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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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◇
書類の束を抱えながらマテアスが廊下を歩いていると、執務室の前に誰か人影がいるのが分かった。
「エラ様?」
驚いて駆け寄ると、エラは思いつめたような表情をしていた。
「マテアス……少し相談したいことがあるのですが」
「わかりました。中でお聞きしましょう」
執務室に招き入れたマテアスは、エラのために紅茶を淹れて差し出した。
「足の具合はいかがですか? 歩くのには支障はないようですが、ご無理はなさいませんよう」
「ありがとう、マテアス。でも、わたしの足はもう治りましたので」
「それは何よりです。それで、ご相談と言うのは、リーゼロッテ様に関することでございますか?」
マテアスが問いかけると、エラは真剣な表情で見返してきた。
「マテアス、お願いです! わたしに稽古をつけてください!」
「え? 稽古でございますか?」
分からないといったふうに首をかしげたマテアスの手を、エラはがばっと両手でつかみ取った。
「剣術でも、体術でもかまいません! わたしに指南してほしいのです!」
「しかし、ご令嬢のエラ様にそのようなことは……」
「お嬢様が襲われた時、わたしは何もできなかったんです! 護身術程度なら身につけてはいましたが、今のまま、あんなことがまた起きたらと思うと、わたし本当に恐ろしくて……」
涙ながらに訴えられて、マテアスは困惑の表情を浮かべた。
「鍛えたところで、マテアスのように戦えるとは思っていません。でも、お嬢様を守る盾くらいにはなりたいんです」
「……分かりました。エラ様相手とは言え、やるからには手加減はいたしませんよ?」
エラに手を取られたまま、マテアスは真摯な顔つきで言った。
「望むところです」
揺らがないままエラはマテアスをじっと見上げる。その決意に応えるように、マテアスは強く頷き返した。
◇
浅いまどろみから醒めかけて、腕の中の温もりを確かめるように抱き寄せた。薄く瞳を開くと、目の前にリーゼロッテがいる。いつもの夢だ。そう思ってジークヴァルトは、その綺麗な額に口づけた。
(あたたかい……)
きゅっと抱きしめると、リーゼロッテが胸にすり寄ってくる。しあわせそうな寝顔を見つめ、ジークヴァルトはためらいもせずその唇を塞いだ。
柔らかな感触に、夢中になって口づける。幾度も啄ばむようにするうちに、物足りなくなって小さな唇にゆっくりと舌を這わせた。くすぐったそうに逃げる頭を押さえて、ジークヴァルトはさらに深く口づけていった。
ふわりとそこから入り込んでくる緑の力を感じて、ジークヴァルトは突如、我に返った。
唇を濡らしたままのリーゼロッテが、目の前に横たわっていた。長い髪を枕に預けて、無防備な寝顔を惜しげもなくさらしている。
もぞりと体を動かすと、ドレスの下をむき出しにして、自分の足と絡め合っているのが分かった。
「――……!」
状況をつぶさに把握した体に熱が集まっていく。動揺が頂点に達しようとしたとき、リーゼロッテの瞳がゆっくりと開かれた。
「ジークヴァルト様……?」
不思議そうに首を小さくかしげると、リーゼロッテはあふと小さなあくびをひとつした。しばらくぼんやりとした様子でいたが、状況を理解したのか、その頬が次第に朱に染まっていった。
「申し訳ございません。気持ちがよくって、わたくしもつい眠ってしまって……」
「い、いや……」
ジークヴァルトは歯切れ悪くただ動揺していた。今、自分は彼女に何をしていたのか? 冷静にならなくてはと思うのだが、集まった熱がそれを許そうとはしてくれない。
ジークヴァルトがもぞりと下半身をずらすと、リーゼロッテがはっとした表情をした。あらぬ欲情を抱いているのがバレたのか。ジークヴァルトは動揺からその顔を凝視すると、リーゼロッテは心得たというように大きく頷いた。
「わたくしったら、気遣いが足りませんでしたわね。でも大丈夫ですわ。このわたくしにお任せくださいませ」
そう言って、リーゼロッテはいきなり布団の中に潜り込んだ。もぞもぞしながら、ジークヴァルトの足元へと下がっていく。リーゼロッテの山が移動するのを見やって、ジークヴァルトはただ身を強張らせた。
驚きと期待が高まる中、リーゼロッテは布団のいちばん下の端から、その顔をひょっこりとのぞかせた。乱れた髪もそのままに、瞳を輝かせ、手にしたものを得意げにジークヴァルトに掲げて見せる。
「やっぱり! 湯たんぽがこんなに冷えてしまって。ヴァルト様、お冷たかったのでしょう? そんなことに気が回らずに、本当に申し訳ございません。今すぐ湯を入れて持ってきますわ!」
寝台から出て床に降り立つと、リーゼロッテは湯たんぽをかかえて寝室を出て行こうとした。
「いや、そんなことをお前がすることは……」
「いいえ、わたくしだって湯くらい沸かせますわ。お任せくださいませ!」
意気揚々と去っていく背を見送り、ジークヴァルトは静かに息を吐いた。危ないところだった。無意識に任せてあのまま暴走していたら、今頃は彼女を泣かせていたかもしれない。
拒絶するような泣き顔はもう二度と見たくない。ジークヴァルトはもう一度、ひとり息を長く吐いた。
しばらくすると湯たんぽを手にしたロミルダに連れられて、リーゼロッテが戻ってきた。先ほどと打って変わって、やけにしょんぼりとした顔をしている。
「ジークヴァルト様……申し訳ございません。わたくしろくに湯たんぽも用意できなくて……」
「湯を扱うのは危のうございますからね。そういったことはわたしどもにお任せください」
その言葉に、リーゼロッテはさらにしょぼんとなった。
「リーゼロッテ様のそのお気持ちだけで、十分でございます。そうですよね、旦那様?」
ロミルダの問いかけに、ジークヴァルトは黙ったまますいとその顔をそらした。
◇
それからさらに数日、リーゼロッテが止めるのも聞かずに、ジークヴァルトは執務室で領地の仕事に精を出していた。寝込んでいた期間の分、書類の山も普段の倍以上となっている。
「ヴァルト様。おつらくなったらすぐにおっしゃってくださいませね。黙っていても駄目ですわよ? わたくし、ちゃんと見ておりますから」
「ああ、好きにすればいい」
リーゼロッテのぐいぐい加減にあきらめたのか、ジークヴァルトが拒絶を示すようなことはなくなった。だが、だからと言って、快く受け入れているかというとそうでもない。まだまだ歩み寄る必要があると、リーゼロッテは強く思っていた。
「そろそろ一度休憩いたしましょうか」
マテアスの声掛けとともに、ジークヴァルトはリーゼロッテの隣に腰かけた。ルーチンワークのあーんの往復を終えると、リーゼロッテは満面の笑みを浮かべ、ジークヴァルトに手を差し伸べる。
「さあ、ジークヴァルト様。今日もやらせていただきますわ」
眉間にしわを寄せつつ、ジークヴァルトは黙ってリーゼロッテの手を取った。向かい合って両手を絡め合う。そのまま瞳を閉じて、リーゼロッテは手のひらへと意識を傾けた。
「手当」とはよく言ったもので、リーゼロッテがこうやって手を合わせると、ジークヴァルトの傷は確実に快方に向かっていくようだった。その回復ぶりは熟練の医師も驚くほどで、リーゼロッテは欠かすことなくこの「手当」を毎日続けていた。
(でもやりすぎると眠くなっちゃうのよね……)
力を使いすぎると、脱力してしまう。だがそうなるとジークヴァルトが止めるのは目に見えている。リーゼロッテは慎重に力を流し込んでいた。
眠くなるギリギリのところを見極めて、リーゼロッテはその瞳を開く。じっとこちらを見つめていたのか、ジークヴァルトの青い瞳とぶつかった。
視線を外さないまま、リーゼロッテはしばらくジークヴァルトと見つめ合っていた。意識が戻らなかった日々の不安が大きすぎて、その瞳に自分が映っていることに安堵する。
そんなふたりに、遠慮がちにマテアスが声をかけてきた。
「よろしければ、このまま旦那様の自室へ行かれてはどうですか?」
「いや、いい。このまま執務を続ける」
はっとして、ジークヴァルトが大きく首を振った。
「だいぶ楽になった。ダーミッシュ嬢はもう部屋に戻っていい」
「ですが……」
目を離すとすぐに無茶をするジークヴァルトに、信用はまるでない。リーゼロッテは頑なに、ここに居座ることを主張した。
「わたくし、何とおっしゃられても、ヴァルト様を見張っておりますわ」
「好きにしろ」
諦めたようにジークヴァルトはふいと顔をそらした。ここで満足してはいけない。リーゼロッテはフーゴに言われた言葉を胸に、ジークヴァルトの横顔を仰ぎ見た。
「わたくし、ハルト様に聞きました。ヴァルト様は龍の盾として、異形の者に絶えず狙われ続けていると……。そんな大事なことを、どうして今まで教えてくださらなかったのですか?」
ここ数日、ずっと胸につかえていたことを口にする。同じ託宣を受けた者として、知っておくべきことではないのか。そう非難を込めて、ジークヴァルトの瞳を覗き込んだ。
「確かにわたくしは非力で、頼りにならないかもしれません。ですが、少しでもヴァルト様の苦しみを分けてほしい……そう思うのはわたくしの我がままですか?」
ジークヴァルトに託宣の相手を守る義務があると言うのなら、自分も同じ立場のはずだ。なぜそれを受け入れてもらえないのか。
「お前に話したところで、何が変わるわけでもない。これはオレの問題だ」
ジークヴァルトは苦し気にその顔を歪めた。それは傷の痛みのせいなのか、拒絶を示すものなのか。
やはり何を言ってもジークヴァルトには届かないのだろうか。リーゼロッテの唇がぎゅっと噛み締められた。
「旦那様」
窘めるような声音でマテアスが呼ぶと、ジークヴァルトは一瞬口ごもった。次いで言葉を探すように、その視線を彷徨わせる。
「いや、違う……オレはただ、お前に余計な心配をさせたくないだけだ」
初めてその本心を聞いた気がして、リーゼロッテは泣きそうな、だが、どこかほっとしたような顔になった。
「ヴァルト様……どうか心配くらいさせてくださいませ」
懇願するように見つめてくるリーゼロッテに、ジークヴァルトは渋い顔をした。伸ばされた手は、裏腹に、リーゼロッテの髪をやさしく梳いていく。
それを答えと受け取って、リーゼロッテは溢れそうになる涙を、ただじっと堪えた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離が縮まっていく中、ふたりで夜会に参加することに。そこで漏れ出たヴァルト様のつぶやきに動揺するわたし。
再び疑心暗鬼に陥ってしまったわたしは、マテアスとの会話を盗み聞きしてしまって……?
次回、3章第12話「託宣の涙」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
書類の束を抱えながらマテアスが廊下を歩いていると、執務室の前に誰か人影がいるのが分かった。
「エラ様?」
驚いて駆け寄ると、エラは思いつめたような表情をしていた。
「マテアス……少し相談したいことがあるのですが」
「わかりました。中でお聞きしましょう」
執務室に招き入れたマテアスは、エラのために紅茶を淹れて差し出した。
「足の具合はいかがですか? 歩くのには支障はないようですが、ご無理はなさいませんよう」
「ありがとう、マテアス。でも、わたしの足はもう治りましたので」
「それは何よりです。それで、ご相談と言うのは、リーゼロッテ様に関することでございますか?」
マテアスが問いかけると、エラは真剣な表情で見返してきた。
「マテアス、お願いです! わたしに稽古をつけてください!」
「え? 稽古でございますか?」
分からないといったふうに首をかしげたマテアスの手を、エラはがばっと両手でつかみ取った。
「剣術でも、体術でもかまいません! わたしに指南してほしいのです!」
「しかし、ご令嬢のエラ様にそのようなことは……」
「お嬢様が襲われた時、わたしは何もできなかったんです! 護身術程度なら身につけてはいましたが、今のまま、あんなことがまた起きたらと思うと、わたし本当に恐ろしくて……」
涙ながらに訴えられて、マテアスは困惑の表情を浮かべた。
「鍛えたところで、マテアスのように戦えるとは思っていません。でも、お嬢様を守る盾くらいにはなりたいんです」
「……分かりました。エラ様相手とは言え、やるからには手加減はいたしませんよ?」
エラに手を取られたまま、マテアスは真摯な顔つきで言った。
「望むところです」
揺らがないままエラはマテアスをじっと見上げる。その決意に応えるように、マテアスは強く頷き返した。
◇
浅いまどろみから醒めかけて、腕の中の温もりを確かめるように抱き寄せた。薄く瞳を開くと、目の前にリーゼロッテがいる。いつもの夢だ。そう思ってジークヴァルトは、その綺麗な額に口づけた。
(あたたかい……)
きゅっと抱きしめると、リーゼロッテが胸にすり寄ってくる。しあわせそうな寝顔を見つめ、ジークヴァルトはためらいもせずその唇を塞いだ。
柔らかな感触に、夢中になって口づける。幾度も啄ばむようにするうちに、物足りなくなって小さな唇にゆっくりと舌を這わせた。くすぐったそうに逃げる頭を押さえて、ジークヴァルトはさらに深く口づけていった。
ふわりとそこから入り込んでくる緑の力を感じて、ジークヴァルトは突如、我に返った。
唇を濡らしたままのリーゼロッテが、目の前に横たわっていた。長い髪を枕に預けて、無防備な寝顔を惜しげもなくさらしている。
もぞりと体を動かすと、ドレスの下をむき出しにして、自分の足と絡め合っているのが分かった。
「――……!」
状況をつぶさに把握した体に熱が集まっていく。動揺が頂点に達しようとしたとき、リーゼロッテの瞳がゆっくりと開かれた。
「ジークヴァルト様……?」
不思議そうに首を小さくかしげると、リーゼロッテはあふと小さなあくびをひとつした。しばらくぼんやりとした様子でいたが、状況を理解したのか、その頬が次第に朱に染まっていった。
「申し訳ございません。気持ちがよくって、わたくしもつい眠ってしまって……」
「い、いや……」
ジークヴァルトは歯切れ悪くただ動揺していた。今、自分は彼女に何をしていたのか? 冷静にならなくてはと思うのだが、集まった熱がそれを許そうとはしてくれない。
ジークヴァルトがもぞりと下半身をずらすと、リーゼロッテがはっとした表情をした。あらぬ欲情を抱いているのがバレたのか。ジークヴァルトは動揺からその顔を凝視すると、リーゼロッテは心得たというように大きく頷いた。
「わたくしったら、気遣いが足りませんでしたわね。でも大丈夫ですわ。このわたくしにお任せくださいませ」
そう言って、リーゼロッテはいきなり布団の中に潜り込んだ。もぞもぞしながら、ジークヴァルトの足元へと下がっていく。リーゼロッテの山が移動するのを見やって、ジークヴァルトはただ身を強張らせた。
驚きと期待が高まる中、リーゼロッテは布団のいちばん下の端から、その顔をひょっこりとのぞかせた。乱れた髪もそのままに、瞳を輝かせ、手にしたものを得意げにジークヴァルトに掲げて見せる。
「やっぱり! 湯たんぽがこんなに冷えてしまって。ヴァルト様、お冷たかったのでしょう? そんなことに気が回らずに、本当に申し訳ございません。今すぐ湯を入れて持ってきますわ!」
寝台から出て床に降り立つと、リーゼロッテは湯たんぽをかかえて寝室を出て行こうとした。
「いや、そんなことをお前がすることは……」
「いいえ、わたくしだって湯くらい沸かせますわ。お任せくださいませ!」
意気揚々と去っていく背を見送り、ジークヴァルトは静かに息を吐いた。危ないところだった。無意識に任せてあのまま暴走していたら、今頃は彼女を泣かせていたかもしれない。
拒絶するような泣き顔はもう二度と見たくない。ジークヴァルトはもう一度、ひとり息を長く吐いた。
しばらくすると湯たんぽを手にしたロミルダに連れられて、リーゼロッテが戻ってきた。先ほどと打って変わって、やけにしょんぼりとした顔をしている。
「ジークヴァルト様……申し訳ございません。わたくしろくに湯たんぽも用意できなくて……」
「湯を扱うのは危のうございますからね。そういったことはわたしどもにお任せください」
その言葉に、リーゼロッテはさらにしょぼんとなった。
「リーゼロッテ様のそのお気持ちだけで、十分でございます。そうですよね、旦那様?」
ロミルダの問いかけに、ジークヴァルトは黙ったまますいとその顔をそらした。
◇
それからさらに数日、リーゼロッテが止めるのも聞かずに、ジークヴァルトは執務室で領地の仕事に精を出していた。寝込んでいた期間の分、書類の山も普段の倍以上となっている。
「ヴァルト様。おつらくなったらすぐにおっしゃってくださいませね。黙っていても駄目ですわよ? わたくし、ちゃんと見ておりますから」
「ああ、好きにすればいい」
リーゼロッテのぐいぐい加減にあきらめたのか、ジークヴァルトが拒絶を示すようなことはなくなった。だが、だからと言って、快く受け入れているかというとそうでもない。まだまだ歩み寄る必要があると、リーゼロッテは強く思っていた。
「そろそろ一度休憩いたしましょうか」
マテアスの声掛けとともに、ジークヴァルトはリーゼロッテの隣に腰かけた。ルーチンワークのあーんの往復を終えると、リーゼロッテは満面の笑みを浮かべ、ジークヴァルトに手を差し伸べる。
「さあ、ジークヴァルト様。今日もやらせていただきますわ」
眉間にしわを寄せつつ、ジークヴァルトは黙ってリーゼロッテの手を取った。向かい合って両手を絡め合う。そのまま瞳を閉じて、リーゼロッテは手のひらへと意識を傾けた。
「手当」とはよく言ったもので、リーゼロッテがこうやって手を合わせると、ジークヴァルトの傷は確実に快方に向かっていくようだった。その回復ぶりは熟練の医師も驚くほどで、リーゼロッテは欠かすことなくこの「手当」を毎日続けていた。
(でもやりすぎると眠くなっちゃうのよね……)
力を使いすぎると、脱力してしまう。だがそうなるとジークヴァルトが止めるのは目に見えている。リーゼロッテは慎重に力を流し込んでいた。
眠くなるギリギリのところを見極めて、リーゼロッテはその瞳を開く。じっとこちらを見つめていたのか、ジークヴァルトの青い瞳とぶつかった。
視線を外さないまま、リーゼロッテはしばらくジークヴァルトと見つめ合っていた。意識が戻らなかった日々の不安が大きすぎて、その瞳に自分が映っていることに安堵する。
そんなふたりに、遠慮がちにマテアスが声をかけてきた。
「よろしければ、このまま旦那様の自室へ行かれてはどうですか?」
「いや、いい。このまま執務を続ける」
はっとして、ジークヴァルトが大きく首を振った。
「だいぶ楽になった。ダーミッシュ嬢はもう部屋に戻っていい」
「ですが……」
目を離すとすぐに無茶をするジークヴァルトに、信用はまるでない。リーゼロッテは頑なに、ここに居座ることを主張した。
「わたくし、何とおっしゃられても、ヴァルト様を見張っておりますわ」
「好きにしろ」
諦めたようにジークヴァルトはふいと顔をそらした。ここで満足してはいけない。リーゼロッテはフーゴに言われた言葉を胸に、ジークヴァルトの横顔を仰ぎ見た。
「わたくし、ハルト様に聞きました。ヴァルト様は龍の盾として、異形の者に絶えず狙われ続けていると……。そんな大事なことを、どうして今まで教えてくださらなかったのですか?」
ここ数日、ずっと胸につかえていたことを口にする。同じ託宣を受けた者として、知っておくべきことではないのか。そう非難を込めて、ジークヴァルトの瞳を覗き込んだ。
「確かにわたくしは非力で、頼りにならないかもしれません。ですが、少しでもヴァルト様の苦しみを分けてほしい……そう思うのはわたくしの我がままですか?」
ジークヴァルトに託宣の相手を守る義務があると言うのなら、自分も同じ立場のはずだ。なぜそれを受け入れてもらえないのか。
「お前に話したところで、何が変わるわけでもない。これはオレの問題だ」
ジークヴァルトは苦し気にその顔を歪めた。それは傷の痛みのせいなのか、拒絶を示すものなのか。
やはり何を言ってもジークヴァルトには届かないのだろうか。リーゼロッテの唇がぎゅっと噛み締められた。
「旦那様」
窘めるような声音でマテアスが呼ぶと、ジークヴァルトは一瞬口ごもった。次いで言葉を探すように、その視線を彷徨わせる。
「いや、違う……オレはただ、お前に余計な心配をさせたくないだけだ」
初めてその本心を聞いた気がして、リーゼロッテは泣きそうな、だが、どこかほっとしたような顔になった。
「ヴァルト様……どうか心配くらいさせてくださいませ」
懇願するように見つめてくるリーゼロッテに、ジークヴァルトは渋い顔をした。伸ばされた手は、裏腹に、リーゼロッテの髪をやさしく梳いていく。
それを答えと受け取って、リーゼロッテは溢れそうになる涙を、ただじっと堪えた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離が縮まっていく中、ふたりで夜会に参加することに。そこで漏れ出たヴァルト様のつぶやきに動揺するわたし。
再び疑心暗鬼に陥ってしまったわたしは、マテアスとの会話を盗み聞きしてしまって……?
次回、3章第12話「託宣の涙」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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