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第5章 森の魔女と託宣の誓い
第4話 はなむけの言葉
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【前回のあらすじ】
受け継いだ記憶の声に日々悩まされるハインリヒ。カイの報告書でリーゼロッテを巡る事件の真相をようやく知り、事の大きさに愕然とします。
一方、謹慎が解けたジークヴァルトは王城出仕を再開。大きな怒りと不信感を抱えたまま、ハインリヒの呼び出しに応じます。そこで言い渡されたのは降りた神託の遂行と、リーゼロッテとの婚姻前倒しの許しで。
リーゼロッテのちょっとした危機に守護者に呼び戻されるも、突然の話に舞い上がるジークヴァルトなのでした。
「わたくしに王の勅命が……?」
王城からの使いに、丸められた書状を手渡される。恭しく差し出されたその一枚を、震える手つきで受け取った。
巻きつけられた紐を解くと、物々しい文章が書き連ねられている。あて名には確かにリーゼロッテ・ダーミッシュの文字が。文末にはハインリヒ王の直筆の署名と共に、赤い王印が色鮮やかに押されていた。
(はじめての責務を承ったんだわ……!)
これまでもあっちでこっちで王命による保護を受けてきた。だがどれもリーゼロッテを守るためのものだ。
(でもこれは違う。王からちゃんとした命を頂いたのよ)
自分でも国の役に立てるのだ。一人前の貴族として認められた瞬間に、感動のあまり涙がせりあがる。
なんとか堪えて、勅命書に目を滑らせた。そこには小難しい専門用語が並んでいて、なかなかに理解が難しい。
察するに大体のところ、ジークヴァルトに降りた神託のお供として、国の最果ての地、シネヴァの森に向かえということらしい。そこでリーゼロッテも神事に参加して、共に儀式を受けてくるようにとのことだった。
お供とはいえ、国の神事を担う大役だ。感慨深く瞳を潤ませ、王城へと帰っていく使者の背をいつまでも見送った。
不機嫌顔のジークヴァルトに腰を抱き寄せられる。不安定な体勢で寄りかかったまま、広げた書状に再び目を落とした。
(はじめてのお使い! 初めての旅行……!)
それもずっとジークヴァルトと一緒の旅だ。
高鳴った胸でリーゼロッテは、ジークヴァルトの顔をじっと見上げた。
◇
「今回の旅にはわたしはついて行けないのですね……」
旅路の支度を進めながらも、エラはずっと同じ台詞を言い続けている。
「今回は王命だし、行く先々でちゃんとお世話係を用意してくれるそうよ? エラは新婚なんだもの。マテアスとふたりの時間を心ゆくまで過ごしてちょうだい」
侍女はいなくても大概のことはひとりでできる。エラの心配をよそに、リーゼロッテは始終うきうき顔だ。
この国は南北に延びた縦長の地形で、四方を山脈で囲まれている。最南に王都があり、今回目指すは最北の地であるシネヴァの森だ。巷では森には魔女が住むと言われているが、王族の血筋の巫女姫が神事を務めているのが本当のところだ。
(巫女姫と言っても、相当お年を召しているのよね)
クリスティーナ王女から聞いた話では、森の巫女は彼女の高祖伯母とのことだった。いつかハインリヒにも言われたが、会えば魔女と呼ばれる所以が分かるらしい。
(普通に考えて百歳は超えてそうだわ……やっぱり白雪姫とかシンデレラに出てくる魔女みたいな方なのかしら……?)
黒い魔女服にとんがり帽子。鷲鼻の魔女が箒に乗って空を飛ぶ。そんな想像がリーゼロッテの頭の中を駆け抜けた。
◇
(なんて言うか、慣れって怖いわね……)
準備の合間を縫って、今はジークヴァルトとティータイム中だ。膝に乗せられあーんをされる。こんなやり取りを使用人に見られても、もはや恥ずかしさを感じない。
出発の日が迫る中、ジークヴァルトは普段以上に忙しそうにしている。何しろ領主が長期間屋敷を離れるのだ。今のうちにやれるだけのことはやっておけとのマテアスの指令らしかった。
シネヴァの森に向かうにあたり吉方位があるとかで、進む方角や滞在日数も事細かに決められている。行って帰って一か月はかかる長旅なので、マテアスの言い分も仕方のない事だった。
そう思ってもジークヴァルトの体が心配だ。うっすらとできた目の下のくまをなぞりながら、リーゼロッテは伺うように声をかけた。
「あまりお眠りになっていないのでしょう? わたくしとの時間はお昼寝にあててくださって構いませんわ」
「必要ない。眠かったらお前は眠るといい」
「わたくしは十分すぎるくらい眠っております。それよりもヴァルト様ですわ」
「オレは寝なくてもいられる体質だ。問題ない。心配するな」
「ですが……」
髪を梳き出したやさしい手つきに、リーゼロッテの方が本当に眠くなってくる。相変わらずジークヴァルトが自分を頼ることはない。そのことがやはりさみしく思えた。
(わたしももっとしっかりしないと……)
王命よりも何よりも、ジークヴァルトの役に立ちたいのだとようやく気づく。どんと胸を貸せるくらいには、強い人間になりたかった。
胸と思ってリーゼロッテは思わず顔を赤らめた。お風呂での異形の騒ぎがあって以来、日常で突然羞恥がぶり返す。
あのおしりもろ出し事件では、ジークヴァルトに鼻で笑われただけだった。いくらその手のことに興味が薄いとはいえ、あの反応はあんまりだろう。
濡れて張り付いたガウンのせいで、小胸に戻ったのがバレてしまったのか。順調に体力は戻ってきているものの、体型は未だ寸胴と呼ぶに相応しい。
その後、顔を合わせても、ジークヴァルトは変わらず平然としたままだ。それが悔しいやら悲しいやらで、何ともやるせない日々を送っているリーゼロッテだ。
だがジークヴァルトに逆恨みをしても仕方がない。思いの通じ合った相手に、興味すら持たれない体がひたすら恨めしく思えてならなかった。
(バストアップも再開しなくちゃだわ……)
涙目でそんなことを思う。しかし長旅を前に体力作りを優先させなくてはならなくて、豊胸エクササイズは二の次になっていた。
「どうした? 何か心配事か?」
「い、いいえ、なんでもございません」
ばいん! とせり出した胸を突きつけて、いつか目にもの見せてやる。余裕の表情のジークヴァルトを前に、そんな決意を固めたのだった。
◇
旅立ちまで一週間を切ったある日、リーゼロッテはそわそわと客人の到着を待っていた。出発の前に、ダーミッシュの家族が会いに来てくれると手紙が来たのだ。
伯爵家にはもう一年近く帰っていない。もはやフーゲンベルク家が第二の我が家になりつつあった。
「お義父様、お義母様、ルカも……!」
訪れた三人と順にハグをする。義母のクリスタとは本当に久しぶりだ。顔を見ただけで急にホームシックな気分になってしまった。
「リーゼロッテ、いろいろと大変だったね」
「ずっと心配していたのよ」
「義姉上、少しお痩せになったのではありませんか?」
リーゼロッテは東宮と王城で保護を受けていたことになっている。神殿で囚われていたことは、表向きなかったことにされていた。
「わたくしなら大丈夫ですわ。それよりも今は旅のことで頭がいっぱいで」
「ふふ、リーゼは長い旅行は初めてだものね」
「国を縦断するんですよね? いろんな土地に行けるなんて義姉上がうらやましいです! わたしも同行させてもらえないでしょうか?」
「ルカ、リーゼロッテは遊びに行くわけではないんだ。浮ついたことを言うものではない」
フーゴが厳しい声音で窘める。けろっとしているルカの横で、リーゼロッテが意気消沈な顔をした。
「お義父様……王命をいただいたのに、わたくしこそちょっと浮ついておりましたわ」
「リーゼはいいんだよ。一生に一度の大切な旅なのだから」
「そうね、気負わずに、ジークヴァルト様と旅をたのしんでくるといいわ」
「ありがとうございます、お義父様、お義母様……。初めての貴族としてのお勤めですもの。わたくし国のために、しっかりと責務を果たしてまいりますわ!」
決意も新たに握りこぶしを作る。そんなリーゼロッテを見て、フーゴが戸惑ったように首をかしげた。
「リーゼ? 今回の王命は……」
「いいのよ、あなた。そのことはあとでわたくしから心構えを伝えておくわ」
「あ、ああ、そうだな。クリスタ、任せたよ」
両親の小声のやり取りに、リーゼロッテは憧れのまなざしを向けた。ふたりの信頼し合った関係は、理想の夫婦そのものだ。
「エラ、すまないが、そこのところはクリスタと共に頼んだよ」
「お任せください、旦那様。出発前はもとより、お戻りになられた後のことは、このエラが全力でお力にならせていただきます」
「エラがそばにいてくれたら、これから先もずっと安心ね。ね、あなた」
「ああ。だがこんな時、父親にできることはほとんどないものだな。そう思うと少し寂しいよ」
切なげにため息をついたフーゴに、リーゼロッテは安心させるように力強く頷いた。
「お義父様、心配はご無用ですわ。わたくし道中は、ダーミッシュ伯爵家の名に恥じない振る舞いをしてまいりますから」
「そうですよ、父上。義姉上は誰よりも立派な淑女ではないですか」
「いや、わたしはそんな心配をしているわけではないんだが……」
「あなた」
クリスタの目配せに、フーゴは何か言いたげなまま口をつぐんだ。
話を弾ませているルカとリーゼロッテを横目に、クリスタがフーゴに耳打ちをする。
「いいからわたくしに任せて」
「だがリーゼはこの旅を何か勘違いしてないか?」
王家からジークヴァルトとの婚姻の命が言い渡された。今回の旅の目的はふたりが夫婦となる許可を、シネヴァの森の巫女に貰ってくるというものだ。しかし当のリーゼロッテは王命で神事を務めるだけの気でいるように見える。
「それを含めて任せてちょうだい」
「そうは言ってもだな……」
いつか来るとは分かっていたが、可愛い娘がいよいよお嫁に行ってしまうのだ。
しかも古の作法に則って、最果ての地で婚姻の神事を行うとの通達に驚いた。今やそんな古くさい段取りを取る貴族などそうそういない。嫁ぐ先は歴史ある公爵家だと納得するも、リーゼロッテが花嫁となる瞬間を、この目で見られないのが残念でならなかった。
「とにかく行った先でリーゼがショックを受けないよう、やんわりと伝えてくれるかい? 着いていきなりだと可哀想だ。ああ、それにジークヴァルト様は儀式が終わるまで我慢してくださるだろうか……万が一道中で可愛いリーゼが襲われたりでもしたら……」
「あなたと違ってジークヴァルト様は誠実な方だもの。そんな心配はいらないわ」
クリスタに冷たく言われ、フーゴはバツの悪そうな顔をした。
フーゴは婚約中に我慢できなくて、無垢なクリスタに手を出してしまった口だ。野獣のように押し倒し、事が済んだ後に盛大に怯えられて、その後しばらくはろくに顔も合わせて貰えなかった。夫婦となる日まで毎日花を贈り続け、ようやくクリスタに許して貰えたフーゴだった。
「あの時は本当にすまなかった……クリスタのことが愛おしすぎて……」
リーゼロッテにはそんな怖い思いをさせまいと、フーゴはジークヴァルトと「婚前交渉、ダメ絶対契約」を結んだのだ。
とは言え、契約はすぐに破られるだろう。リーゼロッテを公爵家に預けることになった時、フーゴは半ばそう諦めた。だがジークヴァルトは誠意を持って今までよく耐えてくれた。そんな彼なら大事な娘を安心して託せると言うものだ。
「お義父様、お義母様、内緒話ですか?」
こそこそと話し合う姿が仲睦まじげに見えたのか、リーゼロッテが微笑ましそうに目を細めてくる。どこに出しても恥ずかしくない立派な娘に育ってくれた。改めて思ってフーゴは胸を熱くした。
「お義父様ったら、そんなにご心配なさらなくても、わたくし本当に大丈夫ですわ」
「ああ、そうだね。リーゼ……お前は自慢の娘だ。どこに行ってもわたしたちはずっと家族だよ」
「はい、お義父様……」
つられるようにリーゼロッテも目を潤ませる。
「絶対に粗相などしないよう、細心の注意を払いますわ」
「いや、そうではないんだが……」
ずっと旅での振る舞いを気にしているリーゼロッテに苦笑いを送った。
「そういえばわたくしが子供の頃に、マナーを教えてくださったご夫人がいらっしゃいましたでしょう?」
突然の問いかけに、フーゴとクリスタは目を見合わせる。一拍置いたのちに、フーゴが探るような声音で問い返した。
「ああ、いたね。それがどうしたんだい?」
「わたくし記憶が曖昧で、その方のお名前を忘れてしまったのです。どこかでお会いして失礼をしたくないので、改めてお名前を教えていただけますか?」
「なんだ、そういうことか。彼女はアルブレヒツベルガー夫人だよ」
フーゴはほっとしたように笑顔で答えた。
「あるれひれかつべるがー夫人?」
「アルブレヒツベルガー夫人よ、リーゼ」
「あるぶつれひべぶ……」
「義姉上、アルブレヒツベルガー夫人ですよ」
「あるぶぶつべ……」
舌を噛みながら、みるみるうちに涙目になっていく。
「お嬢様! わたしが紙に綴りを書きますから、後でゆっくり練習いたしましょう!」
「ありがとう、エラ……大人になった今でも覚えられないなんて……」
しょんぼりするリーゼロッテをみなは微笑ましそうに見やった。
「リーゼ、もっとゆっくりしていきたいのだけれど、これからルカとレルナー公爵家に訪問する予定なんだ」
「そうなのですね。ルカ、ツェツィーリア様によろしくお伝えしてね」
「はい、もちろんです!」
「クリスタはジークヴァルト様に滞在の許可をいただいたから、ふたりでゆっくり話をするといい。クリスタ、くれぐれも頼んだよ」
「ええ、あなた。心配はしないで」
名残惜しそうにフーゴはルカを連れてフーゲンベルク家を後にした。
◇
「お義母様とこんなふうにお話できるのも久しぶりですわね」
「そうね、リーゼが小さい頃から何度もこうして過ごしたものね」
リーゼロッテが初めてダーミッシュ家にやってきた日のこと。何気ない日常、笑い合った日々、悲しかった出来事、忘れられない大事件。思い出話に花が咲き、ふたりでティータイムを楽しんだ。
ひとしきり話が弾んだ後、クリスタはリーゼロッテの短くなった髪に手を伸ばした。
「リーゼ、本当はいろいろと大変だったのでしょう? 王城での出来事は話せないことも多いのだろうけど……どうしてもつらくて耐えられなくなったら、いつでも頼っていいのよ」
「はい、ありがとうございます、クリスタお義母様」
「それでこちらでの生活はどう? ジークヴァルト様はやさしくしてくださっている?」
「とってもよくしていただいております。わたくしジークヴァルト様の婚約者に選ばれて、本当に……本当にしあわせですわ」
「そう、ならよかったわ。いつの間にかこんなに大きくなって……リーゼロッテはダーミッシュ家の誇りよ」
「お義母様……」
見つめあってふたりで涙ぐんだ。今までもこうしてよろこびもかなしみも、みんなで分かち合ってきた。血のつながりはなくとも、自分たちには重ねてきた確かな時間がある。それは消えることのない家族の証だ。
「最後にわたくしから、今回の旅の心構えを伝えておくわ。大事なことだからよく聞くのよ?」
頷いて緊張気味に居住まいを正したリーゼロッテの頬を、クリスタはやさしく撫でていく。
「すべてジークヴァルト様にお任せしなさい。どんなことがあってもそれで大丈夫だから。リーゼロッテは安心して行ってくるといいわ」
「はい、お義母さま。ヴァルト様の言いつけをきちんと守って、ご迷惑にならないよう行って参ります」
微笑んでクリスタはリーゼロッテを抱きしめた。
「あまり長話をして疲れさせてもいけないわね。明日もまた話せるから、今日はこのくらいにしておきましょう」
部屋を出る前にエラへと手招きをする。
「リーゼロッテがああも素直でいい娘に育ったのも、エラがずっとそばにいてくれたおかげよ。これからも変わりなく支えてあげてちょうだい」
「もったいないお言葉です。生涯をかけてリーゼロッテ様をお守りいたします」
力強く頷いた後、エラは伺うように声をひそめた。
「あの奥様……お嬢様にお伝えする心構えは、本当にあれだけでよかったのですか……?」
「いいのよ。いく先に初夜が待っていると思うと、緊張して旅をたのしめないでしょう? どうせ帰りは旅どころじゃなくなるんだもの。リーゼの性格を考えたら、黙ってあげていたほうが却っていいわ」
「ですが、その、いきなりだとお嬢様がショックを受けないでしょうか……」
「リーゼはその位で傷つく娘じゃないわ。それにエラも分かってると思うけど、殿方に一度スイッチが入ると、わたくしたちにはどうあっても止められなくなるじゃない?」
最近、毎晩のように覚えのあるエラは、顔を赤らめて頷いた。
「ジークヴァルト様は誠実なお方だけれど、大分我慢なさっているようだから。変な時に襲われるよりはずっといいでしょう? リーゼもジークヴァルト様のことをちゃんとお慕いしているようだし、悪いことにはならないと思うわ。それに、愛する方に愛されるのはとても素敵なことよ」
「そうですね……わたしもそう、思います」
「だからエラも出立前はあたたかく見守ってほしいの。その代わりリーゼが公爵夫人として戻ってきた後のことは、くれぐれもよろしくお願いね」
「はい、奥様。お嬢様のことはどうぞこのエラにお任せください」
そんなこんなで真実が伝わらないまま、晴れて旅立ちの日を迎えたのだった。
◇
王城から派遣された護衛騎士が厳しい顔で警備する中、フーゲンベルク家の馬車留めには屋敷中の使用人が整然と立ち並んでいた。
「では旦那様、リーゼロッテ様、屋敷の者一同でお帰りを心待ちにしております」
「ああ」
「ありがとうマテアス。気をつけて行ってくるわ」
みなに見送られながら豪華な馬車に乗り込もうとする。
「お嬢様……!」
不安げに瞳を揺らすエラがリーゼロッテの手を取った。
「その……いざというときは、公爵様にすべてお任せすれば、本当にそれで大丈夫ですから」
「ええ、分かっているわ。エラは心配せず帰りを待っていて」
「はい、お嬢様」
安心させるようにエラに微笑むと、抱き上げられてリーゼロッテは馬車に乗せられる。ジークヴァルトの膝の上、窓からみなに手を振った。
ゆるやかに馬車は走り出し、小鬼たちが瞳を潤ませながら途中まで追いかけてくる。一斉に頭を下げた使用人たちの姿は、あっという間に見えなくなった。
しばらく坂を下り、領地の大通りを進む。レースのカーテン越しに外を眺めていたリーゼロッテの耳元で、紙の乾いた音がかさりと鳴った。自分を膝に乗せながら、ジークヴァルトはいつものように書類の束を片づけている。
「こんな時までお仕事ですか? せっかくの旅ですのに……ヴァルト様は少し働きすぎですわ」
「問題ない。お前はゆっくりたのしむといい」
そう言って、窓の外を見やすいように抱え直された。
この馬車は王家が用意したものだ。普段使っている公爵家の馬車よりもひと回り以上大きく、そして設備も豪華だった。
リーゼロッテが足を伸ばして寝そべれそうな座椅子。その上にはふかふかのクッションがいくつも置かれている。備えつけのテーブルはアンティーク調で、ふたり分の紅茶と菓子くらいなら楽勝で並べられそうだ。
そんな広々とした馬車の中、ジークヴァルトと窓際のすみっこに寄っている。
「あの、ヴァルト様」
「なんだ?」
「旅も長いことですし、お膝抱っこはなさらない方が」
「なぜだ?」
「ヴァルト様の足が痺れてしまわないか心配ですわ」
この馬車は乗り心地もいい。多少の揺れくらいでは、リーゼロッテが怪我をすることはないはずだ。
「問題ない、お前は軽い」
「そうは言っても、長時間ではおつらくもなるでしょう? この馬車は揺れませんし、わたくしひとりで座れます」
「これはフーゲンベルク製だからな。当然だ」
「そういえば公爵領では家具や馬具なども王家に献上しているのでしたわね」
「ああ」
リーゼロッテの髪をひとなですると、ジークヴァルトは再び書類に集中してしまった。膝から下ろす気はさらさらなさそうだ。
仕方ないと息をついたところで馬車はゆっくりと停車した。かと思うと、声がけと共に扉が開かれる。
「本日はこちらでご宿泊を」
「えっ!?」
フーゲンベルク領を出て、まだ小一時間といったところだ。王都に入ってすぐの辺りで降ろされて、リーゼロッテはぽかんと目の前の建物を見上げた。ここは王都にタウンハウスを持たない者が利用する、貴族御用達の高級旅館だ。
人々のざわめきに我に返る。
豪華絢爛な王家の馬車。周りを固める大勢の護衛騎士たち。身なりを整えたジークヴァルト。その腕に抱えられた自分。
国の神事のための物々しい行列に、王都に住む者たちが興味津々で覗き込んでいる。周囲には人だかりができていて、ことさらリーゼロッテが注目の的になっていた。
「あの可愛いお貴族様……もしや去年の秋に噂になった……」
「ああ、きっとあれが魔王に拐かされた姫君だ……」
「いまだ囚われていたんだ、可哀想に……」
「悪魔に攫われた妖精……都市伝説だと思ってた……」
「でも魔王まで王家の馬車に乗ってたぞ……?」
会話の切れ端が耳に届くが、言っている意味が分からない。
「あのヴァルト様、恥ずかしいので自分の足で歩かせてくださいませ」
「却下だ」
口をへの字に曲げると、リーゼロッテの顔を隠すように抱え直してくる。肩越しに振り返り、背後のギャラリーをジークヴァルトは眼光鋭く威圧した。
直接目があった者たちの口から悲鳴が漏れる。ざわつく人だかりは一瞬で静まり返った。
「行くぞ」
「もう、わたくし歩けますのに」
そんな会話を残して、ふたりは建物の中に消えていく。
王家の馬車に乗った可憐な姫君が、国中を魔王に連れ回されている。その目撃情報は、今後各所で増えていくこととなる。
尾ひれがついてあることないことが、庶民の間で伝説のように語り継がれていくのであった。
◇
結局、王都の旅館には三連泊することとなった。
(これなら出発を三日遅らせてもよかったんじゃ……)
しかし次に向かう先を吉方位にするためとかで、とにかく三日はここに滞在する必要があるらしい。その間、リーゼロッテは部屋に閉じこもりきりで、ジークヴァルトの顔さえろくに見られなかった。
ジークヴァルトは執務に専念しているようだ。公爵家から追加で書類が届けられて、一度マテアスまで顔を出していた。旅感が一気に失われるというものだ。
(せっかくの旅行なのに、食事も一緒に取れないなんて……)
これも神事の決まりらしかった。唯一お茶の時間だけ共にできて、それ以外は世話係がそばに控えているだけだ。これでは屋敷にいる時とさほど変わらない。リーゼロッテは小さくため息をついた。
「どこかお加減がよろしくないのですか?」
「いえ、大丈夫よ」
微笑んで居住まいを正す。
王家が用意した世話係は、一切無駄口を開かない。伯爵令嬢として旅の恥はかき捨てられないので、浮かれ気分には無理やり蓋をした。マナー教師のご夫人直伝の淑女の作法を、今こそフル活用しなくては。
(アルブレヒツベルガー夫人……日本人の舌じゃカミカミになる名前だわ)
子供のころの自分が覚えられなかったのも仕方がないだろう。脳内でロッテンマイヤーさんと勝手に呼んでいた理由が、今になってはっきり分かった。
エラと練習をしてようやく発音できるようになったが、おさらいしておかないとまた可笑しなことになりそうだ。
だが日中は世話係がじっとそばに控えている。ぶつぶつと呪文のように唱えることもできなくて、結局は脳内で反芻するしかないリーゼロッテだった。
(ストレッチもしたいけど、ひと目があってはそれもできないし……)
唯一できそうな時間は夜の寝台の上だ。しかし緊張のせいもあってか、気づけばぐったり眠ってしまっていた。バストアップもずっとサボったままだ。
旅が終わるまでは仕方がないかと、リーゼロッテは言い訳のように納得したのだった。
◇
三日後、再び馬車で進んだが、今度は二時間くらいで降ろされた。王都の街並みは過ぎたものの、ダーミッシュ家に帰る道のりよりもうんと短い移動距離だ。
宿に着き、束の間のティータイムをジークヴァルトと囲んだ。当たり前のように膝の上に乗せられる。ここで待っていた世話係も、何も見なかったかのように平静を保っていた。
(さすが王家が用意したひとたちね)
ジークヴァルトからあーんが繰り出されようと、能面のように表情が動かない。そこにプロ根性を見て、リーゼロッテはいたく感心してしまった。
「どうした?」
「いえ、こんな行程で本当に目的地にたどり着けるのかと、心配になってしまって……」
「問題ない、すべて予定通りだ」
相変わらず片手間に書類仕事を続けているジークヴァルトは、旅にはまるで興味なさげだ。自分ばかりが浮かれていたのだと思うと、なんだか気持ちもしゅんとしぼんでしまった。
「明日は船で移動するぞ」
「船で?」
「ああ、午前中いっぱいは川を昇る」
「川を……!」
途端に小さな胸が膨らんだ。
この国に海はないが、国土を左右に分けるように大河が長く流れている。人の移動だけでなく、物資の輸送手段としても大きな役割を果たしていた。
(異世界の船に乗れるんだわ……!)
白い雲に眩しい太陽。空に舞う幾羽もの鳥たち。風に膨らむ帆が張って、船が速度を増していく。
揺れる足元。ジークヴァルトに支えられる体。
しぶきをあげて進む船体から、広がる大河の風景が、どこまでもどこまでも続いていく。
リーゼロッテの頭の中では、船旅がすでに始まっていたのだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。馬車から船に乗り換えたわたしたち。過保護なヴァルト様は船内を出歩くのも心配なご様子で。そんな時、ひとり留守番をしていた船室のバルコニーから、いきなり現れた人物とは……?
次回5章第5話「船上の再会」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
受け継いだ記憶の声に日々悩まされるハインリヒ。カイの報告書でリーゼロッテを巡る事件の真相をようやく知り、事の大きさに愕然とします。
一方、謹慎が解けたジークヴァルトは王城出仕を再開。大きな怒りと不信感を抱えたまま、ハインリヒの呼び出しに応じます。そこで言い渡されたのは降りた神託の遂行と、リーゼロッテとの婚姻前倒しの許しで。
リーゼロッテのちょっとした危機に守護者に呼び戻されるも、突然の話に舞い上がるジークヴァルトなのでした。
「わたくしに王の勅命が……?」
王城からの使いに、丸められた書状を手渡される。恭しく差し出されたその一枚を、震える手つきで受け取った。
巻きつけられた紐を解くと、物々しい文章が書き連ねられている。あて名には確かにリーゼロッテ・ダーミッシュの文字が。文末にはハインリヒ王の直筆の署名と共に、赤い王印が色鮮やかに押されていた。
(はじめての責務を承ったんだわ……!)
これまでもあっちでこっちで王命による保護を受けてきた。だがどれもリーゼロッテを守るためのものだ。
(でもこれは違う。王からちゃんとした命を頂いたのよ)
自分でも国の役に立てるのだ。一人前の貴族として認められた瞬間に、感動のあまり涙がせりあがる。
なんとか堪えて、勅命書に目を滑らせた。そこには小難しい専門用語が並んでいて、なかなかに理解が難しい。
察するに大体のところ、ジークヴァルトに降りた神託のお供として、国の最果ての地、シネヴァの森に向かえということらしい。そこでリーゼロッテも神事に参加して、共に儀式を受けてくるようにとのことだった。
お供とはいえ、国の神事を担う大役だ。感慨深く瞳を潤ませ、王城へと帰っていく使者の背をいつまでも見送った。
不機嫌顔のジークヴァルトに腰を抱き寄せられる。不安定な体勢で寄りかかったまま、広げた書状に再び目を落とした。
(はじめてのお使い! 初めての旅行……!)
それもずっとジークヴァルトと一緒の旅だ。
高鳴った胸でリーゼロッテは、ジークヴァルトの顔をじっと見上げた。
◇
「今回の旅にはわたしはついて行けないのですね……」
旅路の支度を進めながらも、エラはずっと同じ台詞を言い続けている。
「今回は王命だし、行く先々でちゃんとお世話係を用意してくれるそうよ? エラは新婚なんだもの。マテアスとふたりの時間を心ゆくまで過ごしてちょうだい」
侍女はいなくても大概のことはひとりでできる。エラの心配をよそに、リーゼロッテは始終うきうき顔だ。
この国は南北に延びた縦長の地形で、四方を山脈で囲まれている。最南に王都があり、今回目指すは最北の地であるシネヴァの森だ。巷では森には魔女が住むと言われているが、王族の血筋の巫女姫が神事を務めているのが本当のところだ。
(巫女姫と言っても、相当お年を召しているのよね)
クリスティーナ王女から聞いた話では、森の巫女は彼女の高祖伯母とのことだった。いつかハインリヒにも言われたが、会えば魔女と呼ばれる所以が分かるらしい。
(普通に考えて百歳は超えてそうだわ……やっぱり白雪姫とかシンデレラに出てくる魔女みたいな方なのかしら……?)
黒い魔女服にとんがり帽子。鷲鼻の魔女が箒に乗って空を飛ぶ。そんな想像がリーゼロッテの頭の中を駆け抜けた。
◇
(なんて言うか、慣れって怖いわね……)
準備の合間を縫って、今はジークヴァルトとティータイム中だ。膝に乗せられあーんをされる。こんなやり取りを使用人に見られても、もはや恥ずかしさを感じない。
出発の日が迫る中、ジークヴァルトは普段以上に忙しそうにしている。何しろ領主が長期間屋敷を離れるのだ。今のうちにやれるだけのことはやっておけとのマテアスの指令らしかった。
シネヴァの森に向かうにあたり吉方位があるとかで、進む方角や滞在日数も事細かに決められている。行って帰って一か月はかかる長旅なので、マテアスの言い分も仕方のない事だった。
そう思ってもジークヴァルトの体が心配だ。うっすらとできた目の下のくまをなぞりながら、リーゼロッテは伺うように声をかけた。
「あまりお眠りになっていないのでしょう? わたくしとの時間はお昼寝にあててくださって構いませんわ」
「必要ない。眠かったらお前は眠るといい」
「わたくしは十分すぎるくらい眠っております。それよりもヴァルト様ですわ」
「オレは寝なくてもいられる体質だ。問題ない。心配するな」
「ですが……」
髪を梳き出したやさしい手つきに、リーゼロッテの方が本当に眠くなってくる。相変わらずジークヴァルトが自分を頼ることはない。そのことがやはりさみしく思えた。
(わたしももっとしっかりしないと……)
王命よりも何よりも、ジークヴァルトの役に立ちたいのだとようやく気づく。どんと胸を貸せるくらいには、強い人間になりたかった。
胸と思ってリーゼロッテは思わず顔を赤らめた。お風呂での異形の騒ぎがあって以来、日常で突然羞恥がぶり返す。
あのおしりもろ出し事件では、ジークヴァルトに鼻で笑われただけだった。いくらその手のことに興味が薄いとはいえ、あの反応はあんまりだろう。
濡れて張り付いたガウンのせいで、小胸に戻ったのがバレてしまったのか。順調に体力は戻ってきているものの、体型は未だ寸胴と呼ぶに相応しい。
その後、顔を合わせても、ジークヴァルトは変わらず平然としたままだ。それが悔しいやら悲しいやらで、何ともやるせない日々を送っているリーゼロッテだ。
だがジークヴァルトに逆恨みをしても仕方がない。思いの通じ合った相手に、興味すら持たれない体がひたすら恨めしく思えてならなかった。
(バストアップも再開しなくちゃだわ……)
涙目でそんなことを思う。しかし長旅を前に体力作りを優先させなくてはならなくて、豊胸エクササイズは二の次になっていた。
「どうした? 何か心配事か?」
「い、いいえ、なんでもございません」
ばいん! とせり出した胸を突きつけて、いつか目にもの見せてやる。余裕の表情のジークヴァルトを前に、そんな決意を固めたのだった。
◇
旅立ちまで一週間を切ったある日、リーゼロッテはそわそわと客人の到着を待っていた。出発の前に、ダーミッシュの家族が会いに来てくれると手紙が来たのだ。
伯爵家にはもう一年近く帰っていない。もはやフーゲンベルク家が第二の我が家になりつつあった。
「お義父様、お義母様、ルカも……!」
訪れた三人と順にハグをする。義母のクリスタとは本当に久しぶりだ。顔を見ただけで急にホームシックな気分になってしまった。
「リーゼロッテ、いろいろと大変だったね」
「ずっと心配していたのよ」
「義姉上、少しお痩せになったのではありませんか?」
リーゼロッテは東宮と王城で保護を受けていたことになっている。神殿で囚われていたことは、表向きなかったことにされていた。
「わたくしなら大丈夫ですわ。それよりも今は旅のことで頭がいっぱいで」
「ふふ、リーゼは長い旅行は初めてだものね」
「国を縦断するんですよね? いろんな土地に行けるなんて義姉上がうらやましいです! わたしも同行させてもらえないでしょうか?」
「ルカ、リーゼロッテは遊びに行くわけではないんだ。浮ついたことを言うものではない」
フーゴが厳しい声音で窘める。けろっとしているルカの横で、リーゼロッテが意気消沈な顔をした。
「お義父様……王命をいただいたのに、わたくしこそちょっと浮ついておりましたわ」
「リーゼはいいんだよ。一生に一度の大切な旅なのだから」
「そうね、気負わずに、ジークヴァルト様と旅をたのしんでくるといいわ」
「ありがとうございます、お義父様、お義母様……。初めての貴族としてのお勤めですもの。わたくし国のために、しっかりと責務を果たしてまいりますわ!」
決意も新たに握りこぶしを作る。そんなリーゼロッテを見て、フーゴが戸惑ったように首をかしげた。
「リーゼ? 今回の王命は……」
「いいのよ、あなた。そのことはあとでわたくしから心構えを伝えておくわ」
「あ、ああ、そうだな。クリスタ、任せたよ」
両親の小声のやり取りに、リーゼロッテは憧れのまなざしを向けた。ふたりの信頼し合った関係は、理想の夫婦そのものだ。
「エラ、すまないが、そこのところはクリスタと共に頼んだよ」
「お任せください、旦那様。出発前はもとより、お戻りになられた後のことは、このエラが全力でお力にならせていただきます」
「エラがそばにいてくれたら、これから先もずっと安心ね。ね、あなた」
「ああ。だがこんな時、父親にできることはほとんどないものだな。そう思うと少し寂しいよ」
切なげにため息をついたフーゴに、リーゼロッテは安心させるように力強く頷いた。
「お義父様、心配はご無用ですわ。わたくし道中は、ダーミッシュ伯爵家の名に恥じない振る舞いをしてまいりますから」
「そうですよ、父上。義姉上は誰よりも立派な淑女ではないですか」
「いや、わたしはそんな心配をしているわけではないんだが……」
「あなた」
クリスタの目配せに、フーゴは何か言いたげなまま口をつぐんだ。
話を弾ませているルカとリーゼロッテを横目に、クリスタがフーゴに耳打ちをする。
「いいからわたくしに任せて」
「だがリーゼはこの旅を何か勘違いしてないか?」
王家からジークヴァルトとの婚姻の命が言い渡された。今回の旅の目的はふたりが夫婦となる許可を、シネヴァの森の巫女に貰ってくるというものだ。しかし当のリーゼロッテは王命で神事を務めるだけの気でいるように見える。
「それを含めて任せてちょうだい」
「そうは言ってもだな……」
いつか来るとは分かっていたが、可愛い娘がいよいよお嫁に行ってしまうのだ。
しかも古の作法に則って、最果ての地で婚姻の神事を行うとの通達に驚いた。今やそんな古くさい段取りを取る貴族などそうそういない。嫁ぐ先は歴史ある公爵家だと納得するも、リーゼロッテが花嫁となる瞬間を、この目で見られないのが残念でならなかった。
「とにかく行った先でリーゼがショックを受けないよう、やんわりと伝えてくれるかい? 着いていきなりだと可哀想だ。ああ、それにジークヴァルト様は儀式が終わるまで我慢してくださるだろうか……万が一道中で可愛いリーゼが襲われたりでもしたら……」
「あなたと違ってジークヴァルト様は誠実な方だもの。そんな心配はいらないわ」
クリスタに冷たく言われ、フーゴはバツの悪そうな顔をした。
フーゴは婚約中に我慢できなくて、無垢なクリスタに手を出してしまった口だ。野獣のように押し倒し、事が済んだ後に盛大に怯えられて、その後しばらくはろくに顔も合わせて貰えなかった。夫婦となる日まで毎日花を贈り続け、ようやくクリスタに許して貰えたフーゴだった。
「あの時は本当にすまなかった……クリスタのことが愛おしすぎて……」
リーゼロッテにはそんな怖い思いをさせまいと、フーゴはジークヴァルトと「婚前交渉、ダメ絶対契約」を結んだのだ。
とは言え、契約はすぐに破られるだろう。リーゼロッテを公爵家に預けることになった時、フーゴは半ばそう諦めた。だがジークヴァルトは誠意を持って今までよく耐えてくれた。そんな彼なら大事な娘を安心して託せると言うものだ。
「お義父様、お義母様、内緒話ですか?」
こそこそと話し合う姿が仲睦まじげに見えたのか、リーゼロッテが微笑ましそうに目を細めてくる。どこに出しても恥ずかしくない立派な娘に育ってくれた。改めて思ってフーゴは胸を熱くした。
「お義父様ったら、そんなにご心配なさらなくても、わたくし本当に大丈夫ですわ」
「ああ、そうだね。リーゼ……お前は自慢の娘だ。どこに行ってもわたしたちはずっと家族だよ」
「はい、お義父様……」
つられるようにリーゼロッテも目を潤ませる。
「絶対に粗相などしないよう、細心の注意を払いますわ」
「いや、そうではないんだが……」
ずっと旅での振る舞いを気にしているリーゼロッテに苦笑いを送った。
「そういえばわたくしが子供の頃に、マナーを教えてくださったご夫人がいらっしゃいましたでしょう?」
突然の問いかけに、フーゴとクリスタは目を見合わせる。一拍置いたのちに、フーゴが探るような声音で問い返した。
「ああ、いたね。それがどうしたんだい?」
「わたくし記憶が曖昧で、その方のお名前を忘れてしまったのです。どこかでお会いして失礼をしたくないので、改めてお名前を教えていただけますか?」
「なんだ、そういうことか。彼女はアルブレヒツベルガー夫人だよ」
フーゴはほっとしたように笑顔で答えた。
「あるれひれかつべるがー夫人?」
「アルブレヒツベルガー夫人よ、リーゼ」
「あるぶつれひべぶ……」
「義姉上、アルブレヒツベルガー夫人ですよ」
「あるぶぶつべ……」
舌を噛みながら、みるみるうちに涙目になっていく。
「お嬢様! わたしが紙に綴りを書きますから、後でゆっくり練習いたしましょう!」
「ありがとう、エラ……大人になった今でも覚えられないなんて……」
しょんぼりするリーゼロッテをみなは微笑ましそうに見やった。
「リーゼ、もっとゆっくりしていきたいのだけれど、これからルカとレルナー公爵家に訪問する予定なんだ」
「そうなのですね。ルカ、ツェツィーリア様によろしくお伝えしてね」
「はい、もちろんです!」
「クリスタはジークヴァルト様に滞在の許可をいただいたから、ふたりでゆっくり話をするといい。クリスタ、くれぐれも頼んだよ」
「ええ、あなた。心配はしないで」
名残惜しそうにフーゴはルカを連れてフーゲンベルク家を後にした。
◇
「お義母様とこんなふうにお話できるのも久しぶりですわね」
「そうね、リーゼが小さい頃から何度もこうして過ごしたものね」
リーゼロッテが初めてダーミッシュ家にやってきた日のこと。何気ない日常、笑い合った日々、悲しかった出来事、忘れられない大事件。思い出話に花が咲き、ふたりでティータイムを楽しんだ。
ひとしきり話が弾んだ後、クリスタはリーゼロッテの短くなった髪に手を伸ばした。
「リーゼ、本当はいろいろと大変だったのでしょう? 王城での出来事は話せないことも多いのだろうけど……どうしてもつらくて耐えられなくなったら、いつでも頼っていいのよ」
「はい、ありがとうございます、クリスタお義母様」
「それでこちらでの生活はどう? ジークヴァルト様はやさしくしてくださっている?」
「とってもよくしていただいております。わたくしジークヴァルト様の婚約者に選ばれて、本当に……本当にしあわせですわ」
「そう、ならよかったわ。いつの間にかこんなに大きくなって……リーゼロッテはダーミッシュ家の誇りよ」
「お義母様……」
見つめあってふたりで涙ぐんだ。今までもこうしてよろこびもかなしみも、みんなで分かち合ってきた。血のつながりはなくとも、自分たちには重ねてきた確かな時間がある。それは消えることのない家族の証だ。
「最後にわたくしから、今回の旅の心構えを伝えておくわ。大事なことだからよく聞くのよ?」
頷いて緊張気味に居住まいを正したリーゼロッテの頬を、クリスタはやさしく撫でていく。
「すべてジークヴァルト様にお任せしなさい。どんなことがあってもそれで大丈夫だから。リーゼロッテは安心して行ってくるといいわ」
「はい、お義母さま。ヴァルト様の言いつけをきちんと守って、ご迷惑にならないよう行って参ります」
微笑んでクリスタはリーゼロッテを抱きしめた。
「あまり長話をして疲れさせてもいけないわね。明日もまた話せるから、今日はこのくらいにしておきましょう」
部屋を出る前にエラへと手招きをする。
「リーゼロッテがああも素直でいい娘に育ったのも、エラがずっとそばにいてくれたおかげよ。これからも変わりなく支えてあげてちょうだい」
「もったいないお言葉です。生涯をかけてリーゼロッテ様をお守りいたします」
力強く頷いた後、エラは伺うように声をひそめた。
「あの奥様……お嬢様にお伝えする心構えは、本当にあれだけでよかったのですか……?」
「いいのよ。いく先に初夜が待っていると思うと、緊張して旅をたのしめないでしょう? どうせ帰りは旅どころじゃなくなるんだもの。リーゼの性格を考えたら、黙ってあげていたほうが却っていいわ」
「ですが、その、いきなりだとお嬢様がショックを受けないでしょうか……」
「リーゼはその位で傷つく娘じゃないわ。それにエラも分かってると思うけど、殿方に一度スイッチが入ると、わたくしたちにはどうあっても止められなくなるじゃない?」
最近、毎晩のように覚えのあるエラは、顔を赤らめて頷いた。
「ジークヴァルト様は誠実なお方だけれど、大分我慢なさっているようだから。変な時に襲われるよりはずっといいでしょう? リーゼもジークヴァルト様のことをちゃんとお慕いしているようだし、悪いことにはならないと思うわ。それに、愛する方に愛されるのはとても素敵なことよ」
「そうですね……わたしもそう、思います」
「だからエラも出立前はあたたかく見守ってほしいの。その代わりリーゼが公爵夫人として戻ってきた後のことは、くれぐれもよろしくお願いね」
「はい、奥様。お嬢様のことはどうぞこのエラにお任せください」
そんなこんなで真実が伝わらないまま、晴れて旅立ちの日を迎えたのだった。
◇
王城から派遣された護衛騎士が厳しい顔で警備する中、フーゲンベルク家の馬車留めには屋敷中の使用人が整然と立ち並んでいた。
「では旦那様、リーゼロッテ様、屋敷の者一同でお帰りを心待ちにしております」
「ああ」
「ありがとうマテアス。気をつけて行ってくるわ」
みなに見送られながら豪華な馬車に乗り込もうとする。
「お嬢様……!」
不安げに瞳を揺らすエラがリーゼロッテの手を取った。
「その……いざというときは、公爵様にすべてお任せすれば、本当にそれで大丈夫ですから」
「ええ、分かっているわ。エラは心配せず帰りを待っていて」
「はい、お嬢様」
安心させるようにエラに微笑むと、抱き上げられてリーゼロッテは馬車に乗せられる。ジークヴァルトの膝の上、窓からみなに手を振った。
ゆるやかに馬車は走り出し、小鬼たちが瞳を潤ませながら途中まで追いかけてくる。一斉に頭を下げた使用人たちの姿は、あっという間に見えなくなった。
しばらく坂を下り、領地の大通りを進む。レースのカーテン越しに外を眺めていたリーゼロッテの耳元で、紙の乾いた音がかさりと鳴った。自分を膝に乗せながら、ジークヴァルトはいつものように書類の束を片づけている。
「こんな時までお仕事ですか? せっかくの旅ですのに……ヴァルト様は少し働きすぎですわ」
「問題ない。お前はゆっくりたのしむといい」
そう言って、窓の外を見やすいように抱え直された。
この馬車は王家が用意したものだ。普段使っている公爵家の馬車よりもひと回り以上大きく、そして設備も豪華だった。
リーゼロッテが足を伸ばして寝そべれそうな座椅子。その上にはふかふかのクッションがいくつも置かれている。備えつけのテーブルはアンティーク調で、ふたり分の紅茶と菓子くらいなら楽勝で並べられそうだ。
そんな広々とした馬車の中、ジークヴァルトと窓際のすみっこに寄っている。
「あの、ヴァルト様」
「なんだ?」
「旅も長いことですし、お膝抱っこはなさらない方が」
「なぜだ?」
「ヴァルト様の足が痺れてしまわないか心配ですわ」
この馬車は乗り心地もいい。多少の揺れくらいでは、リーゼロッテが怪我をすることはないはずだ。
「問題ない、お前は軽い」
「そうは言っても、長時間ではおつらくもなるでしょう? この馬車は揺れませんし、わたくしひとりで座れます」
「これはフーゲンベルク製だからな。当然だ」
「そういえば公爵領では家具や馬具なども王家に献上しているのでしたわね」
「ああ」
リーゼロッテの髪をひとなですると、ジークヴァルトは再び書類に集中してしまった。膝から下ろす気はさらさらなさそうだ。
仕方ないと息をついたところで馬車はゆっくりと停車した。かと思うと、声がけと共に扉が開かれる。
「本日はこちらでご宿泊を」
「えっ!?」
フーゲンベルク領を出て、まだ小一時間といったところだ。王都に入ってすぐの辺りで降ろされて、リーゼロッテはぽかんと目の前の建物を見上げた。ここは王都にタウンハウスを持たない者が利用する、貴族御用達の高級旅館だ。
人々のざわめきに我に返る。
豪華絢爛な王家の馬車。周りを固める大勢の護衛騎士たち。身なりを整えたジークヴァルト。その腕に抱えられた自分。
国の神事のための物々しい行列に、王都に住む者たちが興味津々で覗き込んでいる。周囲には人だかりができていて、ことさらリーゼロッテが注目の的になっていた。
「あの可愛いお貴族様……もしや去年の秋に噂になった……」
「ああ、きっとあれが魔王に拐かされた姫君だ……」
「いまだ囚われていたんだ、可哀想に……」
「悪魔に攫われた妖精……都市伝説だと思ってた……」
「でも魔王まで王家の馬車に乗ってたぞ……?」
会話の切れ端が耳に届くが、言っている意味が分からない。
「あのヴァルト様、恥ずかしいので自分の足で歩かせてくださいませ」
「却下だ」
口をへの字に曲げると、リーゼロッテの顔を隠すように抱え直してくる。肩越しに振り返り、背後のギャラリーをジークヴァルトは眼光鋭く威圧した。
直接目があった者たちの口から悲鳴が漏れる。ざわつく人だかりは一瞬で静まり返った。
「行くぞ」
「もう、わたくし歩けますのに」
そんな会話を残して、ふたりは建物の中に消えていく。
王家の馬車に乗った可憐な姫君が、国中を魔王に連れ回されている。その目撃情報は、今後各所で増えていくこととなる。
尾ひれがついてあることないことが、庶民の間で伝説のように語り継がれていくのであった。
◇
結局、王都の旅館には三連泊することとなった。
(これなら出発を三日遅らせてもよかったんじゃ……)
しかし次に向かう先を吉方位にするためとかで、とにかく三日はここに滞在する必要があるらしい。その間、リーゼロッテは部屋に閉じこもりきりで、ジークヴァルトの顔さえろくに見られなかった。
ジークヴァルトは執務に専念しているようだ。公爵家から追加で書類が届けられて、一度マテアスまで顔を出していた。旅感が一気に失われるというものだ。
(せっかくの旅行なのに、食事も一緒に取れないなんて……)
これも神事の決まりらしかった。唯一お茶の時間だけ共にできて、それ以外は世話係がそばに控えているだけだ。これでは屋敷にいる時とさほど変わらない。リーゼロッテは小さくため息をついた。
「どこかお加減がよろしくないのですか?」
「いえ、大丈夫よ」
微笑んで居住まいを正す。
王家が用意した世話係は、一切無駄口を開かない。伯爵令嬢として旅の恥はかき捨てられないので、浮かれ気分には無理やり蓋をした。マナー教師のご夫人直伝の淑女の作法を、今こそフル活用しなくては。
(アルブレヒツベルガー夫人……日本人の舌じゃカミカミになる名前だわ)
子供のころの自分が覚えられなかったのも仕方がないだろう。脳内でロッテンマイヤーさんと勝手に呼んでいた理由が、今になってはっきり分かった。
エラと練習をしてようやく発音できるようになったが、おさらいしておかないとまた可笑しなことになりそうだ。
だが日中は世話係がじっとそばに控えている。ぶつぶつと呪文のように唱えることもできなくて、結局は脳内で反芻するしかないリーゼロッテだった。
(ストレッチもしたいけど、ひと目があってはそれもできないし……)
唯一できそうな時間は夜の寝台の上だ。しかし緊張のせいもあってか、気づけばぐったり眠ってしまっていた。バストアップもずっとサボったままだ。
旅が終わるまでは仕方がないかと、リーゼロッテは言い訳のように納得したのだった。
◇
三日後、再び馬車で進んだが、今度は二時間くらいで降ろされた。王都の街並みは過ぎたものの、ダーミッシュ家に帰る道のりよりもうんと短い移動距離だ。
宿に着き、束の間のティータイムをジークヴァルトと囲んだ。当たり前のように膝の上に乗せられる。ここで待っていた世話係も、何も見なかったかのように平静を保っていた。
(さすが王家が用意したひとたちね)
ジークヴァルトからあーんが繰り出されようと、能面のように表情が動かない。そこにプロ根性を見て、リーゼロッテはいたく感心してしまった。
「どうした?」
「いえ、こんな行程で本当に目的地にたどり着けるのかと、心配になってしまって……」
「問題ない、すべて予定通りだ」
相変わらず片手間に書類仕事を続けているジークヴァルトは、旅にはまるで興味なさげだ。自分ばかりが浮かれていたのだと思うと、なんだか気持ちもしゅんとしぼんでしまった。
「明日は船で移動するぞ」
「船で?」
「ああ、午前中いっぱいは川を昇る」
「川を……!」
途端に小さな胸が膨らんだ。
この国に海はないが、国土を左右に分けるように大河が長く流れている。人の移動だけでなく、物資の輸送手段としても大きな役割を果たしていた。
(異世界の船に乗れるんだわ……!)
白い雲に眩しい太陽。空に舞う幾羽もの鳥たち。風に膨らむ帆が張って、船が速度を増していく。
揺れる足元。ジークヴァルトに支えられる体。
しぶきをあげて進む船体から、広がる大河の風景が、どこまでもどこまでも続いていく。
リーゼロッテの頭の中では、船旅がすでに始まっていたのだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。馬車から船に乗り換えたわたしたち。過保護なヴァルト様は船内を出歩くのも心配なご様子で。そんな時、ひとり留守番をしていた船室のバルコニーから、いきなり現れた人物とは……?
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