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第5章 森の魔女と託宣の誓い
第5話 船上の再会
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【前回のあらすじ】
ハインリヒ王から勅命を頂き、貴族の使命に燃えるリーゼロッテ。しかしその本当の内容は、ジークヴァルトとの婚姻の許可で。
その勘違いに気づきながらも、リーゼロッテをあたたかく旅に送り出す義母クリスタ。心配顔のエラもその意向に従います。
とうとう始まった神事の長旅は、思った以上にゆったりスケジュール。ジークヴァルトは書類仕事に精を出すばかりで、まったく旅に興味を示しません。
想像と違う旅路に意気消沈するも、船に乗ることを知らされるリーゼロッテ。船旅に思いを馳せるのでした。
目の前には精霊のごとく美しい令嬢が、楚々としてソファに腰かけている。微動だにしないその姿は、まるで一枚の絵画のようだ。
そんな令嬢が切なくため息をついた。世話を任された身としては、責任をもって対処しなければならない。勇気を振り絞り、声がけをする。
「どこかお加減がよろしくないのですか?」
「いえ、大丈夫よ」
安心させるように令嬢はふわりと笑った。魅入られそうになって、動揺を悟られないようにとすぐ顔を伏せる。
国を挙げての神事に関わる人選は、厳選に厳選を重ねて行われた。平民でありながら高い倍率の中、選ばれた自身を誇りに思う。だが一抹の不安はぬぐえなかった。
リーゼロッテ・ダーミッシュ。妖精姫と噂される深窓の伯爵令嬢だ。同じ人間とは思えない儚げな佇まいに、今となってはそんな噂にも納得がいった。そのことに大いに安堵する。
何しろ彼女は「悪魔の令嬢」というふたつ名も持っている。どんなに恐ろしい令嬢が現れるのかと、少しばかり臆していた自分がいた。おかしな異名は心無い輩のやっかみだったと、いずれ世間に広めたいと思った。
(だめだめ、ここで見聞きしたことは絶対に秘密厳守)
王家に仕える者の第一条件として、口が堅いことが挙げられる。これが守れない者は、罰せれられるどころか最悪は暗殺コースだ。
気を取り直し置物に徹した。用を言い渡されるまでは、存在を主張することは許されない。
「ね、あなた。もっと楽にしていて構わないのよ? じっとしているのはつらいでしょう?」
「お心遣い感謝いたします。ですが規則となりますれば……」
「そう……わたくし見なかったことにできるから、本当につらくなったら遠慮なく教えてね?」
一瞬、誰に話しかけてきたのか分からなかった。今まで仕えてきた貴族の屋敷で、虫以下の扱いを受けたこともある。道具扱いに慣れていたせいか、面食らって声が震えてしまった。
「ジークヴァルト様!」
開け放たれた扉に、令嬢のエメラルドの瞳が輝いた。彼女の弾む声音とは正反対に、緊張で身が強張るのが自分でも分かった。
現れたのはフーゲンベルクの青い雷と呼ばれる公爵だ。彼女の婚約者であり、人嫌いとして有名だった。
とにかく威圧感がハンパない。同じ空間にいるだけで息ができなくなる勢いだ。震える体を叱咤して、無駄のない動きで紅茶を淹れる。ふたり分のカップをサーブすると、再び置物となるため素早く壁際に移動した。
「お仕事はひと段落ついたのですか?」
「ああ」
花が綻ぶような笑顔を前に、公爵はそっけない言葉だけを返した。もっとやさしくしてやれよ。心の中で思わず舌打ちが漏れて出る。
こちらの苛立ちをよそに、公爵は令嬢をひょいと膝の上に抱え上げた。乗せられた令嬢も、当たり前のようにその身を預けている。
「あーん」
「ヴァルト様もあーんですわ」
目の前の光景に絶句する。いや、声など出してはならないのだが、とにかく我が目を疑った。添えられた大きな手に、令嬢が甘えながら頬ずりをしている。公爵と言えば始終仏頂面だ。それなのに触れる手つきは、壊れ物を扱うかのように慎重だった。
髪を梳きだした公爵の胸に、令嬢は安心しきって身を任せている。貞淑とされる貴族令嬢の爛れた素行は、今まで多く目にしてきた。ふたりの近さは、すでに体をつなげている男女のように見て取れる。だが公爵から漲る緊張は、ただ事ではないようにもこの目に映った。
「もう、ヴァルト様、耳はくすぐったいと申しておりますのに」
「無意識だ」
「ええ、分かっておりますわ」
ふいと顔をそらす公爵に、令嬢は妖精のようにほほ笑んだ。再び胸に顔を預けると、しあわせそうに目をつむる。挙句の果てに令嬢は、うとうととまどろみ始めてしまった。
(男の腕の中でそんな無防備に寝てしまっては危険です……!)
ハラハラしながら心の中で叫んでいた。公爵がどんないたずら心を起こそうと、世話係の立場では見て見ぬふりをしなくてはならないのだから。
フーゲンベルク公爵にまつわる噂は、黒く空恐ろしいものが多すぎる。泣かされた令嬢は数知れず、トラウマになったという話はあちこちで耳にした。そんな公爵の婚約者に選ばれた伯爵令嬢に、同情心を持つのは自然な流れだ。
本格的に寝入った令嬢の髪を、しかし公爵は飽きもせず撫で続けている。耳に触れそうになった指が、慌てたように引っ込められる。それを繰り返している公爵の青い瞳は、静かなのに熱い火が灯っているように見えた。
(純愛……? もしかして純愛なの……?)
眉間にしわを寄せる顔は、今も直視できないほどに恐ろしい。それなのに令嬢に対するまなざしに、好感度が爆上がりしてしまった。
(誰かに話してしまいたい)
人を寄せ付けない魔王のような公爵は、婚約者をこれ以上なく溺愛している。こんなギャップがあるだろうか? この事実が広まれば、公爵の暗い噂も払拭されそうだ。途端に応援してあげたくなった。
(だめよ、だめだめ。口外厳禁!)
盗み見がバレたのか、公爵がこちらをぎりりと睨んできた。隠すようにすぐさま令嬢を抱き直す。
(嫉妬? 公爵様、嫉妬なのね!?)
女の自分にも婚約者の寝顔を見せたくないなど、どんだけ好きすぎるというのだろうか。興奮で荒くなる呼吸を、どうにかこうにかやり過ごす。
(ううう、誰かに話したいぃっ)
ふと幼馴染の劇作家を思い出した。彼は常にアイデアに飢えている。事実でないように装って、ふたりのことを伝えてしまっても構わないのではなかろうか。
そんなとある世話係の葛藤がきっかけで、魔王と攫われた令嬢の甘い物語が、王都の劇場で演じられることになる。巷のふたりの目撃情報も相まって、人気の演目として長きに渡り大流行するのであった。
◇
日よけの帽子を目深にかぶり、抱き上げられたまま船のタラップを渡る。揺れに驚き首筋にしがみつくも、安定感ある足取りでジークヴァルトは船へと乗り込んだ。
それにしても大きな川だ。緩やかな流れは湖のようにも思え、目を凝らしてようやく見える対岸に、やはり川なのだと納得する。
「この船は随分と立派なのですね」
「富裕層向けの客船だからな」
船着き場は大勢の人でにぎわっていた。護衛騎士に守られて馬車を降りる様子は、いつものように好奇の目に晒された。船の乗客は身なりのいい者ばかりだったが、やはりここでも視線が刺さる。
「ヴァルト様、少しだけでも甲板を歩かせていただけませんか? 船に乗るなどこの先もうないかもしれませんから」
上目づかいで懇願する。難しい顔をしながらも、ジークヴァルトはゆっくりとその場に立たせてくれた。差し伸べられた手を取って、リーゼロッテははにかむ笑顔を真っすぐ向けた。
目が合うとジークヴァルトの眉間のしわが深まった。周囲の異形が騒ぎだす気配がしたが、それもほんの一瞬のことだ。
(公爵家の呪いかと思ったけど……気のせいだった?)
畳まれた帆のロープだけが風になびく中、ジークヴァルトのエスコートに従った。夜会のような隙のないエスコートだ。周囲の視線を痛いほどに感じるが、歩かせてもらえるだけましだろう。下船まで抱き上げられたままでいたらと思うと、このくらいはへっちゃらだ。
こちらをチラ見しながら、ひそひそと会話がなされていく。身なりからして裕福な平民なのだろう。
(社交界で噂にならなければ、まぁいっか)
どうぞお好きなだけと思いながら、素知らぬ顔で移動した。
「歩かせるのは船が動き出すまでだ」
「分かりましたわ。わたくし、船の先に行ってみたいです」
ふたりで甲板を進む。今は新緑の季節だ。束の間の春を経て、雪を見ない短い季節がやってくる。吹き抜ける風が帽子の下の髪を攫っていって、リーゼロッテは眩しく青空を見上げた。
大きな船はさほど揺れを感じない。床板を踏みしめ船首まで行くと、陽光を返す川の流れが眺めよくどこまでも見渡せた。
「ヴルティエ河ってこんなに大きかったのですね」
「ああ」
王都の街中で橋を渡ることはあったが、こう目の当たりにすると感嘆のため息が漏れて出る。
川岸に視線をやると、見送りのギャラリーがごった返していた。平民の着る服も異国風だ。賑わう雑踏の雰囲気も熱気も飛び交う会話も、リーゼロッテの日常にないものばかりで埋め尽くされている。
(異世界情緒にあふれてる……って言うのもおかしな話かしら)
見るものすべてが目新しい。この国に転生したものの、今まであまりにも狭い世界にいたのだと改めて思った。
「もっと先端には行けないのですか?」
安全のためか、船首の手前には鎖が張られている。
(先の先まで行ければアレができるのに……)
後ろからジークヴァルトに抱きしめられ、向かい風を受け両手を広げる。脳内でえんだぁあ~とBGMが流れていたリーゼロッテの思考を遮るように、ジークヴァルトの手がぐっと力を籠めてきた。
「駄目だ、危険だ」
「分かりましたわ。わがままは申しません」
さすがにタイ〇ニックごっこがしたいとは言えるはずもない。素直に頷いて、来た方向を引き返した。
ゆっくりと渡る船内で、行く先行く先に船員と思しき男たちが現れる。はじめは気のせいかと思ったが、気づくと不自然と思えるほどの船員たちが周囲を囲っていた。
近づいてくるわけではないが、見ていない方向から熱視線を感じた。そちらへ顔を向けるとさっと視線をそらされる。四方がそんな感じなため、リーゼロッテは困惑気味に首をかしげた。
「あの方たちは何か御用なのでしょうか……?」
その割に話しかけてくるでもない。こちらの移動と共に船員たちも移動する。遠巻きにリーゼロッテを見やっては、こそこそと何かを言い合っているだけだ。
「やはり駄目だ」
唐突に言って、ジークヴァルトがいきなり抱き上げてきた。急なことに首筋にしがみつく。
「でもまだ船は動いては……」
「駄目だ、危険だ、いいから黙ってオレに抱かれていろ」
耳元で言われ頬が朱に染まる。
(だから、言い方ァ……!)
恥ずかしさをごまかすために、その胸に顔をうずめるしかないリーゼロッテだった。
◇
「絶対にこの部屋からは出るなよ」
「はい、承知しておりますわ」
いつものように釘を刺され、リーゼロッテはにっこりと笑顔を返した。最近は力の制御が上手くなり、いたずらに異形を引き寄せることもなくなった。それこそジークヴァルトの守り石がなくても平気なほどだ。
それでもジークヴァルトはリーゼロッテに守り石を持たせ続けている。胸に揺れるペンダントだけでなく、身に纏う衣装にもふんだんに盛り込まれていた。リーゼロッテにしてみても、お守りのような存在だ。肌身離さず身に着けていないと、今では落ち着かなくて仕方がない。
今後の旅路の打ち合わせがあるとかで、ジークヴァルトは部屋を後にした。しっかりと内鍵を掛け、リーゼロッテはひとり船室を見回していく。
「すっごい豪華……」
船の中とは思えない。内装も品が良く、高級ホテルのスイートルームのような室内だ。
冒険するように広い部屋を渡り歩いた。立派なソファが置かれた居間、窓辺には丸テーブルと二脚の椅子が、ツインのベッドルームにシャワールームまで完備されている。
ひと通り見終わるとガラス戸を押し開け、リラックスチェアが置かれたバルコニーへと出た。高い位置からの眺望に、この部屋が最上クラスだということが見て取れる。
船員たちのかけ声と共に、錨を上げる鎖の音が空を渡る。いつの間にか張られた帆が、吹きゆく風に大きく膨らんだ。
気づかないくらいにゆっくりと、船は動き出していた。見送りの歓声に離岸したことを知る。
帆向きが変えられ、船は速度を増していく。対岸の景色がゆっくりと移動していくが、見下ろす川のしぶきはこの船の速さを物語っていた。
「綺麗……」
流れる景色を飽きもせずに眺めた。眩しい太陽が少し暑いくらいに照りつけるが、吹く風がそれを忘れさせてくれる。雲ひとつない空を見上げ、リーゼロッテは思い切り息を吸いこんだ。
「マルグリット……っ!」
緊迫した呼び声とともに、何者かが隣室のバルコニーの手すりを乗り越えてきた。突然のことに声を上げる暇もなく、振り向きざま荒くかき抱かれる。
後頭部を押さえられ、リーゼロッテは男と至近距離で見つめ合った。銀髪の、つり気味の金の瞳が冷たい印象の男だ。性急な動きで顎をつかみ、男はリーゼロッテの唇を奪おうとした。
「わ、駄目ですって! その人はイグナーツ様のご息女ですよっ!!」
慌てたカイの声がする。痛いくらいに自分を抱きしめる男を、カイは後ろから羽交い絞めにした。
「ロッテ……リーゼロッテなのか……?」
目を見開いたまま、男がかすれた声で言う。直後その瞳から、滂沱の涙があふれ出た。一見クールそうに見える精悍な男が、すぐ目の前で号泣している。
大の男が泣く姿など今まで見たことがなかったリーゼロッテは、身を固くしたまま、ただ呆然と立ち尽くした。
◇
「おぉおうおぅおう、ロッテぇ、不甲斐ないオレを許してくれぇえ……!」
ソファの上、リーゼロッテを膝の間に座らせた状態で、男、イグナーツは号泣し続けている。
「あの、あなたは、イグナーツ父様……なのですね?」
確かめるように問うと、イグナーツの涙が一瞬だけひっこんだ。
「こんなオレをまだ父と呼んでくれるのか……なんて、なんていい子なんだ、リーゼロッテぇえぇぇ……!」
耳元での大音量に、思わず首をすくませる。それでも髪に顔をうずめ抱きしめてくるイグナーツを、リーゼロッテは振り払うことはできなかった。
「イグナーツ様、いい加減泣き止んでくださいよ」
呆れる声音のカイが手慣れた手つきで紅茶をサーブしてくる。
「カイ様……」
「積もる話もあると思うからオレは席を外すよ。ジークヴァルト様はどこ?」
「旅の打ち合わせにと……」
「そっか、ちょっと探してくる。先に言っとかないと、あとで何されるか分からないしね」
ウィンクをひとつ残して、カイは船室を出ていった。実の父親と取り残された中、リーゼロッテは何を言ったものかと言葉を探した。
「マルグリットの気配がする……」
相変わらず髪に顔をうずめたまま、くぐもった声でイグナーツが言った。においを堪能するように、何度も何度も鼻から息を吸い込んでいく。
「……マルグリット母様の力が、今もわたくしを守っていますから」
「ああ……あの日、マルグリットはずっとロッテの心配をしていた……」
号泣はすすり泣きに変わっていた。
「すまない、リーゼロッテ……オレはお前を捨てた。あの時も、今も……オレにはマルグリットしか選べない……」
「イグナーツ父様……」
顔を上げた先、揺れる金の瞳と見つめ合う。泣きはらした顔を見て、リーゼロッテも次第に涙目になった。
「いいえ……わたくし、ちゃんと覚えております。イグナーツ父様とマルグリット母様と、三人で過ごしたしあわせな日を」
「ロッテ……」
涙の防波堤が、ふたり同時に決壊する。互いを抱きしめて、合唱するようにわんわんと泣き合った。
ひとしきり涙をこぼすと、すんと鼻をすすった。赤くなった鼻を見て、どちらともなく笑みがこぼれる。
「ロッテはいい子に育ったな……ダーミッシュ伯爵はとてもできた人だろう?」
「はい、ダーミッシュの義父は、わたくしを本当の家族のように受け入れてくれました」
「養子先を選んだのはディートリヒ王だったが、伯爵には本当に感謝だな」
やさしげに細められた瞳は、記憶に残る父そのものだった。年齢は経ていても、母を後ろから抱きしめる思い出の中のイグナーツは、今とまったく同じ瞳をしていた。
その顔を見て、ふと疑問が湧いてくる。先ほどイグナーツは言った。今も母しか選べない、と。
「マルグ……」
母は生きているのかと、そう問おうとしてリーゼロッテは口をつぐんだ。龍に目隠しをされたのだ。それが分かると、他に言いようを何とか探した。
「昨年、父様は山に行ってらしたのですか?」
ハインリヒの言葉を思い出す。実父が健在だと分かった時、イグナーツはどこか山奥に行っていると言っていた。
「去年だけじゃない。オレはマルグリットを探しに、毎年ベトゥ・ミーレに登っている。雪解けが遅れたせいで今年は遅くなっちまったが、今から山に向かうところだ」
「ベトゥ・ミーレ山に……?」
「ああ、あの山は龍の霊峰と呼ばれているが、確かにマルグリットの気を感じるんだ。山頂に行けば行くほど強い気配を……」
睨むような視線を、イグナーツは窓の外に向けた。大事な何かを焦がれる、意志を持った強い瞳だ。
「では母様は……」
「ああ、マルグリットは生きている。オレには分かる。小さくても、今もどこかにいるマルグリットの気が……」
リーゼロッテの言えなかった言葉を、そして知りたかった答えを、イグナーツは淀みなく返してくれた。
「オレは必ずマルグリットを取り戻す。奪わせたままになど、絶対にさせない」
鬼気迫る独白に、思わずその顔を凝視する。そこにあったのは父親ではなく、ひとりの男の姿だった。
「リーゼロッテ……!」
け破る勢いで扉が開け放たれた。イグナーツの腕に収まるリーゼロッテを認めると、ジークヴァルトの眉間のしわが通常の三倍深まった。
「よぉ、ジークヴァルト、邪魔してんぞ。しっかしお前、随分とでかくなったなぁ」
「……イグナーツ様、ご無沙汰しております」
低い低い声音で、ジークヴァルトは丁寧に返した。めずらしく不機嫌を孕んでいるように思えて、リーゼロッテは不思議そうに青の瞳を見上げる。
「イグナーツ様、怖いんで早急にリーゼロッテ嬢を解放してください」
後ろから顔を覗かせたカイが、馬鹿真面目にそんなことを言った。それを受けたイグナーツは、対照的にへらりと笑う。
「何言ってんだ、感動の父娘の再会だろう? ジークヴァルトもそこまで狭量じゃねぇよなぁ?」
「……もちろんです」
「だからマジ怖いんですってば」
顔を青くしているカイをおもしろそうに見やると、イグナーツはようやくリーゼロッテから腕を離した。
「ジークヴァルト、ちょっとこっち来いや」
手招きをして部屋の隅へと誘った。自分より背の高くなったジークヴァルトの肩に腕を回し、顔を下げさせ耳打ちをする。
「お前、まだロッテに手を出してねぇだろう?」
「……婚姻はまだ果たされておりませんので」
「マジでか。お前、託宣の番を前によく我慢できんな。正気の沙汰じゃねぇ。アレか? うちに来た日にロッテに嫌われて、それで怖気づいてるってわけか?」
とても父親の口から出た台詞とは思えず、無表情のままジークヴァルトの眉根が寄せられた。
「まあこのオレが言うのも何だけどよ、ロッテを大事にしてくれてありがとうな。礼に父親としてひとこと言わせてくれ」
急に真面目顔になって、イグナーツはさらに声のトーンを落とした。
「これからシネヴァの森に婚姻の神事に向かうんだろう? いいか、解禁になったからってがっつくんじゃねぇぞ。落ち着いてコトを進めろ。焦らず、騒がず、そしてロッテの嫌がることは絶対にするな」
「焦らず、騒がず、嫌がることはしない……」
「そうだ、冷静に反応を見て、ロッテのよろこぶことにだけ集中しろ」
「リーゼロッテのよろこぶことにだけ……」
「あと緊張を紛らわすために酒は飲みすぎるな。いざというとき勃たなくなんぞ」
「勃……」
言いかけて口をつぐんだジークヴァルトに、イグナーツはどや顔で頷いた。
「以上が先輩からのアドバイスだ」
父としての忠告ではなかったのか。そう思ったものの、ジークヴァルトは神妙な顔で頷き返した。
「あのカイ様……」
こそこそと隅で言い合っているふたりを横目に、リーゼロッテは同じようにその様子を眺めていたカイに遠慮がちに声をかけた。
「ん? 何?」
「あの……ベッティは、今、どうしているのですか……?」
囚われた神殿から救い出されたあの日、ベッティはカイによって助け出された。マテアスにはそう聞かされたが、彼女が大怪我を負ったことをリーゼロッテはあとから知らされた。
「ああ、ベッティなら元気にしてるよ。怪我の具合も大したことなかったみたい。大手柄の褒美に金一封と休暇を貰って、今頃食べ歩きの旅に出てるから」
「そう……でしたか」
放心して息をつく。次の瞬間、リーゼロッテの瞳にもりもりと涙がせりあがった。
「カイ様、わたくし、ベッティになんて言って謝ったらいいのか……」
「うわっ、泣かないで、ベッティならマジで大丈夫だから! マジでマジで泣くのだけはマジ勘弁して……!」
「「カイ……」」
背後から、這うように低い声がハウリングした。恐る恐る振り返ると、ジークヴァルトとイグナーツが、同じ顔をして仲良く肩を並べている。
「ご、誤解です」
「ロッテを泣かすなんざいい度胸じゃねぇか」
「濡れ衣です」
「話なら後で聞く」
「だからオレのせいじゃないですってばっ」
じりじりと追い詰められて、カイはバルコニーから来た隣室へと飛び移った。
「じゃあリーゼロッテ嬢、この先ジークヴァルト様相手に大変だと思うけど、なんとか頑張って!」
「おい、コラ、待て、カイ! ロッテ、オレは行く。そいつ相手に大変だとは思うが、とにかく頑張れ! ジークヴァルト、お前は調子に乗ってヤりすぎんなよ!」
そう言い残すと、イグナーツはカイを追ってバルコニーの柵を乗り越える。嵐のように去っていく背中を、残されたジークヴァルトとともに見送った。
「わたくしは何を頑張れば……?」
むしろ道中、気を張っているのはジークヴァルトの方だ。抱きかかえられているだけの自分には、大変と思えることなど何もない。
静まり返った部屋の中、最後に声をかけることもできなかったことに気づく。そう思うとちょっと悲しい気分になってきた。
手首を掴まれ、腰を引き寄せられる。イグナーツがそうしていたように、ジークヴァルトはリーゼロッテの頭に顔をうずめてきた。
「……イグナーツ父様と、いつかまた会えるでしょうか」
「ああ、きっとな」
「はい……ヴァルト様」
回された大きな腕に安堵する。再会はうれしくもあったが、父とは言え、慣れない温もりはやはりどこか緊張を強いられた。
ほどなくして客船は次の船着き場で停泊した。乗船時と同様、抱きかかえられてタラップを渡る。周囲にイグナーツを探すも、その姿は結局見つけることはできなかった。
待っていた王家の馬車に乗り換える。進む道に合わせてか、今度はひと回り小ぶりの馬車だった。それでも豪奢な馬車には変わりなく、ここでも注目を集める神事の旅のご一行様だ。
乗り込んだ窓から、もう一度客船を見上げた。甲板の柵にもたれるイグナーツを小さく見つけて、リーゼロッテは思わず手を振った。それを受けて、イグナーツも軽く手を上げ返す。さらに大きく手を振ると、嘶きとともに馬車がゆっくりと進み出した。
父の姿が見えなくなっても、リーゼロッテは客船の形をどこまでも目に焼きつけた。いよいよ船影も見えなくなって、そこでようやく窓から顔を離す。
「少し眠るか?」
「いえ、疲れてはおりませんから」
膝の上、甘えるようにもたれかかる。ここ以外、自分の居場所はあり得ない。そう思わせてくれるほどに、ジークヴァルトの体温は心地よかった。
「間もなくバルテン領に入る。今日から数日、子爵家に滞在する予定だ」
「バルテン子爵家に……!?」
驚いて身を起こす。バルテン子爵家はヘッダの生まれた家だ。
東宮で過ごした日々が蘇る。早朝にマンボウが雄叫びを上げ、クリスティーナ王女が涼やかに笑っていた、あの閉ざされた高い塔での日々が。
「ヘッダ様……」
今彼女はどんな思いでいるのだろう。自分の身代わりとなって王女が死したとき、彼女も大きな怪我を負ったと聞いた。療養のためにバルテン領へと戻り、今では王女の護衛騎士だったアルベルトと、夫婦として過ごしているはずだ。
「大丈夫だ、オレもいる」
やさしく髪を梳く手に、涙が溢れそうになる。
「……はい、ヴァルト様」
実際にあふれ出た雫を隠すように、リーゼロッテはその胸に顔をうずめた。それ以上何も言わずに、ジークヴァルトはリーゼロッテの髪をなで続けた。
◇
心が決まらないまま、あっという間にバルテン家に到着してしまった。硬い表情で馬車を降りたリーゼロッテは、ジークヴァルトに手を引かれ子爵家の屋敷へと足を踏み入れる。
「フーゲンベルク公爵様、ダーミッシュ伯爵令嬢様、お待ちしておりました」
エントランスでバルテン子爵夫妻に迎えられた。ヘッダは父親似なのだろう。やさしげなブルーグレーの瞳に、彼女の面影が垣間見える。
「神事での長旅でさぞお疲れでしょう。最大限のおもてなしをさせていただきます。どうぞごゆるりとお過ごしください」
「ああ、世話になる」
「バルテン子爵様、お心遣い感謝いたします」
リーゼロッテが礼を取ると、バルテン夫妻から感嘆の息が漏れた。
「娘には聞いておりましたが、ダーミッシュ伯爵令嬢様は真に所作がお美しいですな」
「ええ、本当に。ヘッダの言っていた通りですわね」
「ヘッダ様が……?」
強張った顔を向けると、夫妻は穏やかな表情で頷いた。
「娘もおふたりにお会いできることをたのしみにしておりました。娘婿のアルベルトとともに間もなくこちらにやってくると思います。何しろまだ怪我の療養中なものでして、お待たせして申し訳ございません」
ほどなくしてエントランスの奥の扉から、車輪が回る音が聞こえてきた。長身の青年に押され、車椅子に乗った女性が現れる。
目を合わせられなくて、リーゼロッテは咄嗟に深く礼を取った。貴族の立場としては、客人である自分の方が上だ。だがそんなことすら考えに及ばないくらい、リーゼロッテの心は大きく波だっていた。
(ヘッダ様と顔を合わせるのが怖い……)
王女は自分の身代わりとなって死んでしまった。龍の決めた定めであったとしても、その事実が消えることはない。
頭を下げた先、車椅子のつま先が視界に入った。すぐ後ろに立つ男はアルベルトなのだろう。それでも顔を上げられなかった。ここで自分が泣くのは卑怯でしかない。溢れだしそうになる涙を、リーゼロッテは必死に押し殺した。
ぎゅっと瞼を閉じる中、横にいたジークヴァルトが息を飲むのを感じた。そしてなぜかジークヴァルトも、ふたりに向けて礼を取る。
車椅子はリーゼロッテの少し手前で止まった。アルベルトに支えられて、ヘッダがゆっくりと立ち上がる。
その気配に身を震わせた。王女が健在な折から、あれだけヘッダに嫌われていたリーゼロッテだ。罵声を浴びせられることを覚悟して、断罪を待つ罪びとのごとく、身動きもせず礼の姿勢を必死に保った。
「久しぶりね、リーゼロッテ」
「え……?」
その声に思わず目を見開いた。
「そんなにかしこまらないでちょうだい。今はあなたの方が身分は上なのだから」
「クリス……ティーナ様……」
顔を上げた先、アルベルトに支えられていたのは、亡くなったはずのクリスティーナ王女だった――
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。バルテン子爵家で待っていたのは、ヘッダ様ではなくクリスティーナ王女で。アルベルト様と並び立つクリスティーナ様の姿を前に、言葉も出ないわたし。そこでふたりから身代わりの託宣の真実を知らされて……。
次回、5章第6話「生まれかわって」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
ハインリヒ王から勅命を頂き、貴族の使命に燃えるリーゼロッテ。しかしその本当の内容は、ジークヴァルトとの婚姻の許可で。
その勘違いに気づきながらも、リーゼロッテをあたたかく旅に送り出す義母クリスタ。心配顔のエラもその意向に従います。
とうとう始まった神事の長旅は、思った以上にゆったりスケジュール。ジークヴァルトは書類仕事に精を出すばかりで、まったく旅に興味を示しません。
想像と違う旅路に意気消沈するも、船に乗ることを知らされるリーゼロッテ。船旅に思いを馳せるのでした。
目の前には精霊のごとく美しい令嬢が、楚々としてソファに腰かけている。微動だにしないその姿は、まるで一枚の絵画のようだ。
そんな令嬢が切なくため息をついた。世話を任された身としては、責任をもって対処しなければならない。勇気を振り絞り、声がけをする。
「どこかお加減がよろしくないのですか?」
「いえ、大丈夫よ」
安心させるように令嬢はふわりと笑った。魅入られそうになって、動揺を悟られないようにとすぐ顔を伏せる。
国を挙げての神事に関わる人選は、厳選に厳選を重ねて行われた。平民でありながら高い倍率の中、選ばれた自身を誇りに思う。だが一抹の不安はぬぐえなかった。
リーゼロッテ・ダーミッシュ。妖精姫と噂される深窓の伯爵令嬢だ。同じ人間とは思えない儚げな佇まいに、今となってはそんな噂にも納得がいった。そのことに大いに安堵する。
何しろ彼女は「悪魔の令嬢」というふたつ名も持っている。どんなに恐ろしい令嬢が現れるのかと、少しばかり臆していた自分がいた。おかしな異名は心無い輩のやっかみだったと、いずれ世間に広めたいと思った。
(だめだめ、ここで見聞きしたことは絶対に秘密厳守)
王家に仕える者の第一条件として、口が堅いことが挙げられる。これが守れない者は、罰せれられるどころか最悪は暗殺コースだ。
気を取り直し置物に徹した。用を言い渡されるまでは、存在を主張することは許されない。
「ね、あなた。もっと楽にしていて構わないのよ? じっとしているのはつらいでしょう?」
「お心遣い感謝いたします。ですが規則となりますれば……」
「そう……わたくし見なかったことにできるから、本当につらくなったら遠慮なく教えてね?」
一瞬、誰に話しかけてきたのか分からなかった。今まで仕えてきた貴族の屋敷で、虫以下の扱いを受けたこともある。道具扱いに慣れていたせいか、面食らって声が震えてしまった。
「ジークヴァルト様!」
開け放たれた扉に、令嬢のエメラルドの瞳が輝いた。彼女の弾む声音とは正反対に、緊張で身が強張るのが自分でも分かった。
現れたのはフーゲンベルクの青い雷と呼ばれる公爵だ。彼女の婚約者であり、人嫌いとして有名だった。
とにかく威圧感がハンパない。同じ空間にいるだけで息ができなくなる勢いだ。震える体を叱咤して、無駄のない動きで紅茶を淹れる。ふたり分のカップをサーブすると、再び置物となるため素早く壁際に移動した。
「お仕事はひと段落ついたのですか?」
「ああ」
花が綻ぶような笑顔を前に、公爵はそっけない言葉だけを返した。もっとやさしくしてやれよ。心の中で思わず舌打ちが漏れて出る。
こちらの苛立ちをよそに、公爵は令嬢をひょいと膝の上に抱え上げた。乗せられた令嬢も、当たり前のようにその身を預けている。
「あーん」
「ヴァルト様もあーんですわ」
目の前の光景に絶句する。いや、声など出してはならないのだが、とにかく我が目を疑った。添えられた大きな手に、令嬢が甘えながら頬ずりをしている。公爵と言えば始終仏頂面だ。それなのに触れる手つきは、壊れ物を扱うかのように慎重だった。
髪を梳きだした公爵の胸に、令嬢は安心しきって身を任せている。貞淑とされる貴族令嬢の爛れた素行は、今まで多く目にしてきた。ふたりの近さは、すでに体をつなげている男女のように見て取れる。だが公爵から漲る緊張は、ただ事ではないようにもこの目に映った。
「もう、ヴァルト様、耳はくすぐったいと申しておりますのに」
「無意識だ」
「ええ、分かっておりますわ」
ふいと顔をそらす公爵に、令嬢は妖精のようにほほ笑んだ。再び胸に顔を預けると、しあわせそうに目をつむる。挙句の果てに令嬢は、うとうととまどろみ始めてしまった。
(男の腕の中でそんな無防備に寝てしまっては危険です……!)
ハラハラしながら心の中で叫んでいた。公爵がどんないたずら心を起こそうと、世話係の立場では見て見ぬふりをしなくてはならないのだから。
フーゲンベルク公爵にまつわる噂は、黒く空恐ろしいものが多すぎる。泣かされた令嬢は数知れず、トラウマになったという話はあちこちで耳にした。そんな公爵の婚約者に選ばれた伯爵令嬢に、同情心を持つのは自然な流れだ。
本格的に寝入った令嬢の髪を、しかし公爵は飽きもせず撫で続けている。耳に触れそうになった指が、慌てたように引っ込められる。それを繰り返している公爵の青い瞳は、静かなのに熱い火が灯っているように見えた。
(純愛……? もしかして純愛なの……?)
眉間にしわを寄せる顔は、今も直視できないほどに恐ろしい。それなのに令嬢に対するまなざしに、好感度が爆上がりしてしまった。
(誰かに話してしまいたい)
人を寄せ付けない魔王のような公爵は、婚約者をこれ以上なく溺愛している。こんなギャップがあるだろうか? この事実が広まれば、公爵の暗い噂も払拭されそうだ。途端に応援してあげたくなった。
(だめよ、だめだめ。口外厳禁!)
盗み見がバレたのか、公爵がこちらをぎりりと睨んできた。隠すようにすぐさま令嬢を抱き直す。
(嫉妬? 公爵様、嫉妬なのね!?)
女の自分にも婚約者の寝顔を見せたくないなど、どんだけ好きすぎるというのだろうか。興奮で荒くなる呼吸を、どうにかこうにかやり過ごす。
(ううう、誰かに話したいぃっ)
ふと幼馴染の劇作家を思い出した。彼は常にアイデアに飢えている。事実でないように装って、ふたりのことを伝えてしまっても構わないのではなかろうか。
そんなとある世話係の葛藤がきっかけで、魔王と攫われた令嬢の甘い物語が、王都の劇場で演じられることになる。巷のふたりの目撃情報も相まって、人気の演目として長きに渡り大流行するのであった。
◇
日よけの帽子を目深にかぶり、抱き上げられたまま船のタラップを渡る。揺れに驚き首筋にしがみつくも、安定感ある足取りでジークヴァルトは船へと乗り込んだ。
それにしても大きな川だ。緩やかな流れは湖のようにも思え、目を凝らしてようやく見える対岸に、やはり川なのだと納得する。
「この船は随分と立派なのですね」
「富裕層向けの客船だからな」
船着き場は大勢の人でにぎわっていた。護衛騎士に守られて馬車を降りる様子は、いつものように好奇の目に晒された。船の乗客は身なりのいい者ばかりだったが、やはりここでも視線が刺さる。
「ヴァルト様、少しだけでも甲板を歩かせていただけませんか? 船に乗るなどこの先もうないかもしれませんから」
上目づかいで懇願する。難しい顔をしながらも、ジークヴァルトはゆっくりとその場に立たせてくれた。差し伸べられた手を取って、リーゼロッテははにかむ笑顔を真っすぐ向けた。
目が合うとジークヴァルトの眉間のしわが深まった。周囲の異形が騒ぎだす気配がしたが、それもほんの一瞬のことだ。
(公爵家の呪いかと思ったけど……気のせいだった?)
畳まれた帆のロープだけが風になびく中、ジークヴァルトのエスコートに従った。夜会のような隙のないエスコートだ。周囲の視線を痛いほどに感じるが、歩かせてもらえるだけましだろう。下船まで抱き上げられたままでいたらと思うと、このくらいはへっちゃらだ。
こちらをチラ見しながら、ひそひそと会話がなされていく。身なりからして裕福な平民なのだろう。
(社交界で噂にならなければ、まぁいっか)
どうぞお好きなだけと思いながら、素知らぬ顔で移動した。
「歩かせるのは船が動き出すまでだ」
「分かりましたわ。わたくし、船の先に行ってみたいです」
ふたりで甲板を進む。今は新緑の季節だ。束の間の春を経て、雪を見ない短い季節がやってくる。吹き抜ける風が帽子の下の髪を攫っていって、リーゼロッテは眩しく青空を見上げた。
大きな船はさほど揺れを感じない。床板を踏みしめ船首まで行くと、陽光を返す川の流れが眺めよくどこまでも見渡せた。
「ヴルティエ河ってこんなに大きかったのですね」
「ああ」
王都の街中で橋を渡ることはあったが、こう目の当たりにすると感嘆のため息が漏れて出る。
川岸に視線をやると、見送りのギャラリーがごった返していた。平民の着る服も異国風だ。賑わう雑踏の雰囲気も熱気も飛び交う会話も、リーゼロッテの日常にないものばかりで埋め尽くされている。
(異世界情緒にあふれてる……って言うのもおかしな話かしら)
見るものすべてが目新しい。この国に転生したものの、今まであまりにも狭い世界にいたのだと改めて思った。
「もっと先端には行けないのですか?」
安全のためか、船首の手前には鎖が張られている。
(先の先まで行ければアレができるのに……)
後ろからジークヴァルトに抱きしめられ、向かい風を受け両手を広げる。脳内でえんだぁあ~とBGMが流れていたリーゼロッテの思考を遮るように、ジークヴァルトの手がぐっと力を籠めてきた。
「駄目だ、危険だ」
「分かりましたわ。わがままは申しません」
さすがにタイ〇ニックごっこがしたいとは言えるはずもない。素直に頷いて、来た方向を引き返した。
ゆっくりと渡る船内で、行く先行く先に船員と思しき男たちが現れる。はじめは気のせいかと思ったが、気づくと不自然と思えるほどの船員たちが周囲を囲っていた。
近づいてくるわけではないが、見ていない方向から熱視線を感じた。そちらへ顔を向けるとさっと視線をそらされる。四方がそんな感じなため、リーゼロッテは困惑気味に首をかしげた。
「あの方たちは何か御用なのでしょうか……?」
その割に話しかけてくるでもない。こちらの移動と共に船員たちも移動する。遠巻きにリーゼロッテを見やっては、こそこそと何かを言い合っているだけだ。
「やはり駄目だ」
唐突に言って、ジークヴァルトがいきなり抱き上げてきた。急なことに首筋にしがみつく。
「でもまだ船は動いては……」
「駄目だ、危険だ、いいから黙ってオレに抱かれていろ」
耳元で言われ頬が朱に染まる。
(だから、言い方ァ……!)
恥ずかしさをごまかすために、その胸に顔をうずめるしかないリーゼロッテだった。
◇
「絶対にこの部屋からは出るなよ」
「はい、承知しておりますわ」
いつものように釘を刺され、リーゼロッテはにっこりと笑顔を返した。最近は力の制御が上手くなり、いたずらに異形を引き寄せることもなくなった。それこそジークヴァルトの守り石がなくても平気なほどだ。
それでもジークヴァルトはリーゼロッテに守り石を持たせ続けている。胸に揺れるペンダントだけでなく、身に纏う衣装にもふんだんに盛り込まれていた。リーゼロッテにしてみても、お守りのような存在だ。肌身離さず身に着けていないと、今では落ち着かなくて仕方がない。
今後の旅路の打ち合わせがあるとかで、ジークヴァルトは部屋を後にした。しっかりと内鍵を掛け、リーゼロッテはひとり船室を見回していく。
「すっごい豪華……」
船の中とは思えない。内装も品が良く、高級ホテルのスイートルームのような室内だ。
冒険するように広い部屋を渡り歩いた。立派なソファが置かれた居間、窓辺には丸テーブルと二脚の椅子が、ツインのベッドルームにシャワールームまで完備されている。
ひと通り見終わるとガラス戸を押し開け、リラックスチェアが置かれたバルコニーへと出た。高い位置からの眺望に、この部屋が最上クラスだということが見て取れる。
船員たちのかけ声と共に、錨を上げる鎖の音が空を渡る。いつの間にか張られた帆が、吹きゆく風に大きく膨らんだ。
気づかないくらいにゆっくりと、船は動き出していた。見送りの歓声に離岸したことを知る。
帆向きが変えられ、船は速度を増していく。対岸の景色がゆっくりと移動していくが、見下ろす川のしぶきはこの船の速さを物語っていた。
「綺麗……」
流れる景色を飽きもせずに眺めた。眩しい太陽が少し暑いくらいに照りつけるが、吹く風がそれを忘れさせてくれる。雲ひとつない空を見上げ、リーゼロッテは思い切り息を吸いこんだ。
「マルグリット……っ!」
緊迫した呼び声とともに、何者かが隣室のバルコニーの手すりを乗り越えてきた。突然のことに声を上げる暇もなく、振り向きざま荒くかき抱かれる。
後頭部を押さえられ、リーゼロッテは男と至近距離で見つめ合った。銀髪の、つり気味の金の瞳が冷たい印象の男だ。性急な動きで顎をつかみ、男はリーゼロッテの唇を奪おうとした。
「わ、駄目ですって! その人はイグナーツ様のご息女ですよっ!!」
慌てたカイの声がする。痛いくらいに自分を抱きしめる男を、カイは後ろから羽交い絞めにした。
「ロッテ……リーゼロッテなのか……?」
目を見開いたまま、男がかすれた声で言う。直後その瞳から、滂沱の涙があふれ出た。一見クールそうに見える精悍な男が、すぐ目の前で号泣している。
大の男が泣く姿など今まで見たことがなかったリーゼロッテは、身を固くしたまま、ただ呆然と立ち尽くした。
◇
「おぉおうおぅおう、ロッテぇ、不甲斐ないオレを許してくれぇえ……!」
ソファの上、リーゼロッテを膝の間に座らせた状態で、男、イグナーツは号泣し続けている。
「あの、あなたは、イグナーツ父様……なのですね?」
確かめるように問うと、イグナーツの涙が一瞬だけひっこんだ。
「こんなオレをまだ父と呼んでくれるのか……なんて、なんていい子なんだ、リーゼロッテぇえぇぇ……!」
耳元での大音量に、思わず首をすくませる。それでも髪に顔をうずめ抱きしめてくるイグナーツを、リーゼロッテは振り払うことはできなかった。
「イグナーツ様、いい加減泣き止んでくださいよ」
呆れる声音のカイが手慣れた手つきで紅茶をサーブしてくる。
「カイ様……」
「積もる話もあると思うからオレは席を外すよ。ジークヴァルト様はどこ?」
「旅の打ち合わせにと……」
「そっか、ちょっと探してくる。先に言っとかないと、あとで何されるか分からないしね」
ウィンクをひとつ残して、カイは船室を出ていった。実の父親と取り残された中、リーゼロッテは何を言ったものかと言葉を探した。
「マルグリットの気配がする……」
相変わらず髪に顔をうずめたまま、くぐもった声でイグナーツが言った。においを堪能するように、何度も何度も鼻から息を吸い込んでいく。
「……マルグリット母様の力が、今もわたくしを守っていますから」
「ああ……あの日、マルグリットはずっとロッテの心配をしていた……」
号泣はすすり泣きに変わっていた。
「すまない、リーゼロッテ……オレはお前を捨てた。あの時も、今も……オレにはマルグリットしか選べない……」
「イグナーツ父様……」
顔を上げた先、揺れる金の瞳と見つめ合う。泣きはらした顔を見て、リーゼロッテも次第に涙目になった。
「いいえ……わたくし、ちゃんと覚えております。イグナーツ父様とマルグリット母様と、三人で過ごしたしあわせな日を」
「ロッテ……」
涙の防波堤が、ふたり同時に決壊する。互いを抱きしめて、合唱するようにわんわんと泣き合った。
ひとしきり涙をこぼすと、すんと鼻をすすった。赤くなった鼻を見て、どちらともなく笑みがこぼれる。
「ロッテはいい子に育ったな……ダーミッシュ伯爵はとてもできた人だろう?」
「はい、ダーミッシュの義父は、わたくしを本当の家族のように受け入れてくれました」
「養子先を選んだのはディートリヒ王だったが、伯爵には本当に感謝だな」
やさしげに細められた瞳は、記憶に残る父そのものだった。年齢は経ていても、母を後ろから抱きしめる思い出の中のイグナーツは、今とまったく同じ瞳をしていた。
その顔を見て、ふと疑問が湧いてくる。先ほどイグナーツは言った。今も母しか選べない、と。
「マルグ……」
母は生きているのかと、そう問おうとしてリーゼロッテは口をつぐんだ。龍に目隠しをされたのだ。それが分かると、他に言いようを何とか探した。
「昨年、父様は山に行ってらしたのですか?」
ハインリヒの言葉を思い出す。実父が健在だと分かった時、イグナーツはどこか山奥に行っていると言っていた。
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「ベトゥ・ミーレ山に……?」
「ああ、あの山は龍の霊峰と呼ばれているが、確かにマルグリットの気を感じるんだ。山頂に行けば行くほど強い気配を……」
睨むような視線を、イグナーツは窓の外に向けた。大事な何かを焦がれる、意志を持った強い瞳だ。
「では母様は……」
「ああ、マルグリットは生きている。オレには分かる。小さくても、今もどこかにいるマルグリットの気が……」
リーゼロッテの言えなかった言葉を、そして知りたかった答えを、イグナーツは淀みなく返してくれた。
「オレは必ずマルグリットを取り戻す。奪わせたままになど、絶対にさせない」
鬼気迫る独白に、思わずその顔を凝視する。そこにあったのは父親ではなく、ひとりの男の姿だった。
「リーゼロッテ……!」
け破る勢いで扉が開け放たれた。イグナーツの腕に収まるリーゼロッテを認めると、ジークヴァルトの眉間のしわが通常の三倍深まった。
「よぉ、ジークヴァルト、邪魔してんぞ。しっかしお前、随分とでかくなったなぁ」
「……イグナーツ様、ご無沙汰しております」
低い低い声音で、ジークヴァルトは丁寧に返した。めずらしく不機嫌を孕んでいるように思えて、リーゼロッテは不思議そうに青の瞳を見上げる。
「イグナーツ様、怖いんで早急にリーゼロッテ嬢を解放してください」
後ろから顔を覗かせたカイが、馬鹿真面目にそんなことを言った。それを受けたイグナーツは、対照的にへらりと笑う。
「何言ってんだ、感動の父娘の再会だろう? ジークヴァルトもそこまで狭量じゃねぇよなぁ?」
「……もちろんです」
「だからマジ怖いんですってば」
顔を青くしているカイをおもしろそうに見やると、イグナーツはようやくリーゼロッテから腕を離した。
「ジークヴァルト、ちょっとこっち来いや」
手招きをして部屋の隅へと誘った。自分より背の高くなったジークヴァルトの肩に腕を回し、顔を下げさせ耳打ちをする。
「お前、まだロッテに手を出してねぇだろう?」
「……婚姻はまだ果たされておりませんので」
「マジでか。お前、託宣の番を前によく我慢できんな。正気の沙汰じゃねぇ。アレか? うちに来た日にロッテに嫌われて、それで怖気づいてるってわけか?」
とても父親の口から出た台詞とは思えず、無表情のままジークヴァルトの眉根が寄せられた。
「まあこのオレが言うのも何だけどよ、ロッテを大事にしてくれてありがとうな。礼に父親としてひとこと言わせてくれ」
急に真面目顔になって、イグナーツはさらに声のトーンを落とした。
「これからシネヴァの森に婚姻の神事に向かうんだろう? いいか、解禁になったからってがっつくんじゃねぇぞ。落ち着いてコトを進めろ。焦らず、騒がず、そしてロッテの嫌がることは絶対にするな」
「焦らず、騒がず、嫌がることはしない……」
「そうだ、冷静に反応を見て、ロッテのよろこぶことにだけ集中しろ」
「リーゼロッテのよろこぶことにだけ……」
「あと緊張を紛らわすために酒は飲みすぎるな。いざというとき勃たなくなんぞ」
「勃……」
言いかけて口をつぐんだジークヴァルトに、イグナーツはどや顔で頷いた。
「以上が先輩からのアドバイスだ」
父としての忠告ではなかったのか。そう思ったものの、ジークヴァルトは神妙な顔で頷き返した。
「あのカイ様……」
こそこそと隅で言い合っているふたりを横目に、リーゼロッテは同じようにその様子を眺めていたカイに遠慮がちに声をかけた。
「ん? 何?」
「あの……ベッティは、今、どうしているのですか……?」
囚われた神殿から救い出されたあの日、ベッティはカイによって助け出された。マテアスにはそう聞かされたが、彼女が大怪我を負ったことをリーゼロッテはあとから知らされた。
「ああ、ベッティなら元気にしてるよ。怪我の具合も大したことなかったみたい。大手柄の褒美に金一封と休暇を貰って、今頃食べ歩きの旅に出てるから」
「そう……でしたか」
放心して息をつく。次の瞬間、リーゼロッテの瞳にもりもりと涙がせりあがった。
「カイ様、わたくし、ベッティになんて言って謝ったらいいのか……」
「うわっ、泣かないで、ベッティならマジで大丈夫だから! マジでマジで泣くのだけはマジ勘弁して……!」
「「カイ……」」
背後から、這うように低い声がハウリングした。恐る恐る振り返ると、ジークヴァルトとイグナーツが、同じ顔をして仲良く肩を並べている。
「ご、誤解です」
「ロッテを泣かすなんざいい度胸じゃねぇか」
「濡れ衣です」
「話なら後で聞く」
「だからオレのせいじゃないですってばっ」
じりじりと追い詰められて、カイはバルコニーから来た隣室へと飛び移った。
「じゃあリーゼロッテ嬢、この先ジークヴァルト様相手に大変だと思うけど、なんとか頑張って!」
「おい、コラ、待て、カイ! ロッテ、オレは行く。そいつ相手に大変だとは思うが、とにかく頑張れ! ジークヴァルト、お前は調子に乗ってヤりすぎんなよ!」
そう言い残すと、イグナーツはカイを追ってバルコニーの柵を乗り越える。嵐のように去っていく背中を、残されたジークヴァルトとともに見送った。
「わたくしは何を頑張れば……?」
むしろ道中、気を張っているのはジークヴァルトの方だ。抱きかかえられているだけの自分には、大変と思えることなど何もない。
静まり返った部屋の中、最後に声をかけることもできなかったことに気づく。そう思うとちょっと悲しい気分になってきた。
手首を掴まれ、腰を引き寄せられる。イグナーツがそうしていたように、ジークヴァルトはリーゼロッテの頭に顔をうずめてきた。
「……イグナーツ父様と、いつかまた会えるでしょうか」
「ああ、きっとな」
「はい……ヴァルト様」
回された大きな腕に安堵する。再会はうれしくもあったが、父とは言え、慣れない温もりはやはりどこか緊張を強いられた。
ほどなくして客船は次の船着き場で停泊した。乗船時と同様、抱きかかえられてタラップを渡る。周囲にイグナーツを探すも、その姿は結局見つけることはできなかった。
待っていた王家の馬車に乗り換える。進む道に合わせてか、今度はひと回り小ぶりの馬車だった。それでも豪奢な馬車には変わりなく、ここでも注目を集める神事の旅のご一行様だ。
乗り込んだ窓から、もう一度客船を見上げた。甲板の柵にもたれるイグナーツを小さく見つけて、リーゼロッテは思わず手を振った。それを受けて、イグナーツも軽く手を上げ返す。さらに大きく手を振ると、嘶きとともに馬車がゆっくりと進み出した。
父の姿が見えなくなっても、リーゼロッテは客船の形をどこまでも目に焼きつけた。いよいよ船影も見えなくなって、そこでようやく窓から顔を離す。
「少し眠るか?」
「いえ、疲れてはおりませんから」
膝の上、甘えるようにもたれかかる。ここ以外、自分の居場所はあり得ない。そう思わせてくれるほどに、ジークヴァルトの体温は心地よかった。
「間もなくバルテン領に入る。今日から数日、子爵家に滞在する予定だ」
「バルテン子爵家に……!?」
驚いて身を起こす。バルテン子爵家はヘッダの生まれた家だ。
東宮で過ごした日々が蘇る。早朝にマンボウが雄叫びを上げ、クリスティーナ王女が涼やかに笑っていた、あの閉ざされた高い塔での日々が。
「ヘッダ様……」
今彼女はどんな思いでいるのだろう。自分の身代わりとなって王女が死したとき、彼女も大きな怪我を負ったと聞いた。療養のためにバルテン領へと戻り、今では王女の護衛騎士だったアルベルトと、夫婦として過ごしているはずだ。
「大丈夫だ、オレもいる」
やさしく髪を梳く手に、涙が溢れそうになる。
「……はい、ヴァルト様」
実際にあふれ出た雫を隠すように、リーゼロッテはその胸に顔をうずめた。それ以上何も言わずに、ジークヴァルトはリーゼロッテの髪をなで続けた。
◇
心が決まらないまま、あっという間にバルテン家に到着してしまった。硬い表情で馬車を降りたリーゼロッテは、ジークヴァルトに手を引かれ子爵家の屋敷へと足を踏み入れる。
「フーゲンベルク公爵様、ダーミッシュ伯爵令嬢様、お待ちしておりました」
エントランスでバルテン子爵夫妻に迎えられた。ヘッダは父親似なのだろう。やさしげなブルーグレーの瞳に、彼女の面影が垣間見える。
「神事での長旅でさぞお疲れでしょう。最大限のおもてなしをさせていただきます。どうぞごゆるりとお過ごしください」
「ああ、世話になる」
「バルテン子爵様、お心遣い感謝いたします」
リーゼロッテが礼を取ると、バルテン夫妻から感嘆の息が漏れた。
「娘には聞いておりましたが、ダーミッシュ伯爵令嬢様は真に所作がお美しいですな」
「ええ、本当に。ヘッダの言っていた通りですわね」
「ヘッダ様が……?」
強張った顔を向けると、夫妻は穏やかな表情で頷いた。
「娘もおふたりにお会いできることをたのしみにしておりました。娘婿のアルベルトとともに間もなくこちらにやってくると思います。何しろまだ怪我の療養中なものでして、お待たせして申し訳ございません」
ほどなくしてエントランスの奥の扉から、車輪が回る音が聞こえてきた。長身の青年に押され、車椅子に乗った女性が現れる。
目を合わせられなくて、リーゼロッテは咄嗟に深く礼を取った。貴族の立場としては、客人である自分の方が上だ。だがそんなことすら考えに及ばないくらい、リーゼロッテの心は大きく波だっていた。
(ヘッダ様と顔を合わせるのが怖い……)
王女は自分の身代わりとなって死んでしまった。龍の決めた定めであったとしても、その事実が消えることはない。
頭を下げた先、車椅子のつま先が視界に入った。すぐ後ろに立つ男はアルベルトなのだろう。それでも顔を上げられなかった。ここで自分が泣くのは卑怯でしかない。溢れだしそうになる涙を、リーゼロッテは必死に押し殺した。
ぎゅっと瞼を閉じる中、横にいたジークヴァルトが息を飲むのを感じた。そしてなぜかジークヴァルトも、ふたりに向けて礼を取る。
車椅子はリーゼロッテの少し手前で止まった。アルベルトに支えられて、ヘッダがゆっくりと立ち上がる。
その気配に身を震わせた。王女が健在な折から、あれだけヘッダに嫌われていたリーゼロッテだ。罵声を浴びせられることを覚悟して、断罪を待つ罪びとのごとく、身動きもせず礼の姿勢を必死に保った。
「久しぶりね、リーゼロッテ」
「え……?」
その声に思わず目を見開いた。
「そんなにかしこまらないでちょうだい。今はあなたの方が身分は上なのだから」
「クリス……ティーナ様……」
顔を上げた先、アルベルトに支えられていたのは、亡くなったはずのクリスティーナ王女だった――
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。バルテン子爵家で待っていたのは、ヘッダ様ではなくクリスティーナ王女で。アルベルト様と並び立つクリスティーナ様の姿を前に、言葉も出ないわたし。そこでふたりから身代わりの託宣の真実を知らされて……。
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※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
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