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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
番外編 きみのいる世界(後)
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◇
「あっ、旦那様! 少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
マテアスは廊下で見かけたジークフリートを慌てて呼び止めた。
ラウエンシュタイン城から戻って数日、ジークヴァルトの様子が何やらおかしい。自室でぼんやりと婚約者の絵を見上げている主の小さな背中を見やり、マテアスはひとり眉をひそめていた。
「お? なんだ、マテアス。オレに用とはめずらしいな」
頭にポンと手を置いて、ジークフリートはやさしく笑いかけた。
「はい、ヴァルト様のことなのですが、ラウエンシュタインからお戻りなってから、ぼんやりなさることが多くなって……」
「ああ、そりゃ、恋煩いだな」
「恋煩い!? あのヴァルト様が?」
あんぐりと口を開けたまま、マテアスはジークフリートの顔を見上げた。あのジークヴァルトだ。まさかそんなことがという声が、マテアスの頭の大半を占めていた。
「ヴァルトのやつ、しょっぱなからリーゼロッテに嫌われてしまってなぁ。話を聞いたマルグリット様がご立腹になったらしくて、リーゼロッテが十五になるまで、二度と会いに来るなと言われてしまったんだ」
「えぇ……? ヴァルト様は一体何をやらかしたんですか?」
「はっはっは、それは若気の至りってやつだな。名前を呼ぶだけで大泣きされちゃあ、落ち込みもするってもんだ。まぁそんな訳だから、マテアスもよぉく慰めてやってくれ」
ぐりぐりと頭をなでてから、ジークフリートは颯爽と行ってしまった。
「名前を呼ぶだけで……?」
恋煩いはともかく、目つきの悪いジークヴァルトに怖がられでもしたのだろう。マテアスはそういうことならばと、とりあえず様子を見ることにした。
だが数か月経っても、ジークヴァルトの様子は相変わらずだ。さすがのマテアスも心配になってくる。時間さえあれば飽きもせずに肖像画を見続ける主に、かける言葉をずっと探していた。
「マテアス、初恋とはなんだ?」
「へ? はつこい?」
考えあぐねていた時に、ジークヴァルトが先に口を開いた。主からそんなワードが飛び出すとは思ってもみなかったマテアスは、その文字を理解するのに数秒を要してしまった。
「初恋とは……はじめての恋のことです」
「はじめての恋? 恋とはなんだ?」
「恋とは、ひとを好きになることですね」
「ひとを好きになる……? では好き、とはなんだ?」
「え? 好き……とは、嫌いの反対のことです」
「嫌いの反対?」
「ヴァルト様は酸っぱいものがお嫌いでしょう?」
「嫌いというか、好きではないだけだ」
「と、とにかく! 嫌いの反対が好きで、嫌いではないということが好きということです!」
六歳のジークヴァルトに矢継ぎ早に問われ、十一歳のマテアスはそんなふうにしか返せなかった。だがこんなことを聞いてくるのは、ジークフリートにからかわれたからだろう。会いに行った婚約者を初恋の相手と言われ、よく分からずに困惑しているに違いない。
「……マテアスのことも別に嫌いではないぞ」
「わたしを初恋の相手にするのは勘弁してください! 恋とは異性にするものです。ああっと、家族も駄目ですよ。ディートリンデ奥様やアデライーデ様も除外してお考えください」
とんでもないことを言い出す主に慌てて首を振る。マテアスにも初恋らしきものの経験はあったが、その淡い思いは一瞬で潰えてしまった。学業、武術と学ぶことの多いマテアスにとって、ジークヴァルトに色恋の知識を的確に説明するのは荷が重いことだった。
「そうか……」
だがジークヴァルトはそれで納得したように、再び飾られた肖像画を見上げた。そのまま微動だにもしなくなる。
マテアスは気がつかなかった。この段階で、「初恋の相手」=「家族以外のはじめて嫌いではないと思った女性」という変換が、ジークヴァルトの中でなされていたことに。
このことが原因で、あらぬ方向へ主が初恋をこじらせていくなどと、どうして予想し得ただろう。そのせいで後の自分が苦労するのは、自業自得と言うべきか。
こんな会話は忙しい日々に埋もれていって、ジークヴァルトの恋は、冬に眠る土中の種のごとく息をひそめることになる。
ひそやかに育まれ続けた初恋は、その後十一年の歳月を経て、春の息吹とともにようやく動き出すのであったーー
◇
「お嬢様の肖像画が?」
「ええ。ダーミッシュのお屋敷にもジークヴァルト様の肖像画があるでしょう? 同じようにわたくしの絵もフーゲンベル家に贈られたみたいなの」
「子供の頃のお嬢様……それはそれは愛らしかったのでしょうね……」
公爵家のサロンでお茶を飲みながら、エラはうっとりとしたため息をついた。
エラがダーミッシュ家にやってきたのはリーゼロッテが十歳のときだ。初めて会った日もなんて可愛らしい少女なのかと驚いたが、幼いリーゼロッテなど、きっと妖精にしか見えなかったことだろう。
「機会があればわたしも見てみたいものです」
「でもあの絵はヴァルト様のお部屋に飾ってあるのよね」
不満そうにリーゼロッテは唇を尖らせた。
「居間のいちばん目立つ場所に飾ってあるのよ? ソファに座ると嫌でも目に入ってしまうから、わたくしそれが恥ずかしくって」
「では公爵様はお嬢様の絵を、毎日見てお過ごしになっているのですね」
うらやましそうに言うエラに、リーゼロッテは顔を赤らめた。あの絵はジークヴァルトが五歳のときに贈られた。それ以来、ずっとあそこに飾ってあるらしい。
初恋の相手は自分だと、ジークヴァルトは言っていた。はじめて会ったあの日から、絵を見てはリーゼロッテのことを思い出していたのだろうか?
(駄目だわ、ドキがムネムネする……!)
身の内から溢れそうになる力の渦を、慌てて抑え込んだ。動揺するたびに倒れていては、周りに迷惑すぎると言うものだ。
「駄々漏れてるぞ」
その声と共に、クッキーが口の中へと詰め込まれた。驚いて見上げたそこには、ジークヴァルトが立っている。エラはさっと遠巻きに控えるように移動した。
「じーふヴぁるとさま……」
青い瞳に見つめられ、もごもごしながらさらに動悸が激しくなる。不意打ちはやめてほしい。本当にやめてほしい。
「ふっ、仕方のない奴だな」
隣に座ったジークヴァルトが髪をやさしく梳いてくる。指がなぞるたびに、青の力がリーゼロッテへと入ってくるのが分かった。乱れた流れを導くように、ゆっくりと内を巡っていく。
綺麗な青と自分の緑が、溶け込むように流れるのが分かった。早まる鼓動はそのままに、溢れそうになっていた力は、穏やかな対流を取りもどす。
「落ち着いたか?」
「はい……」
髪を梳いていた手が、頬の上で動きを止めた。ジークヴァルトの大きな手は耳まで届いて、その指先が耳たぶを挟んでやわやわと弄んでくる。
くすぐったさと恥ずかしさで、身をすくませながら視線を逸らした。ジークヴァルトのおかげで力の制御は効いているが、口から心臓が飛び出しそうだ。
「リーゼロッテ」
ふいに呼ばれて顔を上げる。
「そら、あーんだ」
やさしくクッキーを口に差し入れられ、おとなしくそれを受け入れた。あれだけ恥ずかしいからやめてほしいと思っていたこの行為も、今ではただうれしく感じてしまう。
デルプフェルト家の夜会以来、ジークヴァルトは名前で呼んでくれるようになった。そのことが何よりうれしくて仕方がない。
(だけど恥ずかしさは倍増だわ)
エラをはじめ、周囲にいた使用人たちがじっとこちらを見やっている。みな一様に口元をむにむにさせて、何やら笑いを堪えているようだ。すぐ近くにいるジークハルトも、先ほどからずっとによによとした顔で浮いている。
『リーゼロッテ、なんだかうれしそうだね』
「ヴァルト様が名前で呼んでくださるようになったので……わたくしそれがうれしくて」
あーんがうれしいとは恥ずかしくて言えなかったので、言い訳のようにそう答えた。
『あれ? ヴァルトと初めて会った日のこと、リーゼロッテはやっぱり覚えていないんだ?』
「え? いいえ、わたくしちゃんと覚えておりますわ」
黒いモヤを纏うジークヴァルトが怖すぎて、とにかくギャン泣きしたことは鮮明に記憶に残っている。そんな自分に恋をしたというのだから、ジークヴァルトは物好きだとしか言いようがない。
『でもヴァルトがなんでずっと名前を呼べなかったのか、リーゼロッテはその理由を覚えてないんでしょ? そっか、よっぽどショックだったんだなぁ』
「名前を、呼べなかった理由……?」
意味が分からずこてんと首を傾けた。呼ばなかったならまだしも、呼べなかった訳とは一体何なのか。答えを求めるようにジークヴァルトの顔を見る。
「いや、覚えてないならそれでいい」
「え? ですが……」
「いい。思い出さなくていい」
「でも」
「覚えていないものを無理に思い出すことはない」
さらに反論しかけたリーゼロッテの口に、ジークヴァルトは素早くクッキーを差し入れた。唇を尖らせながらも、リーゼロッテはそれを素直に飲み込んでいく。
「もう、ヴァルト様。あーんは一日一回までですわ」
「あーんとは言ってない」
お決まりの文句を返すと、リーゼロッテは仕方ないという顔をした。それからふわりとやさしい笑みをこぼす。その顔を見て、ジークヴァルトの瞳が眩しそうに細められた。
彼女はいろんな顔を見せてくる。笑顔も、怒った顔も、泣き顔も。そのすべてがこの世界に色を与えてくれる。
もし彼女を失ったとしたら、きっとすべてが何の意味も持たなくなるのだろう。そんなことを思って、ジークヴァルトはふっと笑った。
ーー今、目の前に彼女がいる
「それだけで十分だ」
小さくつぶやかれた言葉に、リーゼロッテは不思議そうに首をかしげた。そんな様子を愛おしそうに眺め、ジークヴァルトは再びその頬に指を滑らせていく。
『それでヴァルトが名前を呼ばなかった理由なんだけど……』
「うるさい、お前は黙れ」
「でもそのお話、わたくし詳しく聞きたいですわ」
「いい、聞かなくていい」
「ですが」
「駄目だ。忘れているなら思い出さなくていい」
『えー、聞きたいって言うんだからいいじゃない』
「ハルト様のおっしゃる通りですわ」
「いや駄目だ却下だ、ハルトはそれ以上言うな。リーゼロッテ、お前もわざわざ聞かなくていい」
「横暴ですわ、ヴァルト様」
『横暴だよね、ホント、ヴァルトは』
「うるさい、とにかく駄目だ」
「え? あっ、きゃあ!」
いきなりリーゼロッテを抱え上げると、ジークヴァルトはその場から逃げるように駆けだした。周囲にいた者はぽかんとその場に取り残される。
『ヴァルト、ほんと、よかったね』
誰にも届かない声で、守護者(ジークハルト)だけがひらひらとふたりに手を振った。
リーゼロッテを抱えたジークヴァルトが、公爵家の呪いを発動させながら屋敷の廊下を駆けていく。
使用人が呆気にとられる中、廊下をひっくり返して進むふたりの後ろを、きゅるるん小鬼がご機嫌で飛び跳ねる。少し遅れたカークが、この珍妙な行列を、慌てたように追いかけていった。
この後、憤死寸前のマテアスに、ジークヴァルトが盛大に叱られたのは言うまでもない。
次回から第4章突入です!
「あっ、旦那様! 少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
マテアスは廊下で見かけたジークフリートを慌てて呼び止めた。
ラウエンシュタイン城から戻って数日、ジークヴァルトの様子が何やらおかしい。自室でぼんやりと婚約者の絵を見上げている主の小さな背中を見やり、マテアスはひとり眉をひそめていた。
「お? なんだ、マテアス。オレに用とはめずらしいな」
頭にポンと手を置いて、ジークフリートはやさしく笑いかけた。
「はい、ヴァルト様のことなのですが、ラウエンシュタインからお戻りなってから、ぼんやりなさることが多くなって……」
「ああ、そりゃ、恋煩いだな」
「恋煩い!? あのヴァルト様が?」
あんぐりと口を開けたまま、マテアスはジークフリートの顔を見上げた。あのジークヴァルトだ。まさかそんなことがという声が、マテアスの頭の大半を占めていた。
「ヴァルトのやつ、しょっぱなからリーゼロッテに嫌われてしまってなぁ。話を聞いたマルグリット様がご立腹になったらしくて、リーゼロッテが十五になるまで、二度と会いに来るなと言われてしまったんだ」
「えぇ……? ヴァルト様は一体何をやらかしたんですか?」
「はっはっは、それは若気の至りってやつだな。名前を呼ぶだけで大泣きされちゃあ、落ち込みもするってもんだ。まぁそんな訳だから、マテアスもよぉく慰めてやってくれ」
ぐりぐりと頭をなでてから、ジークフリートは颯爽と行ってしまった。
「名前を呼ぶだけで……?」
恋煩いはともかく、目つきの悪いジークヴァルトに怖がられでもしたのだろう。マテアスはそういうことならばと、とりあえず様子を見ることにした。
だが数か月経っても、ジークヴァルトの様子は相変わらずだ。さすがのマテアスも心配になってくる。時間さえあれば飽きもせずに肖像画を見続ける主に、かける言葉をずっと探していた。
「マテアス、初恋とはなんだ?」
「へ? はつこい?」
考えあぐねていた時に、ジークヴァルトが先に口を開いた。主からそんなワードが飛び出すとは思ってもみなかったマテアスは、その文字を理解するのに数秒を要してしまった。
「初恋とは……はじめての恋のことです」
「はじめての恋? 恋とはなんだ?」
「恋とは、ひとを好きになることですね」
「ひとを好きになる……? では好き、とはなんだ?」
「え? 好き……とは、嫌いの反対のことです」
「嫌いの反対?」
「ヴァルト様は酸っぱいものがお嫌いでしょう?」
「嫌いというか、好きではないだけだ」
「と、とにかく! 嫌いの反対が好きで、嫌いではないということが好きということです!」
六歳のジークヴァルトに矢継ぎ早に問われ、十一歳のマテアスはそんなふうにしか返せなかった。だがこんなことを聞いてくるのは、ジークフリートにからかわれたからだろう。会いに行った婚約者を初恋の相手と言われ、よく分からずに困惑しているに違いない。
「……マテアスのことも別に嫌いではないぞ」
「わたしを初恋の相手にするのは勘弁してください! 恋とは異性にするものです。ああっと、家族も駄目ですよ。ディートリンデ奥様やアデライーデ様も除外してお考えください」
とんでもないことを言い出す主に慌てて首を振る。マテアスにも初恋らしきものの経験はあったが、その淡い思いは一瞬で潰えてしまった。学業、武術と学ぶことの多いマテアスにとって、ジークヴァルトに色恋の知識を的確に説明するのは荷が重いことだった。
「そうか……」
だがジークヴァルトはそれで納得したように、再び飾られた肖像画を見上げた。そのまま微動だにもしなくなる。
マテアスは気がつかなかった。この段階で、「初恋の相手」=「家族以外のはじめて嫌いではないと思った女性」という変換が、ジークヴァルトの中でなされていたことに。
このことが原因で、あらぬ方向へ主が初恋をこじらせていくなどと、どうして予想し得ただろう。そのせいで後の自分が苦労するのは、自業自得と言うべきか。
こんな会話は忙しい日々に埋もれていって、ジークヴァルトの恋は、冬に眠る土中の種のごとく息をひそめることになる。
ひそやかに育まれ続けた初恋は、その後十一年の歳月を経て、春の息吹とともにようやく動き出すのであったーー
◇
「お嬢様の肖像画が?」
「ええ。ダーミッシュのお屋敷にもジークヴァルト様の肖像画があるでしょう? 同じようにわたくしの絵もフーゲンベル家に贈られたみたいなの」
「子供の頃のお嬢様……それはそれは愛らしかったのでしょうね……」
公爵家のサロンでお茶を飲みながら、エラはうっとりとしたため息をついた。
エラがダーミッシュ家にやってきたのはリーゼロッテが十歳のときだ。初めて会った日もなんて可愛らしい少女なのかと驚いたが、幼いリーゼロッテなど、きっと妖精にしか見えなかったことだろう。
「機会があればわたしも見てみたいものです」
「でもあの絵はヴァルト様のお部屋に飾ってあるのよね」
不満そうにリーゼロッテは唇を尖らせた。
「居間のいちばん目立つ場所に飾ってあるのよ? ソファに座ると嫌でも目に入ってしまうから、わたくしそれが恥ずかしくって」
「では公爵様はお嬢様の絵を、毎日見てお過ごしになっているのですね」
うらやましそうに言うエラに、リーゼロッテは顔を赤らめた。あの絵はジークヴァルトが五歳のときに贈られた。それ以来、ずっとあそこに飾ってあるらしい。
初恋の相手は自分だと、ジークヴァルトは言っていた。はじめて会ったあの日から、絵を見てはリーゼロッテのことを思い出していたのだろうか?
(駄目だわ、ドキがムネムネする……!)
身の内から溢れそうになる力の渦を、慌てて抑え込んだ。動揺するたびに倒れていては、周りに迷惑すぎると言うものだ。
「駄々漏れてるぞ」
その声と共に、クッキーが口の中へと詰め込まれた。驚いて見上げたそこには、ジークヴァルトが立っている。エラはさっと遠巻きに控えるように移動した。
「じーふヴぁるとさま……」
青い瞳に見つめられ、もごもごしながらさらに動悸が激しくなる。不意打ちはやめてほしい。本当にやめてほしい。
「ふっ、仕方のない奴だな」
隣に座ったジークヴァルトが髪をやさしく梳いてくる。指がなぞるたびに、青の力がリーゼロッテへと入ってくるのが分かった。乱れた流れを導くように、ゆっくりと内を巡っていく。
綺麗な青と自分の緑が、溶け込むように流れるのが分かった。早まる鼓動はそのままに、溢れそうになっていた力は、穏やかな対流を取りもどす。
「落ち着いたか?」
「はい……」
髪を梳いていた手が、頬の上で動きを止めた。ジークヴァルトの大きな手は耳まで届いて、その指先が耳たぶを挟んでやわやわと弄んでくる。
くすぐったさと恥ずかしさで、身をすくませながら視線を逸らした。ジークヴァルトのおかげで力の制御は効いているが、口から心臓が飛び出しそうだ。
「リーゼロッテ」
ふいに呼ばれて顔を上げる。
「そら、あーんだ」
やさしくクッキーを口に差し入れられ、おとなしくそれを受け入れた。あれだけ恥ずかしいからやめてほしいと思っていたこの行為も、今ではただうれしく感じてしまう。
デルプフェルト家の夜会以来、ジークヴァルトは名前で呼んでくれるようになった。そのことが何よりうれしくて仕方がない。
(だけど恥ずかしさは倍増だわ)
エラをはじめ、周囲にいた使用人たちがじっとこちらを見やっている。みな一様に口元をむにむにさせて、何やら笑いを堪えているようだ。すぐ近くにいるジークハルトも、先ほどからずっとによによとした顔で浮いている。
『リーゼロッテ、なんだかうれしそうだね』
「ヴァルト様が名前で呼んでくださるようになったので……わたくしそれがうれしくて」
あーんがうれしいとは恥ずかしくて言えなかったので、言い訳のようにそう答えた。
『あれ? ヴァルトと初めて会った日のこと、リーゼロッテはやっぱり覚えていないんだ?』
「え? いいえ、わたくしちゃんと覚えておりますわ」
黒いモヤを纏うジークヴァルトが怖すぎて、とにかくギャン泣きしたことは鮮明に記憶に残っている。そんな自分に恋をしたというのだから、ジークヴァルトは物好きだとしか言いようがない。
『でもヴァルトがなんでずっと名前を呼べなかったのか、リーゼロッテはその理由を覚えてないんでしょ? そっか、よっぽどショックだったんだなぁ』
「名前を、呼べなかった理由……?」
意味が分からずこてんと首を傾けた。呼ばなかったならまだしも、呼べなかった訳とは一体何なのか。答えを求めるようにジークヴァルトの顔を見る。
「いや、覚えてないならそれでいい」
「え? ですが……」
「いい。思い出さなくていい」
「でも」
「覚えていないものを無理に思い出すことはない」
さらに反論しかけたリーゼロッテの口に、ジークヴァルトは素早くクッキーを差し入れた。唇を尖らせながらも、リーゼロッテはそれを素直に飲み込んでいく。
「もう、ヴァルト様。あーんは一日一回までですわ」
「あーんとは言ってない」
お決まりの文句を返すと、リーゼロッテは仕方ないという顔をした。それからふわりとやさしい笑みをこぼす。その顔を見て、ジークヴァルトの瞳が眩しそうに細められた。
彼女はいろんな顔を見せてくる。笑顔も、怒った顔も、泣き顔も。そのすべてがこの世界に色を与えてくれる。
もし彼女を失ったとしたら、きっとすべてが何の意味も持たなくなるのだろう。そんなことを思って、ジークヴァルトはふっと笑った。
ーー今、目の前に彼女がいる
「それだけで十分だ」
小さくつぶやかれた言葉に、リーゼロッテは不思議そうに首をかしげた。そんな様子を愛おしそうに眺め、ジークヴァルトは再びその頬に指を滑らせていく。
『それでヴァルトが名前を呼ばなかった理由なんだけど……』
「うるさい、お前は黙れ」
「でもそのお話、わたくし詳しく聞きたいですわ」
「いい、聞かなくていい」
「ですが」
「駄目だ。忘れているなら思い出さなくていい」
『えー、聞きたいって言うんだからいいじゃない』
「ハルト様のおっしゃる通りですわ」
「いや駄目だ却下だ、ハルトはそれ以上言うな。リーゼロッテ、お前もわざわざ聞かなくていい」
「横暴ですわ、ヴァルト様」
『横暴だよね、ホント、ヴァルトは』
「うるさい、とにかく駄目だ」
「え? あっ、きゃあ!」
いきなりリーゼロッテを抱え上げると、ジークヴァルトはその場から逃げるように駆けだした。周囲にいた者はぽかんとその場に取り残される。
『ヴァルト、ほんと、よかったね』
誰にも届かない声で、守護者(ジークハルト)だけがひらひらとふたりに手を振った。
リーゼロッテを抱えたジークヴァルトが、公爵家の呪いを発動させながら屋敷の廊下を駆けていく。
使用人が呆気にとられる中、廊下をひっくり返して進むふたりの後ろを、きゅるるん小鬼がご機嫌で飛び跳ねる。少し遅れたカークが、この珍妙な行列を、慌てたように追いかけていった。
この後、憤死寸前のマテアスに、ジークヴァルトが盛大に叱られたのは言うまでもない。
次回から第4章突入です!
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