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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣
第11話 君がため
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【前回のあらすじ】
白の夜会の休憩室で、酔った貴族に襲われそうになったエラは、仮面をつけた謎の青年に助けられます。その正体はエーミールの兄エルヴィンで。
一方、グレーデン家の不正を暴くため、令嬢カロリーネとして捜査をしていたカイは、そのエルヴィンと一触即発に。逆に窮地に立たされ、ジークヴァルトの控室へと逃げ込むカイ。そこにいたリーゼロッテの規格外の力に改めて驚きつつも、龍の思惑に思いを馳せます。
白の夜会も終わり、日々の公務に追われるハインリヒ王子。王位継承の日は刻一刻と近づくのでした。
「オエオッオーっ!!」
マンボウの雄叫びが窓の外に響く。すぐさま身を起こし、リーゼロッテはカーテンを一気に開けた。
眼下にはうっすらと霜の降りた庭が広がっている。やわらかい朝日を浴びながら、マンボウが再び喉を反り返らせて、声高らかに雄叫びを響かせた。
「おはよう、マンボウ」
「オエーっ」
白い息を吐きながら二階のテラスから声をかけると、マンボウはすぐさま挨拶を返してきた。
(やっぱり朝はこうでなくちゃ)
公爵家に戻っていた間は、マンボウがいなくてなんだか物足りなく感じていた。しかし枕元で鶏を放すわけにもいかない。早くに目が覚めても、エラに起こされるまでおとなしく横になっていたリーゼロッテだった。
(お酒を口にした次の日だけは、遅くまで寝てしまったけれど)
東宮で早寝早起きが習慣化していたリーゼロッテにしては、めずらしくゆっくりな起床だった。アルコールを飲んだ翌日はいつもそうだ。目覚めた後もしばらくぼんやりとしてしまう。
(あの夜、なんだかすごい夢を見たのよね……)
断片的に残っているその夢を思い出して、リーゼロッテはひとり顔を赤らめた。
夢の中、リーゼロッテはジークヴァルトといやらしいキスをした。夢だというのにあまりの気持ち良さに、おかしな声まで上げていたのではないだろうか。
(わたしってば欲求不満なのかしら……)
とてもではないが口には出せない痴女ぶりだ。
頬の熱を引かせるために、冷たい水で顔を洗う。再び自分ひとりでやらなくてはいけない生活に戻ったのだ。エラを泣かせないためにも、これからはサボらず肌の手入れもしなくては。
着替えを済ませると、廊下に人の気配がした。声掛けもなくその人物はすぐ去っていく。
完全に気配がなくなったのを確かめて、リーゼロッテはそうっと扉を開けた。廊下には朝食の乗ったワゴンが無造作に置かれている。リーゼロッテの二度目の来訪に、ヘッダの態度はますます冷たいものとなっていた。
(食事を運んでもらえるだけでも、ありがたく思わないとだわ)
「いただきます」
いつものように手を合わせてから、リーゼロッテはひとりきりの朝食を味気なく頂いた。
◇
ごくりと喉を鳴らして一歩を踏み出す。今日もあの恐怖を味わうのだ。
鶏の嘴は思いのほか鋭く痛い。凶器といっていいほどの威力を持つが、アイツは怪我をしないギリギリを狙ってきているようだった。それは手加減などではなく、獲物をいたぶる感覚なのだとマルコは確信をもって感じていた。
「ああ、東宮はやはり青龍の神気に満ちていますね。何度来ても心地よい」
前を歩くのは、本来なら自分など話もできない偉い人だ。次期神官長候補として名が挙がっているほど、実力のある神官だった。
「では、マルコさん。わたしの用事が終わるまで、あなたはまた散歩でもしていてください。できるなら立場を変わってほしいものですね。わたしも時間さえあればゆっくりとこの庭を散策できるのに」
「ははは……」
思わず乾いた笑いが漏れてしまった。この神官、レミュリオと一緒にいるときは、あの悪鬼のような鶏は姿を現さない。マルコがひとりきりになった途端、いつもどこからともなくやってくるのだ。
東宮の高い建物へと向かうレミュリオの背を見送った。彼は目が見えないはずなのに、迷いのない足取りは、全くと言っていいほどそのことを感じさせなかった。
『この世は波動の世界ですから』
いつだか尋ねた時に、レミュリオはそう言っていた。
すべての物が光を放ち、目は見えなくともそれを余すことなく感じ取れるのだと。そして、何もない空間でさえ何かしらに満たされていて、絶えず振動し共鳴し合っているのだと、レミュリオはそうも教えてくれた。
彼の言葉は難しすぎて、マルコには少しも理解はできなかった。ただレミュリオは本当にすごいひとなのだと、畏怖にも近い感情を抱いてしまった。
(ミヒャエル様の方がボクは好きだったな……)
本神殿に来てはじめて親しくなった神官だった。世話係として配属されたが、怖いひとのようでいて、どこか寂しいひとに思えた。いつも叱られてばかりだったが、ミヒャエルはなんだかんだ言ってマルコのことを気にかけてくれていた。
それが急に世話係を辞めさせられてしまった。ちゃんと食事は取れているだろうか。ずっと体調が悪そうにしていたので、ミヒャエルがどうしているのか今でも心配しているマルコだ。
近くの茂みががさりと鳴った。夜にだけ降った雪の名残が、不自然に葉からふるい落とされていく。はっとして逃げる方向を考えた。アイツは基本、一直線に向かってくる。痛い思いをしないためには初動が肝心だ。
「オエーっ!!」
翼を広げ躍り出てきた鶏を躱し、逆方向へとひた走った。まっすぐ逃げると背後を狙われるだけなので、植木を避けながらとにかく不規則に逃げ回る。
「オエーオッオッオ、オエーっ!!」
真っ赤な鶏冠を左右に揺らし、鶏はどんどん距離を詰めてくる。顎にぶら下がる肉垂がぶるんぶるんと躍る様は、マルコの目にはただの恐怖映像にしか映らなかった。
「マンボウ、駄目よ! マルコ様、お早くこちらへ」
二階のテラスから、あの令嬢の声がした。手すりから身を乗り出して、マルコに向かって手招きをする。
建物の少し離れたところに生える大木を目指して、マルコは脇目もふらずにダッシュした。勢いのまま木の幹に跳びついて、枝に積もる雪を振り落としながら、上までするすると昇っていく。
太めの枝に移動して、座りがいいところでほっと息をついた。見下ろすと、悔しそうに鶏が地面をうろうろと歩き回っている。
あの日と同じ、枝とテラスの遠い距離感で、マルコは令嬢と目を合わせた。こちらの無事を確認したのか、令嬢は安堵の表情になる。
その瞬間、羽ばたきの音と共に、鶏がテラスの手すりへと飛んできた。すぐさまこちらに向き直り、令嬢を守るように翼を大きく広げて威嚇してきた。
「マンボウ、心配しなくても大丈夫よ。あの方はちゃんとした神官様だから」
安心させるように背を撫でると、マンボウと呼ばれた鶏はおとなしく羽を閉じた。だが太眉をキリリとさせて、眼光鋭くマルコを睨みつけてくる。
「マルコ様、ごきげんよう。今日はお怪我などなさっていませんか?」
「は、はいっ、リーゼロッテ様のおかげで、一直線に木に登れましたので」
「ならよかったですわ」
やわらかい笑みを向けられて、頬に熱が集まった。彼女は今まで会った誰よりも綺麗な女の人だ。恥ずかしくて思わず顔をそらしてしまう。
「今日もお供でいらっしゃったのですか?」
「はい……ボクはまだまだ半人前なので、やっぱり中には入れてもらえなくて……」
ここは第一王女が住まう場所だ。レミュリオが言うには青龍の加護が厚く、聖地のようなところであるらしい。だがマルコには神気などまったく感じ取れない。ただ白い悪魔が襲ってくる呪われた地なだけだ。
(あの鶏は王女様が可愛がっているそうだから……)
変にやり返して怪我を負わせることもできなくて、ただ逃げ回るしかないマルコだった。でなかったらとっくに絞めて、シチューの具材にしているところだ。と言っても神殿に籍を置いたマルコは、二度と肉を口にすることはないのだが。
そんなことを考えながら睨み返すと、怯えたように鶏は「オエッ」と令嬢にすり寄った。安全地帯では怯む理由は何もない。
「どうしたの? 走り回って疲れてしまった?」
労わるように白い手が鶏の背を撫でていく。あんなにやさしく触れられたら、さぞかし気持ちいいことだろう。見とれるようにその動きを目で追っていると、突然吹いた風がこの枝を大きく揺さぶった。
「ああっ」
「マルコ様……!」
慌てて伏せるように座る枝にしがみついた。しなりながら揺れる動きに目が回ってくるが、翻弄されるまま何もできない。令嬢は鶏を守るように抱きしめている。緩く編まれた三つ編みが風に踊って、この突風の強さが見て取れた。
ほどなくして吹き止んだ風に胸を撫でおろす。揺れがおさまるのを待って、やっとの思いで身を起こした。
「いたっ」
走った痛みに顔をしかめる。指先に小さな木片が刺さっていた。思わずそれを引き抜くと、ぷくりと膨れ出た血液が丸い玉を作った。
「マルコ様?」
気づかわしげな声を聞きながら、途端に冷や汗が吹き出した。
マルコの両親はクマに襲われ、この目の前で殺された。赤い血は否応なしにそのことを思い出させる。
限界まで達した赤い球体が、崩れて指を伝いそうになる。震えが止まらない指先を、マルコは咄嗟のように咥えこんだ。
(あの時と同じ味がする――)
襲われた瞬間が、今その場にいるかのように、目をつむった世界にありありと映し出される。振り上げられた毛むくじゃらの腕。まるで熟れた果実のように、父親の頭はそのひと振りで薙ぎ払われた。
「マルコ様……!」
ふわっとあたたかい風がマルコを包んだ。続けざま、しゅっ、しゅっとやさしい風は吹く。
涙のにじむ瞳で見上げると、令嬢が身を乗り出すようにこちらへと手を伸ばしていた。香水瓶を掲げ、その中身を再びひと吹きさせる。
(あったかい)
まるで春風のようだった。日いち日と陽が伸びて、草木が芽吹くよろこびの風だ。
「お怪我をなさったのですね? ああ、ここからでも届くかしら」
何度も押すうちに、瓶は空になったようだ。カスカスと鳴る音に、令嬢は慌てて中身を確かめた。
「あの、それは……?」
「こちらは、その、よく効く秘伝の傷薬ですわ。もっと近くで掛けて差し上げたいのだけれど……」
そう言われて指先に視線を落とす。さっきまであった深い刺し傷が、きれいさっぱり消えていた。
「いえ……ちゃんと届いたみたいです」
放心したように言う。信じられないが、痛みももうまるでない。口の中に残っている血の味も、なんだかほんのり甘く感じられた。
「まあ! それはよかったですわ」
「あの、そんな貴重なものを使わせてしまって、本当にすみませんでした」
貴族の使う秘伝の傷薬を、平民出の自分に使うなどあり得ない。後で金を要求されたとしても、今のマルコには支払うことはできないだろう。
「そんなことお気になさらないでくださいませ。すぐに手に入る物ですから、心配はご無用ですわ」
向けられた笑顔を、遥か遠い存在――まるで慈悲深い女神を見るかのように、マルコはぼんやりと眺めていた。彼女はきっと、理不尽な運命に打ちのめされたことなどないのだろう。裏表のない無垢な瞳が眩しくて、目を逸らしたいのに逸らすことができなかった。
「マルコさん、どこですか?」
遠くからレミュリオの声がする。はっと庭の向こうに視線をやった。
「すみません、ボクもう行かなくちゃ」
木を降りかけて、もう一度令嬢の顔を見る。
「今日もいろいろと助けてくださってありがとうございました」
深く頭を下げると、今度こそ木を降りた。二度とここには来てはいけない。なぜだかそんなふうに思った。
一度も振り返らずに、マルコはその場を走り去った。
◇
「ね、話した通りだったでしょう?」
「はい、あんなに大きな声で鳴かれると、本当にびっくりいたしますね」
東宮のリーゼロッテの部屋で、エラはテラスの外を見やった。白の夜会も終わり、季節はもう冬へと移ろおうとしている。東宮は王都より高い山あいにあるため、ちらつく雪の回数も多いように感じられた。
「ここはなんだかさびしい場所ですね。こんなところでお嬢様が、おひとりで過ごされていたのかと思うと……」
「今はこうして一緒にいてくれているわ。わたくしのためにありがとう、エラ」
無事に準女官試験に合格したエラは、リーゼロッテの後を追って東宮へとすぐさま向かった。試験は思うほど難しくなく、常識的な設問ばかりで拍子抜けしたほどだ。女官長との面接はさすがに緊張したが、なんとか試験を切り抜けたエラだった。
「あの……お茶が入りました」
おずおずと会話に入ってきた赤毛の令嬢が、ティーカップを差し出してくる。
「ありがとうございます、ルチア様」
笑みを返し、エラとともにひと口含んだ。ふたりして微妙な顔になる。
「どうですか……?」
「ルチア様はもう少しお勉強なさった方がよろしいですね」
「ごめんなさい、わたしこういうのほんと苦手で……」
「でもわたくしが淹れるよりずっと美味しいですわ。どうしても渋くなってしまうから、上手に淹れるコツが知りたいと思って」
「お嬢様は覚える必要はございません」
エラにきっぱりと言われ、リーゼロッテは少し残念そうに微笑んだ。
「いつもやってもらってばかりで申し訳ないわ」
「お嬢様は公爵夫人となられる方です。身の回りのお世話はわたしにお任せください」
「そうね、いつもありがとう、エラ」
もうひと口紅茶を含むと、ルチアが抱えていたお盆を胸にぎゅっと抱きしめた。
「あの、無理に飲まなくても」
「いいえ、せっかくルチア様が淹れてくださったんですもの」
「ルチア様もおかけになって、どうぞお召し上がりください。ご自分の進歩を自らお確かめになるのも、勉強のうちのひとつです」
「エラはずいぶんと厳しい先生ね」
「こういったことは初めが肝心です。一度身についてしまうと、直すことが難しくなりますから」
ルチアはしゅんとした様子で紅茶に口をつけ、やはり微妙な顔になる。
「やっぱり無理に飲まない方が……」
「そう思われるなら、次こそは美味しく淹れましょう」
「はい、エラ先生」
そんなやりとりにリーゼロッテはくすくすと笑ってしまった。ずっとひとりきりで過ごしていた東宮で、おしゃべりできることがたのしくて仕方がない。
準女官試験に合格したエラと共に、ルチアがやってきたことに初めはすごく驚いた。ルチアはブルーメ子爵家に今年養子に入った市井出身の少女だ。だがその容姿は王族を思わせて、おそらく王家の血を引く者の落とし胤なのだろうと、リーゼロッテはそう推測していた。
「ですがルチア様は、歴代最年少で準女官試験に合格したそうですから、もっと自信をお持ちになってください」
そう言うエラは男爵家で初めての合格者だ。今まで子爵家以上の人間しか試験を受けることがなかったらしい。
エラはカイに頼まれて、ルチアに侍女としての振る舞いや心構えを教えている。準女官試験を一緒に受けたのもその一環だった。カイがなぜルチアを気にかけているのか、エラには理由は分からない。だが推薦状を書いてくれた恩義には、きちんと報いるべきだ。
「とはいえルチア様は子爵家のご令嬢ですから、礼儀作法程度でも大丈夫でしょうし」
「いえ! わたしちゃんと独り立ちできるよう、きちんと仕事を覚えたいです! いつ放り出されるか分からないから……」
慌てて言ったルチアに、リーゼロッテとエラは目を見合わせた。ルチアはやはり自分の出自を知らされていないのかもしれない。
平民として育ち、いきなり子爵家に迎え入れられたのだ。唯一の肉親だった母親にも先立たれて、不安に思う気持ちはよく分かる。そこに来てフーゲンベルク家に行かされたり、ここ東宮に連れて来られたりで、環境の変化についていくのがやっとだろう。
「何かお困りのことがあったら、遠慮なくおっしゃってくださいませね」
「い、いえ、そんな恐れ多い」
「そんなふうにおっしゃらないで。わたくしたちお友達でしょう?」
相変わらずやさし過ぎるリーゼロッテに、エラは複雑な笑みとなる。そんなリーゼロッテが心配でもあり、誇らしくもあった。
「わたしも微力ながら、ルチア様のお力にならせてください」
「おふたりとも……ありがとうございます」
はにかんでルチアは、少しだけうちとけた笑顔を見せた。
◇
「やっといなくなったと思ったのに……」
「リーゼロッテ様のことですか?」
つい漏れ出た言葉を、アルベルトに聞かれてしまった。ヘッダはしまったという顔をして、なんとか取り繕う言葉を探そうとした。
「今回はあちらから侍女を連れてきたそうではないですか。ヘッダ様のご負担が軽くなって何よりです」
「……それはそうなのですが」
これ見よがしにふたりも侍女を連れてきたことも、嫌味のようでおもしろくない。王女にすら自分ひとりしかついていないのにだ。
「それはさておき、お加減はいかがですか? この冬も寒さが増しそうですので、おつらいときは遠慮せずおっしゃってくださいね」
「いえ、最近はずいぶんと調子もいいですので」
「クリスティーナ様も気にかけていらっしゃいます。先日のようにお倒れになる前に、きちんと自己申告なさいますよう、わたしからもお願い申し上げておきます」
王女を盾に取られては素直に頷くしかない。ヘッダは子供のころから持病があり、発作を起こすことがよくあった。生まれた当初から成人まで生きられないと、医師に言われてきたこの身だ。
そんな自分が王女の役に立てるのだと思うと、それが何より誇らしい。クリスティーナはヘッダのすべてだ。クリスティーナがいるから生きながらえている。それは誇張などではなく、ヘッダにとっては事実以外の何ものでもなかった。
「……あんな女、今すぐ死んでしまえばいいのに」
「ヘッダ様、滅多なことをおっしゃるものではありません」
窘められるように言われ、ヘッダはアルベルトを睨み上げた。
「貴方はどうしてそう冷静でいられるのですか……! あの女に一体どんな価値があると言うのです! クリスティーナ様より尊い存在などと、わたくしは絶対に認めませんわ!」
そこで言葉を切ると、ヘッダは苦しそうに胸を押さえた。途端に脂汗がにじみ出てきて、震える手つきで常備薬を飲みくだした。
アルベルトに支えられ椅子へと座る。そのまましばらく背中をさすられて、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「ヘッダ様……それを決めるのはわたしどもではありません。今の言葉は聞かなかったことにします。クリスティーナ様のご意向に沿わないことを、どうぞこれ以上は口になさらないでください」
淡々と言われ、アルベルトの手を振り払うように部屋を飛び出した。悔しくて仕方がない。あの令嬢さえ現れなければ、この平穏な日々はこれからもずっと続くはずだったのに。
荒い息のまま寒い廊下で壁に寄りかかった。ふとたのしげな会話が耳に届く。厨房から聞こえてくるその声は、使用人だけではないようだ。耳をそばだてるまでもなく、それがリーゼロッテのものだとすぐに気がついた。
使用人にねぎらいの言葉をかけ、それを受けた者もまんざらではないように受け答えをしている。長年顔を合わせる使用人たちと、ヘッダは気安く会話をしたことなどない。いつでも事務的な連絡事項を伝えるだけだ。
どっと笑いが起こる。リーゼロッテを囲んで、誰もがしあわせそうな顔をしていた。そこだけが眩しく輝いているようで、ヘッダは逃げるようにその場を離れた。
行き場のない怒りに、にじむ涙を抑えきれない。クリスティーナにいつ呼ばれてもいいように、平静を保たねばならないと言うのに。
震える息を吐き出しながら、ヘッダは痛む胸に、両の手のひらを押しつけた。
◇
「リーゼロッテは侍女をふたり連れてきたのですって?」
「はい、ひとりは以前から侍女をしている男爵令嬢とのことですが、もうひとりはまだデビューも済んでいない子爵家のご令嬢のようですね」
「そう……その年で準女官だなんて珍しいわね」
「顔を見るくらいはなさいますか?」
「そうね、暇つぶしに会ってみようかしら」
頷くとアルベルトは部屋を出ていった。しばらくしてノックと共に、緊張した面持ちの令嬢がひとり現れる。
「こちらはエデラー男爵令嬢です。もうひと方は階段を昇るのに苦慮されておりますので、わたしはいま一度迎えに行ってまいります」
いつになく硬い表情のアルベルトが出ていくと、残された男爵令嬢が礼を取った。
「エラ・エデラーでございます。お召しにより参上いたしました」
「あらあなた、もしかしてあの時の……? いいわ、顔をお上げなさい」
エラをまじまじと見やり、クリスティーナはくすりと笑った。
「やっぱり。あなた、もう相手を選んだようね?」
「あの……恐れながら、王女殿下のおっしゃることがわたしにはよく理解できません」
戸惑うように返したエラに、クリスティーナは少し意外そうな顔になる。
「リーゼロッテはわたくしの正体を話してはいないのね」
「王女殿下の正体……?」
「あなた去年の今頃、エーミール・グレーデンと共にわたくしの元へと来たでしょう? ほら、こうすれば思い出すのではなくて?」
クリスティーナはリーゼロッテの目の前でやって見せたように、貴族街の聖女の動きを再現した。はっと息を漏らし、エラは驚き顔となる。
「そんな、まさか……」
「そのまさかよ。あの日、わたくしが伝えた言葉を覚えていて? あなたは三人の内から必ずひとりを選び取ると」
「覚えてはおりますが……ですがわたしは」
「そう……まだ自覚はないようね。でもあなたはもう、選んだ道を進んでしまっている。後戻りはできないほどに」
いまだ信じられないといったエラを見やり、クリスティーナは菫色の瞳を細めた。
「分かるときが間もなく来るわ。宿世とは逆らえぬ深き業。どの道を辿ろうとも行く先はただひとつ……」
そのタイミングで再び扉が叩かれた。
「あなたはもういいわ。リーゼロッテの元にお戻りなさい」
「では御前失礼させていただきます」
エラが部屋を辞し、入れ替わりのようにアルベルトが現れた。先ほども思ったが、彼らしくない硬い表情を浮かべている。
「クリスティーナ様、こちらは……ブルーメ子爵令嬢でございます」
「あ、あのっ、ルチア・ブルーメでござい、ますっ。お召しにより、参上いたしまし、たっ」
息も絶え絶えに礼を取った赤毛の令嬢に、クリスティーナは息を飲んだ。その瞬間、目の前が光の渦に包まれる。
(――夢見の力が)
いつも前触れなく訪れる光に、クリスティーナはただ身をまかせるしかない。押し寄せる映像が洪水のごとく頭を満たして、身が消えゆくような浮遊感を覚えた。
「クリスティーナ様……!」
アルベルトに支えられていることに気づき、はっと意識を取り戻した。どんなに長い夢見を視ようとも、周囲の人間にしてみれば一瞬すら経ってはいない。
「大丈夫よ、アルベルト」
その腕から離れると、クリスティーナは目の前にいるルチアをじっと見つめた。鮮やかな赤毛に金色の瞳。色彩だけでなくその顔立ちは、父王ディートリヒや妹姫のピッパと恐ろしいほどよく似ていた。
紛れもなく王族の血を引く少女。龍が課した運命を、クリスティーナは夢見の中に垣間視た。
「もういいわ……お下がりなさい」
「仰せのままに」
整わない息のまま、ルチアはほっとしたように部屋を出ていった。アルベルトが声をかけるまで、クリスティーナは閉じた扉をじっと見つめたままでいた。
「クリスティーナ様……彼女は……」
「ええ、そうよ。あの娘、ウルリヒ様の娘だわ」
「ウルリヒ様の……?」
ウルリヒ・ブラオエルシュタインは、クリスティーナにとって祖父の叔父にあたる人物だ。亡くなって久しいが、かなり高齢まで存命していた。
(カイ・デルプフェルト……)
義母の甥の顔が脳裏をよぎる。龍は一体何がしたいと言うのか。そこに意味など見出せなくて、クリスティーナはそれ以上の言葉を失った。
だが何が視えようと、その託宣を回避することも、見届けることも、今の自分にはできはしない。
国の平和を守るための安寧の標、それが龍の託宣だ。視たくもないものを見通す力を、この身に与えたのもまた龍だ。
慈悲深き存在は、どこまでも正しく、どこまでも理不尽で。無責任だからこそ、すべてに対して平等でいられるのか。
答えのない問答は意味をなさない。そう思って考えないようにしてきたことが、今さらのように湧いて出る。
(間もなく時は満ちるのだから――)
瞳を伏せ、言い聞かせるように自ら思考を遮った。
夕暮れの迫る王都の街並みを、いつものようにクリスティーナは、窓から遠く見下ろした。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。深い瞑想に入るたびに、国の核心に近づくハインリヒ王子。真実を知るディートリヒ王から、答えを得ることはできなくて。苦悩する王子をなんとか癒そうと、アンネマリーが頑張ります!
次回4章第12話「受け継ぎし者 -前編-」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
白の夜会の休憩室で、酔った貴族に襲われそうになったエラは、仮面をつけた謎の青年に助けられます。その正体はエーミールの兄エルヴィンで。
一方、グレーデン家の不正を暴くため、令嬢カロリーネとして捜査をしていたカイは、そのエルヴィンと一触即発に。逆に窮地に立たされ、ジークヴァルトの控室へと逃げ込むカイ。そこにいたリーゼロッテの規格外の力に改めて驚きつつも、龍の思惑に思いを馳せます。
白の夜会も終わり、日々の公務に追われるハインリヒ王子。王位継承の日は刻一刻と近づくのでした。
「オエオッオーっ!!」
マンボウの雄叫びが窓の外に響く。すぐさま身を起こし、リーゼロッテはカーテンを一気に開けた。
眼下にはうっすらと霜の降りた庭が広がっている。やわらかい朝日を浴びながら、マンボウが再び喉を反り返らせて、声高らかに雄叫びを響かせた。
「おはよう、マンボウ」
「オエーっ」
白い息を吐きながら二階のテラスから声をかけると、マンボウはすぐさま挨拶を返してきた。
(やっぱり朝はこうでなくちゃ)
公爵家に戻っていた間は、マンボウがいなくてなんだか物足りなく感じていた。しかし枕元で鶏を放すわけにもいかない。早くに目が覚めても、エラに起こされるまでおとなしく横になっていたリーゼロッテだった。
(お酒を口にした次の日だけは、遅くまで寝てしまったけれど)
東宮で早寝早起きが習慣化していたリーゼロッテにしては、めずらしくゆっくりな起床だった。アルコールを飲んだ翌日はいつもそうだ。目覚めた後もしばらくぼんやりとしてしまう。
(あの夜、なんだかすごい夢を見たのよね……)
断片的に残っているその夢を思い出して、リーゼロッテはひとり顔を赤らめた。
夢の中、リーゼロッテはジークヴァルトといやらしいキスをした。夢だというのにあまりの気持ち良さに、おかしな声まで上げていたのではないだろうか。
(わたしってば欲求不満なのかしら……)
とてもではないが口には出せない痴女ぶりだ。
頬の熱を引かせるために、冷たい水で顔を洗う。再び自分ひとりでやらなくてはいけない生活に戻ったのだ。エラを泣かせないためにも、これからはサボらず肌の手入れもしなくては。
着替えを済ませると、廊下に人の気配がした。声掛けもなくその人物はすぐ去っていく。
完全に気配がなくなったのを確かめて、リーゼロッテはそうっと扉を開けた。廊下には朝食の乗ったワゴンが無造作に置かれている。リーゼロッテの二度目の来訪に、ヘッダの態度はますます冷たいものとなっていた。
(食事を運んでもらえるだけでも、ありがたく思わないとだわ)
「いただきます」
いつものように手を合わせてから、リーゼロッテはひとりきりの朝食を味気なく頂いた。
◇
ごくりと喉を鳴らして一歩を踏み出す。今日もあの恐怖を味わうのだ。
鶏の嘴は思いのほか鋭く痛い。凶器といっていいほどの威力を持つが、アイツは怪我をしないギリギリを狙ってきているようだった。それは手加減などではなく、獲物をいたぶる感覚なのだとマルコは確信をもって感じていた。
「ああ、東宮はやはり青龍の神気に満ちていますね。何度来ても心地よい」
前を歩くのは、本来なら自分など話もできない偉い人だ。次期神官長候補として名が挙がっているほど、実力のある神官だった。
「では、マルコさん。わたしの用事が終わるまで、あなたはまた散歩でもしていてください。できるなら立場を変わってほしいものですね。わたしも時間さえあればゆっくりとこの庭を散策できるのに」
「ははは……」
思わず乾いた笑いが漏れてしまった。この神官、レミュリオと一緒にいるときは、あの悪鬼のような鶏は姿を現さない。マルコがひとりきりになった途端、いつもどこからともなくやってくるのだ。
東宮の高い建物へと向かうレミュリオの背を見送った。彼は目が見えないはずなのに、迷いのない足取りは、全くと言っていいほどそのことを感じさせなかった。
『この世は波動の世界ですから』
いつだか尋ねた時に、レミュリオはそう言っていた。
すべての物が光を放ち、目は見えなくともそれを余すことなく感じ取れるのだと。そして、何もない空間でさえ何かしらに満たされていて、絶えず振動し共鳴し合っているのだと、レミュリオはそうも教えてくれた。
彼の言葉は難しすぎて、マルコには少しも理解はできなかった。ただレミュリオは本当にすごいひとなのだと、畏怖にも近い感情を抱いてしまった。
(ミヒャエル様の方がボクは好きだったな……)
本神殿に来てはじめて親しくなった神官だった。世話係として配属されたが、怖いひとのようでいて、どこか寂しいひとに思えた。いつも叱られてばかりだったが、ミヒャエルはなんだかんだ言ってマルコのことを気にかけてくれていた。
それが急に世話係を辞めさせられてしまった。ちゃんと食事は取れているだろうか。ずっと体調が悪そうにしていたので、ミヒャエルがどうしているのか今でも心配しているマルコだ。
近くの茂みががさりと鳴った。夜にだけ降った雪の名残が、不自然に葉からふるい落とされていく。はっとして逃げる方向を考えた。アイツは基本、一直線に向かってくる。痛い思いをしないためには初動が肝心だ。
「オエーっ!!」
翼を広げ躍り出てきた鶏を躱し、逆方向へとひた走った。まっすぐ逃げると背後を狙われるだけなので、植木を避けながらとにかく不規則に逃げ回る。
「オエーオッオッオ、オエーっ!!」
真っ赤な鶏冠を左右に揺らし、鶏はどんどん距離を詰めてくる。顎にぶら下がる肉垂がぶるんぶるんと躍る様は、マルコの目にはただの恐怖映像にしか映らなかった。
「マンボウ、駄目よ! マルコ様、お早くこちらへ」
二階のテラスから、あの令嬢の声がした。手すりから身を乗り出して、マルコに向かって手招きをする。
建物の少し離れたところに生える大木を目指して、マルコは脇目もふらずにダッシュした。勢いのまま木の幹に跳びついて、枝に積もる雪を振り落としながら、上までするすると昇っていく。
太めの枝に移動して、座りがいいところでほっと息をついた。見下ろすと、悔しそうに鶏が地面をうろうろと歩き回っている。
あの日と同じ、枝とテラスの遠い距離感で、マルコは令嬢と目を合わせた。こちらの無事を確認したのか、令嬢は安堵の表情になる。
その瞬間、羽ばたきの音と共に、鶏がテラスの手すりへと飛んできた。すぐさまこちらに向き直り、令嬢を守るように翼を大きく広げて威嚇してきた。
「マンボウ、心配しなくても大丈夫よ。あの方はちゃんとした神官様だから」
安心させるように背を撫でると、マンボウと呼ばれた鶏はおとなしく羽を閉じた。だが太眉をキリリとさせて、眼光鋭くマルコを睨みつけてくる。
「マルコ様、ごきげんよう。今日はお怪我などなさっていませんか?」
「は、はいっ、リーゼロッテ様のおかげで、一直線に木に登れましたので」
「ならよかったですわ」
やわらかい笑みを向けられて、頬に熱が集まった。彼女は今まで会った誰よりも綺麗な女の人だ。恥ずかしくて思わず顔をそらしてしまう。
「今日もお供でいらっしゃったのですか?」
「はい……ボクはまだまだ半人前なので、やっぱり中には入れてもらえなくて……」
ここは第一王女が住まう場所だ。レミュリオが言うには青龍の加護が厚く、聖地のようなところであるらしい。だがマルコには神気などまったく感じ取れない。ただ白い悪魔が襲ってくる呪われた地なだけだ。
(あの鶏は王女様が可愛がっているそうだから……)
変にやり返して怪我を負わせることもできなくて、ただ逃げ回るしかないマルコだった。でなかったらとっくに絞めて、シチューの具材にしているところだ。と言っても神殿に籍を置いたマルコは、二度と肉を口にすることはないのだが。
そんなことを考えながら睨み返すと、怯えたように鶏は「オエッ」と令嬢にすり寄った。安全地帯では怯む理由は何もない。
「どうしたの? 走り回って疲れてしまった?」
労わるように白い手が鶏の背を撫でていく。あんなにやさしく触れられたら、さぞかし気持ちいいことだろう。見とれるようにその動きを目で追っていると、突然吹いた風がこの枝を大きく揺さぶった。
「ああっ」
「マルコ様……!」
慌てて伏せるように座る枝にしがみついた。しなりながら揺れる動きに目が回ってくるが、翻弄されるまま何もできない。令嬢は鶏を守るように抱きしめている。緩く編まれた三つ編みが風に踊って、この突風の強さが見て取れた。
ほどなくして吹き止んだ風に胸を撫でおろす。揺れがおさまるのを待って、やっとの思いで身を起こした。
「いたっ」
走った痛みに顔をしかめる。指先に小さな木片が刺さっていた。思わずそれを引き抜くと、ぷくりと膨れ出た血液が丸い玉を作った。
「マルコ様?」
気づかわしげな声を聞きながら、途端に冷や汗が吹き出した。
マルコの両親はクマに襲われ、この目の前で殺された。赤い血は否応なしにそのことを思い出させる。
限界まで達した赤い球体が、崩れて指を伝いそうになる。震えが止まらない指先を、マルコは咄嗟のように咥えこんだ。
(あの時と同じ味がする――)
襲われた瞬間が、今その場にいるかのように、目をつむった世界にありありと映し出される。振り上げられた毛むくじゃらの腕。まるで熟れた果実のように、父親の頭はそのひと振りで薙ぎ払われた。
「マルコ様……!」
ふわっとあたたかい風がマルコを包んだ。続けざま、しゅっ、しゅっとやさしい風は吹く。
涙のにじむ瞳で見上げると、令嬢が身を乗り出すようにこちらへと手を伸ばしていた。香水瓶を掲げ、その中身を再びひと吹きさせる。
(あったかい)
まるで春風のようだった。日いち日と陽が伸びて、草木が芽吹くよろこびの風だ。
「お怪我をなさったのですね? ああ、ここからでも届くかしら」
何度も押すうちに、瓶は空になったようだ。カスカスと鳴る音に、令嬢は慌てて中身を確かめた。
「あの、それは……?」
「こちらは、その、よく効く秘伝の傷薬ですわ。もっと近くで掛けて差し上げたいのだけれど……」
そう言われて指先に視線を落とす。さっきまであった深い刺し傷が、きれいさっぱり消えていた。
「いえ……ちゃんと届いたみたいです」
放心したように言う。信じられないが、痛みももうまるでない。口の中に残っている血の味も、なんだかほんのり甘く感じられた。
「まあ! それはよかったですわ」
「あの、そんな貴重なものを使わせてしまって、本当にすみませんでした」
貴族の使う秘伝の傷薬を、平民出の自分に使うなどあり得ない。後で金を要求されたとしても、今のマルコには支払うことはできないだろう。
「そんなことお気になさらないでくださいませ。すぐに手に入る物ですから、心配はご無用ですわ」
向けられた笑顔を、遥か遠い存在――まるで慈悲深い女神を見るかのように、マルコはぼんやりと眺めていた。彼女はきっと、理不尽な運命に打ちのめされたことなどないのだろう。裏表のない無垢な瞳が眩しくて、目を逸らしたいのに逸らすことができなかった。
「マルコさん、どこですか?」
遠くからレミュリオの声がする。はっと庭の向こうに視線をやった。
「すみません、ボクもう行かなくちゃ」
木を降りかけて、もう一度令嬢の顔を見る。
「今日もいろいろと助けてくださってありがとうございました」
深く頭を下げると、今度こそ木を降りた。二度とここには来てはいけない。なぜだかそんなふうに思った。
一度も振り返らずに、マルコはその場を走り去った。
◇
「ね、話した通りだったでしょう?」
「はい、あんなに大きな声で鳴かれると、本当にびっくりいたしますね」
東宮のリーゼロッテの部屋で、エラはテラスの外を見やった。白の夜会も終わり、季節はもう冬へと移ろおうとしている。東宮は王都より高い山あいにあるため、ちらつく雪の回数も多いように感じられた。
「ここはなんだかさびしい場所ですね。こんなところでお嬢様が、おひとりで過ごされていたのかと思うと……」
「今はこうして一緒にいてくれているわ。わたくしのためにありがとう、エラ」
無事に準女官試験に合格したエラは、リーゼロッテの後を追って東宮へとすぐさま向かった。試験は思うほど難しくなく、常識的な設問ばかりで拍子抜けしたほどだ。女官長との面接はさすがに緊張したが、なんとか試験を切り抜けたエラだった。
「あの……お茶が入りました」
おずおずと会話に入ってきた赤毛の令嬢が、ティーカップを差し出してくる。
「ありがとうございます、ルチア様」
笑みを返し、エラとともにひと口含んだ。ふたりして微妙な顔になる。
「どうですか……?」
「ルチア様はもう少しお勉強なさった方がよろしいですね」
「ごめんなさい、わたしこういうのほんと苦手で……」
「でもわたくしが淹れるよりずっと美味しいですわ。どうしても渋くなってしまうから、上手に淹れるコツが知りたいと思って」
「お嬢様は覚える必要はございません」
エラにきっぱりと言われ、リーゼロッテは少し残念そうに微笑んだ。
「いつもやってもらってばかりで申し訳ないわ」
「お嬢様は公爵夫人となられる方です。身の回りのお世話はわたしにお任せください」
「そうね、いつもありがとう、エラ」
もうひと口紅茶を含むと、ルチアが抱えていたお盆を胸にぎゅっと抱きしめた。
「あの、無理に飲まなくても」
「いいえ、せっかくルチア様が淹れてくださったんですもの」
「ルチア様もおかけになって、どうぞお召し上がりください。ご自分の進歩を自らお確かめになるのも、勉強のうちのひとつです」
「エラはずいぶんと厳しい先生ね」
「こういったことは初めが肝心です。一度身についてしまうと、直すことが難しくなりますから」
ルチアはしゅんとした様子で紅茶に口をつけ、やはり微妙な顔になる。
「やっぱり無理に飲まない方が……」
「そう思われるなら、次こそは美味しく淹れましょう」
「はい、エラ先生」
そんなやりとりにリーゼロッテはくすくすと笑ってしまった。ずっとひとりきりで過ごしていた東宮で、おしゃべりできることがたのしくて仕方がない。
準女官試験に合格したエラと共に、ルチアがやってきたことに初めはすごく驚いた。ルチアはブルーメ子爵家に今年養子に入った市井出身の少女だ。だがその容姿は王族を思わせて、おそらく王家の血を引く者の落とし胤なのだろうと、リーゼロッテはそう推測していた。
「ですがルチア様は、歴代最年少で準女官試験に合格したそうですから、もっと自信をお持ちになってください」
そう言うエラは男爵家で初めての合格者だ。今まで子爵家以上の人間しか試験を受けることがなかったらしい。
エラはカイに頼まれて、ルチアに侍女としての振る舞いや心構えを教えている。準女官試験を一緒に受けたのもその一環だった。カイがなぜルチアを気にかけているのか、エラには理由は分からない。だが推薦状を書いてくれた恩義には、きちんと報いるべきだ。
「とはいえルチア様は子爵家のご令嬢ですから、礼儀作法程度でも大丈夫でしょうし」
「いえ! わたしちゃんと独り立ちできるよう、きちんと仕事を覚えたいです! いつ放り出されるか分からないから……」
慌てて言ったルチアに、リーゼロッテとエラは目を見合わせた。ルチアはやはり自分の出自を知らされていないのかもしれない。
平民として育ち、いきなり子爵家に迎え入れられたのだ。唯一の肉親だった母親にも先立たれて、不安に思う気持ちはよく分かる。そこに来てフーゲンベルク家に行かされたり、ここ東宮に連れて来られたりで、環境の変化についていくのがやっとだろう。
「何かお困りのことがあったら、遠慮なくおっしゃってくださいませね」
「い、いえ、そんな恐れ多い」
「そんなふうにおっしゃらないで。わたくしたちお友達でしょう?」
相変わらずやさし過ぎるリーゼロッテに、エラは複雑な笑みとなる。そんなリーゼロッテが心配でもあり、誇らしくもあった。
「わたしも微力ながら、ルチア様のお力にならせてください」
「おふたりとも……ありがとうございます」
はにかんでルチアは、少しだけうちとけた笑顔を見せた。
◇
「やっといなくなったと思ったのに……」
「リーゼロッテ様のことですか?」
つい漏れ出た言葉を、アルベルトに聞かれてしまった。ヘッダはしまったという顔をして、なんとか取り繕う言葉を探そうとした。
「今回はあちらから侍女を連れてきたそうではないですか。ヘッダ様のご負担が軽くなって何よりです」
「……それはそうなのですが」
これ見よがしにふたりも侍女を連れてきたことも、嫌味のようでおもしろくない。王女にすら自分ひとりしかついていないのにだ。
「それはさておき、お加減はいかがですか? この冬も寒さが増しそうですので、おつらいときは遠慮せずおっしゃってくださいね」
「いえ、最近はずいぶんと調子もいいですので」
「クリスティーナ様も気にかけていらっしゃいます。先日のようにお倒れになる前に、きちんと自己申告なさいますよう、わたしからもお願い申し上げておきます」
王女を盾に取られては素直に頷くしかない。ヘッダは子供のころから持病があり、発作を起こすことがよくあった。生まれた当初から成人まで生きられないと、医師に言われてきたこの身だ。
そんな自分が王女の役に立てるのだと思うと、それが何より誇らしい。クリスティーナはヘッダのすべてだ。クリスティーナがいるから生きながらえている。それは誇張などではなく、ヘッダにとっては事実以外の何ものでもなかった。
「……あんな女、今すぐ死んでしまえばいいのに」
「ヘッダ様、滅多なことをおっしゃるものではありません」
窘められるように言われ、ヘッダはアルベルトを睨み上げた。
「貴方はどうしてそう冷静でいられるのですか……! あの女に一体どんな価値があると言うのです! クリスティーナ様より尊い存在などと、わたくしは絶対に認めませんわ!」
そこで言葉を切ると、ヘッダは苦しそうに胸を押さえた。途端に脂汗がにじみ出てきて、震える手つきで常備薬を飲みくだした。
アルベルトに支えられ椅子へと座る。そのまましばらく背中をさすられて、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「ヘッダ様……それを決めるのはわたしどもではありません。今の言葉は聞かなかったことにします。クリスティーナ様のご意向に沿わないことを、どうぞこれ以上は口になさらないでください」
淡々と言われ、アルベルトの手を振り払うように部屋を飛び出した。悔しくて仕方がない。あの令嬢さえ現れなければ、この平穏な日々はこれからもずっと続くはずだったのに。
荒い息のまま寒い廊下で壁に寄りかかった。ふとたのしげな会話が耳に届く。厨房から聞こえてくるその声は、使用人だけではないようだ。耳をそばだてるまでもなく、それがリーゼロッテのものだとすぐに気がついた。
使用人にねぎらいの言葉をかけ、それを受けた者もまんざらではないように受け答えをしている。長年顔を合わせる使用人たちと、ヘッダは気安く会話をしたことなどない。いつでも事務的な連絡事項を伝えるだけだ。
どっと笑いが起こる。リーゼロッテを囲んで、誰もがしあわせそうな顔をしていた。そこだけが眩しく輝いているようで、ヘッダは逃げるようにその場を離れた。
行き場のない怒りに、にじむ涙を抑えきれない。クリスティーナにいつ呼ばれてもいいように、平静を保たねばならないと言うのに。
震える息を吐き出しながら、ヘッダは痛む胸に、両の手のひらを押しつけた。
◇
「リーゼロッテは侍女をふたり連れてきたのですって?」
「はい、ひとりは以前から侍女をしている男爵令嬢とのことですが、もうひとりはまだデビューも済んでいない子爵家のご令嬢のようですね」
「そう……その年で準女官だなんて珍しいわね」
「顔を見るくらいはなさいますか?」
「そうね、暇つぶしに会ってみようかしら」
頷くとアルベルトは部屋を出ていった。しばらくしてノックと共に、緊張した面持ちの令嬢がひとり現れる。
「こちらはエデラー男爵令嬢です。もうひと方は階段を昇るのに苦慮されておりますので、わたしはいま一度迎えに行ってまいります」
いつになく硬い表情のアルベルトが出ていくと、残された男爵令嬢が礼を取った。
「エラ・エデラーでございます。お召しにより参上いたしました」
「あらあなた、もしかしてあの時の……? いいわ、顔をお上げなさい」
エラをまじまじと見やり、クリスティーナはくすりと笑った。
「やっぱり。あなた、もう相手を選んだようね?」
「あの……恐れながら、王女殿下のおっしゃることがわたしにはよく理解できません」
戸惑うように返したエラに、クリスティーナは少し意外そうな顔になる。
「リーゼロッテはわたくしの正体を話してはいないのね」
「王女殿下の正体……?」
「あなた去年の今頃、エーミール・グレーデンと共にわたくしの元へと来たでしょう? ほら、こうすれば思い出すのではなくて?」
クリスティーナはリーゼロッテの目の前でやって見せたように、貴族街の聖女の動きを再現した。はっと息を漏らし、エラは驚き顔となる。
「そんな、まさか……」
「そのまさかよ。あの日、わたくしが伝えた言葉を覚えていて? あなたは三人の内から必ずひとりを選び取ると」
「覚えてはおりますが……ですがわたしは」
「そう……まだ自覚はないようね。でもあなたはもう、選んだ道を進んでしまっている。後戻りはできないほどに」
いまだ信じられないといったエラを見やり、クリスティーナは菫色の瞳を細めた。
「分かるときが間もなく来るわ。宿世とは逆らえぬ深き業。どの道を辿ろうとも行く先はただひとつ……」
そのタイミングで再び扉が叩かれた。
「あなたはもういいわ。リーゼロッテの元にお戻りなさい」
「では御前失礼させていただきます」
エラが部屋を辞し、入れ替わりのようにアルベルトが現れた。先ほども思ったが、彼らしくない硬い表情を浮かべている。
「クリスティーナ様、こちらは……ブルーメ子爵令嬢でございます」
「あ、あのっ、ルチア・ブルーメでござい、ますっ。お召しにより、参上いたしまし、たっ」
息も絶え絶えに礼を取った赤毛の令嬢に、クリスティーナは息を飲んだ。その瞬間、目の前が光の渦に包まれる。
(――夢見の力が)
いつも前触れなく訪れる光に、クリスティーナはただ身をまかせるしかない。押し寄せる映像が洪水のごとく頭を満たして、身が消えゆくような浮遊感を覚えた。
「クリスティーナ様……!」
アルベルトに支えられていることに気づき、はっと意識を取り戻した。どんなに長い夢見を視ようとも、周囲の人間にしてみれば一瞬すら経ってはいない。
「大丈夫よ、アルベルト」
その腕から離れると、クリスティーナは目の前にいるルチアをじっと見つめた。鮮やかな赤毛に金色の瞳。色彩だけでなくその顔立ちは、父王ディートリヒや妹姫のピッパと恐ろしいほどよく似ていた。
紛れもなく王族の血を引く少女。龍が課した運命を、クリスティーナは夢見の中に垣間視た。
「もういいわ……お下がりなさい」
「仰せのままに」
整わない息のまま、ルチアはほっとしたように部屋を出ていった。アルベルトが声をかけるまで、クリスティーナは閉じた扉をじっと見つめたままでいた。
「クリスティーナ様……彼女は……」
「ええ、そうよ。あの娘、ウルリヒ様の娘だわ」
「ウルリヒ様の……?」
ウルリヒ・ブラオエルシュタインは、クリスティーナにとって祖父の叔父にあたる人物だ。亡くなって久しいが、かなり高齢まで存命していた。
(カイ・デルプフェルト……)
義母の甥の顔が脳裏をよぎる。龍は一体何がしたいと言うのか。そこに意味など見出せなくて、クリスティーナはそれ以上の言葉を失った。
だが何が視えようと、その託宣を回避することも、見届けることも、今の自分にはできはしない。
国の平和を守るための安寧の標、それが龍の託宣だ。視たくもないものを見通す力を、この身に与えたのもまた龍だ。
慈悲深き存在は、どこまでも正しく、どこまでも理不尽で。無責任だからこそ、すべてに対して平等でいられるのか。
答えのない問答は意味をなさない。そう思って考えないようにしてきたことが、今さらのように湧いて出る。
(間もなく時は満ちるのだから――)
瞳を伏せ、言い聞かせるように自ら思考を遮った。
夕暮れの迫る王都の街並みを、いつものようにクリスティーナは、窓から遠く見下ろした。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。深い瞑想に入るたびに、国の核心に近づくハインリヒ王子。真実を知るディートリヒ王から、答えを得ることはできなくて。苦悩する王子をなんとか癒そうと、アンネマリーが頑張ります!
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