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第5章 森の魔女と託宣の誓い
第7話 最果ての街
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【前回のあらすじ】
バルテン子爵家で待っていたのはヘッダではなく、亡くなったはずのクリスティーナ王女で。ヘッダが龍から託宣を受けていたことを知らされたリーゼロッテは、王女の生存をよろこびつつも驚きを隠せません。
自身の身代わりとして死んだヘッダと入れ替わった王女は、バルテン家でアルベルトと穏やかに暮らします。深く愛し合うふたりを目撃して、動揺するリーゼロッテ。進展しないジークヴァルトとの仲に、不満の種が小さく芽生えるのでした。
「いかがでしたかな? 我が領自慢のビンゲンを使った料理は」
「とても個性的なお味で、どのお料理も美味しくいただけましたわ」
食後のくつろぎのサロンでリーゼロッテは、バルテン子爵にお手本のような淑女の笑みを返した。隣で座っているジークヴァルトは、無言のまま微妙な顔をしている。
「ビンゲンは真冬でも収穫できて、栄養価の高い香草です。よろしければ最上ランクのビンゲンを、いつでも公爵家に融通できますが」
「まぁ、素敵なお話ですわね。ですがフーゲンベルク家のことは、わたくしの一存では決められませんので……」
ジークヴァルトを伺うと、さらに微妙な顔つきになった。恐らくビンゲンはもう口にしたくないのだろう。もしかしたら香りすら嫌になっているのかもしれない。
「……必要があれば、またこちらから連絡しよう」
「今は大事な神事に向かう最中でございましたね。ビンゲンは一年中収穫できます。バルテン家としましてはいつでも構いませんので、またのご連絡をお待ちしております」
無表情でジークヴァルトは頷いた。うまく切り抜けたことに安堵しているようだ。リーゼロッテだけには、それがひしひしと伝わってくる。
「ビンゲンは美容にも良いのに、なかなか他領に広まらなくて困っておりますの。わたくしなど長年毎日食べ続けておりますでしょう? 見てくださいませ、この肌のはり艶を」
「まぁ本当ですわ」
リーゼロッテが社交辞令の笑みを返すと、バルテン夫人は深いため息をついた。
「可愛い娘と息子が新たにできた今、もっとバルテン領を豊かにしたいのですけれど……」
「ビンゲンの良ささえ伝わればと、常々そう思っているのですよ」
つられるようにバルテン子爵もため息をつく。
「アルベルトにもいい知恵はないかといつも言っているのですがね」
「すみません、義父上。わたしは騎士上がりで領地経営には疎いもので……」
どこか遠い目でアルベルトは答えた。好きになれないものを売り込むのは、彼でなくとも難しそうだ。
「そんなもの、食糧難の際に高く売りつければいいじゃない」
「クリスティーナ……国中が大変なときに暴利をむさぼるなど、バルテン家の評判を落とすだけですよ。それにそれでは食糧難が来ない限り、バルテン家に益は出ませんし」
「だったらもっと良い案を考えなさいな。あなたが子爵家を継ぐのでしょう?」
「あの、わたくし思うのですが……」
遠慮がちに言ったリーゼロッテに、みなの注目が集まった。
「正直に申し上げまして、ビンゲンは好き嫌いの分かれるお味ですわ。ですがくせになってまた食べたくなると思う方もいらっしゃると思います。ビンゲンは香草ですし、メインの食材を引き立たせるのが本来の役目。主役を譲ってこそ、その存在を知らしめることができるのではないでしょうか?」
「ですがそれではビンゲンの消費は増えないのでは……」
「やりようによってはそうでもありませんわ。まずは平民に向けて美味しい料理のレシピと共に、ビンゲンを広めるというのはいかがでしょう?」
「レシピと共に?」
「ええ、ビンゲンはあくまで引き立て役で、お料理を数倍美味しくするレシピをいくつも用意するのですわ。使ううちにお味にも馴染んできますし、美容にいいことも体感できるでしょう。うまくいけば国中の食卓で、ビンゲンは欠かせない食材となるかもしれません」
ハマった人間はビンゲンオンリーのサラダをリピートしそうだ。人を選ぶがクセになる。リーゼロッテはそんな気がしてならなかった。
「なるほど……いきなりビンゲン単体を押し付けるより、あくまで薬味として売り込むと言うことですね」
「バルテン家には東宮にいた料理人がいるようですし、いいレシピを考案してくれるはずですわ」
「ああ、確かに東宮の食事はいつでもどれも美味しかった……」
アルベルトが遠い目をして言う。よほどビンゲンづくしの食生活がこたえているようだ。
「まずはバルテン家の食卓で研究してみてはいかがですか? あくまでも主役を引き立たせる、そんなビンゲン料理を」
「それはいい考えですね! 義父上、ぜひそうしましょう!」
「でもなぁ、アルベルト。ビンゲンが少ない料理は物足りないじゃないか。厨房にはもっと使うよう指示しているくらいなんだぞ」
「それでしたら別添えのソースなどを開発するのも手ですわね。ビンゲンを大好きになった人向けに、手軽に使える調味料として受け入れられるのではないでしょうか?」
「各自好みの分だけ振りかけるシステム! 素晴らしい! 義父上、これは前向きに検討すべきです!」
人が変わったようにアルベルトが前のめりになった。必死さが伝わってきて、それほどビンゲン地獄から抜け出したいのだろう。
「随分と他力本願だこと」
クリスティーナはアルベルトに向けて、見透かしたようにコロコロと笑い声を立てた。
◇
そんなことがあった翌日、リーゼロッテたちはバルテン領を後にすることになった。最後にアルベルトと目があって、深々と頭を下げられる。
(これでアルベルト様の食生活が改善されるといいのだけれど……)
粉末にしたビンゲン茶やびんげんふりかけ、平民に賞金を出すビンゲンレシピコンテストなど、ビンゲンを広めるためのアイデアは、考えれば意外と浮かんでくるものだ。思いつく限りを尽くして、アルベルトにだけそっと耳打ちしておいた。彼の案ということにした方が、アルベルトもバルテン家で立場を作りやすいだろう。
リーゼロッテが無言で頷くと、アルベルトもまた頷き返してきた。目と目で通じ合うふたりを遮るように、ジークヴァルトがいきなり抱き上げてくる。
「もう、ヴァルト様、クリスティーナ様も見ていらっしゃいますのに」
ついと顔をそらされたまま馬車へと乗り込んだ。並び立つクリスティーナとアルベルトに見送られ、馬車は緩やかに走り出す。
「しばらくビンゲンはもういい感じですわね」
「オレは生涯いらないがな」
めずらしく本音をもらすジークヴァルトに、リーゼロッテはくすくすと笑った。
「でもクリスティーナ様がおしあわせそうで本当によかった……」
向かうときはあれほど重かった心が、今ではこんなにも晴れやかだ。息をつき胸に頬を預けた。数日ぶりの温もりに、甘えたい気分になってくる。しかしすでにジークヴァルトは、眉間にしわを寄せて書類の束を広げていた。
(こっち、見てくれないかな……)
ジークヴァルトの瞳が好きだ。吸い込まれそうなその青に、いつでも魅入られてしまう。思えば王妃の茶会で再会したあの時にはもう、ジークヴァルトのことを好きになっていたのかもしれない。
ますます難しい顔をして、ジークヴァルトは書類の文字を目で追っていく。引き結ばれた唇を見て、アルベルトたちのラブシーンがふとよぎった。
(クリスティーナ様、とっても気持ちよさそうだった……)
ふたりが積極的に舌を絡め合っているシーンが頭から離れない。心を許し愛し合う者同士の口づけだ。自分もあんなふうに求められてみたい。そう思ってみるものの、目の前にいるジークヴァルトはやけに遠くに感じられた。神殿で交わした口づけが、幻だったようにさえ思えてくる。
あまりにもじっと見ていたからだろうか。根負けしたようにジークヴァルトがこちらを向いた。
「どうした?」
「わたくし、ヴァルト様にく――……」
口づけて欲しい。そう言いそうになって、リーゼロッテははっと我に返った。
「く? なんだ?」
「く、く、クッキーを食べさせて、ほしいかなぁ、なんて」
おもむろに紙の束を手放し奥に置かれたバスケットから、ジークヴァルトはクッキーを一枚差し出してきた。あーんと口に詰め込まれ、もごもごと咀嚼する。土壇場で臆してしまった。あのまま勢いで言っていれば、キスだってできたかもしれないのに。
(もう、なんでごまかしちゃったのよ)
自分のへたれ加減が情けなくて、リーゼロッテは無意識にぷくと頬を膨らませた。
膨らんだ頬にジークヴァルトは片手を伸ばしてきた。長い指で挟まれて、ぷすりと空気が口から漏れて出る。
「どうした? まずかったのか?」
「ひえ、おいひかったでふわ」
むにと不細工顔のまま上向かされて、いつだかもこうされたなとそんなことを思い出した。そう、あれは十五の誕生日直前の、ピクニックに行った日のことだ。馬に乗せられ、花畑で探り探り会話をしたように思う。あの頃はまだジークヴァルトと打ち解け切れていなかった。
「そういえばヴァルト様……ピクニックの時はなぜ来られたのですか?」
「ピクニック?」
「二年前の夏、ダーミッシュ領に突然いらっしゃいましたでしょう?」
記憶を辿るようにジークヴァルトは視線をさまよわせた。スケジュールぎちぎちで無駄を嫌うジークヴァルトが、必要もなしにやってくるなど今思うと奇妙に感じられた。
「あの時は……馬に乗ると手紙に書いてきただろう。それでだ」
「馬に……?」
「ああ、何かあったら危険だろう」
「ですがあの時はアデライーデ様がいらっしゃって……」
「それでもだ」
ぽかんとしてジークヴァルトを見上げる。次いで笑いが込み上げた。
「もう、ヴァルト様ったら。それでお忙しい中遥々やって来られたのですか? いくらなんでも過保護すぎますわ」
「そんなことはない。お前を守るためにオレはいる」
ジークヴァルトの指が二本、頬の上をゆっくり滑る。真剣に見つめられ、かっと頬に熱が集まった。ジークヴァルトはいつも不意打ちだ。動揺を隠すために、リーゼロッテは上ずったまま話をそらした。
「そ、そういえばヴァルト様、一時期わたくしの口元ばかり見ていらっしゃいましたよね。あれは一体なんだったのですか?」
「それは……お前の気のせいだ」
一瞬言葉に詰まってから、ジークヴァルトはついと顔をそらした。これは何かをごまかしている。そうは思うものの理由に見当はつかなかった。
(ヴァルト様がキスしたいって思ってるって、エラには言われたけど……)
ふたりきりのときでも、そんなそぶりは見せてこない。やはり他に理由があったのだろう。
「わたくしったら、すっかりお仕事の邪魔をしてしまって……申し訳ございませんでした」
ジークヴァルトが仕事中だったことを思い出し、リーゼロッテはおとなしく引き下がった。これ以上時間を取らせるのは、さすがに迷惑行為というものだ。
「いい。何かあったらいつでも言え」
そっけなく言うと、ジークヴァルトは再び書類を手に取った。
真剣な表情の横顔を見上げる。もっと近づきたいのに、いざとなると逃げ腰になってしまう。そんな自分に気がついて、リーゼロッテは経験値のなさに内心ため息をついた。
(焦ってもしょうがないのかも……わたしたちにはわたしたちのペースがあるんだし、ゆっくりやっていけばいいのよね)
これからずっとジークヴァルトと一緒にいるのだ。クリスティーナたちと比較すること自体どうかしている。それにいずれ婚姻を果たす時が来る。そうなれば、おのずとステップアップできるのだろう。
思い悩むのが馬鹿馬鹿しくなって、リーゼロッテは流れゆく景色に意識を向けた。
◇
いくつか街を経て、今日も今日とて馬車の旅だ。早朝の出発だったせいか、いつの間にか眠りこけていたようだ。ジークヴァルトにゆり起こされて、眠たい目を小さくこする。御者が扉を開けるや否や、冷たい風が吹き込んできた。
「随分と肌寒いですわね」
「大分北に来たからな」
見回すと、解けないままの雪があちこちに積もっている。もこもこのコートを着せられて、リーゼロッテは馬車から降り立った。
エスコートのために手を差し伸べられる。抱き上げてこないところを見ると、今日は貴族のお宅訪問らしい。
「こちらは……?」
「ブルーメ子爵家だ。泊まりはしないが、昼食に招待されている」
ブルーメ家は父イグナーツの実家だ。子爵はイグナーツの従兄で、とても温厚そうな人物だった。
「よくぞおいでくださいました」
「ご招待ありがとうございます、ブルーメ子爵様」
礼を取ったあと、リーゼロッテはさりげなく周囲を見回した。会えると思っていた赤毛の令嬢の姿を探す。
「ルチア様はいらっしゃらないのですか?」
「義娘は客人と出かけておりましてな。直に戻ってくることでしょう。さ、昼食の席にご案内いたします。どうぞこちらへ」
少し残念に思いつつ、リーゼロッテはおとなしくそれに従った。
食事に舌鼓を打ったあと、ジークヴァルトとともに庭の見えるサロンに移動する。ルチアが戻ってきているとの子爵の知らせに、進む足取りも早まった。
「やあ、リーゼロッテ嬢。ここで待ってれば会えると思ったよ」
「カイ様!?」
「え? カイはリーゼロッテ様と知り合いだったの?」
後ろからルチアが顔を覗かせた。ふたりの方こそ知り合いだったのか。リーゼロッテは目を丸くした。
(そう言えばデルプフェルト家の夜会に、ルチア様も招待されてたっけ……)
それにしてもふたりの近い距離感を不思議に思って、リーゼロッテは小さく首を傾ける。今までの交流で、ルチアはどことなくこちらに距離をおいていた。カイに対しては素で接しているように見え、彼の人柄を思えばそれもまた納得できる気がした。
「そんなことよりもルチア、ちゃんと挨拶しないと」
「あ……ようこそおいでくださいました、公爵様、リーゼロッテ様」
「こちらこそご招待ありがとうございます。ルチア様もお元気そうでなによりですわ」
ルチアの淑女の礼に同じく礼を返した。すっかり板についた令嬢ぶりに、リーゼロッテの顔は自然と綻んだ。
「もしかしてイグナーツ父様もいらっしゃるのですか?」
「イグナーツ様はあのあと山に向かったよ。送っていった帰りに、オレはここに寄っただけだから」
「そうですか……」
期待した分だけしゅんとなる。そんなリーゼロッテの頭を、ジークヴァルトはぽんぽんとなでてきた。
「イグナーツ様はまだ奥さんを探しに行ってるの?」
「うん、毎年恒例だからね。今年は雪解けが遅くて、出発が今になったけど」
「ルチア様は父とお知り合いなのですか?」
従兄であるブルーメ子爵の養子になったのだ。ふたりに面識があっても何もおかしくはない。だがマルグリットを探していることを話すほどに、ルチアとイグナーツは親しいのだろうか。
「イグナーツ様は母さんの知り合いで……。それで随分と助けていただきました」
ルチアはかなしそうに瞳を伏せた。母さんとは亡くなったという実母のことなのだろう。余計なことを聞いてしまった。そう思ってリーゼロッテは、そうでしたの、とだけ小さく返した。
「そろそろ時間だ」
「はは、ジークヴァルト様、我慢も限界ですよね。こんなまだるっこしい行程の中、ふたりきりでいてよく耐えられますね」
「カイ」
遮るように睨みつけたジークヴァルトに、カイは怖い怖いと肩を竦めた。
「ここを出たら、マルギタの街まで一直線だね」
「マルギタの街?」
「最果ての街だよ。そこまで行けばシネヴァの森は目の前だ」
いよいよ目的の地に辿り着く。リーゼロッテの胸はいたずらに高鳴った。
◇
ブルーメ家をあとにして、いつもより長い馬車での移動が続いた。辺りはどんどん雪深くなっていく。冬に逆戻りしたような一面の銀世界だ。
「この時期にこんなに雪が積もってるなんて……」
「この一帯は年中雪が降る。寒かったらすぐに言え」
膝の上、肩を抱き寄せられる。馬車の中は暖かくて寒いことは何もない。それでも甘えるように、ジークヴァルトの胸にもたれかかった。
(あれ……? ヴァルト様の心臓の音、いつもより早いみたい……)
心配になって見上げるも、普段通り書類に目を落とすジークヴァルトがいるだけだ。
「どうした?」
「いえ、ヴァルト様、どこかお加減が悪くはないですか……?」
「特に問題ないが」
「そうですか。それならよかったですわ」
「ああ」
そこで会話は途切れ、リーゼロッテは一向に暗くならない外に視線を戻した。
「今は白夜だ。明るくてももう遅い。眠くなったら寝ていいぞ」
「はい、ヴァルト様」
言われるなりうとうとしてきてしまう。まどろみながらリーゼロッテは、もうすぐ会える森の魔女に思いを馳せていた。
それに大事なことを忘れていた自分に気づく。ずっと旅に浮かれていたが、王から賜った重要な神事を、これからこなさねばならないのだ。
「ヴァルト様……神事って一体どんなことをするのでしょう……?」
「……難しいことは何もない。行った先でシネヴァの巫女に従えばそれでいい」
「そうですか……ヴァルト様が一緒なら、何も心配はいりませんわね……」
そうつぶやいて、リーゼロッテは訪れた眠気に沈んでいった。
ゆらゆらと揺れている。心地よいまどろみの中、リーゼロッテはやわらかな場所に降ろされた。下ろしたてのシーツの匂いがする。ふかふかの枕の感触に、寝台に寝かされたことが分かった。
なんだか小さな寝台だ。お屋敷の大きなものと違って、日本にいたころをふと思い出した。
頬を何かがすべっていく。ジークヴァルトの指先だ。寝入った自分を運んでくれたのだろう。お礼を言わなくてはと思っても、瞼が重たくて開かない。
頬を撫でていた指先が、唇の上をゆっくりとなぞった。くすぐったいが心地いい。きっと夢に違いない。そんなあやふやな意識の中、ジークヴァルトのつぶやきが耳に届いた。
「もうすぐ……もうすぐだ、リーゼロッテ……」
聞いたことのない切なげな声だった。
少し伸びてきた髪をひと房持ち上げ、ジークヴァルトはそっとそれに口づけた。やはりこれは夢なのだろう。さらさら指からこぼれる髪を感じながら、リーゼロッテは眠りに落ちた。
◇
翌朝、簡単な朝食を済ませてから、リーゼロッテはジークヴァルトとともに外に出た。泊まった宿も小さかったが、雪に埋もれた街全体が何もない印象だった。
(街と言うより村って感じね)
設備もろくに整ってなくて、住民もみな純朴そうだ。着ている衣服も防寒重視で、流行りも何もなさそうに見えた。
待機していると思っていた馬車はどこにもない。きょろきょろ見回していると、いきなり大勢の少女たちに囲まれた。
「姉様はこちら」
「兄様はあちら」
ジークヴァルトは恰幅のいいおばさんたちに囲まれて、あっという間にどこかへ連れていかれてしまった。寒さで頬を赤くした少女たちに背を押され、リーゼロッテも反対方向へと進まされる。
「え? あの、どこへ?」
「いいからいいから」
戸惑うリーゼロッテなどお構いなしだ。たのしげに歌いながら、少女たちはリーゼロッテを連れていく。ぐいぐいと進んだ先で、みなで一緒に一軒の家へとなだれ込んだ。
「姉様、お待ちしておりました」
もう少し年上の少女が、中で数人待っていた。来た少女たちから引き渡されて、部屋の奥へと導かれる。入口では残りの少女たちが、ぎゅうぎゅうと折り重なってこちらを覗き込んでいた。
「うるさくってごめんなさい。シネヴァの森に入る外人は本当に久しぶりで」
「姉様には未婚の女しか触れちゃいけないの」
「シンシア様に会うために、今からうんとおめかししましょ?」
口々に言われ、誰に何を返事していいのか分からない。鏡の前に座らされ、化粧と髪結いが始まった。
「なんて綺麗な肌! もっちもちでつねりたくなっちゃう!」
「髪だってさらさらよ! これで手袋に刺繍したら最高ね!」
「ほめちぎってないでほら、手を動かしなさい!」
それは果たしてほめ言葉なのだろうか? 疑問に思うものの少女たちの勢いに口をはさめない。
「ほうら、魔女様のお見立て通りにできあがり!」
「うん、すてきすてき!」
「次はお衣裳! さぁ、立って立って」
促され立ち上がると、あっという間に服を脱がされた。かと思うと真っ白な布が、目の前に大きく広げられる。
「姉様の右手はこっち」
「左手はこっち」
「この紐はここと結んで」
「この紐はあそこに回して」
複雑怪奇な仕組みの服で、着せてもらっているのにどこがどうなっているのかよく分からない。
「はぁい、これでおしまい!」
「とってもお似合い!」
「退魔のはごろも、できあがりぃ」
ぱちぱちと拍手を送る少女たちに首をかしげる。
「退魔のはごろも?」
「シネヴァの森はね、許された者しか入っちゃいけないの」
「でないと森を守る狼主に食べられちゃうの」
「狼主は女が大好きなの。入っていいって言われた女も、こっそり食べられちゃうの」
「ええっ?」
不穏な言葉に思わず驚きの声を上げた。
「っていう言い伝え」
「狼主なんて誰も見たことないし」
「だからこれは魔女様の森の儀式のお衣裳ってだけ」
少女のひとりが大きな姿見を運んでくる。そこに立つのは、真っ白な民族衣装を纏った自分の姿だった。今までにしたことのないような化粧が施されている。鮮やかな紅が唇に引かれ、濃い赤のアイラインは、角隠しを着た花嫁のように目に映った。
「さ、兄様きっと待ちくたびれてる!」
「女の支度は時間がかかるって!」
「男どもはみんなそう文句を言うの!」
入り口ではじめの少女たちに再び囲まれる。上がる嬌声の中進んでいくと、玄関先でジークヴァルトが待っていた。
ジークヴァルトも似た白い服に着替えていた。あれも神事のための衣裳なのだろう。
「じゃあ仕上げ仕上げ」
「これ着ないと姉様、凍っちゃう」
「はい、右手はこっち、左手はこっち」
せっかくの衣裳の上に、やぼったいコートを着せられる。美しく結いあがった頭にも、防寒用の耳当て付きのファーの帽子を被せられた。
「では参るとしますかな」
しわがれた声がして、そこにひとりの老人が立っていた。この街の長老らしく、長いあごひげに杖をつく姿はまさにザ・長老といった風貌だ。
その長老を先頭に、ジークヴァルトとリーゼロッテが続く。でこぼこした歩きにくい道は、それでもこの街の大通りのようだった。道端や家の中から、好奇の目が寄せられる。若い男に口笛を吹かれるたびに、ジークヴァルトの口がへの字に曲がった。
雪かきがされた細い道を進み、少女たちの歌声があとを追ってくる。行く先にうっそうとした雪の森が広がって、あれがきっとシネヴァの森なのだろう。
(いよいよ神事の時、魔女様とご対面ね……!)
お祭り騒ぎのような熱気に押されて、リーゼロッテは高揚した瞳を森へと向けた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。いよいよシネヴァの森に足を踏み入れたわたしとジークヴァルト様。小路の先にひとりの男が待っていて? 森の奥に住む魔女こと神事の巫女の元へと、犬ぞりがひた走ります!
次回、5章第8話「森の魔女」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
バルテン子爵家で待っていたのはヘッダではなく、亡くなったはずのクリスティーナ王女で。ヘッダが龍から託宣を受けていたことを知らされたリーゼロッテは、王女の生存をよろこびつつも驚きを隠せません。
自身の身代わりとして死んだヘッダと入れ替わった王女は、バルテン家でアルベルトと穏やかに暮らします。深く愛し合うふたりを目撃して、動揺するリーゼロッテ。進展しないジークヴァルトとの仲に、不満の種が小さく芽生えるのでした。
「いかがでしたかな? 我が領自慢のビンゲンを使った料理は」
「とても個性的なお味で、どのお料理も美味しくいただけましたわ」
食後のくつろぎのサロンでリーゼロッテは、バルテン子爵にお手本のような淑女の笑みを返した。隣で座っているジークヴァルトは、無言のまま微妙な顔をしている。
「ビンゲンは真冬でも収穫できて、栄養価の高い香草です。よろしければ最上ランクのビンゲンを、いつでも公爵家に融通できますが」
「まぁ、素敵なお話ですわね。ですがフーゲンベルク家のことは、わたくしの一存では決められませんので……」
ジークヴァルトを伺うと、さらに微妙な顔つきになった。恐らくビンゲンはもう口にしたくないのだろう。もしかしたら香りすら嫌になっているのかもしれない。
「……必要があれば、またこちらから連絡しよう」
「今は大事な神事に向かう最中でございましたね。ビンゲンは一年中収穫できます。バルテン家としましてはいつでも構いませんので、またのご連絡をお待ちしております」
無表情でジークヴァルトは頷いた。うまく切り抜けたことに安堵しているようだ。リーゼロッテだけには、それがひしひしと伝わってくる。
「ビンゲンは美容にも良いのに、なかなか他領に広まらなくて困っておりますの。わたくしなど長年毎日食べ続けておりますでしょう? 見てくださいませ、この肌のはり艶を」
「まぁ本当ですわ」
リーゼロッテが社交辞令の笑みを返すと、バルテン夫人は深いため息をついた。
「可愛い娘と息子が新たにできた今、もっとバルテン領を豊かにしたいのですけれど……」
「ビンゲンの良ささえ伝わればと、常々そう思っているのですよ」
つられるようにバルテン子爵もため息をつく。
「アルベルトにもいい知恵はないかといつも言っているのですがね」
「すみません、義父上。わたしは騎士上がりで領地経営には疎いもので……」
どこか遠い目でアルベルトは答えた。好きになれないものを売り込むのは、彼でなくとも難しそうだ。
「そんなもの、食糧難の際に高く売りつければいいじゃない」
「クリスティーナ……国中が大変なときに暴利をむさぼるなど、バルテン家の評判を落とすだけですよ。それにそれでは食糧難が来ない限り、バルテン家に益は出ませんし」
「だったらもっと良い案を考えなさいな。あなたが子爵家を継ぐのでしょう?」
「あの、わたくし思うのですが……」
遠慮がちに言ったリーゼロッテに、みなの注目が集まった。
「正直に申し上げまして、ビンゲンは好き嫌いの分かれるお味ですわ。ですがくせになってまた食べたくなると思う方もいらっしゃると思います。ビンゲンは香草ですし、メインの食材を引き立たせるのが本来の役目。主役を譲ってこそ、その存在を知らしめることができるのではないでしょうか?」
「ですがそれではビンゲンの消費は増えないのでは……」
「やりようによってはそうでもありませんわ。まずは平民に向けて美味しい料理のレシピと共に、ビンゲンを広めるというのはいかがでしょう?」
「レシピと共に?」
「ええ、ビンゲンはあくまで引き立て役で、お料理を数倍美味しくするレシピをいくつも用意するのですわ。使ううちにお味にも馴染んできますし、美容にいいことも体感できるでしょう。うまくいけば国中の食卓で、ビンゲンは欠かせない食材となるかもしれません」
ハマった人間はビンゲンオンリーのサラダをリピートしそうだ。人を選ぶがクセになる。リーゼロッテはそんな気がしてならなかった。
「なるほど……いきなりビンゲン単体を押し付けるより、あくまで薬味として売り込むと言うことですね」
「バルテン家には東宮にいた料理人がいるようですし、いいレシピを考案してくれるはずですわ」
「ああ、確かに東宮の食事はいつでもどれも美味しかった……」
アルベルトが遠い目をして言う。よほどビンゲンづくしの食生活がこたえているようだ。
「まずはバルテン家の食卓で研究してみてはいかがですか? あくまでも主役を引き立たせる、そんなビンゲン料理を」
「それはいい考えですね! 義父上、ぜひそうしましょう!」
「でもなぁ、アルベルト。ビンゲンが少ない料理は物足りないじゃないか。厨房にはもっと使うよう指示しているくらいなんだぞ」
「それでしたら別添えのソースなどを開発するのも手ですわね。ビンゲンを大好きになった人向けに、手軽に使える調味料として受け入れられるのではないでしょうか?」
「各自好みの分だけ振りかけるシステム! 素晴らしい! 義父上、これは前向きに検討すべきです!」
人が変わったようにアルベルトが前のめりになった。必死さが伝わってきて、それほどビンゲン地獄から抜け出したいのだろう。
「随分と他力本願だこと」
クリスティーナはアルベルトに向けて、見透かしたようにコロコロと笑い声を立てた。
◇
そんなことがあった翌日、リーゼロッテたちはバルテン領を後にすることになった。最後にアルベルトと目があって、深々と頭を下げられる。
(これでアルベルト様の食生活が改善されるといいのだけれど……)
粉末にしたビンゲン茶やびんげんふりかけ、平民に賞金を出すビンゲンレシピコンテストなど、ビンゲンを広めるためのアイデアは、考えれば意外と浮かんでくるものだ。思いつく限りを尽くして、アルベルトにだけそっと耳打ちしておいた。彼の案ということにした方が、アルベルトもバルテン家で立場を作りやすいだろう。
リーゼロッテが無言で頷くと、アルベルトもまた頷き返してきた。目と目で通じ合うふたりを遮るように、ジークヴァルトがいきなり抱き上げてくる。
「もう、ヴァルト様、クリスティーナ様も見ていらっしゃいますのに」
ついと顔をそらされたまま馬車へと乗り込んだ。並び立つクリスティーナとアルベルトに見送られ、馬車は緩やかに走り出す。
「しばらくビンゲンはもういい感じですわね」
「オレは生涯いらないがな」
めずらしく本音をもらすジークヴァルトに、リーゼロッテはくすくすと笑った。
「でもクリスティーナ様がおしあわせそうで本当によかった……」
向かうときはあれほど重かった心が、今ではこんなにも晴れやかだ。息をつき胸に頬を預けた。数日ぶりの温もりに、甘えたい気分になってくる。しかしすでにジークヴァルトは、眉間にしわを寄せて書類の束を広げていた。
(こっち、見てくれないかな……)
ジークヴァルトの瞳が好きだ。吸い込まれそうなその青に、いつでも魅入られてしまう。思えば王妃の茶会で再会したあの時にはもう、ジークヴァルトのことを好きになっていたのかもしれない。
ますます難しい顔をして、ジークヴァルトは書類の文字を目で追っていく。引き結ばれた唇を見て、アルベルトたちのラブシーンがふとよぎった。
(クリスティーナ様、とっても気持ちよさそうだった……)
ふたりが積極的に舌を絡め合っているシーンが頭から離れない。心を許し愛し合う者同士の口づけだ。自分もあんなふうに求められてみたい。そう思ってみるものの、目の前にいるジークヴァルトはやけに遠くに感じられた。神殿で交わした口づけが、幻だったようにさえ思えてくる。
あまりにもじっと見ていたからだろうか。根負けしたようにジークヴァルトがこちらを向いた。
「どうした?」
「わたくし、ヴァルト様にく――……」
口づけて欲しい。そう言いそうになって、リーゼロッテははっと我に返った。
「く? なんだ?」
「く、く、クッキーを食べさせて、ほしいかなぁ、なんて」
おもむろに紙の束を手放し奥に置かれたバスケットから、ジークヴァルトはクッキーを一枚差し出してきた。あーんと口に詰め込まれ、もごもごと咀嚼する。土壇場で臆してしまった。あのまま勢いで言っていれば、キスだってできたかもしれないのに。
(もう、なんでごまかしちゃったのよ)
自分のへたれ加減が情けなくて、リーゼロッテは無意識にぷくと頬を膨らませた。
膨らんだ頬にジークヴァルトは片手を伸ばしてきた。長い指で挟まれて、ぷすりと空気が口から漏れて出る。
「どうした? まずかったのか?」
「ひえ、おいひかったでふわ」
むにと不細工顔のまま上向かされて、いつだかもこうされたなとそんなことを思い出した。そう、あれは十五の誕生日直前の、ピクニックに行った日のことだ。馬に乗せられ、花畑で探り探り会話をしたように思う。あの頃はまだジークヴァルトと打ち解け切れていなかった。
「そういえばヴァルト様……ピクニックの時はなぜ来られたのですか?」
「ピクニック?」
「二年前の夏、ダーミッシュ領に突然いらっしゃいましたでしょう?」
記憶を辿るようにジークヴァルトは視線をさまよわせた。スケジュールぎちぎちで無駄を嫌うジークヴァルトが、必要もなしにやってくるなど今思うと奇妙に感じられた。
「あの時は……馬に乗ると手紙に書いてきただろう。それでだ」
「馬に……?」
「ああ、何かあったら危険だろう」
「ですがあの時はアデライーデ様がいらっしゃって……」
「それでもだ」
ぽかんとしてジークヴァルトを見上げる。次いで笑いが込み上げた。
「もう、ヴァルト様ったら。それでお忙しい中遥々やって来られたのですか? いくらなんでも過保護すぎますわ」
「そんなことはない。お前を守るためにオレはいる」
ジークヴァルトの指が二本、頬の上をゆっくり滑る。真剣に見つめられ、かっと頬に熱が集まった。ジークヴァルトはいつも不意打ちだ。動揺を隠すために、リーゼロッテは上ずったまま話をそらした。
「そ、そういえばヴァルト様、一時期わたくしの口元ばかり見ていらっしゃいましたよね。あれは一体なんだったのですか?」
「それは……お前の気のせいだ」
一瞬言葉に詰まってから、ジークヴァルトはついと顔をそらした。これは何かをごまかしている。そうは思うものの理由に見当はつかなかった。
(ヴァルト様がキスしたいって思ってるって、エラには言われたけど……)
ふたりきりのときでも、そんなそぶりは見せてこない。やはり他に理由があったのだろう。
「わたくしったら、すっかりお仕事の邪魔をしてしまって……申し訳ございませんでした」
ジークヴァルトが仕事中だったことを思い出し、リーゼロッテはおとなしく引き下がった。これ以上時間を取らせるのは、さすがに迷惑行為というものだ。
「いい。何かあったらいつでも言え」
そっけなく言うと、ジークヴァルトは再び書類を手に取った。
真剣な表情の横顔を見上げる。もっと近づきたいのに、いざとなると逃げ腰になってしまう。そんな自分に気がついて、リーゼロッテは経験値のなさに内心ため息をついた。
(焦ってもしょうがないのかも……わたしたちにはわたしたちのペースがあるんだし、ゆっくりやっていけばいいのよね)
これからずっとジークヴァルトと一緒にいるのだ。クリスティーナたちと比較すること自体どうかしている。それにいずれ婚姻を果たす時が来る。そうなれば、おのずとステップアップできるのだろう。
思い悩むのが馬鹿馬鹿しくなって、リーゼロッテは流れゆく景色に意識を向けた。
◇
いくつか街を経て、今日も今日とて馬車の旅だ。早朝の出発だったせいか、いつの間にか眠りこけていたようだ。ジークヴァルトにゆり起こされて、眠たい目を小さくこする。御者が扉を開けるや否や、冷たい風が吹き込んできた。
「随分と肌寒いですわね」
「大分北に来たからな」
見回すと、解けないままの雪があちこちに積もっている。もこもこのコートを着せられて、リーゼロッテは馬車から降り立った。
エスコートのために手を差し伸べられる。抱き上げてこないところを見ると、今日は貴族のお宅訪問らしい。
「こちらは……?」
「ブルーメ子爵家だ。泊まりはしないが、昼食に招待されている」
ブルーメ家は父イグナーツの実家だ。子爵はイグナーツの従兄で、とても温厚そうな人物だった。
「よくぞおいでくださいました」
「ご招待ありがとうございます、ブルーメ子爵様」
礼を取ったあと、リーゼロッテはさりげなく周囲を見回した。会えると思っていた赤毛の令嬢の姿を探す。
「ルチア様はいらっしゃらないのですか?」
「義娘は客人と出かけておりましてな。直に戻ってくることでしょう。さ、昼食の席にご案内いたします。どうぞこちらへ」
少し残念に思いつつ、リーゼロッテはおとなしくそれに従った。
食事に舌鼓を打ったあと、ジークヴァルトとともに庭の見えるサロンに移動する。ルチアが戻ってきているとの子爵の知らせに、進む足取りも早まった。
「やあ、リーゼロッテ嬢。ここで待ってれば会えると思ったよ」
「カイ様!?」
「え? カイはリーゼロッテ様と知り合いだったの?」
後ろからルチアが顔を覗かせた。ふたりの方こそ知り合いだったのか。リーゼロッテは目を丸くした。
(そう言えばデルプフェルト家の夜会に、ルチア様も招待されてたっけ……)
それにしてもふたりの近い距離感を不思議に思って、リーゼロッテは小さく首を傾ける。今までの交流で、ルチアはどことなくこちらに距離をおいていた。カイに対しては素で接しているように見え、彼の人柄を思えばそれもまた納得できる気がした。
「そんなことよりもルチア、ちゃんと挨拶しないと」
「あ……ようこそおいでくださいました、公爵様、リーゼロッテ様」
「こちらこそご招待ありがとうございます。ルチア様もお元気そうでなによりですわ」
ルチアの淑女の礼に同じく礼を返した。すっかり板についた令嬢ぶりに、リーゼロッテの顔は自然と綻んだ。
「もしかしてイグナーツ父様もいらっしゃるのですか?」
「イグナーツ様はあのあと山に向かったよ。送っていった帰りに、オレはここに寄っただけだから」
「そうですか……」
期待した分だけしゅんとなる。そんなリーゼロッテの頭を、ジークヴァルトはぽんぽんとなでてきた。
「イグナーツ様はまだ奥さんを探しに行ってるの?」
「うん、毎年恒例だからね。今年は雪解けが遅くて、出発が今になったけど」
「ルチア様は父とお知り合いなのですか?」
従兄であるブルーメ子爵の養子になったのだ。ふたりに面識があっても何もおかしくはない。だがマルグリットを探していることを話すほどに、ルチアとイグナーツは親しいのだろうか。
「イグナーツ様は母さんの知り合いで……。それで随分と助けていただきました」
ルチアはかなしそうに瞳を伏せた。母さんとは亡くなったという実母のことなのだろう。余計なことを聞いてしまった。そう思ってリーゼロッテは、そうでしたの、とだけ小さく返した。
「そろそろ時間だ」
「はは、ジークヴァルト様、我慢も限界ですよね。こんなまだるっこしい行程の中、ふたりきりでいてよく耐えられますね」
「カイ」
遮るように睨みつけたジークヴァルトに、カイは怖い怖いと肩を竦めた。
「ここを出たら、マルギタの街まで一直線だね」
「マルギタの街?」
「最果ての街だよ。そこまで行けばシネヴァの森は目の前だ」
いよいよ目的の地に辿り着く。リーゼロッテの胸はいたずらに高鳴った。
◇
ブルーメ家をあとにして、いつもより長い馬車での移動が続いた。辺りはどんどん雪深くなっていく。冬に逆戻りしたような一面の銀世界だ。
「この時期にこんなに雪が積もってるなんて……」
「この一帯は年中雪が降る。寒かったらすぐに言え」
膝の上、肩を抱き寄せられる。馬車の中は暖かくて寒いことは何もない。それでも甘えるように、ジークヴァルトの胸にもたれかかった。
(あれ……? ヴァルト様の心臓の音、いつもより早いみたい……)
心配になって見上げるも、普段通り書類に目を落とすジークヴァルトがいるだけだ。
「どうした?」
「いえ、ヴァルト様、どこかお加減が悪くはないですか……?」
「特に問題ないが」
「そうですか。それならよかったですわ」
「ああ」
そこで会話は途切れ、リーゼロッテは一向に暗くならない外に視線を戻した。
「今は白夜だ。明るくてももう遅い。眠くなったら寝ていいぞ」
「はい、ヴァルト様」
言われるなりうとうとしてきてしまう。まどろみながらリーゼロッテは、もうすぐ会える森の魔女に思いを馳せていた。
それに大事なことを忘れていた自分に気づく。ずっと旅に浮かれていたが、王から賜った重要な神事を、これからこなさねばならないのだ。
「ヴァルト様……神事って一体どんなことをするのでしょう……?」
「……難しいことは何もない。行った先でシネヴァの巫女に従えばそれでいい」
「そうですか……ヴァルト様が一緒なら、何も心配はいりませんわね……」
そうつぶやいて、リーゼロッテは訪れた眠気に沈んでいった。
ゆらゆらと揺れている。心地よいまどろみの中、リーゼロッテはやわらかな場所に降ろされた。下ろしたてのシーツの匂いがする。ふかふかの枕の感触に、寝台に寝かされたことが分かった。
なんだか小さな寝台だ。お屋敷の大きなものと違って、日本にいたころをふと思い出した。
頬を何かがすべっていく。ジークヴァルトの指先だ。寝入った自分を運んでくれたのだろう。お礼を言わなくてはと思っても、瞼が重たくて開かない。
頬を撫でていた指先が、唇の上をゆっくりとなぞった。くすぐったいが心地いい。きっと夢に違いない。そんなあやふやな意識の中、ジークヴァルトのつぶやきが耳に届いた。
「もうすぐ……もうすぐだ、リーゼロッテ……」
聞いたことのない切なげな声だった。
少し伸びてきた髪をひと房持ち上げ、ジークヴァルトはそっとそれに口づけた。やはりこれは夢なのだろう。さらさら指からこぼれる髪を感じながら、リーゼロッテは眠りに落ちた。
◇
翌朝、簡単な朝食を済ませてから、リーゼロッテはジークヴァルトとともに外に出た。泊まった宿も小さかったが、雪に埋もれた街全体が何もない印象だった。
(街と言うより村って感じね)
設備もろくに整ってなくて、住民もみな純朴そうだ。着ている衣服も防寒重視で、流行りも何もなさそうに見えた。
待機していると思っていた馬車はどこにもない。きょろきょろ見回していると、いきなり大勢の少女たちに囲まれた。
「姉様はこちら」
「兄様はあちら」
ジークヴァルトは恰幅のいいおばさんたちに囲まれて、あっという間にどこかへ連れていかれてしまった。寒さで頬を赤くした少女たちに背を押され、リーゼロッテも反対方向へと進まされる。
「え? あの、どこへ?」
「いいからいいから」
戸惑うリーゼロッテなどお構いなしだ。たのしげに歌いながら、少女たちはリーゼロッテを連れていく。ぐいぐいと進んだ先で、みなで一緒に一軒の家へとなだれ込んだ。
「姉様、お待ちしておりました」
もう少し年上の少女が、中で数人待っていた。来た少女たちから引き渡されて、部屋の奥へと導かれる。入口では残りの少女たちが、ぎゅうぎゅうと折り重なってこちらを覗き込んでいた。
「うるさくってごめんなさい。シネヴァの森に入る外人は本当に久しぶりで」
「姉様には未婚の女しか触れちゃいけないの」
「シンシア様に会うために、今からうんとおめかししましょ?」
口々に言われ、誰に何を返事していいのか分からない。鏡の前に座らされ、化粧と髪結いが始まった。
「なんて綺麗な肌! もっちもちでつねりたくなっちゃう!」
「髪だってさらさらよ! これで手袋に刺繍したら最高ね!」
「ほめちぎってないでほら、手を動かしなさい!」
それは果たしてほめ言葉なのだろうか? 疑問に思うものの少女たちの勢いに口をはさめない。
「ほうら、魔女様のお見立て通りにできあがり!」
「うん、すてきすてき!」
「次はお衣裳! さぁ、立って立って」
促され立ち上がると、あっという間に服を脱がされた。かと思うと真っ白な布が、目の前に大きく広げられる。
「姉様の右手はこっち」
「左手はこっち」
「この紐はここと結んで」
「この紐はあそこに回して」
複雑怪奇な仕組みの服で、着せてもらっているのにどこがどうなっているのかよく分からない。
「はぁい、これでおしまい!」
「とってもお似合い!」
「退魔のはごろも、できあがりぃ」
ぱちぱちと拍手を送る少女たちに首をかしげる。
「退魔のはごろも?」
「シネヴァの森はね、許された者しか入っちゃいけないの」
「でないと森を守る狼主に食べられちゃうの」
「狼主は女が大好きなの。入っていいって言われた女も、こっそり食べられちゃうの」
「ええっ?」
不穏な言葉に思わず驚きの声を上げた。
「っていう言い伝え」
「狼主なんて誰も見たことないし」
「だからこれは魔女様の森の儀式のお衣裳ってだけ」
少女のひとりが大きな姿見を運んでくる。そこに立つのは、真っ白な民族衣装を纏った自分の姿だった。今までにしたことのないような化粧が施されている。鮮やかな紅が唇に引かれ、濃い赤のアイラインは、角隠しを着た花嫁のように目に映った。
「さ、兄様きっと待ちくたびれてる!」
「女の支度は時間がかかるって!」
「男どもはみんなそう文句を言うの!」
入り口ではじめの少女たちに再び囲まれる。上がる嬌声の中進んでいくと、玄関先でジークヴァルトが待っていた。
ジークヴァルトも似た白い服に着替えていた。あれも神事のための衣裳なのだろう。
「じゃあ仕上げ仕上げ」
「これ着ないと姉様、凍っちゃう」
「はい、右手はこっち、左手はこっち」
せっかくの衣裳の上に、やぼったいコートを着せられる。美しく結いあがった頭にも、防寒用の耳当て付きのファーの帽子を被せられた。
「では参るとしますかな」
しわがれた声がして、そこにひとりの老人が立っていた。この街の長老らしく、長いあごひげに杖をつく姿はまさにザ・長老といった風貌だ。
その長老を先頭に、ジークヴァルトとリーゼロッテが続く。でこぼこした歩きにくい道は、それでもこの街の大通りのようだった。道端や家の中から、好奇の目が寄せられる。若い男に口笛を吹かれるたびに、ジークヴァルトの口がへの字に曲がった。
雪かきがされた細い道を進み、少女たちの歌声があとを追ってくる。行く先にうっそうとした雪の森が広がって、あれがきっとシネヴァの森なのだろう。
(いよいよ神事の時、魔女様とご対面ね……!)
お祭り騒ぎのような熱気に押されて、リーゼロッテは高揚した瞳を森へと向けた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。いよいよシネヴァの森に足を踏み入れたわたしとジークヴァルト様。小路の先にひとりの男が待っていて? 森の奥に住む魔女こと神事の巫女の元へと、犬ぞりがひた走ります!
次回、5章第8話「森の魔女」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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