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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣
第17話 時、満ちて
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【前回のあらすじ】
歴代の王たちの記憶を受け継いだハインリヒは、その声に煩わしい毎日を送ります。それを癒せるのはアンネマリーの存在だけで。
一方、カイから新たな任務を受けたベッティは、ビエルサール神殿侵入の準備を始めます。
そんな中、とうとう時が満ちることを確信したクリスティーナ王女。ヘッダに王女としての最後の言葉をかけたあと、同様にアルベルトにも自分が死した後も生き続けることを命じます。
その直後クリスティーナは、ひとりの女として自分を受け入れてほしいとアルベルトに訴えて。互いの熱を刻みつけるように、ふたりは最初で最後の夜を共にするのでした。
※残酷描写タグ注意回です。苦手な方はお気をつけください。
血を、欲する者がいる。
あれは数多の礎から生じた歪み。重く低く、焦がれた波が救いを求めて、今、高みに手を伸ばす。
その先にあるのは、この国の希望。
失ってはならない、唯ひとつの光――
◇
王城へと向かう馬車の中、レースのカーテンの隙間から、リーゼロッテは落ち着きなく何度も窓の外を覗きこんでいた。それをエラが微笑ましく見守っている。
ようやくフーゲンベルクの屋敷に帰れるのだ。王女の神事が終わったら、そのままジークヴァルトが迎えにきてくれることになっていた。
「ヴァルト様のお誕生日の前に戻れることになってうれしいわ。手編みのブランケットはよろこんでもらえるかしら?」
「はい、きっとおよろこびくださいますよ」
ジークヴァルトへの贈り物として、エラの指導の下、東宮でせっせと編み物を続けていた。ひざ掛けを作るつもりが、勢いあまって毛布サイズになってしまったのはご愛嬌だ。寒い日にジークヴァルトと一緒に包まりたいなどと思っているリーゼロッテだった。
(それにしても、降りた神託は一体なんだったのかしら……)
リーゼロッテに身の危険が迫っているという神託の元、東宮で保護を受けていた。しかしこれといって、何が起きたということもない。安全な東宮にいて、危機はすでに去ったということだろうか?
東宮での生活は四か月近くに及んだ。一度だけ夜会に行くことはできたが、それ以外はずっと隔離された生活だった。
ジークヴァルトとも数えるほどしか会っていない。だがまたあの日常が戻ってくる。そう思うと緩む顔を抑えられなかった。
(異世界って、本当におとぎ話みたいなことばかりね)
囚われの姫になっていたとでも思えば、あの日々もいい思い出話になりそうだ。ラプンツェルの塔のような東宮を頭に浮かべながら、リーゼロッテはそんなことを考えていた。
王都の中心街に出て、東宮から遥か遠くに見下ろしていた王城が大きく近づいてくる。
(もうすぐヴァルト様に会える……!)
そびえ立つ門をくぐり抜け、助け出されたお姫様気分で、リーゼロッテはその胸を高鳴らせた。
◇
「人払いを」
玉座に座る王の言葉に、当事者だけが残された。目の前で礼を取っているのはクリスティーナ王女だ。そのさらに後方に令嬢と護衛の騎士が控えている。
王妃となってしばらく経つが、アンネマリーが第一王女に会うのは初めてのことだ。顔立ちは妹姫のテレーズよりも、弟のハインリヒとよく似ている。
美しい人だとそう思った。生まれながらにして王女として生きてきた。そんな気品と誇りが、彼女からは感じられた。
遥か遠くを見つめる瞳で、ハインリヒが王女に視線を落とす。それはどこか愁いをはらんでいるかに見えて、アンネマリーはその横顔を戸惑いと共に見守った。
「ハインリヒ王、最後にこうして立派になられた姿を目にすることができ、わたくしもうれしく思っております」
感慨深げなその言葉は、王に対してというよりも、大切な弟に向けたものなのだろう。慈しむような王女の瞳に、ハインリヒはただ静かに頷いた。
「父上たちにはもう?」
「はい、先ほど挨拶は済ませてきました。思い残すことはありません」
そのやり取りはまるで今生の別れに見えた。困惑しつつ、口を挿むこともできない。アンネマリーはこの謁見の場で、たったひとりの傍観者だった。
「ヘッダ・バルテン子爵令嬢。長きに渡り第一王女によく仕えてくれた。褒美としてそなたの願いを聞こう」
奥に控えていた令嬢に声がかけられる。その令嬢は臆することなく顔を上げた。
「わたくしの願いはただひとつにございます。クリスティーナ王女殿下の行く道が、この先も安寧であることを……それだけを望みます」
「相分かった。最後まで責任を持って見届けよう」
「ありがたきお言葉にございます」
重く響く声で頷いた王に、笑みをこぼして令嬢は深く礼を取った。
「アルベルト・ガウス」
次いで王女の騎士が、令嬢の横で大きく頭を垂れる。
「そなたも王女によく仕えてくれた。その功績を称え、貴族の地位および財を授けることとする」
「身に余る光栄でございます」
一拍置いたのち、ハインリヒはさらに続けて騎士に告げた。
「それに伴い、今をもってそなたを第一王女の護衛の任から外す。王城に一室を用意させた。今後の処遇は追って申し渡すゆえ、それまではそこで待つように」
驚きの表情で、騎士は一瞬顔を上げかけた。だが言葉を飲み込んで、再び深く礼を取る。
「王の……仰せのままに」
彼の声は震えていた。絞り出されたようなそれを背に、王女は表情を変えずに前を向いている。
「王、わたくしの願いを聞き届けていただき、心より感謝いたします」
「ああ、その者については万事うまく取り計らおう」
王女の言葉に、壇上からも分かるくらい騎士の体が震えた。彼は王女に捨てられたのだ。そんな悲劇にアンネマリーの目には映った。
いたたまれない雰囲気のまま、謁見の場は幕を閉じる。
王女と令嬢は王族用の扉へと向かい、残された騎士は絶望の顔で、貴族用の扉から姿を消した。
その様を目で追って、アンネマリーはふいに手を握られた。遠い瞳のままハインリヒは、王女が出ていった扉を見つめている。
「……王とは無力なものだな」
握る手に力が入る。そこに自身の手を重ね、アンネマリーはハインリヒと見つめ合った。
「ずっとおそばでお支えしております。国のため、どうぞ、王は迷わずお進みください」
「……そうだな。迷うなど、何も意味はない」
静かに言ってハインリヒは、再び遥か遠くをじっと見据えた。
◇
何が起きたのか分からない。
なぜ、という思いだけがすべてを占めた。
彼女が彼女として在れるよう、最後まで護り続けることが与えられた役割だった。
そして見届けるはずだった。誇り高い王女のまま逝く、その瞬間を。誰よりも近くにいたこの自分だけが。
扉を出ていく背中。背筋の伸びた見慣れた後ろ姿は、振り返りもせず消えてしまった。
(あれが最後なのか。あれで、終わりなのか)
そんなはずはない――張り詰めた心が、拒絶の言葉を叫び続ける。
どうして見届けさせてくれないと言うのか。どんなに惨い最期を迎えようと、王女として美しく散るその瞬間を、この瞳に焼きつけたかった。すべてを刻み込むために。
アルベルトは震える拳を握りしめた。その手が腰の剣の鍔に当たる。この剣はナイトの称号と共に、クリスティーナから賜った騎士の誇りだ。
その誇りある任を王はあっさりと解いた。だがそれは誰でもない、クリスティーナが望んだことなのだ。
彼女を守るために磨き続けてきたこの剣は、結局なんの役にも立たなかった。これから先もガラクタのままだ。何も持たないこの手はもう、二度と王女に届かないのだから。
来る空虚とない混ぜになって、抱える思いの何もかもが、惨たらしく現実の刃に切り刻まれていく。
どこまでも気高く。どこまでも残酷な。自分だけの美しい王女。
クリスティーナは間もなく死ぬ。自分の預かり知らないところで、アルベルトを置き去りにしたまま、いつの間にかひとりきりで逝ってしまう。
「……――っ」
衝動のように叩きつけられた騎士の誇りは、耳障りな音を立て王城の廊下を滑っていった。通りすがった誰かが、その様子に小さく悲鳴を上げる。
感情を抑えられないままアルベルトは、捨てた剣に背を向けた。
◇
「クリスティーナ様……よろしかったのですか……?」
「何? アルベルトのこと?」
神事のための支度を終えたクリスティーナに、ヘッダは遠慮がちに問いかけた。平然と聞き返した王女に、ヘッダは小さくうなずき返す。
「いいのよ。ああは言っていてもアルベルトのことだもの。いざとなったら身を挺して飛び出してくるでしょう?」
王女は懐かしむように口元に笑みを浮かべた。好き勝手に行動しては、さんざ彼を振り回してきた。自分を守ることを使命としているアルベルトにとって、それはもはや条件反射のようなものだ。
だが託宣を果たすその瞬間のクリスティーナを守るということは、龍の意思に逆らうことになる。それは禁忌を犯した異形の者に、アルベルトがなり果てるということに他ならない。
「託宣を阻むものを龍は絶対に許さない。だったら星に堕ちるだけ損というものよ」
どうあっても託宣は守られる。彼を星を堕とす者などにするわけにはいかなかった。
「アルベルトはきっと反論するでしょうけど。ほんと、最後までつまらない男」
何を想像したのか、クリスティーナは耳に心地よい声で笑った。
「でもいいわ」
あの生真面目なアルベルトの牙城を、一度きりでも崩すことができたのだから。
長い年月、立場を踏み越えることをしなかったアルベルトだ。自分がどんなに無防備にしていようとも、その態度は憎らしいほど冷静で、非常時以外は一切この身に触れるなどしなかった。
目の前で肌を見せた時のアルベルトの顔が忘れられない。大きく目を見開いて、余裕なく声が上ずって。
「だから……いいのよ」
満足げなクリスティーナを、ヘッダは黙って見つめている。
「もう時間ね。すべてを終えるまで、あなたはここで待ちなさい」
「クリスティーナ様……」
「これはヘッダ、あなたに」
クリスティーナは右手のハンドチェーンをはずして手渡した。これは手の甲にある龍のあざを隠すためのものだ。どうせ着けるならと、イジドーラが贈ってくれたとても美しい装飾だ。
両の手のひらで受け取ったヘッダは、切なそうにそれを胸に抱きしめた。
「では、行ってくるわ」
「クリスティーナ様……!」
神事に向かう背を、引き止めるように声がかけられる。
「龍の託宣は……何を以てしても、最優先されるべきことなのですよね?」
「ええ、そうよ。それは必ず守られなければならないもの。例え王命を受けようと、託宣を違えることは許されないわ」
その言葉に、心を決めたようにヘッダは頷いた。
「いってらっしゃいませ。クリスティーナ様の行く道が、この先もずっと安寧でありますように……」
最後の務めを果たしに行く王女を、晴れやかな顔で送り出す。
一人残された部屋で、ヘッダは祈るようにハンドチェーンを握りしめた。愛おしそうに眺め、次いでそれを自分の手にはめていく。
王女の手でいつも煌めいていた装飾が、甲の上で美しく輝いている。それはまるでこの手だけが、クリスティーナになったようだ。
至福の笑みを浮かべたまま、ヘッダはそっと部屋を後にした。
◇
王城へと通じる神殿の廊下が、長く真っすぐと続く。レミュリオの背に付き従いながら、マルコは俯いたまま歩いていた。
今日は祈りの泉で、第一王女による神事が行われる。月一程度で行われるそれに、レミュリオはいつも加わっていた。ここ最近、お供としてマルコもついて行くようになった。とはいっても、控えの部屋で神事が終わるのを待っているだけだ。
「うわっ」
ぼんやりと歩いていたせいか、何もないところでつまずいた。そこをレミュリオの手が支えてくる。
「大丈夫ですか? マルコさん」
「す、すみません! ボクぼうっとしててっ」
「怪我がないのならよかったです」
やさしく微笑んでレミュリオは再び歩き出した。
「体調が優れないようですね。もしかしてあまり眠れていないのですか?」
そう問いかけられてマルコは口ごもった。ミヒャエルのことを考えると、怖くて眠りが浅くなる。自分がビョウを持って行ったせいで、ミヒャエルは自害してしまったのだから。
あの日、果物ナイフで指を切ったあと、マルコの意識は遠のいた。そして気づいたときにはもう、血まみれになったミヒャエルが目の前で息絶えていた。
王城での事情聴取でマルコはそう答えた。いや、そう答えるしかなかったと言うべきか。
どうしてミヒャエルが死を選んだのか。己の罪を悔いての選択だったのだろうか。だがあの日のミヒャエルはとても穏やかだった。霞がかかったように直前の記憶が思い出せなくて、マルコは聴取中にずっと泣き続けた。
精神的なショックが原因で何も覚えていないのだろうと結論づけられて、マルコは騎士団から解放された。結局は何も分からないまま、公にはミヒャエルは病死と発表された。
マルコは口止めを要求され、胸の奥にぐずぐずと何かが燻ったまま、眠れない夜を何日も過ごしている。
「最近、物騒な事が続いているので、不安に思う気持ちも分かります。ですが心配はいりません。神殿でも警備の体制を強化していますから」
「はい……ありがとうございます、レミュリオ様」
ここのところ神殿内で、家畜や獣の死骸が放置される事件が多発している。その現場は凄惨なもので、見せつけるように切り刻まれたものがばら撒かれているらしい。
あることないこと噂が飛び交って、神殿内は疑心暗鬼な雰囲気が漂っていた。その現場に遭遇したことはないが、確かにそのことも気が沈む原因ではあった。
最近朝に目覚めると、身に覚えなく手足が土で汚れていることが何度もあった。そのことは誰にも言えないでいる。時に衣類にべっとりと血のりがついていることも。
両親を亡くしてから、時折記憶が飛ぶようになった。それは大概、血を見た直後に起こる。ミヒャエルのことがあってから、その症状がさらに悪化していた。
「……マルコさんはご両親を痛ましい事故で亡くされたのでしたね。無神経な物言いをしました。申し訳ありません」
「い、いいえ! ボクの両親が死んだのは、レミュリオ様のせいではありませんから!」
「そう言っていただけるとわたしも気が楽になります。マルコさんはおやさしい方ですね」
「そんなことは……」
慈しむように言われて、マルコの中で自責の念が膨れ上がる。両親が死んだのはクマに襲われたからだ。そしてそうなると知っていたのに、それを止められなかったマルコのせいだ。
「……やはり体調がよろしくなさそうですね。休ませて差し上げたいのは山々なのですが、今日は第一王女による大事な神事があります。もう少しだけ頑張っていただけますか?」
「はい、ご心配には及びません。……でも、ボクはいても何もお役に立ってないですよ?」
マルコはいつも神事には関わってはいない。終わるまで控えの部屋で待っているだけだ。
「マルコさん、あなたには夢見の力があります。第一王女と同じ、類い稀なる力が」
レミュリオは立ち止まり、閉じた瞳のままマルコを見下ろした。その端正な顔を見上げながら、マルコも長い廊下の途中で立ち止まる。
「見習いから正式に神官となったら、あなたもすぐ神事に出ることになるでしょう。そのためにも場の波動に少しでも触れておいてください」
「波動とかって言われても、ボクにはよく分からないし……」
「分からなくてもいいのですよ。あなたには夢見の力がある」
レミュリオの言葉に、マルコは拳をきつく握りしめた。
「でも……こんな力あったって、何の役にも立たないじゃないですか」
「いいえ、その力は何物にも代え難いものです。あなたは少し自覚が足りていないようですね」
「未来が視えるからって何だって言うんですか! クマに殺されるって知っていたのに、ボクは父さんも母さんも助けられなかった!」
そうならないように、必死になって手を尽くした。だが夢見で視た映像そのままに、結局ふたりは死んでしまった。
「夢見を変えられない。そのことこそが重要なのですよ。王女の夢見はとてもあやふやです。少しの出来事で王女の視た未来は変わっていってしまう。そんな夢見に価値など見いだせないでしょう?」
冷静なままレミュリオは言った。その冷たいとも感じさせる口調に、マルコもはっと我に返る。
「いいですか、マルコさん。第一王女の夢見の巫女としての力はとても弱い。それはシネヴァの森の巫女に遠く及ばないものです。これまで神託を降ろせる巫女の力は、王家直系の女性にのみ受け継がれてきました。それなのにその力を、神殿の人間であるあなたが持っている。この意味が分かりますか?」
「いえ、すみません……ボク頭が悪くて……」
レミュリオの言葉はいつも難しくて、マルコにはちっとも理解できない。だが何か怖いことを言われているようで、マルコは思わず視線をそらした。
「青龍の言葉を受け取れるのは王家の血筋だけです。そして重要な神事が執り行えるのは、神殿の力があってこそ。これは権力が偏らないために、青龍が定めた国の掟。長い歴史の中、これは絶対的に守られ続けてきました。ですがあなたは夢見の力を持っている。王家の血脈でもないあなたが」
「でも、ミヒャエル様も夢見の力を持っていたって聞きました……!」
「彼の力は幼少期のみのもの。確かに夢見の力を有して生まれた者は過去にも存在します。ですがすべての者が成長と共にその力を失っている。マルコさん、あなたは今いくつですか?」
「今年で……十六になりました」
「そうでしょう? その年齢まで夢見の力を持ち続けた人間は、過去にひとりも存在しない。神殿が単独で龍の意思を降ろせるとなったら、王家の血筋はもはや必要なくなります。あなたの持つ夢見の力は、この国の均衡を揺るがしかねないのですよ」
「そんなこと言われたって! ボクの夢見だって、もう無くなってるかもしれないじゃないですか!」
マルコは必死に叫んだ。国の事情など説明されても何も理解できない。だがいつも穏やかなレミュリオが、今は恐ろしくて仕方がなかった。
「ではあなたはなぜ、あの日ミヒャエル様に会いに行ったのですか?」
「それは……」
突き付けられた言葉に口ごもる。あの日の前夜、マルコは夢を見た。
赤いビョウを差し出す美しい女神。紅い光を纏った女神から、マルコはそのビョウを受け取った。これをミヒャエルに届けなければ。なぜかそう思った瞬間に目覚めたマルコは、その日のうちに季節外れのビョウを、特に親しくもない神官から偶然もらった。
それをどうしてもミヒャエルに食べてもらいたくて、誰にも内緒で牢獄にいるミヒャエルに会いに行った。
だがミヒャエルの元へ行ったことも、その夢を見たことも、王城の騎士しか知らないことだ。夢の女神のことは事情聴取で包み隠さず話した。騎士たちは軽く受け流したようで、それについて特に言及はされなかった。
「マルコさん、神殿にもそれなりの情報網があるのですよ。隠そうとしても無駄なことです。王位継承の儀が行われた日のあなたの行動は、神官長もすべて知っておいでです」
「えっ!?」
「とは言えどうぞご安心を。今のところ神官長はあなたを咎めるつもりはないようです。ですが覚えておいてください。同様に、王家も神殿の内部を探っています。長い歴史で生じた軋轢の中、王家と神殿の力関係は危うい均衡を保っている。それくらいこの国の内部は病んでいるのです」
国の内情など話されてもマルコには何ひとつ分からない。だが罰せられることはないのだと知ると、急に胸が軽くなった。
「いいですか。あなたが夢見の力を持つと王家に知れたら、命を狙われることだってあり得るのですよ。それに貴族や神殿内にも悪しきことを企む者もいます。あなたを手の内に引き込めば、国家転覆すら夢ではないのですから」
「そんな……」
「夢見の力はそれほど危険なものなのです。あなたがその力を持つと知るのは一部の神官だけ。王家にも貴族にも、安易にそれを知られてはいけません」
事の大きさに頭がついていけない。そこでマルコははっとなった。王女の東宮で、夢見の力のことをあの令嬢に話してしまった。彼女が自分を利用するなど考えられないが、もしほかの誰かに広めてしまったら。
「ああ、怖い話をしましたね。心配はいりません。あなたは神官長の下で、今あるしきたりに則って神事を務めあげれば、そう問題は起きないでしょう。ゆめゆめ悪しき者の声に耳を傾けないよう、十分に注意をしてください」
「はい……そうします」
青ざめて返事をしたマルコに、レミュリオは普段通りの柔らかい笑みを向けた。
「もう時間がありませんね。わたしはこのまま神事へと向かいます。マルコさん、あなたはいつもの部屋で終わるのを待っていてもらえますか?」
「わかりました」
王城の敷地内に入り、レミュリオの背を見送った。マルコは反対の廊下を進み、控えのために用意された部屋へと歩を進めた。
この辺りは人気はほとんどないが、貴族に出くわすこともある。緊張を強いられるため、誰にも会わないうちにとマルコは駆け足で神官服の長衣を翻した。
その部屋までもう少しという所で、突然大きな金属音がした。つんのめりながら止まった足先に、叩きつけられるように一振りの剣が滑り込んでくる。
ひえっと情けない声を上げたマルコに、鋭い視線が向けられた。剣を投げつけてきた騎士に、射殺さんばかりに睨み上げられる。身をすくませたマルコを無視して、その騎士はすぐに行ってしまった。
動悸が収まらず、遠ざかる背が見えなくなるまで、マルコはしばらくその場に立ち尽くしていた。
ふと視線を足元に移す。そこには打ち捨てられたままの長剣が無造作に転がっている。立派な鞘から僅かに抜けて、鋼の刃の根元が少しだけ覗いていた。その鋭利な輝きに、あの日ミヒャエルに刺さった短剣を思い出す。
冷たい牢の床。見開かれた空虚な瞳。返り血で染まったこの体。
「い、やだ……」
そう思うのに抜き身の部分に目が吸い寄せられる。そこに一瞬、夢で見た紅の女神が映ったかに視えた。はっとするも磨かれた剣の刃には、おびえた自分の顔が映り込んでいるだけだ。
刃の自分と目を見合わせる。
映った向こうのマルコがその時、たのしげに口元を歪ませた。
◇
最後の神官が出て行って、いつものようにひとり残される。祈りの泉での務めもこれで最後だ。
どんな形であろうと自分は命を落とす。そのためだけに生かされてきた。彼女の中で眠ったままの、聖なる力を解き放つために。
泉に足を浸し、水中の階段を降りていく。腰までつかり中央で祈りを捧げた。泉の水面が光を放って、最果ての地にいるシネヴァの巫女が、同時に波を返してくる。
「大お婆様……間もなくわたくしの時は満ちます……ええ、そう……もう思い残すことはありません……わたくしは思うように生きられました」
例え結末が決まっていようとも、選んだ道のりは自分の意思で辿ってきたものだ。満たされた日々に、今この胸に残るのは穏やかな感謝だけだった。
「ふふ……そうですわね。巫女が純潔であらねばならないなんて迷信に過ぎないと……わたくしが証明したことを、どうぞ後世の巫女にもお伝えください……」
アルベルトが受け入れてくれなかったら、そのことだけが心残りになったのだろう。そんな想像に小さく笑みをこぼしながら、最後の神事に意識を戻した。
「ああ……神託が、来る」
森の巫女に降ろされた神託が、クリスティーナの内にも伝わってくる。それを記録するのは外で待機する神官たちの役割だ。転送された龍の言葉を、自分はただ増幅し再生するだけだ。
「夢見を継し者、見定めるまでは……来る聖女を泉に招くべし……次に降りる言霊は……時を視てシネヴァの地まで迎えに来させよ……その役目負うべきは、断鎖を背負う青き者なり……」
泉が白一色に包まれて、光の柱が立ち昇る。舞い上げられた髪が光に溶け込んで、そのまま消えてなくなってしまいそうだ。
その感覚が消え失せて、神事が終わりを迎えたことを知る。名残のように揺れる水面だけが、静かに蝋燭の光を返した。
余韻が冷めやらぬ中、ふいをつくように浮かんだ映像の渦が、一瞬でクリスティーナを飲み込んでいく。追い詰められた首筋に突き付けられるのは、ひと振りの鋭利な剣。滴るは、穢れた赤の雫。
その先にあるのはこの国の希望。失ってはならない唯一の光。
「……リーゼロッテ!」
泉の階段を駆け上がり、部屋の扉を乱暴に押し開く。驚く神官たちの間をすり抜けて、クリスティーナはその場所をひたすら目指した。
◇
誰もいない王城の一室で、リーゼロッテはジークヴァルトの迎えをそわそわと待っていた。
年が明けてから一度も会えていない。手紙のやり取りだけではやはりさみしくて、早くその腕で抱きしめて欲しかった。
ジークヴァルトの大きな手を思う。髪を梳く指はやさしくて、頬を滑る指先はいつでもあたたかい。重ねるとこの手などすっぽりと収まって、自分との違いに驚かされてしまう。
その筋張った手の動きを見ているだけで、胸はいつでも高鳴った。そこから伝わる青い波動が恋しくて、リーゼロッテは切なくため息をついた。
「ああ駄目だわ、力が溢れて倒れそう……!」
慌てて深呼吸を繰り返す。ジークヴァルトが来た時に、ひっくり返っているわけにもいかないだろう。東宮で肉体改造計画は順調にいったが、力の制御の訓練はずっと頓挫したままだ。
(だってヴァルト様がひとりで力を使うのは駄目だって言うから……)
以前に掴んだ感覚も、なんだか薄れてきてしまっている。今、守り石に力を籠めたなら、見事に粉砕するに違いない。そんな情けない確信がリーゼロッテの中で沸いてくる。
公爵家に戻ったら、さっそく力の制御の訓練を再開しよう。そう思ってなんとか心を落ち着けた。
「これでもやって気を紛らわせよう」
ポケットに忍ばせてあった知恵の輪を取り出して、リーゼロッテはかちゃかちゃといじり出した。マテアスに借りてから半年近くは経つ。東宮にいる間もずっといじり倒していたが、知恵の輪が外れる様子は一向になかった。
ああでもないこうでもないと夢中になっていると、部屋の扉が叩かれた。
「ジークヴァルト様!?」
急いで扉を開けるとそこには慌てた様子の女官が立っていた。以前王城で世話になったことのある、顔見知りの女官だった。
「ダーミッシュ伯爵令嬢様。今すぐ部屋を移動なさっていただけますか?」
「え? でもジークヴァルト様がまだ……」
「この近くで不穏な事が起きておりまして」
「不穏な事……?」
「お耳に入れるようなことではございませんが、何者かが獣の亡骸を廊下に打ち捨てておりました。万が一があってはなりません。ご案内いたしますので、さ、お早く」
急かされて部屋を後にする。女官の顔色が優れないところを見ると、本当に緊急事態なのだろう。スカートをつまみ上げ、小走り手前の速度で進む。ふいに背をなぞった冷たい気配に、リーゼロッテは思わず来た廊下を振り返った。
(なに……? この嫌な空気)
自分の中で何かが警鐘を鳴らしている。粟立つ肌は、すぐに全身に広がった。
急いでここを離れようと戻した視線の先で、先導していた女官がうずくまっていた。黒い異形が絡みつき、息苦しそうに胸を押さえている。
見回すと周囲にいる異形たちが、煽られるように殺気立っていた。この禍々しさをリーゼロッテは知っている。これはフーゲンベルク家を覆った紅い瘴気。そして、デルプフェルト家で相まみえた、紅の異形の気配だ。
だがあの時と比べると、感じるものはごく僅かだ。胸の守り石を握りしめ、リーゼロッテは探るポケットから香水瓶を取り出した。
震える指先でひと押しする。清廉な空気が広がって、近くの異形が平静を取り戻した。
同時に苦しそうにしていた女官が床に倒れ込んだ。彼女に取り憑いていた異形も消えてなくなっている。意識を失っている女官の元へと、リーゼロッテは駆け寄ろうとした。
「ソレ知ってる! この前の傷薬でしょう?」
気配なく放たれた言葉に、リーゼロッテは身をすくませた。背後からかけられた声は少年のものだ。それも見知った神官見習いの少年に違いなかった。
でも自分の勘違いかもしれない。そう思わせるほどこの背に感じる気配は、あの異形の女と同じものだったから。
「マルコ様……?」
鼻をつく血のにおいに、恐る恐る振り返った。そこにいたのは確かにマルコだった。しかし顔見知りのそばかすの少年は、いつもの白い長衣を朱に染めている。まるで返り血を浴びたようなその姿に、リーゼロッテは小さく悲鳴をあげた。
その手には長剣が握られている。刃先に貫かれた鼠を見せつけるように差し出すと、マルコはたのしそうに声を弾ませた。
「ねぇ、その傷薬、この鼠にも効くかなぁ? もう死んじゃってるけど、痛いの飛んでくかなぁ?」
高く振り上げると、刃を伝いながら血が流れ落ちてくる。根元の柄まで滴り落ちて、それはマルコの指の間にも流れ込んでいった。
「マルコ……さま……」
「怖い? リーゼロッテ様、かお真っ青!」
けたけたと笑い声をあげて、マルコは手にした剣を無造作に下にふるった。血しぶきと共に、切っ先にいた鼠が廊下の先へ転がっていく。
「ふぅ、よく切れるけど、これちょっと重いや」
ごとりと剣の先を床につけ、マルコはおでこの汗をぬぐった。手がなぞる動きそのままに、血のりが額へと残される。
「ど……ぅして……」
かすれた声が唇から漏れた。リーゼロッテに視線を戻すと、片手に持った剣を引きずって、マルコがこちらへと向かってくる。嫌な音を立てながら、血混じりの傷が廊下の床に刻まれた。
逃げ出したいのに恐怖で足がすくんだ。近づいた分だけ距離を開けるように、リーゼロッテは一歩また一歩と後退していった。
「なんで逃げるの?」
「や……来ないで」
壁際まで追い詰められて、リーゼロッテの視線が血で汚れた長剣におりる。その怯える瞳を見たマルコは、得心がいったように頷いた。
「そっかぁ、リーゼロッテ様もマルコと一緒で血が怖いんだね。変なの。だってこんなに綺麗なのに」
「マルコ様……」
「違う、マルコじゃない。あたしモモって言うの」
「モモ……?」
「そう、あたし、マルコから生まれたんだ! あの日、マルコが壊れちゃわないように、マルコがあたしを作ったんだよ!」
瞳を輝かせ、マルコは少女のような口調でしゃべり続ける。それをリーゼロッテは震えながら聞いていた。
「リーゼロッテ様もマルコに聞いたでしょ? 父さんがね、マルコの目の前でクマに殺されたの! すごかったんだよ! クマのね、丸太みたいなぶっとい腕がね、父さんの頭をこう!」
振りかぶった手を勢いよく振り下ろしながら、マルコはくるんと一回転した。遠心力で長衣の裾が翻り、手から離れた剣が倒れるように床を転がった。
「クマの力ってすごいね! 父さんの頭なんて熟れたビョウみたいにパーンってはじけちゃって! そしたらね、無くなった父さんの首から天井まで血が吹き上げて! こう頭の上に降ってきて、王都の広場にある噴水みたいで、夢みたいにほんとうに綺麗だったんだよ!」
うれしそうに瞳を輝かせ、両手を天に掲げてみせる。
「ねえ、リーゼロッテ様、知ってる? 人の血ってね、しょっぱいんだよ! 涙と一緒でねぇ、すっごくすっごく、しょっぱいんだよ!」
新しい発見を母親に報告する子供のように、マルコは高揚した頬をリーゼロッテに向けた。
「母さんはおいしかったのかなぁ? 目覚めたら母さんのお腹、からっぽでさ。腸がごっそり無くなってて……! あのとき気を失わなければよかったなぁ。そうしたら母さんから血が流れるところも、この目で見ることができたのに」
残念そうに唇を尖らせたマルコを前に、リーゼロッテの瞳から涙が溢れ出る。
「どうして泣くの? マルコは何度も言ったんだよ。クマが襲いに来るから気をつけてって。なのにマルコのことなんてちっとも信じなくて、しまいには気がふれたって部屋に閉じ込めたりしてさ。馬鹿だよね! そのおかげでマルコだけ助かって、父さんも母さんも、夢に見た通りに死んじゃったんだから!」
あはははは、とマルコは腹をかかえて笑った。本当に可笑しそうに、目じりに涙まで浮かべて。
「そのあと急にさ、夢見の才があるとか言って、みんな急に手のひら返してさ。あんなにマルコのこと気味悪がってたクセに! 父さんと母さんが死ぬまで、だぁれも信じなかったクセに……!」
ふと真顔になって、マルコは床に転がる剣に目を止めた。表情なくそれを拾い上げると、リーゼロッテの顔をじっと見やった。
「そういえば、ミヒャエル様の血もしょっぱかったっけ……。リーゼロッテ様はどうかなぁ? お人形みたいに綺麗だし、もしかしたら甘かったりするのかなぁ?」
再び剣を引きずりながら、マルコがゆっくりと近づいてくる。壁を背に横に逃げようとするも、柱に阻まれてすぐに追い詰められてしまった。
目の前に立つマルコが笑った。狂気の目を見開いて、それなのにとても無邪気な顔で。
「ミヒャエル様はね、お腹から刺したんだ。胸には骨がいっぱいあるから、うまく隙間を狙わないと駄目なんだけど、でもね、ここ、鳩尾から斜め上に刺すとね、かんたんに胸まで届くんだよ。そうしたらどうなると思う? 刺した後、すぐに口からいっぱい血が吹き出るんだ! ミヒャエル様の血もね、すんごくあったかくて綺麗だったよ!」
息が詰まって声が出せない。指一本動かすこともできなくて、マルコと見つめ合ったままリーゼロッテはただ立ちつくした。
「でもリーゼロッテ様はお腹からは無理かなぁ。お嬢様のドレスって布地が厚そうだし、うまく届かなかったらいやだよね。何度も刺すとリーゼロッテ様も痛いでしょう? うん、だったらリーゼロッテ様は首にしようか。それならひと思いにかき切ってあげられるから」
よいしょ、とマルコは剣を両手で持ち上げた。少しふらつきながら、リーゼロッテの肩にずしりと重い剣先を乗せる。鋭く光る刃が首元に迫って、リーゼロッテは唇を震わせた。
「ああ白くって、とっても綺麗な肌……見て、こんなに血の道が透き通ってる……」
血で濡れた指先で首筋をなぞりながら、マルコはうっとりと目を細めた。
「苦しまないように一気にやってあげるから」
動けないリーゼロッテの喉元に冷たい刃がひたりと当たる。わななきながら浅い呼吸を繰り返した。
「おやめなさい!」
無理やり割って入った人影に、リーゼロッテは突き飛ばすように引きはがされた。背を打ち付け、勢いでその場に崩れ落ちる。痛む背を柱に預けたまま、霞む視界の向こうで誰かふたりがもみ合っているのが分かった。
「王女殿下……?」
小柄なマルコの手首をつかみ取り、クリスティーナがその腕から剣を取り上げようとしている。そのたびに振り回される剣先に、長い髪がからんでは切られ、王城の床に舞い落ちた。
マルコが何かを叫びながら、王女の手を振りほどこうとする。助けに入らなくてはと思うのに、朦朧とした意識がそれを許さない。
「クリスティーナ様!」
遠くからヘッダの声がして、もつれあう人間が三人になった。長剣が返す鈍い光、動きと共になびく王女の長い髪、ハンドチェーンの輝石の煌めき。入れ代わり立ち代わり、位置を変えながらもみ合っていく。
ままならない呼吸を叱咤して、リーゼロッテは懸命に手を伸ばした。マルコを止めなければ。このままでは誰かが傷ついてしまう。
女性の苦悶の悲鳴が響き、もつれあったまま三人は同時に倒れ込んだ。
クリスティーナとヘッダが、折り重なるように床に倒れ伏している。その背に真っすぐと突き立てられた剣を認め、リーゼロッテの目が大きく見開かれた。
目の前の情景を、全力で脳が拒絶してくる。
そばで尻もちをついていたマルコが、ふたりの間から剣を抜きとった。途端に下から血が流れ出て、覗き込むように手をついていたマルコの床を、あっという間に真っ赤に染めた。
「あーあ。リーゼロッテ様のせいで、王女様、死んじゃった」
剣を放り投げ、マルコは水であそぶ子供のように床を叩いた。血しぶきをたのしみながら、何度も何度も繰り返す。
その間にも血だまりは広がって、人ひとりから流れ出たとは思えないその量に、リーゼロッテの中で何かが膨れ上がっていく。限界に達したそれが一気に弾け、全身から解き放たれた。
「いや――――っ!」
緑の力がほとばしった。同心円状に走りゆく緑は、王城を抜け、神殿までを広く包み込んだ。あちこちで暴れていた異形の影も、人に巣くう暗い澱も、洗い流すようにすべてを飲み込み消し去っていく。
澄み切った空間で、マルコはぼんやりとあたりを見回した。遠くから慌ただしい足音が近づいてくる。
「ちぇ、もう終わりかぁ……」
少し残念そうに笑って、マルコはリーゼロッテを見た。
「マルコはちっとも悪くないんだ。だからリーゼロッテ様も、マルコのこと嫌いにならないでやってね」
気を失う寸前、笑顔のまま取り押さえられるマルコを、リーゼロッテは目にしたように思った。
◇
カーン、カーン、カーン……
弔いの鐘にはっと意識が浮上した。横たわっていた寝台を降り、窓へと駆け寄った。風のない鈍色の空に、白い煙が一筋、高く立ち昇っている。
「お嬢様……」
後ろから声をかけられ、振り向くと黒いドレスを着たエラが立っていた。
「エラ……クリスティーナ様は……」
「今、本神殿で葬儀が――」
瞳を伏せたエラに、リーゼロッテは空へと視線を戻す。
「クリス……ティーナ様……」
再び弔いの鐘が、窓の外、静かに響き渡った。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。王城の一室でかなしみに暮れるわたしの元に、アルベルト様が訪ねてきて。クリスティーナ様からの手紙を渡されたわたしは、王女が受けた託宣の真実を知って……。
次回4章第18話「身代わりの託宣」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
歴代の王たちの記憶を受け継いだハインリヒは、その声に煩わしい毎日を送ります。それを癒せるのはアンネマリーの存在だけで。
一方、カイから新たな任務を受けたベッティは、ビエルサール神殿侵入の準備を始めます。
そんな中、とうとう時が満ちることを確信したクリスティーナ王女。ヘッダに王女としての最後の言葉をかけたあと、同様にアルベルトにも自分が死した後も生き続けることを命じます。
その直後クリスティーナは、ひとりの女として自分を受け入れてほしいとアルベルトに訴えて。互いの熱を刻みつけるように、ふたりは最初で最後の夜を共にするのでした。
※残酷描写タグ注意回です。苦手な方はお気をつけください。
血を、欲する者がいる。
あれは数多の礎から生じた歪み。重く低く、焦がれた波が救いを求めて、今、高みに手を伸ばす。
その先にあるのは、この国の希望。
失ってはならない、唯ひとつの光――
◇
王城へと向かう馬車の中、レースのカーテンの隙間から、リーゼロッテは落ち着きなく何度も窓の外を覗きこんでいた。それをエラが微笑ましく見守っている。
ようやくフーゲンベルクの屋敷に帰れるのだ。王女の神事が終わったら、そのままジークヴァルトが迎えにきてくれることになっていた。
「ヴァルト様のお誕生日の前に戻れることになってうれしいわ。手編みのブランケットはよろこんでもらえるかしら?」
「はい、きっとおよろこびくださいますよ」
ジークヴァルトへの贈り物として、エラの指導の下、東宮でせっせと編み物を続けていた。ひざ掛けを作るつもりが、勢いあまって毛布サイズになってしまったのはご愛嬌だ。寒い日にジークヴァルトと一緒に包まりたいなどと思っているリーゼロッテだった。
(それにしても、降りた神託は一体なんだったのかしら……)
リーゼロッテに身の危険が迫っているという神託の元、東宮で保護を受けていた。しかしこれといって、何が起きたということもない。安全な東宮にいて、危機はすでに去ったということだろうか?
東宮での生活は四か月近くに及んだ。一度だけ夜会に行くことはできたが、それ以外はずっと隔離された生活だった。
ジークヴァルトとも数えるほどしか会っていない。だがまたあの日常が戻ってくる。そう思うと緩む顔を抑えられなかった。
(異世界って、本当におとぎ話みたいなことばかりね)
囚われの姫になっていたとでも思えば、あの日々もいい思い出話になりそうだ。ラプンツェルの塔のような東宮を頭に浮かべながら、リーゼロッテはそんなことを考えていた。
王都の中心街に出て、東宮から遥か遠くに見下ろしていた王城が大きく近づいてくる。
(もうすぐヴァルト様に会える……!)
そびえ立つ門をくぐり抜け、助け出されたお姫様気分で、リーゼロッテはその胸を高鳴らせた。
◇
「人払いを」
玉座に座る王の言葉に、当事者だけが残された。目の前で礼を取っているのはクリスティーナ王女だ。そのさらに後方に令嬢と護衛の騎士が控えている。
王妃となってしばらく経つが、アンネマリーが第一王女に会うのは初めてのことだ。顔立ちは妹姫のテレーズよりも、弟のハインリヒとよく似ている。
美しい人だとそう思った。生まれながらにして王女として生きてきた。そんな気品と誇りが、彼女からは感じられた。
遥か遠くを見つめる瞳で、ハインリヒが王女に視線を落とす。それはどこか愁いをはらんでいるかに見えて、アンネマリーはその横顔を戸惑いと共に見守った。
「ハインリヒ王、最後にこうして立派になられた姿を目にすることができ、わたくしもうれしく思っております」
感慨深げなその言葉は、王に対してというよりも、大切な弟に向けたものなのだろう。慈しむような王女の瞳に、ハインリヒはただ静かに頷いた。
「父上たちにはもう?」
「はい、先ほど挨拶は済ませてきました。思い残すことはありません」
そのやり取りはまるで今生の別れに見えた。困惑しつつ、口を挿むこともできない。アンネマリーはこの謁見の場で、たったひとりの傍観者だった。
「ヘッダ・バルテン子爵令嬢。長きに渡り第一王女によく仕えてくれた。褒美としてそなたの願いを聞こう」
奥に控えていた令嬢に声がかけられる。その令嬢は臆することなく顔を上げた。
「わたくしの願いはただひとつにございます。クリスティーナ王女殿下の行く道が、この先も安寧であることを……それだけを望みます」
「相分かった。最後まで責任を持って見届けよう」
「ありがたきお言葉にございます」
重く響く声で頷いた王に、笑みをこぼして令嬢は深く礼を取った。
「アルベルト・ガウス」
次いで王女の騎士が、令嬢の横で大きく頭を垂れる。
「そなたも王女によく仕えてくれた。その功績を称え、貴族の地位および財を授けることとする」
「身に余る光栄でございます」
一拍置いたのち、ハインリヒはさらに続けて騎士に告げた。
「それに伴い、今をもってそなたを第一王女の護衛の任から外す。王城に一室を用意させた。今後の処遇は追って申し渡すゆえ、それまではそこで待つように」
驚きの表情で、騎士は一瞬顔を上げかけた。だが言葉を飲み込んで、再び深く礼を取る。
「王の……仰せのままに」
彼の声は震えていた。絞り出されたようなそれを背に、王女は表情を変えずに前を向いている。
「王、わたくしの願いを聞き届けていただき、心より感謝いたします」
「ああ、その者については万事うまく取り計らおう」
王女の言葉に、壇上からも分かるくらい騎士の体が震えた。彼は王女に捨てられたのだ。そんな悲劇にアンネマリーの目には映った。
いたたまれない雰囲気のまま、謁見の場は幕を閉じる。
王女と令嬢は王族用の扉へと向かい、残された騎士は絶望の顔で、貴族用の扉から姿を消した。
その様を目で追って、アンネマリーはふいに手を握られた。遠い瞳のままハインリヒは、王女が出ていった扉を見つめている。
「……王とは無力なものだな」
握る手に力が入る。そこに自身の手を重ね、アンネマリーはハインリヒと見つめ合った。
「ずっとおそばでお支えしております。国のため、どうぞ、王は迷わずお進みください」
「……そうだな。迷うなど、何も意味はない」
静かに言ってハインリヒは、再び遥か遠くをじっと見据えた。
◇
何が起きたのか分からない。
なぜ、という思いだけがすべてを占めた。
彼女が彼女として在れるよう、最後まで護り続けることが与えられた役割だった。
そして見届けるはずだった。誇り高い王女のまま逝く、その瞬間を。誰よりも近くにいたこの自分だけが。
扉を出ていく背中。背筋の伸びた見慣れた後ろ姿は、振り返りもせず消えてしまった。
(あれが最後なのか。あれで、終わりなのか)
そんなはずはない――張り詰めた心が、拒絶の言葉を叫び続ける。
どうして見届けさせてくれないと言うのか。どんなに惨い最期を迎えようと、王女として美しく散るその瞬間を、この瞳に焼きつけたかった。すべてを刻み込むために。
アルベルトは震える拳を握りしめた。その手が腰の剣の鍔に当たる。この剣はナイトの称号と共に、クリスティーナから賜った騎士の誇りだ。
その誇りある任を王はあっさりと解いた。だがそれは誰でもない、クリスティーナが望んだことなのだ。
彼女を守るために磨き続けてきたこの剣は、結局なんの役にも立たなかった。これから先もガラクタのままだ。何も持たないこの手はもう、二度と王女に届かないのだから。
来る空虚とない混ぜになって、抱える思いの何もかもが、惨たらしく現実の刃に切り刻まれていく。
どこまでも気高く。どこまでも残酷な。自分だけの美しい王女。
クリスティーナは間もなく死ぬ。自分の預かり知らないところで、アルベルトを置き去りにしたまま、いつの間にかひとりきりで逝ってしまう。
「……――っ」
衝動のように叩きつけられた騎士の誇りは、耳障りな音を立て王城の廊下を滑っていった。通りすがった誰かが、その様子に小さく悲鳴を上げる。
感情を抑えられないままアルベルトは、捨てた剣に背を向けた。
◇
「クリスティーナ様……よろしかったのですか……?」
「何? アルベルトのこと?」
神事のための支度を終えたクリスティーナに、ヘッダは遠慮がちに問いかけた。平然と聞き返した王女に、ヘッダは小さくうなずき返す。
「いいのよ。ああは言っていてもアルベルトのことだもの。いざとなったら身を挺して飛び出してくるでしょう?」
王女は懐かしむように口元に笑みを浮かべた。好き勝手に行動しては、さんざ彼を振り回してきた。自分を守ることを使命としているアルベルトにとって、それはもはや条件反射のようなものだ。
だが託宣を果たすその瞬間のクリスティーナを守るということは、龍の意思に逆らうことになる。それは禁忌を犯した異形の者に、アルベルトがなり果てるということに他ならない。
「託宣を阻むものを龍は絶対に許さない。だったら星に堕ちるだけ損というものよ」
どうあっても託宣は守られる。彼を星を堕とす者などにするわけにはいかなかった。
「アルベルトはきっと反論するでしょうけど。ほんと、最後までつまらない男」
何を想像したのか、クリスティーナは耳に心地よい声で笑った。
「でもいいわ」
あの生真面目なアルベルトの牙城を、一度きりでも崩すことができたのだから。
長い年月、立場を踏み越えることをしなかったアルベルトだ。自分がどんなに無防備にしていようとも、その態度は憎らしいほど冷静で、非常時以外は一切この身に触れるなどしなかった。
目の前で肌を見せた時のアルベルトの顔が忘れられない。大きく目を見開いて、余裕なく声が上ずって。
「だから……いいのよ」
満足げなクリスティーナを、ヘッダは黙って見つめている。
「もう時間ね。すべてを終えるまで、あなたはここで待ちなさい」
「クリスティーナ様……」
「これはヘッダ、あなたに」
クリスティーナは右手のハンドチェーンをはずして手渡した。これは手の甲にある龍のあざを隠すためのものだ。どうせ着けるならと、イジドーラが贈ってくれたとても美しい装飾だ。
両の手のひらで受け取ったヘッダは、切なそうにそれを胸に抱きしめた。
「では、行ってくるわ」
「クリスティーナ様……!」
神事に向かう背を、引き止めるように声がかけられる。
「龍の託宣は……何を以てしても、最優先されるべきことなのですよね?」
「ええ、そうよ。それは必ず守られなければならないもの。例え王命を受けようと、託宣を違えることは許されないわ」
その言葉に、心を決めたようにヘッダは頷いた。
「いってらっしゃいませ。クリスティーナ様の行く道が、この先もずっと安寧でありますように……」
最後の務めを果たしに行く王女を、晴れやかな顔で送り出す。
一人残された部屋で、ヘッダは祈るようにハンドチェーンを握りしめた。愛おしそうに眺め、次いでそれを自分の手にはめていく。
王女の手でいつも煌めいていた装飾が、甲の上で美しく輝いている。それはまるでこの手だけが、クリスティーナになったようだ。
至福の笑みを浮かべたまま、ヘッダはそっと部屋を後にした。
◇
王城へと通じる神殿の廊下が、長く真っすぐと続く。レミュリオの背に付き従いながら、マルコは俯いたまま歩いていた。
今日は祈りの泉で、第一王女による神事が行われる。月一程度で行われるそれに、レミュリオはいつも加わっていた。ここ最近、お供としてマルコもついて行くようになった。とはいっても、控えの部屋で神事が終わるのを待っているだけだ。
「うわっ」
ぼんやりと歩いていたせいか、何もないところでつまずいた。そこをレミュリオの手が支えてくる。
「大丈夫ですか? マルコさん」
「す、すみません! ボクぼうっとしててっ」
「怪我がないのならよかったです」
やさしく微笑んでレミュリオは再び歩き出した。
「体調が優れないようですね。もしかしてあまり眠れていないのですか?」
そう問いかけられてマルコは口ごもった。ミヒャエルのことを考えると、怖くて眠りが浅くなる。自分がビョウを持って行ったせいで、ミヒャエルは自害してしまったのだから。
あの日、果物ナイフで指を切ったあと、マルコの意識は遠のいた。そして気づいたときにはもう、血まみれになったミヒャエルが目の前で息絶えていた。
王城での事情聴取でマルコはそう答えた。いや、そう答えるしかなかったと言うべきか。
どうしてミヒャエルが死を選んだのか。己の罪を悔いての選択だったのだろうか。だがあの日のミヒャエルはとても穏やかだった。霞がかかったように直前の記憶が思い出せなくて、マルコは聴取中にずっと泣き続けた。
精神的なショックが原因で何も覚えていないのだろうと結論づけられて、マルコは騎士団から解放された。結局は何も分からないまま、公にはミヒャエルは病死と発表された。
マルコは口止めを要求され、胸の奥にぐずぐずと何かが燻ったまま、眠れない夜を何日も過ごしている。
「最近、物騒な事が続いているので、不安に思う気持ちも分かります。ですが心配はいりません。神殿でも警備の体制を強化していますから」
「はい……ありがとうございます、レミュリオ様」
ここのところ神殿内で、家畜や獣の死骸が放置される事件が多発している。その現場は凄惨なもので、見せつけるように切り刻まれたものがばら撒かれているらしい。
あることないこと噂が飛び交って、神殿内は疑心暗鬼な雰囲気が漂っていた。その現場に遭遇したことはないが、確かにそのことも気が沈む原因ではあった。
最近朝に目覚めると、身に覚えなく手足が土で汚れていることが何度もあった。そのことは誰にも言えないでいる。時に衣類にべっとりと血のりがついていることも。
両親を亡くしてから、時折記憶が飛ぶようになった。それは大概、血を見た直後に起こる。ミヒャエルのことがあってから、その症状がさらに悪化していた。
「……マルコさんはご両親を痛ましい事故で亡くされたのでしたね。無神経な物言いをしました。申し訳ありません」
「い、いいえ! ボクの両親が死んだのは、レミュリオ様のせいではありませんから!」
「そう言っていただけるとわたしも気が楽になります。マルコさんはおやさしい方ですね」
「そんなことは……」
慈しむように言われて、マルコの中で自責の念が膨れ上がる。両親が死んだのはクマに襲われたからだ。そしてそうなると知っていたのに、それを止められなかったマルコのせいだ。
「……やはり体調がよろしくなさそうですね。休ませて差し上げたいのは山々なのですが、今日は第一王女による大事な神事があります。もう少しだけ頑張っていただけますか?」
「はい、ご心配には及びません。……でも、ボクはいても何もお役に立ってないですよ?」
マルコはいつも神事には関わってはいない。終わるまで控えの部屋で待っているだけだ。
「マルコさん、あなたには夢見の力があります。第一王女と同じ、類い稀なる力が」
レミュリオは立ち止まり、閉じた瞳のままマルコを見下ろした。その端正な顔を見上げながら、マルコも長い廊下の途中で立ち止まる。
「見習いから正式に神官となったら、あなたもすぐ神事に出ることになるでしょう。そのためにも場の波動に少しでも触れておいてください」
「波動とかって言われても、ボクにはよく分からないし……」
「分からなくてもいいのですよ。あなたには夢見の力がある」
レミュリオの言葉に、マルコは拳をきつく握りしめた。
「でも……こんな力あったって、何の役にも立たないじゃないですか」
「いいえ、その力は何物にも代え難いものです。あなたは少し自覚が足りていないようですね」
「未来が視えるからって何だって言うんですか! クマに殺されるって知っていたのに、ボクは父さんも母さんも助けられなかった!」
そうならないように、必死になって手を尽くした。だが夢見で視た映像そのままに、結局ふたりは死んでしまった。
「夢見を変えられない。そのことこそが重要なのですよ。王女の夢見はとてもあやふやです。少しの出来事で王女の視た未来は変わっていってしまう。そんな夢見に価値など見いだせないでしょう?」
冷静なままレミュリオは言った。その冷たいとも感じさせる口調に、マルコもはっと我に返る。
「いいですか、マルコさん。第一王女の夢見の巫女としての力はとても弱い。それはシネヴァの森の巫女に遠く及ばないものです。これまで神託を降ろせる巫女の力は、王家直系の女性にのみ受け継がれてきました。それなのにその力を、神殿の人間であるあなたが持っている。この意味が分かりますか?」
「いえ、すみません……ボク頭が悪くて……」
レミュリオの言葉はいつも難しくて、マルコにはちっとも理解できない。だが何か怖いことを言われているようで、マルコは思わず視線をそらした。
「青龍の言葉を受け取れるのは王家の血筋だけです。そして重要な神事が執り行えるのは、神殿の力があってこそ。これは権力が偏らないために、青龍が定めた国の掟。長い歴史の中、これは絶対的に守られ続けてきました。ですがあなたは夢見の力を持っている。王家の血脈でもないあなたが」
「でも、ミヒャエル様も夢見の力を持っていたって聞きました……!」
「彼の力は幼少期のみのもの。確かに夢見の力を有して生まれた者は過去にも存在します。ですがすべての者が成長と共にその力を失っている。マルコさん、あなたは今いくつですか?」
「今年で……十六になりました」
「そうでしょう? その年齢まで夢見の力を持ち続けた人間は、過去にひとりも存在しない。神殿が単独で龍の意思を降ろせるとなったら、王家の血筋はもはや必要なくなります。あなたの持つ夢見の力は、この国の均衡を揺るがしかねないのですよ」
「そんなこと言われたって! ボクの夢見だって、もう無くなってるかもしれないじゃないですか!」
マルコは必死に叫んだ。国の事情など説明されても何も理解できない。だがいつも穏やかなレミュリオが、今は恐ろしくて仕方がなかった。
「ではあなたはなぜ、あの日ミヒャエル様に会いに行ったのですか?」
「それは……」
突き付けられた言葉に口ごもる。あの日の前夜、マルコは夢を見た。
赤いビョウを差し出す美しい女神。紅い光を纏った女神から、マルコはそのビョウを受け取った。これをミヒャエルに届けなければ。なぜかそう思った瞬間に目覚めたマルコは、その日のうちに季節外れのビョウを、特に親しくもない神官から偶然もらった。
それをどうしてもミヒャエルに食べてもらいたくて、誰にも内緒で牢獄にいるミヒャエルに会いに行った。
だがミヒャエルの元へ行ったことも、その夢を見たことも、王城の騎士しか知らないことだ。夢の女神のことは事情聴取で包み隠さず話した。騎士たちは軽く受け流したようで、それについて特に言及はされなかった。
「マルコさん、神殿にもそれなりの情報網があるのですよ。隠そうとしても無駄なことです。王位継承の儀が行われた日のあなたの行動は、神官長もすべて知っておいでです」
「えっ!?」
「とは言えどうぞご安心を。今のところ神官長はあなたを咎めるつもりはないようです。ですが覚えておいてください。同様に、王家も神殿の内部を探っています。長い歴史で生じた軋轢の中、王家と神殿の力関係は危うい均衡を保っている。それくらいこの国の内部は病んでいるのです」
国の内情など話されてもマルコには何ひとつ分からない。だが罰せられることはないのだと知ると、急に胸が軽くなった。
「いいですか。あなたが夢見の力を持つと王家に知れたら、命を狙われることだってあり得るのですよ。それに貴族や神殿内にも悪しきことを企む者もいます。あなたを手の内に引き込めば、国家転覆すら夢ではないのですから」
「そんな……」
「夢見の力はそれほど危険なものなのです。あなたがその力を持つと知るのは一部の神官だけ。王家にも貴族にも、安易にそれを知られてはいけません」
事の大きさに頭がついていけない。そこでマルコははっとなった。王女の東宮で、夢見の力のことをあの令嬢に話してしまった。彼女が自分を利用するなど考えられないが、もしほかの誰かに広めてしまったら。
「ああ、怖い話をしましたね。心配はいりません。あなたは神官長の下で、今あるしきたりに則って神事を務めあげれば、そう問題は起きないでしょう。ゆめゆめ悪しき者の声に耳を傾けないよう、十分に注意をしてください」
「はい……そうします」
青ざめて返事をしたマルコに、レミュリオは普段通りの柔らかい笑みを向けた。
「もう時間がありませんね。わたしはこのまま神事へと向かいます。マルコさん、あなたはいつもの部屋で終わるのを待っていてもらえますか?」
「わかりました」
王城の敷地内に入り、レミュリオの背を見送った。マルコは反対の廊下を進み、控えのために用意された部屋へと歩を進めた。
この辺りは人気はほとんどないが、貴族に出くわすこともある。緊張を強いられるため、誰にも会わないうちにとマルコは駆け足で神官服の長衣を翻した。
その部屋までもう少しという所で、突然大きな金属音がした。つんのめりながら止まった足先に、叩きつけられるように一振りの剣が滑り込んでくる。
ひえっと情けない声を上げたマルコに、鋭い視線が向けられた。剣を投げつけてきた騎士に、射殺さんばかりに睨み上げられる。身をすくませたマルコを無視して、その騎士はすぐに行ってしまった。
動悸が収まらず、遠ざかる背が見えなくなるまで、マルコはしばらくその場に立ち尽くしていた。
ふと視線を足元に移す。そこには打ち捨てられたままの長剣が無造作に転がっている。立派な鞘から僅かに抜けて、鋼の刃の根元が少しだけ覗いていた。その鋭利な輝きに、あの日ミヒャエルに刺さった短剣を思い出す。
冷たい牢の床。見開かれた空虚な瞳。返り血で染まったこの体。
「い、やだ……」
そう思うのに抜き身の部分に目が吸い寄せられる。そこに一瞬、夢で見た紅の女神が映ったかに視えた。はっとするも磨かれた剣の刃には、おびえた自分の顔が映り込んでいるだけだ。
刃の自分と目を見合わせる。
映った向こうのマルコがその時、たのしげに口元を歪ませた。
◇
最後の神官が出て行って、いつものようにひとり残される。祈りの泉での務めもこれで最後だ。
どんな形であろうと自分は命を落とす。そのためだけに生かされてきた。彼女の中で眠ったままの、聖なる力を解き放つために。
泉に足を浸し、水中の階段を降りていく。腰までつかり中央で祈りを捧げた。泉の水面が光を放って、最果ての地にいるシネヴァの巫女が、同時に波を返してくる。
「大お婆様……間もなくわたくしの時は満ちます……ええ、そう……もう思い残すことはありません……わたくしは思うように生きられました」
例え結末が決まっていようとも、選んだ道のりは自分の意思で辿ってきたものだ。満たされた日々に、今この胸に残るのは穏やかな感謝だけだった。
「ふふ……そうですわね。巫女が純潔であらねばならないなんて迷信に過ぎないと……わたくしが証明したことを、どうぞ後世の巫女にもお伝えください……」
アルベルトが受け入れてくれなかったら、そのことだけが心残りになったのだろう。そんな想像に小さく笑みをこぼしながら、最後の神事に意識を戻した。
「ああ……神託が、来る」
森の巫女に降ろされた神託が、クリスティーナの内にも伝わってくる。それを記録するのは外で待機する神官たちの役割だ。転送された龍の言葉を、自分はただ増幅し再生するだけだ。
「夢見を継し者、見定めるまでは……来る聖女を泉に招くべし……次に降りる言霊は……時を視てシネヴァの地まで迎えに来させよ……その役目負うべきは、断鎖を背負う青き者なり……」
泉が白一色に包まれて、光の柱が立ち昇る。舞い上げられた髪が光に溶け込んで、そのまま消えてなくなってしまいそうだ。
その感覚が消え失せて、神事が終わりを迎えたことを知る。名残のように揺れる水面だけが、静かに蝋燭の光を返した。
余韻が冷めやらぬ中、ふいをつくように浮かんだ映像の渦が、一瞬でクリスティーナを飲み込んでいく。追い詰められた首筋に突き付けられるのは、ひと振りの鋭利な剣。滴るは、穢れた赤の雫。
その先にあるのはこの国の希望。失ってはならない唯一の光。
「……リーゼロッテ!」
泉の階段を駆け上がり、部屋の扉を乱暴に押し開く。驚く神官たちの間をすり抜けて、クリスティーナはその場所をひたすら目指した。
◇
誰もいない王城の一室で、リーゼロッテはジークヴァルトの迎えをそわそわと待っていた。
年が明けてから一度も会えていない。手紙のやり取りだけではやはりさみしくて、早くその腕で抱きしめて欲しかった。
ジークヴァルトの大きな手を思う。髪を梳く指はやさしくて、頬を滑る指先はいつでもあたたかい。重ねるとこの手などすっぽりと収まって、自分との違いに驚かされてしまう。
その筋張った手の動きを見ているだけで、胸はいつでも高鳴った。そこから伝わる青い波動が恋しくて、リーゼロッテは切なくため息をついた。
「ああ駄目だわ、力が溢れて倒れそう……!」
慌てて深呼吸を繰り返す。ジークヴァルトが来た時に、ひっくり返っているわけにもいかないだろう。東宮で肉体改造計画は順調にいったが、力の制御の訓練はずっと頓挫したままだ。
(だってヴァルト様がひとりで力を使うのは駄目だって言うから……)
以前に掴んだ感覚も、なんだか薄れてきてしまっている。今、守り石に力を籠めたなら、見事に粉砕するに違いない。そんな情けない確信がリーゼロッテの中で沸いてくる。
公爵家に戻ったら、さっそく力の制御の訓練を再開しよう。そう思ってなんとか心を落ち着けた。
「これでもやって気を紛らわせよう」
ポケットに忍ばせてあった知恵の輪を取り出して、リーゼロッテはかちゃかちゃといじり出した。マテアスに借りてから半年近くは経つ。東宮にいる間もずっといじり倒していたが、知恵の輪が外れる様子は一向になかった。
ああでもないこうでもないと夢中になっていると、部屋の扉が叩かれた。
「ジークヴァルト様!?」
急いで扉を開けるとそこには慌てた様子の女官が立っていた。以前王城で世話になったことのある、顔見知りの女官だった。
「ダーミッシュ伯爵令嬢様。今すぐ部屋を移動なさっていただけますか?」
「え? でもジークヴァルト様がまだ……」
「この近くで不穏な事が起きておりまして」
「不穏な事……?」
「お耳に入れるようなことではございませんが、何者かが獣の亡骸を廊下に打ち捨てておりました。万が一があってはなりません。ご案内いたしますので、さ、お早く」
急かされて部屋を後にする。女官の顔色が優れないところを見ると、本当に緊急事態なのだろう。スカートをつまみ上げ、小走り手前の速度で進む。ふいに背をなぞった冷たい気配に、リーゼロッテは思わず来た廊下を振り返った。
(なに……? この嫌な空気)
自分の中で何かが警鐘を鳴らしている。粟立つ肌は、すぐに全身に広がった。
急いでここを離れようと戻した視線の先で、先導していた女官がうずくまっていた。黒い異形が絡みつき、息苦しそうに胸を押さえている。
見回すと周囲にいる異形たちが、煽られるように殺気立っていた。この禍々しさをリーゼロッテは知っている。これはフーゲンベルク家を覆った紅い瘴気。そして、デルプフェルト家で相まみえた、紅の異形の気配だ。
だがあの時と比べると、感じるものはごく僅かだ。胸の守り石を握りしめ、リーゼロッテは探るポケットから香水瓶を取り出した。
震える指先でひと押しする。清廉な空気が広がって、近くの異形が平静を取り戻した。
同時に苦しそうにしていた女官が床に倒れ込んだ。彼女に取り憑いていた異形も消えてなくなっている。意識を失っている女官の元へと、リーゼロッテは駆け寄ろうとした。
「ソレ知ってる! この前の傷薬でしょう?」
気配なく放たれた言葉に、リーゼロッテは身をすくませた。背後からかけられた声は少年のものだ。それも見知った神官見習いの少年に違いなかった。
でも自分の勘違いかもしれない。そう思わせるほどこの背に感じる気配は、あの異形の女と同じものだったから。
「マルコ様……?」
鼻をつく血のにおいに、恐る恐る振り返った。そこにいたのは確かにマルコだった。しかし顔見知りのそばかすの少年は、いつもの白い長衣を朱に染めている。まるで返り血を浴びたようなその姿に、リーゼロッテは小さく悲鳴をあげた。
その手には長剣が握られている。刃先に貫かれた鼠を見せつけるように差し出すと、マルコはたのしそうに声を弾ませた。
「ねぇ、その傷薬、この鼠にも効くかなぁ? もう死んじゃってるけど、痛いの飛んでくかなぁ?」
高く振り上げると、刃を伝いながら血が流れ落ちてくる。根元の柄まで滴り落ちて、それはマルコの指の間にも流れ込んでいった。
「マルコ……さま……」
「怖い? リーゼロッテ様、かお真っ青!」
けたけたと笑い声をあげて、マルコは手にした剣を無造作に下にふるった。血しぶきと共に、切っ先にいた鼠が廊下の先へ転がっていく。
「ふぅ、よく切れるけど、これちょっと重いや」
ごとりと剣の先を床につけ、マルコはおでこの汗をぬぐった。手がなぞる動きそのままに、血のりが額へと残される。
「ど……ぅして……」
かすれた声が唇から漏れた。リーゼロッテに視線を戻すと、片手に持った剣を引きずって、マルコがこちらへと向かってくる。嫌な音を立てながら、血混じりの傷が廊下の床に刻まれた。
逃げ出したいのに恐怖で足がすくんだ。近づいた分だけ距離を開けるように、リーゼロッテは一歩また一歩と後退していった。
「なんで逃げるの?」
「や……来ないで」
壁際まで追い詰められて、リーゼロッテの視線が血で汚れた長剣におりる。その怯える瞳を見たマルコは、得心がいったように頷いた。
「そっかぁ、リーゼロッテ様もマルコと一緒で血が怖いんだね。変なの。だってこんなに綺麗なのに」
「マルコ様……」
「違う、マルコじゃない。あたしモモって言うの」
「モモ……?」
「そう、あたし、マルコから生まれたんだ! あの日、マルコが壊れちゃわないように、マルコがあたしを作ったんだよ!」
瞳を輝かせ、マルコは少女のような口調でしゃべり続ける。それをリーゼロッテは震えながら聞いていた。
「リーゼロッテ様もマルコに聞いたでしょ? 父さんがね、マルコの目の前でクマに殺されたの! すごかったんだよ! クマのね、丸太みたいなぶっとい腕がね、父さんの頭をこう!」
振りかぶった手を勢いよく振り下ろしながら、マルコはくるんと一回転した。遠心力で長衣の裾が翻り、手から離れた剣が倒れるように床を転がった。
「クマの力ってすごいね! 父さんの頭なんて熟れたビョウみたいにパーンってはじけちゃって! そしたらね、無くなった父さんの首から天井まで血が吹き上げて! こう頭の上に降ってきて、王都の広場にある噴水みたいで、夢みたいにほんとうに綺麗だったんだよ!」
うれしそうに瞳を輝かせ、両手を天に掲げてみせる。
「ねえ、リーゼロッテ様、知ってる? 人の血ってね、しょっぱいんだよ! 涙と一緒でねぇ、すっごくすっごく、しょっぱいんだよ!」
新しい発見を母親に報告する子供のように、マルコは高揚した頬をリーゼロッテに向けた。
「母さんはおいしかったのかなぁ? 目覚めたら母さんのお腹、からっぽでさ。腸がごっそり無くなってて……! あのとき気を失わなければよかったなぁ。そうしたら母さんから血が流れるところも、この目で見ることができたのに」
残念そうに唇を尖らせたマルコを前に、リーゼロッテの瞳から涙が溢れ出る。
「どうして泣くの? マルコは何度も言ったんだよ。クマが襲いに来るから気をつけてって。なのにマルコのことなんてちっとも信じなくて、しまいには気がふれたって部屋に閉じ込めたりしてさ。馬鹿だよね! そのおかげでマルコだけ助かって、父さんも母さんも、夢に見た通りに死んじゃったんだから!」
あはははは、とマルコは腹をかかえて笑った。本当に可笑しそうに、目じりに涙まで浮かべて。
「そのあと急にさ、夢見の才があるとか言って、みんな急に手のひら返してさ。あんなにマルコのこと気味悪がってたクセに! 父さんと母さんが死ぬまで、だぁれも信じなかったクセに……!」
ふと真顔になって、マルコは床に転がる剣に目を止めた。表情なくそれを拾い上げると、リーゼロッテの顔をじっと見やった。
「そういえば、ミヒャエル様の血もしょっぱかったっけ……。リーゼロッテ様はどうかなぁ? お人形みたいに綺麗だし、もしかしたら甘かったりするのかなぁ?」
再び剣を引きずりながら、マルコがゆっくりと近づいてくる。壁を背に横に逃げようとするも、柱に阻まれてすぐに追い詰められてしまった。
目の前に立つマルコが笑った。狂気の目を見開いて、それなのにとても無邪気な顔で。
「ミヒャエル様はね、お腹から刺したんだ。胸には骨がいっぱいあるから、うまく隙間を狙わないと駄目なんだけど、でもね、ここ、鳩尾から斜め上に刺すとね、かんたんに胸まで届くんだよ。そうしたらどうなると思う? 刺した後、すぐに口からいっぱい血が吹き出るんだ! ミヒャエル様の血もね、すんごくあったかくて綺麗だったよ!」
息が詰まって声が出せない。指一本動かすこともできなくて、マルコと見つめ合ったままリーゼロッテはただ立ちつくした。
「でもリーゼロッテ様はお腹からは無理かなぁ。お嬢様のドレスって布地が厚そうだし、うまく届かなかったらいやだよね。何度も刺すとリーゼロッテ様も痛いでしょう? うん、だったらリーゼロッテ様は首にしようか。それならひと思いにかき切ってあげられるから」
よいしょ、とマルコは剣を両手で持ち上げた。少しふらつきながら、リーゼロッテの肩にずしりと重い剣先を乗せる。鋭く光る刃が首元に迫って、リーゼロッテは唇を震わせた。
「ああ白くって、とっても綺麗な肌……見て、こんなに血の道が透き通ってる……」
血で濡れた指先で首筋をなぞりながら、マルコはうっとりと目を細めた。
「苦しまないように一気にやってあげるから」
動けないリーゼロッテの喉元に冷たい刃がひたりと当たる。わななきながら浅い呼吸を繰り返した。
「おやめなさい!」
無理やり割って入った人影に、リーゼロッテは突き飛ばすように引きはがされた。背を打ち付け、勢いでその場に崩れ落ちる。痛む背を柱に預けたまま、霞む視界の向こうで誰かふたりがもみ合っているのが分かった。
「王女殿下……?」
小柄なマルコの手首をつかみ取り、クリスティーナがその腕から剣を取り上げようとしている。そのたびに振り回される剣先に、長い髪がからんでは切られ、王城の床に舞い落ちた。
マルコが何かを叫びながら、王女の手を振りほどこうとする。助けに入らなくてはと思うのに、朦朧とした意識がそれを許さない。
「クリスティーナ様!」
遠くからヘッダの声がして、もつれあう人間が三人になった。長剣が返す鈍い光、動きと共になびく王女の長い髪、ハンドチェーンの輝石の煌めき。入れ代わり立ち代わり、位置を変えながらもみ合っていく。
ままならない呼吸を叱咤して、リーゼロッテは懸命に手を伸ばした。マルコを止めなければ。このままでは誰かが傷ついてしまう。
女性の苦悶の悲鳴が響き、もつれあったまま三人は同時に倒れ込んだ。
クリスティーナとヘッダが、折り重なるように床に倒れ伏している。その背に真っすぐと突き立てられた剣を認め、リーゼロッテの目が大きく見開かれた。
目の前の情景を、全力で脳が拒絶してくる。
そばで尻もちをついていたマルコが、ふたりの間から剣を抜きとった。途端に下から血が流れ出て、覗き込むように手をついていたマルコの床を、あっという間に真っ赤に染めた。
「あーあ。リーゼロッテ様のせいで、王女様、死んじゃった」
剣を放り投げ、マルコは水であそぶ子供のように床を叩いた。血しぶきをたのしみながら、何度も何度も繰り返す。
その間にも血だまりは広がって、人ひとりから流れ出たとは思えないその量に、リーゼロッテの中で何かが膨れ上がっていく。限界に達したそれが一気に弾け、全身から解き放たれた。
「いや――――っ!」
緑の力がほとばしった。同心円状に走りゆく緑は、王城を抜け、神殿までを広く包み込んだ。あちこちで暴れていた異形の影も、人に巣くう暗い澱も、洗い流すようにすべてを飲み込み消し去っていく。
澄み切った空間で、マルコはぼんやりとあたりを見回した。遠くから慌ただしい足音が近づいてくる。
「ちぇ、もう終わりかぁ……」
少し残念そうに笑って、マルコはリーゼロッテを見た。
「マルコはちっとも悪くないんだ。だからリーゼロッテ様も、マルコのこと嫌いにならないでやってね」
気を失う寸前、笑顔のまま取り押さえられるマルコを、リーゼロッテは目にしたように思った。
◇
カーン、カーン、カーン……
弔いの鐘にはっと意識が浮上した。横たわっていた寝台を降り、窓へと駆け寄った。風のない鈍色の空に、白い煙が一筋、高く立ち昇っている。
「お嬢様……」
後ろから声をかけられ、振り向くと黒いドレスを着たエラが立っていた。
「エラ……クリスティーナ様は……」
「今、本神殿で葬儀が――」
瞳を伏せたエラに、リーゼロッテは空へと視線を戻す。
「クリス……ティーナ様……」
再び弔いの鐘が、窓の外、静かに響き渡った。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。王城の一室でかなしみに暮れるわたしの元に、アルベルト様が訪ねてきて。クリスティーナ様からの手紙を渡されたわたしは、王女が受けた託宣の真実を知って……。
次回4章第18話「身代わりの託宣」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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