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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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「痛い、痛い、痛いですってば、ヴァルト様っ」
髪を掴まれて、マテアスは涙目で訴えた。ジークヴァルトはこの冬で三歳になった。大人たちに大事に守られ、すくすくと成長している。基本、普段は安全な室内で過ごし、外に出るときは屋敷をあげての厳戒態勢を敷いていた。
「マテアス、もじゃもじゃ」
「好きでもじゃもじゃしているわけではありません。わたしだってヴァルト様みたいにサラサラの髪に生まれたかったですよ」
マテアスはちょうど八歳となり、家令となるべく勉学に励みつつ、いたずら盛りの三歳児を相手にするのに難儀していた。だが従者たるもの主を正しい道に導いてこそだとエッカルトに言われ、日々奮闘しているマテアスだ。
この頃のジークヴァルトは口数は多くはないが、それなりに笑ったりかんしゃくを起こしたりする普通の子供だった。外に出られないストレスはすべてマテアスに向けられて、そのやんちゃぶりに四苦八苦する毎日を送っている。
ようやく離したと思ったら、ジークヴァルトの手には何本もの抜けた髪が絡んでいる。それをまじまじと見やってから、ジークヴァルトはニヒルな笑いをその口元にのせた。
「マテアス、はげあたま」
「ふおっ! どこでそんな言葉を覚えてくるんですかっ」
頭を押さえながらマテアスが叫ぶと、ジークヴァルトは何もない宙をじっと見つめた。誰かの声に耳を傾けるように、時折こくこくと頷いている。
「エッカルト、かみうすい。マテアスもしょうらいつるっぱげ」
「守護者がそこにいるんですね! 守護者! ヴァルト様に変なことを仕込まないでくださいっ」
ジークヴァルトは守護者とよく会話をしている。声だけでなくその姿も鮮明に視えているらしかった。マテアスには何も視えないし何も聞こえない。だが、主がいるというのだから、信じるよりほかなかった。
そんなある日、父親のジークフリートがジークヴァルトを連れ出した。異形対策も次第にこなれてきた時期だったので、周囲の緊張も昔ほどではなくなってきている。
マテアスも付き従いながら、連れてこられたのは厩舎だった。美しい青毛の牝馬が目の前に現れる。ジークフリートに抱き上げられたまま、不思議そうにジークヴァルトはその黒馬を指さした。
「ちちうえ、おうま?」
「ああ、そうだ。あの馬はお爺様からの贈り物だ」
「ベルトおじいさまから?」
ジークベルトは乗馬の達人としても名を馳せている。今は辺境伯をしているが、息子のジークフリートに公爵位を譲る前は、フーゲンベルクを改めて国一番の馬の産地に仕上げた張本人でもあった。
「この馬はヴァルトのものだぞ。名前を付けてやらないとな。真っ黒いからシュバルツなんてどうだ?」
「しゃってん……シュバルツシャッテンがいいです、ちちうえ」
「黒影号か。なかなかいい名前じゃないか。ヴァルトは可愛いリンデに似てセンスがあるな」
うんうんと頷いている父親をしり目に、ジークヴァルトは腕の中、身を乗り出した。手を差し伸べると、黒影号は熱い鼻息とともに唇でやさしく食んでくる。
「なんだ? もう相思相愛か? よし、背に乗せてやろう。黒影号、ヴァルトひとりじゃ危ないから、悪いがオレも乗せてくれな?」
黒影号は頚を持ち上げると、うれしそうに短くいなないた。
ふたり乗り用の鞍をつけて、ジークヴァルトは前に乗せられた。ジークフリートが手綱を握ると黒影号はゆっくり歩き出す。マテアスもあわてて自分の馬に乗り、追いつくころにはジークヴァルトたちは軽やかに走り出していた。
「どうだ、気持ちいいだろう? ああっと、ヴァルトはしゃべるんじゃないぞ。馬を走らせている時は舌を噛んじゃうからな」
ジークフリートの言葉など耳に入らないかのように、ジークヴァルトは初めての乗馬に夢中になっている。高く大きく揺れる背、頬を吹き抜ける風、鼻をくすぐる草木のにおい、どこまでも広がる青い草原。室内に閉じ込められがちな日々を送るジークヴァルトにとって、何もかもが目新しい刺激的なものばかりだ。
屋敷の裏手から続く小道を進む。緩やかな登り勾配の坂を登りきると高台へと出る。一気に視界が開けて、遠い眼下に街並みが広がった。
「見ろ、ジークヴァルト。あれが我がフーゲンベルクが治める領地だ」
言葉を失ったまま街を眺めやるジークヴァルトを見て、口元に笑みがこぼれる。ジークフリートは高台の縁に沿って馬を歩かせた。
「いいか、ヴァルト。あそこには多くの領民が暮らしている。この領が繫栄しているのは民あってこそだ。みな懸命に働き、税を納め、フーゲンベルクを豊かにしてくれている。だからオレたちは領民に対して背負うべき義務がある」
「せおうべきぎむ?」
「そうだ。オレもお前も、ここに暮らす者たちすべてを守っていかなきゃならないんだ。これはこの家の跡取りとして生まれた者の宿命……おっと、こんなとこまでついて来るとは……」
振り返った先、ジークフリートは異形の塊に向けて力を放った。一塊の異形の者が断末魔の声を上げて消え去っていく。ふと見やると、遠巻きに多くの異形たちがこの場を取り巻いていた。
「せっかく父親としてかっこよくキメたと思ったのになぁ……まったく無粋な輩だ」
威圧するように睨みつけると、異形たちはじりと後ずさった。それ以上は移動せず、かといって近づいても来ない。
「マテアスもあまりオレから離れないでくれよ。巻き込まれると危ないからな」
「はい、旦那様」
後ろで控えるように馬に乗っていたマテアスは神妙に頷いた。ジークヴァルトを身を挺して守り、大怪我を負う大人たちを、マテアスは数えきれないほど目にしてきた。こんなふうに簡単にジークヴァルトを連れ出せるのは、ジークフリートの力が強大だからだ。
父エッカルトは力あるものとしても優秀だった。その血を受け継いだ身として、マテアスも力の扱い方を学び始めている。自分はジークヴァルトを守り支えていく立場なのだと思うと、足手まといにならないようにと訓練にも力が入った。
「このままじゃ面倒なことになりそうだなぁ。仕方ない、そろそろ帰るとするか」
集まってきた周囲の異形の数に、黒影号の鼻先を屋敷へと向けた。脇をすり抜けながら、臆することなく黒影号は鬣を揺らして駆けていく。置いて行かれないようにと、マテアスは急いでそのあとを追った。
前方を走る馬上で、ジークヴァルトは興奮気味の様子だ。途中、すぐそばの異形にヒヤリとさせられる。できる範囲で異形の者を追い払い、マテアスは必死について行った。
やっとの思いで戻った厩舎では、ジークヴァルトが黒影号から降りるのを嫌がっていた。駄々をこねるように頭を振って、しがみついた馬の首筋を絶対に放そうとしない。
「おいおい、ヴァルト。シュバルツシャッテンも困ってるじゃないか。これからずっと一緒にいる相棒なんだ。今日はもうゆっくり休ませてやらないとな」
父親に言われても、ふてくされたようにその手に力が入るだけだった。それでも無理やり引きはがされ、ジークフリートに抱き上げられてしまう。ぐずりながら、ジークヴァルトは黒影号に両手を伸ばした。応えるように顔を近づけてくる。柔らかな鼻づらをなでると、熱い鼻息が手のひらをくすぐった。
「なんだ? そんなに離れ難いのか? できるだけ乗馬につきあってやりたいが、そうはいってもオレもなかなか時間がとれないしなぁ」
お互いを慈しむように見つめ合う息子と愛馬を前に、ジークフリートは困った顔をした。ジークヴァルトの護衛に割ける人材も限られている。怪我を負う危険が高い任務に、臆する者が出ているのも仕方のないことだ。忠誠を強要するには、この家は使用人を大事にしすぎていた。
「よぉし、じゃあこうしよう。ジークヴァルト、お前はやらなきゃいけないことをとりあえず頑張れ。そうしたら乗馬の時間を作るようエッカルトに頼んでやるぞぉ」
「やらなきゃいけないこと?」
「ああ、領地の勉強や剣術なんかだ。お前はオレの後を継いで公爵領主となる。そのための勉強だ。まぁ言っても領地経営なんかは、オレもエッカルトに任せきりだけどな」
はっはっは、と得意げに笑うと、ジークフリートはマテアスの頭にポンと手を置いた。
「お前もマテアスに任せとけばいい」
「マテアスに?」
「ああ、とりあえずマテアスの言うこと聞いとけばお前の代も安泰だ。アーベントロート家は優秀なんだぞ。な? マテアス?」
「は、はい、旦那様! 精一杯務めさせていただきます!」
頭をぐりぐりとなでられながらマテアスは慌てて頷いた。
「それに、そのうちヴァルトも力の制御を身につけないとだなぁ」
「ちからのせいぎょ?」
「異形を祓えるようになれば、もっと自由に部屋から出られるようになる。馬にだって乗りたい放題だ。フーゲンベルク領主が、馬に乗れないんじゃあ示しがつかないからなぁ。そこのところもよろしく頼んだぞ、マテアス」
「はい! 旦那様」
その間もジークヴァルトは黒影号とずっと見つめ合っていた。
そして、それは一年後のことだった。普段よりも早い時刻に、マテアスは母ロミルダに揺り起こされる。
「マテアス、よく聞きなさい。大奥様が危篤に陥られてかなり危険な状態なの」
「大奥様が?」
「わたしもフリート様とリンデ様と共に辺境の砦へと向かうから、しばらく留守を頼むわ」
大奥様とは先代の公爵夫人、ジークフリートの母親のことだ。眠い目をこすりながら問う。
「ヴァルト様は?」
「ジークヴァルト様はここに残られるわ。エッカルトがお屋敷を任されたから、マテアスもしっかりヴァルト様をお守りするのよ」
本当に容態が思わしくないのだろう。いつになく動揺しているロミルダの声に、マテアスは大きく頷いた。
ふたりきりの部屋でマテアスは勉強しがてらジークヴァルトの相手をしていた。一行が辺境の砦に向かってからもう一週間は経過している。その間、室内に閉じ込められっぱなしのジークヴァルトの機嫌は、日増しに下降していく一方だ。
「シュバルツシャッテンに会いに行く」
「駄目ですよ。旦那様からも言われているでしょう? おひとりで厩舎に行くのは、ちゃんと力をつけてからでないと」
「ひとりじゃない。マテアスもいる」
指をさされてマテアスは困り眉をさらに下げた。小鬼を追い払う程度なら難なくできるが、ジークヴァルトを襲ってくるような異形を、子供のマテアスがどうこうできるはずもない。
「わたしの力ではまだ異形の者に太刀打ちできません。旦那様がお戻りになられるまで、シュバルツシャッテンに会いに行くのは我慢なさってください。そんなご不満そうな顔をしても駄目ですよ。ヴァルト様はもうすぐ五歳になられるんです。自覚をもって今やるべきことにお励みください」
そう言って守り石が山盛り入った箱を手渡した。これだけの数があれば、何日も時間稼ぎができるだろう。
「今日からこちらの守り石に力を籠める練習をしましょうか。力加減を間違えると石が割れてしまいますからね」
力の制御を覚えるのに、守り石は最適だ。力みすぎず弱すぎず。ちょうどいい加減かどうかは、守り石の放つ輝きが教えてくれる。
不満げな顔のまま石に力を籠めだしたのを確認して、マテアスは読みかけの本に意識を戻した。時折ジークヴァルトの様子を気にしつつ、しばらくページをめくる。
「いたっ」
突然、頭頂部にこつんと硬い何かが当たって、マテアスは思わず声を上げた。天然パーマの髪にひっかかっているものを手に取ると、それは青く輝く小ぶりな守り石だった。続けてこつこつこつと絶え間なく頭上に降ってくる。
「いたっいたっいたっ」
頭をかばいながら振り向くと、背を向けたジークヴァルトが、箱から石を取っては後ろ手にこちらに放り投げている。慌てて飛んでくる石をひとつひとつキャッチした。落として割らないようにとシャツの裾で包むと、あっという間にずしりと中身がいっぱいになる。
「守り石はとても貴重なものなんですよ! 遊んでは駄目ですっ!!」
「遊んでなんかいない」
振り返ったジークヴァルトは、仏頂面のまま最後の石を真っすぐに投げてきた。それを顔面すれすれで受け止めると、マテアスの目の前で石の青が揺らめいた。
「なんて綺麗な守り石なんだ……」
見るとシャツで包んだ石のすべてが、同じように得も言われぬ輝きを放っている。ジークヴァルトに渡したのは、力を注ぐ前のくすんだ石だ。それをこの短時間でこれほど完璧に力を籠めたというのか。まだ年端もいかないジークヴァルトに、自分では到底及ばない底知れぬものをマテアスは感じた。
「言われた通り全部やった。今から厩舎に行く」
「だから駄目ですってば。旦那様たちが出かけられて屋敷中が手薄な状態なんです。今は我慢なさってください」
そう言い聞かせ続けて幾日も経つ。そろそろ不満が爆発しそうな主を前に、マテアスは何とか気をそらそうと試みる。
「力をお使いになられてお腹が空いたでしょう? 今日はヴァルト様のお好きな焼き菓子ですよ。これをお食べになったらお昼寝の時間です」
納得がいかない顔で、それでもジークヴァルトは素直に頷いた。マテアスに任せておけばいい。父親の言葉には、ちゃんと従うつもりのようだ。
もくもくと無言で菓子を頬張る主を微笑ましく見やり、マテアスは一冊の絵本を取り出した。子供用の寝台にジークヴァルトを寝かせ、いつものように読み聞かせる。
この絵本は、勇敢な騎士が悪者から姫君を救う物語だ。騎士が馬を駆るシーンがお気に入りで、ジークヴァルトはそのページばかりをせがんでくる。そのくせ姫君に忠誠を誓う場面になると、興味が薄れていつもすぐに眠ってしまう。
わざとその部分をゆっくり丁寧に読むと、案の定ジークヴァルトはあっさり眠りについた。ほっとして絵本を閉じる。年を経るごとに主の要求は難易度が上がっていく。言葉は短いが、ジークヴァルトは割と理屈でものを言う。うまく丸め込まないと、かんしゃくを起こして手が付けられなくなることもしばしばだ。
束の間の安息の時間を手に入れて、マテアスは小さく息をついた。今のうちに読みかけの本を読みきってしまおう。ジークヴァルトの優秀さに、嫉妬すら覚えることがある。五つも年下の主に先を越されては、支えるどころか足手まといになってしまう。意気込んで、マテアスは机へと向かった。
まどろみからはっと顔を起こす。本を読みながらいつの間にか突っ伏して眠ってしまっていた。しんと静まり返る部屋の中、慌ててジークヴァルトの様子を見に行った。しかし、眠っているはずの主の姿がそこにはない。
めくれた冷ややかなリネンに青ざめた。内鍵をかけていたはずなのに、廊下へと出る扉が開いている。血の気が引いて、マテアスは部屋を飛び出した。
頭が真っ白になって、とにかく厩舎へ行くことしか思いつかなかった。あの時、迷わず父に助けを求めればよかったのだ。今でもマテアスは自責する。
次に目にしたのは厩舎近くの庭で、血だまりの中、倒れ伏す小さな主の姿だった――
髪を掴まれて、マテアスは涙目で訴えた。ジークヴァルトはこの冬で三歳になった。大人たちに大事に守られ、すくすくと成長している。基本、普段は安全な室内で過ごし、外に出るときは屋敷をあげての厳戒態勢を敷いていた。
「マテアス、もじゃもじゃ」
「好きでもじゃもじゃしているわけではありません。わたしだってヴァルト様みたいにサラサラの髪に生まれたかったですよ」
マテアスはちょうど八歳となり、家令となるべく勉学に励みつつ、いたずら盛りの三歳児を相手にするのに難儀していた。だが従者たるもの主を正しい道に導いてこそだとエッカルトに言われ、日々奮闘しているマテアスだ。
この頃のジークヴァルトは口数は多くはないが、それなりに笑ったりかんしゃくを起こしたりする普通の子供だった。外に出られないストレスはすべてマテアスに向けられて、そのやんちゃぶりに四苦八苦する毎日を送っている。
ようやく離したと思ったら、ジークヴァルトの手には何本もの抜けた髪が絡んでいる。それをまじまじと見やってから、ジークヴァルトはニヒルな笑いをその口元にのせた。
「マテアス、はげあたま」
「ふおっ! どこでそんな言葉を覚えてくるんですかっ」
頭を押さえながらマテアスが叫ぶと、ジークヴァルトは何もない宙をじっと見つめた。誰かの声に耳を傾けるように、時折こくこくと頷いている。
「エッカルト、かみうすい。マテアスもしょうらいつるっぱげ」
「守護者がそこにいるんですね! 守護者! ヴァルト様に変なことを仕込まないでくださいっ」
ジークヴァルトは守護者とよく会話をしている。声だけでなくその姿も鮮明に視えているらしかった。マテアスには何も視えないし何も聞こえない。だが、主がいるというのだから、信じるよりほかなかった。
そんなある日、父親のジークフリートがジークヴァルトを連れ出した。異形対策も次第にこなれてきた時期だったので、周囲の緊張も昔ほどではなくなってきている。
マテアスも付き従いながら、連れてこられたのは厩舎だった。美しい青毛の牝馬が目の前に現れる。ジークフリートに抱き上げられたまま、不思議そうにジークヴァルトはその黒馬を指さした。
「ちちうえ、おうま?」
「ああ、そうだ。あの馬はお爺様からの贈り物だ」
「ベルトおじいさまから?」
ジークベルトは乗馬の達人としても名を馳せている。今は辺境伯をしているが、息子のジークフリートに公爵位を譲る前は、フーゲンベルクを改めて国一番の馬の産地に仕上げた張本人でもあった。
「この馬はヴァルトのものだぞ。名前を付けてやらないとな。真っ黒いからシュバルツなんてどうだ?」
「しゃってん……シュバルツシャッテンがいいです、ちちうえ」
「黒影号か。なかなかいい名前じゃないか。ヴァルトは可愛いリンデに似てセンスがあるな」
うんうんと頷いている父親をしり目に、ジークヴァルトは腕の中、身を乗り出した。手を差し伸べると、黒影号は熱い鼻息とともに唇でやさしく食んでくる。
「なんだ? もう相思相愛か? よし、背に乗せてやろう。黒影号、ヴァルトひとりじゃ危ないから、悪いがオレも乗せてくれな?」
黒影号は頚を持ち上げると、うれしそうに短くいなないた。
ふたり乗り用の鞍をつけて、ジークヴァルトは前に乗せられた。ジークフリートが手綱を握ると黒影号はゆっくり歩き出す。マテアスもあわてて自分の馬に乗り、追いつくころにはジークヴァルトたちは軽やかに走り出していた。
「どうだ、気持ちいいだろう? ああっと、ヴァルトはしゃべるんじゃないぞ。馬を走らせている時は舌を噛んじゃうからな」
ジークフリートの言葉など耳に入らないかのように、ジークヴァルトは初めての乗馬に夢中になっている。高く大きく揺れる背、頬を吹き抜ける風、鼻をくすぐる草木のにおい、どこまでも広がる青い草原。室内に閉じ込められがちな日々を送るジークヴァルトにとって、何もかもが目新しい刺激的なものばかりだ。
屋敷の裏手から続く小道を進む。緩やかな登り勾配の坂を登りきると高台へと出る。一気に視界が開けて、遠い眼下に街並みが広がった。
「見ろ、ジークヴァルト。あれが我がフーゲンベルクが治める領地だ」
言葉を失ったまま街を眺めやるジークヴァルトを見て、口元に笑みがこぼれる。ジークフリートは高台の縁に沿って馬を歩かせた。
「いいか、ヴァルト。あそこには多くの領民が暮らしている。この領が繫栄しているのは民あってこそだ。みな懸命に働き、税を納め、フーゲンベルクを豊かにしてくれている。だからオレたちは領民に対して背負うべき義務がある」
「せおうべきぎむ?」
「そうだ。オレもお前も、ここに暮らす者たちすべてを守っていかなきゃならないんだ。これはこの家の跡取りとして生まれた者の宿命……おっと、こんなとこまでついて来るとは……」
振り返った先、ジークフリートは異形の塊に向けて力を放った。一塊の異形の者が断末魔の声を上げて消え去っていく。ふと見やると、遠巻きに多くの異形たちがこの場を取り巻いていた。
「せっかく父親としてかっこよくキメたと思ったのになぁ……まったく無粋な輩だ」
威圧するように睨みつけると、異形たちはじりと後ずさった。それ以上は移動せず、かといって近づいても来ない。
「マテアスもあまりオレから離れないでくれよ。巻き込まれると危ないからな」
「はい、旦那様」
後ろで控えるように馬に乗っていたマテアスは神妙に頷いた。ジークヴァルトを身を挺して守り、大怪我を負う大人たちを、マテアスは数えきれないほど目にしてきた。こんなふうに簡単にジークヴァルトを連れ出せるのは、ジークフリートの力が強大だからだ。
父エッカルトは力あるものとしても優秀だった。その血を受け継いだ身として、マテアスも力の扱い方を学び始めている。自分はジークヴァルトを守り支えていく立場なのだと思うと、足手まといにならないようにと訓練にも力が入った。
「このままじゃ面倒なことになりそうだなぁ。仕方ない、そろそろ帰るとするか」
集まってきた周囲の異形の数に、黒影号の鼻先を屋敷へと向けた。脇をすり抜けながら、臆することなく黒影号は鬣を揺らして駆けていく。置いて行かれないようにと、マテアスは急いでそのあとを追った。
前方を走る馬上で、ジークヴァルトは興奮気味の様子だ。途中、すぐそばの異形にヒヤリとさせられる。できる範囲で異形の者を追い払い、マテアスは必死について行った。
やっとの思いで戻った厩舎では、ジークヴァルトが黒影号から降りるのを嫌がっていた。駄々をこねるように頭を振って、しがみついた馬の首筋を絶対に放そうとしない。
「おいおい、ヴァルト。シュバルツシャッテンも困ってるじゃないか。これからずっと一緒にいる相棒なんだ。今日はもうゆっくり休ませてやらないとな」
父親に言われても、ふてくされたようにその手に力が入るだけだった。それでも無理やり引きはがされ、ジークフリートに抱き上げられてしまう。ぐずりながら、ジークヴァルトは黒影号に両手を伸ばした。応えるように顔を近づけてくる。柔らかな鼻づらをなでると、熱い鼻息が手のひらをくすぐった。
「なんだ? そんなに離れ難いのか? できるだけ乗馬につきあってやりたいが、そうはいってもオレもなかなか時間がとれないしなぁ」
お互いを慈しむように見つめ合う息子と愛馬を前に、ジークフリートは困った顔をした。ジークヴァルトの護衛に割ける人材も限られている。怪我を負う危険が高い任務に、臆する者が出ているのも仕方のないことだ。忠誠を強要するには、この家は使用人を大事にしすぎていた。
「よぉし、じゃあこうしよう。ジークヴァルト、お前はやらなきゃいけないことをとりあえず頑張れ。そうしたら乗馬の時間を作るようエッカルトに頼んでやるぞぉ」
「やらなきゃいけないこと?」
「ああ、領地の勉強や剣術なんかだ。お前はオレの後を継いで公爵領主となる。そのための勉強だ。まぁ言っても領地経営なんかは、オレもエッカルトに任せきりだけどな」
はっはっは、と得意げに笑うと、ジークフリートはマテアスの頭にポンと手を置いた。
「お前もマテアスに任せとけばいい」
「マテアスに?」
「ああ、とりあえずマテアスの言うこと聞いとけばお前の代も安泰だ。アーベントロート家は優秀なんだぞ。な? マテアス?」
「は、はい、旦那様! 精一杯務めさせていただきます!」
頭をぐりぐりとなでられながらマテアスは慌てて頷いた。
「それに、そのうちヴァルトも力の制御を身につけないとだなぁ」
「ちからのせいぎょ?」
「異形を祓えるようになれば、もっと自由に部屋から出られるようになる。馬にだって乗りたい放題だ。フーゲンベルク領主が、馬に乗れないんじゃあ示しがつかないからなぁ。そこのところもよろしく頼んだぞ、マテアス」
「はい! 旦那様」
その間もジークヴァルトは黒影号とずっと見つめ合っていた。
そして、それは一年後のことだった。普段よりも早い時刻に、マテアスは母ロミルダに揺り起こされる。
「マテアス、よく聞きなさい。大奥様が危篤に陥られてかなり危険な状態なの」
「大奥様が?」
「わたしもフリート様とリンデ様と共に辺境の砦へと向かうから、しばらく留守を頼むわ」
大奥様とは先代の公爵夫人、ジークフリートの母親のことだ。眠い目をこすりながら問う。
「ヴァルト様は?」
「ジークヴァルト様はここに残られるわ。エッカルトがお屋敷を任されたから、マテアスもしっかりヴァルト様をお守りするのよ」
本当に容態が思わしくないのだろう。いつになく動揺しているロミルダの声に、マテアスは大きく頷いた。
ふたりきりの部屋でマテアスは勉強しがてらジークヴァルトの相手をしていた。一行が辺境の砦に向かってからもう一週間は経過している。その間、室内に閉じ込められっぱなしのジークヴァルトの機嫌は、日増しに下降していく一方だ。
「シュバルツシャッテンに会いに行く」
「駄目ですよ。旦那様からも言われているでしょう? おひとりで厩舎に行くのは、ちゃんと力をつけてからでないと」
「ひとりじゃない。マテアスもいる」
指をさされてマテアスは困り眉をさらに下げた。小鬼を追い払う程度なら難なくできるが、ジークヴァルトを襲ってくるような異形を、子供のマテアスがどうこうできるはずもない。
「わたしの力ではまだ異形の者に太刀打ちできません。旦那様がお戻りになられるまで、シュバルツシャッテンに会いに行くのは我慢なさってください。そんなご不満そうな顔をしても駄目ですよ。ヴァルト様はもうすぐ五歳になられるんです。自覚をもって今やるべきことにお励みください」
そう言って守り石が山盛り入った箱を手渡した。これだけの数があれば、何日も時間稼ぎができるだろう。
「今日からこちらの守り石に力を籠める練習をしましょうか。力加減を間違えると石が割れてしまいますからね」
力の制御を覚えるのに、守り石は最適だ。力みすぎず弱すぎず。ちょうどいい加減かどうかは、守り石の放つ輝きが教えてくれる。
不満げな顔のまま石に力を籠めだしたのを確認して、マテアスは読みかけの本に意識を戻した。時折ジークヴァルトの様子を気にしつつ、しばらくページをめくる。
「いたっ」
突然、頭頂部にこつんと硬い何かが当たって、マテアスは思わず声を上げた。天然パーマの髪にひっかかっているものを手に取ると、それは青く輝く小ぶりな守り石だった。続けてこつこつこつと絶え間なく頭上に降ってくる。
「いたっいたっいたっ」
頭をかばいながら振り向くと、背を向けたジークヴァルトが、箱から石を取っては後ろ手にこちらに放り投げている。慌てて飛んでくる石をひとつひとつキャッチした。落として割らないようにとシャツの裾で包むと、あっという間にずしりと中身がいっぱいになる。
「守り石はとても貴重なものなんですよ! 遊んでは駄目ですっ!!」
「遊んでなんかいない」
振り返ったジークヴァルトは、仏頂面のまま最後の石を真っすぐに投げてきた。それを顔面すれすれで受け止めると、マテアスの目の前で石の青が揺らめいた。
「なんて綺麗な守り石なんだ……」
見るとシャツで包んだ石のすべてが、同じように得も言われぬ輝きを放っている。ジークヴァルトに渡したのは、力を注ぐ前のくすんだ石だ。それをこの短時間でこれほど完璧に力を籠めたというのか。まだ年端もいかないジークヴァルトに、自分では到底及ばない底知れぬものをマテアスは感じた。
「言われた通り全部やった。今から厩舎に行く」
「だから駄目ですってば。旦那様たちが出かけられて屋敷中が手薄な状態なんです。今は我慢なさってください」
そう言い聞かせ続けて幾日も経つ。そろそろ不満が爆発しそうな主を前に、マテアスは何とか気をそらそうと試みる。
「力をお使いになられてお腹が空いたでしょう? 今日はヴァルト様のお好きな焼き菓子ですよ。これをお食べになったらお昼寝の時間です」
納得がいかない顔で、それでもジークヴァルトは素直に頷いた。マテアスに任せておけばいい。父親の言葉には、ちゃんと従うつもりのようだ。
もくもくと無言で菓子を頬張る主を微笑ましく見やり、マテアスは一冊の絵本を取り出した。子供用の寝台にジークヴァルトを寝かせ、いつものように読み聞かせる。
この絵本は、勇敢な騎士が悪者から姫君を救う物語だ。騎士が馬を駆るシーンがお気に入りで、ジークヴァルトはそのページばかりをせがんでくる。そのくせ姫君に忠誠を誓う場面になると、興味が薄れていつもすぐに眠ってしまう。
わざとその部分をゆっくり丁寧に読むと、案の定ジークヴァルトはあっさり眠りについた。ほっとして絵本を閉じる。年を経るごとに主の要求は難易度が上がっていく。言葉は短いが、ジークヴァルトは割と理屈でものを言う。うまく丸め込まないと、かんしゃくを起こして手が付けられなくなることもしばしばだ。
束の間の安息の時間を手に入れて、マテアスは小さく息をついた。今のうちに読みかけの本を読みきってしまおう。ジークヴァルトの優秀さに、嫉妬すら覚えることがある。五つも年下の主に先を越されては、支えるどころか足手まといになってしまう。意気込んで、マテアスは机へと向かった。
まどろみからはっと顔を起こす。本を読みながらいつの間にか突っ伏して眠ってしまっていた。しんと静まり返る部屋の中、慌ててジークヴァルトの様子を見に行った。しかし、眠っているはずの主の姿がそこにはない。
めくれた冷ややかなリネンに青ざめた。内鍵をかけていたはずなのに、廊下へと出る扉が開いている。血の気が引いて、マテアスは部屋を飛び出した。
頭が真っ白になって、とにかく厩舎へ行くことしか思いつかなかった。あの時、迷わず父に助けを求めればよかったのだ。今でもマテアスは自責する。
次に目にしたのは厩舎近くの庭で、血だまりの中、倒れ伏す小さな主の姿だった――
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