427 / 528
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
3
しおりを挟む
◇
書類の束を抱えながらマテアスが廊下を歩いていると、執務室の前に誰か人影がいるのが分かった。
「エラ様?」
驚いて駆け寄ると、エラは思いつめたような表情をしていた。
「マテアス……少し相談したいことがあるのですが」
「わかりました。中でお聞きしましょう」
執務室に招き入れたマテアスは、エラのために紅茶を淹れて差し出した。
「足の具合はいかがですか? 歩くのには支障はないようですが、ご無理はなさいませんよう」
「ありがとう、マテアス。でも、わたしの足はもう治りましたので」
「それは何よりです。それで、ご相談と言うのは、リーゼロッテ様に関することでございますか?」
マテアスが問いかけると、エラは真剣な表情で見返してきた。
「マテアス、お願いです! わたしに稽古をつけてください!」
「え? 稽古でございますか?」
分からないといったふうに首をかしげたマテアスの手を、エラはがばっと両手でつかみ取った。
「剣術でも、体術でもかまいません! わたしに指南してほしいのです!」
「しかし、ご令嬢のエラ様にそのようなことは……」
「お嬢様が襲われた時、わたしは何もできなかったんです! 護身術程度なら身につけてはいましたが、今のまま、あんなことがまた起きたらと思うと、わたし本当に恐ろしくて……」
涙ながらに訴えられて、マテアスは困惑の表情を浮かべた。
「鍛えたところで、マテアスのように戦えるとは思っていません。でも、お嬢様を守る盾くらいにはなりたいんです」
「……分かりました。エラ様相手とは言え、やるからには手加減はいたしませんよ?」
エラに手を取られたまま、マテアスは真摯な顔つきで言った。
「望むところです」
揺らがないままエラはマテアスをじっと見上げる。その決意に応えるように、マテアスは強く頷き返した。
◇
浅いまどろみから醒めかけて、腕の中の温もりを確かめるように抱き寄せた。薄く瞳を開くと、目の前にリーゼロッテがいる。いつもの夢だ。そう思ってジークヴァルトは、その綺麗な額に口づけた。
(あたたかい……)
きゅっと抱きしめると、リーゼロッテが胸にすり寄ってくる。しあわせそうな寝顔を見つめ、ジークヴァルトはためらいもせずその唇を塞いだ。
柔らかな感触に、夢中になって口づける。幾度も啄ばむようにするうちに、物足りなくなって小さな唇にゆっくりと舌を這わせた。くすぐったそうに逃げる頭を押さえて、ジークヴァルトはさらに深く口づけていった。
ふわりとそこから入り込んでくる緑の力を感じて、ジークヴァルトは突如、我に返った。
唇を濡らしたままのリーゼロッテが、目の前に横たわっていた。長い髪を枕に預けて、無防備な寝顔を惜しげもなくさらしている。
もぞりと体を動かすと、ドレスの下をむき出しにして、自分の足と絡め合っているのが分かった。
「――……!」
状況をつぶさに把握した体に熱が集まっていく。動揺が頂点に達しようとしたとき、リーゼロッテの瞳がゆっくりと開かれた。
「ジークヴァルト様……?」
不思議そうに首を小さくかしげると、リーゼロッテはあふと小さなあくびをひとつした。しばらくぼんやりとした様子でいたが、状況を理解したのか、その頬が次第に朱に染まっていった。
「申し訳ございません。気持ちがよくって、わたくしもつい眠ってしまって……」
「い、いや……」
ジークヴァルトは歯切れ悪くただ動揺していた。今、自分は彼女に何をしていたのか? 冷静にならなくてはと思うのだが、集まった熱がそれを許そうとはしてくれない。
ジークヴァルトがもぞりと下半身をずらすと、リーゼロッテがはっとした表情をした。あらぬ欲情を抱いているのがバレたのか。ジークヴァルトは動揺からその顔を凝視すると、リーゼロッテは心得たというように大きく頷いた。
「わたくしったら、気遣いが足りませんでしたわね。でも大丈夫ですわ。このわたくしにお任せくださいませ」
そう言って、リーゼロッテはいきなり布団の中に潜り込んだ。もぞもぞしながら、ジークヴァルトの足元へと下がっていく。リーゼロッテの山が移動するのを見やって、ジークヴァルトはただ身を強張らせた。
驚きと期待が高まる中、リーゼロッテは布団のいちばん下の端から、その顔をひょっこりとのぞかせた。乱れた髪もそのままに、瞳を輝かせ、手にしたものを得意げにジークヴァルトに掲げて見せる。
「やっぱり! 湯たんぽがこんなに冷えてしまって。ヴァルト様、お冷たかったのでしょう? そんなことに気が回らずに、本当に申し訳ございません。今すぐ湯を入れて持ってきますわ!」
寝台から出て床に降り立つと、リーゼロッテは湯たんぽをかかえて寝室を出て行こうとした。
「いや、そんなことをお前がすることは……」
「いいえ、わたくしだって湯くらい沸かせますわ。お任せくださいませ!」
意気揚々と去っていく背を見送り、ジークヴァルトは静かに息を吐いた。危ないところだった。無意識に任せてあのまま暴走していたら、今頃は彼女を泣かせていたかもしれない。
拒絶するような泣き顔はもう二度と見たくない。ジークヴァルトはもう一度、ひとり息を長く吐いた。
しばらくすると湯たんぽを手にしたロミルダに連れられて、リーゼロッテが戻ってきた。先ほどと打って変わって、やけにしょんぼりとした顔をしている。
「ジークヴァルト様……申し訳ございません。わたくしろくに湯たんぽも用意できなくて……」
「湯を扱うのは危のうございますからね。そういったことはわたしどもにお任せください」
その言葉に、リーゼロッテはさらにしょぼんとなった。
「リーゼロッテ様のそのお気持ちだけで、十分でございます。そうですよね、旦那様?」
ロミルダの問いかけに、ジークヴァルトは黙ったまますいとその顔をそらした。
◇
それからさらに数日、リーゼロッテが止めるのも聞かずに、ジークヴァルトは執務室で領地の仕事に精を出していた。寝込んでいた期間の分、書類の山も普段の倍以上となっている。
「ヴァルト様。おつらくなったらすぐにおっしゃってくださいませね。黙っていても駄目ですわよ? わたくし、ちゃんと見ておりますから」
「ああ、好きにすればいい」
リーゼロッテのぐいぐい加減にあきらめたのか、ジークヴァルトが拒絶を示すようなことはなくなった。だが、だからと言って、快く受け入れているかというとそうでもない。まだまだ歩み寄る必要があると、リーゼロッテは強く思っていた。
「そろそろ一度休憩いたしましょうか」
マテアスの声掛けとともに、ジークヴァルトはリーゼロッテの隣に腰かけた。ルーチンワークのあーんの往復を終えると、リーゼロッテは満面の笑みを浮かべ、ジークヴァルトに手を差し伸べる。
「さあ、ジークヴァルト様。今日もやらせていただきますわ」
眉間にしわを寄せつつ、ジークヴァルトは黙ってリーゼロッテの手を取った。向かい合って両手を絡め合う。そのまま瞳を閉じて、リーゼロッテは手のひらへと意識を傾けた。
「手当」とはよく言ったもので、リーゼロッテがこうやって手を合わせると、ジークヴァルトの傷は確実に快方に向かっていくようだった。その回復ぶりは熟練の医師も驚くほどで、リーゼロッテは欠かすことなくこの「手当」を毎日続けていた。
(でもやりすぎると眠くなっちゃうのよね……)
力を使いすぎると、脱力してしまう。だがそうなるとジークヴァルトが止めるのは目に見えている。リーゼロッテは慎重に力を流し込んでいた。
眠くなるギリギリのところを見極めて、リーゼロッテはその瞳を開く。じっとこちらを見つめていたのか、ジークヴァルトの青い瞳とぶつかった。
視線を外さないまま、リーゼロッテはしばらくジークヴァルトと見つめ合っていた。意識が戻らなかった日々の不安が大きすぎて、その瞳に自分が映っていることに安堵する。
そんなふたりに、遠慮がちにマテアスが声をかけてきた。
「よろしければ、このまま旦那様の自室へ行かれてはどうですか?」
「いや、いい。このまま執務を続ける」
はっとして、ジークヴァルトが大きく首を振った。
「だいぶ楽になった。ダーミッシュ嬢はもう部屋に戻っていい」
「ですが……」
目を離すとすぐに無茶をするジークヴァルトに、信用はまるでない。リーゼロッテは頑なに、ここに居座ることを主張した。
「わたくし、何とおっしゃられても、ヴァルト様を見張っておりますわ」
「好きにしろ」
諦めたようにジークヴァルトはふいと顔をそらした。ここで満足してはいけない。リーゼロッテはフーゴに言われた言葉を胸に、ジークヴァルトの横顔を仰ぎ見た。
「わたくし、ハルト様に聞きました。ヴァルト様は龍の盾として、異形の者に絶えず狙われ続けていると……。そんな大事なことを、どうして今まで教えてくださらなかったのですか?」
ここ数日、ずっと胸につかえていたことを口にする。同じ託宣を受けた者として、知っておくべきことではないのか。そう非難を込めて、ジークヴァルトの瞳を覗き込んだ。
「確かにわたくしは非力で、頼りにならないかもしれません。ですが、少しでもヴァルト様の苦しみを分けてほしい……そう思うのはわたくしの我がままですか?」
ジークヴァルトに託宣の相手を守る義務があると言うのなら、自分も同じ立場のはずだ。なぜそれを受け入れてもらえないのか。
「お前に話したところで、何が変わるわけでもない。これはオレの問題だ」
ジークヴァルトは苦し気にその顔を歪めた。それは傷の痛みのせいなのか、拒絶を示すものなのか。
やはり何を言ってもジークヴァルトには届かないのだろうか。リーゼロッテの唇がぎゅっと噛み締められた。
「旦那様」
窘めるような声音でマテアスが呼ぶと、ジークヴァルトは一瞬口ごもった。次いで言葉を探すように、その視線を彷徨わせる。
「いや、違う……オレはただ、お前に余計な心配をさせたくないだけだ」
初めてその本心を聞いた気がして、リーゼロッテは泣きそうな、だが、どこかほっとしたような顔になった。
「ヴァルト様……どうか心配くらいさせてくださいませ」
懇願するように見つめてくるリーゼロッテに、ジークヴァルトは渋い顔をした。伸ばされた手は、裏腹に、リーゼロッテの髪をやさしく梳いていく。
それを答えと受け取って、リーゼロッテは溢れそうになる涙を、ただじっと堪えた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離が縮まっていく中、ふたりで夜会に参加することに。そこで漏れ出たヴァルト様のつぶやきに動揺するわたし。
再び疑心暗鬼に陥ってしまったわたしは、マテアスとの会話を盗み聞きしてしまって……?
次回、3章第12話「託宣の涙」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
書類の束を抱えながらマテアスが廊下を歩いていると、執務室の前に誰か人影がいるのが分かった。
「エラ様?」
驚いて駆け寄ると、エラは思いつめたような表情をしていた。
「マテアス……少し相談したいことがあるのですが」
「わかりました。中でお聞きしましょう」
執務室に招き入れたマテアスは、エラのために紅茶を淹れて差し出した。
「足の具合はいかがですか? 歩くのには支障はないようですが、ご無理はなさいませんよう」
「ありがとう、マテアス。でも、わたしの足はもう治りましたので」
「それは何よりです。それで、ご相談と言うのは、リーゼロッテ様に関することでございますか?」
マテアスが問いかけると、エラは真剣な表情で見返してきた。
「マテアス、お願いです! わたしに稽古をつけてください!」
「え? 稽古でございますか?」
分からないといったふうに首をかしげたマテアスの手を、エラはがばっと両手でつかみ取った。
「剣術でも、体術でもかまいません! わたしに指南してほしいのです!」
「しかし、ご令嬢のエラ様にそのようなことは……」
「お嬢様が襲われた時、わたしは何もできなかったんです! 護身術程度なら身につけてはいましたが、今のまま、あんなことがまた起きたらと思うと、わたし本当に恐ろしくて……」
涙ながらに訴えられて、マテアスは困惑の表情を浮かべた。
「鍛えたところで、マテアスのように戦えるとは思っていません。でも、お嬢様を守る盾くらいにはなりたいんです」
「……分かりました。エラ様相手とは言え、やるからには手加減はいたしませんよ?」
エラに手を取られたまま、マテアスは真摯な顔つきで言った。
「望むところです」
揺らがないままエラはマテアスをじっと見上げる。その決意に応えるように、マテアスは強く頷き返した。
◇
浅いまどろみから醒めかけて、腕の中の温もりを確かめるように抱き寄せた。薄く瞳を開くと、目の前にリーゼロッテがいる。いつもの夢だ。そう思ってジークヴァルトは、その綺麗な額に口づけた。
(あたたかい……)
きゅっと抱きしめると、リーゼロッテが胸にすり寄ってくる。しあわせそうな寝顔を見つめ、ジークヴァルトはためらいもせずその唇を塞いだ。
柔らかな感触に、夢中になって口づける。幾度も啄ばむようにするうちに、物足りなくなって小さな唇にゆっくりと舌を這わせた。くすぐったそうに逃げる頭を押さえて、ジークヴァルトはさらに深く口づけていった。
ふわりとそこから入り込んでくる緑の力を感じて、ジークヴァルトは突如、我に返った。
唇を濡らしたままのリーゼロッテが、目の前に横たわっていた。長い髪を枕に預けて、無防備な寝顔を惜しげもなくさらしている。
もぞりと体を動かすと、ドレスの下をむき出しにして、自分の足と絡め合っているのが分かった。
「――……!」
状況をつぶさに把握した体に熱が集まっていく。動揺が頂点に達しようとしたとき、リーゼロッテの瞳がゆっくりと開かれた。
「ジークヴァルト様……?」
不思議そうに首を小さくかしげると、リーゼロッテはあふと小さなあくびをひとつした。しばらくぼんやりとした様子でいたが、状況を理解したのか、その頬が次第に朱に染まっていった。
「申し訳ございません。気持ちがよくって、わたくしもつい眠ってしまって……」
「い、いや……」
ジークヴァルトは歯切れ悪くただ動揺していた。今、自分は彼女に何をしていたのか? 冷静にならなくてはと思うのだが、集まった熱がそれを許そうとはしてくれない。
ジークヴァルトがもぞりと下半身をずらすと、リーゼロッテがはっとした表情をした。あらぬ欲情を抱いているのがバレたのか。ジークヴァルトは動揺からその顔を凝視すると、リーゼロッテは心得たというように大きく頷いた。
「わたくしったら、気遣いが足りませんでしたわね。でも大丈夫ですわ。このわたくしにお任せくださいませ」
そう言って、リーゼロッテはいきなり布団の中に潜り込んだ。もぞもぞしながら、ジークヴァルトの足元へと下がっていく。リーゼロッテの山が移動するのを見やって、ジークヴァルトはただ身を強張らせた。
驚きと期待が高まる中、リーゼロッテは布団のいちばん下の端から、その顔をひょっこりとのぞかせた。乱れた髪もそのままに、瞳を輝かせ、手にしたものを得意げにジークヴァルトに掲げて見せる。
「やっぱり! 湯たんぽがこんなに冷えてしまって。ヴァルト様、お冷たかったのでしょう? そんなことに気が回らずに、本当に申し訳ございません。今すぐ湯を入れて持ってきますわ!」
寝台から出て床に降り立つと、リーゼロッテは湯たんぽをかかえて寝室を出て行こうとした。
「いや、そんなことをお前がすることは……」
「いいえ、わたくしだって湯くらい沸かせますわ。お任せくださいませ!」
意気揚々と去っていく背を見送り、ジークヴァルトは静かに息を吐いた。危ないところだった。無意識に任せてあのまま暴走していたら、今頃は彼女を泣かせていたかもしれない。
拒絶するような泣き顔はもう二度と見たくない。ジークヴァルトはもう一度、ひとり息を長く吐いた。
しばらくすると湯たんぽを手にしたロミルダに連れられて、リーゼロッテが戻ってきた。先ほどと打って変わって、やけにしょんぼりとした顔をしている。
「ジークヴァルト様……申し訳ございません。わたくしろくに湯たんぽも用意できなくて……」
「湯を扱うのは危のうございますからね。そういったことはわたしどもにお任せください」
その言葉に、リーゼロッテはさらにしょぼんとなった。
「リーゼロッテ様のそのお気持ちだけで、十分でございます。そうですよね、旦那様?」
ロミルダの問いかけに、ジークヴァルトは黙ったまますいとその顔をそらした。
◇
それからさらに数日、リーゼロッテが止めるのも聞かずに、ジークヴァルトは執務室で領地の仕事に精を出していた。寝込んでいた期間の分、書類の山も普段の倍以上となっている。
「ヴァルト様。おつらくなったらすぐにおっしゃってくださいませね。黙っていても駄目ですわよ? わたくし、ちゃんと見ておりますから」
「ああ、好きにすればいい」
リーゼロッテのぐいぐい加減にあきらめたのか、ジークヴァルトが拒絶を示すようなことはなくなった。だが、だからと言って、快く受け入れているかというとそうでもない。まだまだ歩み寄る必要があると、リーゼロッテは強く思っていた。
「そろそろ一度休憩いたしましょうか」
マテアスの声掛けとともに、ジークヴァルトはリーゼロッテの隣に腰かけた。ルーチンワークのあーんの往復を終えると、リーゼロッテは満面の笑みを浮かべ、ジークヴァルトに手を差し伸べる。
「さあ、ジークヴァルト様。今日もやらせていただきますわ」
眉間にしわを寄せつつ、ジークヴァルトは黙ってリーゼロッテの手を取った。向かい合って両手を絡め合う。そのまま瞳を閉じて、リーゼロッテは手のひらへと意識を傾けた。
「手当」とはよく言ったもので、リーゼロッテがこうやって手を合わせると、ジークヴァルトの傷は確実に快方に向かっていくようだった。その回復ぶりは熟練の医師も驚くほどで、リーゼロッテは欠かすことなくこの「手当」を毎日続けていた。
(でもやりすぎると眠くなっちゃうのよね……)
力を使いすぎると、脱力してしまう。だがそうなるとジークヴァルトが止めるのは目に見えている。リーゼロッテは慎重に力を流し込んでいた。
眠くなるギリギリのところを見極めて、リーゼロッテはその瞳を開く。じっとこちらを見つめていたのか、ジークヴァルトの青い瞳とぶつかった。
視線を外さないまま、リーゼロッテはしばらくジークヴァルトと見つめ合っていた。意識が戻らなかった日々の不安が大きすぎて、その瞳に自分が映っていることに安堵する。
そんなふたりに、遠慮がちにマテアスが声をかけてきた。
「よろしければ、このまま旦那様の自室へ行かれてはどうですか?」
「いや、いい。このまま執務を続ける」
はっとして、ジークヴァルトが大きく首を振った。
「だいぶ楽になった。ダーミッシュ嬢はもう部屋に戻っていい」
「ですが……」
目を離すとすぐに無茶をするジークヴァルトに、信用はまるでない。リーゼロッテは頑なに、ここに居座ることを主張した。
「わたくし、何とおっしゃられても、ヴァルト様を見張っておりますわ」
「好きにしろ」
諦めたようにジークヴァルトはふいと顔をそらした。ここで満足してはいけない。リーゼロッテはフーゴに言われた言葉を胸に、ジークヴァルトの横顔を仰ぎ見た。
「わたくし、ハルト様に聞きました。ヴァルト様は龍の盾として、異形の者に絶えず狙われ続けていると……。そんな大事なことを、どうして今まで教えてくださらなかったのですか?」
ここ数日、ずっと胸につかえていたことを口にする。同じ託宣を受けた者として、知っておくべきことではないのか。そう非難を込めて、ジークヴァルトの瞳を覗き込んだ。
「確かにわたくしは非力で、頼りにならないかもしれません。ですが、少しでもヴァルト様の苦しみを分けてほしい……そう思うのはわたくしの我がままですか?」
ジークヴァルトに託宣の相手を守る義務があると言うのなら、自分も同じ立場のはずだ。なぜそれを受け入れてもらえないのか。
「お前に話したところで、何が変わるわけでもない。これはオレの問題だ」
ジークヴァルトは苦し気にその顔を歪めた。それは傷の痛みのせいなのか、拒絶を示すものなのか。
やはり何を言ってもジークヴァルトには届かないのだろうか。リーゼロッテの唇がぎゅっと噛み締められた。
「旦那様」
窘めるような声音でマテアスが呼ぶと、ジークヴァルトは一瞬口ごもった。次いで言葉を探すように、その視線を彷徨わせる。
「いや、違う……オレはただ、お前に余計な心配をさせたくないだけだ」
初めてその本心を聞いた気がして、リーゼロッテは泣きそうな、だが、どこかほっとしたような顔になった。
「ヴァルト様……どうか心配くらいさせてくださいませ」
懇願するように見つめてくるリーゼロッテに、ジークヴァルトは渋い顔をした。伸ばされた手は、裏腹に、リーゼロッテの髪をやさしく梳いていく。
それを答えと受け取って、リーゼロッテは溢れそうになる涙を、ただじっと堪えた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離が縮まっていく中、ふたりで夜会に参加することに。そこで漏れ出たヴァルト様のつぶやきに動揺するわたし。
再び疑心暗鬼に陥ってしまったわたしは、マテアスとの会話を盗み聞きしてしまって……?
次回、3章第12話「託宣の涙」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
0
※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
お気に入りに追加
272
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】愛してるなんて言うから
空原海
恋愛
「メアリー、俺はこの婚約を破棄したい」
婚約が決まって、三年が経とうかという頃に切り出された婚約破棄。
婚約の理由は、アラン様のお父様とわたしのお母様が、昔恋人同士だったから。
――なんだそれ。ふざけてんのか。
わたし達は婚約解消を前提とした婚約を、互いに了承し合った。
第1部が恋物語。
第2部は裏事情の暴露大会。親世代の愛憎確執バトル、スタートッ!
※ 一話のみ挿絵があります。サブタイトルに(※挿絵あり)と表記しております。
苦手な方、ごめんなさい。挿絵の箇所は、するーっと流してくださると幸いです。

危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました
しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。
自分のことも誰のことも覚えていない。
王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。
聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。
なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。

【完】夫から冷遇される伯爵夫人でしたが、身分を隠して踊り子として夜働いていたら、その夫に見初められました。
112
恋愛
伯爵家同士の結婚、申し分ない筈だった。
エッジワーズ家の娘、エリシアは踊り子の娘だったが為に嫁ぎ先の夫に冷遇され、虐げられ、屋敷を追い出される。
庭の片隅、掘っ立て小屋で生活していたエリシアは、街で祝祭が開かれることを耳にする。どうせ誰からも顧みられないからと、こっそり抜け出して街へ向かう。すると街の中心部で民衆が音楽に合わせて踊っていた。その輪の中にエリシアも入り一緒になって踊っていると──

【完結済】隣国でひっそりと子育てしている私のことを、執着心むき出しの初恋が追いかけてきます
鳴宮野々花@書籍2冊発売中
恋愛
一夜の過ちだなんて思いたくない。私にとって彼とのあの夜は、人生で唯一の、最良の思い出なのだから。彼のおかげで、この子に会えた────
私、この子と生きていきますっ!!
シアーズ男爵家の末娘ティナレインは、男爵が隣国出身のメイドに手をつけてできた娘だった。ティナレインは隣国の一部の者が持つ魔力(治癒術)を微力ながら持っており、そのため男爵夫人に一層疎まれ、男爵家後継ぎの兄と、世渡り上手で気の強い姉の下で、影薄く過ごしていた。
幼いティナレインは、優しい侯爵家の子息セシルと親しくなっていくが、息子がティナレインに入れ込みすぎていることを嫌う侯爵夫人は、シアーズ男爵夫人に苦言を呈す。侯爵夫人の機嫌を損ねることが怖い義母から強く叱られ、ティナレインはセシルとの接触を禁止されてしまう。
時を経て、貴族学園で再会する二人。忘れられなかったティナへの想いが燃え上がるセシルは猛アタックするが、ティナは自分の想いを封じ込めるように、セシルを避ける。
やがてティナレインは、とある商会の成金経営者と婚約させられることとなり、学園を中退。想い合いながらも会うことすら叶わなくなった二人だが、ある夜偶然の再会を果たす。
それから数ヶ月。結婚を目前に控えたティナレインは、隣国へと逃げる決意をした。自分のお腹に宿っていることに気付いた、大切な我が子を守るために。
けれど、名を偽り可愛い我が子の子育てをしながら懸命に生きていたティナレインと、彼女を諦めきれないセシルは、ある日運命的な再会を果たし────
生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。
※いつもの完全オリジナルファンタジー世界の物語です。全てがファンタジーです。
※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

なにをおっしゃいますやら
基本二度寝
恋愛
本日、五年通った学び舎を卒業する。
エリクシア侯爵令嬢は、己をエスコートする男を見上げた。
微笑んで見せれば、男は目線を逸らす。
エブリシアは苦笑した。
今日までなのだから。
今日、エブリシアは婚約解消する事が決まっているのだから。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる