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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
番外編 きみのいる世界(前)
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「この方がヴァルト様の未来の花嫁様ですぞ」
そう言ってエッカルトが持ってきたのは、一枚の肖像画だった。掲げられた絵から目が離せない。焦がれるような何かが湧き上がり、戸惑いの中、そこに描かれた少女を食い入るようにじっと見つめた。
蜂蜜色の髪をたなびかせた少女は、きっと陽だまりの中にいるのだろう。光り輝くような笑顔が眩しくて、ジークヴァルトはそんなことを思った。
いつも座る真正面の壁に、その肖像画は飾られた。見上げるといつでも彼女は笑いかけてくる。
褪せた世界は、そこだけが色を取り戻した。
理由もないままジークヴァルトの瞳には、いつでもそう、映って見えた――
◇
「ほぅら、ジークヴァルト。あれがラウエンシュタイン城だぞ」
父親に連れられて向かった先は、龍の託宣により決められた婚約者の元だった。フーゲンベルクの屋敷を出て、もう三日ほどが経つ。初めての長旅に、ジークヴァルトはいつも以上に固まった表情で、馬車の窓から外を眺めていた。
「なんだ? 緊張してるのか? あの城は結界で包まれているらしいから、異形の者もいないと思うぞ? ああ、初めて会う託宣の相手が気になるんだな。可愛い娘だったもんな。だが、肖像画はちょっと大げさに描いてあることもあるから、絵と違う娘が出てきても驚くんじゃないぞ?」
頭をぐりぐりとなでられながら、ジークヴァルトはただ頷き返した。父親とふたりきりで長く過ごすのも初めてのことだ。マテアスがそばにいないのも、なんだかおかしな感じがした。
深い外堀がぐるりと囲むラウエンシュタイン城は、まるで湖の真ん中に建っているかように見えた。堀の中には碧の水が湛えられ、時折枯れ葉がくるくると踊りながら緩やかに流されていく。
堀の水は透明度が高く、底に敷かれた石の細部までも見通すことができた。浅そうでいて深そうにも感じる。吸い込まれるような不思議な感覚を、光の屈折はもたらしてきた。
馬車から降り、その石造りの城を見上げた。城壁は高く、侵入者のすべてを拒むような物々しさだ。ぽんと頭に手を置かれ、隣に立つジークフリートに顔を向ける。
「ここからは歩きだ。あの城へは許された者しか入れない」
いつになく硬い声音の父親に、ジークヴァルトは再び城へと視線を戻した。空を割くように、長い跳ね橋が城壁からゆっくりと降ろされていく。鎖の軋む音が、初秋の乾いた空気の中を重く響き渡った。
ごうんと最後に音を立て、水平となった橋は動きを止めた。水が流れる涼やかな音色だけが、この場を静かに満たす。
「行こうか、ヴァルト。何、心配するな。ひと目見ればすぐ分かる。託宣の相手とはそういうもんだ」
城へと一直線に伸びる跳ね橋を進み出したジークフリートの後ろを、ジークヴァルトも黙って続いた。
堀の水面が日差しを返し、進むごとに揺れる碧が眩しく乱反射する。それと同時に包む空気が澄み切っていくのを、ジークヴァルトはつぶさに肌で感じ取っていた。
この先に肖像画の少女がいる。そう言われても、実感など微塵も湧かなかった。
ジークヴァルトにとって色づいた場所はあの額縁の中だけだ。きっと彼女はこの世の存在ではないに違いない。そのほうがよほどしっくりくるように、ジークヴァルトには思えてならなかった。
近づくにつれ城の大きな鉄の扉が開かれていく。そびえたつ城門の前まで来ると、何かがこすれ合うような音がした。振り向くと、弛んでいた鎖が強く張られ、重い地響きと共に再び跳ね橋が立ち昇っていく。遮ることのない清浄な空気は、回る歯車の振動をどこまでも遠く響かせた。
高い鉄門をくぐり城内の敷地へと入る。誰もいないがらんとした庭は、整然としすぎていて逆に落ち着かなく感じられた。過ぎた鉄門が閉まりゆく音を背に、まっ平らな石畳をふたりは進んでいった。
「お? なんだ、お前ら。やけに愛嬌のある異形だな」
丸く整えられた茂みの陰に、瞳がきゅるんとした小さな異形が数匹、ぴるぴると震えながら隠れていた。ジークヴァルトの姿を見て、怯えるように身を寄せ合っている。
「それはリーゼロッテの小鬼です。祓わないでやってもらえますか?」
気配なく現れた男に、ジークヴァルトは思わず身構えた。先に続く石畳の小路から、銀髪の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「ようこそおいでくださいました、フーゲンベルク公爵。それに、ご令息も。あいにく妻は王城へと呼ばれていまして、わたしひとりの出迎えで申し訳ありません」
そこに立つのはジークフリートよりも随分と若い男だった。物腰は柔らかだが、どこか冷たそうな印象を与える風貌だ。
「いえいえ、ラウエンシュタイン公爵はお美しいと噂ですからね。イグナーツ殿が隠しておきたいと思ったとしても仕方のないことです」
「ははは、そうしたいのは山々ですが。でき得ればどこかに閉じ込めて、妻を誰の目にも触れさせたくないと本気で思いますけどね」
「おお! イグナーツ殿も! なんだか貴殿とは気が合いそうだ。お互い公爵家ですし、いずれ親戚となる間柄。敬語はなしにしませんか?」
「それはありがたい話です、ジークフリート殿」
「では、そういうことで。ほら、ヴァルト。お前の未来の花嫁の父君だぞ?」
「ジークヴァルト・フーゲンベルクと申します。以後、お見知りおきを」
「娘も君に会えるのを楽しみにしていたよ。仲良くやってくれるとうれしいな」
「……はい」
イグナーツに顔を覗き込まれて、ジークヴァルトは小さく頷いた。つり気味の金色の瞳がおもしろそうに細められる。
「リーゼロッテの肖像画は見てくれた?」
「はい」
「どう思ったかな?」
「……色が、ついていました」
「おいおい、ヴァルト。もっとほかに言いようがあるだろう?」
ジークフリートに呆れたように言われ、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「申し訳ない。息子は少々口下手なもので」
「構いませんよ。ジークヴァルト、君は緊張しているのかな? これから初めて託宣の相手に会うんだ。無理もないね」
「はっはっは、言われてみればそれもそうだな」
眉間にしわを寄せたままの息子の頭を、ジークフリートはぐりぐりとなでた。ジークヴァルトはなすがままにされている。
「ボクなど、初めて妻の姿を目にしたときは、雷に打たれたように感じましたよ」
「なるほど。オレはリンデと物心ついたころからずっと一緒だったからなぁ」
「それはなんともうらやましい。ボクが彼女に出会ったのは十二の時でしたから。婚姻前までは年に一度か会えませんでしたし」
「なんと! それはさぞやつらかったかと。リンデの顔が一年も見られないなんて……そんな苦行、オレには耐えられそうにない」
「ははは、ボクも今だから笑える話ですがね」
そんな話をしながら、イグナーツに促されて歩き出す。しばらく庭を進むとその先に、下へと降りる幅広の石造りの階段が目に入った。
「ロッテ。お待ちかねのひとを連れてきたよ」
階段下にいる誰かに向けて、イグナーツが声をかけた。先に降りて行ったふたりの背を追って、ジークヴァルトも階段へと向かう。だがその歩みはそこで止まってしまった。
階段の縁に立ち、ただ目を奪われる。
見下ろす庭に、摘んだ花を両手いっぱいに抱えた少女がいた。その周りだけが切り取ったように、なぜだか眩しく光って見えた。風が攫った蜂蜜色の長い髪が、緩やかに舞い上げられていく。
同じような小さな異形が瞳を潤ませながら、風に膨らんだスカートにまとわりついている。少女は大きな瞳を見開いて、じっとこちらを見上げていた。
勝手に足が前に出て階段を降り、ジークヴァルトは気づくと少女の目の前まで歩み寄っていた。あの絵と同じ緑の瞳が、自分を見つめ返してくる。だがその顔に笑顔はなく、驚いたように固まったままだった。
微動だにしない少女が幻でないことを確かめたくて、ジークヴァルトは無意識にその手を伸ばした。艶やかな髪に指を差し入れて、小さな顔を自身へと引き寄せる。浮かされるような熱に導かれるまま、当たり前のようにジークヴァルトは少女と唇を重ねた。
(やわらかい)
あたたかなその感触に、夢中になってさらに深く口づける。両親がいつもしているように、見よう見まねで舌を差し入れた。
その瞬間、少女の喉がひゅっと鳴った。両肩を掴むように強く押され、抱えていた花束が足元に散らばった。見開かれた緑の瞳に、透明な液体がせり上がってくる。かと思うと、火がついたように少女は突然泣き出した。
目の前でぼろぼろとこぼされる涙を、ジークヴァルトは食い入るようにただ見つめていた。その一瞬一瞬を焼きつけるように、瞬きはおろか、息をすることすらも忘れて。
「おい、ヴァルト! 託宣の相手にやっと会えたからって、挨拶もなしにそれはないだろう!? すまない、イグナーツ殿」
ジークフリートが引き離すように、慌てて少女を抱え上げた。わんわんと泣きながら、少女が父の首にしがみつく。その様子にちりとした痛みが、ジークヴァルトの奥に小さく生まれ落ちた。
「いや、ジークヴァルト分かんぞ、その気持ち! オレもマルグリットに初めて会った時、お前とまったくおんなじことしたわっ」
げらげらと笑いながら、今度はイグナーツがジークヴァルトの頭をぐりぐりとなで回してきた。乱暴すぎるその動きに、ジークヴァルトの首も同時にぐるぐる回る。
「やべー、可笑しすぎて素が出ちまった」
目じりに涙を浮かべ、イグナーツはいつまでも腹を抱えて身をよじらせている。
泣き続ける少女をあやすように、ジークフリートは庭の中を歩き回った。それでも少女はなかなか泣き止まない。
「あああ、泣かないでくれリーゼロッテ。そんなに泣いたらおめめがとけちゃうんだぞ? 本当にヴァルトは悪い奴だな。だが、これをやるからなんとか仲直りしてくれないか?」
「なかなおり?」
ぐずぐずと泣き続けながら、少女は小さく鼻をすすった。初めて聞く声は、響くようにジークヴァルトの耳に届けられた。
「ああ、リーゼロッテに贈り物だ。ほぅら、綺麗だろう?」
青い守り石がついたペンダントを、目の前に差し出した。それを受け取った少女が、不思議そうにチェーンを揺らす。
「……きれい」
涙がたまったままの目を見開いて、少女は日の光にかざすように守り石を揺らした。何度もそうしているうちに、その顔が緩く笑顔を作る。
「そうかそうか、気に入ってくれたか」
ほっとしたようにジークフリートは少女をすぐ近くに降ろした。一歩近づくと、守り石に夢中になっていた少女は、ジークヴァルトに気づいて再び顔を強張らせた。
「リーゼロッテ」
手を伸ばしながら、初めてその名を呼んだ。と同時に少女の体がびくりと大きく震える。
「リーゼロッ……」
びくっ
「リーゼ……」
びくびくっ
「リー……」
びくびくびくっ
見ていて可哀そうなくらい怯える様子に、ジークヴァルトもさすがにその口をつぐんだ。伸ばしかけた手をそのままに、対峙するように見つめ合う。
「ヴァルト……お前、すっかり嫌われたなぁ」
困ったように言うジークフリートの前で、ぐっと口を引き結んだ。考えあぐねた挙句、ようやく見つけた言葉で呼びかける。
「……ラウエンシュタイン嬢」
ぽつりと言うと、少女はきょとんとした顔をした。
「呼ばれ慣れてないから、ロッテは分かってなさそうだな」
「はぁぁ、名前も呼ばせてもらえないんじゃあ、お前リーゼロッテに相当嫌われたぞ?」
「はははっ、それも力いっぱい覚えがあんぞ! 大丈夫だ、ジークヴァルト。それでもオレはちゃんとマルグリットの愛を勝ち取った!」
もう取り繕う気がなくなったのか、イグナーツは声をたてて大きく笑った。
「まぁ、オレもしつこくしすぎて、リンデによく怒られてるからなぁ」
「フリート殿も! いやぁ、オレたち実に気が合いそうだ」
「まったくだ!」
はっはっはと笑うと、ジークフリートはイグナーツと仲良く肩を組んだ。愉快そうにふたりで笑い合いながら、ジークヴァルトの頭を同時にぐちゃぐちゃになでてくる。
「いやぁ、ヴァルトの初恋がこんな苦い思い出になるとはなぁ」
「ははは、何とも世知辛い!」
そんな男どもに興味がなくなったのか、リーゼロッテはくるっとこちらに背を向けた。守り石を光にかざしながら、スカートの裾を跳ねさせご機嫌な様子でスキップをしていく。
きゅるるん小鬼を引き連れて、茂みの奥へとそのままリーゼロッテの小さな姿は消えてしまった。
そう言ってエッカルトが持ってきたのは、一枚の肖像画だった。掲げられた絵から目が離せない。焦がれるような何かが湧き上がり、戸惑いの中、そこに描かれた少女を食い入るようにじっと見つめた。
蜂蜜色の髪をたなびかせた少女は、きっと陽だまりの中にいるのだろう。光り輝くような笑顔が眩しくて、ジークヴァルトはそんなことを思った。
いつも座る真正面の壁に、その肖像画は飾られた。見上げるといつでも彼女は笑いかけてくる。
褪せた世界は、そこだけが色を取り戻した。
理由もないままジークヴァルトの瞳には、いつでもそう、映って見えた――
◇
「ほぅら、ジークヴァルト。あれがラウエンシュタイン城だぞ」
父親に連れられて向かった先は、龍の託宣により決められた婚約者の元だった。フーゲンベルクの屋敷を出て、もう三日ほどが経つ。初めての長旅に、ジークヴァルトはいつも以上に固まった表情で、馬車の窓から外を眺めていた。
「なんだ? 緊張してるのか? あの城は結界で包まれているらしいから、異形の者もいないと思うぞ? ああ、初めて会う託宣の相手が気になるんだな。可愛い娘だったもんな。だが、肖像画はちょっと大げさに描いてあることもあるから、絵と違う娘が出てきても驚くんじゃないぞ?」
頭をぐりぐりとなでられながら、ジークヴァルトはただ頷き返した。父親とふたりきりで長く過ごすのも初めてのことだ。マテアスがそばにいないのも、なんだかおかしな感じがした。
深い外堀がぐるりと囲むラウエンシュタイン城は、まるで湖の真ん中に建っているかように見えた。堀の中には碧の水が湛えられ、時折枯れ葉がくるくると踊りながら緩やかに流されていく。
堀の水は透明度が高く、底に敷かれた石の細部までも見通すことができた。浅そうでいて深そうにも感じる。吸い込まれるような不思議な感覚を、光の屈折はもたらしてきた。
馬車から降り、その石造りの城を見上げた。城壁は高く、侵入者のすべてを拒むような物々しさだ。ぽんと頭に手を置かれ、隣に立つジークフリートに顔を向ける。
「ここからは歩きだ。あの城へは許された者しか入れない」
いつになく硬い声音の父親に、ジークヴァルトは再び城へと視線を戻した。空を割くように、長い跳ね橋が城壁からゆっくりと降ろされていく。鎖の軋む音が、初秋の乾いた空気の中を重く響き渡った。
ごうんと最後に音を立て、水平となった橋は動きを止めた。水が流れる涼やかな音色だけが、この場を静かに満たす。
「行こうか、ヴァルト。何、心配するな。ひと目見ればすぐ分かる。託宣の相手とはそういうもんだ」
城へと一直線に伸びる跳ね橋を進み出したジークフリートの後ろを、ジークヴァルトも黙って続いた。
堀の水面が日差しを返し、進むごとに揺れる碧が眩しく乱反射する。それと同時に包む空気が澄み切っていくのを、ジークヴァルトはつぶさに肌で感じ取っていた。
この先に肖像画の少女がいる。そう言われても、実感など微塵も湧かなかった。
ジークヴァルトにとって色づいた場所はあの額縁の中だけだ。きっと彼女はこの世の存在ではないに違いない。そのほうがよほどしっくりくるように、ジークヴァルトには思えてならなかった。
近づくにつれ城の大きな鉄の扉が開かれていく。そびえたつ城門の前まで来ると、何かがこすれ合うような音がした。振り向くと、弛んでいた鎖が強く張られ、重い地響きと共に再び跳ね橋が立ち昇っていく。遮ることのない清浄な空気は、回る歯車の振動をどこまでも遠く響かせた。
高い鉄門をくぐり城内の敷地へと入る。誰もいないがらんとした庭は、整然としすぎていて逆に落ち着かなく感じられた。過ぎた鉄門が閉まりゆく音を背に、まっ平らな石畳をふたりは進んでいった。
「お? なんだ、お前ら。やけに愛嬌のある異形だな」
丸く整えられた茂みの陰に、瞳がきゅるんとした小さな異形が数匹、ぴるぴると震えながら隠れていた。ジークヴァルトの姿を見て、怯えるように身を寄せ合っている。
「それはリーゼロッテの小鬼です。祓わないでやってもらえますか?」
気配なく現れた男に、ジークヴァルトは思わず身構えた。先に続く石畳の小路から、銀髪の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「ようこそおいでくださいました、フーゲンベルク公爵。それに、ご令息も。あいにく妻は王城へと呼ばれていまして、わたしひとりの出迎えで申し訳ありません」
そこに立つのはジークフリートよりも随分と若い男だった。物腰は柔らかだが、どこか冷たそうな印象を与える風貌だ。
「いえいえ、ラウエンシュタイン公爵はお美しいと噂ですからね。イグナーツ殿が隠しておきたいと思ったとしても仕方のないことです」
「ははは、そうしたいのは山々ですが。でき得ればどこかに閉じ込めて、妻を誰の目にも触れさせたくないと本気で思いますけどね」
「おお! イグナーツ殿も! なんだか貴殿とは気が合いそうだ。お互い公爵家ですし、いずれ親戚となる間柄。敬語はなしにしませんか?」
「それはありがたい話です、ジークフリート殿」
「では、そういうことで。ほら、ヴァルト。お前の未来の花嫁の父君だぞ?」
「ジークヴァルト・フーゲンベルクと申します。以後、お見知りおきを」
「娘も君に会えるのを楽しみにしていたよ。仲良くやってくれるとうれしいな」
「……はい」
イグナーツに顔を覗き込まれて、ジークヴァルトは小さく頷いた。つり気味の金色の瞳がおもしろそうに細められる。
「リーゼロッテの肖像画は見てくれた?」
「はい」
「どう思ったかな?」
「……色が、ついていました」
「おいおい、ヴァルト。もっとほかに言いようがあるだろう?」
ジークフリートに呆れたように言われ、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「申し訳ない。息子は少々口下手なもので」
「構いませんよ。ジークヴァルト、君は緊張しているのかな? これから初めて託宣の相手に会うんだ。無理もないね」
「はっはっは、言われてみればそれもそうだな」
眉間にしわを寄せたままの息子の頭を、ジークフリートはぐりぐりとなでた。ジークヴァルトはなすがままにされている。
「ボクなど、初めて妻の姿を目にしたときは、雷に打たれたように感じましたよ」
「なるほど。オレはリンデと物心ついたころからずっと一緒だったからなぁ」
「それはなんともうらやましい。ボクが彼女に出会ったのは十二の時でしたから。婚姻前までは年に一度か会えませんでしたし」
「なんと! それはさぞやつらかったかと。リンデの顔が一年も見られないなんて……そんな苦行、オレには耐えられそうにない」
「ははは、ボクも今だから笑える話ですがね」
そんな話をしながら、イグナーツに促されて歩き出す。しばらく庭を進むとその先に、下へと降りる幅広の石造りの階段が目に入った。
「ロッテ。お待ちかねのひとを連れてきたよ」
階段下にいる誰かに向けて、イグナーツが声をかけた。先に降りて行ったふたりの背を追って、ジークヴァルトも階段へと向かう。だがその歩みはそこで止まってしまった。
階段の縁に立ち、ただ目を奪われる。
見下ろす庭に、摘んだ花を両手いっぱいに抱えた少女がいた。その周りだけが切り取ったように、なぜだか眩しく光って見えた。風が攫った蜂蜜色の長い髪が、緩やかに舞い上げられていく。
同じような小さな異形が瞳を潤ませながら、風に膨らんだスカートにまとわりついている。少女は大きな瞳を見開いて、じっとこちらを見上げていた。
勝手に足が前に出て階段を降り、ジークヴァルトは気づくと少女の目の前まで歩み寄っていた。あの絵と同じ緑の瞳が、自分を見つめ返してくる。だがその顔に笑顔はなく、驚いたように固まったままだった。
微動だにしない少女が幻でないことを確かめたくて、ジークヴァルトは無意識にその手を伸ばした。艶やかな髪に指を差し入れて、小さな顔を自身へと引き寄せる。浮かされるような熱に導かれるまま、当たり前のようにジークヴァルトは少女と唇を重ねた。
(やわらかい)
あたたかなその感触に、夢中になってさらに深く口づける。両親がいつもしているように、見よう見まねで舌を差し入れた。
その瞬間、少女の喉がひゅっと鳴った。両肩を掴むように強く押され、抱えていた花束が足元に散らばった。見開かれた緑の瞳に、透明な液体がせり上がってくる。かと思うと、火がついたように少女は突然泣き出した。
目の前でぼろぼろとこぼされる涙を、ジークヴァルトは食い入るようにただ見つめていた。その一瞬一瞬を焼きつけるように、瞬きはおろか、息をすることすらも忘れて。
「おい、ヴァルト! 託宣の相手にやっと会えたからって、挨拶もなしにそれはないだろう!? すまない、イグナーツ殿」
ジークフリートが引き離すように、慌てて少女を抱え上げた。わんわんと泣きながら、少女が父の首にしがみつく。その様子にちりとした痛みが、ジークヴァルトの奥に小さく生まれ落ちた。
「いや、ジークヴァルト分かんぞ、その気持ち! オレもマルグリットに初めて会った時、お前とまったくおんなじことしたわっ」
げらげらと笑いながら、今度はイグナーツがジークヴァルトの頭をぐりぐりとなで回してきた。乱暴すぎるその動きに、ジークヴァルトの首も同時にぐるぐる回る。
「やべー、可笑しすぎて素が出ちまった」
目じりに涙を浮かべ、イグナーツはいつまでも腹を抱えて身をよじらせている。
泣き続ける少女をあやすように、ジークフリートは庭の中を歩き回った。それでも少女はなかなか泣き止まない。
「あああ、泣かないでくれリーゼロッテ。そんなに泣いたらおめめがとけちゃうんだぞ? 本当にヴァルトは悪い奴だな。だが、これをやるからなんとか仲直りしてくれないか?」
「なかなおり?」
ぐずぐずと泣き続けながら、少女は小さく鼻をすすった。初めて聞く声は、響くようにジークヴァルトの耳に届けられた。
「ああ、リーゼロッテに贈り物だ。ほぅら、綺麗だろう?」
青い守り石がついたペンダントを、目の前に差し出した。それを受け取った少女が、不思議そうにチェーンを揺らす。
「……きれい」
涙がたまったままの目を見開いて、少女は日の光にかざすように守り石を揺らした。何度もそうしているうちに、その顔が緩く笑顔を作る。
「そうかそうか、気に入ってくれたか」
ほっとしたようにジークフリートは少女をすぐ近くに降ろした。一歩近づくと、守り石に夢中になっていた少女は、ジークヴァルトに気づいて再び顔を強張らせた。
「リーゼロッテ」
手を伸ばしながら、初めてその名を呼んだ。と同時に少女の体がびくりと大きく震える。
「リーゼロッ……」
びくっ
「リーゼ……」
びくびくっ
「リー……」
びくびくびくっ
見ていて可哀そうなくらい怯える様子に、ジークヴァルトもさすがにその口をつぐんだ。伸ばしかけた手をそのままに、対峙するように見つめ合う。
「ヴァルト……お前、すっかり嫌われたなぁ」
困ったように言うジークフリートの前で、ぐっと口を引き結んだ。考えあぐねた挙句、ようやく見つけた言葉で呼びかける。
「……ラウエンシュタイン嬢」
ぽつりと言うと、少女はきょとんとした顔をした。
「呼ばれ慣れてないから、ロッテは分かってなさそうだな」
「はぁぁ、名前も呼ばせてもらえないんじゃあ、お前リーゼロッテに相当嫌われたぞ?」
「はははっ、それも力いっぱい覚えがあんぞ! 大丈夫だ、ジークヴァルト。それでもオレはちゃんとマルグリットの愛を勝ち取った!」
もう取り繕う気がなくなったのか、イグナーツは声をたてて大きく笑った。
「まぁ、オレもしつこくしすぎて、リンデによく怒られてるからなぁ」
「フリート殿も! いやぁ、オレたち実に気が合いそうだ」
「まったくだ!」
はっはっはと笑うと、ジークフリートはイグナーツと仲良く肩を組んだ。愉快そうにふたりで笑い合いながら、ジークヴァルトの頭を同時にぐちゃぐちゃになでてくる。
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※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
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政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
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