上 下
437 / 523
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

第15話 一輪の花

しおりを挟む
【前回のあらすじ】
 あるじの背をみやりながら、過ぎ去りし日々を思うマテアス。ジークヴァルトの辿った過酷な子供時代は、その胸に失うことへの恐怖を刻みつけて。
 祖父ジークベルトの導きで、強くなることを決意するジークヴァルト。マテアスもまた主を支え、共に歩むことを改めて誓うのでした。





「お手に触れてもかまいませんか?」

 遠慮がちに声をかけると、ジークヴァルトは無言で両手を差し出してきた。隣り合わせに座った執務室のソファで、リーゼロッテはいつものように手を重ねる。
 いまだによそよそしい態度をとってしまうものの、この『手当』だけは変わらず続けていた。だが以前は指をからめて握っていたものが、上から添えるだけのものとなっている。触れるか触れないかのぎりぎりの距離を保ったまま、リーゼロッテは手のひらに力を流そうとした。

「――……っ!」

 いきなり下から手を掴まれて、リーゼロッテは心臓を跳ねさせた。思わず伏せていた顔を上げてしまう。
 握られた手が熱い。
 青い瞳と目が合って、すぐさま不自然に視線をらした。

(わたしばっかり意識して馬鹿みたい……)

 唇を小さく噛みしめ目をつぶる。心を落ち着かせるために長く細く息を吐いてから、ゆっくりと力を集めていった。

 螺旋らせんえがきながら腕をくだり、緑の力は流れ出る。重ねた手に吸い込まれるように、そのまま消えて視えなくなった。
 リーゼロッテはこの瞬間が好きだ。
 その先でゆっくりと混ざり合って、緑と青はやがてひとつに溶けていく。まるで自分の一部がジークヴァルトになるようで、言い知れぬよろこびを感じてしまう。それと同時に、例えようのないむなしさがこの胸を占拠した。

 こうして繰り返すごとに、力を制御するのが上達してきたと自分でも感じる。集まる力は無駄がなく、眠くなるぎりぎりの加減もわかってきた。今ならジークヴァルトを困らせることもそうないだろう。そんなふうに思える程度には力を扱えている。

(あ……力の流れが……)
 ジークヴァルトの体の中でとどこおったような場所を感じて、リーゼロッテは薄く瞳を開いた。左肩の付け根、あの日短剣を刺された場所だ。

 傷を負ってから二か月近くは経つ。今ではジークヴァルトは以前と変わらない毎日を送っていた。
 領地の執務に日々明け暮れて、週に数回は登城とじょうする。時折傷のあたりを気にするそぶりを見かけるというのに、早朝にはマテアスと激しい手合わせをしているらしかった。無理はしないでほしいとそれとなくエラから伝えてもらったが、委縮した筋肉を戻すためだと言われては、それ以上口をはさめるはずもない。

(ジークヴァルト様は絶えず異形に狙われているから……)

 先日の騒ぎのように、取りかれた人間が襲ってくることもある。身を守るために鍛錬をおろそかにはできないのだと思うと、無力な自分がただひたすら歯がゆかった。

「あの、ジークヴァルト様」
「なんだ?」

 うかがうように顔を上げると、ずっと自分の顔を見ていたかのように青い瞳とぶつかった。思わずさっと目をそらしてしまう。いまだ両手を握られたまま、リーゼロッテはうつむきながら口を開いた。

「肩に触れてもよろしいですか?」
「ああ」

 即答されて、ジークヴァルトの座るソファの後ろへと回った。背後に立ち、傷のある場所にそっと両手を添える。座ったままでもやれることだが、真正面からこれ以上近づくなど、今のリーゼロッテにはできなかった。とてもではないが平静を保てそうにない。

(集中しないとうまくできないもの)
 言い訳のようにそんなことを思い、瞳を閉じて手の内に意識を傾ける。

 この傷が早くえるように。残る痛みが和らぐように。できるだけあたたかい光を。もっと、もっと、明るい光を――

「おい」

 突然手を掴まれ制される。気づけば一心不乱に力を注ぎ込んでいた。体がふらつきソファの背に腕を伸ばす。触れる前に向こう側からすくい上げられ、抵抗する間もなく膝の上に乗せられてしまった。

「あまり無理はするな」
「申し訳ございません、わたくし……」
「いい、随分楽になった」

 そう言いながらジークヴァルトは、リーゼロッテの顔にかかる横髪を耳にかけてきた。耳朶じだをなぞられ、一瞬で頬が朱に染まる。突っぱねるように距離をとろうとするも、背中を取られて逆に引き寄せられてしまった。

 耳障みみざわりなほど心臓が打つ。その早鐘はやがねが伝わってしまいそうで、リーゼロッテは胸をかばうように身を縮こまらせた。

「つらいのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」

 こんなふうに触れられて、今までどうして平気でいられたのだろうか。自分で自分が信じられない。動揺したように目を泳がせると、ジークヴァルトの眉間のしわが深くなった。

「部屋まで送る」
「いえ、じきにエラが迎えに参ります。それまでに菓子をいただきますから、すぐに落ち着きますわ」

 無理やりに膝から降りる。仏頂面のまま菓子に手を伸ばそうとしたジークヴァルトに、リーゼロッテは慌てて首を振った。

「自分で! きちんと自分で食べますから、ジークヴァルト様は気にせずお仕事をなさってくださいませ」

 淑女らしからぬ素早い動作で菓子を口に放り込む。何かを言いたげにしつつも、ジークヴァルトは執務机に戻っていった。ほっと息をつき黙々と菓子を頬張った。
 そんなリーゼロッテにマテアスが紅茶をサーブしてくる。やはりもの言いたげなその様子に、リーゼロッテは気づかないふりをした。

     ◇
 定期で開かれる刺繍ししゅう教室を終えて、エラは公爵の執務室へと向かっていた。リーゼロッテがまたつらい思いをしているのだと思うと、その足取りもおのずと速くなる。

 マテアスには今は待ってほしいと言うにとどめた。このままではリーゼロッテをさらに追い詰めかねない。それがうまく伝わったのか、公爵の自室にリーゼロッテが呼ばれることもなくなった。
 あれ以来リーゼロッテは淡々と日々を過ごしている。心からの笑顔を見せることもなく、エラの胸は痛む一方だ。

「エラ様!」

 廊下の途中でふいに若い男に呼び止められる。振り向くと、幾度か話をしたことがある厨房で働く使用人だった。

「何か?」

 小首をかしげると、男はしばらくもじもじとした後、後ろ手に隠していた一輪の花を差し出してきた。

「あ、あのっ、エラ様は貴族きぞくせきを抜けると聞きました! もしよかったら、結婚を前提にオレとお付き合いしてくださいっ」

 がばりと頭を下げて、男は手に持った花をさらにずいと差し出してくる。突然のことに言葉を失っていると、数人の男たちがものすごい勢いで駆けよってきた。

「「「ちょおっと待ったぁぁぁあっ!」」」

 エラの目の前に男たちがずらりと並ぶ。

「オレもエラ様に求婚します!」
「ぼ、ボクにもチャンスをくださいっ」
「エラ様への愛なら誰にも負けません!!」

 あとから来た男たちも各々おのおの違う花を手にしている。

「「「「よろしくお願いしますっっっ」」」」

 膝に届く勢いで頭を下げ、エラに向けて一斉に花をかかげ持つ。絶句してエラは思わず一歩後ずさった。付近にいた使用人たちが興味深げにこちらをみやっていて、一向に顔を上げない男たちを前に、エラも慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい! みなさんの気持ちにはおこたえできません!」

 その返事に男たちは拍子抜けするほどすぐに頭を上げた。

「お顔を上げてください。オレたち、エラ様を困らせたいわけじゃないので」
「そうです。こんなオレたちにも真摯しんしに答えてくださって、エラ様本当にありがとうございます」
「うっう、ボク今日の事、一生の思い出にします」
「残念だけど、エラ様のしあわせをずっと祈ってます!」

 はじめから断られるのがわかっていたような口ぶりで、みなは満足そうに頷いた。そして、エラに向かってもう一度頭を下げ、そのままあっさりと背を向ける。

「あ~あ、やっぱりだめだったかぁ」
「そりゃエラ様だからなぁ」
「ううう、もうこれだけで生きていける」
「いい記念になったなぁ。さらば、オレの青春」

 口々に言うと、手にしていた花を後ろ手にぽいと放り投げた。ぽとりと落ちた花を残して、男たちは遠ざかっていく。エラはその背をただぽかんと見送った。

 周囲の人間が相変わらず自分の動向を見守っているのに気づき、エラは背筋を伸ばして再び歩き出した。早くリーゼロッテを迎えに行かなくては。寄せられる好意はうれしくもあるが、リーゼロッテをそばで一生支えようと改めて決意したばかりだ。

(今は恋にうつつを抜かしている場合ではないわ)

 ひとり頷いて、リーゼロッテの待つ執務室へとエラは急ぎ目指した。

     ◇
「え? 新しい侍女?」
「はい、なんでもデビューを来年に控えたご令嬢が、行儀見習いでいらっしゃるそうで。お嬢様に淑女としてのお手本を見せてほしいとのことらしいです」
「そう。でもそれなら侍女でなくてもよいのではないかしら?」

 ある日エラからそんな話をされて、リーゼロッテはこてんと首を傾けた。

「子爵家のご令嬢と伺っておりますので、公爵家に客人として迎えることができないのかもしれませんね」
「貴族階級って本当に難しいわね」

 難しいというより面倒くさいというのが本音だ。だが自分が言ったところで何が変わるわけでもない。そう思ってただ眉を下げた。そんなリーゼロッテにエラは少し困った顔になる。

「そのご令嬢はつい最近子爵家に養子に迎え入れられたとのことで、どうやら今まで市井しせいでお育ちになった方らしいのです」
「まあ、市井で」

 いわゆる庶子しょしというやつだろう。いきなり貴族に籍を置き、デビューまであと一年。そうなると相当な努力を要求されることは想像にかたくない。何しろ貴族の令息れいそく令嬢は、子供のころから礼儀作法を叩き込まれて育つ。付け焼刃やきばで飛び込めるほど、社交界はやさしい世界ではなかった。

「それに……養子に迎え入れたのは、ブルーメ子爵家とのことでして」
「それでわたくしに白羽の矢が立ったのかしら……?」

 ブルーメ子爵家は実父であるイグナーツの生家と聞いている。だがイグナーツはラウエンシュタイン公爵家に婿入りし、その娘であるリーゼロッテはダーミッシュ伯爵家の養子となった。親戚ではあるものの、ブルーメ家の人間とは面識すら持っていない。

「お嬢様のご負担が増えるのかと思うと、エラは心配です」
「ありがとう、エラ。でもその方もきっと、わからないことだらけで困ってらっしゃると思うの。できる限りお力になって差し上げたいわ」
「お嬢様がそうおっしゃるのなら、わたしも力をくさせていただきます」

 その返事にリーゼロッテはうれしそうにほほ笑んだ。久しぶりの自然な笑みに、エラは少しだけほっとする。しかし礼儀作法もなっていない人間など、できるだけリーゼロッテに近づけたくはなかった。

(どうか面倒な令嬢でありませんように)

 リーゼロッテのために、ただ祈るしかないエラであった。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

年下の彼氏には同い年の女性の方がお似合いなので、別れ話をしようと思います!

ほったげな
恋愛
私には年下の彼氏がいる。その彼氏が同い年くらいの女性と街を歩いていた。同じくらいの年の女性の方が彼には似合う。だから、私は彼に別れ話をしようと思う。

王太子殿下の想い人が騎士団長だと知った私は、張り切って王太子殿下と婚約することにしました!

奏音 美都
恋愛
 ソリティア男爵令嬢である私、イリアは舞踏会場を離れてバルコニーで涼んでいると、そこに王太子殿下の逢引き現場を目撃してしまいました。  そのお相手は……ロワール騎士団長様でした。  あぁ、なんてことでしょう……  こんな、こんなのって……尊すぎますわ!!

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。

たろ
恋愛
幼馴染のロード。 学校を卒業してロードは村から街へ。 街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。 ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。 なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。 ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。 それも女避けのための(仮)の恋人に。 そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。 ダリアは、静かに身を引く決意をして……… ★ 短編から長編に変更させていただきます。 すみません。いつものように話が長くなってしまいました。

処理中です...