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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
第13話 寡黙な公爵 - 前編 -
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【前回のあらすじ】
ふたりの仲が少しずつ回復するかに見えていた矢先、リーゼロッテはやはりジークヴァルトの拒絶を受けてしまいます。
再び迷路に入り込んだリーゼロッテでしたが、それでもなんとかうまくやっていこうと決意。しかし、ジークヴァルトに今も思う初恋の相手がいることを知り、大きな衝撃を受けます。
同時にジークヴァルトへの思いを自覚したリーゼロッテは、飛び出した庭で絶望を感じるのでした。
(わたし、ジークヴァルト様のことが好きなんだ)
昼下がりの日差しが、足元の地面に木陰を落とす。風に揺れる影を見つめ、リーゼロッテはその庭に立ちつくしていた。どれくらいそうしていたのか分からない。湿り気を帯びたひそやかな風が頬をすり抜け、同時に背中に気づかわしげな気配を感じた。
呆然としたまま振り向くと、少し距離を置いた場所に、おろおろした様子のカークが立っている。零れ落ちる涙に驚いたのか、カークはぴょんとその場で小さく跳ねた。慌てて念を飛ばそうとするのが分かって、リーゼロッテはカークの動きを咄嗟に制した。
「お願い! 今は、ジークヴァルト様を呼ばないで……」
ふるえる声に、カークははっとして背筋を正した。見つめ返し、すぐにくるりと背を向ける。
「……ありがとう、カーク」
両手で顔を覆うと、リーゼロッテはその場でしゃがみこんだ。ぱたぱたと落ちる雫が、乾いた土にいびつな水玉模様を作っていく。
スカートに埋もれた守り石が、ドレープの隙間から顔をのぞかせている。初めはつけ慣れなかったこのネックレスも、今では自分の体の一部のようだ。チェーンの先の石を握りしめると、手のひらの中、青の波動が広がった。
土のにおいに天を仰ぐ。いつの間にか降り出した雨が、包み込むように体を濡らしていた。やわらかい雨は細やかな水滴を纏わせるだけで、流れる涙を隠そうとはしてくれない。ミストのように降り注ぐ雨を見上げていると、再びカークの思念が伝わってきた。
――このままここにいるならジークヴァルトを呼ぶ
心配そうな気配と共に、そんな言葉が聞こえてくる。視線を戻すと、たくさんの小鬼たちがぐるりと自分をとり囲んでいた。どの小鬼も不安げに瞳を潤ませ、遠巻きにこちらを見守っている。辺りを見回し振り向いた後ろの正面に、丸い屋根のガゼボが見えた。
「あそこに行くから、カーク、もう少しだけ……」
頷くとカークはリーゼロッテの後をついて来る。ガゼボに入ると、カークは入り口手前に立ち、リーゼロッテを守るように背を向けた。小鬼たちもガゼボの周りに集まってくる。
濡れそぼる新緑が、庭の中ぼんやりと浮き上がる。ベンチに座って、その様をリーゼロッテはただじっと見つめていた。
(ジークヴァルト様がわたしの名前を呼ばないのも、『彼女』の存在が大きいからなんだわ)
同じ託宣を受けた相手として、誠実に自分を扱ってくれている。それでも、心のわだかまりは消せないのかもしれない。
『その名を呼ぶことを許した覚えはない』
ふとその言葉が蘇った。イザベラへと向けられたあの台詞は、ジークヴァルトの本音なのだろうと今なら思う。
(思えばわたしも勝手に名前を呼んでしまっていたわ……)
再会したあの日から、当たり前のようにその名を呼んでいた。限られた近しい者は、親しみを込めて彼の事をヴァルトと呼ぶ。自分はきっと、そこに踏み入れていい立場ではなかったのだろう。
(強くは言えなかったんだ。わたしは龍が決めた相手だから)
口下手で、不器用で、時に強引で。突拍子なく思える行動も、だがすべてはジークヴァルトのやさしさだった。例えそれが義務感からくるものだとしても、リーゼロッテを気遣う心がいつでもそこにあったはずだ。
子供扱いされているのをいいことに、甘えすぎていた自分を悔やむ。握る守り石のあたたかさが、今はひたすら切なく感じた。
(ジークヴァルト様も、オクタヴィアのように――)
託宣が果たされた後、思う人と結ばれたいと願っているのかもしれない。違えることのできない託宣を前に、自分がしてやれることはただひとつだ。
ジークヴァルトとの決別が、ジークヴァルトのしあわせな未来に繋がる。それを思うと、胸が痛いくらいに締めつけられた。無事に託宣を終えたその時に、自分は快くこの絆を手放せるのだろうか。
ジークヴァルトのことだ。離れては嫌だと駄々をこねれば、きっとずっと一緒にいてくれるだろう。だが、心を押し殺すジークヴァルトを見て見ぬふりをして、自分はそれで満足なのか?
こずるい考えが頭に浮かんでは消えていく。しゃくりあげた視線の先に、誰か人影が浮かび上がった。薄くけぶる新緑の中、その姿が次第にはっきりしてくる。
青ざめて見える顔は、この天気のせいだけではないだろう。自分の元へ一目散に駆け寄るジークヴァルトを、気持ちの整理がつかないまま、涙をこらえて迎え入れた。雨の中ずっと探し回っていたのか、その髪の先から雫がいくつも落ちていく。
「怪我はないか?」
小さく頷くと、ジークヴァルトは目の前で片膝をついた。
「なぜここにいる? 何があった?」
誤魔化しきれない涙の痕に、長い指が沿わされていく。くすんだ雨の中、ジークヴァルトの瞳の青がいっそう綺麗だ。そんなことを思いながら、リーゼロッテは伏し目がちに視線をそらした。
「少し外の空気が吸いたいと思って庭に出たら、急に雨に降られてしまって……ご迷惑をおかけしました」
「そういう時はオレに言え。言えばちゃんと連れて行く」
どうして今まで気づかなかったのだろう。
(わたし、このひとがたまらなく好きだ――)
ぎゅうっと胸が締め付けられる。細かく唇が震え、リーゼロッテの瞳から再び涙が溢れだした。
「寒いのか?」
脱いだ上着をリーゼロッテの肩に掛けると、ジークヴァルトはそのまま抱き上げようとした。両手で胸を押し、小さく首を振る。
「わたくし自分で戻れます」
「いや駄目だ、却下だ。少し濡れるが我慢しろ」
そう言ってジークヴァルトは強引にリーゼロッテを子供抱きに抱え上げた。リーゼロッテが濡れないようにか、いつもよりきつく抱きしめられる。小雨の中、大股で進んでいくジークヴァルトにしがみつきながら、リーゼロッテは必死に嗚咽を堪えることしかできなかった。
(ヴァルト様が好き……でも、ヴァルト様には今も思う初恋の人がいる)
奥歯を噛みしめ涙が溢れないようにと、リーゼロッテは小さくしゃくりあげた。顔を上げた先ジークヴァルトの肩越しに、鳥籠のようなガゼボが歩みと共に小さく遠ざかっていく。
「もう少しだ。すぐに着く」
泣いているのは寒さのせいだとでも思ったのか、そんなことを言ってくる。さらに歩調を速めたジークヴァルトの首筋に顔をうずめ、リーゼロッテは何度も何度も首を振った。
約束の時間を過ぎても一向に訪れない自分を探しに出て、見つけたと思ったら訳も分からず泣かれている。ジークヴァルトにしてみれば、はた迷惑なことこの上ないだろう。
(もう、本当に、今日で終わりにしよう)
ジークヴァルトの前で泣くのも。ジークヴァルトに甘えるのも。その厚意をいいことに、自分は好き放題ばかりしてきた。
(ヴァルト様がやさしいのは、わたしが託宣の相手だから)
初めから分かっていたはずなのに、どうしてこんな勘違いをしていたのか。義務だとしても、自分の事を好きでいてくれている。勝手にそう思い込んでいた自分に、いい加減嫌気がさしてくる。
「……ごめんなさい」
「いい。お前が無事ならそれでいい」
耳元で小さく漏れ出た言葉に、ジークヴァルトはそっけなく返してきた。名を呼ぶのもきっとこれが最後だ。リーゼロッテはありったけの心で、その名を呼んだ。
「ヴァルト様」
覗き込むように小さく笑顔を作る。
「こんなわたくしのために、ありがとうございます……」
今まで、本当に。これからはちゃんと自分の足で立たなくてはならない。いつか来る別れを前に、寄りかかり切りでいる訳にはいかないのだから。
この温もりを忘れないようにと、回した手にぎゅっと力を入れた。リーゼロッテは部屋につくまで、おとなしくジークヴァルトの腕に抱かれていた。
◇
湯船につかり、リーゼロッテは小さく息をついた。湯あみの世話をしてくれたロミルダを、泣きはらした瞳で見上げる。
「ロミルダ、ありがとう……」
「とんでもございませんよ。エラ様も直にお戻りになられると思いますから、リーゼロッテ様はゆっくり温まってくださいね」
頷くとロミルダが悲しそうな視線を向けてきた。
「……もしや、旦那様に何かひどいことをされましたか?」
「いいえ……ひどいのは、きっとわたくしの方……」
「リーゼロッテ様……」
思わず口をついた言葉に、不安げに呼ばれる。はっとしたリーゼロッテはあわてて笑みを作った。
「何でもないの。大丈夫、わたくしちゃんとうまくやるわ」
視線を落とすと湯船に映る自分の姿が、まるで泣き笑いしているように歪んで見えた。
「ねえ、ロミルダはエッカルトが好き……? 今でも愛してる?」
「ええ、もちろんでございます」
ロミルダは侯爵令嬢の地位を捨て、エッカルトの妻となった。当時、婚約者のいたロミルダは、生家とも断絶状態になったそうだ。貴族同士の婚約はいわば契約の一種だ。そのほとんどが互いの利益のために決められる。
そんな婚約を一方的に破棄するとなると、契約に基づいて多額の賠償が発生する。家にも多大な迷惑がかかるため、ロミルダのような者は家から見放されるのが常だった。
「エッカルトと共に生きると決めたことを、わたしは後悔していません。もし、今あの日に戻ったとしても、わたしは同じ選択をするでしょう」
「そう……」
リーゼロッテは少しさみしげに、しかし満足そうに頷いた。
「ありがとう、ロミルダ。もう少し浸かったら部屋に戻るから」
「何かございましたら、すぐにお呼びになってくださいね」
ひとり残された浴槽で、リーゼロッテは肩口まで湯に身を沈めた。冷えた体がじんわりと温まってくる。
「やっぱり、思い合うふたりが結ばれるのがいちばんなんだわ……」
広い浴室に籠った声が響く。託宣が無事果たされた時、ジークヴァルトを自由にしてあげるのが自分の取るべき正しい道だ。
(だから、それまでは――)
そばにいることを許してほしい。
いつか来るその日を思うと、じわりと涙が浮かんでくる。リーゼロッテは頭ごと、湯船にとぷりと沈み込んだ。ぷくぷくと泡を吐きながらきつく目を閉じる。
(ずっと水の中にいられたら、誰にも涙を気づかれないで済むのに)
どうして自分はこうもすぐ泣いてしまうのか。せめてジークヴァルトの前でだけは、もう二度と涙は流すまい。そう心に決めて、リーゼロッテは湯の中から顔を出した。
力を抜いて天井を見上げる。しばらくの間、ゆらゆらと湯船を漂った。
ふたりの仲が少しずつ回復するかに見えていた矢先、リーゼロッテはやはりジークヴァルトの拒絶を受けてしまいます。
再び迷路に入り込んだリーゼロッテでしたが、それでもなんとかうまくやっていこうと決意。しかし、ジークヴァルトに今も思う初恋の相手がいることを知り、大きな衝撃を受けます。
同時にジークヴァルトへの思いを自覚したリーゼロッテは、飛び出した庭で絶望を感じるのでした。
(わたし、ジークヴァルト様のことが好きなんだ)
昼下がりの日差しが、足元の地面に木陰を落とす。風に揺れる影を見つめ、リーゼロッテはその庭に立ちつくしていた。どれくらいそうしていたのか分からない。湿り気を帯びたひそやかな風が頬をすり抜け、同時に背中に気づかわしげな気配を感じた。
呆然としたまま振り向くと、少し距離を置いた場所に、おろおろした様子のカークが立っている。零れ落ちる涙に驚いたのか、カークはぴょんとその場で小さく跳ねた。慌てて念を飛ばそうとするのが分かって、リーゼロッテはカークの動きを咄嗟に制した。
「お願い! 今は、ジークヴァルト様を呼ばないで……」
ふるえる声に、カークははっとして背筋を正した。見つめ返し、すぐにくるりと背を向ける。
「……ありがとう、カーク」
両手で顔を覆うと、リーゼロッテはその場でしゃがみこんだ。ぱたぱたと落ちる雫が、乾いた土にいびつな水玉模様を作っていく。
スカートに埋もれた守り石が、ドレープの隙間から顔をのぞかせている。初めはつけ慣れなかったこのネックレスも、今では自分の体の一部のようだ。チェーンの先の石を握りしめると、手のひらの中、青の波動が広がった。
土のにおいに天を仰ぐ。いつの間にか降り出した雨が、包み込むように体を濡らしていた。やわらかい雨は細やかな水滴を纏わせるだけで、流れる涙を隠そうとはしてくれない。ミストのように降り注ぐ雨を見上げていると、再びカークの思念が伝わってきた。
――このままここにいるならジークヴァルトを呼ぶ
心配そうな気配と共に、そんな言葉が聞こえてくる。視線を戻すと、たくさんの小鬼たちがぐるりと自分をとり囲んでいた。どの小鬼も不安げに瞳を潤ませ、遠巻きにこちらを見守っている。辺りを見回し振り向いた後ろの正面に、丸い屋根のガゼボが見えた。
「あそこに行くから、カーク、もう少しだけ……」
頷くとカークはリーゼロッテの後をついて来る。ガゼボに入ると、カークは入り口手前に立ち、リーゼロッテを守るように背を向けた。小鬼たちもガゼボの周りに集まってくる。
濡れそぼる新緑が、庭の中ぼんやりと浮き上がる。ベンチに座って、その様をリーゼロッテはただじっと見つめていた。
(ジークヴァルト様がわたしの名前を呼ばないのも、『彼女』の存在が大きいからなんだわ)
同じ託宣を受けた相手として、誠実に自分を扱ってくれている。それでも、心のわだかまりは消せないのかもしれない。
『その名を呼ぶことを許した覚えはない』
ふとその言葉が蘇った。イザベラへと向けられたあの台詞は、ジークヴァルトの本音なのだろうと今なら思う。
(思えばわたしも勝手に名前を呼んでしまっていたわ……)
再会したあの日から、当たり前のようにその名を呼んでいた。限られた近しい者は、親しみを込めて彼の事をヴァルトと呼ぶ。自分はきっと、そこに踏み入れていい立場ではなかったのだろう。
(強くは言えなかったんだ。わたしは龍が決めた相手だから)
口下手で、不器用で、時に強引で。突拍子なく思える行動も、だがすべてはジークヴァルトのやさしさだった。例えそれが義務感からくるものだとしても、リーゼロッテを気遣う心がいつでもそこにあったはずだ。
子供扱いされているのをいいことに、甘えすぎていた自分を悔やむ。握る守り石のあたたかさが、今はひたすら切なく感じた。
(ジークヴァルト様も、オクタヴィアのように――)
託宣が果たされた後、思う人と結ばれたいと願っているのかもしれない。違えることのできない託宣を前に、自分がしてやれることはただひとつだ。
ジークヴァルトとの決別が、ジークヴァルトのしあわせな未来に繋がる。それを思うと、胸が痛いくらいに締めつけられた。無事に託宣を終えたその時に、自分は快くこの絆を手放せるのだろうか。
ジークヴァルトのことだ。離れては嫌だと駄々をこねれば、きっとずっと一緒にいてくれるだろう。だが、心を押し殺すジークヴァルトを見て見ぬふりをして、自分はそれで満足なのか?
こずるい考えが頭に浮かんでは消えていく。しゃくりあげた視線の先に、誰か人影が浮かび上がった。薄くけぶる新緑の中、その姿が次第にはっきりしてくる。
青ざめて見える顔は、この天気のせいだけではないだろう。自分の元へ一目散に駆け寄るジークヴァルトを、気持ちの整理がつかないまま、涙をこらえて迎え入れた。雨の中ずっと探し回っていたのか、その髪の先から雫がいくつも落ちていく。
「怪我はないか?」
小さく頷くと、ジークヴァルトは目の前で片膝をついた。
「なぜここにいる? 何があった?」
誤魔化しきれない涙の痕に、長い指が沿わされていく。くすんだ雨の中、ジークヴァルトの瞳の青がいっそう綺麗だ。そんなことを思いながら、リーゼロッテは伏し目がちに視線をそらした。
「少し外の空気が吸いたいと思って庭に出たら、急に雨に降られてしまって……ご迷惑をおかけしました」
「そういう時はオレに言え。言えばちゃんと連れて行く」
どうして今まで気づかなかったのだろう。
(わたし、このひとがたまらなく好きだ――)
ぎゅうっと胸が締め付けられる。細かく唇が震え、リーゼロッテの瞳から再び涙が溢れだした。
「寒いのか?」
脱いだ上着をリーゼロッテの肩に掛けると、ジークヴァルトはそのまま抱き上げようとした。両手で胸を押し、小さく首を振る。
「わたくし自分で戻れます」
「いや駄目だ、却下だ。少し濡れるが我慢しろ」
そう言ってジークヴァルトは強引にリーゼロッテを子供抱きに抱え上げた。リーゼロッテが濡れないようにか、いつもよりきつく抱きしめられる。小雨の中、大股で進んでいくジークヴァルトにしがみつきながら、リーゼロッテは必死に嗚咽を堪えることしかできなかった。
(ヴァルト様が好き……でも、ヴァルト様には今も思う初恋の人がいる)
奥歯を噛みしめ涙が溢れないようにと、リーゼロッテは小さくしゃくりあげた。顔を上げた先ジークヴァルトの肩越しに、鳥籠のようなガゼボが歩みと共に小さく遠ざかっていく。
「もう少しだ。すぐに着く」
泣いているのは寒さのせいだとでも思ったのか、そんなことを言ってくる。さらに歩調を速めたジークヴァルトの首筋に顔をうずめ、リーゼロッテは何度も何度も首を振った。
約束の時間を過ぎても一向に訪れない自分を探しに出て、見つけたと思ったら訳も分からず泣かれている。ジークヴァルトにしてみれば、はた迷惑なことこの上ないだろう。
(もう、本当に、今日で終わりにしよう)
ジークヴァルトの前で泣くのも。ジークヴァルトに甘えるのも。その厚意をいいことに、自分は好き放題ばかりしてきた。
(ヴァルト様がやさしいのは、わたしが託宣の相手だから)
初めから分かっていたはずなのに、どうしてこんな勘違いをしていたのか。義務だとしても、自分の事を好きでいてくれている。勝手にそう思い込んでいた自分に、いい加減嫌気がさしてくる。
「……ごめんなさい」
「いい。お前が無事ならそれでいい」
耳元で小さく漏れ出た言葉に、ジークヴァルトはそっけなく返してきた。名を呼ぶのもきっとこれが最後だ。リーゼロッテはありったけの心で、その名を呼んだ。
「ヴァルト様」
覗き込むように小さく笑顔を作る。
「こんなわたくしのために、ありがとうございます……」
今まで、本当に。これからはちゃんと自分の足で立たなくてはならない。いつか来る別れを前に、寄りかかり切りでいる訳にはいかないのだから。
この温もりを忘れないようにと、回した手にぎゅっと力を入れた。リーゼロッテは部屋につくまで、おとなしくジークヴァルトの腕に抱かれていた。
◇
湯船につかり、リーゼロッテは小さく息をついた。湯あみの世話をしてくれたロミルダを、泣きはらした瞳で見上げる。
「ロミルダ、ありがとう……」
「とんでもございませんよ。エラ様も直にお戻りになられると思いますから、リーゼロッテ様はゆっくり温まってくださいね」
頷くとロミルダが悲しそうな視線を向けてきた。
「……もしや、旦那様に何かひどいことをされましたか?」
「いいえ……ひどいのは、きっとわたくしの方……」
「リーゼロッテ様……」
思わず口をついた言葉に、不安げに呼ばれる。はっとしたリーゼロッテはあわてて笑みを作った。
「何でもないの。大丈夫、わたくしちゃんとうまくやるわ」
視線を落とすと湯船に映る自分の姿が、まるで泣き笑いしているように歪んで見えた。
「ねえ、ロミルダはエッカルトが好き……? 今でも愛してる?」
「ええ、もちろんでございます」
ロミルダは侯爵令嬢の地位を捨て、エッカルトの妻となった。当時、婚約者のいたロミルダは、生家とも断絶状態になったそうだ。貴族同士の婚約はいわば契約の一種だ。そのほとんどが互いの利益のために決められる。
そんな婚約を一方的に破棄するとなると、契約に基づいて多額の賠償が発生する。家にも多大な迷惑がかかるため、ロミルダのような者は家から見放されるのが常だった。
「エッカルトと共に生きると決めたことを、わたしは後悔していません。もし、今あの日に戻ったとしても、わたしは同じ選択をするでしょう」
「そう……」
リーゼロッテは少しさみしげに、しかし満足そうに頷いた。
「ありがとう、ロミルダ。もう少し浸かったら部屋に戻るから」
「何かございましたら、すぐにお呼びになってくださいね」
ひとり残された浴槽で、リーゼロッテは肩口まで湯に身を沈めた。冷えた体がじんわりと温まってくる。
「やっぱり、思い合うふたりが結ばれるのがいちばんなんだわ……」
広い浴室に籠った声が響く。託宣が無事果たされた時、ジークヴァルトを自由にしてあげるのが自分の取るべき正しい道だ。
(だから、それまでは――)
そばにいることを許してほしい。
いつか来るその日を思うと、じわりと涙が浮かんでくる。リーゼロッテは頭ごと、湯船にとぷりと沈み込んだ。ぷくぷくと泡を吐きながらきつく目を閉じる。
(ずっと水の中にいられたら、誰にも涙を気づかれないで済むのに)
どうして自分はこうもすぐ泣いてしまうのか。せめてジークヴァルトの前でだけは、もう二度と涙は流すまい。そう心に決めて、リーゼロッテは湯の中から顔を出した。
力を抜いて天井を見上げる。しばらくの間、ゆらゆらと湯船を漂った。
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