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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣
第16話 宿命の王女
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【前回のあらすじ】
ミヒャエルの死を聞き過去に思いを馳せるイジドーラは、退位したディートリヒと共に後宮で静かに時を過ごします。
一方、王となってからのハインリヒの変化に戸惑いを感じるアンネマリー。王妃として支えていくことを誓いつつも、胸の不安は消せなくて。
東宮での時間がゆっくりと過ぎる中、間もなく終わりを告げる日常にヘッダの心は軋むばかり。そんな中リーゼロッテは、クリスティーナ王女から間もなく公爵家に帰れることを告げられるのでした。
破鐘のような大勢の話し声が、頭にわんわんと反響する。
豪奢な椅子に座り片肘をついたまま、ハインリヒは眉間に指を押し当てていた。
それとは別に、広い評議場では不毛な討論が続けられている。双方の言い分がぶつかり合い、平行線をたどるのはいつものことだ。
王太子時代はいちいちそれを吟味し、自分なりの意見を述べてみたりもしたが、王となった今ではそんな些事に構う余裕もなかった。
そもそも会話が耳に届かない。聞こえてくるのは頭の中をうるさく響く、歴代の王のしゃべり声だけだ。
――議会など中身はない。宰相にすべて任せておけ
――わしらの声がつらかろう? ほれ、王妃の元へ行くがいい
――何、これもすぐ慣れる
――いや、我慢すると碌なことはないぞ。意地を張って倒れた馬鹿が幾人もおる
――今度の王妃はなかなかの体じゃな
――そうだそうだ、あれに触れぬ手はないぞ
「やかましいっ!」
突然、怒声を上げたハインリヒに、評議場が静寂に包まれる。エキサイトしていた者も、一気に青ざめその口を貝のように閉ざした。
「いやはや、王を始め、みな様も少々お疲れのご様子。ここらで半時ほど休憩を入れましょう」
ニコニコ顔のブラル宰相の声に、真っ先にハインリヒが席を立つ。
「時間が来たら先に進めておいてくれ」
「仰せのままに、ハインリヒ王」
宰相に小声でそう言い残し、ハインリヒは評議場を後にする。その途端に貴族たちが、詰めていた息を一斉に吐き出した。
「王位を継がれてから、ハインリヒ様は随分と変わられた」
「若い王に憂える者も多かったが、威厳ある王になられたな」
「いや、これは青龍の加護と聞く。新王の御代も安泰だ」
歴代の王たちはみな一夜にして、人格が入れ代わる。老いた貴族の言うことに半信半疑だった者たちも、それを目の当たりにすれば素直に頷かざるを得ない。
龍の本質を知らない者すら、畏怖の念を抱くほどだ。生き証人たちによって語り継がれ、この国の王は長きに渡り、多くの貴族を統べてきた。
そんな貴族たちを残し、ハインリヒは急ぎアンネマリーの元に向かった。早くそばへと行きたい。ずっとこの手で触れていたい。
――そうじゃ、急げ、急げ!
――王妃は我らが宝だ、大切にせよ!
はやし立てるように王たちが騒ぐ。ハインリヒが継いだのは、単にこの国の歴史だけではなかった。経験と叡智がつまった、歴代の王たちの記憶そのものだ。
(何が叡智なものか)
そう毒づいた瞬間、王たちから愉快そうな笑い声が上がった。ハインリヒは四十五代目の王だ。自分以外の四十四人分の記憶が、縦横無尽に騒ぎまわる異常事態が、この頭の中で今まさに起こっている。
その中でもよくしゃべる王は決まっているようで、だんだん区別がついてくるのも何だか腹立たしい。
(そういえば、父上とお爺様の声は聞こえてこないな……)
――それは我らが満場一致で決めたこと
――親父や爺様の小言など、お主も聞きたくないであろう?
思っただけでもすぐ言葉が返ってくる。日常、周囲との会話もままならなくて、議会でも、貴族との謁見の場でも、ハインリヒはひたすらその場をやり過ごすしかなかった。
思えばディートリヒも議会の間、じっと瞳を閉じていた。王として怠慢にもほどがある。その態度にそんな憤りをずっと感じていたが、こんな状況ではそうするなという方が無理な話だ。
(むしろこれでよく父上は政務を続けられたな)
――父は偉大じゃ!
――ついでに我らも敬え!
再び爆笑に包まれて、ハインリヒは逃げるようにアンネマリーの待つ自室へと駆け込んだ。
「ハインリヒ」
「いいよ、君はそのまま座っていて」
その笑顔を見てほっとする。
「調子はどう?」
「変わりはありませんわ」
王たちのはやし立てる声を聞きながら、その横に陣取った。
「わたくしは大丈夫ですから、あまりご無理はなさいませんよう」
「ありがとう。でもわたしが大丈夫ではないんだ」
アンネマリーに触れているときだけ、王たちの声が嘘のように遠のいた。この苦痛から逃れたくて、日に何度もここへと戻ってしまう。情けない王だと言われても、こればかりはもう自分ではどうしようもなかった。
遠慮はいらないと助言をしてくる王の声を無視して、アンネマリーをぎゅっと腕に抱きしめる。ふわりといい香りが漂って、途端にすべてが静けさを取り戻した。
「……落ち着くな」
耳元で言うと、アンネマリーの手がやさしく背を撫でてきた。ずっとこうされていたいと本気で思う。そうすればあのやかましい声は、永遠に聞こえてこないのだから。
「王、そろそろお時間です」
無慈悲な言葉に、仕方なく立ち上がる。
「また時間ができたら戻ってくるから。アンネマリーはゆっくり休んでいて」
名残惜しく額に口づけて、耳にうるさい声に顔をしかめつつ、ハインリヒは評議場へとしぶしぶ戻っていった。
◇
「新しいお役目ですかぁ?」
去年からずっとブルーメ家でルチアの侍女をしていたベッティは、久しぶりにカイに呼び出されていた。
「うん、ルチアも今の生活に馴染んできたみたいだから、しばらくはブルーメ子爵とイグナーツ様に任せといてもいいかなと思って」
「しばらくは……なんですねぇ?」
「うん? 何か問題ある?」
「いぃえぇ、何もございませんよぅ」
託宣がらみとは言え、カイがここまでひとりの人間に執着を見せるのは初めてのことだ。イグナーツに対してさえ一定の線は引いているようなのに、なぜだかルチアに対してだけは、そういったものを感じさせないでいる。
「最近のルチアはどう? おとなしくしてる?」
「はいぃ、ルチア様もブルーメ子爵様とは波長がお合いになるようでぇ、いつも仲良く土まみれになっておりますねぇ。先日も春に植える苗の話で盛り上がっておられましてぇ、傍から見ていると本当の父娘のように見えますよぅ」
「そっか、ならよかった」
カイは今、自分がどんな顔をしているのか、分かっているのだろうか? その穏やかな表情を前に、ベッティは珍妙なものを見るような目つきになった。
「ん? どうしたの? ベッティ、すごくおかしな顔になってるよ?」
「そのお言葉、そっくりお返しして差し上げますよぅ」
互いに訝しげな顔で目を見合わせたあと、一転してカイの表情が真剣なものとなった。
「それはさておき、今回の任務なんだけど……行く先がちょっと危険を伴うかもしれないんだ」
「かもしれない?」
カイにしては歯切れの悪い言葉に、ベッティは首をひねった。
「もしかしてグレーデン侯爵家の不正の一件ですかぁ?」
「いや、それは大方片が付いたから。グレーデン家がうまいこと立ち回ったせいで、こっちのやることは大幅に減ったんだ」
「それはよかったですねぇ。カイ坊ちゃま、グレーデン家相手じゃ動きづらかったでしょう?」
「まあね」
その割に不服そうな顔でカイは「エルヴィン・グレーデンだけは許すまじ」とつぶやいた。
「ではどちらのお屋敷にぃ?」
「今回の潜入先は貴族の屋敷じゃない――ビエルサール神殿だ」
さすがのベッティも驚いた。王家ご用達であるビエルサール神殿は、国内最高峰の神殿だ。貴族であっても許可なく敷地内に入ることはできないし、そもそも女であるベッティが行ける場所ではなかった。
この国の青龍信仰において、神殿で仕える神官は男だけとされている。例外として、女神を祀る神殿に、巫女と称する女神官が少数存在するのみだ。
「ですがぁ、本神殿なら王家の配下の者が潜り込んでいるはずですよねぇ?」
「今回行ってほしいのは、もっと奥の組織なんだ。下働きとしてなら、なんとか入り込む道はある。でも情報が限られていて危険度が図れない」
「うぅむぅ、なるほどですぅ。それは逆に燃えますねぇ」
「はは、ベッティならそう言うと思ったよ」
難易度が高いほどスリルも満点だ。任務を遂行できた時の爽快感が、病みつきになっているベッティだった。
「そんなわけで、今回は万全に準備をしてから臨んでほしいんだ。恐らく入り込んだが最後、連絡は取れなくなるだろうから。それに神殿内では、猟奇的な残虐事件が続いているらしい」
「残虐事件?」
「今のところまだ、家畜の死骸がぶち撒かれる程度で済んでるみたいだけど」
「……獣の血を欲する者はそれじゃ飽き足らなくなって、やがて人にも手を出しますからねぇ」
ベッティの危機察知能力は野生動物並みだ。危険はないと踏んではいるが、自分の手の及ばない未知の領域とあっては、一抹の不安はぬぐえない。
「大体のことは承知いたしましたぁ。ありとあらゆる事態を想定して、万全を期しますねぇ。とりあえず王都の家に行って必要なものをそろえてきますぅ」
王都の家とはカイが所有する隠れ家だ。普段は老夫婦に管理を任せているが、大きな番犬がいて、カイの集めた資料を保管する倉庫的な役割も果たしている。
「それで、中では何を探ればよろしいのですかぁ?」
「それが分からないんだ……」
「分からない?」
カイは難しい顔をして口をつぐんだ。この件に関してはなぜか龍が目隠しをしてくる。慎重に言葉を選びながら、カイは必要最低限の情報だけをベッティに話した。
「要するにぃ、ミヒャエル司祭枢機卿が死んだのにリーゼロッテ様がいまだ狙われる理由とぉ、その黒幕が神殿内にいるかもしれないから探ってこい、っていうことですねぇ」
「そういう事」
いるかどうかも分からない犯人を捜しに行くのだ。あるものを証明するよりも、ないものを証明する方が格段に難しい。
「でもオレの中では犯人の目星はついているんだ」
「一体誰ですかぁ?」
「それが……龍に目隠しされて伝えられない」
考え込むカイに、ベッティはにやりと口元を片方だけ上げた。
「じゃぁ質問を変えますぅ。そいつはカイ坊ちゃまにとってどんなヤツですかぁ?」
きょとん、としたあと、カイもにやりと人の悪い笑みを作る。
「神殿の中でも、いちばんいけ好かないタイプかな?」
「承知いたしましたぁ。もしそいつが黒だったらこう、白だったらこういたしますぅ」
ベッティは順番に、立てた親指と下げた親指を示して、再びにやっと笑った。
「はははっ、ベッティ、サイコーだ!」
ベッティの頭をいい子いい子と撫でて、カイはしばらく爆笑し続けた。
◇
間もなく新月がやってくる。
雲ひとつない今宵は、ひと際星が大きく瞬いて見える。こうしてじっと見上げていると、満点の星空に飲み込まれてしまいそうだ。
その時、流れ星が夜の空を大きくよぎった。一瞬で消え去った光の筋に、いよいよその時が来たことを知る。
自分に残された時間はもうほんの僅かだ。
思うほど感慨は湧かないものだと、クリスティーナは静かに瞳を伏せた。
「クリスティーナ様……」
明かりもつけずに窓辺にたたずんでいた背に、遠慮がちに声がかけられた。ヘッダを振り返り、クリスティーナは毅然とした王女の顔となる。
「時が満ちるときが来たわ。今までわたくしに尽くしてきてくれたこと、心から礼を言います」
王女の言葉を前に、ヘッダは顔を青ざめさせた。その瞳には、みるみるうちに涙が浮かんでくる。
「ヘッダ・バルテン、わたくしから最後の命を下します。例えこの先短くとも、あなたは自分の道を必ず全うなさい。わたくしの後を追うことだけは絶対に許さない。それだけは覚えておいて」
嗚咽をもらしたヘッダを、クリスティーナはやさしく抱きしめた。
「ヘッダ、きちんと返事をなさい」
「……クリスティーナ様の、仰せのままに」
「それでいいわ」
ほほ笑んで、零れ落ちる涙をぬぐいとる。
「すべては龍の意思。リーゼロッテのことは恨まないでやって。いちばんに傷つくのはあの娘だろうから」
できるでしょう? そう耳元で言われて、ヘッダは小さく頷いた。
菫色の瞳を細め、クリスティーナはやわらかく笑った。次いでいたずらな視線を向けてくる。
「最後にわたくしは自分の願いを叶えてくるわ。夜が明ける前には戻るから、今夜だけは見なかったことにしてちょうだい」
「……準備を整えてお戻りをお待ちしております。憂いなく、どうぞクリスティーナ様のお心のままに」
「ありがとう、ヘッダ」
見送られて、クリスティーナは夜更けの部屋を後にした。
◇
何もない部屋の中、アルベルトはいつものように剣の手入れをしていた。今までこれが活躍した事など幸いないが、いざという時に使えぬ鈍らでは目も当てられない。
自分は王女の護衛としてそばにいる。例え、最後に役立たずに終わるとしても。
王女に初めて目通りしたのは、もう十五年以上も前の話だ。
まだ五歳の彼女を前にして、聡明な王女だとアルベルトは思った。それと同時に奔放な王女だとも、あの日思ったことを覚えている。
アルベルトは王族と貴族の間にできた不義の子だ。あのままいったら公に知られることなく、存在をこの世から抹消されていたに違いない。
地位もなく、後ろ盾はおろか、国の籍すら持たなかった。王族の血を引けど、そんな無力な子供の末路は知れたものだ。
『いらない子ならわたくしにちょうだい』
ちらりとこちらを見ただけで、まるでおもちゃを強請るように王女は言った。その日からアルベルトは王女のものになった。同時に新しい名を与えられ、衣食住と命を保証された。
はじめの印象通り、王女は自由で何物にも囚われない少女だった。気まぐれで、思ったが最後、その行動を止めはしない。おとなしく守られるなどしてくれなくて、アルベルトは王女に何度も振り回された。
だがそれは逃れられない宿命に対する、代償のような自由だった。それでもこの鳥かごの中、王女はいつでも美しくさえずり続ける。最後まで気高く在ろうとする、その誇りを守ることこそが、アルベルトに与えられた最大の使命だ。
磨き上げた剣を置き、寝台に仰向けになった。高い天井を見上げながら、今日も王女のことだけを思う。
ふいに扉の前に人の気配を感じた。それが誰のものなのかすぐに分かって、アルベルトは慌てて身を起こした。ノックもなしに開けられた扉に、半ばあきらめのため息を落とす。
「クリスティーナ様……」
この部屋に鍵がかけられたことはない。いつ何時も王女の元へ駆けつけられるようにと、そんなものは必要なかった。
「このような夜更けにどうなさったのですか?」
落ち着き払った王女を前に、窘めるように言う。有事の際ならともかく、王女が男の部屋に来ていい時間ではなかった。
見ると王女は夜着にショールを羽織っただけの姿だ。体の線がはっきりと分かる出で立ちに、アルベルトは自らの上着を手に王女へと近寄った。
「時が満ちる」
それを肩にかける寸前に、王女が言った。
「わたくしの時はもう満ちるわ」
はっとなり、その目の前で片膝をついた。顔を伏せ、ただ次の王女の言葉を待つ。
「長い間、わたくしの我が儘に付き合ってくれたこと、礼を言います」
「有難きお言葉。なれどわたしの命はクリスティーナ様のもの。そのようなお気づかいは不要です」
「そう……ではアルベルト、最後にわたくしの命を下します」
「なんなりと」
「わたくしがいなくなった後、ヘッダを頼みます。あの娘もそう長くは生きられないでしょう。残りの日々を憂いなく過ごせるよう、尽力なさい」
「王女殿下の仰せのままに」
アルベルトは深く騎士の礼を取った。王女はヘッダが後を追うことを良しとしない。同時にアルベルトがそうすることも。
「そのあとお前は自由の身よ。地位も後ろ盾もハインリヒ王に任せてあるから、思うまま好きに生きなさい」
「過分なお言葉です」
「そのくらいの功績はあって然るべきでしょう? この十六年、本当によく仕えてくれました」
「わたしの主人は今までも、そしてこれからも……クリスティーナ様おひとりでございます」
震える声をどうにか抑えた。死したあとも見捨てないで欲しかった。永遠に自分の王女で居て欲しい。でないとこの世に未練など、すぐに失くしてしまうから。
「アルベルト・ガウス、今ここに誓いなさい。何があろうと必ず自分の生を全うすると。誇り高い貴方の名にかけて、王女であるこのわたくしに誓いなさい」
見透かしたように王女が言う。自分は死すら選べない。だがそれが彼女の望みなら、命がけで従うだけだ。
「クリスティーナ様に頂いたこの名にかけて誓います。必ずや、その命を全うすると」
王女は満足げに笑った。クリスティーナは最後までアルベルトを振り回す。でもそれでいい。いや、それがいい。そうすれば独りでもずっと生きていける。
「いいわ、顔をお上げなさい」
焼き付けるようにその姿を見上げた。菫色の瞳が、揺らめきながら見つめ返してくる。出会ったあの日から囚われたままだ。この色を永遠に忘れない。
「アルベルト」
視線を逸らさないまま名を呼ばれた。肩にかけられたショールが、前触れなく床に落とされる。それを目で追いかけて、再びはっと顔を上げた。
その動きを止めようと、咄嗟に手を伸ばした。その時すでに王女は、はだけた夜着を下へと落としてしまっていた。伸ばした指の先、すぐそこに一糸まとわぬ姿が惜しげもなく晒される。
「クリスティーナ様……!」
動揺で声が上ずった。見てはいけないと思うのに、その姿に目が吸い寄せられる。
中途半端に伸ばされたこの手を導いて、王女は自身の胸に押しあてた。熱い肌に触れ、アルベルトの口から息が短く漏れる。やわらかで吸い付くような手触りの先に、王女の早すぎる鼓動が伝わってきた。
「アルベルト……わたくしを抱いて。王女ではなく、ひとりの女として」
「クリス、ティーナ様……」
震える手は、その先に進めない。彼女は穢してはならない存在だ。戒めのように目の前に線を引き続け、最後までそう言い聞かせたまま、すべては終わるはずだった。
「クリスティーナと呼んで……今だけは立場など忘れて、ただのクリスティーナとして貴方に抱いてほしいの。これは命令ではなく、わたくしの最後の望み。アルベルトにしか叶えられない、たったひとつの本当の願い――」
クリスティーナはさらに一歩近づいた。この頬に手を添えて、やわらかな唇を寄せてくる。触れた吐息に何もかもが溢れ出て、もう止めることなどできなくなった。
かき抱き、奪うように口づける。クリスティーナから甘やかな吐息が漏れ、紅い唇がこの名を呼んだ。
「クリスティーナ……」
「アルベルト、もっと……もっと……」
強請られるまま口づける。乞われるまま、愛おしい名を幾度も呼んだ。
「お願い……アルベルトのすべてを、わたくしにちょうだい」
貪るように、どこまでも互いに溺れていく。
共に過ごした時間を。これから訪れる空白を。すべて埋めるため、この刹那、命を燃やすように熱を分け合った。
今だけは何もかもが満たされて――
落ちていく中このまま深い眠りにつけることを、ひとつになって、ただ願った。
夜が明けるその前に、クリスティーナは軋む体を慎重に起こした。隣で眠るアルベルトの顔を静かに見やる。
「わたくしの願いを、聞き届けてくれてありがとう……」
汗で張りついた前髪を指でかき分け、その寝顔に口づけた。
寝台から降り、クリスティーナは王女の顔になる。床に落ちたままだった夜着を身に着け、ショールを羽織り扉へと向かう。
アルベルトを残し、クリスティーナはひとり部屋を後にした。
閉められた扉の音を聞きながら、アルベルトは静かに瞳を開いた。天井を見上げながら、目の前に手を広げる。
この手は何もつかめない。愛しい女を抱いていた腕の中は、これからもずっと空っぽのままだ。
「――クリスティーナ」
僅かな名残を閉じ込めるように、アルベルトは手のひらをきつく握りしめた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ひとり浮かれ気分で王城へと向かうわたし。王前で王女の護衛の任を解かれたアルベルト様は、その衝撃に打ちひしがれて。止まることを知らない宿命の歯車が、クリスティーナ様の時間に終わりを告げる……!
次回4章第17話「時、満ちて」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
ミヒャエルの死を聞き過去に思いを馳せるイジドーラは、退位したディートリヒと共に後宮で静かに時を過ごします。
一方、王となってからのハインリヒの変化に戸惑いを感じるアンネマリー。王妃として支えていくことを誓いつつも、胸の不安は消せなくて。
東宮での時間がゆっくりと過ぎる中、間もなく終わりを告げる日常にヘッダの心は軋むばかり。そんな中リーゼロッテは、クリスティーナ王女から間もなく公爵家に帰れることを告げられるのでした。
破鐘のような大勢の話し声が、頭にわんわんと反響する。
豪奢な椅子に座り片肘をついたまま、ハインリヒは眉間に指を押し当てていた。
それとは別に、広い評議場では不毛な討論が続けられている。双方の言い分がぶつかり合い、平行線をたどるのはいつものことだ。
王太子時代はいちいちそれを吟味し、自分なりの意見を述べてみたりもしたが、王となった今ではそんな些事に構う余裕もなかった。
そもそも会話が耳に届かない。聞こえてくるのは頭の中をうるさく響く、歴代の王のしゃべり声だけだ。
――議会など中身はない。宰相にすべて任せておけ
――わしらの声がつらかろう? ほれ、王妃の元へ行くがいい
――何、これもすぐ慣れる
――いや、我慢すると碌なことはないぞ。意地を張って倒れた馬鹿が幾人もおる
――今度の王妃はなかなかの体じゃな
――そうだそうだ、あれに触れぬ手はないぞ
「やかましいっ!」
突然、怒声を上げたハインリヒに、評議場が静寂に包まれる。エキサイトしていた者も、一気に青ざめその口を貝のように閉ざした。
「いやはや、王を始め、みな様も少々お疲れのご様子。ここらで半時ほど休憩を入れましょう」
ニコニコ顔のブラル宰相の声に、真っ先にハインリヒが席を立つ。
「時間が来たら先に進めておいてくれ」
「仰せのままに、ハインリヒ王」
宰相に小声でそう言い残し、ハインリヒは評議場を後にする。その途端に貴族たちが、詰めていた息を一斉に吐き出した。
「王位を継がれてから、ハインリヒ様は随分と変わられた」
「若い王に憂える者も多かったが、威厳ある王になられたな」
「いや、これは青龍の加護と聞く。新王の御代も安泰だ」
歴代の王たちはみな一夜にして、人格が入れ代わる。老いた貴族の言うことに半信半疑だった者たちも、それを目の当たりにすれば素直に頷かざるを得ない。
龍の本質を知らない者すら、畏怖の念を抱くほどだ。生き証人たちによって語り継がれ、この国の王は長きに渡り、多くの貴族を統べてきた。
そんな貴族たちを残し、ハインリヒは急ぎアンネマリーの元に向かった。早くそばへと行きたい。ずっとこの手で触れていたい。
――そうじゃ、急げ、急げ!
――王妃は我らが宝だ、大切にせよ!
はやし立てるように王たちが騒ぐ。ハインリヒが継いだのは、単にこの国の歴史だけではなかった。経験と叡智がつまった、歴代の王たちの記憶そのものだ。
(何が叡智なものか)
そう毒づいた瞬間、王たちから愉快そうな笑い声が上がった。ハインリヒは四十五代目の王だ。自分以外の四十四人分の記憶が、縦横無尽に騒ぎまわる異常事態が、この頭の中で今まさに起こっている。
その中でもよくしゃべる王は決まっているようで、だんだん区別がついてくるのも何だか腹立たしい。
(そういえば、父上とお爺様の声は聞こえてこないな……)
――それは我らが満場一致で決めたこと
――親父や爺様の小言など、お主も聞きたくないであろう?
思っただけでもすぐ言葉が返ってくる。日常、周囲との会話もままならなくて、議会でも、貴族との謁見の場でも、ハインリヒはひたすらその場をやり過ごすしかなかった。
思えばディートリヒも議会の間、じっと瞳を閉じていた。王として怠慢にもほどがある。その態度にそんな憤りをずっと感じていたが、こんな状況ではそうするなという方が無理な話だ。
(むしろこれでよく父上は政務を続けられたな)
――父は偉大じゃ!
――ついでに我らも敬え!
再び爆笑に包まれて、ハインリヒは逃げるようにアンネマリーの待つ自室へと駆け込んだ。
「ハインリヒ」
「いいよ、君はそのまま座っていて」
その笑顔を見てほっとする。
「調子はどう?」
「変わりはありませんわ」
王たちのはやし立てる声を聞きながら、その横に陣取った。
「わたくしは大丈夫ですから、あまりご無理はなさいませんよう」
「ありがとう。でもわたしが大丈夫ではないんだ」
アンネマリーに触れているときだけ、王たちの声が嘘のように遠のいた。この苦痛から逃れたくて、日に何度もここへと戻ってしまう。情けない王だと言われても、こればかりはもう自分ではどうしようもなかった。
遠慮はいらないと助言をしてくる王の声を無視して、アンネマリーをぎゅっと腕に抱きしめる。ふわりといい香りが漂って、途端にすべてが静けさを取り戻した。
「……落ち着くな」
耳元で言うと、アンネマリーの手がやさしく背を撫でてきた。ずっとこうされていたいと本気で思う。そうすればあのやかましい声は、永遠に聞こえてこないのだから。
「王、そろそろお時間です」
無慈悲な言葉に、仕方なく立ち上がる。
「また時間ができたら戻ってくるから。アンネマリーはゆっくり休んでいて」
名残惜しく額に口づけて、耳にうるさい声に顔をしかめつつ、ハインリヒは評議場へとしぶしぶ戻っていった。
◇
「新しいお役目ですかぁ?」
去年からずっとブルーメ家でルチアの侍女をしていたベッティは、久しぶりにカイに呼び出されていた。
「うん、ルチアも今の生活に馴染んできたみたいだから、しばらくはブルーメ子爵とイグナーツ様に任せといてもいいかなと思って」
「しばらくは……なんですねぇ?」
「うん? 何か問題ある?」
「いぃえぇ、何もございませんよぅ」
託宣がらみとは言え、カイがここまでひとりの人間に執着を見せるのは初めてのことだ。イグナーツに対してさえ一定の線は引いているようなのに、なぜだかルチアに対してだけは、そういったものを感じさせないでいる。
「最近のルチアはどう? おとなしくしてる?」
「はいぃ、ルチア様もブルーメ子爵様とは波長がお合いになるようでぇ、いつも仲良く土まみれになっておりますねぇ。先日も春に植える苗の話で盛り上がっておられましてぇ、傍から見ていると本当の父娘のように見えますよぅ」
「そっか、ならよかった」
カイは今、自分がどんな顔をしているのか、分かっているのだろうか? その穏やかな表情を前に、ベッティは珍妙なものを見るような目つきになった。
「ん? どうしたの? ベッティ、すごくおかしな顔になってるよ?」
「そのお言葉、そっくりお返しして差し上げますよぅ」
互いに訝しげな顔で目を見合わせたあと、一転してカイの表情が真剣なものとなった。
「それはさておき、今回の任務なんだけど……行く先がちょっと危険を伴うかもしれないんだ」
「かもしれない?」
カイにしては歯切れの悪い言葉に、ベッティは首をひねった。
「もしかしてグレーデン侯爵家の不正の一件ですかぁ?」
「いや、それは大方片が付いたから。グレーデン家がうまいこと立ち回ったせいで、こっちのやることは大幅に減ったんだ」
「それはよかったですねぇ。カイ坊ちゃま、グレーデン家相手じゃ動きづらかったでしょう?」
「まあね」
その割に不服そうな顔でカイは「エルヴィン・グレーデンだけは許すまじ」とつぶやいた。
「ではどちらのお屋敷にぃ?」
「今回の潜入先は貴族の屋敷じゃない――ビエルサール神殿だ」
さすがのベッティも驚いた。王家ご用達であるビエルサール神殿は、国内最高峰の神殿だ。貴族であっても許可なく敷地内に入ることはできないし、そもそも女であるベッティが行ける場所ではなかった。
この国の青龍信仰において、神殿で仕える神官は男だけとされている。例外として、女神を祀る神殿に、巫女と称する女神官が少数存在するのみだ。
「ですがぁ、本神殿なら王家の配下の者が潜り込んでいるはずですよねぇ?」
「今回行ってほしいのは、もっと奥の組織なんだ。下働きとしてなら、なんとか入り込む道はある。でも情報が限られていて危険度が図れない」
「うぅむぅ、なるほどですぅ。それは逆に燃えますねぇ」
「はは、ベッティならそう言うと思ったよ」
難易度が高いほどスリルも満点だ。任務を遂行できた時の爽快感が、病みつきになっているベッティだった。
「そんなわけで、今回は万全に準備をしてから臨んでほしいんだ。恐らく入り込んだが最後、連絡は取れなくなるだろうから。それに神殿内では、猟奇的な残虐事件が続いているらしい」
「残虐事件?」
「今のところまだ、家畜の死骸がぶち撒かれる程度で済んでるみたいだけど」
「……獣の血を欲する者はそれじゃ飽き足らなくなって、やがて人にも手を出しますからねぇ」
ベッティの危機察知能力は野生動物並みだ。危険はないと踏んではいるが、自分の手の及ばない未知の領域とあっては、一抹の不安はぬぐえない。
「大体のことは承知いたしましたぁ。ありとあらゆる事態を想定して、万全を期しますねぇ。とりあえず王都の家に行って必要なものをそろえてきますぅ」
王都の家とはカイが所有する隠れ家だ。普段は老夫婦に管理を任せているが、大きな番犬がいて、カイの集めた資料を保管する倉庫的な役割も果たしている。
「それで、中では何を探ればよろしいのですかぁ?」
「それが分からないんだ……」
「分からない?」
カイは難しい顔をして口をつぐんだ。この件に関してはなぜか龍が目隠しをしてくる。慎重に言葉を選びながら、カイは必要最低限の情報だけをベッティに話した。
「要するにぃ、ミヒャエル司祭枢機卿が死んだのにリーゼロッテ様がいまだ狙われる理由とぉ、その黒幕が神殿内にいるかもしれないから探ってこい、っていうことですねぇ」
「そういう事」
いるかどうかも分からない犯人を捜しに行くのだ。あるものを証明するよりも、ないものを証明する方が格段に難しい。
「でもオレの中では犯人の目星はついているんだ」
「一体誰ですかぁ?」
「それが……龍に目隠しされて伝えられない」
考え込むカイに、ベッティはにやりと口元を片方だけ上げた。
「じゃぁ質問を変えますぅ。そいつはカイ坊ちゃまにとってどんなヤツですかぁ?」
きょとん、としたあと、カイもにやりと人の悪い笑みを作る。
「神殿の中でも、いちばんいけ好かないタイプかな?」
「承知いたしましたぁ。もしそいつが黒だったらこう、白だったらこういたしますぅ」
ベッティは順番に、立てた親指と下げた親指を示して、再びにやっと笑った。
「はははっ、ベッティ、サイコーだ!」
ベッティの頭をいい子いい子と撫でて、カイはしばらく爆笑し続けた。
◇
間もなく新月がやってくる。
雲ひとつない今宵は、ひと際星が大きく瞬いて見える。こうしてじっと見上げていると、満点の星空に飲み込まれてしまいそうだ。
その時、流れ星が夜の空を大きくよぎった。一瞬で消え去った光の筋に、いよいよその時が来たことを知る。
自分に残された時間はもうほんの僅かだ。
思うほど感慨は湧かないものだと、クリスティーナは静かに瞳を伏せた。
「クリスティーナ様……」
明かりもつけずに窓辺にたたずんでいた背に、遠慮がちに声がかけられた。ヘッダを振り返り、クリスティーナは毅然とした王女の顔となる。
「時が満ちるときが来たわ。今までわたくしに尽くしてきてくれたこと、心から礼を言います」
王女の言葉を前に、ヘッダは顔を青ざめさせた。その瞳には、みるみるうちに涙が浮かんでくる。
「ヘッダ・バルテン、わたくしから最後の命を下します。例えこの先短くとも、あなたは自分の道を必ず全うなさい。わたくしの後を追うことだけは絶対に許さない。それだけは覚えておいて」
嗚咽をもらしたヘッダを、クリスティーナはやさしく抱きしめた。
「ヘッダ、きちんと返事をなさい」
「……クリスティーナ様の、仰せのままに」
「それでいいわ」
ほほ笑んで、零れ落ちる涙をぬぐいとる。
「すべては龍の意思。リーゼロッテのことは恨まないでやって。いちばんに傷つくのはあの娘だろうから」
できるでしょう? そう耳元で言われて、ヘッダは小さく頷いた。
菫色の瞳を細め、クリスティーナはやわらかく笑った。次いでいたずらな視線を向けてくる。
「最後にわたくしは自分の願いを叶えてくるわ。夜が明ける前には戻るから、今夜だけは見なかったことにしてちょうだい」
「……準備を整えてお戻りをお待ちしております。憂いなく、どうぞクリスティーナ様のお心のままに」
「ありがとう、ヘッダ」
見送られて、クリスティーナは夜更けの部屋を後にした。
◇
何もない部屋の中、アルベルトはいつものように剣の手入れをしていた。今までこれが活躍した事など幸いないが、いざという時に使えぬ鈍らでは目も当てられない。
自分は王女の護衛としてそばにいる。例え、最後に役立たずに終わるとしても。
王女に初めて目通りしたのは、もう十五年以上も前の話だ。
まだ五歳の彼女を前にして、聡明な王女だとアルベルトは思った。それと同時に奔放な王女だとも、あの日思ったことを覚えている。
アルベルトは王族と貴族の間にできた不義の子だ。あのままいったら公に知られることなく、存在をこの世から抹消されていたに違いない。
地位もなく、後ろ盾はおろか、国の籍すら持たなかった。王族の血を引けど、そんな無力な子供の末路は知れたものだ。
『いらない子ならわたくしにちょうだい』
ちらりとこちらを見ただけで、まるでおもちゃを強請るように王女は言った。その日からアルベルトは王女のものになった。同時に新しい名を与えられ、衣食住と命を保証された。
はじめの印象通り、王女は自由で何物にも囚われない少女だった。気まぐれで、思ったが最後、その行動を止めはしない。おとなしく守られるなどしてくれなくて、アルベルトは王女に何度も振り回された。
だがそれは逃れられない宿命に対する、代償のような自由だった。それでもこの鳥かごの中、王女はいつでも美しくさえずり続ける。最後まで気高く在ろうとする、その誇りを守ることこそが、アルベルトに与えられた最大の使命だ。
磨き上げた剣を置き、寝台に仰向けになった。高い天井を見上げながら、今日も王女のことだけを思う。
ふいに扉の前に人の気配を感じた。それが誰のものなのかすぐに分かって、アルベルトは慌てて身を起こした。ノックもなしに開けられた扉に、半ばあきらめのため息を落とす。
「クリスティーナ様……」
この部屋に鍵がかけられたことはない。いつ何時も王女の元へ駆けつけられるようにと、そんなものは必要なかった。
「このような夜更けにどうなさったのですか?」
落ち着き払った王女を前に、窘めるように言う。有事の際ならともかく、王女が男の部屋に来ていい時間ではなかった。
見ると王女は夜着にショールを羽織っただけの姿だ。体の線がはっきりと分かる出で立ちに、アルベルトは自らの上着を手に王女へと近寄った。
「時が満ちる」
それを肩にかける寸前に、王女が言った。
「わたくしの時はもう満ちるわ」
はっとなり、その目の前で片膝をついた。顔を伏せ、ただ次の王女の言葉を待つ。
「長い間、わたくしの我が儘に付き合ってくれたこと、礼を言います」
「有難きお言葉。なれどわたしの命はクリスティーナ様のもの。そのようなお気づかいは不要です」
「そう……ではアルベルト、最後にわたくしの命を下します」
「なんなりと」
「わたくしがいなくなった後、ヘッダを頼みます。あの娘もそう長くは生きられないでしょう。残りの日々を憂いなく過ごせるよう、尽力なさい」
「王女殿下の仰せのままに」
アルベルトは深く騎士の礼を取った。王女はヘッダが後を追うことを良しとしない。同時にアルベルトがそうすることも。
「そのあとお前は自由の身よ。地位も後ろ盾もハインリヒ王に任せてあるから、思うまま好きに生きなさい」
「過分なお言葉です」
「そのくらいの功績はあって然るべきでしょう? この十六年、本当によく仕えてくれました」
「わたしの主人は今までも、そしてこれからも……クリスティーナ様おひとりでございます」
震える声をどうにか抑えた。死したあとも見捨てないで欲しかった。永遠に自分の王女で居て欲しい。でないとこの世に未練など、すぐに失くしてしまうから。
「アルベルト・ガウス、今ここに誓いなさい。何があろうと必ず自分の生を全うすると。誇り高い貴方の名にかけて、王女であるこのわたくしに誓いなさい」
見透かしたように王女が言う。自分は死すら選べない。だがそれが彼女の望みなら、命がけで従うだけだ。
「クリスティーナ様に頂いたこの名にかけて誓います。必ずや、その命を全うすると」
王女は満足げに笑った。クリスティーナは最後までアルベルトを振り回す。でもそれでいい。いや、それがいい。そうすれば独りでもずっと生きていける。
「いいわ、顔をお上げなさい」
焼き付けるようにその姿を見上げた。菫色の瞳が、揺らめきながら見つめ返してくる。出会ったあの日から囚われたままだ。この色を永遠に忘れない。
「アルベルト」
視線を逸らさないまま名を呼ばれた。肩にかけられたショールが、前触れなく床に落とされる。それを目で追いかけて、再びはっと顔を上げた。
その動きを止めようと、咄嗟に手を伸ばした。その時すでに王女は、はだけた夜着を下へと落としてしまっていた。伸ばした指の先、すぐそこに一糸まとわぬ姿が惜しげもなく晒される。
「クリスティーナ様……!」
動揺で声が上ずった。見てはいけないと思うのに、その姿に目が吸い寄せられる。
中途半端に伸ばされたこの手を導いて、王女は自身の胸に押しあてた。熱い肌に触れ、アルベルトの口から息が短く漏れる。やわらかで吸い付くような手触りの先に、王女の早すぎる鼓動が伝わってきた。
「アルベルト……わたくしを抱いて。王女ではなく、ひとりの女として」
「クリス、ティーナ様……」
震える手は、その先に進めない。彼女は穢してはならない存在だ。戒めのように目の前に線を引き続け、最後までそう言い聞かせたまま、すべては終わるはずだった。
「クリスティーナと呼んで……今だけは立場など忘れて、ただのクリスティーナとして貴方に抱いてほしいの。これは命令ではなく、わたくしの最後の望み。アルベルトにしか叶えられない、たったひとつの本当の願い――」
クリスティーナはさらに一歩近づいた。この頬に手を添えて、やわらかな唇を寄せてくる。触れた吐息に何もかもが溢れ出て、もう止めることなどできなくなった。
かき抱き、奪うように口づける。クリスティーナから甘やかな吐息が漏れ、紅い唇がこの名を呼んだ。
「クリスティーナ……」
「アルベルト、もっと……もっと……」
強請られるまま口づける。乞われるまま、愛おしい名を幾度も呼んだ。
「お願い……アルベルトのすべてを、わたくしにちょうだい」
貪るように、どこまでも互いに溺れていく。
共に過ごした時間を。これから訪れる空白を。すべて埋めるため、この刹那、命を燃やすように熱を分け合った。
今だけは何もかもが満たされて――
落ちていく中このまま深い眠りにつけることを、ひとつになって、ただ願った。
夜が明けるその前に、クリスティーナは軋む体を慎重に起こした。隣で眠るアルベルトの顔を静かに見やる。
「わたくしの願いを、聞き届けてくれてありがとう……」
汗で張りついた前髪を指でかき分け、その寝顔に口づけた。
寝台から降り、クリスティーナは王女の顔になる。床に落ちたままだった夜着を身に着け、ショールを羽織り扉へと向かう。
アルベルトを残し、クリスティーナはひとり部屋を後にした。
閉められた扉の音を聞きながら、アルベルトは静かに瞳を開いた。天井を見上げながら、目の前に手を広げる。
この手は何もつかめない。愛しい女を抱いていた腕の中は、これからもずっと空っぽのままだ。
「――クリスティーナ」
僅かな名残を閉じ込めるように、アルベルトは手のひらをきつく握りしめた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ひとり浮かれ気分で王城へと向かうわたし。王前で王女の護衛の任を解かれたアルベルト様は、その衝撃に打ちひしがれて。止まることを知らない宿命の歯車が、クリスティーナ様の時間に終わりを告げる……!
次回4章第17話「時、満ちて」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
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