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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

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     ◇
「お義父様、お会いできてうれしいですわ」

 フーゴを部屋に迎え入れて、リーゼロッテは心からの笑顔を向けた。再会の抱擁ほうように、張り詰めていた緊張の糸が、ゆるんでいくのが自分でもわかる。

「ジークヴァルト様がお怪我をされたと聞いて驚いたよ。リーゼロッテも大変だったろう」
「いいえ、わたくしは何も……」
「ずっと寝ずの看病をしていたと聞いたよ。本当によく頑張ったね」

 やさしく微笑むフーゴに、リーゼロッテは素直に頷いた。

「だが、一番苦しんでおいでなのはジークヴァルト様だ。お前もつらいと思うけれど、これからもしっかりとお支えしてさしあげるんだよ」
「はい、お義父様」

 そう返事をしたものの、リーゼロッテの瞳からひと粒の涙がこぼれ落ちた。それを見たフーゴが、その頬をそっとぬぐう。

「ジークヴァルト様と何かあったのかい?」
「ヴァルト様が……何ひとつ頼ってくださらないのです。婚約者として大事に扱ってくださるのに、わたくしはヴァルト様に何もする必要はないと……」

 一度あふれ出た涙は、もはや止めることはできなかった。せきを切ったように、リーゼロッテはフーゴに向けて思いのたけを吐き出した。

「わたくし、これから先、ヴァルト様とうまくやっていく自信がありません。お義父様たちと違って、わたくしたちは決められた間柄ですもの。このまま婚姻を果たしたとして、わたくしは本当にヴァルト様と家族になんてなれるのでしょうか」
「リーゼロッテ。少しわたしとクリスタの話をしようか」

 嗚咽おえつをこらえながら見上げると、穏やかな瞳でフーゴはリーゼロッテを見つめていた。

「本当のことを言うと、お前がダーミッシュ家に来る前までは、わたしとクリスタの間はずいぶんと冷え切っていたんだ」
「お義父様とお義母様が……?」
「ああ。婚姻を果たして八年、わたしたちはずっと子宝に恵まれることはなかった。わたしが望んでクリスタを妻にと迎えたけれど、貴族として跡取りができないことはとても大きなことでね」

 そこで言葉を切ったフーゴは、どこか遠くを見やる。

「そのことが原因で周りからもいろいろと言われたし、クリスタには本当につらい思いをさせてしまった。そんな日が長く続いて、リーゼが来る直前くらいには、ふたりで会話をすることもほとんどなくなってね。クリスタが傷ついているのは分かっていたのに、わたしは領地経営ばかりにかまけて、彼女の苦しみをずっと見て見ぬふりをしていたんだ。でもね……」

 涙にぬれた瞳のまま、リーゼロッテは黙って話を聞いていた。その頬をフーゴの指がやさしくぬぐっていく。

「リーゼが伯爵家にやってきたあの日、わたしは久しぶりにクリスタの笑顔を見たんだ。その前に彼女がいつ笑ったのか思い出せないくらいだったから、わたしはその時本当に後悔したよ。愛するクリスタを、どうしてこんなにも遠ざけていたんだろうってね」

 ずっと仲睦まじく見えていた両親だけに、驚きが隠せない。不安そうに見上げるリーゼロッテに、フーゴはやさしく微笑みかけた。

「子がさずからないのはどうしようもないにしても、もっとクリスタの思いを聞いて、あの時きちんと会話をすべきだったんだ。わたしは自分が傷つくのが怖くて、クリスタに向き合うことをけてしまった。あんなにも長い時間、クリスタにつらい思いをさせていたのかと思うと、今でも胸が苦しくなるよ」
「お義父様……」
「だから、お前には後悔してほしくないんだ。リーゼはジークヴァルト様にきちんと自分の気持ちを伝えたかい? 言葉は少ないけれど、ジークヴァルト様はとても誠実なお方だ。ずっとおそばにいるんだ。リーゼロッテだってそう感じているだろう?」

 大粒の涙をこぼしながら、リーゼロッテは小さく頷いた。ジークヴァルトはいつだって自分を大切にしてくれた。そのことだけはよく知っている。

「お前とジークヴァルト様は、確かに決められた間柄なのかもしれない。けれどそれを理由に、相手を知ろうとしないのは違うと思わないかい?」

 言葉にならなくて、リーゼロッテは何度も何度も頷いた。

「ただ、自分の気持ちを押しつけるだけではいけないよ。きちんとジークヴァルト様に向き合わないと」
「そうすれば、わたくしも、ちゃんとヴァルト様と家族になれるのでしょうか……?」

 それでも拒絶されるのは怖かった。何度訴えても、自分の言葉はジークヴァルトに届かなかったから。

「家族というものは、きっと、なろうと思ってなれるものではないのだろうね。クリスタを妻に迎えて、リーゼロッテがやってきて、ルカを授かって。血のつながりがどうとかは関係ない。共に過ごしてきた時間、重ねてきた思い。笑ったり、泣いたり、時には喧嘩をしたり。それをたくさん積み重ねて、自然と家族になっていくのではないのかな。わたしはそんなふうに思うよ」

 そこまで言うとフーゴは、リーゼロッテの顔を伺うように覗き込んだ。

「どうだい? ジークヴァルト様とはもう少し頑張れそうかい?」

 フーゴの言葉にリーゼロッテは大きく頷いた。自分はもっと、ジークヴァルトを知る努力を、そして、自分を知ってもらう努力をするべきだ。

「でも、よく話してくれたね。お前はわたしたちの大事な娘だ。もし、本当につらくなったら、いつでもダーミッシュ家に帰ってきていいのだからね」
「はい、フーゴお義父様……」
「リーゼが我が家に来てくれたからこそ、わたしはクリスタと本当の家族になれた。ルカを授かったのも、お前のおかげだと思っているんだ。リーゼロッテ、わたしたちの娘になってくれて、心から感謝しているよ」

 そう言って、フーゴはリーゼロッテをやさしく抱きしめた。何かあったとき、ちゃんと帰る場所がある。そのことが心強く思えて、リーゼロッテの頬を安堵の涙が伝った。

「わたくしもお義父様の娘でいられて、本当にしあわせですわ」

 今だけは許される気がして、リーゼロッテはしばらくの間、フーゴの胸で子供のように泣き続けた。

     ◇
 意識が戻って数日、絶対安静を言い渡されているジークヴァルトは、相変わらず書類仕事をしているようだった。リーゼロッテはそれを阻止するために、足しげくジークヴァルトのもとに通っていた。

「またお仕事をなさっているのですか? お医者様にも無理しないよう言われておりますでしょう?」

 寝室に入るなり、書類を手にするジークヴァルトに声を荒げた。来るたびにこんな調子なので、挨拶よりも先に小言が口をついてしまう。
 フーゴと話をして以来、リーゼロッテはジークヴァルトときちんと向き合うことを決めていた。

(お前はそのままでいいと、何度もヴァルト様に言われてきたもの)

 だから、我慢はしないことにした。ある程度開き直らなければ、ジークヴァルト相手では同じことをただ繰り返しかねない。

「お願いだからマテアスも、もっとちゃんと気を遣ってちょうだい。でないとわたくし、ずっとここで見張ることにするわ」
「そうしていただけますと、旦那様の回復も抜群に早まりそうですねぇ。急ぎの書類には目を通していただきましたので、今日の所はリーゼロッテ様のおっしゃる通りにいたしましょう」

 書類の束を抱えると、マテアスはジークヴァルトの顔を見た。

「では、旦那様。薬湯をしっかり飲んでお休みになってくださいね。リーゼロッテ様、後ほどロミルダが参りますので、それまで旦那様のことよろしくお願いいたします」
「ええ、まかせてちょうだい」

 腕まくりをする勢いでリーゼロッテは頷いた。マテアスが出ていった寝室は、ジークヴァルトとふたりきりだ。だが、そんなことを意に介するリーゼロッテではない。

「さあ、ヴァルト様。こちらをお飲みになってから、横になってくださいませ」

 薬湯の入ったグラスをずいと差し出した。なみなみと注がれている液体は、黒とも緑ともつかないおどろおどろしい色をしている。その味は超激マズと言っていい。リーゼロッテも昔、怪我をしたときに飲んだことがあるが、これを飲むくらいなら二度と怪我はすまいと心に誓ったリーゼロッテだ。

 その薬湯を、ジークヴァルトは一気に飲み干した。味わって飲むものではないが、ためらうことなくあれをあおれるジークヴァルトに、思わず尊敬のまなざしを向けてしまう。自分だったら、泣きながら軽く一時間はかけてちびちび飲むことだろう。

「さっ、ヴァルト様」

 ぼふぼふと枕を叩いて、横になるようにと促した。ジークヴァルトは眉間にしわを寄せたまま、それでも何も言わずに体を上向けさせる。寝台に体を預ける際に、痛みからか、ジークヴァルトは小さく顔をゆがませた。

「すぐに痛み止めが効いてくると思います。しっかりお体を休めてくださいませ」

 薬湯には鎮痛効果と、眠気を誘う作用がある。まだ微熱の残る頭に冷えた布を乗せると、リーゼロッテは寝台の傍らの椅子に腰かけた。

「言われた通りこのまま寝る。ダーミッシュ嬢はもう部屋に戻れ」
「嫌ですわ。だってヴァルト様、目を離すとすぐに起きあがってご無理をなさいますもの。ロミルダが来るまで、わたくしここにいさせていただきます」

 つんと顔をそらしてリーゼロッテは唇を尖らせた。その様子にあきらめたのか、ジークヴァルトは小さく息をついて目を閉じた。ほどなくして、規則正しい寝息が聞こえ始める。

(やっぱり無理をしているんだわ……)

 薬湯が効いているとはいえ、その顔色は決してよいとは言えない。あれだけの血が流れたのだ。回復するまできちんと体を休めてほしい。駄目だと言われても、これだけは絶対に引くまいと、リーゼロッテは硬く心に決めていた。
 温まった布を取り、氷水に浸す。それを絞ってから、再びジークヴァルトの額に乗せた。

(これくらいしかできないなんて思ってはいけないわ。わたしにもやれることがある。それに感謝しないと)

 ふと、ジークハルトに言われたことを思い出した。手を握るだけで癒しの効果があるらしい。あの日は手を握ったまま眠りこけてしまったが、確かにその翌日にジークヴァルトの意識は戻ったのだ。

(今日は眠らないように気をつけなくちゃ)

 ロミルダに起こされるまで、ジークヴァルトの布団につっぷして眠ってしまった。ちょっぴりよだれを垂らしていたことは、誰にも内緒だ。

 中に手を差し込んで、ジークヴァルトの腕を探す。胸の上で組まれていたそれをようやく探し当てると、リーゼロッテは逆にその手を掴みとられた。

(え!? あっ、ちょっと……!)

 あれよあれよという間に、布団の中に引き込まれていく。気づくとリーゼロッテは、ジークヴァルトの腕にがっちりとホールドされていた。頭の上からすやすやとした寝息が聞こえてくる。完全に寝ぼけているようだ。

(さすがにこれはまずいわよね)

 ロミルダが来る前に脱出しなくては。その腕から抜け出そうと、リーゼロッテはそうっと体を動かした。

「ひぁっ!」

 その瞬間、ジークヴァルトが長い足をからめてくる。柔道の寝技のように雁字がんじがらめにされて、リーゼロッテはさらに身動きが取れなくなった。

(う、動けない……)

 寝台の中、ジークヴァルトの腕に抱かれたまま、時間だけが過ぎていく。カチコチと鳴る時計の音と、ジークヴァルトの寝息だけが規則正しく響いていった。
 ここのところ心労がたまりすぎて、寝不足の日々が続いていた。あたたかなぬくもりに、リーゼロッテもなんだか眠くなってきてしまった。

(きっと、ロミルダが起してくれるわ……)

 ジークヴァルトが寝ぼけてやったことだ。抱き枕の代わりになったくらいで、自分がとがめられることはないだろう。そう思ってリーゼロッテは、穏やかなまどろみに、その身をゆだねていった。
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