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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣
第24話 奪還ののろし
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【前回のあらすじ】
神殿で違法の媚薬が作られていることを知るカイとバルバナス。騎士団が神殿に乗り込む日が近づく中、フーゲンベルク家は重い雰囲気に包まれます。
心身ともに追い詰められたジークヴァルトは、リーゼロッテ奪還のためにしっかり眠るようにとマテアスに諫められて。
一方リーゼロッテは不思議なきのこの導きに食のよろこびを噛みしめ、少しずつ体力を取り戻していくのでした。
「今日もありがとう」
窓辺にやってきた小鳥たちにお礼を言う。並べられているのは小さな木の実やドングリに似たナッツなどだ。時にきのこが添えられていて、そのたびにあの鼓笛隊を思い出すリーゼロッテだった。
雪の間から白いテンが顔をのぞかせていた。近づくとすぐに逃げてしまうが、あの子もよく赤い実を持ってきてくれる。極寒の冬は動物たちも食べる物に苦労しているだろうに、途切れることなく物資は届けられていた。
「リーゼロッテ様ぁおはようございますぅ」
「おはよう、ベッティ」
いつものように夜が明ける直前にベッティがやってきた。この時間がいちばん動きやすいらしい。それでも危険はつきまとう。こんなふうにここへ来ていると知れたら、ベッティはただでは済まないだろう。
「ねぇベッティ。いざという時はひとりでも逃げてちょうだいね」
「見つかるようなヘマはいたしませんよぅ。そんな心配よりもぉ、リーゼロッテ様はしっかり体力つけてくださいませねぇ」
言いながら手早くスープを作る。ベッティの説明では、騎士団が神殿を探っているとのことだった。場合によっては騒ぎの隙をついて、ここから逃げ出せるかもしれない。
「やっぱり今すぐ逃げるわけにはいかないのよね?」
「ここは本神殿からかなり離れていますからぁ。森を抜ける途中で捕まるかぁ、隠れている間に凍死するのがオチですねぇ」
「そう……」
扉の鍵が開けられるならと淡い期待を持ってみたが、現実はそう甘くないようだ。
(でも諦めないわ! こうやってみんなの命を分けてもらっているんだもの)
運ばれる大地の恵みは、どれも力を与えてくれる。体の底から湧き上がるエネルギーを、リーゼロッテは食べるたびに感じ取っていた。
「今日も卵はないんですねぇ」
マンボウは来たり来なかったりで、あれ以来、卵を産むこともなかった。ベッティが来る頃にはいなくなってしまうので、マンボウの存在にベッティは半信半疑だ。
「ベッティ、ひとつ聞きたいのだけれど、この国の鶏って雄でも卵を産むのかしら……?」
「なぁにおっしゃってるんですかぁ。卵を産むのは雌鶏だけですよぅ」
「やっぱりそうよね。マンボウは立派な鶏冠がついているから、ずっと雄鶏だと思ってたのだけど……」
「雌鶏に大きな鶏冠はないのではぁ? 本当にソレ、ニワトリですかぁ?」
「だってクリスティーナ様も鶏とおっしゃってたもの……」
体はひとまわり大きいが、マンボウはどこからどう見ても鶏にしか見えない。
「クリスティーナ様がぁ? またどうしてそんなことをぉ?」
不思議そうなベッティに、マンボウは東宮にいたことを説明した。祖父であるフリードリヒに贈られて、王女が可愛がっていたことも。
「そういえば聞いたことがありますねぇ。直系の王族はみな、伝説の聖獣を受け継ぐんだそうですよぅ」
「伝説の聖獣?」
「クリスティーナ様は不死鳥を、第二王女のテレーズ様は聖なる犬を、ハインリヒ王は神の猫を賜ったって話ですぅ」
「ふ、不死鳥!? わたくし、マンボウの卵、食べてしまったわ……」
「よろしいんじゃないですかぁ? 聖獣って言われているだけでどれもただの動物みたいですしぃ、言わなければバレませんよぅ」
そういう問題なのだろうか。卵と言えど聖獣を食らった令嬢などと、後ろ指は刺されたくはない。
「ちなみにテレーズ様の犬はぁ、今カイ坊ちゃまがお世話されてますぅ。隣国に輿入れする際にぃ、連れてはいけなかったらしくってぇ」
その頬がへにょっと綻んだ。ベッティはカイの妹だ。腹違いの兄のことが本当に好きなのだろう。
「ベッティはどうしてカイ様のことを坊ちゃまって呼ぶの?」
きょうだいというより、ふたりは主従の間柄に見える。ベッティは本来なら侯爵令嬢だ。もっとふつうに兄妹しててもいいのにと思ってしまう。
「前にも言いましたがぁ、わたしはしょせん平民出なんですよぅ。貴族として生きるよりもこうして坊ちゃまのお役に立つ方がぁ、ベッティはずうっとしあわせなんですぅ。さぁさ、できましたぁ。見つからないうちに召し上がってくださいませねぇ」
ベッティは満たされた顔で笑った。その笑顔が眩しくて、リーゼロッテはそっと目を細めた。
◇
「では、しばらくおそばを離れます」
「ああ、よろしく頼む」
「お任せを。このエーミール、必ずやジークヴァルト様のお役に立ってみせましょう」
諸手続きを済ませ、エーミールは騎士団へ赴くことになった。王家に忠誠を誓うためではない。公爵家を動けないジークヴァルトのために、リーゼロッテを取り戻しに行くのだ。
「あっちにはニコラウスもいるから、何かあったらすぐ頼りなさい。向こうにも規律はあるんだから、単独で動かないこと。それと周囲が気に入らないからって、あんまり我を通すんじゃないわよ」
騎士団には平民も多い。バルバナスが実力主義なため、身分が下の上官などは珍しくなかった。浮かない表情のアデライーデに、エーミールは自信ありげな顔を向けた。
「心配はご無用です。ジークヴァルト様のためと思えば、どんな屈辱も些事と切り捨てられます」
「大袈裟ね。あと気持ち悪い」
「アデライーデ様、それは言いすぎでございます。美しい主従愛とおっしゃってさしあげないと」
「うるさいわよ、マテアス。あなただってヴァルト相手にそこまでは思ってないくせに」
「それは聞き捨てなりませんねぇ。わたしも旦那様のためならどんな屈辱にも耐えて見せますよ」
そんな軽口に見送られて、エーミールは公爵家のエントランスを出た。マテアスとは一時休戦状態だ。上手く連携を取らないことには、この作戦は成り立たない。
マテアスは優秀な男だ。エーミールもそのことだけは認めている。気に食わないのに変わりはないが、ジークヴァルトのためならば協力し合うのも当然のことと受け入れられた。
王城騎士に志願したことは、グレーデン家にも報告してきた。病弱の兄は「エーミールの思うようにやればいい」と背を押してくれたが、侯爵である父は「せいぜい王族に媚びを売ってこい」の一言だった。母に至ってはエーミールなどには全く以て無関心だ。
女帝と呼ばれた祖母の死後も、グレーデン家は変わらない。あの冷たい家のために、自分はこれからも生きていくのだ。家に帰るたび、そんなことだけを再確認する。
(いや、今はジークヴァルト様のため命を尽くそう)
いずれ侯爵家の駒になろうとも、ジークヴァルトへの忠誠は変わらない。そう心に決めて、エーミールは前を見据えた。
「グレーデン様……!」
厩舎へ向かう途中、呼び止められる。驚きで振り返ったとき、息を切らしたエラが、縋りつくようにエーミールの片手を取ってきた。
「どうか、どうかお嬢様をお願いいたします」
涙を浮かべ、両手でエーミールの手のひらを握りしめる。震える指先が冷たくて、エーミールは安心させるようにもう片方の手を重ねた。
「ああ、必ずリーゼロッテ様を連れて戻ろう。エラ、あなたは信じて待っていてくれ」
「はい……グレーデン様……」
「エーミールと」
「え?」
「名前ではもう、呼んではくれないのか?」
しばし見つめ合った後、エーミールははっとなった。自分は何を女々しいことを言っているのか。
「あ、いや、今のは忘れてくれ」
「……エデラー家は間もなく貴族籍を抜けます。平民となる身で、そのように馴れ馴れしくお呼びするわけには参りません」
笑うでもなくエラは静かに首を振った。もう二度と、彼女の心が自分に向く事はない。そう思い知らされて、エーミールは吹っ切れたような笑顔を見せた。
「ならば貴族であるうちは、エーミールと呼んでくれないか?」
せめて信頼だけは取り戻したい。くだらないプライドだとは思ったが、最後にそれくらいは許される気がした。
「ではそのように」
「ああ、ありがとうエラ。行ってくる」
「はい、エーミール様、お気をつけて」
やわらかく笑ったエラに背を向けて、エーミールはひとり王城へと向かった。
◇
「エーミール様ぁ! 騎士団に来てくれてめちゃ感激っす!」
扉が開かれるなりニコラウスはエーミールに飛びついた。虫けらを見る視線であっさり躱され、そのまま横を素通りされる。
「やぁ、グレーデン殿。思ってた通りその騎士服、よく似合ってるね」
「もう、絶対に令嬢たちにモテモテっすよね。ホントうらやましい」
「なぜ忌み児の貴様がここにいる」
ひらひらと手を振るカイを認めると、エーミールは部屋の半ばで足を止めた。ニコラウスの台詞は完全無視だ。
「やだなぁ、オレも王城騎士なんだって。顔合わすくらいは勘弁してよ」
このふたりはあまり仲がよろしくないらしい。傍から見ている限りでは、エーミールが一方的に突っかかっているだけのように思える。
「その忌み児ってなんなんすか? エーミール様、前にも言ってましたよね」
「はは、それ聞いちゃうんだ? ブラル伯爵家は王家の血が入ってなかったよね。知らなくて当然だ」
「って言うと託宣がらみですか?」
軽く肩を竦めながら「まぁ、そういう事」と、カイはそこで話を終わらせた。
(聞いちゃなんないことだったかな……)
ニコは空気が読めないとアデライーデによく言われるが、自分では気を使いまくりのムードメーカーだと思っている。ぎすぎすした雰囲気が正直苦手だ。場を和ませようと、ついふざけた態度を取ってしまう。
「エーミール様、とりあえず王城を案内しますよ。神殿方面の区画はあんまり行ったことがないと思うので」
「だったらオレが行こうかな? 王城内はオレの方が詳しいし」
「なぜ貴様などに……」
「グレーデン殿はオレについてた方が動きやすいと思うよ?」
「どういう意味だ」
睨みつけるエーミールに、カイは朗らかな笑顔を返した。
「グレーデン殿だって、バルバナス様の命令に面と向かって逆らえないでしょ? 騎士団の目的はあくまで媚薬の捜査だから、いざという時ジークヴァルト様の役に立たないんじゃないかな?」
カイの言葉にエーミールは口をつぐんだ。神殿に踏み込んだ際、媚薬の調査を優先させるように言われたら、騎士団員となったエーミールはそれに従わざるを得ない。
その点、王城騎士は騎士でも、カイはハインリヒ王直属だ。騎士団長であるバルバナスの配下で動いているわけではなかった。
「リーゼロッテ嬢を取り戻したいんだったら、オレといた方がいいと思うけど。あ、ブラル殿、これ聞かなかったことにしといてね?」
「いやぁ、まぁ、アデライーデに情報を回すのを許してるのはバルバナス様なんで、別にいいっすよ」
「はは、ここはアデライーデ様に甘いね」
エーミールが突然騎士団に入った理由は、ニコラウスにも分かっていた。表沙汰にはなっていないが、行方不明となった妖精姫を、フーゲンベルク家が躍起になって探しているのも知っている。
あの可憐な妖精姫の安否に心が痛む。だがニコラウスはもっと身近で重大な悩みを抱えていた。
アデライーデが公爵家に行ってからというもの、バルバナスの機嫌がむちゃくちゃ悪い。当たりまくられるし、アデライーデの代わりにそばにいるランプレヒトはどこ吹く風だ。
結局はニコラウスが集中砲火を受けて、身もココロも疲弊しまくっている。
(アデライーデ……早くもどってきてくれ……)
早くこの状況を、何とかしたいニコラウスだった。
◇
エーミールを連れてカイは王城内を歩いていた。その後ろを一匹の犬がご機嫌でついて回っている。
「この犬は何なんだ?」
「リープリングだよ」
名を呼ばれた犬は、カイに向けて激しく尾を振った。
胴長短足で、皮膚がだるだるの骨太な犬だ。やたらと長い耳は、前足の付け根まで垂れ下がっている。だれんとした下まぶたが気だるげだが、見れば見るほど愛嬌ある顔に思えてくる。
「不細工な犬だな」
「ひどいなぁ。リープリングは女の子だからやさしくしてやってよ」
しかめ面で距離を取ろうとするエーミールの股の中に、リープリングはいきなり鼻先を突っ込んだ。押しつけたままふんふんとにおいを嗅いでくる。
「なっ」
「はは、リープリングは格好いい男が好きなんだ。グレーデン殿は合格みたいだね」
「くだらないこと言ってないで何とかしろ!」
「リープリング、今は忙しいからまたあとで遊んでもらいな」
「わたしは相手などしないぞ」
若干湿った股間を気にしながら、エーミールが不機嫌な声で言う。かなしそうにくぅんと鳴いたあと、リープリングはおとなしくふたりについていった。
「まぁ、大体こんなところかな?」
神殿に近い場所をひと通り案内すると、カイは渡り廊下の入り口で歩を止めた。ここは神殿へと通じる唯一の道だ。とは言え、表向きはと但し書きがつく。
隠し通路はいくつかあるが、どのみちバルバナスは正面切って乗り込むだろう。カイはその後ろをついていくだけだ。こんな楽な話はない。
「ねぇグレーデン殿。そういえばジークヴァルト様って最近どう? 元気にしてる?」
「そんな事を貴様に説明する義理はない」
「ふーん、まぁいいけど。別に媚びろとは言わないけどさ、ここだけの話、オレって媚薬よりも神殿の深部の調査してるんだよね。その先にジークヴァルト様の探し物があるなら、利用できるものは上手く使った方がいいと思うよ?」
「やはりリーゼロッテ様は神殿で囚われているんだな?」
「それ、こんな場所で不用意に聞いちゃうんだ?」
肩を竦めたカイに、エーミールがあからさまに不快そうな顔をした。
「先に話を振ってきたのは貴様だろう」
「それはそうなんだけどさ」
エーミールはこういう任務に向いてないと言うのが、カイの率直な感想だった。騎士団が神殿へと踏み込んだとき、公爵家はそれに便乗するつもりでいるはずだ。彼が果たすべき役割は、騎士団の情報を公爵家に迅速に伝えることにある。
「グレーデン殿はもう少し自分の役目を考えた方がいいと思うよ?」
「貴様に言われずとも、そんなことは承知している」
「そう? ならいいんだけど」
自分でリーゼロッテを救い出す気満々に見えるエーミールを、カイは早急に見放した。公爵家に恩を売るためにある程度は協力するが、任務の邪魔になるなら切り捨てるまでだった。
何かを言いかけたエーミールを無視して、カイは人の近づく気配に振り返った。こちらにやってくるふたりの神官に、リープリングがうすく唸り声を上げる。
「やあ、レミュリオ殿、お勤め帰りかな?」
「これはカイ・デルプフェルト様、お会いするのは久方ぶりですね。このような場所でどうなさったのですか?」
「新人をあちこち案内してたところだよ」
「あなたは……確か、エーミール・グレーデン様でいらっしゃいましたね」
「そうだが。なぜわたしの名を知っている」
不信な目つきをエーミールが向けると、レミュリオは閉じた瞳のまま笑みを浮かべた。
「貴族のご婦人方から、よくお話を伺っていますから」
「グレーデン殿はご婦人に大人気だからね」
そんな会話を前に、もうひとりの神官はずっと不機嫌そうに押し黙っている。神殿の入り口で立ち話をしていたカイとエーミールを、不信の目で見やっていた。
「そちらは次の神官長候補と名高いヨーゼフ殿だね」
「忌み児であるあなたにそんな媚びを売られても、うれしくとも何ともないですが……まぁ事実だから仕方ないですね」
汚い物を見る目をカイに向けている割に、まんざらでもないといった感じでヨーゼフは返した。リープリングの鼻先のしわが深まって、今にもとびかかりそうな雰囲気だ。
「せっかくの可愛い顔が怖くなってるよ。リープリング、大丈夫だから」
頭をなでると、リープリングはおとなしくお座りをした。それでも警戒したように唇を引き結び、神官たちの動きを目で追っている。
「どうやら嫌われてしまったようですね。わたしどもはこれで退散いたします」
神殿へ続く長い廊下を遠ざかっていく背を、カイとエーミールは無言で見送った。
「胡散臭そうな奴だな」
「はは、グレーデン殿もそう思う?」
リープリングはレミュリオに近づこうとすらしなかった。普段イケメンを見つけてはとびかかる勢いの彼女にしては、とても珍しいことだ。
「……あんなふうに言われて、何ともないのか?」
「ん? 珍しいね。グレーデン殿がオレの心配なんて」
エーミールの言う胡散臭い奴とは、どうやらヨーゼフの方らしい。見当違いもいいところだと、カイは内心肩を竦めた。
「別に心配などしていない」
「グレーデン殿ってさ……」
「なんだ?」
「ホント正直で人がいいね」
とことん心理戦は向いてない。そんなふうに思うも、カイはにっこりと笑うに留めおく。
「貴様、馬鹿にしているのか?」
「まさか。素直に感心してるだけだよ」
実際に肩を竦ませてから、カイはリープリングの鼻づらをいい子いい子と何度も撫でた。
◇
「レミュリオ、聞いたか。貴族の間にもわたしの名が広く届いているようだな」
「そのようですね。ヨーゼフ様は次の神官長として相応しい身。それも当然のことでしょう」
「そうか。お前もそう思うか」
神殿に向かう廊下で、ヨーゼフは機嫌よくいつも以上に饒舌だ。次期神官長候補にはヨーゼフとレミュリオの名が挙がっていた。それが気に食わなくて、ヨーゼフは常にマウントを取ってくる。
年配のヨーゼフと若いが人望あるレミュリオは、神殿内で勢力を二分にしていると言っていい。それはそのまま今は亡きミヒャエル派と、神官長派という構図だった。
「やはり年の功と言うのは大事だな。若輩者のお前には神官長の座は荷が重いだろう」
「ええ。わたしも常々そのように申し上げているのですがね。神官長にも困ったものです」
「まったく彼はいつも弱腰だ。王家の言いなりになるなど頭が悪すぎる」
「ヨーゼフ様が神官長となれば、すぐにでも神殿の権威を取り戻せることでしょう」
「そうかそうか。お前もそう思うか」
上機嫌のまま別れたヨーゼフを、エミュリオは薄い笑みで見送った。
「……なんとも御しやすい単純なお方だ」
自尊心さえ満たしてやれば、それだけで意のままに操れる。餌で尾を振る犬とそう大差ないだろう。
「飼い主に従順な犬の方がまだ使い物になりますかね」
冷めた声で言い放つと、レミュリオは私室に向かった。飾り気のない質素な部屋だ。扉を閉めるなり紅い陽炎が、何もない空間にゆらりと揺らめいた。
「騎士団の動きが目立ってきていますね。神殿内にも曲者が何人も紛れ込んでいるようですし」
陽炎に向かってひとり呟く。朧げな紅は、やがて妖艶な女を形どった。深紅のドレスを身に纏い、喉元に禍々しく光るは龍の烙印と呼ばれる罪の証だ。
「うるさい羽虫たちの動きを少し封じるとしましょうか。異形を少々先導するくらいで構いません。貴女なら上手にできるでしょう?」
その言葉に紅の女の唇が弧を描く。輪郭がぶれたかと思うと、女はその場から掻き消えた。
「次の満月まであと半月ですか……心待ちにするものがあるというのも新鮮ですね」
新月を明日に控え、レミュリオは窓の外、暮れゆく空に閉じた瞳を向けた。
◇
厳重に閉ざされた王城の一室で、バルバナスを囲んでの作戦会議がなされていた。集められたのは騎士団の中でも、重要任務を任される精鋭ばかりだ。カイとエーミールはそれに加わりつつも、やりとりを部屋の隅で見守っていた。
「お前らを集めた理由はほかでもない。媚薬の原料となる植物が、神殿で栽培されている疑惑が上がっている」
「ですが確証はないんですよね?」
「証拠は葉っぱ一枚だが、現場を押さえる事ができさえすれば、向こうも言い逃れはできねぇ。ランプの分析じゃあ、件の媚薬であることに間違いはない」
「それに媚薬がらみの事件を洗い直した所、共通点に特定地域の神殿がいくつか浮上しています。巧妙に場所を変えているようで、決定的証拠は得られませんでしたが……」
「今回は状況証拠で十分だ。勧告なしで一気に捜査に入る。誰ひとりとして逃がさないよう、各自役割を頭に叩き込め」
詳細な地図を広げ、内部の施設を確認していく。何しろ神殿の敷地は広い。祭事を行う本神殿のほかに、神官たちの居住区や物資をしまう倉庫、作業用の家畜がいる棟、野菜畑や薬草畑などが、広大な土地にあちこち散らばっていた。
「決行は二日後、日の出と共になだれ込む。第一班が居住区を取り押さえ、神官たちが部屋にいるところを拘束する。不審な動きをする奴がいたら容赦なくひっ捕らえろ。神官どもの動きを封じた後、第二班が施設内を隈なく調査する」
地図を指さしながら、騎士ひとりひとりに役割を支持していく。適材適所で迷いなく割り振れるのは、それぞれの実力を過小評価なく把握しているからだ。
騎士たちも真剣な眼差しで、バルバナスの話に聞き入っている。そこには信頼と尊敬が垣間見え、騎士団長としてバルバナスが慕われていることが伺えた。
「問題の媚薬が栽培されているとしたら、もっと奥、背後に広がる森ん中だ。この方面にごく限られた神官の行き来が確認されている。最後の班の指揮はオレが取る。アデライーデとニコラウス、ランプレヒトもついて来い。それに新入り、お前も同行しろ」
エーミールを一瞥して、バルバナスはすぐに他の騎士に指示をし始める。それを遮るように、奥で黙って聞いていたランプレヒトが口を開いた。
「あでりーサマは、ふーげんべるく家に里帰りちゅうデスよ?」
「ちっ、んなことは分かってんだよ」
いつもの癖で名を呼んでしまったバルバナスに、みなが生温かい目を向ける。バルバナスが睨みつけると、一同はさっと視線をそらした。
「オレはオレで勝手にやらしてもらいますよ。騎士団の邪魔になることは誓ってしませんので」
「好きにしろ」
カイに向けて吐き捨てるように言うと、バルバナスは作戦会議の終わりを告げた。
◇
部屋を出て王城の廊下を歩く。そのエーミールの後を、ニコラウスが当たり前のようについてくる。
「バルバナス様のそばじゃ、エーミール様、人探しするには動きづらいっすね」
「いや、そうでもない。オレの行くべき場所も神殿の深部だ」
リーゼロッテが囚われているとしたら、恐らく普段は人が行かないような神殿の奥深くだ。隠された施設があるだろう位置の目星を、エーミールはマテアスから事前に聞かされていた。それはバルバナスが指し示した場所と、大体のところ一致している。
二日後の騎士団突入を知らせる密書を、先ほど公爵家の手の者に託して早馬で届けさせた。一日猶予があれば、ジークヴァルトも万全に準備を整えられるに違いない。
(ジークヴァルト様は裏手から神殿内に入る手筈だ。危険が及ばないよう、わたしが中から手助けせねば……)
自分がリーゼロッテを先に保護できれば、それに越したことはない。だがエーミールとしては、ジークヴァルトの身の安全を優先するつもりでいた。
何しろジークヴァルトは王命で、公爵領から出ることを禁じられている。それを破ったことがばれでもしたら、彼の未来は暗黒に塗りつぶされてしまう。
(すべてはジークヴァルト様のためだ)
本当ならこのまま屋敷で待機していてもらいたい。だがあの憔悴した姿を目の当たりにすると、自分の手で取り戻したいというジークヴァルトの思いを、エーミールも無下にはできなかった。
「妖精姫のことはオレもできる限り協力するんで」
「いや、お前にも成すべきことはあるだろう」
気づかわしげな視線をニコラウスが向けた時、遠くから複数人の悲鳴が聞こえてきた。一瞬だけ目を見合わせて、ふたりは同時に駆けだした。
王城勤めの文官や使用人たちが、廊下の端々でうずくまっている。その周辺で黒い異形の影が縦横無尽に蠢いていた。
「何なんだ、この騒ぎは」
「確かに珍しいっすね、こんなにいきなり異形が暴れ出すなんて」
言いながら異形の者を次から次へと祓っていく。しかし進むほどにその数が増えてくる。異形に憑かれて錯乱する者もいて、王城内は混乱を極めていた。
「くそ、きりねぇな」
息を切らすニコラウスの横で、エーミールはまだまだ平然としている。剣技は互角といったところだが、異形を祓う力に関してはエーミールの方が随分と上のようだ。
「エーミール様、めっちゃ頼りになる!」
「口よりも体を動かせ!」
廊下を駆け抜け、エーミールが異形を祓っていく。その背を追いかけながら、ニコラウスは人命救助に回ることにした。異形を祓えば憑かれた者も直に回復する。とりあえず怪我をしないようにと、倒れ込む人間を介抱していった。
「何だよ、ほんときりねぇんだけど!」
「ああ、まさに鼬ごっこだな」
さすがのエーミールも限界が近づいてきている。互いに背を預けながら、囲む異形を睨みつけた。
「……ニコラウス、あの気配を感じないか?」
「言われてみればそうっすね」
うすく辺りに漂う不穏な瘴気が、ぴりぴりと肌を焼きつけてくる。これはいつかグレーデン家に現れた、星を堕とす者と呼ばれる異形の気配だ。
「このままじゃ、マジでやばいっすね」
力尽きれば自分たちが取り憑かれる可能性もある。帯剣した騎士が錯乱するのは、何があっても避けたいところだ。
万事休すかといったところで、一気に目の前の異形が祓われた。
「バルバナス様!」
「お前ら、異形の対処は後回しだ!」
「へ? でもこの騒ぎをほっとくなんて……」
「王城の近衛騎士どもに任せておけばいい! 騎士団員、今すぐ全員集めてこい!」
「ええっ、そんな!?」
バルバナスの怒気だけでそこら中の異形が祓われていく。道を切り開きながら進む後ろ姿を、ニコラウスとエーミールは慌てて追いかけた。
「あまりにもタイミング良すぎるんだよ」
「タイミングっすか?」
「ガサ入れ決定の直後に異形の者が騒ぎ出すなんざ、都合がよすぎるってもんだろう?」
前を行くバルバナスは完全に騎士団長モードだ。バルバナスがこの状態のとき、超ハードな任務が待ち構えていることを、ニコラウスは経験上知っていた。
「騎士団はこれから神殿へと突入する。野郎ども、心してかかれよ!」
「えええっ! でも準備が全然まだ……!」
「オレの勘が今行けっつってんだ、つべこべ言わずについて来い! 各自の役割分担、忘れるんじゃねえぞ!」
再招集された騎士たちが、勇み足で神殿入り口へと向かっていく。その背中を見送って、エーミールはその場にぽつんと取り残された。
「はは、バルバナス様にしてやられたね」
気づくと隣に犬を連れたカイが立っている。
「いいの? オレは行くけど、このままじゃジークヴァルト様、間に合わないよ?」
はっとして時刻を確かめる。間もなく日没を迎える頃だ。エーミールは神殿とは反対方向に足を向けた。
「わたしもすぐに後を追う! 貴様は先に行っていろ」
「了解。健闘を祈るよ」
ひらひらと手を振るカイと尾を振るリープリングを置いて、エーミールは急ぎ王城の庭に出た。
「ギリギリ間に合うか……!」
フーゲンベルク領のある方向、日が沈むゆく空を見上げる。地面に片膝をつき、エーミールは取り出した筒を地面に置いた。倒れないように補強して、そばに焚かれた篝火から導火線へと火種を移す。
「なんすか、ソレ?」
いきなりの声掛けに、ぎょっとして横を見る。そこには膝上に手をあて、暢気に火筒を覗き込むニコラウスがいた。
「何をしている、今すぐ離れろ!」
腕を引きその場を退避する。みるみるうちに導火線が短くなって、筒から爆音が轟いた。
ひゅるるるると白煙が伸び、ぱあんと上空で破裂する。これはマテアスに渡された非常用の発煙筒だ。どうしても連絡が間に合わないときにだけ、緊急で使うようにと説明を受けていた。
白煙が風に乗り、夕焼け空に細く流されていく。公爵領は王都より高い位置にある。日が出ている時間帯なら、この煙が遠くからでも目視できるはずだった。
「おお、すげー」
目の上に手をかざし、ニコラウスが眩しそうに夕日の沈む西を見上げた。そのそばから日が落ちて、辺りが夕闇に包まれていく。
「公爵家への合図ですか?」
「お前はなぜここにいる」
バルバナスについて、先に神殿へ行ったのではないのか。そう暗に問うと、ニコラウスは思い出したようにエーミールの顔を見た。
「逃げ出さないよう連れてこいと言われまして」
「わたしは逃げたりしないぞ」
「分かってますって! 案内しますから、さ、早く」
背を押され、エーミールは神殿入り口へと向かった。
◇
日が傾きかけた夕刻に王城より密書が届けられ、フーゲンベルク家では緊急会議が行われていた。ジークヴァルトをはじめ、参謀のマテアスにアデライーデ、エーミールの叔父ユリウス、家令のエッカルト、それに飛び入りでツェツィーリアがひとつのテーブルを囲んでいる。
「エーミール様の報告ですと、二日後の早朝、日の出と共に騎士団が神殿へと踏み込む予定との事です」
神殿の地図を広げ、マテアスを中心に作戦が練られていく。とは言っても侵入を果たした後、中がどうなっているかは行ってみなければ分からない。良く言えば臨機応変に、悪く言えば行き当たりばったりで乗り切るしかなかった。
「神殿の裏手は塀で囲まれています。侵入するとしたらここ、川がある場所が最適かと。この小川は本神殿から森を抜け、塀の外へと繋がっています。行きも帰りもこの小川を目印に動いてください」
「森の中を行くのは厄介ね」
「地図上では随所に小道があるはずですが、雪にうずもれている可能性が高いです。正面から乗り込めない以上、そこはなんとか突破するしかないですね」
「騎士団が乗り込む混乱に乗じるなら、暗いうちに侵入しておかないとまずいんじゃないのか?」
「新月が近いですから、月明かりも期待はできませんね。ランタンか守り石で対処するしかないでしょう」
マテアスの説明にアデライーデとユリウスが意見する中、ジークヴァルトは黙ってその話を聞いていた。決行の日に備えて無理にでも睡眠を取ったせいか、幾分かは顔色がよくなっている。
「ユリウス様には旦那様の影武者を務めていただきます。建前上、旦那様は公爵領を出られない身となっておりますので」
「おうよ。とりあえず執務室でふんぞり返っていればいいんだろう?」
「リーゼロッテお姉様を拐かすなんて、絶対に許せない! もし誰かに聞かれても、ヴァルトお兄様はこの屋敷にずっといたって、わたくしがちゃんと証言するわ!」
「その間屋敷のことはわたしにお任せください。ここしばらくマテアスに仕切らせていますが、現役家令としてすべての執務を、このエッカルトが滞りなく回してみせましょう」
「わたしは病気で臥せってる事にしとけばいいわね。そこら辺はエラとロミルダに頼んであるから」
各自の役処を確認していく。秘密裏に作戦が遂行できればそれに越したことはないが、単独行動がばれた時、公爵家は取り潰しの運命だ。
「では神殿へと侵入するのは、旦那様とアデライーデ様、それにわたしの三人ということで。旦那様、それでよろしいですね?」
「ああ」
「では旦那様とアデライーデ様は、今のうちに十分休息を取っておいてください。最終準備はわたしが行っておきます」
リーゼロッテを取り戻すため、誰もが決意を固めるように頷きあう。その時使用人のひとりが、転がるように執務室に飛び込んできた。
「何事ですか?」
「狼煙が……グレーデン様の合図の狼煙が、王城方向の空に上がっています……!」
「エーミール様の狼煙が? 確認してきます。みな様はこちらでお待ちを」
隠し扉から屋上へと駆け昇り、マテアスは遥か上空を見渡した。暮れかけて見えづらいが、確かに王城の一角から白煙が立ち昇っている。
あれはエーミールに託した発煙筒だ。王城で使用した際、罰せられる可能性もある。どうしても連絡が間に合わない時のみに、緊急で使うようにと渡してあった。
(突入が早まったのか……!?)
血の気の多いバルバナスなら、無鉄砲なこともやりかねない。階段を駆け下り、すぐさま執務室へと逆戻りした。
「騎士団の調査はすでに始まったようです。一刻の猶予もありません。今すぐ神殿へと向かいましょう」
「やってやろうじゃない!」
意気揚々と拳をぼきりと鳴らしたアデライーデに、使用人が慌てて付け加えてきた。
「あと、アデライーデお嬢様に騎士として登城命令が来ております……!」
「なんですって! どうしてこのタイミングで」
出鼻をくじかれたアデライーデが、憤りの声を使用人に向ける。
「す、すみません! たった今王城から早馬が到着しまして」
「不審がられないためにも、アデライーデ様はひとまず王城へとお向かいください。神殿にはわたしと旦那様、ふたりで行って参ります」
この機会を逃すわけにはいかない。
リーゼロッテ奪還作戦は、あまりにも急な始まりを迎えたのだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。思惑が絡み合って混乱を極める神殿内。黒幕がやってくることを察知したベッティは、わたしを先に逃がそうとして……? ジークヴァルト様とわたしは、無事に再会することができるのか!?
次回、第4章 宿命の王女と身代わりの託宣 第25話「腕の中へ」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
神殿で違法の媚薬が作られていることを知るカイとバルバナス。騎士団が神殿に乗り込む日が近づく中、フーゲンベルク家は重い雰囲気に包まれます。
心身ともに追い詰められたジークヴァルトは、リーゼロッテ奪還のためにしっかり眠るようにとマテアスに諫められて。
一方リーゼロッテは不思議なきのこの導きに食のよろこびを噛みしめ、少しずつ体力を取り戻していくのでした。
「今日もありがとう」
窓辺にやってきた小鳥たちにお礼を言う。並べられているのは小さな木の実やドングリに似たナッツなどだ。時にきのこが添えられていて、そのたびにあの鼓笛隊を思い出すリーゼロッテだった。
雪の間から白いテンが顔をのぞかせていた。近づくとすぐに逃げてしまうが、あの子もよく赤い実を持ってきてくれる。極寒の冬は動物たちも食べる物に苦労しているだろうに、途切れることなく物資は届けられていた。
「リーゼロッテ様ぁおはようございますぅ」
「おはよう、ベッティ」
いつものように夜が明ける直前にベッティがやってきた。この時間がいちばん動きやすいらしい。それでも危険はつきまとう。こんなふうにここへ来ていると知れたら、ベッティはただでは済まないだろう。
「ねぇベッティ。いざという時はひとりでも逃げてちょうだいね」
「見つかるようなヘマはいたしませんよぅ。そんな心配よりもぉ、リーゼロッテ様はしっかり体力つけてくださいませねぇ」
言いながら手早くスープを作る。ベッティの説明では、騎士団が神殿を探っているとのことだった。場合によっては騒ぎの隙をついて、ここから逃げ出せるかもしれない。
「やっぱり今すぐ逃げるわけにはいかないのよね?」
「ここは本神殿からかなり離れていますからぁ。森を抜ける途中で捕まるかぁ、隠れている間に凍死するのがオチですねぇ」
「そう……」
扉の鍵が開けられるならと淡い期待を持ってみたが、現実はそう甘くないようだ。
(でも諦めないわ! こうやってみんなの命を分けてもらっているんだもの)
運ばれる大地の恵みは、どれも力を与えてくれる。体の底から湧き上がるエネルギーを、リーゼロッテは食べるたびに感じ取っていた。
「今日も卵はないんですねぇ」
マンボウは来たり来なかったりで、あれ以来、卵を産むこともなかった。ベッティが来る頃にはいなくなってしまうので、マンボウの存在にベッティは半信半疑だ。
「ベッティ、ひとつ聞きたいのだけれど、この国の鶏って雄でも卵を産むのかしら……?」
「なぁにおっしゃってるんですかぁ。卵を産むのは雌鶏だけですよぅ」
「やっぱりそうよね。マンボウは立派な鶏冠がついているから、ずっと雄鶏だと思ってたのだけど……」
「雌鶏に大きな鶏冠はないのではぁ? 本当にソレ、ニワトリですかぁ?」
「だってクリスティーナ様も鶏とおっしゃってたもの……」
体はひとまわり大きいが、マンボウはどこからどう見ても鶏にしか見えない。
「クリスティーナ様がぁ? またどうしてそんなことをぉ?」
不思議そうなベッティに、マンボウは東宮にいたことを説明した。祖父であるフリードリヒに贈られて、王女が可愛がっていたことも。
「そういえば聞いたことがありますねぇ。直系の王族はみな、伝説の聖獣を受け継ぐんだそうですよぅ」
「伝説の聖獣?」
「クリスティーナ様は不死鳥を、第二王女のテレーズ様は聖なる犬を、ハインリヒ王は神の猫を賜ったって話ですぅ」
「ふ、不死鳥!? わたくし、マンボウの卵、食べてしまったわ……」
「よろしいんじゃないですかぁ? 聖獣って言われているだけでどれもただの動物みたいですしぃ、言わなければバレませんよぅ」
そういう問題なのだろうか。卵と言えど聖獣を食らった令嬢などと、後ろ指は刺されたくはない。
「ちなみにテレーズ様の犬はぁ、今カイ坊ちゃまがお世話されてますぅ。隣国に輿入れする際にぃ、連れてはいけなかったらしくってぇ」
その頬がへにょっと綻んだ。ベッティはカイの妹だ。腹違いの兄のことが本当に好きなのだろう。
「ベッティはどうしてカイ様のことを坊ちゃまって呼ぶの?」
きょうだいというより、ふたりは主従の間柄に見える。ベッティは本来なら侯爵令嬢だ。もっとふつうに兄妹しててもいいのにと思ってしまう。
「前にも言いましたがぁ、わたしはしょせん平民出なんですよぅ。貴族として生きるよりもこうして坊ちゃまのお役に立つ方がぁ、ベッティはずうっとしあわせなんですぅ。さぁさ、できましたぁ。見つからないうちに召し上がってくださいませねぇ」
ベッティは満たされた顔で笑った。その笑顔が眩しくて、リーゼロッテはそっと目を細めた。
◇
「では、しばらくおそばを離れます」
「ああ、よろしく頼む」
「お任せを。このエーミール、必ずやジークヴァルト様のお役に立ってみせましょう」
諸手続きを済ませ、エーミールは騎士団へ赴くことになった。王家に忠誠を誓うためではない。公爵家を動けないジークヴァルトのために、リーゼロッテを取り戻しに行くのだ。
「あっちにはニコラウスもいるから、何かあったらすぐ頼りなさい。向こうにも規律はあるんだから、単独で動かないこと。それと周囲が気に入らないからって、あんまり我を通すんじゃないわよ」
騎士団には平民も多い。バルバナスが実力主義なため、身分が下の上官などは珍しくなかった。浮かない表情のアデライーデに、エーミールは自信ありげな顔を向けた。
「心配はご無用です。ジークヴァルト様のためと思えば、どんな屈辱も些事と切り捨てられます」
「大袈裟ね。あと気持ち悪い」
「アデライーデ様、それは言いすぎでございます。美しい主従愛とおっしゃってさしあげないと」
「うるさいわよ、マテアス。あなただってヴァルト相手にそこまでは思ってないくせに」
「それは聞き捨てなりませんねぇ。わたしも旦那様のためならどんな屈辱にも耐えて見せますよ」
そんな軽口に見送られて、エーミールは公爵家のエントランスを出た。マテアスとは一時休戦状態だ。上手く連携を取らないことには、この作戦は成り立たない。
マテアスは優秀な男だ。エーミールもそのことだけは認めている。気に食わないのに変わりはないが、ジークヴァルトのためならば協力し合うのも当然のことと受け入れられた。
王城騎士に志願したことは、グレーデン家にも報告してきた。病弱の兄は「エーミールの思うようにやればいい」と背を押してくれたが、侯爵である父は「せいぜい王族に媚びを売ってこい」の一言だった。母に至ってはエーミールなどには全く以て無関心だ。
女帝と呼ばれた祖母の死後も、グレーデン家は変わらない。あの冷たい家のために、自分はこれからも生きていくのだ。家に帰るたび、そんなことだけを再確認する。
(いや、今はジークヴァルト様のため命を尽くそう)
いずれ侯爵家の駒になろうとも、ジークヴァルトへの忠誠は変わらない。そう心に決めて、エーミールは前を見据えた。
「グレーデン様……!」
厩舎へ向かう途中、呼び止められる。驚きで振り返ったとき、息を切らしたエラが、縋りつくようにエーミールの片手を取ってきた。
「どうか、どうかお嬢様をお願いいたします」
涙を浮かべ、両手でエーミールの手のひらを握りしめる。震える指先が冷たくて、エーミールは安心させるようにもう片方の手を重ねた。
「ああ、必ずリーゼロッテ様を連れて戻ろう。エラ、あなたは信じて待っていてくれ」
「はい……グレーデン様……」
「エーミールと」
「え?」
「名前ではもう、呼んではくれないのか?」
しばし見つめ合った後、エーミールははっとなった。自分は何を女々しいことを言っているのか。
「あ、いや、今のは忘れてくれ」
「……エデラー家は間もなく貴族籍を抜けます。平民となる身で、そのように馴れ馴れしくお呼びするわけには参りません」
笑うでもなくエラは静かに首を振った。もう二度と、彼女の心が自分に向く事はない。そう思い知らされて、エーミールは吹っ切れたような笑顔を見せた。
「ならば貴族であるうちは、エーミールと呼んでくれないか?」
せめて信頼だけは取り戻したい。くだらないプライドだとは思ったが、最後にそれくらいは許される気がした。
「ではそのように」
「ああ、ありがとうエラ。行ってくる」
「はい、エーミール様、お気をつけて」
やわらかく笑ったエラに背を向けて、エーミールはひとり王城へと向かった。
◇
「エーミール様ぁ! 騎士団に来てくれてめちゃ感激っす!」
扉が開かれるなりニコラウスはエーミールに飛びついた。虫けらを見る視線であっさり躱され、そのまま横を素通りされる。
「やぁ、グレーデン殿。思ってた通りその騎士服、よく似合ってるね」
「もう、絶対に令嬢たちにモテモテっすよね。ホントうらやましい」
「なぜ忌み児の貴様がここにいる」
ひらひらと手を振るカイを認めると、エーミールは部屋の半ばで足を止めた。ニコラウスの台詞は完全無視だ。
「やだなぁ、オレも王城騎士なんだって。顔合わすくらいは勘弁してよ」
このふたりはあまり仲がよろしくないらしい。傍から見ている限りでは、エーミールが一方的に突っかかっているだけのように思える。
「その忌み児ってなんなんすか? エーミール様、前にも言ってましたよね」
「はは、それ聞いちゃうんだ? ブラル伯爵家は王家の血が入ってなかったよね。知らなくて当然だ」
「って言うと託宣がらみですか?」
軽く肩を竦めながら「まぁ、そういう事」と、カイはそこで話を終わらせた。
(聞いちゃなんないことだったかな……)
ニコは空気が読めないとアデライーデによく言われるが、自分では気を使いまくりのムードメーカーだと思っている。ぎすぎすした雰囲気が正直苦手だ。場を和ませようと、ついふざけた態度を取ってしまう。
「エーミール様、とりあえず王城を案内しますよ。神殿方面の区画はあんまり行ったことがないと思うので」
「だったらオレが行こうかな? 王城内はオレの方が詳しいし」
「なぜ貴様などに……」
「グレーデン殿はオレについてた方が動きやすいと思うよ?」
「どういう意味だ」
睨みつけるエーミールに、カイは朗らかな笑顔を返した。
「グレーデン殿だって、バルバナス様の命令に面と向かって逆らえないでしょ? 騎士団の目的はあくまで媚薬の捜査だから、いざという時ジークヴァルト様の役に立たないんじゃないかな?」
カイの言葉にエーミールは口をつぐんだ。神殿に踏み込んだ際、媚薬の調査を優先させるように言われたら、騎士団員となったエーミールはそれに従わざるを得ない。
その点、王城騎士は騎士でも、カイはハインリヒ王直属だ。騎士団長であるバルバナスの配下で動いているわけではなかった。
「リーゼロッテ嬢を取り戻したいんだったら、オレといた方がいいと思うけど。あ、ブラル殿、これ聞かなかったことにしといてね?」
「いやぁ、まぁ、アデライーデに情報を回すのを許してるのはバルバナス様なんで、別にいいっすよ」
「はは、ここはアデライーデ様に甘いね」
エーミールが突然騎士団に入った理由は、ニコラウスにも分かっていた。表沙汰にはなっていないが、行方不明となった妖精姫を、フーゲンベルク家が躍起になって探しているのも知っている。
あの可憐な妖精姫の安否に心が痛む。だがニコラウスはもっと身近で重大な悩みを抱えていた。
アデライーデが公爵家に行ってからというもの、バルバナスの機嫌がむちゃくちゃ悪い。当たりまくられるし、アデライーデの代わりにそばにいるランプレヒトはどこ吹く風だ。
結局はニコラウスが集中砲火を受けて、身もココロも疲弊しまくっている。
(アデライーデ……早くもどってきてくれ……)
早くこの状況を、何とかしたいニコラウスだった。
◇
エーミールを連れてカイは王城内を歩いていた。その後ろを一匹の犬がご機嫌でついて回っている。
「この犬は何なんだ?」
「リープリングだよ」
名を呼ばれた犬は、カイに向けて激しく尾を振った。
胴長短足で、皮膚がだるだるの骨太な犬だ。やたらと長い耳は、前足の付け根まで垂れ下がっている。だれんとした下まぶたが気だるげだが、見れば見るほど愛嬌ある顔に思えてくる。
「不細工な犬だな」
「ひどいなぁ。リープリングは女の子だからやさしくしてやってよ」
しかめ面で距離を取ろうとするエーミールの股の中に、リープリングはいきなり鼻先を突っ込んだ。押しつけたままふんふんとにおいを嗅いでくる。
「なっ」
「はは、リープリングは格好いい男が好きなんだ。グレーデン殿は合格みたいだね」
「くだらないこと言ってないで何とかしろ!」
「リープリング、今は忙しいからまたあとで遊んでもらいな」
「わたしは相手などしないぞ」
若干湿った股間を気にしながら、エーミールが不機嫌な声で言う。かなしそうにくぅんと鳴いたあと、リープリングはおとなしくふたりについていった。
「まぁ、大体こんなところかな?」
神殿に近い場所をひと通り案内すると、カイは渡り廊下の入り口で歩を止めた。ここは神殿へと通じる唯一の道だ。とは言え、表向きはと但し書きがつく。
隠し通路はいくつかあるが、どのみちバルバナスは正面切って乗り込むだろう。カイはその後ろをついていくだけだ。こんな楽な話はない。
「ねぇグレーデン殿。そういえばジークヴァルト様って最近どう? 元気にしてる?」
「そんな事を貴様に説明する義理はない」
「ふーん、まぁいいけど。別に媚びろとは言わないけどさ、ここだけの話、オレって媚薬よりも神殿の深部の調査してるんだよね。その先にジークヴァルト様の探し物があるなら、利用できるものは上手く使った方がいいと思うよ?」
「やはりリーゼロッテ様は神殿で囚われているんだな?」
「それ、こんな場所で不用意に聞いちゃうんだ?」
肩を竦めたカイに、エーミールがあからさまに不快そうな顔をした。
「先に話を振ってきたのは貴様だろう」
「それはそうなんだけどさ」
エーミールはこういう任務に向いてないと言うのが、カイの率直な感想だった。騎士団が神殿へと踏み込んだとき、公爵家はそれに便乗するつもりでいるはずだ。彼が果たすべき役割は、騎士団の情報を公爵家に迅速に伝えることにある。
「グレーデン殿はもう少し自分の役目を考えた方がいいと思うよ?」
「貴様に言われずとも、そんなことは承知している」
「そう? ならいいんだけど」
自分でリーゼロッテを救い出す気満々に見えるエーミールを、カイは早急に見放した。公爵家に恩を売るためにある程度は協力するが、任務の邪魔になるなら切り捨てるまでだった。
何かを言いかけたエーミールを無視して、カイは人の近づく気配に振り返った。こちらにやってくるふたりの神官に、リープリングがうすく唸り声を上げる。
「やあ、レミュリオ殿、お勤め帰りかな?」
「これはカイ・デルプフェルト様、お会いするのは久方ぶりですね。このような場所でどうなさったのですか?」
「新人をあちこち案内してたところだよ」
「あなたは……確か、エーミール・グレーデン様でいらっしゃいましたね」
「そうだが。なぜわたしの名を知っている」
不信な目つきをエーミールが向けると、レミュリオは閉じた瞳のまま笑みを浮かべた。
「貴族のご婦人方から、よくお話を伺っていますから」
「グレーデン殿はご婦人に大人気だからね」
そんな会話を前に、もうひとりの神官はずっと不機嫌そうに押し黙っている。神殿の入り口で立ち話をしていたカイとエーミールを、不信の目で見やっていた。
「そちらは次の神官長候補と名高いヨーゼフ殿だね」
「忌み児であるあなたにそんな媚びを売られても、うれしくとも何ともないですが……まぁ事実だから仕方ないですね」
汚い物を見る目をカイに向けている割に、まんざらでもないといった感じでヨーゼフは返した。リープリングの鼻先のしわが深まって、今にもとびかかりそうな雰囲気だ。
「せっかくの可愛い顔が怖くなってるよ。リープリング、大丈夫だから」
頭をなでると、リープリングはおとなしくお座りをした。それでも警戒したように唇を引き結び、神官たちの動きを目で追っている。
「どうやら嫌われてしまったようですね。わたしどもはこれで退散いたします」
神殿へ続く長い廊下を遠ざかっていく背を、カイとエーミールは無言で見送った。
「胡散臭そうな奴だな」
「はは、グレーデン殿もそう思う?」
リープリングはレミュリオに近づこうとすらしなかった。普段イケメンを見つけてはとびかかる勢いの彼女にしては、とても珍しいことだ。
「……あんなふうに言われて、何ともないのか?」
「ん? 珍しいね。グレーデン殿がオレの心配なんて」
エーミールの言う胡散臭い奴とは、どうやらヨーゼフの方らしい。見当違いもいいところだと、カイは内心肩を竦めた。
「別に心配などしていない」
「グレーデン殿ってさ……」
「なんだ?」
「ホント正直で人がいいね」
とことん心理戦は向いてない。そんなふうに思うも、カイはにっこりと笑うに留めおく。
「貴様、馬鹿にしているのか?」
「まさか。素直に感心してるだけだよ」
実際に肩を竦ませてから、カイはリープリングの鼻づらをいい子いい子と何度も撫でた。
◇
「レミュリオ、聞いたか。貴族の間にもわたしの名が広く届いているようだな」
「そのようですね。ヨーゼフ様は次の神官長として相応しい身。それも当然のことでしょう」
「そうか。お前もそう思うか」
神殿に向かう廊下で、ヨーゼフは機嫌よくいつも以上に饒舌だ。次期神官長候補にはヨーゼフとレミュリオの名が挙がっていた。それが気に食わなくて、ヨーゼフは常にマウントを取ってくる。
年配のヨーゼフと若いが人望あるレミュリオは、神殿内で勢力を二分にしていると言っていい。それはそのまま今は亡きミヒャエル派と、神官長派という構図だった。
「やはり年の功と言うのは大事だな。若輩者のお前には神官長の座は荷が重いだろう」
「ええ。わたしも常々そのように申し上げているのですがね。神官長にも困ったものです」
「まったく彼はいつも弱腰だ。王家の言いなりになるなど頭が悪すぎる」
「ヨーゼフ様が神官長となれば、すぐにでも神殿の権威を取り戻せることでしょう」
「そうかそうか。お前もそう思うか」
上機嫌のまま別れたヨーゼフを、エミュリオは薄い笑みで見送った。
「……なんとも御しやすい単純なお方だ」
自尊心さえ満たしてやれば、それだけで意のままに操れる。餌で尾を振る犬とそう大差ないだろう。
「飼い主に従順な犬の方がまだ使い物になりますかね」
冷めた声で言い放つと、レミュリオは私室に向かった。飾り気のない質素な部屋だ。扉を閉めるなり紅い陽炎が、何もない空間にゆらりと揺らめいた。
「騎士団の動きが目立ってきていますね。神殿内にも曲者が何人も紛れ込んでいるようですし」
陽炎に向かってひとり呟く。朧げな紅は、やがて妖艶な女を形どった。深紅のドレスを身に纏い、喉元に禍々しく光るは龍の烙印と呼ばれる罪の証だ。
「うるさい羽虫たちの動きを少し封じるとしましょうか。異形を少々先導するくらいで構いません。貴女なら上手にできるでしょう?」
その言葉に紅の女の唇が弧を描く。輪郭がぶれたかと思うと、女はその場から掻き消えた。
「次の満月まであと半月ですか……心待ちにするものがあるというのも新鮮ですね」
新月を明日に控え、レミュリオは窓の外、暮れゆく空に閉じた瞳を向けた。
◇
厳重に閉ざされた王城の一室で、バルバナスを囲んでの作戦会議がなされていた。集められたのは騎士団の中でも、重要任務を任される精鋭ばかりだ。カイとエーミールはそれに加わりつつも、やりとりを部屋の隅で見守っていた。
「お前らを集めた理由はほかでもない。媚薬の原料となる植物が、神殿で栽培されている疑惑が上がっている」
「ですが確証はないんですよね?」
「証拠は葉っぱ一枚だが、現場を押さえる事ができさえすれば、向こうも言い逃れはできねぇ。ランプの分析じゃあ、件の媚薬であることに間違いはない」
「それに媚薬がらみの事件を洗い直した所、共通点に特定地域の神殿がいくつか浮上しています。巧妙に場所を変えているようで、決定的証拠は得られませんでしたが……」
「今回は状況証拠で十分だ。勧告なしで一気に捜査に入る。誰ひとりとして逃がさないよう、各自役割を頭に叩き込め」
詳細な地図を広げ、内部の施設を確認していく。何しろ神殿の敷地は広い。祭事を行う本神殿のほかに、神官たちの居住区や物資をしまう倉庫、作業用の家畜がいる棟、野菜畑や薬草畑などが、広大な土地にあちこち散らばっていた。
「決行は二日後、日の出と共になだれ込む。第一班が居住区を取り押さえ、神官たちが部屋にいるところを拘束する。不審な動きをする奴がいたら容赦なくひっ捕らえろ。神官どもの動きを封じた後、第二班が施設内を隈なく調査する」
地図を指さしながら、騎士ひとりひとりに役割を支持していく。適材適所で迷いなく割り振れるのは、それぞれの実力を過小評価なく把握しているからだ。
騎士たちも真剣な眼差しで、バルバナスの話に聞き入っている。そこには信頼と尊敬が垣間見え、騎士団長としてバルバナスが慕われていることが伺えた。
「問題の媚薬が栽培されているとしたら、もっと奥、背後に広がる森ん中だ。この方面にごく限られた神官の行き来が確認されている。最後の班の指揮はオレが取る。アデライーデとニコラウス、ランプレヒトもついて来い。それに新入り、お前も同行しろ」
エーミールを一瞥して、バルバナスはすぐに他の騎士に指示をし始める。それを遮るように、奥で黙って聞いていたランプレヒトが口を開いた。
「あでりーサマは、ふーげんべるく家に里帰りちゅうデスよ?」
「ちっ、んなことは分かってんだよ」
いつもの癖で名を呼んでしまったバルバナスに、みなが生温かい目を向ける。バルバナスが睨みつけると、一同はさっと視線をそらした。
「オレはオレで勝手にやらしてもらいますよ。騎士団の邪魔になることは誓ってしませんので」
「好きにしろ」
カイに向けて吐き捨てるように言うと、バルバナスは作戦会議の終わりを告げた。
◇
部屋を出て王城の廊下を歩く。そのエーミールの後を、ニコラウスが当たり前のようについてくる。
「バルバナス様のそばじゃ、エーミール様、人探しするには動きづらいっすね」
「いや、そうでもない。オレの行くべき場所も神殿の深部だ」
リーゼロッテが囚われているとしたら、恐らく普段は人が行かないような神殿の奥深くだ。隠された施設があるだろう位置の目星を、エーミールはマテアスから事前に聞かされていた。それはバルバナスが指し示した場所と、大体のところ一致している。
二日後の騎士団突入を知らせる密書を、先ほど公爵家の手の者に託して早馬で届けさせた。一日猶予があれば、ジークヴァルトも万全に準備を整えられるに違いない。
(ジークヴァルト様は裏手から神殿内に入る手筈だ。危険が及ばないよう、わたしが中から手助けせねば……)
自分がリーゼロッテを先に保護できれば、それに越したことはない。だがエーミールとしては、ジークヴァルトの身の安全を優先するつもりでいた。
何しろジークヴァルトは王命で、公爵領から出ることを禁じられている。それを破ったことがばれでもしたら、彼の未来は暗黒に塗りつぶされてしまう。
(すべてはジークヴァルト様のためだ)
本当ならこのまま屋敷で待機していてもらいたい。だがあの憔悴した姿を目の当たりにすると、自分の手で取り戻したいというジークヴァルトの思いを、エーミールも無下にはできなかった。
「妖精姫のことはオレもできる限り協力するんで」
「いや、お前にも成すべきことはあるだろう」
気づかわしげな視線をニコラウスが向けた時、遠くから複数人の悲鳴が聞こえてきた。一瞬だけ目を見合わせて、ふたりは同時に駆けだした。
王城勤めの文官や使用人たちが、廊下の端々でうずくまっている。その周辺で黒い異形の影が縦横無尽に蠢いていた。
「何なんだ、この騒ぎは」
「確かに珍しいっすね、こんなにいきなり異形が暴れ出すなんて」
言いながら異形の者を次から次へと祓っていく。しかし進むほどにその数が増えてくる。異形に憑かれて錯乱する者もいて、王城内は混乱を極めていた。
「くそ、きりねぇな」
息を切らすニコラウスの横で、エーミールはまだまだ平然としている。剣技は互角といったところだが、異形を祓う力に関してはエーミールの方が随分と上のようだ。
「エーミール様、めっちゃ頼りになる!」
「口よりも体を動かせ!」
廊下を駆け抜け、エーミールが異形を祓っていく。その背を追いかけながら、ニコラウスは人命救助に回ることにした。異形を祓えば憑かれた者も直に回復する。とりあえず怪我をしないようにと、倒れ込む人間を介抱していった。
「何だよ、ほんときりねぇんだけど!」
「ああ、まさに鼬ごっこだな」
さすがのエーミールも限界が近づいてきている。互いに背を預けながら、囲む異形を睨みつけた。
「……ニコラウス、あの気配を感じないか?」
「言われてみればそうっすね」
うすく辺りに漂う不穏な瘴気が、ぴりぴりと肌を焼きつけてくる。これはいつかグレーデン家に現れた、星を堕とす者と呼ばれる異形の気配だ。
「このままじゃ、マジでやばいっすね」
力尽きれば自分たちが取り憑かれる可能性もある。帯剣した騎士が錯乱するのは、何があっても避けたいところだ。
万事休すかといったところで、一気に目の前の異形が祓われた。
「バルバナス様!」
「お前ら、異形の対処は後回しだ!」
「へ? でもこの騒ぎをほっとくなんて……」
「王城の近衛騎士どもに任せておけばいい! 騎士団員、今すぐ全員集めてこい!」
「ええっ、そんな!?」
バルバナスの怒気だけでそこら中の異形が祓われていく。道を切り開きながら進む後ろ姿を、ニコラウスとエーミールは慌てて追いかけた。
「あまりにもタイミング良すぎるんだよ」
「タイミングっすか?」
「ガサ入れ決定の直後に異形の者が騒ぎ出すなんざ、都合がよすぎるってもんだろう?」
前を行くバルバナスは完全に騎士団長モードだ。バルバナスがこの状態のとき、超ハードな任務が待ち構えていることを、ニコラウスは経験上知っていた。
「騎士団はこれから神殿へと突入する。野郎ども、心してかかれよ!」
「えええっ! でも準備が全然まだ……!」
「オレの勘が今行けっつってんだ、つべこべ言わずについて来い! 各自の役割分担、忘れるんじゃねえぞ!」
再招集された騎士たちが、勇み足で神殿入り口へと向かっていく。その背中を見送って、エーミールはその場にぽつんと取り残された。
「はは、バルバナス様にしてやられたね」
気づくと隣に犬を連れたカイが立っている。
「いいの? オレは行くけど、このままじゃジークヴァルト様、間に合わないよ?」
はっとして時刻を確かめる。間もなく日没を迎える頃だ。エーミールは神殿とは反対方向に足を向けた。
「わたしもすぐに後を追う! 貴様は先に行っていろ」
「了解。健闘を祈るよ」
ひらひらと手を振るカイと尾を振るリープリングを置いて、エーミールは急ぎ王城の庭に出た。
「ギリギリ間に合うか……!」
フーゲンベルク領のある方向、日が沈むゆく空を見上げる。地面に片膝をつき、エーミールは取り出した筒を地面に置いた。倒れないように補強して、そばに焚かれた篝火から導火線へと火種を移す。
「なんすか、ソレ?」
いきなりの声掛けに、ぎょっとして横を見る。そこには膝上に手をあて、暢気に火筒を覗き込むニコラウスがいた。
「何をしている、今すぐ離れろ!」
腕を引きその場を退避する。みるみるうちに導火線が短くなって、筒から爆音が轟いた。
ひゅるるるると白煙が伸び、ぱあんと上空で破裂する。これはマテアスに渡された非常用の発煙筒だ。どうしても連絡が間に合わないときにだけ、緊急で使うようにと説明を受けていた。
白煙が風に乗り、夕焼け空に細く流されていく。公爵領は王都より高い位置にある。日が出ている時間帯なら、この煙が遠くからでも目視できるはずだった。
「おお、すげー」
目の上に手をかざし、ニコラウスが眩しそうに夕日の沈む西を見上げた。そのそばから日が落ちて、辺りが夕闇に包まれていく。
「公爵家への合図ですか?」
「お前はなぜここにいる」
バルバナスについて、先に神殿へ行ったのではないのか。そう暗に問うと、ニコラウスは思い出したようにエーミールの顔を見た。
「逃げ出さないよう連れてこいと言われまして」
「わたしは逃げたりしないぞ」
「分かってますって! 案内しますから、さ、早く」
背を押され、エーミールは神殿入り口へと向かった。
◇
日が傾きかけた夕刻に王城より密書が届けられ、フーゲンベルク家では緊急会議が行われていた。ジークヴァルトをはじめ、参謀のマテアスにアデライーデ、エーミールの叔父ユリウス、家令のエッカルト、それに飛び入りでツェツィーリアがひとつのテーブルを囲んでいる。
「エーミール様の報告ですと、二日後の早朝、日の出と共に騎士団が神殿へと踏み込む予定との事です」
神殿の地図を広げ、マテアスを中心に作戦が練られていく。とは言っても侵入を果たした後、中がどうなっているかは行ってみなければ分からない。良く言えば臨機応変に、悪く言えば行き当たりばったりで乗り切るしかなかった。
「神殿の裏手は塀で囲まれています。侵入するとしたらここ、川がある場所が最適かと。この小川は本神殿から森を抜け、塀の外へと繋がっています。行きも帰りもこの小川を目印に動いてください」
「森の中を行くのは厄介ね」
「地図上では随所に小道があるはずですが、雪にうずもれている可能性が高いです。正面から乗り込めない以上、そこはなんとか突破するしかないですね」
「騎士団が乗り込む混乱に乗じるなら、暗いうちに侵入しておかないとまずいんじゃないのか?」
「新月が近いですから、月明かりも期待はできませんね。ランタンか守り石で対処するしかないでしょう」
マテアスの説明にアデライーデとユリウスが意見する中、ジークヴァルトは黙ってその話を聞いていた。決行の日に備えて無理にでも睡眠を取ったせいか、幾分かは顔色がよくなっている。
「ユリウス様には旦那様の影武者を務めていただきます。建前上、旦那様は公爵領を出られない身となっておりますので」
「おうよ。とりあえず執務室でふんぞり返っていればいいんだろう?」
「リーゼロッテお姉様を拐かすなんて、絶対に許せない! もし誰かに聞かれても、ヴァルトお兄様はこの屋敷にずっといたって、わたくしがちゃんと証言するわ!」
「その間屋敷のことはわたしにお任せください。ここしばらくマテアスに仕切らせていますが、現役家令としてすべての執務を、このエッカルトが滞りなく回してみせましょう」
「わたしは病気で臥せってる事にしとけばいいわね。そこら辺はエラとロミルダに頼んであるから」
各自の役処を確認していく。秘密裏に作戦が遂行できればそれに越したことはないが、単独行動がばれた時、公爵家は取り潰しの運命だ。
「では神殿へと侵入するのは、旦那様とアデライーデ様、それにわたしの三人ということで。旦那様、それでよろしいですね?」
「ああ」
「では旦那様とアデライーデ様は、今のうちに十分休息を取っておいてください。最終準備はわたしが行っておきます」
リーゼロッテを取り戻すため、誰もが決意を固めるように頷きあう。その時使用人のひとりが、転がるように執務室に飛び込んできた。
「何事ですか?」
「狼煙が……グレーデン様の合図の狼煙が、王城方向の空に上がっています……!」
「エーミール様の狼煙が? 確認してきます。みな様はこちらでお待ちを」
隠し扉から屋上へと駆け昇り、マテアスは遥か上空を見渡した。暮れかけて見えづらいが、確かに王城の一角から白煙が立ち昇っている。
あれはエーミールに託した発煙筒だ。王城で使用した際、罰せられる可能性もある。どうしても連絡が間に合わない時のみに、緊急で使うようにと渡してあった。
(突入が早まったのか……!?)
血の気の多いバルバナスなら、無鉄砲なこともやりかねない。階段を駆け下り、すぐさま執務室へと逆戻りした。
「騎士団の調査はすでに始まったようです。一刻の猶予もありません。今すぐ神殿へと向かいましょう」
「やってやろうじゃない!」
意気揚々と拳をぼきりと鳴らしたアデライーデに、使用人が慌てて付け加えてきた。
「あと、アデライーデお嬢様に騎士として登城命令が来ております……!」
「なんですって! どうしてこのタイミングで」
出鼻をくじかれたアデライーデが、憤りの声を使用人に向ける。
「す、すみません! たった今王城から早馬が到着しまして」
「不審がられないためにも、アデライーデ様はひとまず王城へとお向かいください。神殿にはわたしと旦那様、ふたりで行って参ります」
この機会を逃すわけにはいかない。
リーゼロッテ奪還作戦は、あまりにも急な始まりを迎えたのだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。思惑が絡み合って混乱を極める神殿内。黒幕がやってくることを察知したベッティは、わたしを先に逃がそうとして……? ジークヴァルト様とわたしは、無事に再会することができるのか!?
次回、第4章 宿命の王女と身代わりの託宣 第25話「腕の中へ」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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