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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣
第6話 巫女の神託
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【前回のあらすじ】
イジドーラ王妃の命を狙うミヒャエル司祭枢機卿は、あわやというところでカイに取り押さえられます。歪んだ愛に苦しむミヒャエルは、自分の命を王に乞うイジドーラの姿に涙して。
何事もなかったかのように始まった王妃の誕生日を祝う夜会で、リーゼロッテはジークヴァルトとしあわせな時間を過ごします。
帰りの王城の廊下で、リーゼロッテは神官長に新たな神託が降りたことを告げられるのでした。
翌朝、早い時間に支度をさせられ、リーゼロッテは王城から東宮へと移動した。王家の馬車を使ったが、そこにジークヴァルトの姿はなかった。
到着するなり部屋のひとつに通されて、放置されたまま小一時間は経つ。不安しか込み上げてこなくて、窓もない部屋の中をリーゼロッテは落ち着きなく歩きまわっていた。
(どうしてここに連れてこられたのかしら……)
神官長が言うには、シネヴァの森にいる巫女に、新たな神託が降りたとのことだった。「託宣」は生まれた時に龍から賜るもので、受けた者の証が龍のあざだ。それとは別に、その時々で降りる龍の意思を、この国では「神託」と位置づけている。
これからは東宮で暮らすように。とにかくその一点張りだった。詳しいことは王女から言葉がある。それだけ言って神官長は行ってしまった。
本当にあれよあれよという間のことだった。ジークヴァルトと引き離され、夕べは隔離するように部屋の前に見張りが付いた。
胸元に手を伸ばすも、そこにジークヴァルトの守り石はない。夜会の時はいつも外して、部屋の引き出しにしまってあった。どうして持ってこなかったのだろうと、そんな後悔が湧いてくる。
ふと部屋の外で人の気配がした。ノックの音に返事をすると、やってきたのはひとりの男だった。年にして二十代後半くらいだろうか?
「お待たせして申し訳ございません。王女殿下がお会いになられます。どうぞこちらへ」
落ち着き払ったその様子に、リーゼロッテも少しだけ冷静さを取り戻した。
「あの、あなたは……?」
「これは失礼いたしました。わたしの名はアルベルト・ガウス。クリスティーナ様の従者兼、護衛騎士を務めさせていただいております」
「では王女殿下というのは、クリスティーナ様のことなのですね?」
「その通りでございます。突然のことで戸惑っておいででしょう。詳しくはクリスティーナ様からお話がありますので、ご案内させていただきます」
連れられるままリーゼロッテは部屋を出る。この東宮は屋敷というより塔のような外観だった。ひとつのフロアはそれほど広くないようで、アルベルトは中央にある螺旋状の階段に向かって進んでいく。
「王女殿下は最上階におられます。どうぞ足元にお気をつけてお昇りください」
見上げると、果てしなく続いていそうな階段だ。昇り始めてすぐに息が切れてくる。だが疲れたと拒否できる雰囲気でもなかった。王女の呼び出しとあれば、這ってでも行かなくてはならないだろう。
(なんだか王城で見た夢を思い出すわ)
守護者である聖女の力が異形たちを天へと還した日、夢の中でこんなふうに階段を何段も昇った。
(あの日は大きな荷物を持っていたから、今日はまだましかしら……?)
気を紛らわすようにそんなことを思う。笑う膝を誤魔化しながら、リーゼロッテはなんとか上まで昇りきったのだった。
◇
通された部屋では、プラチナブロンドの美しい女性が待っていた。ハインリヒ王子に似た顔立ちで、だがその瞳は王子よりも青みの深い紫をしている。
手にしていた丸い何かをテーブルに置くと、女性は静かに立ち上がった。それはスノウドームのようで、中で白い雪が対流するように舞っている。
「クリスティーナ様、リーゼロッテ・ダーミッシュ様をお連れいたしました」
「王女殿下、お初にお目にかかります。お召しにより参上いたしました」
王族に対する最大級の礼を取る。すぐにひそやかな笑い声が王女の口から漏れて出た。
「そんなにかしこまらなくていいから顔をお上げなさい。それに初めましてではないのだけれど。わたくしとも、アルベルトともね」
「え……?」
そう言われても、過去に第一王女と会った覚えなどない。だが王女の言うことに異議を唱えることもできず、リーゼロッテはなんとか記憶を辿ろうとした。
「クリスティーナ様……」
咎めるようなアルベルトの呼びかけに、クリスティーナは鈴やかな笑い声をあげる。
「そうね、分からなくても仕方ないわ。でもこうすれば、あなたも思い出すのではないかしら?」
そう言って王女は、肩にかけていた白いショールをヴェールのように頭にかぶった。次いで置かれたスノウドームの上で、交差するように指を滑らせる。
右手に飾られたハンドチェーンの輝石が、美しくきらめきを返す。その姿はまるで水晶を覗く占い師のようで、手の動きを目で追いながら、リーゼロッテは思わず大きな声をあげてしまった。
「貴族街の聖女!?」
「思い出してもらえたようね、貴族のお嬢様」
いたずらな笑みを向けられて、リーゼロッテは不敬になるのも忘れ、王女の前でぽかんと口を開けた。ジークヴァルトに連れられて貴族街に出かけたときに、社交界で話題の占いを受けに行った。そのときに出会った占い師が貴族街の聖女だ。
「そんな……どうして」
「驚かれるのも無理はありません。あのような場所であのようなことをする王女など、前代未聞のことでございますから」
「ハインリヒの相手を探すためと言ったでしょう? 結局は役には立たなかったけれど」
くすくすと笑いながらクリスティーナは再びソファへと身を沈めた。リーゼロッテも座るようにと促される。
「急に連れてこられてたいへんだったわね。いつどんな神託が降りるかは、わたくしにも予測はつかないから」
「あの……王女殿下、なぜわたくしはここに呼ばれたのでしょうか? 神官長様からは新たな託宣が降りたとしか聞かされておりません」
神託だから東宮に住めと言われても、はいそうですかと納得できるはずもない。聞くべきことはきちんと聞かなくては。王女を前に委縮しそうになるのをなんとか堪えて、リーゼロッテはしっかりと顔を上げた。
「あなたに身の危険が迫っているからこの東宮で保護をしろ。神託の内容はそんなところね」
「え?」
「神託はシネヴァの森にいる巫女に降ろされる。それを受け取り、神殿に伝えるのがわたくしの役目よ」
シネヴァの森は北の最果てにある。昔から魔女が住むと言われる場所だ。不安げなリーゼロッテの顔を見て、クリスティーナは菫色の瞳をやさしげに細めた。
「大丈夫よ、ここは青龍の加護が厚いから、異形の者は入り込めないわ。それとも公爵がそばにいないのが不安なのかしら?」
いたずらな笑みを残しクリスティーナは立ち上がる。そのまま窓に近づき、外へと視線を向けた。そこには遠く見下ろす王都の街並みが広がっている。そのさらに奥に、高くそびえたつ王城がぼんやりと目に映った。
「今生の別れというわけではないから心配は無用よ。ここはお義母様の離宮と違って、ちゃんとした手続きを取れば、男も足を踏み入れることはできるから。明日にでもあなたに会いに来ると思うわ」
その言葉にほっと息をつく。そんな様子を王女はたのしそうに見やった。
「でも門番がすんなり通すかはわからないけれど」
「えっ!? 門番……ですか?」
「そうよ。ここには男には容赦しない恐ろしい門番がいるの」
王女を守るためだろうか? リーゼロッテが青ざめると、クリスティーナはさらにたのしそうな顔になる。
「その門番にお願いはできないのですか?」
「無理ね。話が通じるような相手ではないから」
「ええっ!?」
王女の命令を無視するなど、一体どんな門番だというのか。リーゼロッテは一瞬で涙目になった。
「確かに恐ろしい存在ですが、公爵様なら問題はないでしょう。アレは一度認めた人間には絶対服従しますから」
アルベルトの苦笑交じりの言葉に、安心していいのかが分からない。だがリーゼロッテは潤んだ瞳のまま、小さく頷き返した。
「それにしてもあの公爵を手玉に取るなんて……。貴族街でも驚いたけれど、今のあなたを見ているとよく分かる気がするわ」
「手玉だなんてそんな……」
夕べの夜会で王妃にも同じことを言われた。だがジークヴァルトへの思いに翻弄されているのは、むしろ自分の方だ。
「そう、自覚はないのね。明日、彼が来るのがたのしみだわ」
「クリスティーナ様」
アルベルトが再び咎めるように言う。王女は悪びれもせず、ころころと耳に心地よい声で笑った。
◇
小鳥たちのさえずりの中に、コッコッコ、と鶏の鳴く声が混じる。続けてコケコッコーと雄鶏が鳴き始めた。結構な音量だ。まだ眠っていたくて、リーゼロッテは上掛けの毛布にもぐるように寝返りを打った。
それでも鶏の声は耳に入ってくる。飽くことなく繰り返される鳴き声に、リーゼロッテの眉間にはうなされるようにしわが刻まれた。
「オエオッオーっ!!」
駄目押しのごとく野太い声が響く。オの字に濁点でもついていそうな雄叫びに、リーゼロッテは堪らずがばりと身を起こした。
(うるさくて眠れないっ)
寝台から降りて、小さなテラスの扉を開けた。初秋の肌寒い早朝の空気に身が震える。羽織ったショールの中で体を小さくしながら庭を見下ろした。
東宮であてがわれたのは二階にある部屋だ。この塔は五階建てで、王女は普段最上階で過ごしているらしい。
朝露が揺れる整えられた庭には、何羽かの鶏がいた。時折地面を啄みながら、あちらこちらへと歩き回っている。
「オエオッオーっ!!」
中でもひと際大きな鶏が、声高らかに空に向かって喉元を反り返らせる。先ほどの雄叫びはあの雄鶏のようだ。立派な鶏冠が目に鮮やかで、寒さもあってリーゼロッテはすっかり目が覚めてしまった。
ここ二階からでは遠くまでは見渡せないが、広がる景色に王城から随分と遠くに来てしまったことが分かる。ここ東宮はその名の通り国の東に位置していた。王都より西にあるフーゲンベルク領とは正反対の場所だ。
「ジークヴァルト様……」
口にすると余計に会いたくなってしまう。王女は今日にでもジークヴァルトがやってくると言っていた。それを信じて待つしかないだろう。
部屋に戻り、用意されていた普段着のドレスに着替えた。侍女もいないのですべてひとりでやらなくてはならない。
(わたしは日本での記憶があるから平気だけど……)
もし正真正銘の深窓の令嬢だったら、何もできずに途方に暮れるに違いない。リーゼロッテの普段の生活は、本当に何から何まで人任せだ。それこそおはようからおやすみまで、何もしなくても一日を過ごせてしまう。
長い髪は自分ではどうしようもないので、ゆるい一本の三つ編みを作りサイドに流した。寝るときはいつもこうして編んでいる。起き上がるときに髪を自分で踏んづけて、痛い思いを何度もしたからだ。
太陽も大分高くなってきて、鶏の声も落ち着いた。ほっとしているときに、前触れなく部屋の扉が開かれた。ノックもなしに人が入ってきたことに、思わずびっくりしてしまう。
「あら、起きていらしたの」
冷たい声で言われ、文句を言い出すタイミングを逸してしまった。部屋に入ってきたのはエラと同じくらいの年齢の女性だった。着ているドレスからして未婚の令嬢のようだ。
「わたくしはヘッダ・バルテン。子爵家の人間です。普段はクリスティーナ様の侍女をしておりますが、今日からあなたのお世話もさせていただきます」
年上とはいえ、下位の令嬢にしては居丈高な態度に戸惑いしかおこらない。
「他にひともいないのでわたくしが選ばれました。仕方がないですけれど、やらせていただきますわ」
どうやら自分は歓迎されていないようだ。不本意なことを隠そうともしない態度を前に、リーゼロッテはおずおずと口を開いた。
「あの……大抵のことはひとりでできますので、その、どうしてもな時だけお願いしてもよろしいでしょうか」
「あらそう。そうしていただけると助かりますわ」
ちっとも感謝していない口ぶりで、ヘッダはワゴンに乗せた朝食を部屋の中心まで押していく。
「食べ終わったら廊下に出しておいてください」
それだけ言って挨拶もなしにヘッダは部屋を後にした。普段ならば使用人が給仕してくれる料理は、ワゴンに乗せられたままだ。
急におなかが空いてきて、リーゼロッテの腹の虫がきゅるると鳴った。夕べは疲れて食事もとらずに眠ってしまったことを思い出す。
(ふつうの令嬢なら、泣くか怒るかしているところかしら……でも、腹が減っては戦もできないわね)
手際よく料理をテーブルに乗せる。質素だが野菜中心の朝食は、リーゼロッテにしてもありがたいメニューだ。
「いただきます」
両手を合わせてからカトラリーを手にする。普段はしないことだが、なんとなくそうしてしまった。
(完全に誰もいない部屋で食事なんて、ほんと久しぶりね)
この世界に生まれて初めてのことかもしれない。そんなことを思いつつ、リーゼロッテは人目を気にせずマナーもへったくれもなしに、好きな順番で料理を頂いた。
◇
「リーゼロッテ」
「ジークヴァルト様!」
一階にある面会用の応接室で待っていると、すぐにジークヴァルトがやってきた。その顔を見て安堵のあまり涙が浮かんでくる。駆け寄って思わずその胸に飛び込んだ。
背中のシャツをぎゅっと掴むと、応えるように強く抱きしめ返してくる。
「不自由はないか?」
「……はい、とてもよくして頂いておりますわ」
連れてこられたこと以外は特に不満もないので、そうとだけ答えた。あたたかい場所で眠れ、美味しいご飯も出してくれる。世話をする侍女がいなくても、それだけあれば十分すぎるというものだ。
ジークヴァルトがやさしく顔を撫でてくる。その大きな手のひらに、リーゼロッテは甘えるように頬ずりをした。
「では、一時間後にまた参ります」
アルベルトの声にびくりと体が跳ねる。ここはフーゲンベルクの屋敷ではない。人様の家で一体何をやっているのかと、リーゼロッテは慌てて離れようとした。しかし逆に引き寄せられ、もっときつく抱きしめられてしまう。
「どうぞごゆっくり」
笑いを含んだような言葉に頬が熱くなる。扉を開けたままにして、アルベルトは部屋から出ていった。婚約者とは言え自分たちは未婚の男女だ。貴族の外聞を考えてのことだろう。
そうはいっても元々人の少ない東宮だ。ここに住んでいるのは王女とヘッダとアルベルトの三人だけで、ほかに通いの使用人が数人いるだけらしい。ふたり以外誰もいない部屋に残されて、耳に痛いくらいの沈黙が降りた。
無言のまま手を引かれ、リーゼロッテはソファへと座らされる。ジークヴァルト自身もその横へと腰かけた。
あーんと菓子を差し出され、リーゼロッテは条件反射のように口にした。もくもくと口を動かしながら、ジークヴァルトのためのクラッカーを探す。
だが用意されていたのは甘そうな焼き菓子ばかりだ。甘味が苦手なジークヴァルトに食べさせるのはためらわれて、リーゼロッテは伸ばしかけていた手を所在なげにひっこめた。
「オレの分は戻ってからでいい」
こなせなかったあーんのノルマは、翌日以降に繰り越されるシステムだ。何日分たまったかをジークヴァルトはいつも正確に数えているようだった。
「昨日の分だ」
そう言って再び菓子が差し出される。小さく開くと、菓子はやさしく口の中に押し込まれた。
「うまいか?」
「はい、とても美味しいですわ」
そのやりとりはいつもと変わりがなくて、ここが東宮だということを忘れてしまいそうだ。やはり自分が帰る場所はジークヴァルトの元なのだ。そう思うと切なく胸が締め付けられた。
「会いに来てくださって本当にうれしいです」
「ああ」
「ここまでどうやって来られたのですか?」
「馬を走らせた。馬車よりも早く着く」
「そうなのですね」
そこまで言ってリーゼロッテははっとした。
「ヴァルト様……門番は大丈夫でございましたか?」
「門番?」
「王女殿下がここには恐ろしい門番がいると」
「いや、そんな者はいなかったが」
「え? そうなのですか?」
アルベルトは公爵なら大丈夫だろうと言っていた。よくは分からないが、ジークヴァルトが無事ならそれでいい。
「だが鶏がいたな」
「そうなのです! わたくしも今朝、鶏の声に起こされて!」
今朝あったことを興奮気味に話す。あまりにも大きな鳴き声だったので、誰かに話したくて仕方がなかった。
「そうか」
ひと通り話し終えると、ジークヴァルトはふっと笑った。自分ばかりがしゃべり続けていたことに気づき、リーゼロッテの頬が赤くなる。
普段からジークヴァルトはあまり自分からは話さない。時々合いの手を返してくるだけで、いつもリーゼロッテの話を黙って聞いているだけだ。
(わたしだって声を聞きたいのに)
時間が来たら自分を置いて帰ってしまうのだ。そう思うと、もっとその声を聞かせてほしかった。
「ジークヴァルト様も何かお話しをしてくださいませ」
期待に満ちた視線を向けると、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。寡黙な彼は話題を探すのが苦手なようだ。無理難題を押し付けてしまったと思い、リーゼロッテはどうしようかと首を傾けた。
「でしたら、わたくしの名を呼んでくださいませんか……?」
自分の名前を口にするときのジークヴァルトが一等好きだ。まっすぐ目を見てこの名を呼んでくれる。そのときだけジークヴァルトを独り占めできたような気がして、リーゼロッテは何度でも呼んでほしいと思ってしまう。
「リーゼロッテ」
「もう一度」
「リーゼロッテ」
「もっと……」
「リーゼロッテ……」
切なくて、リーゼロッテは瞳を潤ませた。キスしてほしい。そんなふうに思うが、恥ずかしくて自分からは言い出せない。
その時に気がついた。いつもなら、隙あらば膝の上に乗せようとしてくるジークヴァルトが、適切な距離を保ったままでいる。それどころか髪にすら触れてきていなかった。
(そうか……ここは王女殿下の東宮だから……)
だがこの部屋には自分たちしかいない。公爵家ではいつでも使用人がのぞき見するように控えているが、今この場は本当にふたりきりだ。
(今だったらもっと触ってくれてもいいのに)
恥ずかしいから嫌だと言っても、いつもはぐいぐい来るくせに。そんなふうに思って、リーゼロッテはちょっと不満げに唇を尖らせた。
「どうした?」
「あ、いえ、何も」
触れてくれないから拗ねているのだとは言えず、リーゼロッテは慌てて首を振った。
(でもキス、したいな……)
自分から突然口づけたら、ジークヴァルトは驚くだろうか。女性は慎ましやかでいることを求められる貴族社会だ。そんなことをしては、はしたないと咎められてしまうかもしれない。
思えばキス以上のことは、されたことがないなとふと思う。唐突にされるのもあって、リーゼロッテはいつもそれだけで目を回してしまう。しかしジークヴァルトが溢れ出る力を導いてくれるおかげで、最近では気を失うようなこともなくなった。
(でも、呆れられていたらどうしよう……)
いちいち面倒くさいと思われても仕方がなかった。ジークヴァルトに嫌われたら、どうしていいかわからない。
「ジークヴァルト様……わたくし、ちゃんと力を扱えるよう頑張りますわ」
「お前はそのままでいいと言っただろう」
「ですが……」
顔を上げるとやさしく見つめ返される。ジークヴァルトが面倒くさいなどと思うはずはない。勝手に疑っている自分がなんだか嫌になってきた。
そっと髪を撫でられる。猫の子に触れるような手つきが心地よくて、リーゼロッテは目を細めた。ジークヴァルトの手つきに性的なものを感じたことはない。以前は子供扱いされているのだと思っていたが、両思いになった今でもそれは変わらなかった。
(もしかしてジークヴァルト様って、そういうことに淡白なのかしら……?)
男なら誰でもその手のことが好きというわけでもないだろう。自分に女としての魅力がないのなら、それは大問題ではあるが。
髪を梳かれながら黙って見つめ合っていると、ふいに扉が叩かれた。時計を見やると一時間経っている。ジークヴァルトはもう帰ってしまうのだ。しあわせな気持ちから一気に悲しくなって、リーゼロッテは小さく唇をかみしめた。
開きかけた扉からアルベルトの姿が見えた。と同時に腕を引かれて、突然ジークヴァルトに引き寄せられる。
「んんっ!?」
いきなり唇を塞がれた。うなじを固定され逃げることも叶わない。アルベルトが部屋に入ってくる。必死にジークヴァルトの胸を叩くが、口づけが深められただけだった。
「あっふ、んむぅ」
色気もない声が鼻から漏れて出る。
(見てる! めっちゃ見られてる!)
そんな脳内の叫びも熱い唇に絡めとられて、あっという間に消え去った。
「それくらいにしてあげなさい。リーゼロッテが窒息しそうよ?」
呆れたような王女の声に、ようやく唇が離れていった。くにゃりと力が入らない体は、ジークヴァルトに預けたままだ。
「公爵様、申し訳ありませんがお時間ですので」
「ああ」
立ち上がるとジークヴァルトはリーゼロッテの頭を撫でた。
「また会いに来る」
「あっ、ジークヴァルト様!」
あっさりと出ていこうとする後ろ姿を、追いかけようと立ち上がる。だがバランスを崩して倒れそうになった。後ろから支えられ、なんとかその場に踏みとどまる。
「無理はするな。ゆっくり休め」
顔だけ振り返ったジークヴァルトはそう言って、別れの余韻もなしにそのまま部屋を出て行ってしまった。
耳に入ってきた王女の笑い声に我に返る。
「申し訳ございません、わたくし……」
「いいのよ。言われた通りゆっくり休むといいわ。ヘッダ、部屋まで付き添ってあげて」
自分を支えているのがヘッダだということに気づき、リーゼロッテは慌てて寄りかかっていた体を起こした。
「仰せのままに」
ヘッダは嫌がることもなく、リーゼロッテの手を引き歩き出した。階段を昇るときも気遣うように支えてくれる。部屋に戻るまで、本当にやさしく付き添ってくれた。
「あの、ヘッダ様、ありがとうございます」
「クリスティーナ様のご命令だからよ。あなたのためではないわ」
最後に冷たく言うと、ヘッダはやはり挨拶もなしに出ていった。
しんと静まり返る部屋で、窓の外を見た。遠い街並みの向こうの空で、日が傾きかけている。ジークヴァルトはあの王都を越えて、フーゲンベルクの屋敷に帰っていくのだ。
(日が落ちる前に戻れるといいけれど……)
さみしさが胸いっぱいに広がった。泣きたくなって無意識に胸に手を伸ばす。ぎゅっと掴んだ確かな感触に、リーゼロッテは「あっ」と思わず声を上げた。
守り石のペンダントがこの胸に下げられている。いつの間に。そうは思ったが、いつといったら先ほど口づけられた時しかないだろう。
(よりにもよって、あのタイミングでキスするなんて)
急に恥ずかしさが込み上げてきて、違う意味で涙目になる。
ふたりきりの時間はもっとあったのに、どうしてあんなギリギリなのか。しかも濃厚なディープキスだ。それを王女たちにばっちり見られてしまった。
(穴があったら入りたいっ)
身もだえながらリーゼロッテは、力尽きるように寝台へと倒れ込んだ。
◇
「本当におもしろいものが見られたわね」
ころころと笑う王女にアルベルトが呆れた視線を向けた。
「一国の王女が他人の逢瀬をのぞき見するなど……悪趣味にもほどがあります」
「いいじゃない、ここは退屈でたまらないわ。なかなか手を出さないと思って見ていたけれど、公爵のあれはわざとでしょう?」
「何がわざとなのですか?」
ちょうど戻ってきたヘッダが不思議そうに問うと、クリスティーナは意味深に目を細める。
「公爵の話よ。あれは相当我慢しているわね。アルベルトが来た瞬間をわざわざ狙って口づけたのよ。そうでもしないと、自分を止められなくなるから」
「わたしには彼を止める自信はありませんね」
「それでも王女のわたくしに言われたら、さすがにやめざるを得ないでしょう?」
本当におかしい、そう言って王女は口元に手を当てた。
「それを笑うなど、一国の王女がすることですか」
「王女だろうとおもしろいものはおもしろいわ。アルベルト、あなたって本当につまらない男ね」
「従者におもしろみを求められても困ります」
動じた様子もなく、アルベルトはそっけなく言葉を返す。
「ほんと……つまらない男」
裏腹に口元に笑みを刻んで、クリスティーナはもう一度繰り返した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。東宮での生活にも慣れてきたわたし。それでもジークヴァルト様に会えない日々はさみしくて。そんなとき神官見習いの少年が、クリスティーナ様の元にやってきて……?
次回、4章第7話「夢見の少年」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
イジドーラ王妃の命を狙うミヒャエル司祭枢機卿は、あわやというところでカイに取り押さえられます。歪んだ愛に苦しむミヒャエルは、自分の命を王に乞うイジドーラの姿に涙して。
何事もなかったかのように始まった王妃の誕生日を祝う夜会で、リーゼロッテはジークヴァルトとしあわせな時間を過ごします。
帰りの王城の廊下で、リーゼロッテは神官長に新たな神託が降りたことを告げられるのでした。
翌朝、早い時間に支度をさせられ、リーゼロッテは王城から東宮へと移動した。王家の馬車を使ったが、そこにジークヴァルトの姿はなかった。
到着するなり部屋のひとつに通されて、放置されたまま小一時間は経つ。不安しか込み上げてこなくて、窓もない部屋の中をリーゼロッテは落ち着きなく歩きまわっていた。
(どうしてここに連れてこられたのかしら……)
神官長が言うには、シネヴァの森にいる巫女に、新たな神託が降りたとのことだった。「託宣」は生まれた時に龍から賜るもので、受けた者の証が龍のあざだ。それとは別に、その時々で降りる龍の意思を、この国では「神託」と位置づけている。
これからは東宮で暮らすように。とにかくその一点張りだった。詳しいことは王女から言葉がある。それだけ言って神官長は行ってしまった。
本当にあれよあれよという間のことだった。ジークヴァルトと引き離され、夕べは隔離するように部屋の前に見張りが付いた。
胸元に手を伸ばすも、そこにジークヴァルトの守り石はない。夜会の時はいつも外して、部屋の引き出しにしまってあった。どうして持ってこなかったのだろうと、そんな後悔が湧いてくる。
ふと部屋の外で人の気配がした。ノックの音に返事をすると、やってきたのはひとりの男だった。年にして二十代後半くらいだろうか?
「お待たせして申し訳ございません。王女殿下がお会いになられます。どうぞこちらへ」
落ち着き払ったその様子に、リーゼロッテも少しだけ冷静さを取り戻した。
「あの、あなたは……?」
「これは失礼いたしました。わたしの名はアルベルト・ガウス。クリスティーナ様の従者兼、護衛騎士を務めさせていただいております」
「では王女殿下というのは、クリスティーナ様のことなのですね?」
「その通りでございます。突然のことで戸惑っておいででしょう。詳しくはクリスティーナ様からお話がありますので、ご案内させていただきます」
連れられるままリーゼロッテは部屋を出る。この東宮は屋敷というより塔のような外観だった。ひとつのフロアはそれほど広くないようで、アルベルトは中央にある螺旋状の階段に向かって進んでいく。
「王女殿下は最上階におられます。どうぞ足元にお気をつけてお昇りください」
見上げると、果てしなく続いていそうな階段だ。昇り始めてすぐに息が切れてくる。だが疲れたと拒否できる雰囲気でもなかった。王女の呼び出しとあれば、這ってでも行かなくてはならないだろう。
(なんだか王城で見た夢を思い出すわ)
守護者である聖女の力が異形たちを天へと還した日、夢の中でこんなふうに階段を何段も昇った。
(あの日は大きな荷物を持っていたから、今日はまだましかしら……?)
気を紛らわすようにそんなことを思う。笑う膝を誤魔化しながら、リーゼロッテはなんとか上まで昇りきったのだった。
◇
通された部屋では、プラチナブロンドの美しい女性が待っていた。ハインリヒ王子に似た顔立ちで、だがその瞳は王子よりも青みの深い紫をしている。
手にしていた丸い何かをテーブルに置くと、女性は静かに立ち上がった。それはスノウドームのようで、中で白い雪が対流するように舞っている。
「クリスティーナ様、リーゼロッテ・ダーミッシュ様をお連れいたしました」
「王女殿下、お初にお目にかかります。お召しにより参上いたしました」
王族に対する最大級の礼を取る。すぐにひそやかな笑い声が王女の口から漏れて出た。
「そんなにかしこまらなくていいから顔をお上げなさい。それに初めましてではないのだけれど。わたくしとも、アルベルトともね」
「え……?」
そう言われても、過去に第一王女と会った覚えなどない。だが王女の言うことに異議を唱えることもできず、リーゼロッテはなんとか記憶を辿ろうとした。
「クリスティーナ様……」
咎めるようなアルベルトの呼びかけに、クリスティーナは鈴やかな笑い声をあげる。
「そうね、分からなくても仕方ないわ。でもこうすれば、あなたも思い出すのではないかしら?」
そう言って王女は、肩にかけていた白いショールをヴェールのように頭にかぶった。次いで置かれたスノウドームの上で、交差するように指を滑らせる。
右手に飾られたハンドチェーンの輝石が、美しくきらめきを返す。その姿はまるで水晶を覗く占い師のようで、手の動きを目で追いながら、リーゼロッテは思わず大きな声をあげてしまった。
「貴族街の聖女!?」
「思い出してもらえたようね、貴族のお嬢様」
いたずらな笑みを向けられて、リーゼロッテは不敬になるのも忘れ、王女の前でぽかんと口を開けた。ジークヴァルトに連れられて貴族街に出かけたときに、社交界で話題の占いを受けに行った。そのときに出会った占い師が貴族街の聖女だ。
「そんな……どうして」
「驚かれるのも無理はありません。あのような場所であのようなことをする王女など、前代未聞のことでございますから」
「ハインリヒの相手を探すためと言ったでしょう? 結局は役には立たなかったけれど」
くすくすと笑いながらクリスティーナは再びソファへと身を沈めた。リーゼロッテも座るようにと促される。
「急に連れてこられてたいへんだったわね。いつどんな神託が降りるかは、わたくしにも予測はつかないから」
「あの……王女殿下、なぜわたくしはここに呼ばれたのでしょうか? 神官長様からは新たな託宣が降りたとしか聞かされておりません」
神託だから東宮に住めと言われても、はいそうですかと納得できるはずもない。聞くべきことはきちんと聞かなくては。王女を前に委縮しそうになるのをなんとか堪えて、リーゼロッテはしっかりと顔を上げた。
「あなたに身の危険が迫っているからこの東宮で保護をしろ。神託の内容はそんなところね」
「え?」
「神託はシネヴァの森にいる巫女に降ろされる。それを受け取り、神殿に伝えるのがわたくしの役目よ」
シネヴァの森は北の最果てにある。昔から魔女が住むと言われる場所だ。不安げなリーゼロッテの顔を見て、クリスティーナは菫色の瞳をやさしげに細めた。
「大丈夫よ、ここは青龍の加護が厚いから、異形の者は入り込めないわ。それとも公爵がそばにいないのが不安なのかしら?」
いたずらな笑みを残しクリスティーナは立ち上がる。そのまま窓に近づき、外へと視線を向けた。そこには遠く見下ろす王都の街並みが広がっている。そのさらに奥に、高くそびえたつ王城がぼんやりと目に映った。
「今生の別れというわけではないから心配は無用よ。ここはお義母様の離宮と違って、ちゃんとした手続きを取れば、男も足を踏み入れることはできるから。明日にでもあなたに会いに来ると思うわ」
その言葉にほっと息をつく。そんな様子を王女はたのしそうに見やった。
「でも門番がすんなり通すかはわからないけれど」
「えっ!? 門番……ですか?」
「そうよ。ここには男には容赦しない恐ろしい門番がいるの」
王女を守るためだろうか? リーゼロッテが青ざめると、クリスティーナはさらにたのしそうな顔になる。
「その門番にお願いはできないのですか?」
「無理ね。話が通じるような相手ではないから」
「ええっ!?」
王女の命令を無視するなど、一体どんな門番だというのか。リーゼロッテは一瞬で涙目になった。
「確かに恐ろしい存在ですが、公爵様なら問題はないでしょう。アレは一度認めた人間には絶対服従しますから」
アルベルトの苦笑交じりの言葉に、安心していいのかが分からない。だがリーゼロッテは潤んだ瞳のまま、小さく頷き返した。
「それにしてもあの公爵を手玉に取るなんて……。貴族街でも驚いたけれど、今のあなたを見ているとよく分かる気がするわ」
「手玉だなんてそんな……」
夕べの夜会で王妃にも同じことを言われた。だがジークヴァルトへの思いに翻弄されているのは、むしろ自分の方だ。
「そう、自覚はないのね。明日、彼が来るのがたのしみだわ」
「クリスティーナ様」
アルベルトが再び咎めるように言う。王女は悪びれもせず、ころころと耳に心地よい声で笑った。
◇
小鳥たちのさえずりの中に、コッコッコ、と鶏の鳴く声が混じる。続けてコケコッコーと雄鶏が鳴き始めた。結構な音量だ。まだ眠っていたくて、リーゼロッテは上掛けの毛布にもぐるように寝返りを打った。
それでも鶏の声は耳に入ってくる。飽くことなく繰り返される鳴き声に、リーゼロッテの眉間にはうなされるようにしわが刻まれた。
「オエオッオーっ!!」
駄目押しのごとく野太い声が響く。オの字に濁点でもついていそうな雄叫びに、リーゼロッテは堪らずがばりと身を起こした。
(うるさくて眠れないっ)
寝台から降りて、小さなテラスの扉を開けた。初秋の肌寒い早朝の空気に身が震える。羽織ったショールの中で体を小さくしながら庭を見下ろした。
東宮であてがわれたのは二階にある部屋だ。この塔は五階建てで、王女は普段最上階で過ごしているらしい。
朝露が揺れる整えられた庭には、何羽かの鶏がいた。時折地面を啄みながら、あちらこちらへと歩き回っている。
「オエオッオーっ!!」
中でもひと際大きな鶏が、声高らかに空に向かって喉元を反り返らせる。先ほどの雄叫びはあの雄鶏のようだ。立派な鶏冠が目に鮮やかで、寒さもあってリーゼロッテはすっかり目が覚めてしまった。
ここ二階からでは遠くまでは見渡せないが、広がる景色に王城から随分と遠くに来てしまったことが分かる。ここ東宮はその名の通り国の東に位置していた。王都より西にあるフーゲンベルク領とは正反対の場所だ。
「ジークヴァルト様……」
口にすると余計に会いたくなってしまう。王女は今日にでもジークヴァルトがやってくると言っていた。それを信じて待つしかないだろう。
部屋に戻り、用意されていた普段着のドレスに着替えた。侍女もいないのですべてひとりでやらなくてはならない。
(わたしは日本での記憶があるから平気だけど……)
もし正真正銘の深窓の令嬢だったら、何もできずに途方に暮れるに違いない。リーゼロッテの普段の生活は、本当に何から何まで人任せだ。それこそおはようからおやすみまで、何もしなくても一日を過ごせてしまう。
長い髪は自分ではどうしようもないので、ゆるい一本の三つ編みを作りサイドに流した。寝るときはいつもこうして編んでいる。起き上がるときに髪を自分で踏んづけて、痛い思いを何度もしたからだ。
太陽も大分高くなってきて、鶏の声も落ち着いた。ほっとしているときに、前触れなく部屋の扉が開かれた。ノックもなしに人が入ってきたことに、思わずびっくりしてしまう。
「あら、起きていらしたの」
冷たい声で言われ、文句を言い出すタイミングを逸してしまった。部屋に入ってきたのはエラと同じくらいの年齢の女性だった。着ているドレスからして未婚の令嬢のようだ。
「わたくしはヘッダ・バルテン。子爵家の人間です。普段はクリスティーナ様の侍女をしておりますが、今日からあなたのお世話もさせていただきます」
年上とはいえ、下位の令嬢にしては居丈高な態度に戸惑いしかおこらない。
「他にひともいないのでわたくしが選ばれました。仕方がないですけれど、やらせていただきますわ」
どうやら自分は歓迎されていないようだ。不本意なことを隠そうともしない態度を前に、リーゼロッテはおずおずと口を開いた。
「あの……大抵のことはひとりでできますので、その、どうしてもな時だけお願いしてもよろしいでしょうか」
「あらそう。そうしていただけると助かりますわ」
ちっとも感謝していない口ぶりで、ヘッダはワゴンに乗せた朝食を部屋の中心まで押していく。
「食べ終わったら廊下に出しておいてください」
それだけ言って挨拶もなしにヘッダは部屋を後にした。普段ならば使用人が給仕してくれる料理は、ワゴンに乗せられたままだ。
急におなかが空いてきて、リーゼロッテの腹の虫がきゅるると鳴った。夕べは疲れて食事もとらずに眠ってしまったことを思い出す。
(ふつうの令嬢なら、泣くか怒るかしているところかしら……でも、腹が減っては戦もできないわね)
手際よく料理をテーブルに乗せる。質素だが野菜中心の朝食は、リーゼロッテにしてもありがたいメニューだ。
「いただきます」
両手を合わせてからカトラリーを手にする。普段はしないことだが、なんとなくそうしてしまった。
(完全に誰もいない部屋で食事なんて、ほんと久しぶりね)
この世界に生まれて初めてのことかもしれない。そんなことを思いつつ、リーゼロッテは人目を気にせずマナーもへったくれもなしに、好きな順番で料理を頂いた。
◇
「リーゼロッテ」
「ジークヴァルト様!」
一階にある面会用の応接室で待っていると、すぐにジークヴァルトがやってきた。その顔を見て安堵のあまり涙が浮かんでくる。駆け寄って思わずその胸に飛び込んだ。
背中のシャツをぎゅっと掴むと、応えるように強く抱きしめ返してくる。
「不自由はないか?」
「……はい、とてもよくして頂いておりますわ」
連れてこられたこと以外は特に不満もないので、そうとだけ答えた。あたたかい場所で眠れ、美味しいご飯も出してくれる。世話をする侍女がいなくても、それだけあれば十分すぎるというものだ。
ジークヴァルトがやさしく顔を撫でてくる。その大きな手のひらに、リーゼロッテは甘えるように頬ずりをした。
「では、一時間後にまた参ります」
アルベルトの声にびくりと体が跳ねる。ここはフーゲンベルクの屋敷ではない。人様の家で一体何をやっているのかと、リーゼロッテは慌てて離れようとした。しかし逆に引き寄せられ、もっときつく抱きしめられてしまう。
「どうぞごゆっくり」
笑いを含んだような言葉に頬が熱くなる。扉を開けたままにして、アルベルトは部屋から出ていった。婚約者とは言え自分たちは未婚の男女だ。貴族の外聞を考えてのことだろう。
そうはいっても元々人の少ない東宮だ。ここに住んでいるのは王女とヘッダとアルベルトの三人だけで、ほかに通いの使用人が数人いるだけらしい。ふたり以外誰もいない部屋に残されて、耳に痛いくらいの沈黙が降りた。
無言のまま手を引かれ、リーゼロッテはソファへと座らされる。ジークヴァルト自身もその横へと腰かけた。
あーんと菓子を差し出され、リーゼロッテは条件反射のように口にした。もくもくと口を動かしながら、ジークヴァルトのためのクラッカーを探す。
だが用意されていたのは甘そうな焼き菓子ばかりだ。甘味が苦手なジークヴァルトに食べさせるのはためらわれて、リーゼロッテは伸ばしかけていた手を所在なげにひっこめた。
「オレの分は戻ってからでいい」
こなせなかったあーんのノルマは、翌日以降に繰り越されるシステムだ。何日分たまったかをジークヴァルトはいつも正確に数えているようだった。
「昨日の分だ」
そう言って再び菓子が差し出される。小さく開くと、菓子はやさしく口の中に押し込まれた。
「うまいか?」
「はい、とても美味しいですわ」
そのやりとりはいつもと変わりがなくて、ここが東宮だということを忘れてしまいそうだ。やはり自分が帰る場所はジークヴァルトの元なのだ。そう思うと切なく胸が締め付けられた。
「会いに来てくださって本当にうれしいです」
「ああ」
「ここまでどうやって来られたのですか?」
「馬を走らせた。馬車よりも早く着く」
「そうなのですね」
そこまで言ってリーゼロッテははっとした。
「ヴァルト様……門番は大丈夫でございましたか?」
「門番?」
「王女殿下がここには恐ろしい門番がいると」
「いや、そんな者はいなかったが」
「え? そうなのですか?」
アルベルトは公爵なら大丈夫だろうと言っていた。よくは分からないが、ジークヴァルトが無事ならそれでいい。
「だが鶏がいたな」
「そうなのです! わたくしも今朝、鶏の声に起こされて!」
今朝あったことを興奮気味に話す。あまりにも大きな鳴き声だったので、誰かに話したくて仕方がなかった。
「そうか」
ひと通り話し終えると、ジークヴァルトはふっと笑った。自分ばかりがしゃべり続けていたことに気づき、リーゼロッテの頬が赤くなる。
普段からジークヴァルトはあまり自分からは話さない。時々合いの手を返してくるだけで、いつもリーゼロッテの話を黙って聞いているだけだ。
(わたしだって声を聞きたいのに)
時間が来たら自分を置いて帰ってしまうのだ。そう思うと、もっとその声を聞かせてほしかった。
「ジークヴァルト様も何かお話しをしてくださいませ」
期待に満ちた視線を向けると、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。寡黙な彼は話題を探すのが苦手なようだ。無理難題を押し付けてしまったと思い、リーゼロッテはどうしようかと首を傾けた。
「でしたら、わたくしの名を呼んでくださいませんか……?」
自分の名前を口にするときのジークヴァルトが一等好きだ。まっすぐ目を見てこの名を呼んでくれる。そのときだけジークヴァルトを独り占めできたような気がして、リーゼロッテは何度でも呼んでほしいと思ってしまう。
「リーゼロッテ」
「もう一度」
「リーゼロッテ」
「もっと……」
「リーゼロッテ……」
切なくて、リーゼロッテは瞳を潤ませた。キスしてほしい。そんなふうに思うが、恥ずかしくて自分からは言い出せない。
その時に気がついた。いつもなら、隙あらば膝の上に乗せようとしてくるジークヴァルトが、適切な距離を保ったままでいる。それどころか髪にすら触れてきていなかった。
(そうか……ここは王女殿下の東宮だから……)
だがこの部屋には自分たちしかいない。公爵家ではいつでも使用人がのぞき見するように控えているが、今この場は本当にふたりきりだ。
(今だったらもっと触ってくれてもいいのに)
恥ずかしいから嫌だと言っても、いつもはぐいぐい来るくせに。そんなふうに思って、リーゼロッテはちょっと不満げに唇を尖らせた。
「どうした?」
「あ、いえ、何も」
触れてくれないから拗ねているのだとは言えず、リーゼロッテは慌てて首を振った。
(でもキス、したいな……)
自分から突然口づけたら、ジークヴァルトは驚くだろうか。女性は慎ましやかでいることを求められる貴族社会だ。そんなことをしては、はしたないと咎められてしまうかもしれない。
思えばキス以上のことは、されたことがないなとふと思う。唐突にされるのもあって、リーゼロッテはいつもそれだけで目を回してしまう。しかしジークヴァルトが溢れ出る力を導いてくれるおかげで、最近では気を失うようなこともなくなった。
(でも、呆れられていたらどうしよう……)
いちいち面倒くさいと思われても仕方がなかった。ジークヴァルトに嫌われたら、どうしていいかわからない。
「ジークヴァルト様……わたくし、ちゃんと力を扱えるよう頑張りますわ」
「お前はそのままでいいと言っただろう」
「ですが……」
顔を上げるとやさしく見つめ返される。ジークヴァルトが面倒くさいなどと思うはずはない。勝手に疑っている自分がなんだか嫌になってきた。
そっと髪を撫でられる。猫の子に触れるような手つきが心地よくて、リーゼロッテは目を細めた。ジークヴァルトの手つきに性的なものを感じたことはない。以前は子供扱いされているのだと思っていたが、両思いになった今でもそれは変わらなかった。
(もしかしてジークヴァルト様って、そういうことに淡白なのかしら……?)
男なら誰でもその手のことが好きというわけでもないだろう。自分に女としての魅力がないのなら、それは大問題ではあるが。
髪を梳かれながら黙って見つめ合っていると、ふいに扉が叩かれた。時計を見やると一時間経っている。ジークヴァルトはもう帰ってしまうのだ。しあわせな気持ちから一気に悲しくなって、リーゼロッテは小さく唇をかみしめた。
開きかけた扉からアルベルトの姿が見えた。と同時に腕を引かれて、突然ジークヴァルトに引き寄せられる。
「んんっ!?」
いきなり唇を塞がれた。うなじを固定され逃げることも叶わない。アルベルトが部屋に入ってくる。必死にジークヴァルトの胸を叩くが、口づけが深められただけだった。
「あっふ、んむぅ」
色気もない声が鼻から漏れて出る。
(見てる! めっちゃ見られてる!)
そんな脳内の叫びも熱い唇に絡めとられて、あっという間に消え去った。
「それくらいにしてあげなさい。リーゼロッテが窒息しそうよ?」
呆れたような王女の声に、ようやく唇が離れていった。くにゃりと力が入らない体は、ジークヴァルトに預けたままだ。
「公爵様、申し訳ありませんがお時間ですので」
「ああ」
立ち上がるとジークヴァルトはリーゼロッテの頭を撫でた。
「また会いに来る」
「あっ、ジークヴァルト様!」
あっさりと出ていこうとする後ろ姿を、追いかけようと立ち上がる。だがバランスを崩して倒れそうになった。後ろから支えられ、なんとかその場に踏みとどまる。
「無理はするな。ゆっくり休め」
顔だけ振り返ったジークヴァルトはそう言って、別れの余韻もなしにそのまま部屋を出て行ってしまった。
耳に入ってきた王女の笑い声に我に返る。
「申し訳ございません、わたくし……」
「いいのよ。言われた通りゆっくり休むといいわ。ヘッダ、部屋まで付き添ってあげて」
自分を支えているのがヘッダだということに気づき、リーゼロッテは慌てて寄りかかっていた体を起こした。
「仰せのままに」
ヘッダは嫌がることもなく、リーゼロッテの手を引き歩き出した。階段を昇るときも気遣うように支えてくれる。部屋に戻るまで、本当にやさしく付き添ってくれた。
「あの、ヘッダ様、ありがとうございます」
「クリスティーナ様のご命令だからよ。あなたのためではないわ」
最後に冷たく言うと、ヘッダはやはり挨拶もなしに出ていった。
しんと静まり返る部屋で、窓の外を見た。遠い街並みの向こうの空で、日が傾きかけている。ジークヴァルトはあの王都を越えて、フーゲンベルクの屋敷に帰っていくのだ。
(日が落ちる前に戻れるといいけれど……)
さみしさが胸いっぱいに広がった。泣きたくなって無意識に胸に手を伸ばす。ぎゅっと掴んだ確かな感触に、リーゼロッテは「あっ」と思わず声を上げた。
守り石のペンダントがこの胸に下げられている。いつの間に。そうは思ったが、いつといったら先ほど口づけられた時しかないだろう。
(よりにもよって、あのタイミングでキスするなんて)
急に恥ずかしさが込み上げてきて、違う意味で涙目になる。
ふたりきりの時間はもっとあったのに、どうしてあんなギリギリなのか。しかも濃厚なディープキスだ。それを王女たちにばっちり見られてしまった。
(穴があったら入りたいっ)
身もだえながらリーゼロッテは、力尽きるように寝台へと倒れ込んだ。
◇
「本当におもしろいものが見られたわね」
ころころと笑う王女にアルベルトが呆れた視線を向けた。
「一国の王女が他人の逢瀬をのぞき見するなど……悪趣味にもほどがあります」
「いいじゃない、ここは退屈でたまらないわ。なかなか手を出さないと思って見ていたけれど、公爵のあれはわざとでしょう?」
「何がわざとなのですか?」
ちょうど戻ってきたヘッダが不思議そうに問うと、クリスティーナは意味深に目を細める。
「公爵の話よ。あれは相当我慢しているわね。アルベルトが来た瞬間をわざわざ狙って口づけたのよ。そうでもしないと、自分を止められなくなるから」
「わたしには彼を止める自信はありませんね」
「それでも王女のわたくしに言われたら、さすがにやめざるを得ないでしょう?」
本当におかしい、そう言って王女は口元に手を当てた。
「それを笑うなど、一国の王女がすることですか」
「王女だろうとおもしろいものはおもしろいわ。アルベルト、あなたって本当につまらない男ね」
「従者におもしろみを求められても困ります」
動じた様子もなく、アルベルトはそっけなく言葉を返す。
「ほんと……つまらない男」
裏腹に口元に笑みを刻んで、クリスティーナはもう一度繰り返した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。東宮での生活にも慣れてきたわたし。それでもジークヴァルト様に会えない日々はさみしくて。そんなとき神官見習いの少年が、クリスティーナ様の元にやってきて……?
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こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
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