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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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◇
「旦那様、少々お尋ねいたしますが、リーゼロッテ様とはうまくやられているんですよね?」
「ああ」
即答したジークヴァルトを前に、マテアスはこめかみにピキっと青筋を立てた。
「でしたら、なぜリーゼロッテ様は、あのように他人行儀にされているのでしょう?」
最近、ふたりの仲はいい感じに近づいてきたというのに、ここにきて再び雲行きが怪しくなっている。以前のようにリーゼロッテがジークヴァルトを避けることはなくなった。だが、その態度はまるで、親しくない知人の茶会に招かれたような、そんな不自然なよそよそしさだ。
ジークヴァルトの自室でふたりの時間を幾度か作っているが、回を重ねるごとに、リーゼロッテの様子がおかしくなっていく。
「旦那様のお部屋で、おふたりはどのように過ごされているのですか?」
「いつもと変わらない」
「いつもと、変わらない?」
再びマテアスのこめかみに青筋が立った。
「まさかとは思いますが、そのいつもと、というのは、普段、執務室で過ごされている様子と何ら変わりがない、ということでしょうか?」
「ああ、そうだ」
確かめるように問うたマテアスに、ジークヴァルトはそっけなく返した。
「異形の邪魔が入らぬようセッティングしているというのに、まったくあなたという人は……せっかくなんですから、口づけくらいなさったらいかがですか?」
呆れたように言ったマテアスに向けて、ジークヴァルトは眉間にしわを寄せた。
「そんなことできるわけがない」
「なぜですか? せっかくの機会ですのに」
「駄目だ。そんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
「……彼女が泣く」
ぎゅっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスが大げさにため息をついた。
ジークヴァルトがリーゼロッテと初めて会った日に、盛大に泣かれてしまったことはマテアスも知っている。それこそ、名をちょっと呼んだだけでも大泣きされて、幼かったジークヴァルトの中でトラウマになっているのかもしれない。
恐らくその時が主の初恋だったのだろう。本人の自覚はなくとも、それ以来会うことのできなかったリーゼロッテに、ジークヴァルトは並々ならぬ執着を見せていた。
「……それはあのリーゼロッテ様ですから、涙の一粒くらいはおこぼしになるかもしれません。ですが、おふたりは婚約関係にあるのですから、そのくらいは常識の範囲内でしょう?」
「いや駄目だ。そんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
再びマテアスが聞き返すと、ジークヴァルトは今日いちばん苦しげな顔をした。
「止まらなくなる」
そのあとジークヴァルトは押し黙って、すいと顔をそらした。
「どうしてあなた様は、いつも肝心な所でヘタレますかね。そこで止める必要など、どこにあるというのですか?」
諫めるようなマテアスの言葉を、ジークヴァルトは黙って聞いている。
「ヴァルト様……あなた、いつまで初恋をこじらせているおつもりですか? 本当に往生際の悪い。一体いくつになったんですかあなた様は。子供のようにいつまでたってもウダウダウダウダと」
いつになく苛立った様子のマテアスは、ジークヴァルトを焚きつけるように睨みつけた。
「リーゼロッテ様はヴァルト様の託宣のお相手なんですよ。しかも、もう成人なさった立派な淑女です。いい加減、腹をくくったらどうなんですか?」
「それくらい……わかっている」
「わかっておられないから、今こうなっているのでしょう? あなたが恋したあの方だって、同じく大人になられたんです。今、ヴァルト様が、どう決断してどう行動しようが、きちんと受け止めてくださいますよ」
唇を引き結んで、ジークヴァルトが呻くように言う。
「それでも、彼女を傷つけたくない」
「まったく、あなたと言う人は……」
マテアスはやっていられないとばかりに首を振った。
「婚姻の託宣がおりるまで、こんなぎくしゃくした関係を続けるおつもりなんですか? 今の様子じゃ、婚姻が果たされる頃にはリーゼロッテ様のお心は、別の誰かのものになっているやもしれませんね。託宣のお相手であることにあぐらをかいていると、いつか痛い目を見ますよ」
吐き捨てられたその言葉に、ぐっと喉を詰まらせる。婚姻の託宣を受けた者同士は、問答無用で惹かれ合う。だが過去には、託宣を果たした後に、決別を選択した者もいる。
その時、ジークヴァルトがはっと顔を上げた。自室の扉を開き、廊下を確かめる。
今、彼女の気配がした。だが、目の前には、人影ひとつ見えない廊下が広がっている。
「旦那様?」
「いや、何でもない」
そっけなく言うと、ジークヴァルトは自室の扉を再び閉めた。
◇
文机に向かい、リーゼロッテはぼんやりとしたまま、幾度目かのため息をついた。義父のフーゴに宛てた手紙を書こうとするも、先ほどから一向に筆が進まない。
「お嬢様……何かお悩み事でもございますか?」
エラにそう声を掛けられ、リーゼロッテはあきらめて握っていたペンを机の上に戻した。
「少し話を聞いてくれる?」
沈んだままのリーゼロッテの言葉に、エラはもちろんですと頷いた。
「え? 夜会でイザベラ様がまた絡んでこられたのですか?」
アルフレートを胸に抱きながら、リーゼロッテは隣に座るエラに向けて頷いた。
「でもそれはいいの。ジークヴァルト様はイザベラ様を相手にはなさらなかったから」
リーゼロッテの言葉にエラは安堵した。
「それならよかったです。では、お嬢様は一体何を憂いていらっしゃるのですか?」
「この前のお茶会で、イザベラ様がおっしゃっていたように……」
リーゼロッテは一度ゆっくりと呼吸をして、震える声で続きを口にした。
「わたくしね、ジークヴァルト様に、一度も名前で呼んでいただけたことがないの。本当に、ただの一度も……」
公の場なら、家名で呼ばれるのも不思議ではない。だが、身内しかいない場所でも、ふたりきりの時でも、ジークヴァルトが自分の名前を口にすることは、一度たりとてなかった。
「お嬢様……」
「わかってはいるの。わたくしたちは龍が決めた間柄。ジークヴァルト様も、わたくしの扱いに戸惑っていらっしゃるのかもしれない。だから、お互いを尊重し合えるように、ゆっくりやっていけばいい。そう思って今まで頑張ってきたのだけれど……」
泣きそうに瞳を伏せたリーゼロッテの手を、エラはそっと包み込んだ。
「それでしたら、公爵様にお願いしてみましょう」
「ジークヴァルト様に? 何を?」
「リーゼロッテと、名で呼んでほしいと。怖がることはないと思います。公爵様はおやさしい方ですから」
穏やかな表情で言うエラを、リーゼロッテは涙をためた瞳で見上げた。
「わたくし、名を呼んでくださらないからと、きっと意固地になっていたのね。呼んでいただけないなら、別にそれでもかまわないって……」
自嘲気味に言ってから、リーゼロッテは笑顔になった。
「でも、エラの言う通り、ジークヴァルト様にお願いしてみるわ。どうしてそんな簡単なこと、今まで思いつかなかったのかしら」
「お嬢様はいつでも、周囲に気をお遣いになられますから……。もっと我儘をおっしゃってもよろしいと思います」
「そうやって甘やかされると、わたくし本当に我儘になってしまいそうだわ」
「お嬢様は、そのくらいがちょうどいいです」
エラは本気でそう思っているかのように、真剣な顔で頷いた。
「もし、ヴァルト様に断られたら、エラが慰めてくれる?」
「もちろんでございます。ですが、お断りされることなどございませんよ。もしあるとしたら、それは公爵様が『お嬢様のお名前を呼んだら死んでしまう呪い』にかかっているからに違いありません」
大真面目にそんなことを言ったエラに、リーゼロッテは目を丸くした。
「ヴァルト様がそんな恐ろしい呪いにかかっていたら、わたくし名を呼ばれないくらい我慢できるわ」
くすくす笑うリーゼロッテを、エラは安堵した様子で見つめている。
「リーゼロッテお嬢様。エラは、これからもお嬢様をずっとお支えしてまいります」
「ありがとう、エラ……」
お互いを見つめて微笑み合う。ひとりではない。そう思うと勇気が湧いてきた。
このあと、ジークヴァルトの部屋に行くことになっている。先ほどまで気が重かったが、その時にジークヴァルトに名前で呼んでもらえるようにお願いしよう。そんなことを考えると、早く時間が来ればと気が逸る。
「エラはこれから刺繍教室よね。わたくしのことは心配しないで、行ってきてちょうだい」
ジークヴァルトの部屋はすぐ隣だ。廊下にカークも立っているし、ひとりで行っても問題はない。
エラを見送ると、リーゼロッテは義父のフーゴに手紙をしたためた。
(落ち込んだりもしたけれど、わたくしは元気です、と。これでいいわよね?)
これ以上、フーゴに心配をかけても仕方がない。ジークヴァルトとは長い付き合いになるのだ。ずっと一緒にいなければならないのなら、ギスギスと過ごすより、風通しのよい関係でいたいものだ。
迷惑にならない程度に自立を目指そう。ひとり頷いて、リーゼロッテは時計を見上げた。
(少し早いけれど、もう行ってこようかしら)
部屋に誰もいなかったら、しばらく廊下でカークとおしゃべりでもしていればいい。リーゼロッテはそのまま廊下へと出た。
「今日はジークヴァルト様のお部屋にいくだけだから大丈夫よ」
あとを着いてこようとするカークを制して微笑みかける。出番がやってきたとばかりに動こうとしていたカークは、ちょっぴり残念そうに壁際で再び背筋を伸ばした。
「カーク、いつもありがとう」
見上げるとカークは、照れたように頬をポリポリと掻いた。
ジークヴァルトの部屋の扉の前まで行くと、リーゼロッテは一度大きく深呼吸をした。大丈夫。ちゃんとうまくやれる。心の中で、そう自分に言い聞かせる。
扉を叩こうとしたとき、部屋の中からマテアスの声が聞こえた。言い争いとまではいかないが、口調から何やら不穏な空気を感じる。扉の前で躊躇して、リーゼロッテはノックしようとしていた手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「どうしてあなた様は、いつも肝心な所でヘタレますかね。そこで止める必要など、どこにあるというのですか?」
中からはマテアスの声しか聞こえない。だが、内容から察するに、ジークヴァルトも在室しているのだろう。
「ヴァルト様……あなた、いつまで初恋をこじらせているおつもりですか? 本当に往生際の悪い。一体いくつになったんですかあなた様は。子供のようにいつまでたってもウダウダウダウダと」
マテアスの言葉に、リーゼロッテはその瞳を大きく見開いた。
――ジークヴァルトに初恋の人がいる
その事実に、リーゼロッテは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。しかも、ジークヴァルトは現在進行形でその人が好きなのだ。
「リーゼロッテ様はヴァルト様の託宣のお相手なんですよ。しかも、もう成人なさった立派な淑女です。いい加減、腹をくくったらどうなんですか?」
突然自分の名前を出されて、リーゼロッテは激しく動揺した。
「それくらい……わかっている」
ジークヴァルトの低い声が聞こえた。絞り出すような声音だった。
「わかっておられないから、今こうなっているのでしょう? あなたが恋したあの方だって、同じく大人になられたんです。今、ヴァルト様が、どう決断してどう行動しようが、きちんと受け止めてくださいますよ」
「それでも、彼女を傷つけたくない」
「まったく、あなたと言う人は……」
リーゼロッテは数歩あとずさって、くるりと向きを変えた。そのままその場を駆け出した。鼓動がどくどくとうるさく、ひどく動揺している自分にさらに動揺していた。
(ジークヴァルト様に好きな人がいる。でも、ジークヴァルト様には、わたしがいる)
託宣で決められたこの自分が。だから、ジークヴァルトの恋が実ることはないのだ。
マテアスは言っていた。初恋の『彼女』も、ジークヴァルトの決断を受け止めるだろう、と。
(ふたりは相思相愛なんだ。でも……)
決してふたりは結ばれない。
(――このわたしがいるから)
『彼女』はきっと結ばれないその運命を受け入れたのだ。だが、ジークヴァルトは?
貴族に生まれたからには、政略結婚は珍しいことではない。家のために有利な相手と婚姻を結ぶのは、貴族として当たり前のことだ。ましてや自分とジークヴァルトは、龍が決めた相手。もし、それを違えるためには、星に堕ちるほかない。
(ジークヴァルト様は思い悩むほど、その方のことを――)
やみくもに飛び出して、リーゼロッテはいつの間にか公爵家の庭の中にいた。人影のない静かな庭で、リーゼロッテは呆然と立ち尽くす。
(……わたし、ジークヴァルト様のことが好きなんだ)
そう自覚したと同時に、自分は失恋してしまった。その事実に、リーゼロッテは絶望の淵に立たされた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様への気持ちを自覚したわたしは、その距離をますます測れなくなって。おかしな態度を取り続けるわたしに、何も言わないジークヴァルト様。見かねたマテアスは、原因を探るべくエラに相談を持ちかけて……?
次回、3章第13話「寡黙な公爵 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
「旦那様、少々お尋ねいたしますが、リーゼロッテ様とはうまくやられているんですよね?」
「ああ」
即答したジークヴァルトを前に、マテアスはこめかみにピキっと青筋を立てた。
「でしたら、なぜリーゼロッテ様は、あのように他人行儀にされているのでしょう?」
最近、ふたりの仲はいい感じに近づいてきたというのに、ここにきて再び雲行きが怪しくなっている。以前のようにリーゼロッテがジークヴァルトを避けることはなくなった。だが、その態度はまるで、親しくない知人の茶会に招かれたような、そんな不自然なよそよそしさだ。
ジークヴァルトの自室でふたりの時間を幾度か作っているが、回を重ねるごとに、リーゼロッテの様子がおかしくなっていく。
「旦那様のお部屋で、おふたりはどのように過ごされているのですか?」
「いつもと変わらない」
「いつもと、変わらない?」
再びマテアスのこめかみに青筋が立った。
「まさかとは思いますが、そのいつもと、というのは、普段、執務室で過ごされている様子と何ら変わりがない、ということでしょうか?」
「ああ、そうだ」
確かめるように問うたマテアスに、ジークヴァルトはそっけなく返した。
「異形の邪魔が入らぬようセッティングしているというのに、まったくあなたという人は……せっかくなんですから、口づけくらいなさったらいかがですか?」
呆れたように言ったマテアスに向けて、ジークヴァルトは眉間にしわを寄せた。
「そんなことできるわけがない」
「なぜですか? せっかくの機会ですのに」
「駄目だ。そんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
「……彼女が泣く」
ぎゅっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスが大げさにため息をついた。
ジークヴァルトがリーゼロッテと初めて会った日に、盛大に泣かれてしまったことはマテアスも知っている。それこそ、名をちょっと呼んだだけでも大泣きされて、幼かったジークヴァルトの中でトラウマになっているのかもしれない。
恐らくその時が主の初恋だったのだろう。本人の自覚はなくとも、それ以来会うことのできなかったリーゼロッテに、ジークヴァルトは並々ならぬ執着を見せていた。
「……それはあのリーゼロッテ様ですから、涙の一粒くらいはおこぼしになるかもしれません。ですが、おふたりは婚約関係にあるのですから、そのくらいは常識の範囲内でしょう?」
「いや駄目だ。そんなことをしたら」
「そんなことをしたら?」
再びマテアスが聞き返すと、ジークヴァルトは今日いちばん苦しげな顔をした。
「止まらなくなる」
そのあとジークヴァルトは押し黙って、すいと顔をそらした。
「どうしてあなた様は、いつも肝心な所でヘタレますかね。そこで止める必要など、どこにあるというのですか?」
諫めるようなマテアスの言葉を、ジークヴァルトは黙って聞いている。
「ヴァルト様……あなた、いつまで初恋をこじらせているおつもりですか? 本当に往生際の悪い。一体いくつになったんですかあなた様は。子供のようにいつまでたってもウダウダウダウダと」
いつになく苛立った様子のマテアスは、ジークヴァルトを焚きつけるように睨みつけた。
「リーゼロッテ様はヴァルト様の託宣のお相手なんですよ。しかも、もう成人なさった立派な淑女です。いい加減、腹をくくったらどうなんですか?」
「それくらい……わかっている」
「わかっておられないから、今こうなっているのでしょう? あなたが恋したあの方だって、同じく大人になられたんです。今、ヴァルト様が、どう決断してどう行動しようが、きちんと受け止めてくださいますよ」
唇を引き結んで、ジークヴァルトが呻くように言う。
「それでも、彼女を傷つけたくない」
「まったく、あなたと言う人は……」
マテアスはやっていられないとばかりに首を振った。
「婚姻の託宣がおりるまで、こんなぎくしゃくした関係を続けるおつもりなんですか? 今の様子じゃ、婚姻が果たされる頃にはリーゼロッテ様のお心は、別の誰かのものになっているやもしれませんね。託宣のお相手であることにあぐらをかいていると、いつか痛い目を見ますよ」
吐き捨てられたその言葉に、ぐっと喉を詰まらせる。婚姻の託宣を受けた者同士は、問答無用で惹かれ合う。だが過去には、託宣を果たした後に、決別を選択した者もいる。
その時、ジークヴァルトがはっと顔を上げた。自室の扉を開き、廊下を確かめる。
今、彼女の気配がした。だが、目の前には、人影ひとつ見えない廊下が広がっている。
「旦那様?」
「いや、何でもない」
そっけなく言うと、ジークヴァルトは自室の扉を再び閉めた。
◇
文机に向かい、リーゼロッテはぼんやりとしたまま、幾度目かのため息をついた。義父のフーゴに宛てた手紙を書こうとするも、先ほどから一向に筆が進まない。
「お嬢様……何かお悩み事でもございますか?」
エラにそう声を掛けられ、リーゼロッテはあきらめて握っていたペンを机の上に戻した。
「少し話を聞いてくれる?」
沈んだままのリーゼロッテの言葉に、エラはもちろんですと頷いた。
「え? 夜会でイザベラ様がまた絡んでこられたのですか?」
アルフレートを胸に抱きながら、リーゼロッテは隣に座るエラに向けて頷いた。
「でもそれはいいの。ジークヴァルト様はイザベラ様を相手にはなさらなかったから」
リーゼロッテの言葉にエラは安堵した。
「それならよかったです。では、お嬢様は一体何を憂いていらっしゃるのですか?」
「この前のお茶会で、イザベラ様がおっしゃっていたように……」
リーゼロッテは一度ゆっくりと呼吸をして、震える声で続きを口にした。
「わたくしね、ジークヴァルト様に、一度も名前で呼んでいただけたことがないの。本当に、ただの一度も……」
公の場なら、家名で呼ばれるのも不思議ではない。だが、身内しかいない場所でも、ふたりきりの時でも、ジークヴァルトが自分の名前を口にすることは、一度たりとてなかった。
「お嬢様……」
「わかってはいるの。わたくしたちは龍が決めた間柄。ジークヴァルト様も、わたくしの扱いに戸惑っていらっしゃるのかもしれない。だから、お互いを尊重し合えるように、ゆっくりやっていけばいい。そう思って今まで頑張ってきたのだけれど……」
泣きそうに瞳を伏せたリーゼロッテの手を、エラはそっと包み込んだ。
「それでしたら、公爵様にお願いしてみましょう」
「ジークヴァルト様に? 何を?」
「リーゼロッテと、名で呼んでほしいと。怖がることはないと思います。公爵様はおやさしい方ですから」
穏やかな表情で言うエラを、リーゼロッテは涙をためた瞳で見上げた。
「わたくし、名を呼んでくださらないからと、きっと意固地になっていたのね。呼んでいただけないなら、別にそれでもかまわないって……」
自嘲気味に言ってから、リーゼロッテは笑顔になった。
「でも、エラの言う通り、ジークヴァルト様にお願いしてみるわ。どうしてそんな簡単なこと、今まで思いつかなかったのかしら」
「お嬢様はいつでも、周囲に気をお遣いになられますから……。もっと我儘をおっしゃってもよろしいと思います」
「そうやって甘やかされると、わたくし本当に我儘になってしまいそうだわ」
「お嬢様は、そのくらいがちょうどいいです」
エラは本気でそう思っているかのように、真剣な顔で頷いた。
「もし、ヴァルト様に断られたら、エラが慰めてくれる?」
「もちろんでございます。ですが、お断りされることなどございませんよ。もしあるとしたら、それは公爵様が『お嬢様のお名前を呼んだら死んでしまう呪い』にかかっているからに違いありません」
大真面目にそんなことを言ったエラに、リーゼロッテは目を丸くした。
「ヴァルト様がそんな恐ろしい呪いにかかっていたら、わたくし名を呼ばれないくらい我慢できるわ」
くすくす笑うリーゼロッテを、エラは安堵した様子で見つめている。
「リーゼロッテお嬢様。エラは、これからもお嬢様をずっとお支えしてまいります」
「ありがとう、エラ……」
お互いを見つめて微笑み合う。ひとりではない。そう思うと勇気が湧いてきた。
このあと、ジークヴァルトの部屋に行くことになっている。先ほどまで気が重かったが、その時にジークヴァルトに名前で呼んでもらえるようにお願いしよう。そんなことを考えると、早く時間が来ればと気が逸る。
「エラはこれから刺繍教室よね。わたくしのことは心配しないで、行ってきてちょうだい」
ジークヴァルトの部屋はすぐ隣だ。廊下にカークも立っているし、ひとりで行っても問題はない。
エラを見送ると、リーゼロッテは義父のフーゴに手紙をしたためた。
(落ち込んだりもしたけれど、わたくしは元気です、と。これでいいわよね?)
これ以上、フーゴに心配をかけても仕方がない。ジークヴァルトとは長い付き合いになるのだ。ずっと一緒にいなければならないのなら、ギスギスと過ごすより、風通しのよい関係でいたいものだ。
迷惑にならない程度に自立を目指そう。ひとり頷いて、リーゼロッテは時計を見上げた。
(少し早いけれど、もう行ってこようかしら)
部屋に誰もいなかったら、しばらく廊下でカークとおしゃべりでもしていればいい。リーゼロッテはそのまま廊下へと出た。
「今日はジークヴァルト様のお部屋にいくだけだから大丈夫よ」
あとを着いてこようとするカークを制して微笑みかける。出番がやってきたとばかりに動こうとしていたカークは、ちょっぴり残念そうに壁際で再び背筋を伸ばした。
「カーク、いつもありがとう」
見上げるとカークは、照れたように頬をポリポリと掻いた。
ジークヴァルトの部屋の扉の前まで行くと、リーゼロッテは一度大きく深呼吸をした。大丈夫。ちゃんとうまくやれる。心の中で、そう自分に言い聞かせる。
扉を叩こうとしたとき、部屋の中からマテアスの声が聞こえた。言い争いとまではいかないが、口調から何やら不穏な空気を感じる。扉の前で躊躇して、リーゼロッテはノックしようとしていた手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「どうしてあなた様は、いつも肝心な所でヘタレますかね。そこで止める必要など、どこにあるというのですか?」
中からはマテアスの声しか聞こえない。だが、内容から察するに、ジークヴァルトも在室しているのだろう。
「ヴァルト様……あなた、いつまで初恋をこじらせているおつもりですか? 本当に往生際の悪い。一体いくつになったんですかあなた様は。子供のようにいつまでたってもウダウダウダウダと」
マテアスの言葉に、リーゼロッテはその瞳を大きく見開いた。
――ジークヴァルトに初恋の人がいる
その事実に、リーゼロッテは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。しかも、ジークヴァルトは現在進行形でその人が好きなのだ。
「リーゼロッテ様はヴァルト様の託宣のお相手なんですよ。しかも、もう成人なさった立派な淑女です。いい加減、腹をくくったらどうなんですか?」
突然自分の名前を出されて、リーゼロッテは激しく動揺した。
「それくらい……わかっている」
ジークヴァルトの低い声が聞こえた。絞り出すような声音だった。
「わかっておられないから、今こうなっているのでしょう? あなたが恋したあの方だって、同じく大人になられたんです。今、ヴァルト様が、どう決断してどう行動しようが、きちんと受け止めてくださいますよ」
「それでも、彼女を傷つけたくない」
「まったく、あなたと言う人は……」
リーゼロッテは数歩あとずさって、くるりと向きを変えた。そのままその場を駆け出した。鼓動がどくどくとうるさく、ひどく動揺している自分にさらに動揺していた。
(ジークヴァルト様に好きな人がいる。でも、ジークヴァルト様には、わたしがいる)
託宣で決められたこの自分が。だから、ジークヴァルトの恋が実ることはないのだ。
マテアスは言っていた。初恋の『彼女』も、ジークヴァルトの決断を受け止めるだろう、と。
(ふたりは相思相愛なんだ。でも……)
決してふたりは結ばれない。
(――このわたしがいるから)
『彼女』はきっと結ばれないその運命を受け入れたのだ。だが、ジークヴァルトは?
貴族に生まれたからには、政略結婚は珍しいことではない。家のために有利な相手と婚姻を結ぶのは、貴族として当たり前のことだ。ましてや自分とジークヴァルトは、龍が決めた相手。もし、それを違えるためには、星に堕ちるほかない。
(ジークヴァルト様は思い悩むほど、その方のことを――)
やみくもに飛び出して、リーゼロッテはいつの間にか公爵家の庭の中にいた。人影のない静かな庭で、リーゼロッテは呆然と立ち尽くす。
(……わたし、ジークヴァルト様のことが好きなんだ)
そう自覚したと同時に、自分は失恋してしまった。その事実に、リーゼロッテは絶望の淵に立たされた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様への気持ちを自覚したわたしは、その距離をますます測れなくなって。おかしな態度を取り続けるわたしに、何も言わないジークヴァルト様。見かねたマテアスは、原因を探るべくエラに相談を持ちかけて……?
次回、3章第13話「寡黙な公爵 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
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けれど、名を偽り可愛い我が子の子育てをしながら懸命に生きていたティナレインと、彼女を諦めきれないセシルは、ある日運命的な再会を果たし────
生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。
※いつもの完全オリジナルファンタジー世界の物語です。全てがファンタジーです。
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