ふたつ名の令嬢と龍の託宣【第二部公爵夫人編開始】

古堂 素央

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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

第14話 寡黙な公爵 - 後編 -

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【前回のあらすじ】
 ジークヴァルトへの思いを自覚したリーゼロッテは、ジークヴァルトに今も思う初恋の人がいることにショックを受けます。
 誤解したまま、託宣が果たされたのちに、ジークヴァルトを自由にする決意を固めるリーゼロッテ。しかしその思いとは裏腹に、必要以上に距離を置く態度をとってしまいます。
 そんな中、ジークヴァルトにリーゼロッテへの思いを再確認させるマテアス。不器用な主の背を見つめ、過ぎ去った日の追憶が胸によみがえるのでした。





「ロミルダ!」
 いきなりやってきたエッカルトに、マテアスは勉強机からいぶかな視線を向けた。家令である父親が、仕事中に部屋に戻ってくることなど滅多にない。そんな父がうれしそうに母ロミルダを持ち上げ、部屋中をくるくると動き回っている。

「な、何ごとなの、エッカルト」
「奥様がご懐妊なさいました!」
「ディートリンデ様が?」

 目を回し始めたロミルダを床に降ろすと、その肩を掴んでエッカルトは興奮気味に続けた。

「ジークフリート様の龍のあざが消えたということは、ついに託宣の御子みこを授かったというあかし。誠に喜ばしい!」
「まあ! 今すぐリンデ様の元にいかなくちゃ」

「喜べ、マテアス。お前がお仕えする方がお生まれになるんだぞ」
 忙しい父と会話をする機会は本当にまれだ。いきなり水を向けられたマテアスは、内心驚きつつも神妙に頷いた。


 数日後隣の部屋で、両親は打って変わってけわしい表情で会話をしていた。あれほど慶事に浮かれていたのに、何事かとマテアスは耳をそばだてた。

「守護者がリンデ様を守らない?」
「ディートリンデ奥様のお話では、御子につく守護者がまるで加護を示さないとかで……」

 顔を突き合わせ真剣に話し合うふたりに、読んでいた本から目を離す。守護者とはフーゲンベルクを継ぐ者に、代々つくと言われる視えざる存在だ。視えないのに、なぜそれがいることが分かるのだろう。そう思ってマテアスは小首をかしげた。

「視えないのに、どうしてそれが分かったの?」
「マテアス……大事な話があるから、お前もこちらに来なさい」

 扉の隙間から声をかけると、エッカルトに手招きをされる。部屋には姉のエマニュエルもいた。親子四人で顔を付き合わせるなどいつぶりだろうか。マテアスはとても奇妙な気分になった。

「マテアス、エマニュエルもよく聞きなさい。ディートリンデ奥様がご懐妊なさったことは先日告げたとおりだ。託宣の御子が奥様に宿った時点で、守護者はジークフリート様からその御子へと受け継がれる。それはお前たちも知っているね?」

 ふたりは同時に頷いた。マテアスは次期家令として、エマニュエルは公爵家の長女アデライーデの侍女となるべく、ものごころつく前から教育を受けている。まだ年端としはもいかぬ子供にもかかわらず、かなりの詰め込み教育がなされていた。

「フーゲンベルク家の当主となられるお方は、異形の者に狙われる宿命をお持ちだ」
「旦那様が『龍のたて』だから?」

 エマニュエルが問うと、エッカルトは深く頷いた。

「ああ、そうだ。今まではフリート様が龍の盾としてその役目を果たされていた。だが奥様が御子を身籠みごもられた今、その役割はその御子へと受け継がれた」
「じゃあ、今は御子様が異形に狙われているの?」
「その通りだ、マテアス。しかし、御子は奥様の胎内におられる。ゆえに現状、ディートリンデ奥様が異形に狙われていると言っていい」
「でも、守護者が守ってくれるのでしょう?」

 エマニュエルが小首をかしげると「本来ならばな」とエッカルトは難しい顔をした。

「本当に守護者は加護をあらわさないの……?」
 ロミルダが信じがたいといった表情でエッカルトを見やる。

「託宣の御子を宿してからというもの、ディートリンデ奥様は守護者の声が聞こえるようになられたそうだ」
「守護者の声が?」
「ああ、その守護者の話では、今までのように御子を守護することはできないと……」
「そんな……どうして」
「長きに渡るフーゲンベルクの歴史の中でも、今までこんなことはなかったようだ。フリート様が大旦那様にもご相談されている」

 前公爵であるジークベルトは、今は辺境伯として遠方の土地で暮らしている。歴代当主の中でもトップクラスの力を持つジークベルトに、何らかの知恵があることをエッカルトは期待していた。

「わたしたちにできることは、ディートリンデ奥様と御子を全力をもってお守りすることだ。いいか、エマニュエル。異形の悪意は、時に近しい人間に向けられることもある。アデライーデお嬢様に危害が及ばぬよう、決しておそばを離れるのではないぞ」
「わかったわ、父さん。任せてちょうだい」
「いい返事だ」

 エマニュエルが力強く頷くと、エッカルトは目を細めてその頭をやさしくなでた。

「ボクは何をすればいいの?」
 期待を込めて言ったマテアスに、エッカルトは視線を落とす。

「お前は今まで通り、お生まれになる御子のために勉学に励みなさい。御子を生涯お支えするのがお前の役目。そのための努力を怠ってはならない。分かるか? マテアス」
「うん、父さん」

 物心ついた時からそう言い聞かされて、そのためにずっと努力してきた。だが御子と言われても、マテアスにはいまだピンとくるものはない。とは言え、新しい知識を学ぶことは楽しかったので、とりあえず素直に返事をしておいた。


 数か月経って、マテアスは母ロミルダに連れられ、ディートリンデの元におもむいた。

「ここは旦那様のお部屋?」
「ええ、そうよ。ここはフリート様のお力の加護がある場所だから、異形からリンデ様と御子様を守ってくださるの。いい? マテアス。くれぐれもリンデ様に失礼のないようにね」
「うん、母さん」
「うん、ではないでしょう? これからはきちんと敬語を話さなくてはね?」
「はい、母さん」

 緊張顔で頷くと、ロミルダはマテアスを抱きしめた。

「大丈夫よ。マテアスは今まで頑張ってきたでしょう? もし失敗してしまったら、そこからきちんと学べばいいわ」

 エッカルトにもいつも言われている。どんなに考えを巡らせても、うまくいかないこともある。常にありとあらゆる事態を想定して、何が起きてもすぐに対応できるよう準備をおこたらないようにと。
 幼いマテアスにはそのことがまだよく分からない。だが今のロミルダの言葉は、なんとなく理解できるような気がした。

 部屋の奥に通されると、おなかのふくらんだディートリンデがソファでくつろいでいた。アデライーデお嬢様にそっくりだ。そんなことを思ってじっとその瞳を見つめていると、ロミルダに不敬だと怒られてしまった。

「いいのよ、叱らないでやって。マテアス、こちらにいらっしゃい」
「奥様、お召しにより参上いたしました」

 おずおずと近づくと、教えられた通りの礼をとる。なぜだか笑われてしまったが、手招きをするディートリンデにさらに一歩近づいた。

「手を貸してごらんなさい」

 母よりも白く細い手を差し伸べられて、マテアスは何も考えずに自身の手を預けた。引かれるままに、ディートリンデの丸い腹に手のひらが触れる。

「硬い」

 思わず漏れ出たひと言に、ディートリンデはぷっとふき出した。

「何が入っていると思ったの?」
「奥様がここにクッションでも詰めているのかと」
「その中に御子様がいらっしゃるのよ」

 驚いてマテアスはロミルダを振り返った。

「ここに?」
「ええ、そう。それに、マテアスもわたしのこのお腹の中にいたのよ?」
「えっ!?」

 その瞬間、マテアスの手のひらがぽこんと何かに叩かれた。驚いてディートリンデの腹に視線を戻す。

「お腹の子が挨拶しているようね」

 ディートリンデが言うと、さらにぽこぽこと叩かれた。

「ここに御子様が……」
「ふふ。マテアスも声をかけてあげてちょうだい。きっとよろこぶわ」

 頷いて腹に顔を近づける。

「御子様、はじめまして。マテアスと申します」

 ぽこぽこぽこんと返事をされて、マテアスは紅潮させた頬をロミルダへと向けた。


 さらに数か月後、春遠い冬の晴れた日に公爵家で大きな産声が上がった。みぞおちに龍のあざを持つ、託宣を受けた男児の誕生だった。
 その男児は祖父によりジークヴァルトと名付けられ、マテアスが対面を果たしたのは生後三か月を過ぎたころのことだ。母に連れられて、再びジークフリートの部屋へと向かう。

 マテアスは家令を継ぐ前に、ジークヴァルトの従者として仕えることが決まっている。一生を捧げるあるじとの面会に、緊張からかいたずらに胸が高鳴った。汗ばむ手のひらを確かめる。ディートリンデのお腹からこの手を叩いたあるじが、今、目の前のゆりかごの中にいる。

 ロミルダに促されて、マテアスは恐る恐る覗き込んだ。そこには青い瞳の赤ん坊が寝かされていた。白いおくるみにくるまれて、寄り目がちなつぶらな瞳でじっとこちらを見つめてくる。つんととがった小さな唇に、まだ生えそろっていない細い黒髪。その愛くるしい姿に、マテアスの心は一瞬で撃ち貫かれた。

(この方が、ボクのお仕えするジークヴァルト様……!)

 ああだぁと口にしながら、ジークヴァルトはちっちゃな手をマテアスに伸ばしてくる。思わずその手を取ると、思った以上の力で人差し指がぎゅっと握り返された。
 驚きと共に、落ち着かないようなむずむずした気持ちになる。なかなか指を離してくれないジークヴァルトに顔を近づけ、驚かせないように小声で話しかけた。

「ジークヴァルト様。改めてご挨拶申し上げます。あなた様の従者となるマテアス・アーベントロートと申します。精一杯務めさせていただきますので、これからもどうぞよろしっあっいっ、痛いです!」

 途中でマテアスの頭がいきなりわしまれた。天然パーマの髪に指を絡めて、ものすごい握力でぐいぐいと引っ張ってくる。

「いたっいたっ痛いですよ、おやめください、ジークヴァルト様!」

 必死に首を振るも、ジークヴァルトは楽しそうにきゃっきゃと笑い声をあげた。ご機嫌そうによだれまみれの唇を、勢いよくぶるぶると震わせる。

「ふおっ! き、汚なっ」

 顔に頭によだれのシャワーを浴びたマテアスは、思わず大声で叫んでしまった。当のジークヴァルトもよだれまみれになったまま、満面の笑みで口からさらによだれをあふれさせている。

「ああ、ボクのご主人様はなんて暴君なんだ!」

 ようやく髪を解放されて、マテアスは困り眉をさらにハの字に下げた。それでも愛くるしい笑顔に、本気で怒ることができない。真新しいハンカチを取り出して、マテアスはそのよだれまみれの唇をそっとぬぐった。

「わっぷ! 汚いですってば、ヴァルト様っ」
 よだれにまみれすぎて今さらどうでもよくなってくる。マテアスは糸目をさらに細めて、いつまでも飽きずにジークヴァルトを覗き込んでいた。

「主従のきずなは問題なさそうね」
 そんな様子を微笑ましく見ていたディートリンデが、安心したように頷いた。

「まるで旦那様とエッカルトを見ているようですね。時々ふたりの仲が良すぎて、わたしなどは思わず嫉妬してしまいます」
「そう? わたしは鬱陶うっとうしいフリートの気を引いてくれて助かってるけれど」

 ジークフリートの溺愛っぷりは、社交界でも有名な話だ。いつもストーカーのようにつきまとう夫を、ディートリンデはいつもそれはそれは冷たくあしらっている。
 ひとしきり笑ってから、ディートリンデは一転、深いため息を落とした。

「リンデ様?」
「間もなくジークヴァルトを王城へ連れて行かなければならないわ。その時に何事もないといいのだけれど……」

 龍から託宣をたまわった赤子は、生後半年以内に王城の奥深くにある託宣の間へおもむくのがしきたりだ。生まれてすぐに神殿から神官はやってきたものの、ジークヴァルトの龍のあざを確認しただけで、祝福の言葉もそこそこにあっという間に帰ってしまった。

「いまだ守護者の加護は受けられないままなのですね」
「ええ……」

 ディートリンデは苦し気に、ゆりかごの中のジークヴァルトをみやる。出産と共に守護者の声は聞こえなくなってしまった。ジークハルトと名乗った声だけの守護者は、掴みどころのない飄々ひょうひょうとした人物だった。いてもいなくても役立たずな存在が、ただひたすら腹立たしく思えてならない。

 今はジークフリートの力に守られた部屋にいる。だが、ここを一歩でも出たが最後、狂ったように異形の者が襲いかかってくるのだ。おかげでディートリンデは身重みおもの間に、この部屋から出ることは叶わなかった。外の空気すら吸えない日々に、気が滅入ったのは言うまでもない。

 それに耐えられたのは、ひとえにこの身に我が子を宿していたからだ。外に出られないことよりも、四六時中まとわりついてくる夫に辟易へきえきしていたディートリンデだ。

「王城までの道のりも危険だということですね?」
「……恐らくは」

 道中はジークフリートをはじめ、フーゲンベルク家にいる力ある者総出で護衛することになっている。

「大旦那様は来てはくださらないのですか?」
「ジークベルト様は辺境の地を守られているもの。それにお義母様のご容態も思わしくないようだし……」

 夫であるジークフリートの力は決して弱いものではない。だが、先代公爵のジークベルトはそれをはるかに凌駕りょうがしていた。そんな義父がいてくれたなら。この先の不安を思い、ディートリンデは再びため息をついた。


 ジークヴァルトが王城へと連れられて行く日、フーゲンベルク家では厳戒態勢となっていた。物々しい雰囲気の中、ディートリンデの腕に抱かれたジークヴァルトを、マテアスはどこまでも見送った。

 早朝に出かけた一行は、日が沈みかける頃に屋敷へと戻ってきた。騒然とする中、マテアスは懸命にジークヴァルトの姿を探す。

「父さん!」

 先に見つけたのは父エッカルトだった。包帯でぐるぐる巻きにされた姿を認め、マテアスは慌てて駆け寄った。白い包帯が赤黒くにじんでいる。痛みに耐えながらも、エッカルトはマテアスの頭に手を置き微笑んだ。

「何、名誉の負傷だ。ジークヴァルト様はご無事でおられる。安心しなさい」

 誇らしげな父の顔を見て、マテアスは安堵の息を漏らした。父のように自分もあるじを守らなくては。そんな誓いが胸に灯った。

 エッカルトの話では王城の安全な場所に着くまでに、幾度も異形に襲われたそうだ。託宣の間での儀式が済むと、一行は王城より追い出されるように出た。年の初めに王子が誕生したのもあって、異形の者を騒がせるジークヴァルトを神官たちはむような態度で扱ったらしい。

 帰りの道中も似たり寄ったりで、往復二時間程度の道のりが半日がかりの行程となった。同行した者たちはみな、大なり小なり怪我を負っている。それこそ無傷なのはジークヴァルトとディートリンデだけだった。

「それにしても、神殿の者たちの態度……思い出すだけでもはらわたが煮えくり返るわ」
いかれるリンデも可愛いなぁ」

 胸にジークヴァルトを抱きながら、ディートリンデは鬼のような形相だ。その横でジークフリートが、やにがった顔をしている。

「……大怪我を負ってひと月くらい寝込めばよかったのに」

 冷酷無比な視線を向けられて、ジークフリートは嬉しそうに身をよじった。

「いやぁ、その時はリンデに看病してもらうんだ」

 体をくねくねとくねらす夫を前に、ディートリンデはもはや虫けらを見るような顔つきだ。その腕の中で、ジークヴァルトは無邪気にきゃっきゃと笑っている。

「これでしばらくは危険なことはけられるわね」
「でも、ずっとヴァルトを部屋に閉じ込めておくわけにもいかないしなぁ」

 頼りない夫に、出てくるのはため息ばかりだ。ジークヴァルトがひ弱なうちに撃ち捕ろうと、異形の者は死に物狂いで襲ってくる。本来ならば異形をはねのけるはずの守護者の力が、まるで機能を果たそうとしない。

「ジークハルト……そこにいるんでしょう?」

 宙をにらみつけるも、ディートリンデにはその声はもはや聞こえてこない。ただ胸に抱くジークヴァルトだけが、何もない空間に向かって笑いながら小さな手を伸ばした。

「ヴァルトには守護者が視えているのかしら……?」

 何気なくつぶやかれたディートリンデの言葉が、真実であることを周囲はのちに知ることとなる。それはジークヴァルトが意味を成す言葉をしゃべり始めた数年後の事だった。
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