446 / 528
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
2
しおりを挟む
◇
ガラガラと車輪が回る音が響く。帰りの馬車の中、リーゼロッテは行きに約束したようにジークヴァルトの膝に乗せられた。
菓子を差し入れる指先が、いちいち唇に触れてくる。その刺激だけで制御が効かなくなって、体のいたるところから力が溢れ出してしまう。そこにすかさず菓子が差し出され、ひたすら咀嚼を繰り返した。
(夢……ではないのよね……)
とめどなく流れ出ていく力に、次第に眠気が襲ってくる。食べても食べても追いつかない。もうまぶたが重くてくっつきそうだ。
「眠ってもいいぞ」
やさしく声をかけられる。ああ、この声も大好きだ。そんなことを思いながら、リーゼロッテはまどろみに沈んでいった。
はっと目を覚ます。次の瞬間、目の前にいたのは、自分の口にクッキーを差し入れているエラだった。
「お嬢様……」
ほっとしたように呼ばれ、リーゼロッテはがばっと身を起こした。見回すと、公爵家のいつもの寝室だ。夜着に着替えさせられて、胸元にはペンダントの守り石が揺れている。
「……夢?」
青ざめたまま、確かめるように唇を指でなぞる。
もしあれがすべて幻だったとしたら。そんな残酷な考えがよぎって、リーゼロッテは色のない顔のままエラを見た。
「エラ……夜会は……?」
「夕べ公爵様とお戻りなられたとき、お嬢様はもうお眠りになっておりました。今日はゆっくり休むようにと仰せつかっております。あの、体は簡単に拭かせていただきましたが、今から湯あみをなさいますか?」
気づかわしげに問うてきたエラに、リーゼロッテは自身の腕を見た。昨日ついていた血の跡はそこにはない。
「エラ……夕べわたくしに血が付ていたわね?」
「はい、お嬢様」
その返事に夢ではなかったのだと力が抜けた。
「一体何があったというのですか? お嬢様がどんなひどい目にあったのかと思うとわたしは……」
エラはぼろぼろと泣き出した。傷はないものの、血のりをつけて帰ってきたのだ。着ていたドレスもあちこち裂けていた。これで心配するなという方が無理というものだろう。
「ち、違うの。あれは異形がまた襲ってきて。それでジークヴァルト様に……」
そこまで言って、リーゼロッテはぼぼんと真っ赤になった。脳裏に夕べの深い口づけが蘇る。エラには目視できなかったが、全身から緑の力が盛大に飛び出した。
再び枕に頭を沈めてしまったリーゼロッテに、エラがあわててクッキーを差し入れる。
「ごめんなさい、エラ……。落ち着いたらちゃんと話すから……信じられないけれど、とてもうれしい話なの。だから、もう少し、ま……って……」
すぅと再び寝入ってしまったリーゼロッテに、エラは安堵の息を漏らした。リーゼロッテの寝顔は、今とてもしあわせそうだ。
弧を描く唇を見つめ、エラの口元も知らずほころんだ。
◇
「それでは、リーゼロッテ様と思いが通じたのですね?」
前のめりにマテアスに問われ、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「……触れても、嫌がられなくはなった」
「は……?」
その曖昧な返答に、今度はマテアスの眉根が寄せられる。だがすぐに気を取り直したように咳払いをした。
「では順を追ってお伺いいたしましょうか? まずは異形が再びリーゼロッテ様を襲ったと」
「ああ」
「そこに旦那様が助けに入った」
「そうだ」
「で、その次に旦那様はどうされたのですか?」
「無理やり口づけた」
「そうですか。リーゼロッテ様に無理やり口づけを……って、あなた何やらかしちゃってるんですかっ!?」
納得しかけたマテアスが、驚愕した顔になって声を荒げた。あれほど今はしつこくするなと口を酸っぱくして言ったのに、一体何を考えているのだ。ジークヴァルトは無言でついと顔を逸らした。
「はぁ、まったく、うまくいったからよかったものの……」
あれほど焚きつけても決して手を出そうとしなかったクセに、相変わらず自分の予想を軽々と超えてくる主だ。
「それでリーゼロッテ様には、ちゃんと愛しているとお伝えになったのですね?」
「いや……」
「では好きだとお伝えに?」
「いや、言ってない」
ぴきっと青筋を立てつつも、マテアスは努めて冷静に問うた。
「では、どうやって思いをお伝えになったのでしょう?」
「初恋の相手はお前だと、そう言った」
「は? 何ですか? それ」
いきなり無理に口づけて初恋はお前だったなどと言われても、あの状態のリーゼロッテの心に響くと思えない。普通に考えてドン引かれるだけだろう。
「マテアスとの話を聞いていたと言っていた」
「わたしとの話?」
「ああ、彼女が庭に出た日のことだ」
そう言われて、マテアスははっとした。あの会話を聞いて何か誤解をしたのだろう。ジークヴァルトが他の女にうつつを抜かしているとでも思ったのかもしれない。そう思うと、エラの自分への塩対応も納得できた。
「はぁ……何にせよ、よかったです。それでリーゼロッテ様に思いを返していただけたのなら」
「いや」
即座に否定したジークヴァルトに、マテアスは信じられないものを見る目つきを向けた。
「え……? リーゼロッテ様に思いを受け入れていただけたのですよね?」
「いや、彼女からは特に何も聞いていない。だが、触れても嫌がられなくなった」
きっぱりと言い切る主を前に、マテアスの顔から表情が消える。
「……今のあなたに必要なのは、恋愛指南書のようですね。恋愛小説と合わせて簡単な分かりやすいものを見繕いますので、最低十回はお読みになってください」
愛の告白の仕方から恋人同士の過ごし方まで、何から何まで教えてやらなくてはならないのだろうか。このままでは、いずれ夫婦生活まで指導しなければいけなくなりそうだ。
「とにかく、明日にでもきちんとリーゼロッテ様に思いをお伝えになってください。そして、必ずリーゼロッテ様からも明確なお返事を」
その言葉を翌日に後悔するはめになろうとは、思ってもみないマテアスだった。
◇
「もう大丈夫なのか?」
「はい……ゆっくりと休めました」
執務室のソファにいつものように並んで座るふたりを見て、主の言うことに嘘はなかったとマテアスは安堵した。ジークヴァルトを見上げては、ぽっと頬を染めて目を逸らす。そんなことをリーゼロッテは先ほどからずっと繰り返している。
そのたびにあふれ出る緑の力のせいで、部屋の中はいつも以上にご機嫌そうな小鬼たちがはしゃぎまわっていた。
「あーん」
「ヴァルト様もあーんですわ」
これまでにないくらいの甘い雰囲気で繰り広げられているふたりのルーチンワークに、マテアスはほっと息をつく。ここまでくればゴール目前、ジークヴァルトが本懐を遂げれば万事オッケーだ。自分の心労も大幅に減少するに違いない。
(先日の異形の騒ぎで執務もたまりにたまっていますが、今日くらいは大目に見ましょうか)
乳くりあうふたりに生温かい視線を送って、マテアスは書類へと手を伸ばした。
「ヴァルト様……くすぐったいですわ」
「嫌か?」
「嫌……というか、その、恥ずかしくって……あ、や、もう、くすぐったいって申し上げておりますのに」
「恥ずかしいだけではやめる理由にならないだろう」
リーゼロッテの頬を撫でまわしながら、ジークヴァルトが魔王の笑みを浮かべている。そんなジークヴァルトの胸に手をついて、リーゼロッテはつっぱるように距離を開けようとした。すかさず体を引き寄せ、自分の膝の上に乗せてしまう。
「あ……ひゃっ。くすぐったいからやめてくださいませ」
「これならいいか?」
頬に滑らせていた手を髪にくぐらせ、絡めるように梳いていく。
「……恥ずかしいからやっぱり駄目です」
「いや、オレは何も恥ずかしくない」
「そんな、もう……」
こんなやり取りをすぐそこで聞いていたマテアスは、ぷるぷると震えるペン先で必死に自分を押さえていた。もう、口から砂糖を吐きそうだ。主とはいえ、執務中に他人のいちゃこらを見せつけられるのは、思った以上に精神を削られる。
(考えたら負けですねぇ)
決してうらやましいなどと思っていない。マテアスは未来の家令だ。その立場から近づいてくる女性は後を絶たない。だが家令の伴侶となると、それなりの人格者を選ばなくてはならないのだ。金と権力目当ての者は論外だし、理想の伴侶は母ロミルダのように侍女長を務めあげられるような女性だった。
損得勘定抜きで今まで付き合った女性もいるにはいたが、忙しすぎるマテアスに愛想をつかすのがいつものことだった。恋人は二の次三の次。そうなれば捨てられるのも仕方のないことだと、もう半ばあきらめている。
(だからといって、うらやましいなんて思っていませんからねっ)
どうせいちゃつくならジークヴァルトの自室でやってほしい。リーゼロッテの耳をしつこくいじっている主を横目に、げんなりしながらマテアスはため息をついた。その瞬間、執務室全体が前触れなくドン! と揺れた。
「ふぉおおぉお! 公爵家の呪いだけは勘弁してください!」
マテアスも浮かれすぎていたのか、最重要事項を失念していた。このまま主の暴走を放置するわけにいくはずもない。
ふたりに割り込むようにして、距離を開けさせる。リーゼロッテは真っ赤になって、肩で息をしていた。その体からぽっぽぽっぽと緑の力が絶え間なく飛び出している。
「これは……リーゼロッテ様も力の制御ができないと、困ったことになりそうですねぇ」
ジークヴァルトに触れられて、動揺するたびに力を使い果たしてしまう。そんな状態では子作りに専念するのも難しいだろう。
ジークヴァルトは再びリーゼロッテを抱き寄せ、せっせと菓子を口元に運び出した。そのたびに唇を撫でまわし、リーゼロッテはさらに脱力している。
「旦那様……あなたは阿呆ですか?」
ぽつりと漏れ出た言葉が聞こえなかったように、ジークヴァルトはそのまま給餌行動を続けている。
「はぁ……もう、それ以上続けるなら、旦那様の部屋に行ってください。異形の邪魔は入りませんので、どうぞ心置きなく」
「いや、駄目だ」
「どうしてですか? もう我慢なさらなくてもいいでしょう?」
「駄目だ。明日、ダーミッシュ伯爵が来る」
「え? フーゴお義父様が?」
くったりしていたリーゼロッテが瞳を輝かせて体を起こした。
「ああ、ルカも一緒に連れてくるそうだ」
「まあ! うれしいですわ」
無邪気によろこんでいるリーゼロッテを見て、マテアスは複雑な心境になった。ダーミッシュ伯爵とは、リーゼロッテと絶対に婚前交渉を行わないようにと契約を交わしている。いかに公爵と伯爵の身分差があれど、契約の前ではごり押しもできない。
しかもその契約書は、王の調印が押された最大級の効力を持つものだ。フーゲンベルク家とダーミッシュ家、そして王城に一枚ずつ契約書が保管され、不履行になどできない貴族としての正式な契約だった。
そこにダーミッシュ伯爵の本気が伺える。しかも契約を破った場合には、婚姻が果たされるまで二度とリーゼロッテには会わせないという過激な内容なのだ。
(そこはそれ、そうなった場合には、なんとしても婚姻を早める所存ですが……)
そのときはハインリヒ王子を使ってでも、マテアスはふたりの婚姻を前倒ししようと思っていた。アデライーデの件で公爵家は王子にものすごい恨みを抱いている。そのくらいのことをさせても、おつりがくるというものだろう。
「でしたらリーゼロッテ様は今日は早めにお休みになられてください。今の様子のままお会いしては、伯爵様にご心配をおかけしてしまうでしょうから」
力の制御が効かずくったりしているリーゼロッテは、もっともだという顔をして頷いた。不服そうにしているのは、ジークヴァルトだけであった。
ガラガラと車輪が回る音が響く。帰りの馬車の中、リーゼロッテは行きに約束したようにジークヴァルトの膝に乗せられた。
菓子を差し入れる指先が、いちいち唇に触れてくる。その刺激だけで制御が効かなくなって、体のいたるところから力が溢れ出してしまう。そこにすかさず菓子が差し出され、ひたすら咀嚼を繰り返した。
(夢……ではないのよね……)
とめどなく流れ出ていく力に、次第に眠気が襲ってくる。食べても食べても追いつかない。もうまぶたが重くてくっつきそうだ。
「眠ってもいいぞ」
やさしく声をかけられる。ああ、この声も大好きだ。そんなことを思いながら、リーゼロッテはまどろみに沈んでいった。
はっと目を覚ます。次の瞬間、目の前にいたのは、自分の口にクッキーを差し入れているエラだった。
「お嬢様……」
ほっとしたように呼ばれ、リーゼロッテはがばっと身を起こした。見回すと、公爵家のいつもの寝室だ。夜着に着替えさせられて、胸元にはペンダントの守り石が揺れている。
「……夢?」
青ざめたまま、確かめるように唇を指でなぞる。
もしあれがすべて幻だったとしたら。そんな残酷な考えがよぎって、リーゼロッテは色のない顔のままエラを見た。
「エラ……夜会は……?」
「夕べ公爵様とお戻りなられたとき、お嬢様はもうお眠りになっておりました。今日はゆっくり休むようにと仰せつかっております。あの、体は簡単に拭かせていただきましたが、今から湯あみをなさいますか?」
気づかわしげに問うてきたエラに、リーゼロッテは自身の腕を見た。昨日ついていた血の跡はそこにはない。
「エラ……夕べわたくしに血が付ていたわね?」
「はい、お嬢様」
その返事に夢ではなかったのだと力が抜けた。
「一体何があったというのですか? お嬢様がどんなひどい目にあったのかと思うとわたしは……」
エラはぼろぼろと泣き出した。傷はないものの、血のりをつけて帰ってきたのだ。着ていたドレスもあちこち裂けていた。これで心配するなという方が無理というものだろう。
「ち、違うの。あれは異形がまた襲ってきて。それでジークヴァルト様に……」
そこまで言って、リーゼロッテはぼぼんと真っ赤になった。脳裏に夕べの深い口づけが蘇る。エラには目視できなかったが、全身から緑の力が盛大に飛び出した。
再び枕に頭を沈めてしまったリーゼロッテに、エラがあわててクッキーを差し入れる。
「ごめんなさい、エラ……。落ち着いたらちゃんと話すから……信じられないけれど、とてもうれしい話なの。だから、もう少し、ま……って……」
すぅと再び寝入ってしまったリーゼロッテに、エラは安堵の息を漏らした。リーゼロッテの寝顔は、今とてもしあわせそうだ。
弧を描く唇を見つめ、エラの口元も知らずほころんだ。
◇
「それでは、リーゼロッテ様と思いが通じたのですね?」
前のめりにマテアスに問われ、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「……触れても、嫌がられなくはなった」
「は……?」
その曖昧な返答に、今度はマテアスの眉根が寄せられる。だがすぐに気を取り直したように咳払いをした。
「では順を追ってお伺いいたしましょうか? まずは異形が再びリーゼロッテ様を襲ったと」
「ああ」
「そこに旦那様が助けに入った」
「そうだ」
「で、その次に旦那様はどうされたのですか?」
「無理やり口づけた」
「そうですか。リーゼロッテ様に無理やり口づけを……って、あなた何やらかしちゃってるんですかっ!?」
納得しかけたマテアスが、驚愕した顔になって声を荒げた。あれほど今はしつこくするなと口を酸っぱくして言ったのに、一体何を考えているのだ。ジークヴァルトは無言でついと顔を逸らした。
「はぁ、まったく、うまくいったからよかったものの……」
あれほど焚きつけても決して手を出そうとしなかったクセに、相変わらず自分の予想を軽々と超えてくる主だ。
「それでリーゼロッテ様には、ちゃんと愛しているとお伝えになったのですね?」
「いや……」
「では好きだとお伝えに?」
「いや、言ってない」
ぴきっと青筋を立てつつも、マテアスは努めて冷静に問うた。
「では、どうやって思いをお伝えになったのでしょう?」
「初恋の相手はお前だと、そう言った」
「は? 何ですか? それ」
いきなり無理に口づけて初恋はお前だったなどと言われても、あの状態のリーゼロッテの心に響くと思えない。普通に考えてドン引かれるだけだろう。
「マテアスとの話を聞いていたと言っていた」
「わたしとの話?」
「ああ、彼女が庭に出た日のことだ」
そう言われて、マテアスははっとした。あの会話を聞いて何か誤解をしたのだろう。ジークヴァルトが他の女にうつつを抜かしているとでも思ったのかもしれない。そう思うと、エラの自分への塩対応も納得できた。
「はぁ……何にせよ、よかったです。それでリーゼロッテ様に思いを返していただけたのなら」
「いや」
即座に否定したジークヴァルトに、マテアスは信じられないものを見る目つきを向けた。
「え……? リーゼロッテ様に思いを受け入れていただけたのですよね?」
「いや、彼女からは特に何も聞いていない。だが、触れても嫌がられなくなった」
きっぱりと言い切る主を前に、マテアスの顔から表情が消える。
「……今のあなたに必要なのは、恋愛指南書のようですね。恋愛小説と合わせて簡単な分かりやすいものを見繕いますので、最低十回はお読みになってください」
愛の告白の仕方から恋人同士の過ごし方まで、何から何まで教えてやらなくてはならないのだろうか。このままでは、いずれ夫婦生活まで指導しなければいけなくなりそうだ。
「とにかく、明日にでもきちんとリーゼロッテ様に思いをお伝えになってください。そして、必ずリーゼロッテ様からも明確なお返事を」
その言葉を翌日に後悔するはめになろうとは、思ってもみないマテアスだった。
◇
「もう大丈夫なのか?」
「はい……ゆっくりと休めました」
執務室のソファにいつものように並んで座るふたりを見て、主の言うことに嘘はなかったとマテアスは安堵した。ジークヴァルトを見上げては、ぽっと頬を染めて目を逸らす。そんなことをリーゼロッテは先ほどからずっと繰り返している。
そのたびにあふれ出る緑の力のせいで、部屋の中はいつも以上にご機嫌そうな小鬼たちがはしゃぎまわっていた。
「あーん」
「ヴァルト様もあーんですわ」
これまでにないくらいの甘い雰囲気で繰り広げられているふたりのルーチンワークに、マテアスはほっと息をつく。ここまでくればゴール目前、ジークヴァルトが本懐を遂げれば万事オッケーだ。自分の心労も大幅に減少するに違いない。
(先日の異形の騒ぎで執務もたまりにたまっていますが、今日くらいは大目に見ましょうか)
乳くりあうふたりに生温かい視線を送って、マテアスは書類へと手を伸ばした。
「ヴァルト様……くすぐったいですわ」
「嫌か?」
「嫌……というか、その、恥ずかしくって……あ、や、もう、くすぐったいって申し上げておりますのに」
「恥ずかしいだけではやめる理由にならないだろう」
リーゼロッテの頬を撫でまわしながら、ジークヴァルトが魔王の笑みを浮かべている。そんなジークヴァルトの胸に手をついて、リーゼロッテはつっぱるように距離を開けようとした。すかさず体を引き寄せ、自分の膝の上に乗せてしまう。
「あ……ひゃっ。くすぐったいからやめてくださいませ」
「これならいいか?」
頬に滑らせていた手を髪にくぐらせ、絡めるように梳いていく。
「……恥ずかしいからやっぱり駄目です」
「いや、オレは何も恥ずかしくない」
「そんな、もう……」
こんなやり取りをすぐそこで聞いていたマテアスは、ぷるぷると震えるペン先で必死に自分を押さえていた。もう、口から砂糖を吐きそうだ。主とはいえ、執務中に他人のいちゃこらを見せつけられるのは、思った以上に精神を削られる。
(考えたら負けですねぇ)
決してうらやましいなどと思っていない。マテアスは未来の家令だ。その立場から近づいてくる女性は後を絶たない。だが家令の伴侶となると、それなりの人格者を選ばなくてはならないのだ。金と権力目当ての者は論外だし、理想の伴侶は母ロミルダのように侍女長を務めあげられるような女性だった。
損得勘定抜きで今まで付き合った女性もいるにはいたが、忙しすぎるマテアスに愛想をつかすのがいつものことだった。恋人は二の次三の次。そうなれば捨てられるのも仕方のないことだと、もう半ばあきらめている。
(だからといって、うらやましいなんて思っていませんからねっ)
どうせいちゃつくならジークヴァルトの自室でやってほしい。リーゼロッテの耳をしつこくいじっている主を横目に、げんなりしながらマテアスはため息をついた。その瞬間、執務室全体が前触れなくドン! と揺れた。
「ふぉおおぉお! 公爵家の呪いだけは勘弁してください!」
マテアスも浮かれすぎていたのか、最重要事項を失念していた。このまま主の暴走を放置するわけにいくはずもない。
ふたりに割り込むようにして、距離を開けさせる。リーゼロッテは真っ赤になって、肩で息をしていた。その体からぽっぽぽっぽと緑の力が絶え間なく飛び出している。
「これは……リーゼロッテ様も力の制御ができないと、困ったことになりそうですねぇ」
ジークヴァルトに触れられて、動揺するたびに力を使い果たしてしまう。そんな状態では子作りに専念するのも難しいだろう。
ジークヴァルトは再びリーゼロッテを抱き寄せ、せっせと菓子を口元に運び出した。そのたびに唇を撫でまわし、リーゼロッテはさらに脱力している。
「旦那様……あなたは阿呆ですか?」
ぽつりと漏れ出た言葉が聞こえなかったように、ジークヴァルトはそのまま給餌行動を続けている。
「はぁ……もう、それ以上続けるなら、旦那様の部屋に行ってください。異形の邪魔は入りませんので、どうぞ心置きなく」
「いや、駄目だ」
「どうしてですか? もう我慢なさらなくてもいいでしょう?」
「駄目だ。明日、ダーミッシュ伯爵が来る」
「え? フーゴお義父様が?」
くったりしていたリーゼロッテが瞳を輝かせて体を起こした。
「ああ、ルカも一緒に連れてくるそうだ」
「まあ! うれしいですわ」
無邪気によろこんでいるリーゼロッテを見て、マテアスは複雑な心境になった。ダーミッシュ伯爵とは、リーゼロッテと絶対に婚前交渉を行わないようにと契約を交わしている。いかに公爵と伯爵の身分差があれど、契約の前ではごり押しもできない。
しかもその契約書は、王の調印が押された最大級の効力を持つものだ。フーゲンベルク家とダーミッシュ家、そして王城に一枚ずつ契約書が保管され、不履行になどできない貴族としての正式な契約だった。
そこにダーミッシュ伯爵の本気が伺える。しかも契約を破った場合には、婚姻が果たされるまで二度とリーゼロッテには会わせないという過激な内容なのだ。
(そこはそれ、そうなった場合には、なんとしても婚姻を早める所存ですが……)
そのときはハインリヒ王子を使ってでも、マテアスはふたりの婚姻を前倒ししようと思っていた。アデライーデの件で公爵家は王子にものすごい恨みを抱いている。そのくらいのことをさせても、おつりがくるというものだろう。
「でしたらリーゼロッテ様は今日は早めにお休みになられてください。今の様子のままお会いしては、伯爵様にご心配をおかけしてしまうでしょうから」
力の制御が効かずくったりしているリーゼロッテは、もっともだという顔をして頷いた。不服そうにしているのは、ジークヴァルトだけであった。
0
※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
お気に入りに追加
272
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】愛してるなんて言うから
空原海
恋愛
「メアリー、俺はこの婚約を破棄したい」
婚約が決まって、三年が経とうかという頃に切り出された婚約破棄。
婚約の理由は、アラン様のお父様とわたしのお母様が、昔恋人同士だったから。
――なんだそれ。ふざけてんのか。
わたし達は婚約解消を前提とした婚約を、互いに了承し合った。
第1部が恋物語。
第2部は裏事情の暴露大会。親世代の愛憎確執バトル、スタートッ!
※ 一話のみ挿絵があります。サブタイトルに(※挿絵あり)と表記しております。
苦手な方、ごめんなさい。挿絵の箇所は、するーっと流してくださると幸いです。

危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました
しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。
自分のことも誰のことも覚えていない。
王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。
聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。
なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。

【完】夫から冷遇される伯爵夫人でしたが、身分を隠して踊り子として夜働いていたら、その夫に見初められました。
112
恋愛
伯爵家同士の結婚、申し分ない筈だった。
エッジワーズ家の娘、エリシアは踊り子の娘だったが為に嫁ぎ先の夫に冷遇され、虐げられ、屋敷を追い出される。
庭の片隅、掘っ立て小屋で生活していたエリシアは、街で祝祭が開かれることを耳にする。どうせ誰からも顧みられないからと、こっそり抜け出して街へ向かう。すると街の中心部で民衆が音楽に合わせて踊っていた。その輪の中にエリシアも入り一緒になって踊っていると──

【完結済】隣国でひっそりと子育てしている私のことを、執着心むき出しの初恋が追いかけてきます
鳴宮野々花@書籍2冊発売中
恋愛
一夜の過ちだなんて思いたくない。私にとって彼とのあの夜は、人生で唯一の、最良の思い出なのだから。彼のおかげで、この子に会えた────
私、この子と生きていきますっ!!
シアーズ男爵家の末娘ティナレインは、男爵が隣国出身のメイドに手をつけてできた娘だった。ティナレインは隣国の一部の者が持つ魔力(治癒術)を微力ながら持っており、そのため男爵夫人に一層疎まれ、男爵家後継ぎの兄と、世渡り上手で気の強い姉の下で、影薄く過ごしていた。
幼いティナレインは、優しい侯爵家の子息セシルと親しくなっていくが、息子がティナレインに入れ込みすぎていることを嫌う侯爵夫人は、シアーズ男爵夫人に苦言を呈す。侯爵夫人の機嫌を損ねることが怖い義母から強く叱られ、ティナレインはセシルとの接触を禁止されてしまう。
時を経て、貴族学園で再会する二人。忘れられなかったティナへの想いが燃え上がるセシルは猛アタックするが、ティナは自分の想いを封じ込めるように、セシルを避ける。
やがてティナレインは、とある商会の成金経営者と婚約させられることとなり、学園を中退。想い合いながらも会うことすら叶わなくなった二人だが、ある夜偶然の再会を果たす。
それから数ヶ月。結婚を目前に控えたティナレインは、隣国へと逃げる決意をした。自分のお腹に宿っていることに気付いた、大切な我が子を守るために。
けれど、名を偽り可愛い我が子の子育てをしながら懸命に生きていたティナレインと、彼女を諦めきれないセシルは、ある日運命的な再会を果たし────
生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。
※いつもの完全オリジナルファンタジー世界の物語です。全てがファンタジーです。
※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる