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第5章 森の魔女と託宣の誓い
第9話 託宣の誓い
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【前回のあらすじ】
ジークヴァルトとともにシネヴァの森に足を踏み入れたリーゼロッテ。その先で待っていたのは、森の番人を名乗る謎の青年シルヴィで。犬ぞりならぬ狼ぞりに乗せられて、雪道の中、魔女の元へと向かいます。
高齢の巫女との対面に気負うリーゼロッテ。しかし現れた可愛らしい少女がシネヴァの森の魔女と知り、驚きを隠せません。
ジークヴァルトが受けた神事は滞りなく終わり、王命で受けた託宣の神事を明日に控えるのみとなるのでした。
最後に襟のラインを整えると、ラウラと名乗った女性はやさしげに目を細めた。
「とてもお似合いです、美酒の君様」
最果ての街で三人がかりで着せられた衣裳を、ラウラは手際よく着つけてくれた。
鏡に映った姿を見やる。唇には紅が濃く引かれ、赤のアイラインが色鮮やかに目元を強調していた。いつもの自分より格段に大人びて見える。これから特別な舞台に上がるのだ。そう思うといたずらに緊張が高まった。
「では泉に向かいましょう。聖杯様は先にお待ちです。準備が整い次第、託宣の神事が執り行われる段取りとなっております」
「神事ではどんなことをするのかしら? わたくし何も知らなくて」
「その時々で内容は変わると聞いております。どうぞシンシア様のご指示通りに」
「そう……」
不安げに瞳を伏せると、ラウラは膝をついてリーゼロッテの片手を取った。
「待ちに待った神事でございましょう? 聖杯様もご一緒です。どうぞご安心してお臨みください」
「そうね。ありがとう、ラウラ」
笑みを返すと、今度はラウラが真剣な面持ちで見つめ返してくる。
「最後にひとつだけ大事なことをお伝えしておきます。神事が終わったあと、蜜月の館に入るまでは、はごろもの結びひとつ、決して聖杯様に解かせないようお気をつけください」
「ジークヴァルト様に、はごろもの結びを……?」
「ええ、そうです」
神妙に頷いたラウラに、こてんと首を傾けた。ジークヴァルトがそんなことをしてくるとは思えない。だが念のために問うてみた。
「それは狼主に食べられてしまうから?」
「ありていに言えばそういうことです。前回は聖杯様の我慢がきかず、少々面倒なことになったものですから……」
「前回の聖杯様?」
シルヴィの話ではそれはイグナーツのはずだ。自分たちと同じように、十八年前父母も神事を受けに来たらしかった。
「そのときは、その、誰も食べられたりはしなかったの?」
「はい、幸い。美酒の君様がたいへん果敢な方でいらっしゃいましたので」
「まあ、母様が……?」
父イグナーツではなく、母親のマルグリットが狼と戦ったという事だろうか。どのみちふたりが食べられてしまっていたら、自分がこの世に生まれることはなかったはずだ。
「とにかくそのことだけはお気をつけください。もうお時間です。参りましょう」
ラウラに手を引かれ、リーゼロッテはジークヴァルトの待つ泉へと向かった。
◇
ラウラのあとに続いて、雪の避けられた石畳をゆっくり進む。着せられた衣裳の緑が光沢を放ち、動きとともに微細に変化していく。かさばる衣裳に気を使ってか、それは緩慢とも思える足取りだった。
(なんだか異形に転ばされていた頃のようね)
ジークヴァルトと再会するまでは、異形の者などひとつも視えなかった。その存在すらも知らなくて、どんなに気をつけても日々転びまくる自分は、ドジっ子属性だなどと思っていたくらいだ。
そんな中でも厳しいマナー教師の夫人のおかげで、随分と転ぶ回数が減ったことを思い出す。
「アルブレヒツベルガー夫人……」
もしかしたらロッテンマイヤーさんは、異形の者が視えていたのではないだろうか? そんな考えがふと浮かんだ。
「その方がどうかされたのですか?」
「いえ、少し知り合いの方を思い出していただけで」
うっかり口に出していたことに驚いて、リーゼロッテは慌てて首を振った。
「アルブレヒツベルガーというと侯爵家の方ですね」
「え? 夫人は侯爵家の方だったの……? 幼いころにお世話になったから、わたくし詳しいことは覚えてなくて。ラウラは貴族のことをよく知っているのね」
「以前、託宣の神事でその血筋の方がいらしたことがございましたから」
「神事をこなしてきた方って意外と多いのね」
「昔はもっと頻繁に執り行われていたと聞きました。さあ、泉まではもうすぐです。傾斜がきつくなっておりますので、お足元には十分お気をつけください」
下り坂をしばらく行くと、雪山の間が一気に開けた。湾曲した湖畔の先に湛えられた大きな湖。その奥に広がっているのは、果てしなく続く森の影だ。
石畳が途切れ、小粒の白い砂利の上を進んだ。先で待つジークヴァルトがこちらを振り返る。
ラウラが道を譲るように脇へとそれた。リーゼロッテはそのまま真っすぐと、青い衣装を纏うジークヴァルトを目指していった。
まだ届かない距離から、ジークヴァルトが手を差し伸べてくる。顔を見て、緊張が和らぐのが自分でも分かった。急く気を押さえて慎重に進み、ようやくその元へとたどり着く。
手を取られたまま、湖に向けて並び立った。風もない湖面が、雪の森を鏡のように映している。逆さに映った木々はグラデーションを描き、目を凝らしても水面と森の境目はよく分からない。
湖のほとりから細い桟橋がまっすぐに伸びている。橋の根元にいたシンシアが、確認するようにこちらを振り向いた。
「では始めるわ」
その言葉に頷いた。いよいよ神事が始まるのだ。王から命を受けた重要な責務に、リーゼロッテの胸は緊張で高鳴った。
シンシアが湖に向き直ると、白いローブの両手を広げ、ひと呼吸ののち開始の祝詞が告げられる。
「泉に眠りし青龍の御霊よ。古より引き継ぎし宿世の鈴を鳴らす。シネヴァの守人たる我が言霊を聞け」
りぃいん……と涼やかな音が、どこからともなく耳に届いた。近づいては遠のく鈴の音は、風に乗るように出所がつかめない。
途切れることのない音を背に、シンシアは桟橋を渡って湖の中ほどへと歩いていった。橋の先端は水面へと沈んでいて、その水際でシンシアは歩みを止める。
「神聖なる我が名において、ザスとメアの契りの赦しを今ここに希う」
シンシアは舞うようにさらに一歩を踏み出した。触れた素足の指先が、鏡の湖面に丸い波紋を広げていく。極寒の湖にいくつも波紋を落としながら、シンシアは沈むことなく水上を進んだ。重なる波紋はやがてさざ波となって、まばゆい光を放ち出す。
「綺麗……」
おとぎ話の世界に迷いこんだ気分だ。幻想的な光景を前に、リーゼロッテはただ目を奪われた。
水上にひとり立つシンシアを中心に、湖全体が光に飲まれていく。輝きが増していく中、指を重ね合わせた両手を掲げ、天に向かって言葉を紡ぐ。
「断鎖を背負う青き者、盾の穢れを祓う者、いつか果たすベき託宣の証を、改めてここに書き記す。この歌声が届いたならば、そのしるし、青龍の血潮を我が手の中に分け与えよ」
広げた腕の手首を大きく返す。その瞬間、左右の湖面が渦を作った。中心を沈ませながら、急激に水は捻じれを増していく。振り下ろされた手の動きと連動するように、ふたつの渦から光る何かが飛び出した。
瞬く星のごとく光を放つそのふた粒は、導かれるようにやがてシンシアの手の内に落ちてくる。握り込まれたその刹那、星は輝きを失った。それと同時に渦巻く水面も、緩徐に勢いを弱めていく。
桟橋を渡りシンシアはふたりの待つ湖畔へと戻ってきた。背にする湖は、再び沈黙の鏡となっている。
「青龍の赦しをここに示す。ふたりとも手をお出しなさい」
右手を差し出したジークヴァルトに倣って、リーゼロッテもシンシアに向けて手を差し伸べた。握っていた何かを、シンシアはそれぞれの手のひらに手落としてくる。
託されたのはひと粒の小さな石だった。くすんだ石を見つめ、リーゼロッテは次の指示を待つ。
「そこに力を籠めなさい」
そう言われ、これは守り石なのだとようやく気がついた。軽く握り込んだ手の中で、ジークヴァルトの石はすでに青く輝いている。慌ててリーゼロッテも両手で石を包み込んだ。慎重に、緑の力を流し込む。
そっと開いた手の中で、美しく緑を湛えた石が顔を覗かせた。ほっとするのも束の間、シンシアの声が意識を戻す。
「それを互いの耳にあて、今から言う文言を復唱なさい」
戸惑いながら見上げると、ジークヴァルトは手にした石を耳元に近づけてきた。リーゼロッテも腕を伸ばし、向かい合わせでジークヴァルトの耳へと石を掲げ持つ。
「青龍よ、我が言霊を聞け」
「「青龍よ、我が言霊を聞け」」
見つめ合ったまま、シンシアの言葉を同時に復唱していく。
「ザスとメアの、託宣の誓いの言霊を紡ぐ」
「「ザスとメアの、託宣の誓いの言霊を紡ぐ」」
「約束の定めし時を刻み」
「「約束の定めし時を刻み」」
「今ここに、証を確かに示さん」
「「今ここに、証を確かに示さん」」
その瞬間、手にした守り石が強い光を放った。同時に耳たぶに小さく痛みが走る。
「あ……」
握っていたはずの石が、ジークヴァルトの耳でピアスのように輝いていた。自分の耳たぶにも、青の波動を強く感じる。ジークヴァルトの手が空っぽなのを見て、耳にあるだろう石を無意識に指で確かめた。
その耳にジークヴァルトが指を伸ばしてくる。耳朶に触れられ、さらに青の波動が強まった。見つめ合い、リーゼロッテもジークヴァルトの耳へと手を伸ばす。
自分の耳にジークヴァルトの青が輝き、ジークヴァルトの耳に自分の緑が輝いている。まるで誓いの指輪の交換のようだ。リーゼロッテの心の奥が、ジークヴァルトへの思いで満ち溢れる。
「無事に受け入れられたようね」
はっと意識を戻す。神事のまっ最中に、ふたりの世界に浸ってしまっていた。慌ててジークヴァルトから手を引っ込めて、リーゼロッテは羞恥で顔を赤らめた。
「神事は以上よ。あとはふたりで好きになさい」
シンシアの目配せで、遠くにいたラウラが近寄ってきた。
「あの道を行けば館へとたどり着きます。わたしはひと足先に行って待っておりますので、お気をつけてお越しください」
頷いて、リーゼロッテはシンシアに向けて礼を取った。ジークヴァルトに連れられて、湖のほとりをあとにする。
「シンシア様、久方ぶりの神事でお疲れでしょう。満月期とはいえ、狼主が来たら厄介です。お早めにお戻りになった方がよろしいかと」
「そうするわ。明日からはまた吹雪きそうね。ラウラ、しばらくはあのふたりのこと、よろしく頼むわ」
「お任せください。とはいえ、託宣の番様たちです。わたしの出番はそう多くないでしょう」
「ほどほどに任せるわ」
ラウラが去っていくと、シンシアは静かに湖畔に視線を向けた。神事を終えたばかりのこの場所は、青龍の気配に満ちている。
「盾の番に星読みの末裔を選び取るなんて……それほどまで龍の血脈は、血が薄くなっているということね……」
「自分に呪いを背負わせた国を、いまだ憂いているんですか? シンシアも人がいいですね」
音もなく現れたシルヴィを、シンシアは一瞬だけ見やった。何も聞こえなかったように、すぐに背を向ける。
「待っていてください。いつか必ず、シンシアを自由にしてあげますから」
「必要ないわ」
冷たく言って、シンシアは歩き出した。
「さて、次に声が聞けるのはいつになるでしょうね」
その背中を見送って、残されたシルヴィはひとりたのしげに笑みをつくった。
◇
ラウラに言われた小路を進む。来た石畳とは違う方向だ。それでもジークヴァルトといれば不安はなかった。無事に神事を終えた安堵もあって、足取りはとても軽やかだ。
「夢のような光景でしたわね。神事があんなにも美しいものだったなんて」
「そうだな」
あの幻想的な神事の様子は、一生忘れられないと思う。一部とはいえ自分も役割を担ったのだ。今も互いの耳に輝く守り石に、なんだかくすぐったい気持ちになった。
「ザスとメアの託宣の誓い……もしかして、ザスとはヴァルト様のミドルネームなのですか?」
「ああ。龍から託宣を受けた者は、みな託宣名を持っている」
「託宣名……そうだったのですね」
貴族ならば全員が、ミドルネームを持つものだと思っていた。小さいころに自分のミドルネームはメアだとリーゼロッテは教わった。それは誰彼なく知られてはいけない大切なものだと、そう教えてくれたのは誰だったろうか。
ふと視線を感じて笑顔を返す。せっかくジークヴァルトとふたりきりなのだ。束の間のこの時間を、もっと有効に過ごさなくては。
「ジークヴァルト様のお供とは言え、神事に携われてわたくし本当にうれしいです」
「そうか」
「王命を受けなければ、こうしてヴァルト様と旅に出ることもなかったでしょうから、ハインリヒ王には本当に感謝ですわ」
弾んだ声で見上げると、ジークヴァルトはちょっとむっとした顔をした。移動中、ジークヴァルトはずっと書類仕事を続けていた。やはり自分は旅のお荷物となっているのかもしれない。
「ヴァルト様……帰りの道中はお仕事の邪魔をしないよう、わたくし気をつけますわ」
「そんなことを気にする必要はない」
「ですがわたくしのせいで、気が散ってしまいますでしょう?」
心配性のジークヴァルトは、いつだって自分を最優先にしてくれる。大切にしてくれるのはうれしいが、寄りかかり切りなのは頂けない。
「いい。帰りは執務をするつもりはない。余計な気は回すな」
「でも大丈夫なのですか?」
「ああ、急ぎの仕事などそうはないからな」
その割に今までの道中の仕事ぶりは、精力的だったように思う。だが帰りは旅を楽しむ気でいるのだ。神事を無事にこなした今、ジークヴァルトも重圧から解放されたのかもしれない。
そう思うとリーゼロッテの心は大きく弾んだ。今度こそ、ふたりで旅を満喫できるのだ。
小路を行く中、木々の向こう、遠くに屋根が見えてくる。時間を気にせずゆったり歩いているせいか、なかなか建物に近づかない。ふと歩く両脇に積もる新雪が目が入った。
「ヴァルト様……わたくし、昔からやってみたいことがありましたの」
足を止め、ふんわりとした雪の絨毯をしげしげと見やる。ジークヴァルトの手を離れ、リーゼロッテはその新雪の上に、背中から勢いよくダイブした。
「何のつもりだ」
驚いたジークヴァルトが寸でのところで抱きとめる。踏み込んだふたり分の足跡で、美しい雪化粧は台無しとなっていた。
「もう、ヴァルト様。手を出したらいけませんわ」
ぷくと頬を膨らませ、リーゼロッテは新たによさげな新雪の場所まで移動する。
「大丈夫ですから、そのまま見ていてくださいませ」
リーゼロッテは雪の布団の上に、再びえいっと大の字で背を沈ませた。今度はうまくいったようだ。満足げな顔のまま広げた両の手と足を、何度も大きくスライドさせていく。
手足の雪がかき分けられると、リーゼロッテはゆっくりと身を起こした。つけた跡を乱さないように、そうっと慎重に立ち上がる。
ジークヴァルトに手を取られ、リーゼロッテはぴょんと雪の中から脱出した。振り返ると綺麗に人型ができている。リーゼロッテひとり分の大きさだ。
「ふふふ、雪の妖精ですわ。子どものころから、ずっとやってみたかったんですの」
どや顔でジークヴァルトを見やるも、困惑顔で反応はいまいちだ。いたずら心が湧いてきて、リーゼロッテは大きな手を引っ張っていく。少し離れた新雪の前で、ジークヴァルトを向かい合わせで立ち止まらせる。
「ヴァルト様もやってみてくださいませ」
背伸びをして軽く両肩を押す。なんの抵抗もなくジークヴァルトは、雪の絨毯に真っすぐぼすんと倒れていった。
「そのまま手と足をこうですわ」
広げた手をばたばたして見せて、動かすように促した。言われるがままジークヴァルトは、長い手足で雪をかき分けていく。
「そうしたら起き上がってくださいませ。あっ、つけた跡を崩してはいけませんわよ。そうっと、そうっとですわ」
前のめりに指示を出す。リーゼロッテの指令通りに、ジークヴァルトはうまいこと雪から立ち上がった。
リーゼロッテが作った妖精の横に、大きな妖精ができ上がる。雪男のような跡を見て、おかしくて思わず吹き出した。並ぶふたりの妖精は、まるで仲良く手をつないでいるようだ。
「ヴァルト様は随分とのっぽの妖精ですわね」
「ああ」
やさしい手つきで髪の雪をはらわれて、リーゼロッテははっと我に返った。ジークヴァルトも雪まみれになっている。とても淑女の行いでないことに、今さらながらに気がついた。
「わたくしったら、子どもみたいにはしゃいでしまって……」
「問題ない。お前がたのしければそれでいい」
慈しむように言われ、ぼっと頬が赤く染まった。口下手な癖に物言いはいつもストレートだ。不意打ちをくらってばかりのリーゼロッテは、動揺を悟られないように熱い頬を手のひらで覆った。
「このままでは風邪を引く」
言うなり子供抱きに抱え上げられる。無言のまま進むジークヴァルトの腕の中、リーゼロッテはおとなしくしあわせを噛みしめた。
◇
「ではごゆっくり」
湯あみの世話をすると、ラウラは建物を出ていった。向こうの部屋でジークヴァルトが待っている。そう言われ、ウキウキ顔で廊下を進む。
扉を開けると、大きな暖炉が目に飛び込んできた。窓の外は雪が降り始め、窓ガラスに水滴が落ちている。
ジークヴァルトは何をするでもなく待っていた。こういうときは大概書類に目を通しているのに。不思議に思いつつ、待たせただろうとリーゼロッテは謝罪の言葉を口にした。
「お待たせして申し訳ございません」
「いい。問題ない」
そっけなく返されて、膝の上に乗せられる。目の前のテーブルには、ひと口サイズの料理やデザートが所狭しと並べられていた。
「腹は減ってないか?」
「そうですわね……」
美味しそうな食事を前にして、急にお腹が空いてきた。神事を終えた解放感からか、今ならたくさん食べられそうだ。視線をさまよわせていると、ジークヴァルトが料理をひとつ差し出してくる。
あーんとされて、迷いなくそれを口にした。ちょうど食べたいかもと思ったオードブルだ。もくもくと頬張る間に、並んだ料理に目を落とす。
飲み込んで落ち着いたタイミングで、別の料理が差し出された。今度もあれがいいと思った一品だ。そんなことが三度四度と続いていく。
ジークヴァルトはどれだけ自分をよく観察しているのだろうか。それをまざまざと見せつけられて、感激を通りこして半ば呆れてしまった。
(そろそろお腹いっぱいかも……)
そうなったところで、ジークヴァルトの手も止まる。実は心の中を読まれているのでは。そう思うほどの絶妙な対応ぶりだ。
「満足したか?」
「はい、とっても美味しかったですわ。ヴァルト様はお食べにならないのですか?」
「オレはいい。先ほど適当に済ませておいた」
やはり長い時間待たせていたのだろうか。食事を終えてしばしの間、部屋の中に沈黙がおりる。いつもなら髪のひとつも梳かれているところだ。どことなくジークヴァルトがよそよそしく感じて、リーゼロッテはこてんと首を傾けた。
(なんだかヴァルト様、緊張してる……?)
きつく引き結ばれた唇に、刻まれた眉間のしわもいつも以上に深かった。自分を膝に抱えた状態で、ジークヴァルトは暖炉の中の揺れる炎を見つめている。薪が爆ぜる音だけが響く中、リーゼロッテは場が和む話題を探そうとした。
「あ……」
「どうした?」
「いえ、何でもありませんわ」
ふとフルーツ盛りの中に、季節外れのビョウを見つけた。ビョウはリンゴそっくりの赤い果実だ。神殿でかじった、固くて酸っぱいビョウが思い出された。今となっては苦い思い出だが、あのビョウがこの命をつないでくれたのもまた事実だった。
「いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる……」
市井で唄われるわらべ歌を、なんとはなしに口ずさんだ。ふっと視界に大きな手が入りこむと、頬包まれジークヴァルトへと顔を向けさせられた。
青い瞳と見つめ合ったまま、長い指が頬を滑っていく。顎下まで降りてきた指先は、そこで一度動きを止めた。
くいと顎をすくわれて、少しだけ顔を上向かされる。伏し目がちのジークヴァルトの顔が、傾けられながらゆっくりと近づいてきた。
(あれ……? キス、されるのかな……?)
瞳を閉じて、間を置かずやわらかいものが唇に触れた。すぐに離れたのを感じとって、そっと瞼を開けてみる。
「――……っ!」
まだ目の前にあったジークヴァルトの顔に驚くも、うなじに回った手で逃げられない。目を見開いたまま今度は性急に口づけられた。ピントのぼやけた青い瞳に、慌てて再び目をつむる。
ちゅっちゅと何度も啄ばまれ、力が抜けるのに時間はかからなかった。体も思考も何もかもが、甘い熱にゆっくりと溶かされていく。跳ねた心臓だけは裏腹で、いつまでも鳴りやまない鼓動が耳についた。
(これが何度目のキスかしら……)
ぼんやりと今までの口づけを数えてみる。初夏の夜会での初めてのキス。執務室で交わした机越しの熱い口づけ。東宮でのキスも唐突だった。囚われの神殿では、幾度口づけただろうか。
(唇が離れないままのキスは、何回でカウントするのかな……)
世の恋人たちはどうしているのだろう。そんな考えも、やがては思考の奥底へと沈んでいった。
いつもリーゼロッテが目を回してしまうからだろうか。今日の口づけは手加減をされながら、段階を追っていくように感じられた。
「んっふ……ん」
鼻から抜ける声が恥ずかしくて、逃げようとする顔を包まれる。
(これ、いつまで続くんだろう)
いつまでも終わりを見せない口づけに、そんな疑問が湧いてくる。ふわふわとしたまま延々と口づけられて、ジークヴァルトは一向にキスをやめようとしない。
(こんなとき、いつもどうやって終わってたっけ……)
公爵家の執務室での光景が浮かんでくる。口づけられて目を回す自分。騒ぎ出す異形の者に、ひっくり返る部屋の中。そこに血相を変えたマテアスが、叫びながら止めに入るのがいつものことだ。
(ここ、異形、いない! マテアスも、いない……!)
外はしんしんと雪が降っていて、薪の爆ぜる音が時折響く。そんな静かな室内に、漏れる吐息とリップ音が、いくつもいくつも重ねられていく。
だんだんと疲れてきて、吸われ続ける唇もこのままでは腫れあがりそうな勢いだ。息も絶え絶え伺うように瞼を開く。熱のこもった瞳でジークヴァルトが、自分の顔をじっと見つめていた。
目が合った瞬間、口づけがさらに深められる。肩を押すようにシャツをつかみとるも、弱い抵抗にすらならなかった。
「ぁふっあ……」
口をつく声に、気を回すこともままならない。意識を保てなくなってきて、この調子だと気絶コース一直線だ。そんなことを思ったときに、頬を包んでいた手が、ゆっくりと下に滑り落ちていった。
「んんんっ!?」
(ヴァルト様に胸を……!)
突然のことに、一気に意識が覚醒した。薄い夜着の上、大きな手が触れている。どう考えても、偶然当たってしまいましたという触れ方ではなかった。強い意思を持って揉んでいる。そんな迷いのなさが、指の動きから伝わってきた。
「んむぅっ! んっ、うんんっ!」
塞がれたままの口からは声を出すこともできなくて、咄嗟にジークヴァルトの手を掴み取った。やめさせるように手を重ねるも、怪しい動きは止まらない。
(何? 今から? 今からなの……?)
半ばパニック状態で、リーゼロッテは必死に首を振った。この胸は、悲しいかなAカップだ。だがもっと高みをめざせる、ポテンシャルある胸なのだ。
現状、東宮で得たプロポーションにはほど遠い。いずれ迎える夫婦生活のために、旅から帰ったらバストアップに励むのだ。それをなぜ今、ジークヴァルトに揉まれているのか。
(こんなときは、そう、プレゼンよ……!)
今までの経験上、理屈さえ通っていれば、ちょっとしたことならジークヴァルトは無理強いしてこない。小胸がバレてしまう前に、なんとしても阻止しなければ。
いやいやとするうちに、ジークヴァルトの唇からなんとか逃れた。また塞がれないようにと、顔を背けて最大限横を向く。
差し出された首筋に、啄むような口づけが落ちてくる。
(プレゼン、プレゼンよ……!)
ぐるぐる回る思考の中、説得できそうな言葉を死に物狂いで探しあてた。
「ヴァルト様……こういったことは婚姻を果たしてからでないと」
そうだ、きちんと籍を入れるまでは、貴族として節度を保つべきだ。ぐうの音も出ないであろう言葉を提示して、胸を揉まれながらもリーゼロッテは勝利を確信した。
しかしジークヴァルトの動きは止まらなかった。耳元に熱い吐息を落としてくる。
「誓いならば先ほど泉で果たしただろう。問題ない。オレたちは正式に夫婦となった」
「え……?」
言われた意味を理解できなくて、リーゼロッテは一瞬抵抗を忘れた。
「ででで、ですが! 神殿で神官様に、きちんと許可をいただかないとならないですし!」
アンネマリーの厳かな結婚式を思い出して、これならどうだと必死に訴えた。
「そんなもの、欲深い神官どもが勝手に定めたことだ。問題ない。対の託宣を受けた者の婚姻は、泉での神事が真の証だ」
「ですがわたくし、心の準備が……っ!」
回避する術がなくなったことを知り、真っ白な頭でリーゼロッテは大きく叫んだ。その瞬間、ジークヴァルトの動きがぴたりと止まる。
「……そうか」
静かに言って、のしかかっていた身を起こす。触れていた手も、あっさり引き上げられた。
(た、助かった……)
放心状態で体を起こした。そんなリーゼロッテに、ジークヴァルトがぐいと顔を近づけてきた。
「ならば十ビョウやる」
「十ビョウ……?」
そう言われて頭に浮かんだのは、十個の赤いリンゴだった。いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる。次いでわらべ歌が脳内に流れ出す。
「ひゃっ」
いきなり膝をすくい上げられて、横抱きに抱え上げられた。高くなった視界に驚いて、ジークヴァルトの首にしがみつく。
大股でジークヴァルトは、隣室に足を踏み入れた。明かりのない真っ暗な部屋の中、リーゼロッテはゆっくりと仰向けのまま降ろされる。
頭にあたったやわらかな感触に、それが枕なのだと理解する。少し慣れてきた目で見まわすと、リーゼロッテが五人は眠れそうな、大きな寝台の上にいることが分かった。
スプリングがぎしりと鳴って、横たわった体が右に左に順に沈んだ。真正面を見上げると、自分をまたぐようにジークヴァルトが膝立ちをしている。
そのジークヴァルトは、上着を首から抜き取るところだった。手にした服を無造作に放り投げると、遠くで布が落ちる音がした。
隣の部屋の明かりが、ジークヴァルトの裸の上半身を照らしている。横から射す頼りない光だけが、均整の取れた筋肉の凹凸を浮かび上がらせた。
初めて見るジークヴァルトの裸体に、視線は釘付けとなった。鳩尾にある龍のあざが目にとまり、次いで肩口の傷の引きつれが目に入る。
状況が把握できなくて、リーゼロッテは肘をついて身を起こそうとした。そこを肩を押されて、枕へと頭が再び沈む。
馬乗りになったジークヴァルトが、ぐいと顔を近づけてきた。青い瞳がリーゼロッテを捉えたまま、口元に魔王の笑みを刻みこむ。
「十秒経ったぞ。覚悟はいいな?」
そう言ってジークヴァルトは、リーゼロッテに噛みつくようなキスをした。
(って、十秒って短すぎます、ヴァルト様……!)
脳内の叫びは、熱い吐息に飲み込まれていき――
その夜、ジークヴァルトとリーゼロッテは、名実ともに夫婦となった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。超特急でジークヴァルト様と夫婦になってしまったわたし。恥ずかしさのあまり顔を合わせづらいと思うわたしと違って、ジークヴァルト様は意外といつも通りの反応で……?
次回、5章第10話「常しえの蜜月」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
ジークヴァルトとともにシネヴァの森に足を踏み入れたリーゼロッテ。その先で待っていたのは、森の番人を名乗る謎の青年シルヴィで。犬ぞりならぬ狼ぞりに乗せられて、雪道の中、魔女の元へと向かいます。
高齢の巫女との対面に気負うリーゼロッテ。しかし現れた可愛らしい少女がシネヴァの森の魔女と知り、驚きを隠せません。
ジークヴァルトが受けた神事は滞りなく終わり、王命で受けた託宣の神事を明日に控えるのみとなるのでした。
最後に襟のラインを整えると、ラウラと名乗った女性はやさしげに目を細めた。
「とてもお似合いです、美酒の君様」
最果ての街で三人がかりで着せられた衣裳を、ラウラは手際よく着つけてくれた。
鏡に映った姿を見やる。唇には紅が濃く引かれ、赤のアイラインが色鮮やかに目元を強調していた。いつもの自分より格段に大人びて見える。これから特別な舞台に上がるのだ。そう思うといたずらに緊張が高まった。
「では泉に向かいましょう。聖杯様は先にお待ちです。準備が整い次第、託宣の神事が執り行われる段取りとなっております」
「神事ではどんなことをするのかしら? わたくし何も知らなくて」
「その時々で内容は変わると聞いております。どうぞシンシア様のご指示通りに」
「そう……」
不安げに瞳を伏せると、ラウラは膝をついてリーゼロッテの片手を取った。
「待ちに待った神事でございましょう? 聖杯様もご一緒です。どうぞご安心してお臨みください」
「そうね。ありがとう、ラウラ」
笑みを返すと、今度はラウラが真剣な面持ちで見つめ返してくる。
「最後にひとつだけ大事なことをお伝えしておきます。神事が終わったあと、蜜月の館に入るまでは、はごろもの結びひとつ、決して聖杯様に解かせないようお気をつけください」
「ジークヴァルト様に、はごろもの結びを……?」
「ええ、そうです」
神妙に頷いたラウラに、こてんと首を傾けた。ジークヴァルトがそんなことをしてくるとは思えない。だが念のために問うてみた。
「それは狼主に食べられてしまうから?」
「ありていに言えばそういうことです。前回は聖杯様の我慢がきかず、少々面倒なことになったものですから……」
「前回の聖杯様?」
シルヴィの話ではそれはイグナーツのはずだ。自分たちと同じように、十八年前父母も神事を受けに来たらしかった。
「そのときは、その、誰も食べられたりはしなかったの?」
「はい、幸い。美酒の君様がたいへん果敢な方でいらっしゃいましたので」
「まあ、母様が……?」
父イグナーツではなく、母親のマルグリットが狼と戦ったという事だろうか。どのみちふたりが食べられてしまっていたら、自分がこの世に生まれることはなかったはずだ。
「とにかくそのことだけはお気をつけください。もうお時間です。参りましょう」
ラウラに手を引かれ、リーゼロッテはジークヴァルトの待つ泉へと向かった。
◇
ラウラのあとに続いて、雪の避けられた石畳をゆっくり進む。着せられた衣裳の緑が光沢を放ち、動きとともに微細に変化していく。かさばる衣裳に気を使ってか、それは緩慢とも思える足取りだった。
(なんだか異形に転ばされていた頃のようね)
ジークヴァルトと再会するまでは、異形の者などひとつも視えなかった。その存在すらも知らなくて、どんなに気をつけても日々転びまくる自分は、ドジっ子属性だなどと思っていたくらいだ。
そんな中でも厳しいマナー教師の夫人のおかげで、随分と転ぶ回数が減ったことを思い出す。
「アルブレヒツベルガー夫人……」
もしかしたらロッテンマイヤーさんは、異形の者が視えていたのではないだろうか? そんな考えがふと浮かんだ。
「その方がどうかされたのですか?」
「いえ、少し知り合いの方を思い出していただけで」
うっかり口に出していたことに驚いて、リーゼロッテは慌てて首を振った。
「アルブレヒツベルガーというと侯爵家の方ですね」
「え? 夫人は侯爵家の方だったの……? 幼いころにお世話になったから、わたくし詳しいことは覚えてなくて。ラウラは貴族のことをよく知っているのね」
「以前、託宣の神事でその血筋の方がいらしたことがございましたから」
「神事をこなしてきた方って意外と多いのね」
「昔はもっと頻繁に執り行われていたと聞きました。さあ、泉まではもうすぐです。傾斜がきつくなっておりますので、お足元には十分お気をつけください」
下り坂をしばらく行くと、雪山の間が一気に開けた。湾曲した湖畔の先に湛えられた大きな湖。その奥に広がっているのは、果てしなく続く森の影だ。
石畳が途切れ、小粒の白い砂利の上を進んだ。先で待つジークヴァルトがこちらを振り返る。
ラウラが道を譲るように脇へとそれた。リーゼロッテはそのまま真っすぐと、青い衣装を纏うジークヴァルトを目指していった。
まだ届かない距離から、ジークヴァルトが手を差し伸べてくる。顔を見て、緊張が和らぐのが自分でも分かった。急く気を押さえて慎重に進み、ようやくその元へとたどり着く。
手を取られたまま、湖に向けて並び立った。風もない湖面が、雪の森を鏡のように映している。逆さに映った木々はグラデーションを描き、目を凝らしても水面と森の境目はよく分からない。
湖のほとりから細い桟橋がまっすぐに伸びている。橋の根元にいたシンシアが、確認するようにこちらを振り向いた。
「では始めるわ」
その言葉に頷いた。いよいよ神事が始まるのだ。王から命を受けた重要な責務に、リーゼロッテの胸は緊張で高鳴った。
シンシアが湖に向き直ると、白いローブの両手を広げ、ひと呼吸ののち開始の祝詞が告げられる。
「泉に眠りし青龍の御霊よ。古より引き継ぎし宿世の鈴を鳴らす。シネヴァの守人たる我が言霊を聞け」
りぃいん……と涼やかな音が、どこからともなく耳に届いた。近づいては遠のく鈴の音は、風に乗るように出所がつかめない。
途切れることのない音を背に、シンシアは桟橋を渡って湖の中ほどへと歩いていった。橋の先端は水面へと沈んでいて、その水際でシンシアは歩みを止める。
「神聖なる我が名において、ザスとメアの契りの赦しを今ここに希う」
シンシアは舞うようにさらに一歩を踏み出した。触れた素足の指先が、鏡の湖面に丸い波紋を広げていく。極寒の湖にいくつも波紋を落としながら、シンシアは沈むことなく水上を進んだ。重なる波紋はやがてさざ波となって、まばゆい光を放ち出す。
「綺麗……」
おとぎ話の世界に迷いこんだ気分だ。幻想的な光景を前に、リーゼロッテはただ目を奪われた。
水上にひとり立つシンシアを中心に、湖全体が光に飲まれていく。輝きが増していく中、指を重ね合わせた両手を掲げ、天に向かって言葉を紡ぐ。
「断鎖を背負う青き者、盾の穢れを祓う者、いつか果たすベき託宣の証を、改めてここに書き記す。この歌声が届いたならば、そのしるし、青龍の血潮を我が手の中に分け与えよ」
広げた腕の手首を大きく返す。その瞬間、左右の湖面が渦を作った。中心を沈ませながら、急激に水は捻じれを増していく。振り下ろされた手の動きと連動するように、ふたつの渦から光る何かが飛び出した。
瞬く星のごとく光を放つそのふた粒は、導かれるようにやがてシンシアの手の内に落ちてくる。握り込まれたその刹那、星は輝きを失った。それと同時に渦巻く水面も、緩徐に勢いを弱めていく。
桟橋を渡りシンシアはふたりの待つ湖畔へと戻ってきた。背にする湖は、再び沈黙の鏡となっている。
「青龍の赦しをここに示す。ふたりとも手をお出しなさい」
右手を差し出したジークヴァルトに倣って、リーゼロッテもシンシアに向けて手を差し伸べた。握っていた何かを、シンシアはそれぞれの手のひらに手落としてくる。
託されたのはひと粒の小さな石だった。くすんだ石を見つめ、リーゼロッテは次の指示を待つ。
「そこに力を籠めなさい」
そう言われ、これは守り石なのだとようやく気がついた。軽く握り込んだ手の中で、ジークヴァルトの石はすでに青く輝いている。慌ててリーゼロッテも両手で石を包み込んだ。慎重に、緑の力を流し込む。
そっと開いた手の中で、美しく緑を湛えた石が顔を覗かせた。ほっとするのも束の間、シンシアの声が意識を戻す。
「それを互いの耳にあて、今から言う文言を復唱なさい」
戸惑いながら見上げると、ジークヴァルトは手にした石を耳元に近づけてきた。リーゼロッテも腕を伸ばし、向かい合わせでジークヴァルトの耳へと石を掲げ持つ。
「青龍よ、我が言霊を聞け」
「「青龍よ、我が言霊を聞け」」
見つめ合ったまま、シンシアの言葉を同時に復唱していく。
「ザスとメアの、託宣の誓いの言霊を紡ぐ」
「「ザスとメアの、託宣の誓いの言霊を紡ぐ」」
「約束の定めし時を刻み」
「「約束の定めし時を刻み」」
「今ここに、証を確かに示さん」
「「今ここに、証を確かに示さん」」
その瞬間、手にした守り石が強い光を放った。同時に耳たぶに小さく痛みが走る。
「あ……」
握っていたはずの石が、ジークヴァルトの耳でピアスのように輝いていた。自分の耳たぶにも、青の波動を強く感じる。ジークヴァルトの手が空っぽなのを見て、耳にあるだろう石を無意識に指で確かめた。
その耳にジークヴァルトが指を伸ばしてくる。耳朶に触れられ、さらに青の波動が強まった。見つめ合い、リーゼロッテもジークヴァルトの耳へと手を伸ばす。
自分の耳にジークヴァルトの青が輝き、ジークヴァルトの耳に自分の緑が輝いている。まるで誓いの指輪の交換のようだ。リーゼロッテの心の奥が、ジークヴァルトへの思いで満ち溢れる。
「無事に受け入れられたようね」
はっと意識を戻す。神事のまっ最中に、ふたりの世界に浸ってしまっていた。慌ててジークヴァルトから手を引っ込めて、リーゼロッテは羞恥で顔を赤らめた。
「神事は以上よ。あとはふたりで好きになさい」
シンシアの目配せで、遠くにいたラウラが近寄ってきた。
「あの道を行けば館へとたどり着きます。わたしはひと足先に行って待っておりますので、お気をつけてお越しください」
頷いて、リーゼロッテはシンシアに向けて礼を取った。ジークヴァルトに連れられて、湖のほとりをあとにする。
「シンシア様、久方ぶりの神事でお疲れでしょう。満月期とはいえ、狼主が来たら厄介です。お早めにお戻りになった方がよろしいかと」
「そうするわ。明日からはまた吹雪きそうね。ラウラ、しばらくはあのふたりのこと、よろしく頼むわ」
「お任せください。とはいえ、託宣の番様たちです。わたしの出番はそう多くないでしょう」
「ほどほどに任せるわ」
ラウラが去っていくと、シンシアは静かに湖畔に視線を向けた。神事を終えたばかりのこの場所は、青龍の気配に満ちている。
「盾の番に星読みの末裔を選び取るなんて……それほどまで龍の血脈は、血が薄くなっているということね……」
「自分に呪いを背負わせた国を、いまだ憂いているんですか? シンシアも人がいいですね」
音もなく現れたシルヴィを、シンシアは一瞬だけ見やった。何も聞こえなかったように、すぐに背を向ける。
「待っていてください。いつか必ず、シンシアを自由にしてあげますから」
「必要ないわ」
冷たく言って、シンシアは歩き出した。
「さて、次に声が聞けるのはいつになるでしょうね」
その背中を見送って、残されたシルヴィはひとりたのしげに笑みをつくった。
◇
ラウラに言われた小路を進む。来た石畳とは違う方向だ。それでもジークヴァルトといれば不安はなかった。無事に神事を終えた安堵もあって、足取りはとても軽やかだ。
「夢のような光景でしたわね。神事があんなにも美しいものだったなんて」
「そうだな」
あの幻想的な神事の様子は、一生忘れられないと思う。一部とはいえ自分も役割を担ったのだ。今も互いの耳に輝く守り石に、なんだかくすぐったい気持ちになった。
「ザスとメアの託宣の誓い……もしかして、ザスとはヴァルト様のミドルネームなのですか?」
「ああ。龍から託宣を受けた者は、みな託宣名を持っている」
「託宣名……そうだったのですね」
貴族ならば全員が、ミドルネームを持つものだと思っていた。小さいころに自分のミドルネームはメアだとリーゼロッテは教わった。それは誰彼なく知られてはいけない大切なものだと、そう教えてくれたのは誰だったろうか。
ふと視線を感じて笑顔を返す。せっかくジークヴァルトとふたりきりなのだ。束の間のこの時間を、もっと有効に過ごさなくては。
「ジークヴァルト様のお供とは言え、神事に携われてわたくし本当にうれしいです」
「そうか」
「王命を受けなければ、こうしてヴァルト様と旅に出ることもなかったでしょうから、ハインリヒ王には本当に感謝ですわ」
弾んだ声で見上げると、ジークヴァルトはちょっとむっとした顔をした。移動中、ジークヴァルトはずっと書類仕事を続けていた。やはり自分は旅のお荷物となっているのかもしれない。
「ヴァルト様……帰りの道中はお仕事の邪魔をしないよう、わたくし気をつけますわ」
「そんなことを気にする必要はない」
「ですがわたくしのせいで、気が散ってしまいますでしょう?」
心配性のジークヴァルトは、いつだって自分を最優先にしてくれる。大切にしてくれるのはうれしいが、寄りかかり切りなのは頂けない。
「いい。帰りは執務をするつもりはない。余計な気は回すな」
「でも大丈夫なのですか?」
「ああ、急ぎの仕事などそうはないからな」
その割に今までの道中の仕事ぶりは、精力的だったように思う。だが帰りは旅を楽しむ気でいるのだ。神事を無事にこなした今、ジークヴァルトも重圧から解放されたのかもしれない。
そう思うとリーゼロッテの心は大きく弾んだ。今度こそ、ふたりで旅を満喫できるのだ。
小路を行く中、木々の向こう、遠くに屋根が見えてくる。時間を気にせずゆったり歩いているせいか、なかなか建物に近づかない。ふと歩く両脇に積もる新雪が目が入った。
「ヴァルト様……わたくし、昔からやってみたいことがありましたの」
足を止め、ふんわりとした雪の絨毯をしげしげと見やる。ジークヴァルトの手を離れ、リーゼロッテはその新雪の上に、背中から勢いよくダイブした。
「何のつもりだ」
驚いたジークヴァルトが寸でのところで抱きとめる。踏み込んだふたり分の足跡で、美しい雪化粧は台無しとなっていた。
「もう、ヴァルト様。手を出したらいけませんわ」
ぷくと頬を膨らませ、リーゼロッテは新たによさげな新雪の場所まで移動する。
「大丈夫ですから、そのまま見ていてくださいませ」
リーゼロッテは雪の布団の上に、再びえいっと大の字で背を沈ませた。今度はうまくいったようだ。満足げな顔のまま広げた両の手と足を、何度も大きくスライドさせていく。
手足の雪がかき分けられると、リーゼロッテはゆっくりと身を起こした。つけた跡を乱さないように、そうっと慎重に立ち上がる。
ジークヴァルトに手を取られ、リーゼロッテはぴょんと雪の中から脱出した。振り返ると綺麗に人型ができている。リーゼロッテひとり分の大きさだ。
「ふふふ、雪の妖精ですわ。子どものころから、ずっとやってみたかったんですの」
どや顔でジークヴァルトを見やるも、困惑顔で反応はいまいちだ。いたずら心が湧いてきて、リーゼロッテは大きな手を引っ張っていく。少し離れた新雪の前で、ジークヴァルトを向かい合わせで立ち止まらせる。
「ヴァルト様もやってみてくださいませ」
背伸びをして軽く両肩を押す。なんの抵抗もなくジークヴァルトは、雪の絨毯に真っすぐぼすんと倒れていった。
「そのまま手と足をこうですわ」
広げた手をばたばたして見せて、動かすように促した。言われるがままジークヴァルトは、長い手足で雪をかき分けていく。
「そうしたら起き上がってくださいませ。あっ、つけた跡を崩してはいけませんわよ。そうっと、そうっとですわ」
前のめりに指示を出す。リーゼロッテの指令通りに、ジークヴァルトはうまいこと雪から立ち上がった。
リーゼロッテが作った妖精の横に、大きな妖精ができ上がる。雪男のような跡を見て、おかしくて思わず吹き出した。並ぶふたりの妖精は、まるで仲良く手をつないでいるようだ。
「ヴァルト様は随分とのっぽの妖精ですわね」
「ああ」
やさしい手つきで髪の雪をはらわれて、リーゼロッテははっと我に返った。ジークヴァルトも雪まみれになっている。とても淑女の行いでないことに、今さらながらに気がついた。
「わたくしったら、子どもみたいにはしゃいでしまって……」
「問題ない。お前がたのしければそれでいい」
慈しむように言われ、ぼっと頬が赤く染まった。口下手な癖に物言いはいつもストレートだ。不意打ちをくらってばかりのリーゼロッテは、動揺を悟られないように熱い頬を手のひらで覆った。
「このままでは風邪を引く」
言うなり子供抱きに抱え上げられる。無言のまま進むジークヴァルトの腕の中、リーゼロッテはおとなしくしあわせを噛みしめた。
◇
「ではごゆっくり」
湯あみの世話をすると、ラウラは建物を出ていった。向こうの部屋でジークヴァルトが待っている。そう言われ、ウキウキ顔で廊下を進む。
扉を開けると、大きな暖炉が目に飛び込んできた。窓の外は雪が降り始め、窓ガラスに水滴が落ちている。
ジークヴァルトは何をするでもなく待っていた。こういうときは大概書類に目を通しているのに。不思議に思いつつ、待たせただろうとリーゼロッテは謝罪の言葉を口にした。
「お待たせして申し訳ございません」
「いい。問題ない」
そっけなく返されて、膝の上に乗せられる。目の前のテーブルには、ひと口サイズの料理やデザートが所狭しと並べられていた。
「腹は減ってないか?」
「そうですわね……」
美味しそうな食事を前にして、急にお腹が空いてきた。神事を終えた解放感からか、今ならたくさん食べられそうだ。視線をさまよわせていると、ジークヴァルトが料理をひとつ差し出してくる。
あーんとされて、迷いなくそれを口にした。ちょうど食べたいかもと思ったオードブルだ。もくもくと頬張る間に、並んだ料理に目を落とす。
飲み込んで落ち着いたタイミングで、別の料理が差し出された。今度もあれがいいと思った一品だ。そんなことが三度四度と続いていく。
ジークヴァルトはどれだけ自分をよく観察しているのだろうか。それをまざまざと見せつけられて、感激を通りこして半ば呆れてしまった。
(そろそろお腹いっぱいかも……)
そうなったところで、ジークヴァルトの手も止まる。実は心の中を読まれているのでは。そう思うほどの絶妙な対応ぶりだ。
「満足したか?」
「はい、とっても美味しかったですわ。ヴァルト様はお食べにならないのですか?」
「オレはいい。先ほど適当に済ませておいた」
やはり長い時間待たせていたのだろうか。食事を終えてしばしの間、部屋の中に沈黙がおりる。いつもなら髪のひとつも梳かれているところだ。どことなくジークヴァルトがよそよそしく感じて、リーゼロッテはこてんと首を傾けた。
(なんだかヴァルト様、緊張してる……?)
きつく引き結ばれた唇に、刻まれた眉間のしわもいつも以上に深かった。自分を膝に抱えた状態で、ジークヴァルトは暖炉の中の揺れる炎を見つめている。薪が爆ぜる音だけが響く中、リーゼロッテは場が和む話題を探そうとした。
「あ……」
「どうした?」
「いえ、何でもありませんわ」
ふとフルーツ盛りの中に、季節外れのビョウを見つけた。ビョウはリンゴそっくりの赤い果実だ。神殿でかじった、固くて酸っぱいビョウが思い出された。今となっては苦い思い出だが、あのビョウがこの命をつないでくれたのもまた事実だった。
「いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる……」
市井で唄われるわらべ歌を、なんとはなしに口ずさんだ。ふっと視界に大きな手が入りこむと、頬包まれジークヴァルトへと顔を向けさせられた。
青い瞳と見つめ合ったまま、長い指が頬を滑っていく。顎下まで降りてきた指先は、そこで一度動きを止めた。
くいと顎をすくわれて、少しだけ顔を上向かされる。伏し目がちのジークヴァルトの顔が、傾けられながらゆっくりと近づいてきた。
(あれ……? キス、されるのかな……?)
瞳を閉じて、間を置かずやわらかいものが唇に触れた。すぐに離れたのを感じとって、そっと瞼を開けてみる。
「――……っ!」
まだ目の前にあったジークヴァルトの顔に驚くも、うなじに回った手で逃げられない。目を見開いたまま今度は性急に口づけられた。ピントのぼやけた青い瞳に、慌てて再び目をつむる。
ちゅっちゅと何度も啄ばまれ、力が抜けるのに時間はかからなかった。体も思考も何もかもが、甘い熱にゆっくりと溶かされていく。跳ねた心臓だけは裏腹で、いつまでも鳴りやまない鼓動が耳についた。
(これが何度目のキスかしら……)
ぼんやりと今までの口づけを数えてみる。初夏の夜会での初めてのキス。執務室で交わした机越しの熱い口づけ。東宮でのキスも唐突だった。囚われの神殿では、幾度口づけただろうか。
(唇が離れないままのキスは、何回でカウントするのかな……)
世の恋人たちはどうしているのだろう。そんな考えも、やがては思考の奥底へと沈んでいった。
いつもリーゼロッテが目を回してしまうからだろうか。今日の口づけは手加減をされながら、段階を追っていくように感じられた。
「んっふ……ん」
鼻から抜ける声が恥ずかしくて、逃げようとする顔を包まれる。
(これ、いつまで続くんだろう)
いつまでも終わりを見せない口づけに、そんな疑問が湧いてくる。ふわふわとしたまま延々と口づけられて、ジークヴァルトは一向にキスをやめようとしない。
(こんなとき、いつもどうやって終わってたっけ……)
公爵家の執務室での光景が浮かんでくる。口づけられて目を回す自分。騒ぎ出す異形の者に、ひっくり返る部屋の中。そこに血相を変えたマテアスが、叫びながら止めに入るのがいつものことだ。
(ここ、異形、いない! マテアスも、いない……!)
外はしんしんと雪が降っていて、薪の爆ぜる音が時折響く。そんな静かな室内に、漏れる吐息とリップ音が、いくつもいくつも重ねられていく。
だんだんと疲れてきて、吸われ続ける唇もこのままでは腫れあがりそうな勢いだ。息も絶え絶え伺うように瞼を開く。熱のこもった瞳でジークヴァルトが、自分の顔をじっと見つめていた。
目が合った瞬間、口づけがさらに深められる。肩を押すようにシャツをつかみとるも、弱い抵抗にすらならなかった。
「ぁふっあ……」
口をつく声に、気を回すこともままならない。意識を保てなくなってきて、この調子だと気絶コース一直線だ。そんなことを思ったときに、頬を包んでいた手が、ゆっくりと下に滑り落ちていった。
「んんんっ!?」
(ヴァルト様に胸を……!)
突然のことに、一気に意識が覚醒した。薄い夜着の上、大きな手が触れている。どう考えても、偶然当たってしまいましたという触れ方ではなかった。強い意思を持って揉んでいる。そんな迷いのなさが、指の動きから伝わってきた。
「んむぅっ! んっ、うんんっ!」
塞がれたままの口からは声を出すこともできなくて、咄嗟にジークヴァルトの手を掴み取った。やめさせるように手を重ねるも、怪しい動きは止まらない。
(何? 今から? 今からなの……?)
半ばパニック状態で、リーゼロッテは必死に首を振った。この胸は、悲しいかなAカップだ。だがもっと高みをめざせる、ポテンシャルある胸なのだ。
現状、東宮で得たプロポーションにはほど遠い。いずれ迎える夫婦生活のために、旅から帰ったらバストアップに励むのだ。それをなぜ今、ジークヴァルトに揉まれているのか。
(こんなときは、そう、プレゼンよ……!)
今までの経験上、理屈さえ通っていれば、ちょっとしたことならジークヴァルトは無理強いしてこない。小胸がバレてしまう前に、なんとしても阻止しなければ。
いやいやとするうちに、ジークヴァルトの唇からなんとか逃れた。また塞がれないようにと、顔を背けて最大限横を向く。
差し出された首筋に、啄むような口づけが落ちてくる。
(プレゼン、プレゼンよ……!)
ぐるぐる回る思考の中、説得できそうな言葉を死に物狂いで探しあてた。
「ヴァルト様……こういったことは婚姻を果たしてからでないと」
そうだ、きちんと籍を入れるまでは、貴族として節度を保つべきだ。ぐうの音も出ないであろう言葉を提示して、胸を揉まれながらもリーゼロッテは勝利を確信した。
しかしジークヴァルトの動きは止まらなかった。耳元に熱い吐息を落としてくる。
「誓いならば先ほど泉で果たしただろう。問題ない。オレたちは正式に夫婦となった」
「え……?」
言われた意味を理解できなくて、リーゼロッテは一瞬抵抗を忘れた。
「ででで、ですが! 神殿で神官様に、きちんと許可をいただかないとならないですし!」
アンネマリーの厳かな結婚式を思い出して、これならどうだと必死に訴えた。
「そんなもの、欲深い神官どもが勝手に定めたことだ。問題ない。対の託宣を受けた者の婚姻は、泉での神事が真の証だ」
「ですがわたくし、心の準備が……っ!」
回避する術がなくなったことを知り、真っ白な頭でリーゼロッテは大きく叫んだ。その瞬間、ジークヴァルトの動きがぴたりと止まる。
「……そうか」
静かに言って、のしかかっていた身を起こす。触れていた手も、あっさり引き上げられた。
(た、助かった……)
放心状態で体を起こした。そんなリーゼロッテに、ジークヴァルトがぐいと顔を近づけてきた。
「ならば十ビョウやる」
「十ビョウ……?」
そう言われて頭に浮かんだのは、十個の赤いリンゴだった。いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる。次いでわらべ歌が脳内に流れ出す。
「ひゃっ」
いきなり膝をすくい上げられて、横抱きに抱え上げられた。高くなった視界に驚いて、ジークヴァルトの首にしがみつく。
大股でジークヴァルトは、隣室に足を踏み入れた。明かりのない真っ暗な部屋の中、リーゼロッテはゆっくりと仰向けのまま降ろされる。
頭にあたったやわらかな感触に、それが枕なのだと理解する。少し慣れてきた目で見まわすと、リーゼロッテが五人は眠れそうな、大きな寝台の上にいることが分かった。
スプリングがぎしりと鳴って、横たわった体が右に左に順に沈んだ。真正面を見上げると、自分をまたぐようにジークヴァルトが膝立ちをしている。
そのジークヴァルトは、上着を首から抜き取るところだった。手にした服を無造作に放り投げると、遠くで布が落ちる音がした。
隣の部屋の明かりが、ジークヴァルトの裸の上半身を照らしている。横から射す頼りない光だけが、均整の取れた筋肉の凹凸を浮かび上がらせた。
初めて見るジークヴァルトの裸体に、視線は釘付けとなった。鳩尾にある龍のあざが目にとまり、次いで肩口の傷の引きつれが目に入る。
状況が把握できなくて、リーゼロッテは肘をついて身を起こそうとした。そこを肩を押されて、枕へと頭が再び沈む。
馬乗りになったジークヴァルトが、ぐいと顔を近づけてきた。青い瞳がリーゼロッテを捉えたまま、口元に魔王の笑みを刻みこむ。
「十秒経ったぞ。覚悟はいいな?」
そう言ってジークヴァルトは、リーゼロッテに噛みつくようなキスをした。
(って、十秒って短すぎます、ヴァルト様……!)
脳内の叫びは、熱い吐息に飲み込まれていき――
その夜、ジークヴァルトとリーゼロッテは、名実ともに夫婦となった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。超特急でジークヴァルト様と夫婦になってしまったわたし。恥ずかしさのあまり顔を合わせづらいと思うわたしと違って、ジークヴァルト様は意外といつも通りの反応で……?
次回、5章第10話「常しえの蜜月」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
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