトに騎士の礼を取ると、エーミールは横の執務机で仕事をしていたマテアスの真正面へと足を運んだ。かと思うと、白い手袋をいきなりマテアスの顔に叩きつける。

「マテアス・アーベントロート。わたしは貴様に決闘を申し込む」
「は? 嫌でございますよ。決闘は国で禁止されております。いかにエーミール様のお申し出でも、お受けは致しかねますね」

 マテアスはあくまで冷静だ。手袋を拾えば受けて立つことになる。天然パーマの髪に引っかかった手袋を、頭を傾けて無造作に振り落とした。

「それにそのようなこと、旦那様がお許しになるはずもありません。そうでございますよね、旦那様」
「ジークヴァルト様、お願いいたします。どうかマテアスとの決闘の許可を」

 同時に返答を迫られて、ジークヴァルトは無表情のまましばし沈黙を保った。

「……ああ、許す。死なない程度になら構わない」
「旦那様ぁ!?」
「寛大なご決断、感謝いたします」

 がたっと乱暴に立ち上がったマテアスと対照的に、エーミールは深々と腰を折る。

「はぁ、仕方がありませんね。なんのおつもりかは知りませんが、やるからには手加減は致しませんよ」
「望むところだ」

 しぶしぶといった様子のマテアスと共に、エーミールは訓練場へと向かった。

     ◇
 誰もギャラリーのいない広い野外の訓練場で、ふたりは睨むあうように対峙していた。午後もいい時間だ。初夏と言え、そろそろ日が傾き始める頃合いだった。

「本当に丸腰でよろしいのですか?」
「ああ」
「では、剣を選ばなかったこと、すぐにでも後悔させてさしあげます。今ならまだ帯剣しても構いませんよ?」
「無用な心配だ。いくぞ」

 エーミールとてマテアスが武術の達人なのは承知している。だが素手のマテアスに剣技で優ったとして、心から勝利をよろこぶことなどできないだろう。
 それにここ数か月、エーミールも騎士団で随分と揉まれてきた。以前にも増して、体術に自信をつけているエーミールだ。

 素早くふところに入り込んでくるマテアスの攻撃を、ギリギリのところで受け止める。幾度か組み手を取ってから、相手の力をいなすようにして、互いは再び距離を開けた。

「なかなか腕をお上げになられたようですねぇ」
「その軽口も今すぐ叩けなくしてやる」

 くいと人差し指を動かすと、マテアスはその挑発にあっさり乗ってきた。早く終わらせたいという態度が見え見えだ。

 頬をかすめた拳を避けて、カウンターでマテアスの腹を狙う。無駄のない動きでそれをかわされると、逆に脇腹に一発叩き込まれた。うめき声をあげながら、負けじとマテアスの顔面に拳を炸裂させる。

「マテアス! エラを不幸にしたら絶対に許さない……!」
「そんなこと、あなた様に言われずとも、全力で彼女をしあわせにいたしますよ! それにひとの妻の名を、気安く呼び捨てないでいただけますかっ」

 夕暮れが迫る中、勝負はなかなかつかなかった。互いに一歩も引かない状態で、ふたりは延々と殴り合う。

「その言葉に偽りはないんだな! でなければわたしはいつでも彼女を奪い取りに行く!」
「何を今さら! 幾度もあなた様を擁護ようごしてさしあげたのに」
「そんなことを貴様に頼んだ覚えはない!」
「わたしは自分でなくても良かったんですよ! エラがしあわせになるのなら、彼女があなた様の手を取ったとしてもね! あんなに有利な立場でいながら、勝手に自滅していったのはあなた様自身でしょう!?」
「な――……っ!」

 二の句を告げずに固まったエーミールの顔に、マテアスの拳がめり込んだ。一瞬遅れたエーミールの拳も、マテアスの頬にヒットする。
 クロスカウンターが決まったまま、ふたりはへろへろとその場にへたり込んだ。抱き合うように互いを支え、膝がついた段階で突き飛ばすように地面に転がった。

 大の字に背を預けて、上がった息でこれ以上言葉も出てこない。腫れあがった顔面には血と汗がにじみ、双方目も当てられないありさまだ。

 そんな中、先に立ち上がったのはマテアスだった。脇に避けていた上着をすくい上げ、エーミールに背を向ける。

「これで気はお済みになられましたか? 今後一切、エラにおかしなちょっかいは出さないでいただきますからね」

 それだけ言い残すと、マテアスはこの場を立ち去っていく。広い訓練場でひとりあお向けたまま、エーミールはそれを黙って見送った。

 ――過ぎてしまったことは、もう元には戻らない

 ポケットから、ぐしゃぐしゃになった包みを取り出した。まるで自分の人生のようだ。中身は高価な装飾だとしても、張りぼてはこんなにもズタボロだ。
 無造作に、エーミールは包みごと遠くに放り投げた。それなりに値が張ったものだったが、もうなんの価値もない。

 日が傾き、下からゆっくりと空が赤く染まっていく。男としての誇りだけは、せめて失いたくはなかった。

(次に会うときは、エラの目を見て話そう)

 流れるあかね雲を見上げ、胸に誓う。


 この矜持きょうじにかけて余裕の笑顔でいよう。祝いの言葉をきちんと伝えられるように。

 心から、彼女のしあわせを願えるように――

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