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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

第1話 虹の架け橋

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 カーンカーンカーン……

 今日もとむらいのかねが遠くに響く。

 あの音が聞こえてくるということは、ここは王城からそう離れた場所ではないということだろう。

 この部屋に連れてこられてから、もう幾日過ぎたかもわからない。格子のはめられた窓から、雪舞う鈍色にびいろの空を見上げ、リーゼロッテは胸の守り石を強く握りしめた。

 枯れることを知らない涙が、頬を伝っては落ちていく。

(ジークヴァルト様……今すぐ、会いたい――)

     ◇
「リーゼロッテ様、お誕生日おめでとうございます。今夜はお祝いに、旦那様との晩餐ばんさんの席をご用意させていただきます。楽しみにお待ちくださいね」
「ありがとう、マテアス」

 糸目でにっこりと言われ、リーゼロッテは若干引きつった笑顔を返した。忙しいジークヴァルトと晩餐を囲むことは滅多にない。だが食事を共にするときは、必ずと言っていいほどあーん攻撃が連打で繰り出される。

「あの、マテアス……今日はわたくしの誕生日よね? それってわたくしが主役ということよね?」
「もちろんでございます」
「だったら、晩餐では自分の手でお食事をいただきたいから……その、ジークヴァルト様にはマテアスからそう伝えてほしいのだけれど」

 両思いになったとはいえ、使用人の前で行われるあーんはものすごく恥ずかしい。料理の味を堪能するためにも、自分のペースで食べさせてほしかった。
 少し考えるそぶりをしてからマテアスは、胸に手を当て「仰せのままに」とうやうやしく腰を折った。

 ほっと息をつき、エラの姿を探す。短い夏の真ん中を過ぎたあたりの今日は、リーゼロッテの十六の誕生日だ。そんな日にエラがそばにいないのは珍しいことだった。

「エラ様ならエントランスまでエデラー男爵をお迎えに行かれてますよ」
「エデラー男爵様がいらしてるの?」
「リーゼロッテ様がご自分でお祝いの品を選べるようにと、旦那様がエデラー商会を呼び寄せたのです。男爵様が自ら来てくださったようですね」

 エデラー男爵はエラの父親だ。リーゼロッテは顔を知っているくらいで、今まで話す機会はほとんどなかったように思う。

(今日はエラに甘えないようにしないと)

 久しぶりに父親に会って、積もる話もあるだろう。いつもエラに頼りきりの自覚があるリーゼロッテは、そう思ってひとり頷いた。

     ◇
 サロンへ移動すると、男爵と話をするジークヴァルトが見えた。その立ち姿に思わず見惚れてしまう。自覚した途端に世界は見え方が一変する。恋とは得てしてそういうものだ。

「リーゼロッテ」

 呼びかける前にすぐに気づいてもらえて、知らず頬が朱に染まる。名を呼ばれるだけで胸が高鳴って、最近では緩む顔を引き締めるのに苦労しているリーゼロッテだ。

 いそいそとそばまで歩み寄ると、ジークヴァルトは髪を撫でてくる。犬猫を可愛がるようなものだと思っていたこの行為も、ジークヴァルトの愛情表現なのだと素直に思えるようになった。

(駄目だわ。ドキドキしすぎてまた力が暴走しそう)

 呼吸を整えようとした矢先に、ジークヴァルトの指が耳裏をなぞってきた。わざとか無意識なのか、触れるか触れないかの絶妙なフェザータッチだ。くすぐったいだけではないぞくぞくした感触に、リーゼロッテは肩をすくめて思わず逃げ腰になった。

「娘から聞き及んでおりましたが、本当に仲睦まじくされていて、見ている方はどうにもあてられてしまいますね」

 朗らかな声の主はエデラー男爵だった。その横でエラも微笑ましそうにこちらを見ている。

「リーゼロッテ様、ご無沙汰しております。本日はお誕生日、誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、エデラー男爵様」

 慌てて離れようとするも、ジークヴァルトに逆に引き寄せられる。そのまま当たり前のようにソファの上で膝抱っこをされてしまった。
 サロンには不必要に思える数の使用人と、エデラー商会の人間もいた。その全員の生あたたかい視線を感じて、リーゼロッテは動揺に身をよじらせる。

「どうして離れようとする?」
「だって、みなが見ておりますから……」

 恥ずかしいから人前ではやめてほしい。小声でそう付け加えると、ジークヴァルトは耳元に顔を寄せてきた。

「誰もいない場所なら構わないのか?」

 驚いて見上げると、すぐそこにジークヴァルトの顔があった。瞬間湯沸かしポットのようにリーゼロッテの全身がゆだるのと同時に、サロン全体がどかんと揺れた。

「みなさん! 今こそ出番です!!」

 号令と共に、周囲にいた使用人たちが飛び跳ねる家具を抑えにかかる。これはマテアスが考案した公爵家の呪い対策だ。ガタガタと揺れる調度品を守るべく、おのおのが必死の形相で抱え込んでいる。

「旦那様、リーゼロッテ様のお祝いの日にサロンまで破壊する気ですか? ご自制いただけないのでしたらこの場は撤収いたしますよ」

 周囲に聞こえない低い声でくぎを刺すと、サロンがすっと沈静化する。それを満足げに見回すと、マテアスはエデラー男爵を振り返った。

「では男爵様。さっそくお品を見せていただいてもよろしいですか?」
「承知した。ハンス、こちらに品を」

 後ろに控えていた男、ハンスは慣れた手つきで所狭しと品々を並べていく。

「好きなものを好きなだけ選ぶといい」
「これでは選べませんわ」

 膝の上でがっちりホールドされたままのリーゼロッテは、ジークヴァルトを見上げ可愛らしく唇を尖らせた。その瞬間、サロンが揺れ動き、驚きで思わず胸にしがみつく。

「今日はやけに呪いが多い日ね……」
「旦那様」

 すぐにでもリーゼロッテの唇をふさぎにかかりそうな勢いのジークヴァルトに、マテアスが冷ややかな視線を向ける。するとサロンは再び静けさを取り戻した。

「降りなくてもいいだろう。全部買ってもいい」
「それで使われなかったら、物たちがかわいそうですわ。きちんと選ばせてくださいませ」

 そう言うとしぶしぶ腕から解放された。目の前に並ぶ品々に心が躍る。アクセサリーをはじめ、部屋飾りや置き物、人形から小物類まで、様々なものが取り揃えられていた。
 きっとエラがリーゼロッテの好きそうなものを伝えて用意してくれたのだろう。顔を向けると、そばに来てエラはいろいろと解説してくれた。

 アクセサリー類はジークヴァルトの守り石があるので、特にほしいとは思わない。小物を中心にリーゼロッテは手に取った。

 夢中になって選んでいると、ふと背後に視線を感じた。振り向くとジークヴァルトがこちらをじっと見ている。貴族街の雑貨屋でも同じように見られていたことを、リーゼロッテは思い出した。

(あの頃も、わたしのことを好きだと思ってくれていたのかしら……)

 心を通わせたことがいまだに信じられなくて、高鳴る胸を押さえながらそんなことを思ってしまう。日本の記憶ではいちゃラブな話が大好きだった。だがいざ自分がその立場になると、どうしていいのかがまるで分からなくなる。

「どうした? 気にせずゆっくり選んでいいぞ」
「は、はい。ありがとうございます」

 動揺したまま向き直る。周囲の生あたたかい視線を感じて、リーゼロッテは慌ててこれと決めた品々を順にさし示した。

「こちらと、こちら、それにこちらが気に入りましたわ」

 選んだのは美しい箱細工のオルゴールに可愛い天使の置物、ちょっと高級そうなティーセット一式だ。
 ティーセットは最後まで迷ったが、エラがさりげなくプッシュしてきたので、かなりいいお値段のものだと推測された。こういったときジークヴァルトに恥をかかせないために、適度にお金を使う必要がある。貴族とはなんと贅沢な立場であろうか。

 庶民魂が荒ぶるのを懸命に無視していると、ふと光沢のある赤いリボンが目に入った。

「こちらもいただいてよろしいですか?」

 普段、身に着けることのないどぎつい赤のリボンに、エラが困惑したような顔になった。日常でエラはリーゼロッテの明るい髪色に合わせて、パステル系のリボンを選ぶことが多い。しかも公爵に気を使って、いつも青か緑のものをチョイスしていた。

「ですがそちらは少々お嬢様に不釣り合いなのでは……」
「わたくしにではなくて、アルフレートに似合いそうだと思って」

 アルフレートはジークヴァルトが買ってくれた大きなクマの縫いぐるみだ。貴族街の雑貨屋の棚に座っていたアルフレートを、あの日リーゼロッテは欲しいとは言わなかった。確かに後ろ髪をひかれたが、成人にもなって縫いぐるみが欲しいと言うのは恥ずかしかったからだ。

 だが公爵家に戻ってみると、部屋のソファにアルフレートが鎮座していた。あの時の衝撃は今でも忘れられない。とてもうれしくて、部屋中アルフレートを抱えて歩き回ったことは今でも記憶に新しかった。

(そのほかにも、いいと思ったものがいっぱい置いてあったのよね……)

 やはりジークヴァルトは以前から、自分のことを気にかけてよく見てくれていたのだ。それは義務などではなく、純粋な好意からくるものなのだと、改めてよろこびが込み上げてくる。

 ジークヴァルトと目が合った。赤いリボンを手に、買ってもかまわないかという意味合いで小さく小首をかしげる。

「ああ、それも買うといい」

 その仕草を間違えなく理解してくれたことがうれしすぎて、自然とジークヴァルトの元へと歩み寄った。座ったままの大きな手を取り、きゅっと胸の前で握りしめる。

「ありがとうございます、ジークヴァルト様。本当にうれしいですわ」

 頬を染めながらはにかむ笑顔を向けた途端、盛大に公爵家の呪いが発動した。揺れるサロンに驚いてジークヴァルトの胸に飛び込むと、マテアスの静かなひと睨みでその場は沈黙する。

「本当に今日は多いわね……」

 呪いが起きる原因は、ジークヴァルトによって箝口令かんこうれいが敷かれている。何も知らないリーゼロッテだけが、不思議そうに小首をかしげた。

     ◇
「エデラー男爵様、本日はご足労いただきまして誠にありがとうございました」
「いや、こちらも一度、公爵様にご挨拶をと思っていた。優秀な方とは伺ってはいたが、リーゼロッテ様と睦まじくされている姿はなんとも微笑ましいな」

 何しろジークヴァルトは人嫌いで有名だ。眼光鋭く他人を寄せ付けないかたくなな態度に、恐れをなしている貴族は数多い。

「ああ、マテアス。娘のこともそれなりに気をかけてもらえると助かる。君には迷惑をかけるが、娘は今後恐らくリーゼロッテ様のおそばを離れることはないだろうしな」
「もちろんでございます。エラ様はリーゼロッテ様同様、ダーミッシュ伯爵様からお預かりした大事な客人でございますから」
「だが娘のせいで公爵家をわずらわせているんだろう? 主に使用人たちに対してのようだが」

 エデラー男爵が言っているのは、フーゲンベルク家で大流行の「エラチャレンジ」のことだ。そう思いあたったマテアスは、その情報収集能力はなかなかだなどと胸中でつぶやいた。

「こちらこそ使用人の統制が取れず、エラ様には多大なご迷惑をおかけしてしまいました。ですが既に対策は取りましたので、今後似たような騒ぎが起こることはないとお約束いたします」

 使用人たちによるエラへの求婚は、はじめのうちは目をつぶっていた。フーゲンベルク家の使用人は昔から流行りを作っては、日々のストレスを解消している。大概のことは頭ごなしに禁止することもないと考えているマテアスだ。

 だがエーミールの件もあり、エスカレートしていく様子にさすがにこれはまずいと思い始めたマテアスは、月に一度の使用人集会でエラへの求婚を一切禁じた。

 彼女はいずれ貴族籍を抜けると言っているから、それは横暴だ。平民の自分たちにもきちんと権利はあるはずだ。そんな意見も出たが、現在エラは現役バリバリの男爵令嬢である。
 どうしても求婚したいのであれば貴族の慣習にのっとって、エラの父親であるエデラー男爵に申し出て許可を得るように。そう冷たく言うと、途端に跳ね上がったハードルに、使用人たちはみなおとなしく引き下がったというのが今回の顛末てんまつだ。

 それが功を奏してエラチャレンジは無事終息をみせた。もし本当に男爵に申し出る者がいたとして、そこから先はエデラー家の問題だろう。

「ときにエデラー男爵様。ルカ様とツェツィーリア様の婚約にあたって、ダーミッシュ伯爵様がレルナー領と鉄鉱石の取引を開始されたという話を小耳に挟んだのですが……」
「さすがフーゲンベルク家の次期家令だ、耳が早い」

 鉄鉱石はフーゲンベルク領でも良質なものが採掘されている。そこをえてレルナー公爵に話を持ち掛けたところが、やり手のダーミッシュ伯爵らしい。娘の嫁ぎ先ではなくレルナー家へ利益をちらつかせ、伯爵家の立場でありながら実力で婚約をもぎ取ったのだ。素直に称賛を送りたいとマテアスは思っていた。

 同じ公爵家としてフーゲンベルク家にライバル意識をもつレルナー家にしてみれば、さぞや胸のすく思いができたことだろう。

 もっともフーゲンベルクの鉄鉱石は、主に自領で馬具や家具に消費されている。もしダーミッシュ伯爵に融通をきかせてほしいと話を持ち掛けられても、頷くことはできないのが現状だ。

「フーゴ様もそちらの事情は把握しておられる。それでレルナー家へ話を持っていかれたのだろう」
「ええ、承知しております。機会があれば我が領でも、ダーミッシュ伯爵様と何か事業を興せればよいのですが」
「ああ、フーゴ様にもそう伝えよう。ついでに言わせてもらうと、エデラー家も大歓迎だ」
「それはうれしいお言葉。あるじにもそのように申し伝えさせていただきます」

 エデラー男爵は人懐っこい印象の男だ。いまだ商人気質が抜けないのだろうというのが、マテアスの第一印象だった。その男爵が少しばかり声を落として顔を寄せてくる。

「それでうちの娘がカーク家の跡取りをフッたというのは本当か?」
「そのようですね。直接エラ様からお聞きしたわけではございませんが」

 さすがにエーミールとのいざこざまでは知らない様子だが、エデラー男爵がどこから情報を得ているのか少しばかり調査が必要そうだ。

「そうか……本気で独り身のままでいるらしくてな。親としては心配しているんだが」
「いずれエラ様のお考えが変わることもございましょう」
「だがなぁ、そろそろ相手を見つけないと、き遅れて誰にも相手にされなくなるだろう?」

 エラは今年で二十歳になるらしい。貴族令嬢としては確かに大概の者が嫁いでいる年齢と言えた。

「しかし、王妃殿下は二十五で王家へと嫁がれておりますし、それほど焦ることもないのでは?」

 イジドーラ王妃の影響か、近頃は貴族女性の晩婚化が容認されつつある。

「それはそうなんだが。まぁ、いざとなったら君に貰ってもらうとするか。何、娘は働き者だ。お墨付きで差し出せるぞ」
「わたしなどを選ばなくとも、エラ様なら引く手あまたでございますよ。ご令嬢であるうちに良縁に恵まれることもございましょう。どうぞエラ様のために良きご縁談をお選びください」
「つれないな。うちの娘では不満か?」
「わたしにとってエラ様は高値の花のような存在ですから。ですが、そうですね……もしエラ様が貴族籍をお抜けになったら、その時は遠慮なくいかせていただきます」
「君も貴族のしがらみを重視するか。まぁそれも致し方ない」

 エデラー男爵の言葉に、マテアスは社交辞令のような笑みを返した。

     ◇
「ヴァルト様、先ほどはありがとうございました。どれも大切に使わせていただきますわ」
「ああ」
「あ……雨が」

 贈り物を選んだ後、引き続きサロンでジークヴァルトとお茶を楽しんでいた。先ほどまで晴れ渡っていた空が、一気に陰って滝のような雨を降らせている。

 ジークヴァルトの腕を離れて、サロンの大きなガラス戸から貼りつくように外を眺めた。しかし土砂降りの雨は見る見るうちに細くなり、嘘のように再び空に青が広がった。

「ヴァルト様、見てくださいませ! 虹が……!」

 見上げる空に、虹が美しい弧を描いた。うっすら見えていた半円は、次第に色を濃くしていく。空に残る雲間から始まり、大地へとのびるその様は、まるで天と地をつなぐ架け橋のようだ。

「綺麗……」
「ああ、そうだな」

 感嘆まじりのため息をついていると、ガラス戸についていた手の上に、大きな手が重ねられた。閉じ込めるように、後ろからジークヴァルトが体を囲ってくる。

(不意打ちはやめてほしいのにっ)

 途端に鼓動が跳ね上がり、リーゼロッテはヤモリのごとく窓にへばりついた。もはや虹を見上げる余裕もない。掴まれた手と、すれすれの背中の体温ばかりに意識が集中してしまう。

(この体勢は、ど、どうしたらいいの……?)

 手汗でガラスが曇りそうな勢いだ。壁ドン変法のような押さえ技に、動揺して何も考えられない。

「リーゼロッテ」

 呼ばれるままに顔を上げた。覆いかぶさってくるジークヴァルトの視線は、自分の唇にあるようだ。リーゼロッテはかっと頬を赤らめた。

(これってば、キスのサイン……?)

 リーゼロッテは思い切ってぎゅっと瞳を閉じた。差し出すように顎を上げ、心づもりをしてその時を待つ。
 心臓が口から飛び出しそうな中、しかし待てども唇に何かが触れてくる感触はない。目をつむったまま、リーゼロッテの背に冷たい汗がたらりと伝う。

(もしかして勘違い……?)

 だとすると恥ずかしすぎる。どうやって誤魔化すべきか途方に暮れそうになった時、頭上でガンっとガラス戸が大きな音を立てた。
 ガン! ガン! と立て続けに鳴る音に、驚いて目を開く。それを鳴らしているのは誰でもない、頭上でひたいを打ちつけるジークヴァルトだった。

「ヴぁ、ヴァルト様!?」

 最近では見なくなっていたが、以前からジークヴァルトには自虐じぎゃく趣味があるようだった。この頭突き行為をはじめ、いきなり自分の頬を叩いたり、腹にこぶしをめり込ませたり、そんな場面をリーゼロッテは今まで幾度も目にしてきた。

「大丈夫だ、問題ない」

 額を赤く腫らしたまま、涙目でジークヴァルトはそっけなく言った。とてもではないが大丈夫には見えない。まったくもって問題ありありだ。

(わたしも女王様になりきって、今からむちを振るう練習をしておいた方がいいのかしら……)

 そんなことを考え、リーゼロッテまでが涙目になった。

 いつから見ていたのか、「旦那様」と呆れたようなマテアスの声がした。ようやくジークヴァルトの手が離れて、リーゼロッテはほっと息をつく。

「エデラー男爵が最後にご挨拶をとのことです」
「ああ、わかった」

 ジークヴァルトが男爵と会話をしているうちに、こそりとマテアスに話しかけた。エラには相談しにくいデリケートな内容だ。子供のころからそばにいるマテアスなら、この性癖に対していいアドバイスをくれるに違いない。

「あの、マテアス……ジークヴァルト様は、その、自虐趣味がおありなのよね?」
「は……?」

 他に言いようがなく、ストレートに聞いてしまった。めずらしくほうけた顔になったあと、マテアスは気を取り直したように姿勢を正した。

「ご安心ください。あるじにそのような趣味は一切ございません」
「え? でも」
「リーゼロッテ様がそのように誤解なさるのも無理ないことです。ですがこのままご心配をおかけするのも忍びませんので、マテアスがなんとか知恵を絞りましょう」

 ジークヴァルトが痛みでどうにかこうにか理性を取り戻しているなど、リーゼロッテには思いもよらないことだろう。さっさと自室に連れ込んでくれた方が、マテアスとしては気が楽だ。だが、あるじが婚姻までは我慢すると言っている以上、それに従うよりほかはない。

「なんの話だ?」
「いえ、今宵の晩餐のメニューについてお話を」

 するっと嘘がつけるマテアスは、敵に回すと恐そうなタイプだ。リーゼロッテは時々、そんなふうに思っていた。

 実際にマテアスは公爵家を守るためなら容赦はしない。それはフーゲンベルク家では知れ渡っていることである。
 使用人のすべての家系、資産状況、交友関係から借金の有無まで、ありとあらゆることを掌握している。その情報を個人的に悪用することは決してないが、日々恩を売り、弱みを握り、長い時間をかけて公爵家の影の支配者の立場を築き上げてきた。

 要するにこの家で、マテアスに逆らう者は皆無ということだ。先ほどの公爵家の呪い対策も、マテアスの意のままに動く人間が大勢いてこそ成り立っている。

「旦那様、少々お耳に入れたいことが」

 マテアスが小声でジークヴァルトに話しかける。聞き耳を立てないよう、リーゼロッテは気を使ってひとり遠いソファへと腰かけた。

「誠に残念なお知らせです。リーゼロッテ様に自虐趣味を疑われております。わたしとしては旦那様の努力を買ってさしあげたいところですが、今後は呪いの発動を阻止するために頭を打ち付けるのはお控えください」

 そう耳打ちされて、ジークヴァルトの眉間にしわが寄る。

「ならばどうすればいい?」
「要はよこしまな衝動を発散できればよろしいのでしょう? それでしたら……」

 こそこそと話し合うふたりに、リーゼロッテはそ知らぬふりをしている。心やさしい彼女のためにも、なんとか代替案だいたいあんを提示しなくては。

「晩餐まではまだ時間があります。もうしばらくこちらでごゆっくりなさってください」

 密談は済んだのか、紅茶と茶菓子を用意しながらマテアスが笑顔で促してくる。当たり前のようにリーゼロッテは、ジークヴァルトの膝の上に収まった。

「本日の菓子は、泣き虫ジョンのアーモンドケーキでございます」
「ジョンのアーモンドケーキ?」
「はい、ジョンの立っていた木に実がなりましたので、料理長自らが腕を振るいました」
「あの木はアーモンドだったの?」
「ええ、春先に薄桃色の花が咲きましたでしょう?」

 ジョンが天に還った後、枯れていた枝が一斉に花開いた。桜のような花だったが、その花びらは散ることなく美しく咲き誇っていたことを思い出す。

「あーん」

 目の前に差し出されたケーキを、リーゼロッテは条件反射のように口にした。晩餐は自分の手でいただくのだ。今のうちにノルマを消化するのは何の抵抗もない。ケーキがなくなるまで黙々と口を動かすと、リーゼロッテは最後に輝くような笑顔でジークヴァルトの顔を見上げた。

「とっても美味しかったですわ」

 唇に残ったかけらを、舌でペロッと舐めとった。その動きにくぎ付けとなっていたジークヴァルトの動きがぴたりと止まる。
 直後、手にしていた皿とフォークを、ジークヴァルトはテーブルの上に素早く戻した。間髪置かずにリーゼロッテを膝からやさしく降ろすと、無言のまますっくと立ち上がる。

「ヴァルト様……どちらへ?」
「問題ない。すぐに戻る」

 そう言い残したかと思うと、ジークヴァルトは俊足で駆けだした。サロンを出て、廊下の向こうに姿が消える。なにやら雄叫びのような声が徐々に遠ざかっていく。その声はやがて耳に届かなくなり、残されたリーゼロッテは不思議そうにこてんと首を傾けた。

「マテアス? ジークヴァルト様は一体……」
じきに戻られますからご心配なく。紅茶でもお召しになってお待ちください」

 戸惑いながらもカップに口をつける。マテアスが淹れてくれる紅茶は日増しにリーゼロッテ好みになっていく。気を使ってもらっているのだと思うと申し訳なくなるが、ここは素直によろこぶべきだろう。

「マテアス、いつもありがとう」
「身に余るお言葉でございます。リーゼロッテ様にお仕えできて、このマテアス、至上のよろこびを感じておりますよ」

 にっこりとほほ笑み合いながらそんな会話をしているうちに、消えていった雄叫びが今度はどんどんこちらに近づいてくる。
 しかしその雄叫びは、消えていった方角とは真逆の方向から聞こえるようだ。サロンの入り口を見やっていると、その雄叫びが入り口手前でぴたりと止んだ。その直後、何食わぬ顔をしたジークヴァルトがサロンに入ってくる。

 整えきれてない息に、額に浮かぶ玉のような汗。まるで公爵家の廊下を一周、全力疾走してきたかのようなその姿に、リーゼロッテは目を丸くする。

「あの、ジークヴァルト様……その、お加減は大丈夫でしょうか」
「問題ない、気にするな」

 そっけなく言って、ジークヴァルトは再びリーゼロッテを膝に乗せた。

 ジークヴァルトによる全力疾走は、この日から頻繁に屋敷内で目撃されることになるのであった。

     ◇
 晩餐の席につき、リーゼロッテは思わずマテアスに鋭い視線を向けた。自分用のカトラリーがひとつも用意されていない。これはあーんする気満々なのだ。

「ヴァルト様、マテアスからお聞きになったかと思うのですが、今夜はわたくし自分で……」
「今宵、オレはこれを行使する」

 ジークヴァルトが目の前に掲げてきたのは、一枚の書類だった。契約書のようなそれに、リーゼロッテは思い切り覚えがあった。

「こ、今夜にですか?」

 今日は自分の誕生日だ。主役の自分がおちいるには、あまりにも容赦ない展開だ。

 引きこもったままの泣き虫ジョンに会いに行くために、リーゼロッテはジークヴァルトにある権利を約束した。そう、目の前にある契約書は、あの日に自らが提示した「あーん一日無制限権」だ。

 リーゼロッテは肩たたき券のような気軽さでこれを提案したが、ジークヴァルトは口約束では終わらせてくれなかった。「券」はなぜだか「権」となり、あっという間にその場で書類が作成されてしまった。
 言われるがまま三枚の書類に署名をしたリーゼロッテだったが、今よくよく見るとそこには王の調印まで押されている。

 その手の知識がないリーゼロッテにも理解できた。このふざけた内容の書類に目を通し、ディートリヒ王自らが承認の印を押したということだ。

「今夜が駄目なら次の夜会で行使するが?」
「ええっ!? それだけは嫌ですわ」

 もうすぐイジドーラ王妃の誕生日を祝う夜会が行われる。招待を受け、ふたりもそれに参加する予定だ。大勢の貴族の前で恥をかくくらいなら、今夜涙を飲んで承諾するしかないだろう。

(うう……今日はわたしの誕生日なのに……)

 嬉々としてあーんを繰り出すジークヴァルトの魔王の笑みを、それでもかっこいいと思ってしまったことは、一生内緒にしようと思ったリーゼロッテだった。





【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。王妃様の誕生日を祝う夜会の準備でドレスを選ぶわたしとエラ。ジークヴァルト様と両思いになったわたしは、浮かれ気味な毎日です! そんな中、もの言いたげなエーミール様がエラのもとにやってきて……?
 次回、4章第2話「あなたの笑顔」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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