ふたつ名の令嬢と龍の託宣【第二部公爵夫人編開始】

古堂 素央

文字の大きさ
上 下
452 / 528
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

番外編 きみのいる世界(後)

しおりを挟む
     ◇
「あっ、旦那様! 少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
 マテアスは廊下で見かけたジークフリートを慌てて呼び止めた。

 ラウエンシュタイン城から戻って数日、ジークヴァルトの様子が何やらおかしい。自室でぼんやりと婚約者の絵を見上げているあるじの小さな背中を見やり、マテアスはひとり眉をひそめていた。

「お? なんだ、マテアス。オレに用とはめずらしいな」
 頭にポンと手を置いて、ジークフリートはやさしく笑いかけた。

「はい、ヴァルト様のことなのですが、ラウエンシュタインからお戻りなってから、ぼんやりなさることが多くなって……」
「ああ、そりゃ、恋煩こいわずらいだな」
「恋煩い!? あのヴァルト様が?」

 あんぐりと口を開けたまま、マテアスはジークフリートの顔を見上げた。あのジークヴァルトだ。まさかそんなことがという声が、マテアスの頭の大半を占めていた。

「ヴァルトのやつ、しょっぱなからリーゼロッテに嫌われてしまってなぁ。話を聞いたマルグリット様がご立腹になったらしくて、リーゼロッテが十五になるまで、二度と会いに来るなと言われてしまったんだ」
「えぇ……? ヴァルト様は一体何をやらかしたんですか?」
「はっはっは、それは若気の至りってやつだな。名前を呼ぶだけで大泣きされちゃあ、落ち込みもするってもんだ。まぁそんな訳だから、マテアスもよぉく慰めてやってくれ」

 ぐりぐりと頭をなでてから、ジークフリートは颯爽と行ってしまった。

「名前を呼ぶだけで……?」

 恋煩いはともかく、目つきの悪いジークヴァルトに怖がられでもしたのだろう。マテアスはそういうことならばと、とりあえず様子を見ることにした。

 だが数か月経っても、ジークヴァルトの様子は相変わらずだ。さすがのマテアスも心配になってくる。時間さえあれば飽きもせずに肖像画を見続けるあるじに、かける言葉をずっと探していた。

「マテアス、初恋とはなんだ?」
「へ? はつこい?」

 考えあぐねていた時に、ジークヴァルトが先に口を開いた。主からそんなワードが飛び出すとは思ってもみなかったマテアスは、その文字を理解するのに数秒を要してしまった。

「初恋とは……はじめての恋のことです」
「はじめての恋? 恋とはなんだ?」
「恋とは、ひとを好きになることですね」
「ひとを好きになる……? では好き、とはなんだ?」
「え? 好き……とは、嫌いの反対のことです」
「嫌いの反対?」
「ヴァルト様は酸っぱいものがお嫌いでしょう?」
「嫌いというか、好きではないだけだ」
「と、とにかく! 嫌いの反対が好きで、嫌いではないということが好きということです!」

 六歳のジークヴァルトに矢継やつばやに問われ、十一歳のマテアスはそんなふうにしか返せなかった。だがこんなことを聞いてくるのは、ジークフリートにからかわれたからだろう。会いに行った婚約者を初恋の相手と言われ、よく分からずに困惑しているに違いない。

「……マテアスのことも別に嫌いではないぞ」
「わたしを初恋の相手にするのは勘弁してください! 恋とは異性にするものです。ああっと、家族も駄目ですよ。ディートリンデ奥様やアデライーデ様も除外してお考えください」

 とんでもないことを言い出すあるじに慌てて首を振る。マテアスにも初恋らしきものの経験はあったが、その淡い思いは一瞬でついえてしまった。学業、武術と学ぶことの多いマテアスにとって、ジークヴァルトに色恋の知識を的確に説明するのは荷が重いことだった。

「そうか……」

 だがジークヴァルトはそれで納得したように、再び飾られた肖像画を見上げた。そのまま微動だにもしなくなる。

 マテアスは気がつかなかった。この段階で、「初恋の相手」イコール「家族以外のはじめて嫌いではないと思った女性」という変換が、ジークヴァルトの中でなされていたことに。
 このことが原因で、あらぬ方向へ主が初恋をこじらせていくなどと、どうして予想し得ただろう。そのせいで後の自分が苦労するのは、自業自得と言うべきか。

 こんな会話は忙しい日々に埋もれていって、ジークヴァルトの恋は、冬に眠る土中の種のごとく息をひそめることになる。

 ひそやかにはぐくまれ続けた初恋は、その後十一年の歳月を経て、春の息吹いぶきとともにようやく動き出すのであったーー

     ◇
「お嬢様の肖像画が?」
「ええ。ダーミッシュのお屋敷にもジークヴァルト様の肖像画があるでしょう? 同じようにわたくしの絵もフーゲンベル家に贈られたみたいなの」
「子供の頃のお嬢様……それはそれは愛らしかったのでしょうね……」

 公爵家のサロンでお茶を飲みながら、エラはうっとりとしたため息をついた。
 エラがダーミッシュ家にやってきたのはリーゼロッテが十歳のときだ。初めて会った日もなんて可愛らしい少女なのかと驚いたが、幼いリーゼロッテなど、きっと妖精にしか見えなかったことだろう。

「機会があればわたしも見てみたいものです」
「でもあの絵はヴァルト様のお部屋に飾ってあるのよね」

 不満そうにリーゼロッテは唇を尖らせた。

「居間のいちばん目立つ場所に飾ってあるのよ? ソファに座ると嫌でも目に入ってしまうから、わたくしそれが恥ずかしくって」
「では公爵様はお嬢様の絵を、毎日見てお過ごしになっているのですね」

 うらやましそうに言うエラに、リーゼロッテは顔を赤らめた。あの絵はジークヴァルトが五歳のときに贈られた。それ以来、ずっとあそこに飾ってあるらしい。

 初恋の相手は自分だと、ジークヴァルトは言っていた。はじめて会ったあの日から、絵を見てはリーゼロッテのことを思い出していたのだろうか?

(駄目だわ、ドキがムネムネする……!)

 身の内からあふれそうになる力のうずを、慌てて抑え込んだ。動揺するたびに倒れていては、周りに迷惑すぎると言うものだ。

「駄々漏れてるぞ」

 その声と共に、クッキーが口の中へと詰め込まれた。驚いて見上げたそこには、ジークヴァルトが立っている。エラはさっと遠巻きに控えるように移動した。

「じーふヴぁるとさま……」

 青い瞳に見つめられ、もごもごしながらさらに動悸どうきが激しくなる。不意打ちはやめてほしい。本当にやめてほしい。

「ふっ、仕方のない奴だな」

 隣に座ったジークヴァルトが髪をやさしくいてくる。指がなぞるたびに、青の力がリーゼロッテへと入ってくるのが分かった。乱れた流れを導くように、ゆっくりと内を巡っていく。
 綺麗な青と自分の緑が、溶け込むように流れるのが分かった。早まる鼓動はそのままに、溢れそうになっていた力は、穏やかな対流を取りもどす。

「落ち着いたか?」
「はい……」

 髪を梳いていた手が、頬の上で動きを止めた。ジークヴァルトの大きな手は耳まで届いて、その指先が耳たぶを挟んでやわやわともてあそんでくる。
 くすぐったさと恥ずかしさで、身をすくませながら視線を逸らした。ジークヴァルトのおかげで力の制御は効いているが、口から心臓が飛び出しそうだ。

「リーゼロッテ」
 ふいに呼ばれて顔を上げる。

「そら、あーんだ」

 やさしくクッキーを口に差し入れられ、おとなしくそれを受け入れた。あれだけ恥ずかしいからやめてほしいと思っていたこの行為も、今ではただうれしく感じてしまう。
 デルプフェルト家の夜会以来、ジークヴァルトは名前で呼んでくれるようになった。そのことが何よりうれしくて仕方がない。

(だけど恥ずかしさは倍増だわ)

 エラをはじめ、周囲にいた使用人たちがじっとこちらを見やっている。みな一様に口元をむにむにさせて、何やら笑いをこらえているようだ。すぐ近くにいるジークハルトも、先ほどからずっとによによとした顔で浮いている。

『リーゼロッテ、なんだかうれしそうだね』
「ヴァルト様が名前で呼んでくださるようになったので……わたくしそれがうれしくて」

 あーんがうれしいとは恥ずかしくて言えなかったので、言い訳のようにそう答えた。

『あれ? ヴァルトと初めて会った日のこと、リーゼロッテはやっぱり覚えていないんだ?』
「え? いいえ、わたくしちゃんと覚えておりますわ」

 黒いモヤをまとうジークヴァルトが怖すぎて、とにかくギャン泣きしたことは鮮明に記憶に残っている。そんな自分に恋をしたというのだから、ジークヴァルトは物好きだとしか言いようがない。

『でもヴァルトがなんでずっと名前を呼べなかったのか、リーゼロッテはその理由を覚えてないんでしょ? そっか、よっぽどショックだったんだなぁ』
「名前を、呼べなかった理由……?」

 意味が分からずこてんと首を傾けた。呼ばなかったならまだしも、呼べなかった訳とは一体何なのか。答えを求めるようにジークヴァルトの顔を見る。

「いや、覚えてないならそれでいい」
「え? ですが……」
「いい。思い出さなくていい」
「でも」
「覚えていないものを無理に思い出すことはない」

 さらに反論しかけたリーゼロッテの口に、ジークヴァルトは素早くクッキーを差し入れた。唇を尖らせながらも、リーゼロッテはそれを素直に飲み込んでいく。

「もう、ヴァルト様。あーんは一日一回までですわ」
「あーんとは言ってない」

 お決まりの文句を返すと、リーゼロッテは仕方ないという顔をした。それからふわりとやさしい笑みをこぼす。その顔を見て、ジークヴァルトの瞳が眩しそうに細められた。

 彼女はいろんな顔を見せてくる。笑顔も、怒った顔も、泣き顔も。そのすべてがこの世界に色を与えてくれる。

 もし彼女を失ったとしたら、きっとすべてが何の意味も持たなくなるのだろう。そんなことを思って、ジークヴァルトはふっと笑った。

 ーー今、目の前に彼女がいる

「それだけで十分だ」

 小さくつぶやかれた言葉に、リーゼロッテは不思議そうに首をかしげた。そんな様子を愛おしそうに眺め、ジークヴァルトは再びその頬に指を滑らせていく。

『それでヴァルトが名前を呼ばなかった理由なんだけど……』
「うるさい、お前は黙れ」
「でもそのお話、わたくし詳しく聞きたいですわ」
「いい、聞かなくていい」
「ですが」
「駄目だ。忘れているなら思い出さなくていい」
『えー、聞きたいって言うんだからいいじゃない』
「ハルト様のおっしゃる通りですわ」
「いや駄目だ却下だ、ハルトはそれ以上言うな。リーゼロッテ、お前もわざわざ聞かなくていい」
「横暴ですわ、ヴァルト様」
『横暴だよね、ホント、ヴァルトは』
「うるさい、とにかく駄目だ」
「え? あっ、きゃあ!」

 いきなりリーゼロッテをかかえ上げると、ジークヴァルトはその場から逃げるように駆けだした。周囲にいた者はぽかんとその場に取り残される。

『ヴァルト、ほんと、よかったね』

 誰にも届かない声で、守護者(ジークハルト)だけがひらひらとふたりに手を振った。


 リーゼロッテを抱えたジークヴァルトが、公爵家の呪いを発動させながら屋敷の廊下を駆けていく。

 使用人が呆気にとられる中、廊下をひっくり返して進むふたりの後ろを、きゅるるん小鬼がご機嫌で飛び跳ねる。少し遅れたカークが、この珍妙な行列を、慌てたように追いかけていった。

 この後、憤死ふんし寸前のマテアスに、ジークヴァルトが盛大にしかられたのは言うまでもない。






 次回から第4章突入です!
しおりを挟む
※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
 第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
 こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】愛してるなんて言うから

空原海
恋愛
「メアリー、俺はこの婚約を破棄したい」  婚約が決まって、三年が経とうかという頃に切り出された婚約破棄。  婚約の理由は、アラン様のお父様とわたしのお母様が、昔恋人同士だったから。 ――なんだそれ。ふざけてんのか。  わたし達は婚約解消を前提とした婚約を、互いに了承し合った。 第1部が恋物語。 第2部は裏事情の暴露大会。親世代の愛憎確執バトル、スタートッ! ※ 一話のみ挿絵があります。サブタイトルに(※挿絵あり)と表記しております。  苦手な方、ごめんなさい。挿絵の箇所は、するーっと流してくださると幸いです。

危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました

しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。 自分のことも誰のことも覚えていない。 王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。 聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。 なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。

【完】夫から冷遇される伯爵夫人でしたが、身分を隠して踊り子として夜働いていたら、その夫に見初められました。

112
恋愛
伯爵家同士の結婚、申し分ない筈だった。 エッジワーズ家の娘、エリシアは踊り子の娘だったが為に嫁ぎ先の夫に冷遇され、虐げられ、屋敷を追い出される。 庭の片隅、掘っ立て小屋で生活していたエリシアは、街で祝祭が開かれることを耳にする。どうせ誰からも顧みられないからと、こっそり抜け出して街へ向かう。すると街の中心部で民衆が音楽に合わせて踊っていた。その輪の中にエリシアも入り一緒になって踊っていると──

【完結済】隣国でひっそりと子育てしている私のことを、執着心むき出しの初恋が追いかけてきます

鳴宮野々花@書籍2冊発売中
恋愛
 一夜の過ちだなんて思いたくない。私にとって彼とのあの夜は、人生で唯一の、最良の思い出なのだから。彼のおかげで、この子に会えた────  私、この子と生きていきますっ!!  シアーズ男爵家の末娘ティナレインは、男爵が隣国出身のメイドに手をつけてできた娘だった。ティナレインは隣国の一部の者が持つ魔力(治癒術)を微力ながら持っており、そのため男爵夫人に一層疎まれ、男爵家後継ぎの兄と、世渡り上手で気の強い姉の下で、影薄く過ごしていた。  幼いティナレインは、優しい侯爵家の子息セシルと親しくなっていくが、息子がティナレインに入れ込みすぎていることを嫌う侯爵夫人は、シアーズ男爵夫人に苦言を呈す。侯爵夫人の機嫌を損ねることが怖い義母から強く叱られ、ティナレインはセシルとの接触を禁止されてしまう。  時を経て、貴族学園で再会する二人。忘れられなかったティナへの想いが燃え上がるセシルは猛アタックするが、ティナは自分の想いを封じ込めるように、セシルを避ける。  やがてティナレインは、とある商会の成金経営者と婚約させられることとなり、学園を中退。想い合いながらも会うことすら叶わなくなった二人だが、ある夜偶然の再会を果たす。  それから数ヶ月。結婚を目前に控えたティナレインは、隣国へと逃げる決意をした。自分のお腹に宿っていることに気付いた、大切な我が子を守るために。  けれど、名を偽り可愛い我が子の子育てをしながら懸命に生きていたティナレインと、彼女を諦めきれないセシルは、ある日運命的な再会を果たし────  生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。 ※いつもの完全オリジナルファンタジー世界の物語です。全てがファンタジーです。 ※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*

音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。 塩対応より下があるなんて……。 この婚約は間違っている? *2021年7月完結

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...