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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

第9話 妄執の棘 - 前編 -

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【前回のあらすじ】
 ダーミッシュ領から戻ったリーゼロッテに対して、己の欲望を押さえようと、距離を置こうとするジークヴァルト。そんなジークヴァルトに歩み寄ろうとするも、リーゼロッテは拒絶を感じてしまいます。マテアスの苦言に、どうしていいかわからないジークヴァルトの苦悩は続き……。
 そんな中、ミヒャエル枢機卿の陰謀が再び首をもたげるのでした。




 ふう、とため息をついて、リーゼロッテは顔を上げた。手にしていた守り石を、そっと箱の中に戻す。

「一度ご休憩なさいますか?」
「そうね……今日はもう集中できそうにないから、続きはまた明日にするわ」

 気づかわし気なマテアスの言葉に、リーゼロッテは小さく微笑んだ。マテアスが紅茶をサーブしながら、ジークヴァルトに視線を送る。こちらを気にしないふりをして、気にしてる感がありありと伝わってきた。

「旦那様も一緒にご休憩なさってください」
「ああ」

 書類をぽいと放り出すと、ジークヴァルトはそそくさとリーゼロッテの横に腰かけた。それを横目にマテアスが執務机に戻ると、そのまま部屋の中に沈黙が訪れる。

 リーゼロッテは紅茶を一口含むと、音を立てることなくカップを戻した。そのままじっとテーブルの上を見つめている。その横でジークヴァルトは、冷めた紅茶をぐいと飲みほした。再び訪れた静寂に、振り子時計の音だけがカチコチと響く。

(何やら雲行きがあやしいですねぇ)

 今日のあーんのノルマは、先ほどの休憩中に済んでしまった。こういうとき、リーゼロッテが積極的に話題を振って、いつも場をなごませてくれるのだが、今日はその彼女が一向に口を開こうとしない。しん……とした気まずい雰囲気の中、ジークヴァルトが助けを求めるようにマテアスの顔を見た。

 か い わ

 マテアスの口が音を出さずにそう動く。瞬間、ジークヴァルトの眉間のしわが深まった。
 隣のリーゼロッテをちらりと見やり、口を開きかける。開きかけ、口をつぐみ、また口を開きかける。そんなことを繰り返しているうちに、執務室の扉が叩かれた。その音がやけに大きく響いたのは、気まずい沈黙のなせるわざだ。

「お嬢様、お迎えに上がりました」
 やってきたのはエラだった。リーゼロッテは頷いて静かに立ち上がる。

「では、ジークヴァルト様、今日はこれで失礼いたします」
「ああ」

 伸ばしかけた手をすり抜けて、リーゼロッテはさっと執務室を出て行ってしまった。再び静寂が訪れる。

「旦那様。作戦会議です」

 けわしい顔のまま書類を置くと、マテアスはすっくと立ちあがった。

     ◇
「お嬢様、守り石の具合はいかがでしたか?」
「今日はあまりうまくいかなかったの。なんだか集中できなくて」
「昨日こちらに戻られたばかりですからね。疲れがたまっていらっしゃるのかもしれません」

 廊下を進みながら、心配そうにエラはリーゼロッテの顔を覗き込んだ。

「今日一日ゆっくりすればきっと大丈夫よ。エラこそ、刺繍ししゅう教室はたいへんではない?」
「いえ、わたしは。最近はヨハン様も来てくださっていますし」
「わたしもたのしくやらせてもらっています!」

 先を歩いていたヨハンが、振り返って満面の笑みで告げてくる。公爵家の廊下は迷路すぎて、案内なしではいまだ歩ける気がしないふたりだ。

「ヨハン様の刺繍は素晴らしくて、わたしも学ぶことが多いです」
「いや、オレもまだまだ修行が足りない」
「いいえ、ヨハン様は本当に刺繍の達人です。このエラ、尊敬しております」
「そ、そんな大袈裟おおげさなっ」

 ヨハンが大きな手をわちゃわちゃとさせる。そのいかつい顔は、熟れた果実のように真っ赤っかだ。

「ふたりとも、最近仲良しね」
 微笑ましそうにリーゼロッテがふたりをみやる。

「な、な、な、仲良しなどと、その、もしそうならわたしも、うれしいというかなんというか」
「ヨハン様にはよくしていただいております」
 慌てふためくヨハンとは対照的に、エラはいたって冷静だ。

 廊下の端で一部始終を見ていた使用人たちが、リーゼロッテたちが去ったあと、何やらひそひそと話し始めた。

「最近ヨハン様が、頭ひとつ飛び出してないか?」
「やばいな。オレ、エーミール様になけなしの貯金をはたいちまった」
「わたしはマテアスとヨハン様の二重けよ。エーミール様は気位がお高いし、男爵令嬢のエラ様を妻に迎えるとは思えないもの」

 エラを落とすのは誰だレースは、フーゲンベルク家で今いちばんの話題の種だ。

「マテアスは次期家令にしても、さすがに貴族から嫁は取れないだろう?」
「何言ってるのよ。ロミルダは侯爵家のご令嬢だったのよ。エッカルトに猛アタックして、妻の座を手に入れたんだから」

 ロミルダはマテアスの母だ。今は公爵家の侍女長をしているが、女性使用人の間では、エッカルトとのロマンスは語り草になっていた。
 令嬢であるロミルダを、家令の立場からはじめは相手にしていなかったエッカルトが、根負けするように次第にほだされていった。ロミルダを妻にするまでの甘い物語が、冊子になって秘かに出回っていたりする。

「オレなんかブラル家のニコラウス様に入れちゃったよ……」
「それ最悪」
「妹君のイザベラ様、マジ最低だったからな」
「そうよ! リーゼロッテ様がおやさしいのをいいことに、お茶会で好き放題言って帰ったそうじゃない。今度来たら、兄妹きょうだいともども塩いてやる!」

 鼻息荒く言う掃除担当のメイドに、周囲の者はうんうんと頷いた。

 エラを巡った賭け事が、そんなこんなで過熱の一途をたどる公爵家なのであった。

     ◇
「リーゼロッテお姉様っ」

 いきなり部屋に半泣きのツェツィーリアが飛び込んできた。驚きながらもこの胸に受け止める。えぐえぐと泣き出した小さな体を、リーゼロッテはぎゅっと抱きしめた。

「ツェツィーリア様、一体どうなさったのですか……?」
「お義父さまがっ、わた、わたくしの、こっ……ん、を……たって……」

 しゃくりあげながら口にする言葉は要領を得ない。エラと共に困惑していると、開け放たれたままの部屋の扉が、控えめにノックされた。

「うちのお嬢様が不躾ぶしつけに失礼いたしました」
「あなたは確か……」
「はい、ツェツィーお嬢様の従者を務めさせて頂いております、グロースクロイツでございます」

 ひょろりとした長身を腰折って、グロースクロイツは胸に手を当てゆっくりと頭を下げた。

「今回も先ぶれなく来てしまいましたので、わたしはひとまず公爵様にご挨拶を申し上げに行って参ります。申し訳ないのですが、しばらくの間、ツェツィー様のことをお願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんそれは構わないけれど……一体何があったのですか?」

 リーゼロッテにしがみついたまま、ツェツィーリアは泣きじゃくっている。その髪をやさしくなでながら、リーゼロッテはグロースクロイツの顔を見た。

「実は旦那様が、ツェツィー様のご婚約者をお決めになられまして。それを知ってレルナー家を飛び出してきたというわけです」

 その言葉に、ツェツィーリアの泣き声がパワーアップする。耳を塞ぎたくなる大音量に、実際にグロースクロイツは、人目もはばからずに自身の耳を塞ぎにかかった。

「またしばらくの間、こちらにお世話になるかと思います。どうぞツェツィー様のこと、よろしくお願いいたします」
 ふたたび腰を折ると、扉を閉めてグロースクロイツは行ってしまった。

「ツェツィーリア様……」

 義理とは言えレルナー公爵は、ツェツィーリアの父親であり後見人だ。その決定を他者がくつがえすことなどできはしない。

(ルカ……)

 ツェツィーリアとの婚約のため、懸命に努力を重ねていた義弟を思う。このタイミングでツェツィーリアの婚約者が決まってしまったことに、リーゼロッテもショックを受けていた。

 瞳にじわりと涙がにじむ。
 抱き合ったままふたりは、長いことおいおいと泣き続けた。

     ◇
 泣きつかれたツェツィーリアの寝顔を見つめながら、リーゼロッテは小さくため息をこぼした。成人した身だというのに、子供のように一緒に泣いてしまった。

 ツェツィーリアが寂しくないようにと、大きなクマの縫いぐるみのアルフレートを横に寝かせる。自分にできることは何もない。それなのに、仕方のないことだと割り切るだけの強さを、今のリーゼロッテは持ち合わせていなかった。

「リーゼロッテお嬢様、公爵様がお嬢様とお話したいとのことで、今マテアスが来ているのですが……」

 遠慮がちにエラが声をかけてくる。泣きはらした瞳で振り返り、リーゼロッテは静かに首を振った。

「ツェツィーリア様のおそばを離れたくはないわ。悪いのだけれど、今日は気分がすぐれないからと、お断りしてもらえないかしら」
「承知いたしました。このエラにお任せください」

 安心させるように頷いて、エラは寝室を出ていった。

 自分のことなら、どうとでもできる。丸く収まるように、自分さえ我慢すればいいだけの話だ。だが、人の痛みだけはどうにもならない。再び口からため息が漏れた。

(一緒に泣くことしかできないなんて……)

 自分の無力さを思って、リーゼロッテは三度目のため息を小さくついた。

     ◇
「お嬢様は今、お休みになられています。移動の疲れが残っているようですので、今日の所はご遠慮していただきたいのですが……」
「それはいけませんね。ゆっくりお休みになられますよう、リーゼロッテ様にお伝えください。あるじにもそのむねを話しておきます」
「……あの、マテアス」

 その場を辞そうとしたマテアスに、エラは思わず声をかけた。リーゼロッテの部屋の前の廊下で、周囲に人気がないのを確かめる。

「ツェツィーリア様のご婚約のお相手は、一体どなたなのですか?」
「それはわたしには分かりかねますねぇ。何しろ相手のお名前を聞く前に、ツェツィーリア様はレルナー家を飛び出してきたそうなので」
「そうですか……」

 不安そうに視線を下げたエラを、マテアスは静かに見やった。

「エーミール様がご心配ですか?」
「えっ?」

 エラははっと顔を上げた。図星をつかれて、動揺したように目が泳ぐ。ウルリーケの見舞いに行ったとき、エーミールがツェツィーリアの婚約者候補なのだと知った。このタイミングでの婚約成立となると、そのことが否応なしに頭をもたげてくる。

「確かにツェツィーリア様の婚約者候補に、エーミール様は上がっておられたようですね。ですが、他にも有力候補は幾名かいらっしゃいました。まだそうと決まったわけではありませんよ」
「そう……ですね」

 それでも不安げな瞳で見つめ返すエラに、マテアスは苦笑いを向けた。

「ウルリーケ様のご容態が安定せず、今、グレーデン家は難しい立ち位置となっています。そんな時にエーミール様と婚約するメリットは、レルナー家にはあまりないのでは。少なくともわたしはそう思いますよ」
「お話中、失礼いたします」

 ふいにさえぎるように声がかけられた。

「ああ、グロースクロイツさん、今、ツェツィーリア様のお部屋をご用意いたしておりますので、もうしばらくお待ち頂けますか?」
「今回はわたしまでお世話になることになり、お手間をかけさせて申し訳ございません。何せ、侍女のひとりも連れずにやって来てしまったもので。ツェツィーリア様には本当に困ったものです」
「お付きの侍女は、いてもいなくても同じだと思いますが」

 皮肉交じりにエラは言った。前回の滞在時に、ツェツィーリアをリーゼロッテに押し付けたまま、お付きの侍女は公爵家の使用人相手に遊び惚けていたのだ。

「おや? それはこちらに不手際があったようですね。早急に調査をいたします」
「そうしてください。わたしにこんなことを言う筋合いはないですが、レルナー家はもっとツェツィーリア様を大事にすべきではないのですか?」
「エラ様、それ以上は」
「いいえ、忠言ちゅうげん耳に逆らうとはまさにこのこと。そのお言葉、胸に刻みつけたく存じます」

 マテアスに制されたエラに、グロースクロイツはゆっくりと腰を折った。

「ツェツィーリア様をお迎えに参ったのですが、おそらくわたしの言うことなど聞き入れてはもらえないでしょう。今夜はリーゼロッテ様にお任せしてもよろしいですか?」
「お嬢様はもとよりそのおつもりです」
「これはこれは、寛大なご対処、痛み入ります。レルナー家で婚約の顔見せが行われると思いますので、今回はすぐにでも迎えが来ると思います。それまではツェツィーリア様のこと、どうぞよろしくお願いいたします」

 飄々ひょうひょうと言ってグロースクロイツは、来た時と同様静かに去っていった。

「エラ様、何かお困りのことがありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ありがとう、マテアス」
「では、わたしもこれで失礼いたします。リーゼロッテ様には、お大事になさるようお伝えください」

 マテアスの背を見送ったエラは、自分の顔をぱんと叩いた。
 今はリーゼロッテの事だけを考えよう。そのために自分はここにいる。そう気持ちを切り替えて、エラは侍女の顔に戻った。
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